建設タイムズ特集号 寄稿 2004/01

中国福健省土楼を訪ねて

これまで私はこの欄を借りて町家の改修をはじめ、あれこれの木造住宅でのこころみを紹介して来た。それらを通して今日のわが国の民家として望まれる木造住宅のすがたを模索しているところである。今回はちょっと鉾先を中国の伝統民居・福健省の土楼に移して、歴史や風土、生活習慣の違いを超えて存在する伝統の住まいの魅力について触れてみたい。以下は去る十月、名古屋市立大学の先生方に誘われて中国福建省の客家土楼とその集落を訪れた折の見聞に基づいている。

福健省南靖県に入る

 福建省はおおよそ台湾の向かいに位置し、海に面しながら山がちな地域である。福健省の南部にある玄関都市厦門(アモイ)は近年、レジャー施設の整備に加えて、市内コロンス島旧オランダ領時代の街並み整備など観光リゾート地として賑わい、この地域の玄関口としての趣を増している。日本からの直通便もあるので、二時間ほどの近さだ。その厦門から西に内陸部へ入り、国道を九〇キロほど走ると南靖に到る。そこからは曲がりくねった山道をバイクを除けながらゆっくり走る。バナナや竹の林を眺めながらいくつか峠を越えて走ると、遠方に丸い土楼を含めた集落が見えてくる。道路脇に見えた土楼建物を見つけたわれわれ一行は興奮ぎみにバスを止め、カメラを手に土楼へと走った。小さな貧しい集落に分け入ると、二階建ての可憐な円形土楼が目の前に現れた。最初の土楼との出会いである。

門から内部を覗く(新羅村亀楼)

版築の荒々しい土の壁に小さな門があり、そこから内部の玉石を敷き詰めた庭(天井=ティェンチン)に歩み入ると、丸い二階建ての回廊が空を円形に抜いてわれわれを取り巻いていた。二つの階段に挟まれて部屋が一八ほどだろうか、中庭の直径がおよそ二〇メートル、外側で三〇メートル弱、かなり小さい部類であると後で知った。壁や木構造は相当に傷み、住人もそう多くはないようだ。庭を家鴨の親子が歩き回り、犬と老人たちが訝しげにこちらを眺めている。あっけらかんとして静かな心地よい空間である。一階は台所と食堂、正面に簡素な祠がしつらえられ、飾りと線香が供されている。二階に寝室があり、ともに中庭側を回廊で回れるようになっている。住人の話では、昔からずっと同じ一族で住んでいるとのこと。

天井の空間(新羅村亀楼)

この土楼を出てしばらく走ると、眼下に二重の円形土楼が見える。再び大騒ぎをしてバスを止め、降りて土楼に向かうが、途中、別の半月型の土楼を見つけた。半分は壊れたのか、最初から建設をあきらめたか、三階建ての土楼の断面構造がよく見られた。一同御機嫌である。

 

軒の詳細に大佛様の原形を見る(下山村半月楼)

が、この想定外の寄り道には、案内の張先生もさぞかしあきれ顔であったろう。なにしろ土楼はこの地域に数百数千とある。この程度の土楼で喜んでいないで、さっさと国宝級の土楼を見に行くべきであると。確かに、道を進めて行くにつれ、土楼の数は次第に多くなり、車窓から足早に去って行く土楼をカメラに納めようと揺れる中で懸命に追っていたわれわれも、宿泊地の書洋鎮に着くころには、目が慣れて来ていた。

国宝「和貴楼」を訪ねる

 

東正面に囲われた前庭と広場がある(和貴楼)

梅林郷にある方形土楼「和貴楼」の前庭には「全国重点文物保存単位」すなわち国宝指定土楼と碑に記されていた。大きく堂々とした五階建ての土楼に入ると、正面に「進士」額を戴いた立派な祖堂がある。

