− 過渡的形態としての「総合的な学習」−
1 社会科の現在
1994年度から実施された教育課程では、高等学校の社会科が地歴科と公民科に分離された。これに続いて、2003年度から実施予定の教育課程では、これにもまして社会科のあり方が大きく変わろうとしている。
地歴科と公民科の分離については、その発想者の意図とは別に、教育の現場にさほど大きな影響はなかったと言ってよい。それは、その分離の発想が社会科理論に対する積極的な批判から生み出されたものではなかったこと、言い換えれば教育の論理としてなんら意味をもたなかったことによる。また、社会科解体の話題が出た当時から、起こりうる問題点を先に想定し、実質的に社会科を維持しようとする社会科教員たちの地道な営為があったからである。社会科の核としての「現代社会」については、すでに社会科「現代社会」の蓄積があり、公民科「現代社会」となっても、社会科の発想が無理なく継承されたわけである。
ところで、今回の指導要領改訂については、うっかりすると公民科に関する大きな変更を見過ごしやすい。たしかに、科目構成は変わらずに、「現代社会」の標準単位数が2単位になっただけであり、各科目内の構成は大きく変わったが、それで各科目の授業が新たに大きな制約を受けるようには思えないかもしれない。
しかし、今回の改訂では、週休2日制の全面導入にともなう総単位数の変更によって、学校教育全体のなかにおける社会科教育のあり方が変容せざるをえないであろう。そればかりではない。今回の改訂の趣旨をたどって行くならば、その意図するところが、社会科教育のあり方の根幹に関わるものなのである。
たとえば、「総合的な学習」で、従来なら社会科教員が指導していた福祉や環境問題を、他の科目の教員とともに指導していくことについて、準備は十分だろうか。このような領域で社会科教育の蓄積をどれだけ生かすことができるだろうか。ややもすれば的確な社会認識を育てる教育を欠いたまま、空虚な実践主義と強引な説教主義に陥りはしまいか。
こうした問題点を大きな視点から見通していくためには、「学習指導要領」や「学習指導要領解説公民編」ばかりでなく、関連する文部省の資料、たとえば「『教育改革プログラム』の改訂について」(文部省
平成11年9月)などをたどっていくことが必要である。 制度的な改革の中に、戦後の社会科教育の歴史が蓄積した経験とそれに対する反省が十分に生かされてきたとはとうてい思えないが、教育理論の照合という作業はやり終えておかなければならない。
ここでは、高校社会科を内側から実践してきた立場をふまえて、今回の新しい指導要領の意義を冷静に分析し、それがはらむ問題点をとらえる。あわせて今後の見通しを立てておきたい。それは少し悲観的かもしれないが、ことの重大さを思えば、悲観的すぎることのデメリットは、楽観的すぎることの危険をこえることはないであろう。
指導要領を改訂する人々は、時代が変わったり、人物が変わったりすることを理由に、前の指導要領の理論的な不備や限界についての説明や今次改訂の理論的根拠についての説明を免れるが、第一線で教育を実践する者たちは、実践理論の継続と批判にこだわらざるをえない。頭越しに威勢よく進められる「改革」にただ従っていればよいというなら、それに見合う責任の取り方を考えればよいのかもしれないが、少なくともこれまでは、多くの社会科教員が自ら納得しうるような実践理論にこだわってきた。「いまだその志を捨てるに及ばない」と言い続ける人々がすべて絶えたわけではないのである。
2 社会科と『総合的な学習』
高校で、専門科目別の教育に収斂できない部分を社会科教育として志向してきた者にとって、総合的学習とは、「科目あって教科なし」の社会科を統合する理念の一つであった。1982年に社会科「現代社会」が必修科目として導入されたころは、「学問の系統性がない」「道徳科目になるおそれがある」という批判を受けつつも、意欲的な指導者にとっては、多分野にわたる課題について多様な観点から一貫して指導できる授業時間として、充実した科目に成長していった。すなわち、高校の基礎科目として位置づけるなら、世界史、日本史、地理、政経、倫理の各科目の導入の科目であり、高学年に位置づけるなら、各科目学習を土台として、時事的な課題や高度な学習に発展させることができる科目であった。しかも、多くの社会科教員によって、集中講義も演習も、発表学習もグループ学習も、見学も体験も、多種多様な試みがなされた。
