えびすがわこうばまちやみおさめき

夷川工場町家見納記

---工場町家は面白い。町家に住むということは町に住むということ。2006.12

 中京区、夷川通りを烏丸から西に入ったところに、工場として建てられ、長年使われてきた町家がある。このほどこの町家を購入した所有者によって壊され、駐車場になることが伝えられた。5階建て単身者マンションが建てられるとの噂もある。

 御所の南の一帯はいまや町家バブルと言われ、町家は大小構わず高値で取引されている。一体、この町家に何が起こったのだろうか?

夷川通りの眺め 手前が工場町家

明治の工場町家

 事態はこうだ。かつて、この町家は隣にある米穀店の店舗兼精米工場、米蔵と使用人の宿所を併せて建てられた。正確な年代は不明である。蔵からはこのほど、慶応3年(1867)の棟札が確認された。有名な「鉄砲焼け」でこの辺り一帯も焼けたとされるので、その三年後の上棟となる。工場町家は米蔵の手前という位置とその格好から見て、その後の明治初期から中期の建築と見ていいだろう。終戦後、米屋はそれまでの大きな商いの縮小を余儀なくされ、その後、この精米工場も人手に渡った。新たな所有者は知人の建具屋に貸し、永年の間、この町家は建具工場として使われて来た。昨年末、所有者が不動産業者に売却、建具屋は南区に移転、ほどなく町家は建設会社に転売され、蔵ともに解体されて駐車場となる運命だ。

私がこの町家を知ったのは、一昨年の夏、隣の町家を店とギャラリーに改修した折りのこと(平成十七年夏のこの槁で紹介)。隣のその町家はまだ建具工場として使われていた。表間口は四間ないし五間、奥行は蔵まで入れて十二間ほど。図子二階のぐっと頭を下げた明治の面構えは、西隣の太くて丸い木格子を伴った二階建て町家の胸を張った昭和初期の感じと、好対照である。が、無惨にもざくざく切られて歯抜けとなった虫籠窓や、あちらこちらに傷み歪みが口を空いて、いかにも助けを求めているといった風情だ。

すでに建具工場は移転して誰もいない町家の内部に足を踏み入れると、一面にすり減って節が浮き出た床板、そこかしこに山積みされた無数の木材片と埃の堆積が目に飛び込んで来た。乱雑には違いないが、辺りの静けさの内にあって、それは細かな形と光の不思議な交響世界を現出している。吹き抜けの高い屋根裏のあちこちに穿たれた天窓と壁の窓や隙間から光線が差し込み、大和天井に低く澹えられた暗がりと重なり合って奥へと連続している。確かな人間の営みの時間がつくる工場だけが持つ豊かな創造力に溢れた空間があった。

 工場町家の内部

工場町家の面白空間

町家と聞けば、雑誌を飾る華やかな店鋪の写真に写し出されるような、繊細で情緒的な粋の空間が連想されるかもしれない。でも真実には京町家は、店鋪であれ、住いであれ、しっかりと日常の生活に腰を据えて、意外に浮いた風情を見せないものだ。ましてやここにあるのは、そういう粋人の数寄空間とはまるで対蹠的な、ものを造り出す職人たちが使い切ってきた工場なのだ。そのままでは通常の人が求める快適な日常の生活の場にはならない。用いられている柱や梁は細めで、中には使い回しと思われる材もあって、この町家が最初から精米工場として建てられたものであることを物語っている。表の二間分が店鋪、二階のある一部が勘定場、吹き抜けのところが工場だったようだ。一旦、庭を挟んで南に米蔵があった。今は蔵の前、庭を庇で覆っている。どこもかしこも、借家の運命、補修もされずに傷みは相当に激しい。

こんな面白い空間は設計できない。つくろうと思っても、つくれない類いの空間だ。吹き抜けを二階建て部分が鈎型に囲んでおり、ここで集会したりコンサートをしたりするには持って来いの空間。決して媚びることのない工場のしつらえは、若者の想像力を掻立てるに違いない。ライブコンサートなどを楽しめるカフェやエスニックレストランには願ってもないだろう。蔵を厨房に、蔵の前を中庭とサンルーフの明るい空間に、ガラストップで植物を共にした吹き抜けを周囲の客席が二階建てで囲い込む構成で、ざっと一〇〇席は取れる。流行りの結婚披露パーティには打ってつけで、きっと若者の間で話題になるに違いない。地下鉄駅に近い地の利もあり、収益性は十分と見ている。

