最終更新日:平成16年4月16日


2章 教育論

前書き
 本論述は私個人の見解である。こんな考えもあるのか位に読んでいただければと思います。また,本件についての著作権は放棄するものではありません。


 ・初めに
 ・指導要領とこれからの教育
 ・教育は国家百年の計
 ・教育と入試制度の整合性
 ・具体的指導
 ・受験対策
 ・休日である土曜の活用
 ・カリキュラム
 ・IT新時代に対応する学校教育
 ・新世紀教育戦略論
 ・教育基本法改正によせて
 ・日本の立場に立った教育を
 ・日本断罪教育は子供への拷問でもある
 ・歴史教育の視点と教育の独立
 ・子供たちを知の砂漠から救え
 ・教育の神髄
 ・教育現場における人権尊重の教育



初めに
 以下の文書は私学協会主宰の学習指導部会で私が報告した内容を生徒向けに再編集したものです。
平成15年度以降のカリキュラム編成でも本校の特色である女子教育を中心に社会から評価される生徒を世に送り出すべく全職員一致団結して指導に当たっていく所存であります。
次の世代を生み育てる立場に立つ極めて重要な役割を主に担っているのが諸君である。如何にして「社会に有為な人材を生み育てるか」は極めて大切な永遠のテーマであろう。我々はややもすると,「社会で活躍する女性」に目が行きがちだが,それはそれで大切だが,もっと大切なことは,そういう人材を生み育てることなのだと考えます。人は必ず死ぬから,一人の人間がどんなに頑張って業績を残しても30年前後である。次を受け継ぐ者がいなければそれで終わりである。従って,この永遠に続く人間の営みの中で「次の世代を育てること」以上に大切なことはありえない。全ての科学技術も芸術も全ては人間が創るものであるからです。そして,三つ子の魂百までもとも言う。いかに母の存在が大切かを雄弁に物語っています。勿論,父親も大切ではありますが。これは辛子のようなものである。
 偉大な人物の背後には偉大な母がいると言われることをここでもう一度かみしめたいと思う。
 決して,軽薄な女性となることが良いことではないでしょう。知性と教養に富み,愛情にあふれた慈悲の心をもつ素晴らしい女性に成長することを女子教育の理想の姿として邁進していきたいと考えております。
 こうして社会から求められる有為な人材を輩出し続ける学校となることを目標に,生徒と共に歩んでゆきたいと考えております。皆さんのよりいっそうの精進を期待します。
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指導要領とこれからの教育
 平成15年度から始まる教育課程について 教育内容が,従来に比べ3割カットと言われ,これで大丈夫かと,各方面からの指摘を受けた文部省は,これまでの指針とは異なる,指導要領は下限であるとの認識を示した。生徒の状況によりいくらでも創意工夫で高度なことを教えても良いという。これは画期的な変身だ,時代の要請でもある。
 ボーダーレスの世界においてわれらの子孫が他国と経済的にも科学的にもあらゆる分野で闘い,優位な立場を維持し発展してゆかねばその資源食料の大部分を他国に依存する中では,現在の生活水準すら維持するのは困難であろうことは目に見えている。先進国は言うに及ばず発展途上国に分類されていた国の中にも,科学技術に力を入れ目覚しく発展している国すらある。インドのITがそうであり,また,中国のコンピーター等の通信機器に対する技術の躍進もそうである。これらの国は教育水準も高く,その上人口も多い。いつまでもわれらの後にいることはないと思っていたほうが良い。こういう中で,一人日本が日本の国の中だけを考えていられる状況ではないのではなかろうか。これからは科学技術に遅れをとれば致命傷になりかねないのである。生徒諸君はこれからを生きる訳だから表面の動きに惑わされること無く,歴史の中にあっての本流を感じ取り,本質を見定め自らの行くべき道を掴み弛むことなく精進していって欲しいと思います。
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教育は国家百年の計
 現在では,産業は空洞化し,日本にあった工場は次から次と海外に移転し,国内の工場は一つ,また一つと消えてゆく,日本人にとっての働き口がどんどん減ってゆく。失業率は上がる一方です。改善の見通しはまったくありません。一方,中国は世界の工場となりつつある。日本のかつての産業の強さは過去のものとなりつつある。資源の無い日本が人的資源を活用できずして何処に活路があろう。国際的に科学技術競争に負ければ輸出は減り,そうなればエネルギーだって輸入できなくなるだろう。ゆとりなどと言って生徒を遊ばせていられる状況ではありません。他国の子供たちと頭で闘って五分以上でなければ将来は暗いと言わざるをえないのです。その根幹をなすのが正に教育です。どんな人間を作る必要があるかによって,どのようなプログラムで教育すればよいかが生まれるというものです。全て同じ教育を施す必要はありません。人間に頭脳があり,目があり耳があり手があり足があり胴体があり,その中には各種の臓器が組み込まれて全体として機能しているごとく国の中でもそれぞれの役割は異なります。各人はそれぞれの役割を自覚し目標を持って社会の要請に応えてゆくために必要な学問を身に付けていって欲しいと考えております。
