山村の風景に思う 2006

---環境の里を目指し、伝統の風景を残そう---右京区京北の例

京北の木で家をつくろうネットワーク

昨年より「京北の木で家をつくろう」という林業ネットワークを仲間の大工、設計者、林業家たちに呼びかけて始めている。各地に活発になってきた川上と川下を結ぶ林業ネットワークに遅ればせながらの参加である。いくつかの活動については、筆者のホームページに報告を載せているので、そちらをご覧頂ければありがたい。

ネットワークによる伐採立会い

 このネットワークは、京北材を使ってみよう、京北の林業関係者たちと顔見知りになろうという程度の緩いものから始めているが、大抵、この種の活動では、山側は少しでも自分たちの木が売れることを望み、工務店では安価に安定して有利に材木が入手できるように要求し、大工は天然乾燥の長材を、設計者は美しい材をそれぞれ望むというように、各々の立場の思いが次第に露わになって来る。単なる商品の流通ばかりを捉える活動は、普段の仕事の延長にとどまり、最初から行き詰まりが見えている。何とかそれぞれの立場を超えて、活動を有意味に発展させることはできないだろうか。

林業ネットワークの難しさ

 そもそも、ネットワークは、京北材を使うことで、生産者側が抱えている問題を少しでも軽減してあげようという、川下側から手を差し伸べるところに始まった。そのことで安定した良材の供給につながるのであれば、近くの山の素性のわかった木でしっかりとした家づくりが出来、ユーザーに喜ばれ、作り手も信頼を得るという目論見がある。ところが、そう簡単には行かない。良材とは何を指して言うものであるか?良材とは言えない材をどうするのか?たくさん買えば、安定供給につながるのか?素性は本当にわかっているのか?などなどと問題は尽きない。どうしても、もっと高い次元でネットワークが結びつかないと、活動は頓挫してしまう。

ネットワークの目指すもの

 根本動機として、一つには環境問題がある。このままでは、日本の山が危ない。山は何よりも保水機能である。山が荒れると、土砂は流れ、保水性が失われ、川が荒れ、干上がり、川下の都市部はたびたびの洪水あるいは水不足に見舞われる。空気の浄化も二酸化炭素の固定機能も落ち、どんどん環境は悪化する。山と山の木を健全なかたちで保持しなくてはならない。もう一つには、農山村を護らねばならない。農山村を護るというのは、そこでの生活を護ることである。山や山の木を護る人たちがちゃんと生活できていなくてはならない。そのために、彼らの木をたくさん使うことで、彼らの生計が立つようになれば十分なのだろうか?何か大事なところが抜け落ちているようだ。

京北を御存じ?

百万都市である京都から北西に車を走らせると、約三十キロ、小一時間ほどで京北の中心周山に入る。昨年から京都市に編入し、右京区京北となった。山に囲まれた京北をさらに北に走ると、山里美山に入る。美山は近年、茅葺きの里として名を揚げた。美しい農家が山を背にゆったりと並んでいる里は、都会では味わえないくつろいだ空間を提供している。こんな美しい素朴なところで育てられた野菜や食肉はさぞかし美味しいだろうと、美山の産物の人気は高まるばかり。よい季節の週末には、多くの観光客が美山を目指す。一方、京北はと言えば、美山への通り道以上の印象があるだろうか?周山という美しい名前は、ここ城を構えた明智光秀に因るものだそうだが、周山のまちは光秀同様、ぱっとしない。ここ数年、周山のまちを迂回するバイパス工事が進み、美山を訪れる人にとって、道の狭い京北を素通りできるように「便利に」なっている。

 山国遠景

京北は林業が盛んだった

 京北に降った雨は隣接の左京区広河原に発する大堰川に流れこみ、亀岡市を経て嵐山から桂川と名前を変え、淀川に合流して大平洋に注ぐ。対して美山の水は由良川となって日本海に注ぐ。水系が異なる二町が同じ国道で結ばれてからは、北桑田郡として長く同じ行政単位に置かれていたが、このほど美山町は日吉や園部と一緒に南丹市となり、何とはなしに遠くなったような気がしないでもない。ともに林業が主要な産業であったが、京都へ筏で降ろせる京北は、雪が深い美山に比べて地の利が大であった。加えて、戦後盛んになった北山丸太生産による収入は、京北の林業を助け、良材を長く山に保つことができた。京北にはまた、古くから禁裏の御料地であった山国など、豊かな林業を背景に、たびたび朝廷や公家を背後から支えて来たという歴史とプライドがある。一見して、美山と京北では、山の林相が違う。どこまでも杉が植わっている京北の山と違い、美山は雑木林が多く、自然が豊かである。
しかしながら一方で、京北に限らず、日本中の林業地は空前の木材価格の低迷と林業従事者の高齢化に喘いでいる。そんな中、一昨年の台風による大風の被害、二年にわたる重い雪による被害は、踏ん張ろうと努力している林業家たちには相当に手痛い打撃となった。この地域を走ると、未だに至る所で倒れ、折れ曲がった杉林を目にし、胸を傷める。林業家にとっては屈辱的な光景だが、それを片付ける気力が萎えてしまっているのではないだろうか?

