1999年の夏休み 後編
荒川が削ったとおぼしき谷間をひた走る。
目指すは道の駅・大滝温泉である。
# それにしても、なんて直球勝負なネーミングであろうか
平均斜度は、体感でおよそ3%といったところで、
とにかく、ヒタスラの上りであった。
力尽きては小休止、これを繰り返すこと数回。
そのたびに地図を引っ張り出して現在地を確認し、
目的地までの距離を測って、ここ数kmの平均時速で割ってみる。
肩で息をつきつつ溜め息。
谷間では日没が早いのを忘れていた。
既に太陽は視界にはない。鋭鋒の向こう側である。
惰性で走り続ける。
ペダルは、もはや回せていない、踏んでいる。
腰を浮かせ、全身の体重をもって、
一歩一歩、階段でも登っているような気分。
ふと視線を上げると、目的地を記した看板が目についた。
矢印は……上ではなくて左を差している。
む、着いた、の、か。
ミ☆
施設案内の看板の前に自転車を止める。
所狭しと絵や文字が並んでいるのだが、
脳ミソがそれを有意信号として解釈してくれない。
少しして。
目の前のアラビア数字が温泉の営業時間であることに気が付いた。
右腕の時計に視線を落として数字を比較する。
……って、終わっとるやん。
しばし呆然。
夜明けの前の薄明かりは東雲というが、
日没後のそれは何というのだろう……。
おや?
見ると、遠く、浴場の収まっていると思われる建物の手前に、
明らかにそれと判る人が早足で歩いている。
どー見ても湯上がりではない。
営業案内に視線を戻す。
と、小さな貼り紙、夏場は延長して客を迎えるとのこと。
腕時計の数字を思い出す。
もう一度、液晶が刻む24進60進の数字を確認する。
残り25分。
ミ★
脱衣場に辿り着いたのはその5分後である。
入湯料は400円か600円。
そんな感じの数字だったのだが、よく覚えていない。
貴重品をコインロッカーに放り込み、
タオルを片手に浴場へ突入する。
広々とした立派な浴場である。
泉質は確認しそこねた。
汗、脂、埃、排ガスその他諸々を洗い流し、
そそくさと湯船に浸かり、日本人の醍醐味を大いに堪能する。
うひゃぁ。
端から見たらさぞかしフヌケ面に映ったに違いない。
まぁ、しかめっ面で温泉に浸かっているヤツも珍しいが。
5分ほどでスパッとあがる。
カラス。
ミ☆
閉館時間まで適温に保たれた待合室に居座る。
といっても5分ほどである。
窓の外、残照の細さを気にしながら中庭の観察。
自販機の、割高のビールが恨めしい。
後のことを考えると酒なんぞ飲んではいられないのだが、
まぁ、嫌いな銘柄でなかったら誘惑に負けていたかもしれない。
どうにも力が入らないので、
人目が気になりそうな場所に自転車と荷物を置き去りにして、
貴重品を放り込んだウエストバッグをぶら下げて探索に出る。
いまさらキャンプ場へ移動するような気力は残っていない。
広々とした駐車場、数棟の立派な建築物、
どれほどの税金がつぎ込まれたのか、などと勘繰ってしまう。
ま、それはそれ。いい湯であったから許す。
水音を辿っていくと、崖めいた場所に四阿を発見。
屋根の大きさ、ベンチ状の椅子の深さとも申し分ない。
川のすぐ側なので湿気が気になったが、
所詮は太平洋高気圧の支配する真夏の関東地方である。
しかも、周りには黒々とした立派な樹々が聳えている。
今宵の宿は決まった。
ミ★
とはいえ、シュラフに潜り込むには早すぎる。
陽は落ちきったとはいえまだ19時台であるし、
実際、数分おきに休憩に訪れた人がぶらぶらと近寄っては、
四阿の隅の影に気付いて予定軌道を修正していった。
別に、獲って食おうって訳でもないんだけど、ねぇ。
帽子を顔の上に乗せて寝転がり、目を閉じる。
ミ☆
1時間ほどで目が覚めた。
起き上がると、10m程離れた電灯の下、
若い男女が……料理をしている。
四阿は誰かさんが占領してしまっているので、
電灯のすぐ近くにある岩をテーブル代わりにして、
なにやら黙々と作り込んでいる。
川の轟音でかき消されて、一種、無音の世界。
人里離れた駐車場の隅である。
あまり気持ちの良い景色ではない。
しかし。
夏である、暗闇に電灯である。
そう、眩しいくらいの羽虫達の乱舞。
わからんなぁ。
ミ★
さすがに気を遣って四阿から離れる。
が、どうもベンチと電灯をセットで設置したようで、
虫を気にせずにのんびりできる場所が見つからない。
ふと思いついて道路に戻ってみる。
少し歩いてカーブを曲がってみると、すとんと闇に包まれた。
無論、完全な闇ではない。
月は見えなかったよう記憶しているが、
遠くの明かりが反射して、
ぼんやりと山々を照らし出している。
ふと。
すぅっと全身に染み込んだ感情がある。
その名は恐怖。
恐い。
純粋に、恐い。
飲み込まれないうちに踵を返す。
立ち向かうには余りにも巨き過ぎる……。
# 敵にまわす必要はないだろうけどね
ミ☆
四阿に帰還したのは22時頃であったろうか。
人気は絶えていたので、
ザックからシュラフとマットを引っ張り出し、
ベンチの上に寝転がる。
さすがにこの時間ともなると気温が下がり、
シュラフに潜ると、適温かな? ってくらいになった。
# もう数時間もすれば寒くて勝手に目が覚めるって寸法。
もとより熟睡するつもりはない。テントの中ならともかく。
ワケのワカラン連中に絡まれないことを祈りつつ、
しかし急激に、眠りの世界へ。
つづく