役場に就職して、ここ熱塩加納村に引っ越してきてもう3年が過ぎ、4回目の冬がやってきます。今回も車なしで冬を乗り切るつもりですが、ここに来た当初からそう思っていた訳ではありませんでした。
私はここに来る前、仙台で高校と大学に自転車で通学していました。高校へは片道15分、大学へは30分でした。この間、横断歩道で左折車に自転車のカゴに衝突されたり、車道の左端を走っているときに、「自転車は歩道を走れ!」と怒鳴られたりしたこともありました。また、そんなことがなくても、車の脇ぎりぎりを通り、クラクションを鳴らされていました。そして、友人と2人で盛岡に自転車で行ったときには、横断歩道を渡っていて、信号無視(見落とし)の車にぶつけられました。この時もカゴにぶつかってきたのですが、衝撃で体が飛ばされて、頭をアスファルトに打ちました。意識が朦朧として救急車で運ばれたのですが、打ち所がよかったのか、一泊だけの入院で済みました。
そんな体験が積み重なったことと、環境問題(←手垢のついた言葉になってしまいました)への関心から、できれば車には乗りたくないという気持ちはありました。しかし、村役場に就職を決めて、田舎で、しかも雪の多い田舎で暮らすことになると、車なしでは無理だろうな、というのが正直なところでした。仕事に必要だといわれて普通免許も取りました。
私の家(借家)は喜多方駅まで約10km、生協まで8kmです。駅まで行きは15分、帰りは25分(荷物があると30分)です。行きと帰りの時間差が坂のきつさ、高低差ということになります。バスは20分で駅に着きますが、本数が少な過ぎて(しかも高い)ほとんど使い物になりません。とりあえず自転車だけで生活して、冬になったらその時に考えようと思っていました。
考えようと思いつつ、何もしないまま、秋になり、雪が降り、冬になりました。
買い物はだいたいを近くの店で済ませ、たまの晴れ間に生協まで買い出しに行き、友人が遊びに来たときには買いだめしていました。根菜類は自分で作ったり、もらったりしたもので間に合います。帰省など電車に乗るときはバスを利用して駅まで行きました。そんな感じで春を迎えることができました。冬を越してみれば、まあ、何とかなるというか、何とでもなるといったところでしょうか。
車なしの生活ができると分かって、それに慣れてしまいました。何もできないけれど、せめてもの意思表示。車から解放された爽快感。自己満足(?)。ここに来た時に既にバイコロジー(bicology=bicycle+ecology)という言葉は知っていましたが、あまり意識していませんでした。冬を越す毎に意識が強くなっていき、今ではすっかりバイコロジストです。
私は3台の自転車を使っています。1台目はドロップハンドルのロードマン。通勤にも買い物にも普段はこれを使います。2台目は折り畳み式の自転車。これはロードマンよりタイヤが太くて滑りにくく、ハンドルの幅も広くて安定しているので、冬用として使っています。3台目は農作業用ママチャリ。自転車屋さんに頼んで、中古の自転車の荷台に木の板を付けてもらいました。前のカゴと後ろの荷台に肥料や鍬を積んで、畑に行っています。
自転車に乗って生活している私ですが、もちろん、自動車や車社会から自由なわけではありません。何を買っても、その店までは車で運ばれてきますし、友人・知人の車に乗せてもらうこともあります。通信販売もたまに利用しますが、玄関までトラックです。それでも、やはり、自家用車は持ちたくありません。車を作るのに大量のエネルギーを消費しますし、公共交通機関や歩行者・自転車を圧迫します。なにより一度自家用車を持ってしまったら、後に戻れなくなります。私は自家用車は麻薬だと思っています。一旦使い始めてしまったら、段々使用量が多くなっていき、体力が落ちて、生活そのものが変わってしまいます。元に戻るのはほとんど不可能でしょう。
車を持っていない、自転車に乗っているというと、「すごいね」「気を付けて」「私にはできない」という人がよくいます。
まず、私の日常にはそもそも車に乗るという選択肢がありません。ですから、この今の瞬間に車に乗りたいという感覚はありません。勿論、車を買うことを決心して、カタログを見て、車を選んで、買うという選択肢はあります。でも、実際に私が本当に自転車ではどうにもならないのは、雷のとき、白菜と大根の収穫のとき、冬に喜多方の生協に買い物に行くときだけです。これだけのために買うのはもったいない、無駄です。運動をするために体育館に行くのにわざわざ車に乗るのは滑稽ではありませんか?車に乗るために雪を落とすのに5分かけて、(自転車で10分のところを)5分かけて車で通勤するのは意味があるのですか?私が車を買わないのは単に合理的な選択です。
「気を付けて」とは私の方が言いたいことです。自転車が車に体当たりしても、歩行者が車と戦っても、危害を与えることはできません。気を付けるべきはどちらでしょうか?危ないのはどちらでしょうか?私が天国逝きなら、あなたは刑務所行きですね(不当にも不起訴になっちゃったりしますが)。私が、仕事の都合か何かで車を運転することになっても、なるべくゆっくり走り、長蛇の列の先頭になろうとも車の流れに乗ることなく少しでも安全に走りたいと思っています。
「私にはできない」というのはもっともです。雪が降る、子供がいる、雨が降る、遠い、バスが高い、電車がない、荷物がある、時間がかかる、体力がない・・・。社会システムがそうなっているのですから、そんな理由は誰にでもあります(でも、そんな理由のない近場にも車で行くのはなぜ?)。実際できないことの方が多いでしょう。それでも、できない言い訳を考えるより、できるようにする工夫をした方がずっと楽しいですよ。
もう少し畑を広げることや何十年後かに体力が低下することを考えると、今のままというわけにも行かなくなります。ベトナムに行った時、シクロという人力タクシー(?)に乗りました。それは三輪の自転車で前が2輪になっており、そこに1人用の座席があります(運転手は後ろでこぐ)。これなら100kgぐらいの肥料でも運べそうです。あるいはタイに行った時、トゥクトゥクというタクシーに乗りました。それは屋根付きのオート三輪(←日本のやつは見たことありませんが)のようなもので、運転席の後ろに2人用の座席があります。エンジンは軽自動車と同じだそうですが、これを燃料電池に替えれば、燃費がよくて雪道でも走れる乗り物になりそうです(大根も山積みにできる)。たぶん、私の体力が危なくなってくる2020年には似たようなものが売られていることでしょう。とりあえず、4台目としてマウンテンバイクでも買おうかな...。
ちなみに、都会で車に乗っている人といなかで車に乗らない人のエネルギー消費量は同じくらいだそうです。道路でも郵便でも人口が少ない分、効率が悪くなり、一人当たりにするとエネルギー消費量が多くなってしまうからです。
(脱原発ネットワーク会津『脱原発ニュースあいづ』に掲載した原稿より)