 上弓削の葛屋

京北の家並

茅葺きの民家と言えば、美山のイメージが強いが、よく見れば、京北にも茅葺き民家(この地の人は「葛屋」と呼んでいる)は結構多く残っている。ただ、ほとんどが金属板で覆われていて、また美山のような茅葺き集落という景観をなしていない。美山に比べて一回り大きいものが多く、ほとんどが庭を囲む塀や中門を伴い、漆喰塗りの蔵や二階建ての納屋、便所風呂場、稲木小屋を合わせ持つアンサンブルからなっており、漆喰塗りの長家門のある民家も散見され、格の高さと由緒を感じさせる。また主屋として茅葺きのほかに、瓦葺き中二階建て、杉皮葺き平屋、近年の在来造が混ざって、家並は賑やかである。家の構えのみならず、庭木などにも京風の洗練が感じられるものが多い。一口に言えば、美山にはおおらかで素朴な田舎のよさがあり、京北には都会的な洗練と雑然があるということになるだろうか。

 山国の立派な家 

歩いてはじめて見えてくる景色

国道を車で走って見えて来る景観と、歩いて見る景色とではずいぶん違う。車を降りて散策して初めて見えてくる景色がある。京北域でも、私のお勧めは上弓削から下川を経て上川の旧道や脇道を歩くコース、そして山国の川東の中江の辺り。ほかにも筒江や上黒田など、とっておきの散策エリアもあるが、明るく、生活感があって、洗練あり、歴史的風情あり、こころが豊かになってくるのを覚える。車で走っていると、車道からの景観しか眼に出来ない。家々は車道に閉ざしている。裏ののどかな道を歩けば、家はこちらに開かれ、微笑みかけて来る。車道は余所者の通る道なのだ。これからの農山村の計画に対し、この認識が重要だ。かつて、街道筋の村は街道に面して広がって発展した。しかし、その街道に車が遠慮なく走り抜ける時代に入って、家々は道に面して開いていられなくなった。車はかつて人々の往来の空間であり、コミュニケーションの場であった道を奪い、家を閉ざすだけではなく、近隣の関係を疎遠なものにしてしまった。車はその家と仕事場を直線で結ぶものであり、近隣とは関わらない。今日、田舎の生活にとって、車は都会以上に必需品である。しかし、その車がかつての田舎の強い近隣関係を壊している。その解決のためには、余所者の通る道を集落から遠ざけ、集落には引き込み道路で結び、かつ、近隣のための歩く道を確保しておくことが重要だ。先のお勧め地域は、いずれもそうなっている。

  筒江の民家

田舎に住みたい

   美しい自然に囲まれた田舎に住みたいと、私はずっと思い続けている。京都は百万都市には思えないほど自然が豊かな都市だ。しかも、家は山の緑の多い辺りにあり、このごろは蛍も見られる。でも、毎日、ごみごみした都会で生活していると、田舎育ちの私は逃げ出したくなり、用事のない週末にはなるべく京北や美山、あるいは滋賀県などの山の中に出かける。雨上がりの山の中の散歩ほど心身ともにリラックスさせてくれるものはないからだ。状況が許されれば、京北の民家に住みたいと思うが、なかなかできないでいる。きっと同じ思いの人はたくさんいることであろう。もう数年もすれば、子供たちも片付き、積年の思いはかなえられるかもしれない。その時のために、今からできる準備をしておきたい。何よりも先ず、何故、田舎に住みたいと思うのか?という問いかけについて考えておきたい。

 筒江にて

ふるさとを失う国

 日本は、明治の農地改革に伴い、あらゆる山奥谷奥まで人が出向き、田を耕した。同時に、近代産業が都市部を中心に発展し、労働力が都市に集まりだした。戦後、農山村から都会に出て来た子供たちは、田舎に戻らず、都会に住み着く。かつての山や谷の田には杉檜が植えられ、奥地は捨てられた。高度経済成長による都市の膨張は、TVのあまねき普及と相まって、都会的=文化的という図式、都市文化の圧倒的勝利をもたらした。今や、かつて話題にされたような、農山村の文化と都市的文明の葛藤というような問題はもはや議論されることはないのではないか。農山村では、その地固有の風俗、習慣はもはや文化として評価されなくなりつつある。かつて日本の文化の基盤は農山村にあった。美しいものを美しいと感じる感受性は、まずは青い空、清い水の流れ、新緑の潤い、四季の山谷の景などなど、穢れの無い自然に感得されるものだからである。都市に住み着く究極の工夫が町家にあるとすれば、それは「市中の山居」を約束する庭の景であり、自らが、あるいは先祖が捨てて出て来たふるさとの記憶を確保するしつらえであった。それが今は都市文化一辺倒の陰で失われてしまった。農山村には、独自の奥深い豊かな文化がいまだにあるというのに、その田舎が、田舎の文化を否定しているのだ。このままでは、この国民はやがて「ふるさと」という言葉をうしなうだろう。