 そういう意味では,この教育の制度的可能性をどこの私学も可能な限り引き出してゆく取り組みをすることになろうと思われます。
 我々としても次の時代に適応するのに最も相応しい教育内容を共に考え必要な事を必要なだけ勇気をもって教えて行こうと考えております。
 昔のような戦争はなくなると思われるが,いつになってもなくなりそうに無いのは熾烈な競争であります。これに勝たねば生存すら怪しくなります。そこで何に戦略としての教育を位置付けるかだと思われます。全員が優秀である必要はありませんが,優秀な人間,不屈な人間が新しい分野を開拓する原動力となるように思われます。
 従って,こういう人材が育ちやすい環境を作っていくことは極めて重要と思われ国家戦略の中心に位置付けるべきものです。
 生徒諸君には己が持てる力を存分に発揮できるよう,大いにチャレンジ精神をもってすべからく事に当たって欲しいと考えます。
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教育と入試制度の整合性
 教育制度を考えるとき,様々な教育を施すことは結構だが,次のステップに行くときが問題となります。様々な教育プログラムに対応した入試制度がないと,様々な教育制度で学んで個性を伸ばしてきた者を殺すことになる恐れが多分にあります。そうならないためには,様々な能力を評価する入試制度でなければ全体としての教育制度が死ぬことになりましょう。
 願わくは,社会が欲しい能力を持った人材が欲しいだけ生まれ育つような環境をぜひとも構築したいものであります。
 そのためにはどのような人材が求められているかを表示し国民が広く確認できる,データベースがぜひとも欲しい。
 そうすれば,各教育機関はそれに合わせてカリキュラムも対応できると思われる。需要の無い人材を作っても無駄になるだけだからです。
 そういう立場から,女学校である本校としては総合学習の時間を女子教育として社会で直接役立つ「もの」を色々な角度から取り上げて積極的に指導している。(内容は本校のホームページ http://www.taisei.ac.jp/ をどうぞ。)
 いずれもが社会に出て役に立つという観点から内容を吟味し,これからも更に磨きをかけて社会の要請に応えてゆく所存であります。
 ということで,
@ 様々な能力を引き出し強化できるプログラム。勿論上は青天井。
A どんな教育プログラムにも対応できるできるだけ公平な入試制度
B どんな人材が社会の要請かが分かる社会的データーベースシステムの構築 の3点セットで推進する。
社会の要請は時代と共に変化する宿命を持っている。柔軟に対応でき場合によったら軌道修正も容易な目標こそが望ましい。 @は我々の課題 A は上級教育機関への要請 Bは国,県への要請。国と県への要請となるのは国県市町村も含めて全体をネットワークで結んだデータベースが望ましいからです。
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具体的指導
平成14年度からの取り組みとしては上述の具体化ということになります。
 本校での取り組み
 総合的学習の時間 現在1年で行っている「女子教育」を拡充して行く考えである。 女子教育では,社会で生きていく上で必要な具体的な様々な情報を取り上げ,指導している。基本的には教諭に依頼しているが学校外の講師に依頼し実施する場合もある。評価は,各時間ごとにレポートを提出させ3段階で評価している。実践を通して社会適応力をつけられれば更に良いと思われる。
 何が大切か
 教師は,よく何をどう教えようかと考えます。
 そこで,考えるのだが,生徒たちが本当に真剣に学ぶときはどんなときであろうかを考えたい。 本人たちが必要性を感じたら放っておいても何やかやと言われなくとも,多くの者は必要なことを学ぼうとするに違いないと思うのです。
 勿論,必要性を感じても何もしない者も居るかとは思うが。 要は,心を例えば勉学に目覚めさせれば良いと考えます。目覚めれば後は本人たちが「必要なことを必要なだけ学んでゆける環境があれば言うことなし」と考えます。
 皆さんには,できるだけ早い機会に,人生について考え,その設計を書き,必要な具体的目標を掲げ,それに向かって邁進してもらいたいと考えております。
 若者は知的好奇心の塊
