音戸山通信 2004/03/31

カンボジア旅行記より 第二日目

アンコール・トム バイヨン寺院

 早朝のアンコールワットの見学の後ホテルに戻り、朝食を済ませて午前中はアンコール・トムの見学である。アンコール朝が最盛期を迎える12世紀後半、熱心な仏教徒であるジャヤヴァルマン七世は新たに3km四方の環壕城壁都市を築き、その中心に仏教寺院であるバイヨンを置いた。バイヨンから四方に街路が伸び、東西南北の門と北西に位置する宮城の正面に伸びた街路が東に門を持つ。ヒンドゥー教のアンコール・ワットが西に向かっているのに対し、バイヨンと宮城は東に向けられている。

アンコール・トムを廻る壕は周長12kmを超える

南大門は四面像と像で囲まれている

南大門の前両側には大蛇ナーガを引く阿修羅(東)とデーバ(西)が並ぶ

南大門北面

バイヨン寺院東正面テラスより全景を望む

 バイヨン寺院は二重の回廊と16の塔堂に囲まれた高さ45mの中央祠堂によって構成されるとあるが、全体の構造はなかなか掴みにくい。背の低い第一回廊を抜けると、正面に第二回廊、左右に経蔵がある。ここから先はとても大人数を処理できる空間ではなく、大王の菩提寺としてはいささか施設計画的には問題がありそうだ。おそらく、通常はせいぜいこの回廊の間の空間で儀式がなされたのであろう。

第一回廊の東門と第二回廊との間の空間 正面は経蔵

第二回廊入り口と中段部分 驚くほど狭いのは設計が悪い?

上段に上がると四面塔たちが真直に立つ

みな柔和な表情であるが、微妙に違うところがいい

彫り手は大勢であったろうが、実によく質を揃えている

 バイヨンを訪れた人たちは有機的に並ぶ塔の四面に彫られた菩薩に驚き、見入る。真夏の太陽が上方から照りつける中ではなかなかゆっくり鑑賞していられないかもしれないが、夜に、月明かりに浮かび出る大きな顔はさぞかし存在感があるだろう。十字形に並べられた塔の顔たちは、一堂に揃って圧倒するというのではなく、中央の祠堂を廻って歩く者に次々と微笑みをもって現れるように配置されている。杏形の眼、丸い鼻、大きく厚ぼったい唇など、ギリシャから伝播し、西域やインドにもたらされた容貌とはまったく違ったアジア的な容姿であるが、その何と柔和で美しいことか。大乗仏教の慈悲の心を説くものとして実に説得力があるように思う。

中央軸線上にはわずかに内部的な空間がある  個々の塔には小さな祠堂が設けられている

バイヨンの女神たちはアンコールワットのものよりも彫りが深く、人間的だ

玄関を守るカーラはインドネシアで見たものに比べると控えめ  ペディメントに飾られた仏たちもよく見ると皆表情がある   

第一回廊の内側、北よりバイヨンの東側を望む

 ここでは省略するが、バイヨンのレリーフもまたたいへんな見物である。様式的にはアンコールワットの方が整っており、美しいと見られるが、何と言っても題材が庶民的な生活を写しているものだけに、味わい深い。ガイドの説明によると、バイヨン寺院の数多くの尖塔は、当時の国の数を反映しており、それぞれの祠堂には国元の神様を祭っていたという。諸国の安泰を巡礼し、守護するというかたちがそのまま建築化されたと見れば、一見単純そうで複雑なバイヨンの平面プランも肯けるものがある。

 バイヨンを北に出て、宮城の正面に設けられた象のテラスの広場に出る。偉大な王の王宮なのだから、さぞかしと思いきや、立派なテラスがあるだけで、その背後に隠れて王宮の門がある。しかも王宮に降りる立派な階段もない。裏手という雰囲気である。ついに宮城そのものを見ずに終わったが、どのようなものであったろうか。象は言うまでもなく、最も強大で賢い王の象徴であったろう。象のテラスの北半分のテラスはガルーダによって支えられている。ガルーダはヴィシュヌ神の乗り物であるから、王はここでもヴィシュヌに比せられていることになるわけだ。

バイヨン寺院の北側、象のテラスから南東を望む

象のテラスより東を望む 正面1.5km先に勝利の門があるが、樹に覆われて見えない

これが王宮に通ずる門のようだ

 象のテラスは、前の広場と一体で、広場は東をプラサット・スル・プラットと呼ばれる一列に並べられた小塔群で限られている。この広場は閲兵場でもあったと。王宮とテラスの中心とを結ぶ軸線は真直ぐに東に伸び、「勝利の門」と呼ばれる凱旋門につながる。バイヨン寺院から東に平行して伸びる軸線街路は、東門へとつながるわけだが、「死者の門」と呼ばれている。戦いから亡骸となって帰った者は寺院へと向かい、弔われるという意味だろうか。あるいは東の方に、埋葬の墓所があったのだろうか。

(文と写真 さのはるひと)