音戸山通信2003.03.01

「新しい時代の民家をめざして」

――民家型構法住宅と課題 

 

   佐野春仁(さのはるひと)

民家の魅力

私は昔から民家が大好きだ。私にとって国内の旅行といえば、それは民家を訪ねる旅でもある。どの地方に行っても、その地特有の民家があり、住まい方があるものだと感心してしまう。勤め先の学校のおかげで、私も京都の市中の民家である町家を活動の拠点とすることができた。町家も実にいい。今は自分で設計したへんてこりんな家に住んでいるが、いずれは茅葺きの農家に住みたいと考えている。いったい、それら民家のどこがいいのだろう?

大橋家(倉敷市)どっしりした空間の魅力

 

一口に言えば、民家には型がある。大体が、全体の姿は簡素で、大きな屋根をいただき、間取りはそれほど色々あるわけでなく、おおよそ似たり寄ったりだ。土間がある。靴を履いたまま腰を降ろすおおらかさがある。太い柱や梁が見え、足元から屋根まで骨格正しく、座敷きや板間、土間や納戸を擁している。間取りといい、部屋の寸法といい、細部の意匠まで、ちまちましておらず、明快で大掴みなところがいい。要するに、中で右往左往している人間の細かな所作など眼中にない。それ自体が一個の人格なのだ。しかも、いかにも自然体で、悠々自適、人間の数倍は生き、様々な人為のドラマを見守り続けている大人の風格さえあって、住人はといえば、そこに居候させてもらっている旅人であるかのようだ。そこでは間違いなく、家は、人間よりも上位の存在である。

大橋家(倉敷市) 家の中に風景がある

 

もっとも、そのことが生み出した家にまつわる数々の悲劇について、思い出しておかねばならないだろう。そのゆえに、かつて日本人は家を捨て、故郷を捨て、そして今や、...国を忘れる民となった。

骨格のただしい家

かく民家好きの私が、かつてはしかし、住宅を設計するときには別であった。いつも新しい住宅を、新たな生活風景を収める新しい空間の家を求めてきた。民家もまた、その民家が建てられた当時にあって、それは最先端であっただろう。だから現代には現代の生活に相応しい住宅を建てねばならない。真剣にそう考えていた。しかし鉄筋コンクリート造の住宅や鉄骨造の都市住宅の設計を経て、在来軸組の木造住宅を建てているうちに、少しずつ、昔ながらの伝統木造が今日なお有効ではないか、と思うようになった。

音戸山の家(自邸 京都市)

 民家的な空間を模索している頃のもの構法も材料も伝統的ではない

かつてこの欄を借りて、「大黒柱の復権」というタイトルで、その頃に設計した木造住宅を紹介した。株付の北山杉の磨き縁桁丸太を立てて家の中心に置き、現代の大黒柱の見立てとしたものだ。根の張った株からすっくと立ち上がった杉の丸太は山中の木立の姿を彷彿とさせる。あるいは洗練されたかたちで床柱が担ってきたそんな役目を、吹きぬけ空間に構造の要めとして立つ家の主(あるじ)たる大黒柱が代わりに担う。それは現代の住宅が失った家自身の持つ意味の復権である。

大美野の家(堺市)株立ちの柱の魅力に任せてつくった家

 

根の張った立ち上がりから視線は上方、この柱に架かる松の小屋梁へと向かう。小屋梁もまた室内に露出して自己を主張しなくてはならない。大黒柱は床の下で支える大地の力を小屋組み、屋根へと視覚的に伝える。大黒柱は、大地に立つ家の、とともに、その家に護られて住む家人の姿勢を象徴する。そう、大黒柱はまさに家の構造のもつ意味を骨格として体現しているのだ。構造が骨格となる時、家は一個の人格となる。故に、本質的に、一つ一つの民家を個々の民家としてアイデンティファイしているものは骨格たる骨組み構造なのである。