しかしながら、最初にここを購入した不動産氏は、住まいにも店鋪にも向かない、面倒なおんぼろ町家と判断、マンション以外にこの物件を考えなかった。結局、この判断が、町家の運命を決めた。誰かが、早い時点で、カフェとしての再生を絵に描いていれば、判断は違うものになったかもしれない。

工場の空間は面白い。町家の空間が面白いと言われる理由の一つに、土間や通り庭、内外の境が無い縁側など、今日のnLDK式の住宅が失った従来の家の姿がある。そこには個人のプライバシーなどに何の顧慮もなく、およそ今日的な快適便利が見当たらない、そんな家自体の人格が住人を超えて存在していることの規範性に一種惹かれるものがあるのではないか。それはまた、大黒柱など家の構造がきちんとした骨格をなして目に見えることへの安心と重なっているだろう。工場の面白さは、また別にある。そこにはまた、住む機械として快適装置、便利道具化した今日の住宅とは全く懸け離れて、媚びてこないところ、自分を矮小化された快適範囲に収めようとする商魂の埒外にあるという一種の安心がある。特に、若い世代にはこの傾向がある。明治生まれの祖父を持つ世代には町家はノスタルジック、モダニズムを知らぬ世代には新鮮に映る。「住めない家」に住むことで、若者は自分を取り戻す。工場の空間は、挑戦なのだ。若者は想像力を掻立てられ、商業主義の枠から解放された自分を見い出す。がらくたに囲まれてコンサートに立ち会うことの意味もそこにある。

   

 
                     立面と断面(図面  清永貴文)

夷川には町家は不要?

 夷川通りはそもそも家具製作の通りとして知られ、今でも寺町から烏丸までの間、家具、建具を並べる店が多い。それに対して烏丸より西側は、人通りも少なく、目立った店もなく、まあ活気がない。が、よく見れば、畳屋やら何やら今日でも店先でものづくりをなしている店がちらほら見える。つまりはすでにものづくりから品物を並べるだけになった東側に喪われたこの通りのもともとの姿が残っていると見ていいのかもしれない。この辺りにあるそんな「臭い」に、何か将来いいまちになる可能性があると、友人夫妻と共に話し合ったものである。さいわい、友人夫妻が店を出し、展示やイベントに人の目が止まるようになって、近所の人たちとの交流も生まれ、さあ、この界隈にいい風が流れ始めたぞという、その矢先に隣家工場町家の衝撃が降って湧いた。これをどう考えるべきだろう?

千二百年の歴史をもち、都の洗練された文化を体現する住まいであり店舗である町家をなお数多く中心部に有する京都は、しかし他のどの近代都市とも同様に、マンションやビルが大好きで、街中をマンションで埋め尽くすための都市計画を大事に守っている。夷川通りも例外ではなく、そこそこの町家を潰せば、小さいながらマンションが建てられるし、市もそれをちゃんと認めている。一方、町家はと言えば、既存不適格建築であり、防災上の問題ですらある。したがって、おんぼろ町家が消えてなくなり、今日の耐震基準を満たし、大勢の納税者を収容できる鉄筋コンクリート造のマンションが容積率いっぱいに建てられるのは、きわめて自然な成り行きであり、立派に合法的なことである。誰しもマンションの開発業者を悪し様に言うことは許されないし、また事実、近所の誰もが業者を悪者にすることはなかった。

 

マンション住人はまちに住むか?

