花岡理英子さんの軌跡

この文章はCT-netにアップされた
ご友人のメールをもとに
私が再構成したものです。

1963年1月13日生まれ。
山口大学医療技術短期大学を卒業後、宮崎市内の病院に勤務。
海外で働いてみたいという漠然とした思いから海外協力隊に応募。
1990年から2年半ガーナに派遣。
ガーナでは、主に血液検査、感染症について指導。
血液のアトラス(注:症例を載せた写真集)を、アトラスだから見ればわかる、大丈夫だろうと考え、日本から持っていったが、解説が英語でないと見てももらえず(表題は英語でも書いてある本だった)ショックを受ける。
また、感染症検査の必要性を説いても、A病院とC病院で検査しているから中間のB病院ではしなくてもいい、といわれ後進国の医療状態を実際に目のあたりにして驚く。
当時は片言の英語しか話せない状態で赴任したので、最初のうちは現地スタッフと意志の疎通をはかれずかなりのストレスを感じたという。
本人にとっては満足のいく結果を得られないまま、帰国。

帰国後は前回就職していた病院に主任(技師長は居ないので事実上のトップ)として再就職。
検査室運営に努力するなか、精度管理の重要性の啓蒙、施設間差是正の必要性を感じ、自主的に県内の検査技師の有志と勉強会を毎週開催。後に宮崎臨床検査技師会生化学研究班の事業として採用され中心人物として活動。

一方前回の海外派遣で思うような結果が得られなかったことが心残りで、もう一度海外で熱帯病に関する仕事に就くことを希望。
しかし海外の研究所、国内の大学院に入るためには、学士の資格が必要という壁にあたり、学士取得のため放送大学に入学。
自分の夢を達成するために離職し(この際に日臨技を脱会)長崎大学熱帯病学研究所にて熱帯病学について研修をうける。
長崎での研修が終了後、自宅に戻りJICA、NGOにコンタクトをとり続ける一方、英会話教室に通い英語能力を上げる努力をする。
今年放送大学にて学士に必要な単位取得。学位申請。
4月JICAに派遣専門家として就職。タンザニア派遣が決定。
7月三重大学小児学教室プロジェクトに臨床検査技師として参加するためにタンザニアへ派遣

  赴任後すぐに精力的に活動開始。ここでも医療レベルの低さを痛感する。
プール血清(注:精度管理をする為に使う、多人数の血清を合わせて保存の効くように処理したもの。これを基準にする)を作成すれば、HBs−Ag(注:B型肝炎抗原)陽性、HIV(注:いわゆるエイズ)陽性は当たり前。
輸血用の血漿でさえHBs−Ag陽性(検査試薬買う予算がないため、そのまま使っていたらしい)と言う状態。
精度管理も管理血清は測定・記録してもそのデータを評価できず、機器が故障しても修理できず、メンテナンスから指導。

 8月末保健衛生学士認定、本人には事件の4日前に連絡。
 8月末住居決定(JICAは用意してくれない為、自分で探す)
 9月15日か16日前後に自動車がタンザニアに到着
 9月17日自動車受け取り、事件へ

   享年35才
葬儀は、10月4日に、日本で行われた

四駆の自動車が狙われたとされているが、これは、現地で買うと新車は高いし(日本並かそれ以上)、中古車はメンテナンスの面で不安があるので日本から運ぶのが一番、と言われ、また、道路事情が良くないので四駆を、と言われ、そのアドバイスに従って日本から送ったものだった。
自動車を盗むのにどうしてピストルがいるのか!
なぜ人が乗っている自動車を襲うのか!
日本の感覚とはあまりにも違う。

2度目の派遣で危機管理はそれなりに身についていたと思うが、待ちに待った自動車がやっと届いたうれしさで、つけられているのに気付かなっかたのだろうか、、、?
タンザニアは安全はお金で買う国だそうで、自動車も彼女自身が取りに行くのでなく運転手を雇っていればあるいは、事故に遭わなかったかもしれない。
しかしその必要性をJICAスタッフから聞かせれていたかは怪しいものがある。


海外協力しなければという凝り固まった考えをもっていたわけではない。
かといって観光気分で行った訳ではもちろんない。
検査のプロとして恥ずかしくない仕事をしていた。
前回のガーナで成し遂げられなかった医療貢献を達成すべく自分を磨いて
準備万端整えてのタンザニア派遣だった。


彼女を思い出すときはいつも笑顔。
何にでも一生懸命な人だった。




ご冥福をお祈りいたします




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