 案内によると、この土楼は簡一族が住み、一八世紀前半の築造とあるから、二六〇年ほど経っていることになる。この地域の他の土楼とは異なり、やや山に接した形で建てられ、しかも沼地の上に建っている。松杭によって基礎を支えているとのこと。実際に祖堂の天井(庭)に降りると、ふわっと如何にも泥の上に浮いているという感じだ。築造の際に厚く重い版築の壁が沈み出し、大きくひび割れたと云う。それほど昔にできた正面のひびを今に至るまで埋めるなど補修の痕が見当たらないのも不思議。天井には陰陽と二つの井戸があり、陰の井戸は濁り、飲み水には使えない。ただ、陽の井戸の水は不思議に澄んでいる。今までに見て来た土楼とは格が違うといわんばかりに、堂々とした木軸の架構で、材も太く揃い、仕口まわりの細工も念が入っている。

 

 内部天井と井戸(和貴楼)

居住スタイルはどの土楼もほぼ同じで、大門から土楼内部の天井に入り、一階は厨房兼食堂、二階は穀物庫、三、四階は寝室となる。縦割に同じ家族が住み、各室を廊下と階段が繋いでいる。浴室や便所は一階か外にあり、寝室では廊下に置かれた瓶に溜められる。時にこれを下まで天秤棒でかついで降ろすために、階段は緩い勾配となっている。階段が延ばしやすい一階は階の高さがやや高く、二階以上は低く押さえられている。階段に手すりはないが、緩い勾配なので、老人にも昇降が比較的容易である。一、二階には外に面して窓はない。外敵に対する防御のためである。各階に六条ほどの部屋が二〇室ほどある。

 

 門庁にはいつもいい風が吹いている(和貴楼)

構造的には、外周を下部で一、五メートル、頂部で〇、七メートルほどの版築の厚い土壁で築き、それに梁の一方を突挿し、他方は木柱で受けるというかたちで部屋が築かれている。版築壁はその場所で取れる良質な赤土に砂と石灰、すさなどを混ぜて杵で叩いて固めたもので、一回に四〇cmほどづつ積み上げる。わが国には土塀の築造法として今日でも行われている。戸境には梁の上に日干し煉瓦を積み上げ、それに漆喰などを塗って仕上げているので、ほとんど隣室の音は聞こえない。また、この戸境壁が外壁のいわばリブとして構造的な補強となっている。(永定県の比較的大きな円形土楼には別の通路の外まである大きな隔壁が導入されているものもあった。)

 

 内部を見下ろす(和貴楼)

懐遠楼夕景

和貴楼の感激に浸っている暇もなく、県の重点的保存単位である「懐遠楼」に向かった。

東南を向いた正面(懐遠楼)

懐遠楼はおよそ一〇〇年ほど前に建設された円形土楼である。和貴楼と同様、材も仕事も上等で、保存も素晴らしい。次第に陽も傾き、夕方に近づいて来ており、すでにあちこちで夕餉の支度の光景が繰り広げられていた。食堂内部にも古くからの竈があるが、多くは外部の廊下や天井に置かれた流しや練炭竈で調理している。   

雨除けを設けた外の流しで食事の支度(懐遠楼)

懐遠楼には東西南北四ケ所の階段があり、その間に7戸の部屋があるので、全部で二八戸となる。現在、それだけの家族が居住しているかどうか確かめていないが、他の土楼にくらべて人が多い。円楼は方楼にくらべてどの部屋もほぼ同じ大きさで同様の位置関係にあるので、より平等感が強い。当然ながら、一族の間でも貧富の差が生じ、力の上下関係も存在するであろうが、外観からはほとんどそのような差は感じられない。それも大集団で共同して住むための知恵なのかも知れない。

 

 内部を見る(懐遠楼)

田螺坑土楼集落を歩く

 和貴楼や懐遠楼はいわば南靖土楼のスターであり、厦門からの日帰りツアーもあるので、容易に見ることができるし、十分にその価値はある。だが、それで客家土楼が代表できるかどうか。中国は広大で深い。そう遠くはない地域に多くの魅力的な土楼や民居集落があり、この旅行でわれわれが出会ったものだけでも、かなりの数になる。しかもそのどれもが他に替えがたい魅力を持っていた。この限られた紙面ではとてもそれらすべてを紹介できないので、以下では翌日の朝訪ねた田螺坑の土楼集落を紹介しよう。われわれの宿泊地書洋から一時間ほどのところにある村全体を保存対象とした、わが国で言う伝統的建造物群保存地区にあたる。ちょっとした峠に展望台があり、眼下にこの土楼群が臨められた。