 そもそも若者は知的好奇心が旺盛なのです。それは,幸島のサルを見てもわかろうというものです。常に新しいことに積極的に取り組むのは若い固体,残念だが,年老いた固体は若い固体の成功を見て始める。人間も同じ傾向があります。 もっと若さのもつ性質を信じてよいと考えています。そういう意味では,私は悲観はしていないのです。きっと,やってくれると信じています。
 動機を持とう
 何事においても行動の出発点は動機です。どうしたら良い「何かをやる気になるか」を考えるとき。『百聞は一見にしかず』と言います。やはり,世間一般に通じよく知ることではないでしょうか。大きくはばたくためには,広く見聞を深めることは極めて大切です。「井の中の蛙大海を知らず」とならないためにです。生徒諸君にはあらゆる機会を通じて見聞を深めて欲しいと考えております。
 学校における様々な行事は正にこの一環ということができるでしょう。
 要は大いに人生に目覚め,夢を抱き大志をしっかりと心に築いて欲しいと考えます。そう大きな「夢」です。夢があればこそ,「頑張ろう」と,いう気が起こるのではないでしょうか。
 環境作り
 ここでいう環境とはカリキュラムも含め教育設備もその一つです。 生徒が必要とする内容が学べる環境を作ることを指します。
 一つの手は選択科目を増やすことで必要な科目をカバーできる。
 もう1つを挙げれば生徒の求める学習相談にいつでも応ずること。そのために,我々教諭自身も日々研鑚をつみ力量の充実を図って参りたいと考えております。
 ここで注意しておきたいことは,学ぶのはあくまで本人でありますから,ぜひ我々教師を活用し主体的に学んで欲しいということです。我々教諭ができることは一部の援助であってそれ以上ではないということを自覚しております。間違っても全て教えようなどと考えません。依頼心の強い人間を作るだけだからだと心得ているからです。皆さんは,できるだけ自分で解決するように努めることが大切です。自分で考え行動し学んだことは経験として無形なる財産として諸君のものになることを知っているからこその言葉と受け止めて欲しいと思っています。
 もっとも,分からないときは,親切丁寧に手を取り足を取り教えたいとも思っていますから,どうぞそのときは遠慮せず聞いてください。次の代を育てることこそ我々教師の使命と考えております。
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受験対策
 受験教科の指導をどうするか
 本校は大部分が文系である,理系も一部いるにはいるが。 結局,入試の関門をいかに通させるかが命題です。 このためにしていることは教科指導としては,正規の授業+課外授業です。大切なことだが,進学した先で学習していく上で重要な基礎教科は高校在学中に学んでいく必要があると考えています。しかし,受験教科でないと高校側としてはどうしても受験教科を中心に据えざるを得ないと考えます。でありますから,必要な教科はやはり受験科目にすべきだし,重要度のレベルに応じて大学側の配点も違えなければならないとも考えております。そうでなければ必要な学力の無い者が大学に入ってこないとも限らない。そうなっては国家的なマイナスであります。ボーダーレスの社会においては国内の競争だけではなく,国際的な競争の時代であり,国際社会でそれなりの学力を含め人物としての総合力の有る人材を輩出できなければ日本の未来は暗いと言わざるをえません。国際社会で名誉ある位置を確保するためにも国際社会に通用する人材育成のためにどうすれば良いかが問われています。従って,教育の現場に立つものとして,必要なことは必要なこととして指導できる勇気もまた必要であると考えるのです。皆さんも心して,学ぶ上での基礎となる教科は特に留意して勉学に励んで欲しいと思います。
 理科の教科数の問題は基本的に2教科でよいと考えているが3教科(物理,化学,生物の組み合わせか)必要なら,現在医学部などが考えられるが将来的には遺伝子工学を研究する場合なども含まれるかも知れません。その選択もできるようにするのはベターだ,が1つの大学のために1つの受験教科を増やすことはどうかとも思う。ベストの選択は同じ科目で受験できるのが良いのは受験で有利になるという意味では明らです。本人がその大学にこだわる場合でも,学力と相談の部分もあるし,授業として成立させる学校としての方針もあろうと考えます。ただし,科目を絞るのは受験戦略上理解できるが,これには盲点もあります。知識の幅が狭くなれば人間の幅もまた狭くなるという欠点を内包しているのです。要はどちらを重視するかという戦略によります。その道の研究に必要なら科目選択の道は残しておくべきであります。他教科との選択としてでも。しかし,命を預かる立場にたつ人への教育を考えると,それとは別に倫理観も育てる必要があります。要するに将来必要な知識は必要なだけ学べる環境がベストということになるでしょう。
 参考に,アメリカなどでは勉強したい教科を勉強できるようになっているようです。要するに生徒がカリキュラムを作るわけです。素晴らしい。もっとも,手放しではこうは言えませんが。判断力があり整合性のある選択ができればという意味で。多分,教科選択の手引きのようなものがあるのしょう。
