音戸山通信 2004/06/24

ある京焼の登窯の保存・活用をめぐって

 

 昨年の春のこと、見捨てられそうな町家を何とか直して残そうと、学生たちと汗を流し、泥んこになっているところに、「清水焼の登窯があるのだが、見て欲しい」と相談があった。どれどれと、東山五条からちょっと西北に小路を降りたところの陶芸会社に行ってみて、驚いた。素晴らしい登窯と空間がそこにあった。紛れも無い本物だけがもつ迫力が見る者を襲う。かつて京都に文化が力強く生きていた時代の証人に違いない。町家と同様、いいものは残したい。だが、町家は住めても、登窯はもはや陶器を焼くことはできない。登窯を保存するということにどんな意味があるのだろうか?その意味を少しく考えてみた。

 

図1 9室からなる登窯

 

 京都最大級の登り窯

 くだんの登窯は、有限会社藤平陶芸が所有する工場にある。道に面して杉板を張った立ちの低い建物の中に、まさかそんな登窯があるとは、誰も気付かないだろう。建物に入ると、なにやら暗く広い中に、土と煉瓦の固まりが小屋いっぱいに緩やかな勾配でせり上がって行くのが見える。幅は5mほど、全長15mほどだろうか、一番手前の低いところに、火を入れる胴木(どうき)と呼ばれる丸い火袋があり、焚き口は意外に小さい。横面には人がそのまま立って入れるほどの窯室が9室。よく登り窯は屋根と同じ勾配でつくられると聞くが、どう見てもこの窯は町家の屋根よりも緩い。3寸から3寸5分といったところだろうか。外から見れば、12mほどのひときわ背の高い煉瓦の煙突が建物を貫いてそそり立っている。専門家に聞いたところでは、京式の登窯の特色の一は、勾配の緩さなのだそうだ。

 小屋はかなりいい加減に架けられた木構造のトタン葺きで、ひどく傷んではいるが、かろうじてもっているという状態。通路の手前にはおびただしい量の「さや」と呼ばれる陶器を入れる鉢が堆高く積まれている。窯の中を覗くと、サヤがいっぱいに詰め込まれている部屋と、からっぽの部屋、塞がれている部屋などなど。数年前に、登り窯資料館として整備されたそうだが、ついこの間まで作業をしていたという製作現場の雰囲気に満ちている。登り窯の造型の力強さにも圧倒されるが、それ以上に、この登り窯を納めているしずかな空間の力を何と表現すべきか。この京都に、こんな職方の霊力とも言わるべき力に満ちた空間があったのだ。

図2 胴木部分

月一度3000束の薪を焚く

 藤平陶芸の三代目である末弘社長の説明によれば、築窯は藤平より以前で、およそ120年ほどと聞くとのこと。専門家の話では、窯は火を入れる毎に傷む。その都度手入れをするが、4、50回焼いて、すべて窯を築き直すと。その際、その都度の要望に合わせて窯築き(かまつき)さんと呼ばれる専門の職人が築き直すので、120年という数字は、この窯がこの場所にこのような格好で経営され続けた年数という意味に取る。この窯は毎月一度焚かれた。なにしろ最大級の登窯のこと、このボリュームに焼く作品を用意するのも大変なことだ。藤平だけでは作り切れないので、いくつかの会社で持ち寄り、窯ごとに借りて詰めた。貸し窯という形態である。ゆっくり温めて焼き、徐々に冷やすので、およそ2昼夜焚き通したとのこと。一回焚くのに松の薪が3000束というから、ものすごい量だ。今日、薪一束500円ほどだから、単純計算では薪代だけで150万円になる。各地で今も現役で使われている登り窯はもっとスケールが小さく、また薪の消費量も少なくて済むようであるが、通常、600から1000束というほどのものであるから、いかにこの登り窯が大きいかが知れよう。

図3登窯全景

 