 ただ、幾度か重ねられた近隣の会合において出た意見は、できれば町家を残して活用して欲しかった。町家が壊されマンションが建つのは仕方ない。が、マンションの住民は、ただマンションに住むというだけでなく、われわれのまちに一緒に住むという意識をもって住んで欲しいと。開発業者はただ単にマンションの建設工事に伴う近隣への迷惑を軽減するのではなく、建った後で、そこに住む住人の人たちとまちとの間柄に関心して欲しいと。単身者マンションは夷川通りの界隈を貶めはしても、地域の魅力を引き上げることはほとんどないだろう。せめて、この落ち着いたまちの雰囲気に極力合わせたデザインを望みたい。また一方で、隣家への配慮を十全に行って欲しい、などという至極大人の声が寄せられたようである。

 これに対して、当初5階建ての単身者マンションの建設を予定していた建設会社も極めて柔軟な姿勢と対応を示した。例えば、屋根を上下させて接していた隣家町家に対して、瓦一枚分ではあるが、敷地境界を越えてけらば部分が出るのを許すのみならず、通りから見える町家の妻面を通常は波トタン張りで包んで済ますところを、下地の土壁の傷んでいるところを補修した上、焼き杉板で覆うというあまり例のない対応を示してくれていたことは、優れた交渉人を得た今回限りの特例かもしれぬが、今後の隣家補修の通例を構築する上で注目に値する出来事であるし、心ない養生補修に怒りを覚えることが多い中にあって、評価したい。

 

がらくた町家見納め公開イベント

イベント風景外観(写真 吉田玲奈)

いよいよ十月中ごろになって、町家の所有者から、駐車場として整備するために、町家を解体撤去する旨が伝えられた。日頃からこの町家を含めた夷川の風景を好むわれわれにとっても、残念で仕方ない。せめて、以前からこの空間を利用してのライブカフェの風景を一度見てみたいと、見納め公開とコンサートイベントを企画した。所有者に許可をもらって、町家研究室主催でイベントを実施したのは、企画後十日のことであった。

トークにはもともとの精米工場時代に懸けられていたという暖簾も披露された(写真 吉田玲奈)

イベントは建物の公開とこの町家に関わるトーク、およびコンサートで、十一月十一、十二日の二日間に亘って行われ、新聞やTV局の協力もあって、およそ二百人ほどが会場を訪れた。来場者のほとんどは、この空間の面白さ、かけがえのなさを惜しみ、町家の保存を訴えた。せめて皆でしっかりこの町家を味わい、ここで見たもの、聞いたコンサートを各自で記憶して語り継いでもらおう。二日間のすべてのイベントを終え、スタッフも、元の所有者も、私も、こんな風に客を迎えたことは無かっただろうこの町家が、きっと喜んでくれたに違い無いと確信したのであった。

(トークには、町家倶楽部の小針剛氏、建築家の吉村篤一氏、京町家再生研究会の大谷孝彦氏らに飛び入りで参加、協力していただいた。諸先生をはじめ、折からの寒風にも拘わらず足を運んでいただいた来場者の方々、イベントに協力してくれた方々、学生たちにこの場を借りてあらためて感謝の意を表したい。)

コンサート風景(写真 吉田玲奈)

モノとしての町家を残すのも大事だが、町に住み込む仕掛けとしての町家、住い方を町家に学ぶことがより重要である。町家はモノとして、一個の建築として見ることもできるが、より本質的に、集合して町を成す住いである。それは例え一戸であっても、町への意識とつながりをなしにして町家は存し得ないという経験から学ぶのだ。

今回の工場町家にしても、単に古屋付き土地と見るだけの不動産屋によって保存への道が閉ざされてしまったと看做すこともできるが、それ以前に、この町家の所有者が、処分する前に、元の所有者である隣家に何の相談もなかったということに、大事なポイントがあるように思う。町家は隣近所の付き合いを最小限度に押さえる見事なシステムを持っているが、それでもなお、そのまちへの共属意識なしには、町家は存続し得ない。それは、マンションの各戸同士の関係にも似ている。マンションはそれ自体で一つの町、一つの集落であり、共同存在体であるために、とかく関心はマンション内の共同体を出ない。町家が町の単位である地域にマンションが馴染まないのは、そのためである。京都のまちが、マンションのような共同住宅を受け入れ出した七〇年代に、その辺りの新たなまちづくりのシステム整備がなされなかったことに、その後の地域の問題、引いてはまた町家の問題が露呈して来る遠因があったように思う。

                               (さのはるひと)