 少子化が益々進み大学に入ることがさほどで難しくない時代にあってはどうするのが良いかはまもなく結論が見えてくるであろうと思います。
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休日である土曜の活用
 現在,本校では,第二,第四土曜日の扱いがそのまま延長となろう。特進コースは,土曜は課外や模試を実施しています。一般生は部活動が中心となるでしょう,学問で身を立てるものには学問を,そうでないものには体育や文芸を,ということであろうか。ここは多様なニーズに応えるプログラムを作りやすいところと考えます。
 問題は,部活動をしない一般生は何をすべきかです。地域社会の高校生会などで活動しているのは良いとして。できれば,ボランティアなどができる状況があればとも考えるが,受け入れるシステムがないと。公園の美化などもいいが,そこで働いている人の仕事を奪うことになってはね。いずれにしてもシュミレートして見る必要はあるでしょう。福祉施設での慰問などもいいでしょう。ブラスや,ダンス,バトンなどは特に適しているかと考えます。家庭に任せるのも一つの方法です。家の手伝いをするという意味で。親に感謝もしない者が増えている現状のことを考えると,親子で家の掃除でも庭の手入れでも,農作業でもすることは互いの理解につながり良い事と思われます。また,長期休暇を利用して,富士登山をしながら富士山のゴミを回収するのは良いでしょう。富士山はゴミが一杯だから。全国民が参加すれば,あっという間にきれいになるでしょう。環境保護に参加したことにもなるし,環境問題やゴミ問題を自分達の問題とすることができるでしょう。何よりもモラルの向上に寄与すると考えます。いずれにしてもこれは自分中心の生き方から離れて,人のためにまたは他のために尽くすことを通じて心を育てることにその目的がある。
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カリキュラム
 編成は「標準単位でベースを決め重点科目にプラスする」が中心になろうと考えます。 考慮の部分は高校の事情によって考えればよいでしょう。大学受験生が主ならターゲット大学が求める教科に重点を置き,しかも選択教科を増やすことで柔軟に対応する。生徒に必要な教科の選択を重視する方針で臨むことが中心となりましょう。
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IT新時代に対応する学校教育
 この問題に対応できる教諭がどれだけいるかが問題となろう。 ワード等のワープロ,エクセルなどの表計算,ここえらあたりは使える先生も多かろう。では,インターネットの活用はどうか,有効なコンテンツを授業で活用することもどれだけの教師が便利だと感じ活用するかで学校の取り組みは違ってくる。また,ホームページはリンクを張ることで無限の情報をインデックスで有機的に結びつけることができ大変便利だが,ホームページを作成でき活用できる教師がどれだけいるかという問題ともなろう。松下幸之助ではないが,正に『学校も人なり』であろうと思われる。
 本校ではホームページを使った進路情報提供を推進しています。理由は利用者にとって誠に便利であるからです。将来は,個人面談などでも相談しながら情報を検索し,相談に応じるといった利用も一般化しよう。情報機器はこれからの時代活用できる人とできない人では雲泥の差となるでしょう。もはや,できて当たり前。問題はどこまで活用できるかが企業(学校も企業の一形態)の盛衰を決めると言っては言いすぎか,そうではなかろうと思われます。
 我々教師は次の時代に生きる者を教育する立場ですから,果敢に挑戦し,研鑚に努めこれを克服していく努力が求められているでしょう。 生徒諸君にも,この技術はぜひ活用できるようになってもらいたいと考えています。
 本校のシステムは校内ランが組まれています。各端末からはリソースが利用できる環境です。教室へもランが組まれインターネットへアクセスできるようになります。勿論,進路情報は,サーバーにアップされているから校内のどこからでもアクセス可です。重要なことだが,単にランで結ばれただけでは情報は活用できません。インデックス(索引)が無ければそれこそゴミの山から宝を探すようなものです。整然と整理された,使いやすいインデックスが重要となりましょう。これができるのは簡単にリンクが張れるホームページです。学校としてのインターネットの良さは世界の情報を自分の図書館のごとくに活用できる点にあります。
