池袋の風
いつものように始発待ちの列に並ぶ。
本日のポジションは前から4番目、
安全圏内と言っていい。
並ぶ時には列を選ぶ。
鈍そうなヤツ、無駄に身体のでかいヤツ、
うるさそうなヤツのいる列は避ける。
生存競争とは絶え間ない判断の連続なのだ。
この場合、自分より後ろは気にしない。
というより、気にする必要が無い。
気にしたところでどーにもならない。
後ろにその目標、つまり着席の障害となるような存在が、
たとえば社会的に譲席の対象となるような人々、
老人、病人、妊婦、身障者の類いが位置した場合、
それはもう運が悪いと思って諦めるしかない。
それに気付いて別の列に移ろうにも、
安全圏は遥か彼方、
賽は既に投げられてしまっている。
次の始発を待つのもナンセンスである。
時間的な問題もあるが、
歴史はなぜか皮肉な繰り返しかたを好むから。
頼むから前に立つな!
これが率直に思うところである。
こーゆーことを言うと嫌がられるだろうけどね。
ミ☆
有楽町線の車両のシートは7人掛けである。
説明の都合上、1〜7の数字を付けてみる。
並んだドアに一番近い席を1とする。
ドア付近、1の席は合計で4つということになる。
さて、和光市駅での待ち行列は2列である。
ドアが開くと、手前の左右、奥の左右に向かって流れ、
手前の両端、奥の両端の順で席が埋まっていく。これが基本。
残りの席、2〜6にはこれと言った法則は無いように見える。
乗り込んだ人間の位置関係、スピード、空席の状態など、
その系は複雑であり、臨機応変の対処が要求される。
3〜4行目の安全圏内でも、
ぼーっとしていると席を失うこともあり得るのだ。
ミ★
前から4人目、右側であった。
1人目、右手前の1の位置、
2人目、右奥の1、
3人目、右奥に向かったのを確認、
4人目、右手前を狙って進入。
1と7は既に塞がっていた。
2なら確実に座れる。
が、3へ向かった。
これには理由がある。
先に書いたようにシートは7人掛けなのだが、
実際に7人座ると隣の人間と密着してしまうのが普通である。
身体の小さめの人が7人なら問題ないが、
例えばガッチリ系の成人男性×7には少々狭すぎる。
また、見知らぬ人間と引っつくことを嫌がる、
世間知らずのアタマの悪い、言わば田舎者にとっては、
これは我慢ならないことらしい。
とまれ、通常は7人座れるよーなメンツになるので、
そこに6人では中途半端な隙間が空いてしまい、
なによりも目の前で座っている人達の視線が痛い。
おめーがもー少し詰めればもーひとり座れるんだよー。
ったく、わかってんのかー、
おりゃーゆーべ2時間しか寝てねーんだよー、おー?
なんて内心ぶつくさ言ってるかどーかは知らないが、
多少とも気まずい雰囲気が漂うのは避けられない。
たとえ自分は7人座れるように座っていても、だ。
その予防として3の位置に座るのである、2寄りに。
本当は4が最適ではある。
1、4、7が埋まれば、
さすがに残りの2人分×2に1人ずつ、
ということは無いだろう。
7人用に5人なら、席空けてちょうだいな、ってな表情で、
すいませ〜んと言いつつ割り込むのは難しくない。
が。
真ん中に座るのは嫌いなのだ。
それ以外の何者でもない。
気分の問題である。
それゆえ、気持ち2寄りに3に座る。
4〜6は3人用に十分なスペースが確保され、
誰かが2に座った時点で尻の位置をずらすので、
結果的に元の3の位置に戻ることになる。
今朝もシナリオ通りに事が運んだ。
途中まで、は。
ミ☆
3に座った。2寄り。一安心。
目の前で繰り広げられる席取り競争をよそに、
文庫本に挟んだしおりを探す。
右手、4に誰かが座る気配。
ちらと眼球を動かすと、おっさん。
手には新聞、4つ折り、よし、合格。
と、左手から強烈な圧迫感。
右にズレるのは予定のうちだが……むむむ!
見ると、やっと1人入れる程の幅に、あうち、2人!