 昭和46年から焚けなくなった

 ただ、そのすごい量の薪からは想像を絶する黒煙が吐き出されていた。タンスの中まで煤が入るとか、飯櫃の中まで煤が入るというのも、あながち誇張とは言えない。ましてや、窯はこの会社だけではなく、記録によれば、昭和36年当時でこの五条界隈でも17ほど、日吉、泉涌寺まで入れれば48ほどの窯があった。(「京焼き百年の歩み」)単窯を入れれば倍ほどの数にもなろう。毎日、3、4の窯から煙りが上がっていたことになる。戦後も昭和36年ごろにピークを迎えるが、その歩留まりの悪さや松薪の入手困難、労働者不足などにより、その後、減少の一途を辿った。また京都の都市化に連れて、陶器関係者ばかりが住んでいたこの界隈に一般住宅も増え、伝統産業の誇りであった松の煙も、公害とみなされ、昭和44年の大気汚染防止法の施行により、登り窯はお役御免となった。すでにその当時、焚かれていた登り窯は10にも満たなかったそうだ。防煙装置を施された協同組合の窯を除き、河井寛次郎の窯も、伝統ある清水六兵衛の窯も、この清水最大級の登り窯も、条例実効の46年より火が入ることはなくなった。

図4・5 窯室の内部 

奇跡的に残された登り窯

 その後、この200坪ほどの面積を占める登り窯が、36年もの間、無用の長物たるまま残され、潰されずにあったというのは奇跡的なことと言ってよい。五条坂を隔てて南側には、協同組合による共同窯が、条令が発布されてから数年間、防煙装置が備えられて生き延びたが、やはり近隣の住民運動によって数年後、廃止をやむなくされた。200年以上とも言われる歴史をもつ共同窯はその後、近年まで保存されていたが、今はすでに解体されて駐車場となり、跡形もないのはたいへん残念である。この他には、馬町にある河井寛次郎記念館の窯があるが、きれいに納められていて、現場の雰囲気を生々しく伝えてくれるものではない。また、この近辺にも、小川文斎窯や三浦竹泉窯、また浅見五郎助窯といった有名作家所有の登り窯が残されているようであるが、規模は小さく、またすでに全体の姿を成していないとも聞く。

 

清水の磁器と粟田の陶器

 清水焼と言えば、日本中知らぬものはいないだろうが、その清水寺へ登る参道入り口付近に位置しながら、この登窯はかつて碍子など工業用製品を多く焼いていたという。この辺りは江戸初期ごろには音羽焼と称する焼物の産地であった。まだ細々と焼いていた頃のことである。明治の頃に花形輸出産業であった高級陶磁器は、かつてから茶陶を基本として粟田口付近で経営されていた粟田焼が主であり、清水付近は磁器ものを中心にして庶民の器を焼いていたようだ。やがてヨーロッパのジャポニスムへの関心が冷めるにつれ、輸出用の高級品を専らとしていた粟田焼は急速に衰退、現在は見る影もない。代わって、清水寺門前の賑わいを背景とした一帯の陶芸地が清水焼と賞されて、京焼の名を賞揚した。そんな中、くだんの登窯は火勢のある前方の窯で工業用の磁器製品を主とし、後方の窯で器物を焼いていたというのである。

 

河井寛次郎の指導

 しかし工業用の磁器製品を生産していたお陰で、この登り窯は戦時中にも火を止められることなく、軍事用品を中心として生産を続けられた。創作活動を制限されていた近所の河井寛次郎も、この窯の賑わいをさぞかし羨めしく眺めたことだろう。戦後の数年間、河井寛次郎がこの窯で民芸風の陶磁器の生産を指導し、そこで焼かれたものは文字通り飛ぶように売れた。その後、この登窯では、若い作家が修行を積みながら花器を中心とした生産を続けて来た。高度成長期にあっては、贈答用の花器がよく売れたこともあり、相当な量産が行われたが、すでに隣に設けられたガス窯や電気窯に代わられていた。ただ、往時の蓄財により、今日まで大きな無用の長物たる登り窯は破壊されずままに置かれることができたのである。

図6 登窯の傍らで真夏のコンサート風景

 

