英国の風景に思う(建設タイムズ2005年夏特集号寄稿文に手を加えたものです)

 今さら言うまでもないが、ヨーロッパの風景は実に美しい。それぞれの地方や国々で様々な風景が展開され、飽きることがないが、今回訪れた英国の農村風景にもまた格別のものがある。大きくうねりなだらかに広がる牧緑の岡に、いかにも手で積まれた石の垣が心地よくうねって伸びているのだが、その先に、実に心憎く樫の樹が配されている。これら全体はいかにもきちんと眺められ、吟味されて構成されたとしか思えないほど、見事な一体感を見せている。こうした風景は、自然に任せるままというのではなく、人の手が入った、その意味で人工的な自然観がもたらす風景と言えるだろう。

 

この写真は湖水地方ケズウイックへ向かう道すがらのもので、イギリスのどこにでもある風景。道の両端には羊の囲いがうねうねと続き、茂みや木立が重なることも。場合によっては数メートルの高さになり、向こうが見えない。そんな道路を100km/hで走るという走り屋にとってはご機嫌な国だが、道路端でカメラを持ってうろうろするのはとても危険である。 

イギリスは農業国?

 英国は国土面積で言えばわが国のおよそ三分の二であるが、七〇%が急峻な山地のわが国とはちがって、ほとんどがゆるやかで、そのまま農地として利用できる岡というのだから、半分くらいの人口とは言っても、その実際の密度たるやわが国とは比べものにならない。実に広々として悠々たるものである。産業革命発祥の地と言うものの、この国を縦断する高速自動車道を走っても、工業地帯が広がっている風景にお目にかからず、大型の産業車も少ない。週末ともなればキャンピングカーの方が多いくらいだ。街道から望める風景のほとんどは牧場である。フランスやスペイン以上に、この国の風景を象っているのは、農業だという印象である。

湖水地方グラスミア(カンブリア)の手前、雲間から差した西陽に牧草が輝き、とても感動的な風景でした。思わず車を停めて撮影。

貧しい自然による豊かな風景 

 ヨーロッパの自然が貧しいとは誰も思わないであろうが、緯度が低く雨が多いわが国に較べて、地味は痩せていると学校で教わったはずである。彼らは強くない自然を護る。一方、放っておいてもどんどん草木が生え、大きく育つわが国では自然を護らない。結果、両国の風景はさほどに違ったものとなってしまった。愛情をこめて育て上げた豊かな風景と、旺盛な自然の貧しい風景との対比がそこにある。風景を破壊して顧みないわれわれの根底には、そんな強い自然への甘えが潜んでいる。

    湖水地方で最も気に入った風景。ビアトリクス・ポターの農場ヒル・トップのあるニア・ソーリー村付近。何とも静かで落ち付いた風景である。この左手にきれいな馬たちがしゃらしゃらと群れていた。

 

 しかしかつて、この牧草地の多くはかつて森林に覆われていた。それを伐採して開墾し、農業用地に変えて来た以上、本来の自然保護にはならないと言えるかもしれない。ここで見られている自然とは、人間の手によって仕立てられた自然であり、歴史的に培われた風景視ないし自然観によって眺められ形成された自然であろう。他方、この国には北方の荒野とも言うべきわずかに草が地を覆う荒涼たる冷えた風景に対する一種の憧れのような原風景観があるように思えるのであるが、それは別の機会に触れたい。 

 ナショナルトラスト運動を擁する英国は世界で最も進んだ自然景観保護運動の国として知られる。今回の旅行でその百年以上もの歴史がもたらした成果を目の当たりにし、運動がいかにも国民に根づいている様子に感銘を覚えた。古くから自然風物を愛で、数多くの詩歌に詠んで来たわが国では、残念ながら今日になっても保護運動は結実しない。そんなところにも人の手による自然保護という考えが欠落しがちなわが国の自然観が窺われる。

景観視の違い

 両国の自然景観にはもう一つ、景観そのものの捉え方の違いがある。わが国の自然への接し方は、多くの場合、微視的あるいは象徴的であると言われる。床の間の一輪挿しに活けられた草花に秋を、自然そのものを感じるという「すぐれた感性」は、全視界の自然を必要としない。縁先の坪庭でもあれば十分なのだ。

湖水地方の北の入り口にあるケズウイックからダウエント湖に沿って走り、南側の峠道にさしか かった辺り。この渓流のほとりでサンドイッチの昼食にした。羊歯や蕨がびっしり生えている。渓流の眺めは基本的に日本と変わらない。

 その相違をかの国の大味な自然がもたらしたものであると言うことはできない。現にこの旅行で英国の山地で出会った苔むした樹陰の谿川が様々に岩を縫って流れる様は、周囲を覆う蕨に似た植生そのままに和風の庭園になると確信したからである。彼ら英国人たちはそうした「小さないのちの宿る」自然景観にはさして興味をしめさなかったということだ。

最も有名なイギリスの観光地の一つ。比較的近くにあるエヴベリーのストーンサークルにも行ってみたのだが、期待以上のものではなかった。このストーンヘンジは、辺り一帯の広さとともに、期待を裏切らない。周囲を巡りながら見ている内に、石のひとつひとつが表情をもって現れて来る。あわててシャッターを切った。このストーンヘンジはかつて大森林に囲まれていたという。