民家型構法住宅の人気

住宅雑誌やテレビ、また私の教えている専門学校や大学で窺い知る限り、最近は木造住宅に若い世代の関心が高い。それも一時期の構造用合板を用いた近代的な木質住宅というものから、左官ものの流行りを経て、本格的な軸組構造へ、とりわけいわゆる民家型構法に強い関心が集まりつつある。これは農家や町家といった民家再生への関心とほぼ軌を一にし、互いに相乗効果を生んでいる。いわゆる環境問題やシックハウス問題、またエコロジー建築、自然住宅、健康住宅という流行りが背景にあることは間違いない。かつては町家や古民家に住むことが一握りの高級趣味人にゆだねられていた感があるが、最近は小振りの町家や長家を改修して住むということが庶民的なレベルにまで降りて来ているということもあるかもしれない。

稲荷山の家(京都市)伝統的な空間と構法を探ってみた家

 

民家型構法住宅とは

 この民家型構法とは、地域の木材を生かした自然でわが国の伝統文化を引き継ぐ住宅、と言えるかもしれない。そこでは土塗り壁を用いた極力金物によらない伝統的な軸組真壁の構法が目指される。木材は決して銘木である必要はなく、節もあって構わないが、年数や乾燥など構造的な品質を確保された木材を用いる。ほとんどすべての木材は裸でそのまま化粧材として用いられ、自然な柱梁の配置で、構造的にも無理がない。

民家型構法の住宅(パストラルゆたかの 徳島県)TSウッドハウスのモデル住宅

 

構法には極力長い寿命を全うするよう木組みが考慮され、傷みの度合いが住人にすぐ知られ、傷んだ場合も、大きな支障なく補修ないし取替えができるよう工夫される。断熱や吸湿、遮音といった快適環境にも、極力人工素材を用いず、木材や土などの自然素材で対応する。それも住人の健康を考えて、ほどほどの利便性、快適性を備えるにとどめ、飽くなき快適性を追求するものではない。などなどと特色を挙げて行けば、高気密高断熱を掲げ、多様な新建材に囲まれた現代の庶民住宅とはずいぶん隔たりがあることに気付く。

山の木を見直すところから始まった

そもそも家づくりは、材料とする木を山に確保するところから始まった。日本建築学会の今年の環境問題を提起する『建築雑誌四月号』の寄稿において、四国の六車昭氏(棟梁)と戸塚元雄氏(設計)もまた、戦後植林された若齢の杉の利用を念頭においた民家型構法住宅に辿り着く。その仲間に徳島の林業家、和田善行氏も加わり、自然乾燥材を徹底的に吟味し、積極的な機械設備を駆使して伝統的な構法を持った新しい民家を共同作業により開発して行く。「まず木ありき」。しかし同時に、木を見つめる「人」がいたわけだ。このグループによる一連の民家型構法住宅の仕事は、現在のわが国において、木を知り、木を生かす構法を巧み、人を生かす生産・経営システムを組んで実践されているもっとも素晴らしい例の一であろう。

石縁のある家(六車工務店 香川県) 石場建ての伝統的構法のいわば最先端といえる仕事だ

 

木を組むよろこび

六車工務店の仕事については昨夏のこの欄において紹介したが、去る十一月に六車氏と林業家の和田善行氏を招いて京都で行なわれたシンポジウム(京都建築専門学校主催、京都教育文化センター会場)でさらにその進展を見ることになる。特に六車氏の長男夫婦によ

シンポジウム風景(2002.11.16)川上と川下を結ぶネットワークが主題であった

る設計を次男棟梁が担当して、若い大工社員が一丸となって仕事に精魂傾けている様子がビデオによって紹介された。実に、木を組むということが、いかに職人達の心を組むことに通じるか。作品の見事さもさながら、それを実現して行くよろこびが、職人達のみならず、材木屋や施主家族にいたるまで隈なく浸透している。棟梁の温かなまなざしのもと、気合いに満ちた現場の雰囲気がなによりも尊く思われた。

木を見ることと経営を学べ

 昔も今も、大工として、己の腕の振るいようの確かな現場の方が仕事をしていて楽しいに決まっている。どうして昨今のように、誰もかも手抜きをしたがる時勢になったのか。今さらいい仕事をさせてもらえないと嘆く大工が多いが、その状況は自分たちがつくってきたものなのだ。楽して儲けることを覚えれば、心を失い、腕を失い、結果、仕事を失う。