登窯保存・活用の会発足

 しかし今日、バブル崩壊後の不況が登窯の存続を危ういものにしている。会社は保存を望んでいるが、無用の200坪を遊ばせておく余裕はすでに無く、対策は急を要する。すでにいくつもの開発案がコンサルタントより提案されているが、どれも実現に到らない。私が相談を受けたのは、そういう状況の最中であった。私はこの窯の存在をひろく知ってもらおうと、知己の協力を得て、保存・活用の会を設立、昨年の陶器祭に合わせて、登り窯の傍らでコンサートや講演会を催した。イベントによる収益というよりは、まずは、この登り窯を知ってもらうことが一番大事なことであると考えたからである。また、落ち込んで来つつある清水陶芸界の今日の状況の中、陶器と生活との新たな接点があるはずと考え、五条通りに面した従来のショップを保存・活用のボランティアグループの協力でカフェ・ギャラリーとして改装オープンさせた。ここを五条坂の文化や歴史を掘り起こし、活性化させる運動の拠点とするものである。現在は月に一度づつ、サロンを開催している。ものと、文化と、人との生きた交流をまずつくって行くことが大事であると考えてのことである。

図7 陶芸家を囲むサロンを月一度開催

 

登窯は墓石?

 陶芸は高温で焼成するのではなく、炎の芸術であるとはよく言われる。そこでイメージされているのは、コンピューターで制御され得る電気窯ではなく、祈りをこめて焚かれた登窯による制作風景である。武士にとって刀が魂と言われたように、陶工や陶芸作家にとって、登窯は彼らの魂であり続けた。今も作家の中には京都を捨てて市外に窯を築く者も少なくない。しかし、大半は、失敗の少ない確実な電気炉で焼いているのが現状である。

 かつて清水で仕事をしたことのある陶芸家が、登窯を評して、「墓石」と言っていた、その言葉が今だに引懸かっている。先代の藤平長一氏は五条坂では中心的な人物の一人であったが、生前成した出版の中で次のように言っている。「この街には清水六兵衛先生はじめ世界的な作家が住んでおられますが、わたしの気になるのは、このまちで働いて死んでいった無名の陶工の方ですわ。」「五条坂陶工物語」晶文社1982)

彼がどのような状況下にあっても、以前からあった工場や登窯をそのまま残したというのも、そのような「思い」によるところ大であろう。登り窯が墓石かどうかはともかく、そこに関わった多くの陶工たちに向けた鎮魂の意味は確かにあり、窯の座っているあの暗い空間に感ぜられるある種の重みは、この意味に裏打ちされているともとれよう。

 

図8 登窯の傍らで晩秋のコンサート風景

登窯の声

 われわれが行おうとしている登窯の保存・活用の運動は、単に、結果として窯を物として残すということだけを目標としているのではない。この窯のある空間を目の当たりにした人なら誰もが感ずるだろうあの場のメッセージを、登り窯の声を、一人でも多くの人に受け止めてもらいたいと願う。

 イベントでは登り窯の声は聞こえてこないかもしれない。ただ、イベントで来て窯を見た人は、耳を傾けてみるに値すると思ってくれるだろう。私自身、登窯に、当時の焼物にたずさわっていた人たちの、たましい、それを力強く感じる。その声が自分に届き、日頃何だかこそこそやっていることがはづかしくなってくるような気にさせられるのである。ここには不思議な力がある。

いつの日にか窯に火を

 窯の保存を呼び掛ける私は、あの窯に火が走るのを見たくて仕方がない。しかしあの窯がふたたび以前のように焼き物を焼く日が来るとは思っていない。環境的にも、技術的にも、気力からしても、無理だろう。ただ、火を入れて、炎が窯の中を走る、それは「いのち」だ。この窯に関わったかつての職人たちへのオマージュであり、鎮魂である。したがってそれは正当な意味で「祭り」であって、単なるイベントではない。祭りである以上、多くの人たちの祈りをこめて、火を送るというのでなければならないと思う。

 かつて、これらの大きな登り窯たちが順番に真っ黒な煙りをもうもうと上げていた時があった。その煙りの上がる窯の回りには、窯焚きさんやたくさんの陶工たちが集まり、懸命に祈りながら薪をくべていた。その回りには、作家や卸し商人たち、近所の子供たち、炊き出しで忙しく走り回る女性たちなどが群がって、まさに祭りのような騒ぎだった。何と生命感に溢れた光景だろう!京都はかつてそんな力強い文化をつくり出す創作の現場であったのだ。

 この一連の運動の最終目標として、いつの日にか、京都市民のこころを受けて、窯にしずかに火を入れたいと思うのである。

(文と写真 京都建築専門学校 さのはるひと)