「 傘 」   黒い傘が倒れた。その音は閑散とした車内に響き渡り、一瞬、わずかな乗客たちの注意 を引きつけて消えた。紫(ゆかり)は、たたみかけのまま床の上に転がった傘を拾おう と身をかがめた。  プラスチックの柄を持ち、濡れて床に貼り付いた布地をゆっくりと引きはがす。空いた 座席に再び立て掛けられた傘の表面には、細かないくつものほこりが付いていた。紫は思 わずため息をついた。 (これからどうしよう)  電車に乗ってから今までの15分間、紫は考え続けていた。  こんな日に一人きりで、いったい何処に出かけたらいいんだろう。  でも、家には帰りたくない。家に帰って残りの半日も怠惰に過ごす、という選択肢も紫 には魅力的に思えたが、そうするのはなんだか悔しかった。  何のために仕事を休んだのか、という問いは思い出さないようにしていた。駅に着くま でにさんざん考えたことだからだ。休む、と言ってしまったものは仕方がない。あの瞬間 に迷いはなかった。だが、せめてこの雨がやんでくれたら、と紫は思う。  うつむきがちになる顔を挙げ、紫は正面の車窓を流れる濃灰色の景色に目をやった。似 たような光景を近頃よく見るような気がする。紫は少しの間考えてみた。  わかった。 (砂嵐……)  最近の紫は深夜に、放送が終わるまでテレビを見ていることが多かった。気がつくと画 面が砂嵐になっている。リモコンに手を伸ばし、適当にチャンネルを変える。しばらく見 ているうちに、また砂嵐。新聞配達のバイクがアパートの下の道路を通る頃まで、それは 繰り返される。 (あたし、孤独(ひとり)に弱いんだ……)  いつからこうなっちゃったんだろう、と紫は思う。一人きりでいることが苦手になった のはいつからだろう。そして、雨降りの午後が嫌いになったのも。  高校生の頃までの紫は、ひとりで街を歩くのが好きだった。時々「寄って行く所があ る」と言って誘いを断る紫のことを、友人達は、おそらく彼氏とでも会うのだろう、と話し 合っていた。その推測が当たっている時期もあったが、それでも紫は、一人でする散歩が 好きだった。授業をさぼって街に繰り出し、洋服を見て歩いたり、喫茶店で本を読んだ り、時には大きな川の土手で陽が沈むまで寝ころんでいたこともある。  雨の日も、紫はかまわず街に出た。むしろ雨の日を選んで、と言った方が正しいかもわ からない。その頃の紫には、こだわって集めているものがあった。  傘である。  玄関先の傘立てではなく、紫の部屋のクロゼットに、それは並べられていた。コレクシ ョンの最盛期だった高校二年の夏には、その数は実に30本を越えた。家にいる時、暇さえ あれば紫はクロゼットをあけ、おろし立ての色鉛筆のように整然と並ぶ傘たちを飽きるこ となく眺めていたものだ。乾かされ、丁寧に折り目をつけてたたまれたそれらは、単なる コレクションではない証拠に、雨の日には次々と外へ駆り出されていった。  まるで着て行く服を選ぶように、その日の気分で紫は持って行く傘を決めた。皆が憂鬱 げに暗い空を見上げる雨降りの日、そんな日が紫にとっての“お散歩日和”だった。  ちょうど今日のような日だ、と紫は今更ながらに気がついた。朝、屋根をたたく雨音で 目覚めた途端、心が揺れに揺れて、クロゼットを開くのが待ちきれなくなってしまうの は。  もし高校生の紫が今ここにいたら、『せっかくの雨の日なのに』と、今の紫を叱るに違 いない。 (あたし今朝、雨が降っていることにも気がつかなかったんだ……)  紫はぼんやりと今朝のことを思い出した。  目覚めると、紫は寝汗をかいていた。ベッドの中の湿度が異様に高かった。  ベッドから身を起こし、紫は枕元の時計を見た。あと7分で会社が始まる時刻だった。 紫は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。表情も変えずに、紫は再び枕に顔を埋めた。その ままの姿勢で10秒数えてみた。  紫は少しだけ顔を上げた。鼻と口はまだ枕に押しつけたままだ。目の前に電話がある。 紫はゆっくりと手を伸ばし、ボタンをプッシュした。  受話器は置かれたままで、本体のスピーカーから声が流れ出して来た。  時報によると、現在時刻は9時58分30秒。  紫は何だか死にたい気分になった。このまま眠るように死んでしまえたら、どんなにし あわせだろう、と思った。電話から流れる時報の声がお経のように聞こえてきた。  時報が10時ちょうどを告げると同時に、紫は跳ねるように身体を起こし、ベッドの上に 正座した。現実逃避をあきらめたのだ。  