おいおい、物理的に無茶だろう?
が、しかし!
直後に展開されたその領土拡張行動は峻烈を極め、
具体的には1と3に座った人間が直接の害を被り、
4以降の人々にその余波が伝わっていった。二次災害である。
こんなことをし得る人種は限られている。
そう、いわずもがな、ある種の中年女性である。
ミ★
やはり無理がある。
仮に1寄りのオバハンを ―― そう、
こんなことが可能な生物がオバハン以外に存在しない、
とまれ、それを2A、3寄りを2Bと呼ぶことにしよう。
思わず目を見張ってしまった数秒後、
2Aもさすがに羞恥心をつつかれたのか、
あらやだ、恥ずかしいわ、ほほほ、こんな座り方で
なんてことを3パターンほど呟いた。
その視線は飽くまで2Bに向いていたが、1や3、
周囲の人々へのメッセージであることは間違いなかった。
ここまではとりあえず許そう。
曲がりなりにも、尻の3分の2が浮いていようとも、
7人掛けに8人座ってしまったのだ、座れたのだ。
これは、考えようによってはめでたいことである。
この計算でいけば1両あたり6人、
10両編成なら60人の人間が着席できることになり、
かなりのエネルギー節約が期待できる。
ま、もっとも、個人レベルならそれでも良いだろうが、
乗客の密度が上がり密着も強くなるので、
結果発熱は増大し、車内が蒸し暑くなる。
と、より強力な冷気が吹き込まれ、
その分電力の消費も増加する。
総合的にどちらに傾くかは分からないが、
少なくとも、混んだ電車は嫌だ。
ミ☆
電車がホームを離れて30秒くらい後だろうか。
さすがに2Bのじわりじわりとした蠢動はやみ、
こちらも徐に本の世界へと入っていった……その時。
2Aが上半身をこちらへ向けた。
最初から斜めの尻、腰、首、顔面を曲げ、
ちょうど私の顔に正対する位置で静止した。
これ以上は骨格と筋肉と脂肪その他の都合で無理だったらしい。
更に眼球を動かして2Bを見る。
そして数瞬後、恐れていたことが現実となった。
いや、小説よりも奇なり、予想外のイベントが。
ミ★
あろうことか。
愚痴り始めやがった。
毒にも薬にもならないオバハン同士の世間話なら……、
いや、これもやはり大きく許容範囲を飛び越えるが、
なんてこった、愚痴である、しかも早朝の通勤電車で。
別に通勤電車が特別ってワケでもなかろうが、
むー、頼むから勘弁してくれぃ、その、
陰々滅々湿度満点じめじめじめじめ怨念波動は、よぉ。
ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ、
聞こえそうで聞こえない、
可聴範囲の境界付近を蛇行する耳障りなナメクジ音波。
しかも彼女……ああ、これは単語に対する冒涜であろう、
そのオバハンの口は、真直ぐこちらに向いているのである。
そして、その延長線上には、なんてこった、私の耳がある。
直撃である。ストライクゾーンど真ん中である。
冗談でなく狂気を覚悟した。
ミ☆
で、よせば良いのに2Bもそのダミ声で相槌を打ち、
適当なタイミングでそれっぽい言葉を投げ続け、
凶悪な騒音公害メビウスリングに荷担する始末。
この2B、声を別にすれば良妻タイプかもしれない。
世間知らずとゆー瑕が余りにも大き過ぎはするが。
経験から、池袋での下車が期待された。
私の通勤ルートのほぼ中間地点である。
そこまでならなんとか我慢できるに違いない。
手元の文庫本は最初の駅に着く前に閉じたままだ。
席を確保してからは1ページも読んでいない。
歯を食い縛りながら、
コブシを握り締めながら待つこと十数分、
永遠とも思われた時は流れ、池袋に到着。
が、しかし ―― 。
ミ★
池袋のホームは静かだった。
敗北を認めた私は黙って席を立ち、途中下車。
ドアの閉まる音を背中で聞きつつ、
邪気でも払うように2〜3両ぶん歩き、
次の電車を待つ列を長くした。
ああ、女は恐い。