1992年からの「現代社会」では、形式上、公民科の「現代社会」となったが、教育現場では、地歴科教員と公民科教員を分ける発想は皆無であり、地歴・公民に分けられた新しい教員免許を持つ者を除けば何の不都合もなかった。むしろ、社会科解体に対する危機感が、「社会科意識」を強め、社会科としての理念を思い起こさせることにもなった。
こうして、社会科教育のなかの「総合的科目」として、「現代社会」の果たす役割は大きかった。もちろん、克服すべき課題は数多くあり、それゆえにこれからいっそう磨いていく価値のある科目であった。たとえば、「現代社会」から抜き取られた家族論や消費者論が、家庭科のなかでどう扱われるか、生物や保健で扱われる性教育が人間の暮らしと社会の形成にどのように結びつくかなど、社会科として気になることがあった。課題を先取りした社会科教員も少なくなかったが、科目論としてはこれから結実していかなければならないものである。こうした課題は、社会科の発想から、そしてその充実という観点から、いくらでも取り組むことができるものであった。そういう点で、今回の「総合的な学習」の導入については、社会科教育の視点から十分に関心を共有しうる。しかし、両者の間にあるのはどうやら溝の深さや壁の高さでなく、段差のようである。どちらが降りやすいだろうか。
今回の教育課程の改訂で、「現代社会」の時間と内容が大幅に縮小されることとなった。内容面では、とくに地球環境問題が薄くなる。新しい「現代社会」で、地球環境問題は(1)「現代に生きる私たちの課題」の5つの例の一つとなる。周知のように、この部分では「一定の知識を理解することを前提として学習が展開されるのではなく」、「現代社会」の学習の導入として生徒の主体的な課題追求を中心とした学習が行われることになるのである。また、このテーマは(2)「現代の社会と人間としての在り方生き方」になく、従来のような地球環境問題の発展的な学習は、別枠で独自に構想しなければならないのである。
この問題の他に注目すべき点としては、社会科での総合的学習で取り上げてきた諸課題が、新しい指導要領での「総合的な学習」のなかにくみ入れられている。この事態こそ、社会科にとって重大な岐路となる。わたしはけっして社会科の枠を守ることだけを考えてきたわけではない。これまでも高校教育全体のあり方から考えてきたし、これから冷静に高等学校教育の全体像から考えていくことが必要である。そうして社会科教育のあり方と高校教育全体のそれが、意図的に結びつけられなければならないと考えるのである。
「高等学校学習指導要領」には、「総合的な学習」の内容については示されているが、それが導入された経緯について明示されているわけではない。「教育課程編成の一般方針」のなかで、道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うことにより、その充実を図るものとし、「各教科に属する科目、特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない」とされているだけである。
すでに小・中学校及び高等学校においては先駆的実践がいくつもなされ、それらの報告には「総合的な学習」導入についてのさまざまな説明がなされている。たとえば「これまで、子どもの興味・関心があっても、教科の枠があって取り扱えなかった」「現代社会の課題を追求するにあたって、どの教科にも幅広く関わってくるので、総合的な学習が重要になった」「地域とのつながりを深める」「体験的な学習に効用がある」と説明される。教科枠の堅さの度合いが異なる小・中学校の例と高等学校の例とを同じように考えるわけにはいかないにせよ、これらが理由となって、全国画一の枠が生まれるというのはかなり無理があろう。たしかに、文部省の後押しがなければ教科の枠をこえられないような指導者や、現代社会の課題を狭い枠でしか扱えなかった指導者には、今回の改訂は大いに有益かもしれない。しかし、その人たちのために改訂がなされたとは思えない。また、地域とのつながりや体験的な学習についても、従来の教育課程でできなかったことなのだろうか。依然として全国画一の枠の必然性が不明なのである。もちろん、枠内であれば、その内容については文部省に規制されずに自由かつ創造的なカリキュラムをつくってよいとされるわけだが、ほんとうにどこまで自由か、お上のさじ加減ではないかという懸念が残るし、学校の特色として「総合的学習をやらない」という選択は絶対に許されないだろう。