フックボタンを押して一度通話を切り、今度は受話器を持って番号を押した。この前に 同じことをしたのはいつだろう。一週間前か、半月前か、それとも3日前だったか。相手 が出るまでの間に咳払いをして、まだ寝ぼけている喉をたたき起こす。 「はい、庶務課です」  聞き慣れた声が受話器の向こうから響いた。 「あの、もしもし」 「あれ、紫さんですか?」  出たのは、隣の課に勤めている、紫の2年下の後輩だった。紫はこの番号にかければ彼 女しか出ないということを知っていた。彼女はなぜか紫のことをいたく気に入ってくれて いた。それもあって、その番号は紫の臨時欠勤連絡の専用回線となっていた。 「タカハシさん? あのね、いつも悪いんだけど……」 「またお休みですか? 今月に入ってもう3回目ですよ。ちょっとペース早いんじゃない かなあ」 「ごめんね。いつもヤな役押しつけちゃって」 「いえ、そのことは別にかまわないんですけど。どうせ、総務課はすぐ隣りだし。でも先 輩、まさか会社辞めたりなんかしませんよね?」  紫はその言葉にはあまり驚かなかったが、慌てていいわけをする自分に少し驚いた。 「大丈夫。最近ちょっと疲れ気味でね、休みがちになっちゃっただけよ。それじゃ、課長 によろしく言っといてくれる?」 「はい。それじゃお大事に」 「ありがとう。じゃあね」  受話器を置くと、紫の気分は急に軽くなった。 「どうした?」  いつのまにか目を覚ましていた浩之(ひろゆき)が、紫の横から声をかけた。 「ん、なんでもない。シャワー借りるよ」  言って、紫はタオルケットを引きずりながらベッドから降りた。床に落ちている服を拾 いながらふとベッドに目を向けると、浩之は壁の方を向いてまた眠りに入ったようだっ た。  紫はバスルームに入り、内鍵をかけた。  少し熱めのシャワーに打たれながら、紫は今日の予定について考えた。  たしか浩之は、今日は昼過ぎまで家にいられるはずだ。昨日の夜そんなことを言ってい た。どうやらそれまでは、浩之の部屋でゴロゴロしていることになりそうだ。  なんか嫌だな、と紫は思った。  最近、紫は浩之と何もせずに二人きりでいるのが気づまりに思えて来ていた。浩之の、 いや自分自身さえも知らないうちに、気持ちが微妙に変わりつつあるのを、紫は感じてい た。かといって一人でいるのは寂しいし、逆に晴れた日に二人で出かけたりすると、この 上もなく幸せに感じた。  でもそれは、浩之が自分の恋人だからと言うだけの理由なのかもしれない。なぜなら今 の紫には選択肢がない。浩之しかいない。紫が自分でそう決めたのだ。いつの頃からか紫 は、こんなふうに考えるようになっていた。あれこれ迷うより、どれかひとつに決めてそ れを絶対のものにしてしまう方が、よほど楽なのだ、と。  きゅっ、と音を立ててシャワーを止める。しばらく残る水音に混じって、かすかに響く 電話の音が聞こえた。  紫が昨日と同じ服を着けバスルームから出ると、香ばしい匂いがした。キッチンの方を 見ると、浩之がまた目玉焼きを作っていた。浩之は朝食にはいつもこれしか食べない。ラ イスとパンのどちらかが選べたり、ときどきベーコンが乗るなどのヴァリエーションはあ るのだが、これ以外のものを朝食にしているのを紫は見たことがない。だからこの部屋の 冷蔵庫はいつも玉子でいっぱいだった。 「あ、起きてたんだ」  と、紫は声をかけた。浩之のフライパンを返す手つきに、何となく急いでいるような気 配を感じた。 「ユカリ、おまえは会社行かなくていいの? 俺はこれ食ったら出かけるけど」  髪を拭いていた紫は、浩之の言葉に驚いて顔を上げた。 「え、でも今日は直接得意先の方へ行くから、昼過ぎに出れば間に合うからって、昨日言 ってたじゃない」 「悪いけど、予定変更ってやつ」  浩之はフライパンを火から下ろし、両目がつながった目玉焼きをテーブルの上の皿によ そいながら続けた。 「前に同じとこに納めた製品が、昨日故障したらしい。だから今日の俺は苦情処理係と修 理屋と営業の三役をこなさなきゃならなくなったわけ。あ、それ先に半分食ってていい よ」  浩之はワイシャツを着て、腕時計をはめてから席に着いた。ふたりはしばし無言のまま 向かい合い、目玉焼きとご飯を食べた。 「それじゃ、行って来る」  浩之は玄関のドアを開けた。雨が降っていた。紫は、今朝起きて初めてそれに気づい た。浩之は、二本ある黒い傘のうち長い方を、傘立てから引き抜いた。紫は、自分の髪の毛 がまだ濡れているのが気になっていた。 「部屋を出るときは鍵かけて行くこと。