 

 田螺坑土楼群

 この五座から成る土楼群の最初は中央の方楼の「歩雲楼」で一七九六年とある。一番新しいのは南端の楕円楼「文晶楼」で一九六六年だそうだ。すべて黄氏一族が住み、現在は一〇〇戸余り、五〇〇人ほどとのこと。

 

 田螺坑土楼集落を歩く

集落の内部を歩くと、峠から俯瞰した時の整然とした土楼の配置から受ける印象とはまるで違って、曲がりくねった坂道を進むごとに現れる風景に思わず脚を止めて眺め入る。車以前の、人間と牛が歩くだけの路が持っているリズムがある。同じような瓦屋根の、小さな軒が重なる光景ではあるが、大きな開口部を持つ家からなるわが国の集落とは随分違った印象だ。壁の強さから受ける景観の印象は、むしろ西欧の集落に近い。土壁を見せる外部と木に包まれた内部というコントラストが日本と全く違う。

 

 文晶楼内部

最南端の文晶楼に入る。比較的近年に建てられただけあって、明るく軽快な印象がある。広く開けられた天井空間と木割の細さによるというよりも、やはり楕円のプランがもたらすのびやかさによるものだろう。楕円楼はほかに例があるかどうか知らないが、およそ円楼にしても方楼にしても、門の正面に特徴的な部屋を配置するので、廊下を歩いていても、自分の位置を特定できる。楕円ならもっと分かりやすい。

 

 文晶楼二階廊下

廊下を歩くと、寝室の前を通る。それぞれの部屋は外壁側に小さな窓があり、廊下側に扉と無双格子のはまった窓とがある。多くの部屋は留守で、南京錠がかけられており、格子越しに内部が覗ける。つい覗き込むと、たまに中にいる住人と目が合う。プライバシーもあったものじゃない。外壁の窓もたいてい開け放しで、風をよく通している。なにしろ北回帰線あたりのことだから、暑くはなっても寒くなることはない。後日訪れた永定県の承啓楼で老人が「土楼は空気がいいので皆長生きする」と言うのも、よく風が通るということだろう。

土楼の住まいについて

土楼は、今日の目でみれば、一個の集合住宅であるが、血族集団の集まりだから、超大家族の大きな家とも取れるし、またひとつの集落とも見ることができる。ここでは皆、隠れようもなく、見、見守られる集団居住の日々を送っている。さぞかし窮屈なことだろうと思うが、果たして若い世代は外に出て、通常の住宅に住みたがるようだ。ただ、数百年続いてきた祖先とのつながりを守る独特の共同体意識は、容易にわれわれの推測のおよぶところではない。それは土楼の平面形が円か方かを決め、入り口の向きを決め、部屋数、階数を決め、井戸、排水の位置方角を決め、誰がどこに住むかなどなどあらゆるものの位置関係を定めている「風水」思想もまた同様である。

 

 河坑村土楼群

ただ驚くべきことに、われわれが見た中で最も古い十四世紀の土楼から、最新は一九七九年建設の土楼にいたるまで、六〇〇年以上もの年月を経ているにも拘わらず、その平面形から構造形式、階段や扉の細部までほとんど変わっていない。わが国でも、例えば箱木家のように室町期から伝わる千年家のような例もあり、確かに六〇〇年もほとんど変わらないような民家が今も存続している。しかし、それは際立った庄屋クラスの富豪の家であり、庶民を含む集合住宅ではない。ということからすれば、土楼の住人(客家=ハッカ)もまた、見事な土楼を築き居住することで、氏族全体としての誇りと共同意識を保とうとしたと言えるかも知れない。すべての部屋が公平にあり、隠れようもなく常に顔を合わせる共同住宅こそ、誇り高く共に住まう特別な共同態の居住形態であるのかもしれない。

(写真と文 さのはるひと)