公然とは示されていない理由が、ほかにも一つありうる。「机に座っての学習にたえない子供が増えつつある」。かりにそういう理由があるとしたら、原因と結果との逆立ちした悪循環を断つための手だては、別の視点から考えていかなければならないだろう。
さて、総合的な学習が生まれることについての、上記のような説明はいずれも積極的なものに思えない。もちろんそれらのなかには、導入しようとする文部省の意図が十分にくみ取られているわけであろうが、ここで考察の直接の対象として捉えるには及ばない。
今回の「学習指導要領」がこのような疑問に直接に応えてくれるものでないことは、前回の社会科解体の理由についても同様であった。自らの授業実践を少しでも質的に高めるために理論的研磨に努めようとする者は、このような論理の飛躍に戸惑いを感じざるをえない。全体的な見通しを立てるためには文部省の文脈にもう少し付き合っておかなければならないだろう。
3 過渡的な「総合的な学習」
1998年の6月に出された、「教育課程の基準の改善ついて(審議のまとめ)」では、「総合的な学習の時間」の創設の趣旨が、次のように述べられている。
「総合的な学習」の時間を創設する趣旨は、各学校が地域や学校の実態などに応じて創意工夫を生かして特色ある教育活動を展開できるような時間を確保することである。また、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」は全人的な力であることを踏まえ、国際化や情報化をはじめ社会の変化に主体的に対応できる資質や能力を育成するために教科などの枠を超えた横断的・総合的な学習をより円滑に実施するための時間を確保することである。この趣旨の出だし部分を素直に受け取れば、少なくとも「総合的な学習の時間」に関しては、いままでのように文部省や地教委からの伝達を待ってから各学校が計画し実施するということでなく、また各学校が実施する内容に対する上からの細かい干渉もなくなるということだろう。文部省も地教委もそのように実行することになるとされる。しかし、この言葉どおりに現実が作られていくか、ということに関しては、現場サイドには、かなり疑問をもつ者が多い。一般向けに語られるこのような言葉とは別に、各学校長には「自主的に」実施すべき枠が与えられるとみられている。「校長の権限」の強化は所属学校内であって、対外的な権限の強化にならないからである。結局のところ、文部省や地教委の求める「総合的な学習の時間」が「地域や学校の実態に応じて創意工夫を生かして」展開される。「君が好きなようにしたまえ。君はわたしがなにが好きかわかっているわけだから、君の好みを私に合わせればいいんだよ」ということになりかねないのである。もちろん、こうまで露骨な言葉として語られることはなく、曖昧なままに二重拘束が進行する状況は、現場の不満をいっそううっ積させることになる。
我々は、この時間が、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむことを目指す今回の教育課程の基準の改善の趣旨を実現するきわめて重要な役割を担うものと考えている。
さて、先に引用した「総合的な学習の時間」の創設の趣旨について、中間部分以降を読むと、「総合的な学習の時間」が「生きる力」をはぐくむうえで重要な役割を担うことが記されている。私はすでに「生きる力」についての疑問やそれがはらむ問題点を吟味したことがある。そこでは、とくに「生きる力」の育成が教育の普遍的課題とどのような関係にあるのかを問題にしたが、その視点はいまでも重要であると考えている。「生きる力」に過剰に盛り込まれた内容を論理的に整理することはけっして容易な作業ではないが、そのことは逆にその言葉の弱点を露呈することにもなる。さまざまな内容をすべて包含する必然性が当然のこととして薄れてしまうのである。
同様の弱点は、「心の教育」についてもいえる。「『教育改革のプログラム』の改訂について」(平成11年9月 文部省)のなかには、今次改革の視点として、心の教育の充実、個性を伸ばし多様な選択ができる学校制度の実現、現場の自主性を尊重した学校づくりの促進、大学改革と研究振興の推進、という4点が示されているが、そのうち、「心の教育の充実」に関しては、次のように述べられている。
