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愛宕の山


  勤め先の近所に山がある。

  名前は愛宕山。
  東京都は港区、芝公園の近く。

  2年ほど前、
  何かの間違いで引っ越しの候補地に挙がった所でもある。

  最近、昼休みは近所をふらふら歩く様にしているで、
  近所の様子はだいたい判った。
  まぁ、物件に辿り着く前に却下が確定したのは間違い無かろう。
  そーゆー所である。

  でも案外、ちょっと裏通りに入ってみると、
  あれ? ってな具合の、懐かしめの風景も残っている。

  場所は、大雑把にいえば皇居と東京タワーの間あたり。
  東京のど真ん中といっても過言ではない。

     ミ☆

  東京の中心ってどこなのさ?
  とは、隣の中国人技術者L氏の質問。

  うーむ、と唸って、
  行政の中心は都庁があるから新宿、
  鉄道ならやっぱ東京駅か、
  道路交通は、日本橋なのかな、基点だけど。

  ふーん。

  で、日本の中心とゆーのなら、
  とりあえず永田町、ほんで皇居あたりが、
  まぁ、それなんじゃないの、いちおー。

  ほー。

  地図思い出してみんしゃい、
  これってみんな皇居の周りでしょ?

  うん。

  だから、さ……。
  なに?

  ミサイルぶち込むなら ( 以下略 )

     ミ★

  それはさておき愛宕山。

  山と呼ぶには少々小さい。
  標高は確か26mほどで、
  広辞苑では丘陵と表現されてしまっている。

  どの程度を山と呼ぶのかは知らない。

  きっとそれなりの定義があるに違いないが、
  固有名詞なのだから、いまさら、であろう。

  因みに23区内では最も高い山なのだそうだ。

     ミ☆

  ところでこの愛宕山。
  実は読み方が分からない。

  あたごさん、あたごやま。

  どちらかなのは確かなのだが。

  因みに実家の近所にも同名の山があり、
  こちらはもう少し高そうな気がするが、
  ……って、ローカル過ぎる。

  人間の目というの変なもので、
  同じ長さでも縦方向は長く感じるのだそうだ。
  これ、うまい説明は見つかっていないらしい。

  たとえば4階建のビルを見上げたとする。
  天井までの高さが2.5mで、
  間の床の厚みを1mとしてみる。

  と、天井も入れると合計で14mとなる。

  たった14m、か、14mも、か。
  百聞は一見にしかず。

     ミ★

  東京での混乱は、思えばこれに起因するのかもしれない。
  いや、目の話ではなくて。

  あたごさん、あたごやま。

  どちらも使っていたような気がする。
  というか、使っていた。

  昔通った小学校はその山懐にあり、校歌にも顔を出している。
  小さい頃の6年間ゆえ、さすがに覚えて……いないや。
  半分くらい忘れている。

  のはともかく、
  「 あたごのやま 」という歌詞があるのは確かだ。

  けど、なんの答えにもなっていないな、こりゃ。

     ミ☆

  通勤途中、それなりに探してはいるのだが、
  ルビが振られているとか平仮名表記とかは、
  どーゆーわけかサッパリ見かけない。

  住居表示も愛宕どまりで、
  その下の「 山 」の読み方が分からない。

  広辞苑を開いてみた。

  ら、ちゃっかり載っている。
  実はそれなりに有名な場所なのだ。

     ミ★

  東京のは「 あたごやま 」だそうだ。

  のは、というのは、京都にもあるからだ。
  京都のは「 あたごさん 」だそうだ。

     # もっと沢山あるのは間違いない

  なるほど、と思いきや、
  よくよく愛宕山の項を眺めてみると、
  結局、どちらでも良いらしい。

  以下、広辞苑第5版より一部引用。

    1. あたごさん
      京都市北西部、上嵯峨の北部にある山。標高924m。
      山頂に愛宕神社があって、雷神をまつり、
      防火の守護神とする。あたごやま。

    2. あたごやま
      あたごさん。東京都港区芝公園北の丘陵。山上に愛宕神社がある。
      社前の男坂の石段は曲垣平九郎の馬術で有名。
      もと東京中央放送局があった。

  とのことである。

  因みにその放送局とやらは、
  現在はNHKの放送博物館になっている。

     ミ☆

  さて、次はその男坂である。

  といっても、車田正美の漫画ではない。
  未完だったと思うが、完結したのかな?
  ってのはどーでもいい。

  急坂なのである。

  鳥居をくぐって階段を見上げると、
  思わずその場で固まってしまう。

  石段を上っているだけでも恐い。

  これで上から突風でも吹き降ろしてきたら、
  などと考えると、なかなか、涼しくなれる。

  多分100段もないはずだが、これが10倍もあったら、
  途中で気が滅入って遠くの空でも眺めてしまうかもしれない。

  いや、振り返るだけでも恐いのだが。

     ミ★

  で、この激坂を馬で駆け上ったというアホウがいたらしい。

  以下、広辞苑から引用。

    曲垣平九郎
      江戸初期の伝説上の人物。馬術の達人。名は盛澄。高松藩士。
      1634年 (寛永11) 、江戸愛宕山の男坂の石段を馬で駆け上り、
      梅花を手折って、将軍家光らの賞賛を博したという。
      講談「 寛永三馬術 」などに脚色。