 ソールズベリ大平原にそそり立つ有名なストーンヘンジ(ウィルトシャー)を眺め、周囲数キロにわたる視界に古代への想いを邪魔する建物や鉄柱、道路が皆無であるのに驚いた。彼らは、単にこの遺跡を「もの」として保存しているのではない。それらが機能していた古代の風景観への接近として、巨石の立つ風景を大切にしている。そのためには、この風景には土産物売り場や休憩所はもちろんのこと、親切な解説板も、禁止標識も設けない。すぐ傍らを走る国道を渡る地下道も、土産物売り場、休憩所も、ちょっとした丘の陰に隠れて視界には現われないように考慮されている。見るというときには、われわれのように選択的にではなく、しっかりと見渡して全雰囲気に包まれて見ているのだ。

風景式庭園

 こうした景観視は、庭園の作法にも現れる。英国の最も有名な庭園の一、スタウアヘッド(ウィルトシャー)を訪ねた。十八世紀初頭のこの庭園に始まると言ってよい英国独自の風景式庭園の元祖として知られる。それまでの二百年ほどはフランスに始まる様式的な庭園の時代であったが、領主や司教ならぬ銀行家の邸宅の庭として、ここでは池水を中心にその周囲をめぐりながら、各種の池亭を焦点として様々に変化する自然景観を楽しむという新たな庭園が築かれた。訪れる者はまずその壮大さに驚いてしまう。植栽は比較的単純で、頭上を覆う巨木、石楠花などの茂み、水辺の花卉植物などと三層の構成にすぎないが、このウィルトシャーの自然なままの姿を楽しむものである。各所に配されたフォリー(あづまや)やグロッタなど、バロック以来の仕掛けも添景として自然風景に半ば呑み込まれながら、その場面場面において理想化されている。この場合、「理想化」とは、古典的な意味での「絵画的」を意味する。実際の絵画が自然の風景を主題化して描くのはジョン・コンスタブルを待たねばならないが、この庭園よりも半世紀ほど後のことである。

スタウアヘッド庭園はとにかくでかい。樹もばかでかい。台風がない国では、樹も倒れないのだろう。向こうに見えるあずまやも、写真から想像していたよりもずっと大きな立派な建物であった。

まちなみ景観

 さて、これまで主に農村風景を見て来たが、街の様子はどのようなものであるか。英国人は世界でも有数の古民家好きで知られる。とにかく古く歴史があることが自慢の種だと言ってもいい。最も美しい村と称されるコッツオルズ地方のブロードウエイ(グロスターシャー)に宿を取ったのであるが、ここの素朴なまち並みの美しさはいかにも英国らしい。まず、基本的に昔の面影を残し、飾り立てない。まちなみのそのままの姿を裸で見られるよう、邪魔になる標識や看板はもちろんのこと、街路樹も設けない。窓枠は白で統一されているようだ。要素を極力制限し、素直な素材や単純な形が持っている面白さをじっくりと味わえるように考慮されているのである。

この村(ブロードウエイ)はコッツオルズ地方の最北端に位置し、数日滞在してコッツオルズを巡回する旅の拠点としてはいささか不便ではあるが、旅行前にネットでたまたま探り当てたB&Bがここにあっただけのこと。しかし、2晩泊まっただけであるが、あちこちの村から帰ってくれば、あたかも故郷に来たような気がするから不思議。わがB&Bのある辺りはやや街の中心から北にはずれた位置にあったが、お陰で静かなたたずまいが格別。写真右端の看板が突き出た家がわれわれの宿、Mile Stone House。お薦めの宿だ。

 このことは大都市ロンドンにおいてもほぼ同様である。写真は御存じピカデリーサーカス周辺の風景である。シックな建物の味わいを損なわないように、極めて細かな色の制限が行われており、信号や柵の黒意外はポストや電話ボックス、ポリスボックスから有名な二階建てバスまで、ほとんどが赤で統一されているのがご覧いただけるだろう。

    ロンドンには色々な風景があり、写真とは違うものももちろんたくさんあって、中には大きな広告が出ているものもある。この画面のすぐ横には有名な日本のメーカーの広告塔がどーんとある。実際にはどんな規制が出ているのだろう?

大人の国の熟成した風景

 というのが英国の風景に接して詰まるところの感想である。でも、かつての日本、少なくとも京都もそうであった。国の眺めは都心を除いて主に農民の手によってつくられた。かつてはどこにでもあった里の美しい風景が、今や懸命に探さないと写真も撮れない。どこにでもガードレールや鉄柱、ほ場整備された味気ない田畑、都市部と同じ格好の住宅、けばけばしい原色の看板を立てた店鋪や灰色の大きな面の工場、自動販売機、コンクリート擁壁などが自慢気に侵食している。既に都市部の景観は醜悪そのものであるが、里の風景までもはや手遅れ状態となってしまったのかもしれない。美しい風景が破壊されて平気なのは、人心がすでに荒れ、美を看取する感性が失われているからと言っても過言ではないだろう。すなわち後進国の風情そのものである。

 わが国もすでに時代は低成長である。何が何でもつくって金儲けというわけでもないのなら、精々空いた手で家の回りを片付け、醜悪なものを撤去し、他人の目で見て恥ずかしくないようにしてみてはどうか。家の回りをきれいにしたら、犬の糞がずいぶん減ったとはよく聞く話である。犬が遠慮するのではない。きれいにするという行為が人心に触れるのである。農家の人々が夕べに仕事を終えた手で草を刈り、草花の世話をする、その日々の骨折りの積み重ねが美しい情景を生み、訪れるたましいに触れる。「市中の山居」と言われた町家の住まいも、この延長上にある。先進国英国の風景の基本が実に農村の濁りのない素朴でどこまでも自然な風景と、その眼差しにあることを心にとどめておこう。 

(京都建築専門学校 佐野春仁)