これからの教育は、家庭、地域社会、学校を通じて、知育偏重の風潮や知識詰め込み型の教育を改め、子どもたちに「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむことがことが重要であり、そのため、社会生活のルールなどを幼少時から確かに身に付けさせ、正義感や倫理観、思いやりの心などの豊かな人間性をはぐくむ心の教育を充実させていくことが必要である。
また、経済のグローバル化や急速な少子化が進行している今日、わが国が活力を維持し、世界的な大競争時代の中で確固たる地位を築いていくためには、我が国の歴史と伝統、文化を大切にし、豊かな国際感覚と独創性に富み、チャレンジ精神と大胆な行動力を持ったたくましい日本人を育成することが不可欠であり、そのためにも、心の教育を重視していくことが必要である。
教育に関する現状認識の妥当性についてはここでは触れたくない。要は、「心の教育」には二つの目的があるということである。一つは、「生きる力」をはぐくむこと。もう一つは、メガコンペティションを勝ち抜く「たくましい日本人」を育成することである。
「心の教育」と「生きる力」との関係について、また「心の教育」と「たくましい日本人の育成」との関係について、どのような構造的連関があるか、それぞれ詳細に吟味することもおもしろいかもしれないが、ここでの主題は、二つの目的の関連である。「生きる力をはぐくむこと」と「たくましい日本人の育成」とはどうすれば両立するものか、あるいはどのように対立するものか。両者が無矛盾で成り立つと考えるのは、あくまでも抽象の世界で教育を完結することに満足できる人々であろう。そして、それらが「心の教育」で実現できるということはどういうことなのだろうか。新たな意味内容が次々に付け加わるにしたがって、構造的連関の整序はいっそう容易でなくなる。
「心の教育」の充実については、具体的に、「幼児期からの心の教育」の充実、「全国子どもプラン」の推進、道徳教育の改善充実(校長や教頭の参加など指導体制の充実など)、カウンセリングの充実、子どもたちの読書活動の充実がはかられているということである。やはり、言葉の新しさに対応した施策の新しさを積極的に見いだすことはなかなか困難である。
なお、同プログラムでは、学校のカリキュラム改革について次のように述べている。教育内容を厳選するとともに「生きる力」を育成することをねらいとして学習指導要領を改訂し、豊かな人間性の育成が積極的に展開されるようにするとともに、創造性の育成、国や郷土を愛する心の育成と国際協調の精神の涵養、日本の歴史・文化と伝統の尊重、社会の変化への対応を重視し、また、体験的な学習や問題解決的な学習の充実を図る、など。
こうした文脈に、「総合的な学習の時間」の導入が位置づけられることは、けっして不自然ではないようにも見えるが、その導入の必然性を描いているわけでない。
誤解を避けるために明言しておくが、私はけっして文部省にその必然性の説明を求めているわけではない。それは教育の現場にある私たち実践者自身が具体的な場面で見いだすべきものであると考える。もちろんそのために普遍的な教育理論を支えにすべきであろうが、それを文部省には頼るに及ばないのである。
そういう視点でいうなら、学習指導要領の「総合的な学習の時間」そのものに、さほど過剰な意味づけがなされていないことは、むしろ幸いとしよう。「生きる力」「心の教育」などの重圧をいったんおいて、具体的な場面でほんとうに必要な総合的学習を構想すればよいのである。
今回の「学習指導要領」は、「総合的な学習」のねらいについて、次のように記している
(1)自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる
(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができるようにする。
このねらいを生かすことは社会科教育に求められてよいことである。言い換えれば、ここで社会科教育の蓄積を生かすことができる可能性もある。しかし、実際には極めて困難となろう。最大の難点は、指導者の主体的条件にある。社会科授業の枠内では、指導計画が一貫性を持って立てられるが、社会科教員と他教科教員とが具体的にどのような形態で協力関係を形成すべきか明瞭でなく、社会科の主導性は自明でなくなる。しかも、教員の主体的な発想でなく、「やらなければならない」という立場が優先されるということもありうる。「やってみたい」となるまで、じっくり検討することができるだろうか。このための授業理論の準備も十分でなく、他校の実践例をもとに、「やりやすいもの」に流れるおそれは強い。他教科の立場にも開かれた社会科理論が求められるゆえんであろう。