  歩いて上るのもキツい階段なのだから、
  馬で、というはの、もう狂気の沙汰であろう。

  この項目を読む限りフィクションの気配が強いが、
  まぁ、どーでも良いことの部類に属するので、気にしない。

     ミ☆

  なんとなく似たようなのが三国志にもある。
  関羽が、顔良だか文醜の首をとって曹操に酒を賜った話である。

  正史だか演義だかは調べていない。
  というより、あそこまで古い話になると、
  事実か創作かなどは、これまたどーでも良くなってしまう。

  反三国志の序文か何かだったと思うが、
  中国 ( には限るまいが ) の史書というのは、
  結局は勝った側の編んだものであって、
  著しく客観性の乏しいものなのだ云々とある。

  それは確かに一理あるのだが、
  作者が真実とする反三国志の内容、
  だからってあれはないだろう(笑)

     # 内容は一応伏せときますね

     ミ★

  会社の中国人技術者の1人にY氏という人がいる。
  正確にはよその所の派遣社員なのだが、それはそれ。

  どーゆー教育を受けたのか、
  って、まぁ、この辺はあまり突っ込みたくないのだが、ともかく、
  中国の史書、あれが全て真実であると信じて疑っていない。

  彼は言う、
  あれらを記した文官達には一種独特の倫理があり、
  また相互監視も厳しかったので、
  偽りを記すことが不可能であったのだ、と。

  思わず「 アホか?! 」と叫んでしまった。
  いや、それほど大きい声ではなかったが。

  何度かアタックを試みるも外堀にも近づけず。
  本人に自覚がないのなら説得も無駄だろうと判断、撤退。

  恐いや。

     ミ☆

  で、愛宕山の男坂。

  階段脇に看板があり、
  どーゆー意味か「 出世坂 」と書いてある。

  上り難し、ってことに引っ掛けているのだろうか?

  ま、それはそれとして、
  問題は帰り道なのである。

  標高は30mにも満たず、
  先の例では7階建てくらいのビルに相当するのだが、
  数段先までの石段しか見えないので、
  気分的にはその屋上で地上を見下ろすのと大差はない。

  ほんでもって、
  今度はこの坂を下りなければならない。

  最上段に立ち、地上を覗き込んでみる。
  と、立ちすくむ、足が、震える。

  義経ってのは凄いヤツだったんだなぁ、と、
  なぁんとなく思った。

  紙一重なんて単語が脳裏をよぎったりもしたが。

     ミ★

  ところで出世坂。

  上り方向はともかく、下り方向。
  下り難し、なのか、転げるように落ちる、なのか。

  ま、いいけど。

  因みに。
  社殿の裏側には車でも行き来できる舗装路もあるし、
  もうすこし上り下りの楽な階段もある。

  考え過ぎるのもあれだが。

     ミ☆

     ミ★

     ミ☆

  さて、これ以降は後日談のようなもの。

  気になったので、
  軽い取材気分で愛宕山へ行ってみたのだ。

  正面の男坂、石段は86段。
  石段一つあたりの高さは25cm前後で、
  身近にあるものより少々高めである。

  他にも女坂、新坂というのもあるのだが、
  こちらは特筆するようなものは見当たらなかった。

     ミ★

  曲垣平九郎伝説の真偽は定かではないが、
  実際に馬で上ることは可能で、明治以降だが、
  そーゆー記録が残っている。

  境内にはその曲垣が手折ったという梅があり、
  平九郎手折りの梅、なんて看板が立っている。
  植物はいたわろうね。

  で、この件で家光に大いに褒められ、
  日本一の馬術の名人などと呼ばれるようになったので、
  それに因んでの出世の坂、なのだそうだ。

     ミ☆

  場所が場所だけにそれっぽい話も多い。

  たとえば幕末、井伊直弼を襲撃した桜田門外の変。
  その水戸浪士達はここに集結し、成功を祈願し、
  静かに雪の中へ散っていったとのこと。

  また、勝と西郷がここで江戸の街を見渡し、
  江戸が焼けるのはしのびない、などと話しつつ薩摩屋敷へ向かい、
  それから無血開城の会談が行われたとのこと。

  26mとはいえ、近郊では唯一の山であり、
  皇居、いや、江戸城が、その町並みを従えて、
  ある時は轟然と、ある時は黙然と、またある時は不安げに。

  創立は徳川家康、1608年とのこと。


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