それとユカリ、ちゃんと会社行けよ」 「わかった。行ってらっしゃい」  紫は無意識のうちに手を振っている自分に気がついた。浩之はそのまま出ていった。会 社を休んだことはとうとう言い出せなかった。  そのあと紫はテレビをつけたり消したりしながら2時間半くらいを部屋で過ごし、2時 少し前に部屋を出た。雨は、まだ降り続いていた。だから紫は、一本だけ残った黒い傘を 持って駅に向かい、とりあえず上りの列車に乗り込んだ。そして今も、そこにいるのだっ た。 (この傘、嫌いだわ)  紫は浩之の傘を見つめ、思った。こんなのは傘を忘れてお金もない時に、その辺のコン ビニで間に合わせに買うもので、朝から雨が降っているような日にさす傘じゃない、と。 (昔のあたしだったら、こんな傘をさすくらいならびしょ濡れのまま、家まで走って帰っ ただろうな)  列車が少し揺れた。紫は傘を倒さぬように押さえ、自分の方に引き寄せた。何気なく車 内を見まわす。雨の昼下がり、乗客はまばらだった。ふと、斜め前の席に座っている若い 男と目が合った。一瞬の間があって、男はすぐに目をそらした。そういえばさっきもこっ ちの方を見てたっけ……大学生くらいかな、と紫は思った。 (あたしもあれくらいの頃は、まだよかったのにな)  学生時代の友人達からの結婚式の招待状が、近頃毎月のように届く。大事な決断をしな ければならない時期に来ているのかもしれない、と紫は思う。ただ不安なのは、年を重ね て行くのに連れ、自分の決断力が鈍ってきているように思えることだった。  周りの人々は紫を評して「落ち着いている」とか「自立している」などと言う。友人や 後輩から、時には先輩からも頼りにされることが少なくなかった。 (ほんとは全然自立なんてしてないのに……。雨の日に一人で出かけることも出来ないん だから)  でも自立ってなんだろう、と紫は思う。なんでも一人で出来ること? すごく寂しいと きに一人でいられること? (きっとそれは違う。そんなの、すごく不自然よ。でも、寂しい時にいつも人に頼ってば かりはいられない)  軽いめまいがする。浩之と一緒にいるときには、ずっと忘れていた感覚だ。  列車が駅に止まった。扉が開き、数人の男女が乗り込んでくる。紫が降りたことのない 駅だ。不意に思い立って、紫は電車を降りた。                    浩之の部屋に行くときに何度も通った路だが、ここで降りるのは初めてだった。辺りを 見回しながらゆっくりと歩く紫を、背の高い男が追い越して行った。すれ違いざまに横顔 が見えた。誰かに似ている、と紫は思った。それが誰かは思い出せなかったが、紫が昔好 きだった先輩か誰かのような気がした。  時刻は午後の3時に近づき、駅には、また人の流れができ始めていた。すぐに紫は男の 背中を見失った。紫は過去に感じたことのある、不思議な感覚を思い出した。  人の流れをかき分け、紫が自動精算機に並ぶと、列の前方に男がいた。紫はふと、自分 が偶然によって徐々に洗脳されているような気がした。さっきから軽いめまいが止まらな かった。  改札を出た紫は、男の少し後ろを歩いていた。駅ビルの中のデパートへと向かう通路を 歩きながら、紫は、自分がとても積極的な気持ちになっていることに気づいた。このまま だと、この人に声をかけてしまうかもしれない。そう思った。  紫と男を隔てていた人波が割れ、男の全身が見えた。落ちついた感じのするモスグリー ンの傘を、持っている。紫は、一瞬傘に見とれた。そして立ち止まった。  紫は傘を、浩之の黒い傘を電車に置き忘れて来たことに気がついた。  紫は思考を止めた。取りに戻るつもりはなかった。紫は再び歩きはじめた。右側に駅ビ ルの入り口が見えてきた。男はそちらへは行かずに、外へ出るようだった。紫は進路を変 えようと、次第に増えつつある人波にあらがった。  そのとき、紫の目に、あざやかな色彩の奔流が飛び込んできた。  それはデパートの入り口に並べられた、固くたたみ込まれたままで雨を待つ幾輪もの花 のような、傘の群だった。  色彩が、めまいが、頭の中を駆け巡る。  そして、紫の頭に3つの選択肢が浮かんだ。   その中に、ひとつとして無駄なものはないように思えた。  紫は選んだ。それは4つめの選択肢だった。紫は、迷わず傘売場へと向かった。    グリーンのチェックの傘を揺らしながら、駅の構内を遺失物の受付所に向かって歩きな がら、紫は考えた。  この世に絶対のものなんてない。  ただ、雨の降る朝にクローゼットを開けて、色鮮やかに並ぶ傘を選ぶような気持ち、そ れを大切にしたい。そう思った。