「学習指導要領」には次のような学習活動が例示されている。
ア 国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動。
イ 生徒が興味・関心、進路などに応じて設定した課題について、知識や技能の進化、総合化を図る学習活動。
ウ 自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動。
ア に挙げられたテーマは公民科各科目で実際に扱ってきたものであり実践例も豊富に蓄積されている。ウ
に示されたテーマも「現代社会」「倫理」で扱ってきたものである。イ については、とくに課題の設定に関しては、問題解決学習の発想が役立ちそうである。
また、これらの学習活動に当たって配慮すべきこととしては、次のような事項が挙げられる。(抄)
(1)自然体験やボランティア活動、就業体験などの社会体験、観察・実験・実習、調査・研究、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること。
(2)グループ学習や個人研究などの多様な学習形態、地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制、地域の教材や学習環境の積極的な活用などについて工夫すること。
「問題解決的な学習」と表現されているものは、社会科の一部教員で継承されてきたいう問題解決学習のことであろう。これは、「総合的な学習」の「ねらい」の中で「自ら課題を見つける」ことを実効化するのにもっとも相応しい形態かもしれない。ただし、社会科にとって魅力のある学習形態が、ときとして他教科にとって取り組みにくさを意味することもありうる。また、「総合的な学習」を計画するときには、その「ねらい」から考え始めるよりも、学習内容や学習形態から始められることになるだろう。そうしたときには、「問題解決的な学習」よりも、体験学習やグループ活動などのほうが複数教科の合意をえやすいであろう。
問題解決学習の効果を上げるには、各教科あげてのきめ細やかな指導体制が必要となる。その実施には、問題解決学習の意義が多くの教員に十分に理解されなければならない。たしかにそれだけの値打ちはあるのだろうが、体制を整えるまでにかなり時間がかかる。こうした点を考えると、今回の教育課程全体における「総合的な学習」の位置づけに不徹底性を指摘せざるをえない。「総合的な学習」が過渡的たらざるをえないゆえんである。
4 社会科における「問題解決学習」
「学習指導要領解説 公民編」では、「現代社会」の「内容とその取り扱い」において、問題解決的な学習らしきものが説明されている。「課題を設け追究させる学習指導」と表現されているが、「一般に、@課題の設定、A資料の収集と活用、B課題追究、C課題追究のまとめ、といった手順が考えられる」という。しかし、残念ながら、ここでは@課題の設定について、5つの現代社会の問題が挙げられ、「地域や学校、生徒の実態に応じて二つ程度を取り上げる」としてしまっている。これら以外の問題を、しかも生徒が見いだしていく余地はない。したがって、この「課題の設定」をそのまま「総合的な学習」に応用するわけにはいかないだろう。
一方、1950年の『小学校社会科学習指導法』では、「問題解決の諸段階」が挙げられる。@児童が問題に直面する、A問題を明確にする、B問題解決の手順の計画を立てる、C計画に基づいて、問題の解決に必要な資料となる知識を集める、D知識を交換し合う、集められた知識をもととして、問題の解決の見通し、すなわち仮設をたてる、E仮設を検討し、確実な解決方法に到達する。とくに@の段階に着目するなら、こちらの指導法のほうが、今回の「問題解決的な学習」にふさわしいかもしれない。
問題解決学習においてもっとも重要なことは、「問題とはなにか」である。戦後の初期社会科でもこの点をめぐっていくつか議論が進められた。たとえば、国家政策の立場で子どもたちに要請する「問題」だろうか、あるいは、子どもたちが生活の中で見い出す「問題」だろうか。
社会科教育学者の谷川彰英著『社会科理論の批判と創造』では、初期社会科を担った重松鷹泰の「問題」が次のように引用されている。
1 問題というのは、青少年の社会的経験(生活経験・経験)の発展の中核となっているものである。それをめぐって経験が発展していくその中心である。