農山村不要論

 ふるさとの語とその文化を失うだけではない。かつて、農山村は都市が成立するための物資の補給源であった。米や野菜、肉や魚、材木や土石、山や畑、海の産物が都市に寄せられて、それで都市は成り立って来たのであるが、近年、そのほとんどが諸外国からの輸入に依っているとなると、生産機能としての農山村はもはや不要となる。事実、材木でも野菜でもすでにそうなりつつある。そうなると、いよいよ経済的にも、農山村の成立基盤が失われることになり、若者は田舎に帰りたくても帰れない状況になる。事実、すでにそうなっている。

 もはや田舎には高齢者ばかりが残っているという日本中の今日的状況がある。これらの高齢者は、都市には老人病院のほかには居場所がない。いや、正確には、田舎ですら居場所がないと言うべきだろう。介護人も、医者も田舎にはいないからだ。でも、それでは老後しか残っていない私が田舎に住むなど、とんでもないことになる。そうではない未来的な田舎を夢見なくてはならない。

 山国の長屋門

都市の文化は消費文化である

都市文化の圧倒的勝利と先に述べたが、ここに来て、実はそうならない。いわゆる「環境問題」がその前に立ちはだかっており、猛烈な反省を促している。効率性を標榜して人工的に集約された都市は、確かにエネルギーや物資を「効率的に」消費するが、農山村の昔ながらの生活を知れば、都市生活が途轍もない「浪費」であることを悟るだろう。都市文化は消費の文化である。その反省から近年流行となっている「環境に優しい」や「エコ」、また「ロハスライフ」といった掛け言葉すらも、新たな商品開発に向けられている感がある。これらの概念で示唆されている世界こそ、本来の田舎の農家の人たちの生活そのもの、当たり前のものでしかなかったものだ。どこまでも消費する都市文化に対する本来の農山村文化の優位性、模範性を投げかけておきたい。

  民家の前庭にて

林業を主とした環境の里構想

 大都市からわずか三〇分の距離にある歴史と文化のある農山村、京北が今後果たさねばならない使命は、従来のように、環境に恵まれた良質の住宅地として開発されることではない。ましてや、大都市から出たゴミ処理地であっては決してならない。そうではなくて、これまでそうであったように、洗練された歴史的な文化を家並や生活、風景に保持し、良質の農業、林業経営を実現し、昔ながらの環境に配慮した生活をさらに発展させた模範的な住まい方の実現を目指すべきである。その際、主要産業としては林業でしかない筈だ。ただし、旧来の林業経営ではなく、たとえば、用材を取った残りをチップにするなり、ペレットにして、京北域ではペレットを石油代わりに積極的に利用するなど、住民ぐるみで「林業の里」づくりに参画するのがいい。こうしたまちぐるみのモデル事業には、公共の助成も期待できよう。

 また、公共建物も住宅も、地元の材で建設するのはもちろんのこと、各地域の中心に高齢者が歩いて集える広場や集会施設を整備したい。外部の観光客目当ての施設よりも、自分たちが集い、楽しめる施設を設けることだ。そんな楽しそうな場所は、自然に活力が発揮して魅力を生み、外部の人も自然に引き寄せられるだろうから。これらの施設計画や建設は地域の人々の参加によって実現し、決して、外部業者の食い物にならないように配慮しなくてはならない。すでに、素材はすべて地元にあり、それをうまく引き出すことに努めることが重要だ。その努力の前に外部から魅力あるものを安易に引張ってくるのは避けたい。

 このような構想が実現するためには、当然ながら、地元に優秀な若い行動力のある人材が必要となる。また彼がリーダーシップを摂ることができるように、長老や実力者は見守り、時に助言してやることも必要だ。

近くの山の木が伝えるもの

 二十一世紀の観光は、伝統と自然を生かした成熟した住まいや産業が対象となることだろう。固定された美しい風景や生活感のない民家ではもはやないはずだ。ここに来て、ようやく冒頭の林業ネットワークがまずもって関心しなくてはならないことが見えて来たように思う。近くの山の木が都市の家にもたらしてくれるものは、それが育って来た山や里の美しい幸福な風景なのだ。われわれは、何よりもまず、その木が伝えてくれる美しい風景を知り、そこに展開される人々の生活を理解し、自然と人々の生活がバランスよく営まれる里の風景を護り、後世に残したく思うのである。

(さのはるひと)