六車棟梁は言う。一年に二棟もやっていないのは、できないからだと。棟梁自身はほとんど手を出さず、弟子たちのすることを見てやるだけだそうだ。だから、仕事を受けて、腕のある他所の大工に指示して仕事させることはできないことではない。けれども、そうしない。一本一本の木を見つめ、納得の行く仕事をしたい。それが若い者を育てる。かといって、格別高級な仕事をしているのではない。坪当たり六、七〇万円の普通の価格で六、七人を賄うのにはそれ相当の工夫が要る。損を出さないようにするが、儲けてはならぬとのこと。若い大工が育つ一つの理想の工務店の姿がここにある。棟梁の大工としての志しが、それを支えているのだ。

石縁のある家 上棟風景(六車工務店 香川県)

 

「大地」に根ざす家

今日のわれわれの時代に相応しい民家への思い、その根底には、木や風、風景を通して、あるいはわれわれの五感を通して、失われつつある「大地」との結びつきを取り戻したいという何か深いところからの声がある。このことは、すでに民家型構法の家の提唱者である建築家藤本昌也氏の言葉である「大地性の復権」につながる。(「住宅建築別冊54 民家型構法の家づくり」参照)「大地」とは、藤本によれば、建築と環境を成立させる固有の場であり、その場での固有の自然・歴史・社会条件である。従って、その地域の木で、その地域の風土に合った、地域の人々によって建てられる自然で健康的な長寿命の家をめざそうと言う。

民家には、大地の香りがする。大地は地面のことだけではない。そこに生きている人間の根であり、われわれの感性や思考の根底でもある。だから、自然に囲まれた田舎だけでなく、都会もまた第二、第三の大地でありうる。しかし空中に浮いた高層住宅であっても、大地との結びつきなしには、人間はこの地上に生きられないのではないか?都心型の中高層集合住宅における大地性も、半世紀の歴史を経験した今、一度じっくりと検討してみたいものである。

 

民家型構法住宅の課題

今日の民家への期待が、道具的な要求から出てきたものではないにしても、それを技術的に可能にするためには、通常の住宅建築以上に、設計者の構造と空間に対する理解、施工者の素材や接合部、通気に関する配慮と技術、そしてそれに相応しい品質の木材の供給に対する周到な準備が必要であろう。

桟積み乾燥された木材(ともいきの杉 京都府美山町) 現在堺市で工事中の家の材料だ

ここでそれらに言及している余裕はないが、その中でわれわれが直面している問題の一つに、数多くの金物の使用を要求する最近の法規改正がある。もともと基準になっているのは、合板やサイディングなどの面材によって剛性を否応もなく高められた構造であり、外力に対して柔らかく受け流す伝統的な構法には適合しにくい。もっと柔らかい構造のよさを視野に入れた構造設計基準を願うものだ。

構造実験風景(近畿大学村上研究室) 土壁の耐力メカニズムを解明する一連の研究だ

 先に家の構造を人体における骨格と譬えたが、構造と骨格とでは、住人にしても設計者としてもずいぶん受け取り方が違ってくる。構造はおおよそ部分部分で考えられることが多く、全体としての力の持ち合いというイメージを感覚として持ちにくい。骨格となれば、動くもの、変形するものとして、動的にどう対応するかというイメージに発展しやすい。また、動きに対して粘り強く柔軟にはたらく関節としての仕口や継手などの接合部、骨格を筋肉のように弾力的に支える土壁などへの類似が意味を持つだろう。そんな比喩によって把握される有機的な建築観が全体系をうまく捉えるために有効だ。

 すでに主に木構造研究者をはじめとするグループによる伝統構法の科学的解明が始められているが、今後は、そうした研究成果のみならず、設計側、施工側、材料供給側、に加えて一般市民からの支持も見える形にして、幅広い基準づくりに向けて各方面からの努力を期待したい。

(この稿は建設タイムズ平成15年正月特集号に記載されたものに一部加筆したものです)