2 問題は子ども自身の状態やそこにある要求と周囲の社会の状態や子ども対する要求との矛盾である。
3 問題は、子どもの興味とか関心そのものではない。むしろその根源である。
4 問題は、地域社会の問題そのものでもない。それが子ども自身の生活を揺り動かしているところにある。
5 子どもたちが、真剣になって事物と取り組んでいるとき、そこには彼自身の問題が存在していると推察できる。
6 私たちが心の琴線に触れられたと思うことがある。あるいは教師の脱線話が終生残るような深い感銘を与えることがある。このような場合に、子ども自身の問題が取り上げらえたというべきであろう。
5 「総合的な学習」の行方と社会科
今回新設される「総合的な学習」が、複数教科の非能率的な合科にとどまり、社会授業に比較してただ窮屈になる可能性もある(不自由な合科)。一方では、生徒たちの退行的要求に迎合するだけの体験学習に陥るおそれは十分ある(内容なき行動主義)。そしてそれらを傍観する多数の第三者的教員と指示待ち教員による「遵法」教育。「総合的な学習」に対して積極的なのは、目の前の生徒の現実に対峙するのでなく、自らの報告書を作成するために周囲を振り回す官僚志向の人々だけということになりはしまいか。
そうして、「学力低下」「心の問題」を口実にした「教え込み」への逆行という最悪の事態に結びつく可能性もある。もともと、これまでの日本の「教育改革」が教育の論理を媒介とせず、外部からの「要請」でのみ押し進められてきたものであるとはいえ、教育の論理の展開自体の妨げとなるような事態をみすみす招くのもどうだろうか。たとえ、それが避けがたいシナリオだとしても、なし得ることをなし得る時期に試みておくことは重要であろう。それなくして、教育の論理の蓄積・展開は不可能だからである。
いずれにせよ、「総合的な学習」は苦境に立たざるをえない。しかし、「過渡的」であるとは、よりよい「領域」へと発展できる可能性を持つということでもある。場合によっては、問題解決学習に徹することもありうる。ここで何を失い、何を得るにしても、社会科の枠の問題に触れざるをえないわけであるから、社会科教師として座視しうるものではない。
たしかに、教科の枠については、さめた見方もある。教科の枠自体に歴史貫通的な性質があるわけでなく、近代社会の展開とともにさまざまに変遷するものではないか、というのである。特に、学際のテーマが次々と登場したり、多様な観点・視点からの追究を要する課題が重要となっており、いままでの教科枠が応じきれていない、というわけである。
私もそういう実態を否定するものではないが、社会科教育の論理への内在に徹してきた者としては、第三者的な立場からの評論で済ますことはできない。実際に、教育の内的な論理の限界、破綻を通じて、教科枠突破の必然性という論理に辿り着くのでないならば、または、他教科の論理とのすりあわせで教科枠の限界を見いだすのでない限りにおいては、容易に枠を外すわけにはいかない。なるほど「総合的な学習」を迎えたいまがその時期となる可能性はあるが、実際のところは具体的に吟味していかなければわからない。
当面、社会科教育に関する普遍的理論を貫きながら、教育実践全体では社会科枠について柔軟な姿勢を保つというスタンスが有効であろう。これに対して、教科枠の安易な放棄は、上からの力学的統合をただ容易にするだけの危険な道といわなければならない。教科の枠を要しない「総合的な学習」が自ずと成り立つかに見えるにしても、教科構造が予定調和であるはずはなく、近代制度の中に位置する限り、統合は国家の本性としてのイデオロギー統合なのである。自立した教育においては、学習の総合性や知的統一とは、生徒一人ひとりの内部で志向されるものであって、既成の統合された学習内容を教え込むというものではない。
経済学者の宇沢弘文は、『アメリカ資本主義と学校教育』(ボウルズ=ギンタス著)から、「学校制度が経済的不平等を再生産し、人格発達を歪めるという役割を果たしている」という言葉を引用している(『日本の教育を考える』)。それが的確な指摘だとすると、制度改革の次元で政治家や行政が考えることとは別に、教育の専門家としての教師たちが教育に関する普遍的な理念を保持しながら、教育現場で感じたり考えたりした経験を中心にして、たえず「授業」の改革をはかっていくことは極めて重要であろう。そうした教育的営為にもっとも意義を感じるのが、こんにちの社会科教師かもしれない。