 これからは,人はネット上に人材登録し,必要な企業は条件に合った人材をネット上で検索,メールで情報交換し,面談の上,掲示板に選考結果を発表する。なんてね。今でも,求人はインターネット上で花盛りです。従って,出来ない人は正に蚊帳の外です。また,例えば,自分の症状と条件をインプットすると最も適した病院を紹介してくれるとか,取引の入札も,その他もろもろのものへと無限の可能性をもっているのがインターネットです。
 これからの人々にとって正に死活問題となる状況も視野に入れておく必要があります。情報教育は正に誰でもこれに対応することができるようにする事がその目的であります。時代を変える革命的な内容がこれにはあることが分るでしょう。でありますから,やらねばならないからなどというのは認識が甘いでしょう。いかに意味のあるものへ積極的に活用して行くかであろうと考えます。
 思うに,日本の教育には間違っているところがあると思います。暗記していた内容を答えさせるなんて特に馬鹿げています。記憶などは,それこそ得意なコンピュータに任せればよいのです。情報を適切に取捨選択し一つの結論を導き出す所謂論理的思考能力があらゆる問題を解決してゆく原動力となるでしょう。であるからこの能力こそが人間の価値と考えるのです。このような思考能力を育てるのが正に教育と考えます。
 このように思考能力こそ,ありとあらゆる問題を解決していく能力でありこれを醸成するのが現在の教育目標でもあります。従って,これからの時代,これらの機器が使えなければ化石になりつつあると言っても過言ではないでしょう。(報告はここまで,以下は加筆)
 生徒諸君には,何にでも果敢に挑戦し克服してゆく強靭な精神を醸成することを期待しています。全ては意志のあるところから生まれるのですから。
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新世紀教育戦略論(15.1.1-7)
 先に教育は,国家戦略だと言った。次代の浮沈は正にどんな子供たちを育てることができるかで決まるから,教育は極めて重要なのだ。そこでどのような子供たちを創造する考えがあるかが教育のあり方を規定するから,とりわけ教育哲学と未来に対する洞察力が実は極めて重要なのだ。国力というものはつまりは人の力の合力なのだから。パワーのある人材を効率よく必要なだけ無駄なく育成できれば,与えられた環境で最大の教育効果,即ち,国力の最大化を達成することができる。目標は,「先端科学技術制覇」と「豊かな社会の創造」だ。
科学的教育  まず,現代科学の研究成果を教育に生かすのが良い。どんなものが生かせるか。
 脳の記憶のメカニズムはこれを具体的に指導に活用すると効果をあげることができよう。また,脳を活性化するさまざまな食物が発見されている。これらの最新科学の情報と活用例を冊子にし教師に配れ。生徒へ配布する補助教材としても良い。
 手を使う学習を多く取り入れるのが良い。手を使うということは脳を刺激し,脳の働きを活発にする効果があるという。
 数学理科等の科学教育は,未来科学を視野に入れ,現代科学を中心に行うこと。指導内容を吟味する必要がある。これは生活に密着した役に立つ知識としても活用できる。受ける側も,身近に感ずるから興味も関心も寄せることになろう。特に実験や観察などはできるだけ多く取り入れるのが良い。実験や観察した内容は理解も深まり記憶にも長く留まる。ただし,報告書なども発展段階に応じて取り入れるのが良い。
 地歴公民教育は,文明の起こり,古代,中世,近代は軽く,現代(明治以後),産業革命以後をより詳細に学ぶのが良い。
 大事なことは,その時代環境の価値観に立って考える視点が重要だ。先祖を冒涜するのではなく,道を切り開いてきた先人の遺徳を偲び,子供たちに生きることの意味(戦い,闘い,共存,協力,共栄,共生など)について考えさせることを通じて,困難に遭ったときの対処法を自然と身につけさせたい。
 語学教育は自分の考えを相手に正確に伝える事を主眼に考える。これにはステップがある。話せる,読める,書ける,表現できる,説明できる,論証できるなどの段階がある。発展段階に応じた指導が必要だ。これを側面から援助するのは,発展段階に応じた良書の読書である。これを通じてそれぞれの段階の技術を学び取ることが人としての価値を高めることを理解せしめる。
 体育教育は体と健康の観点も取り入れた指導をすると良い。古典的体操の技術の他に,健康で一生を過ごすためにはどんなことに留意する必要があるかを教えるのだ。これは医療とも密接な関係がある。めいめいが健康法に習熟していれば国民医療費が削減される効果が期待できよう。
 芸術教育は良い作品にできるだけ触れさせることだ。良い作品に触れることが,芸術の感性を開花し豊かにする効果が多分にある。芸術はやがて古典的スタイルからバーチャルな物へと進化し新しいジャンルを確保してゆくだろう。コンピューター作曲,三次元デザイン,などとして。
 道徳教育,「人として守るべき道」を,理論だけではなく,さまざまな生活場面を通して具体的に指導することが重要だ。「心の欲するところに従いて矩を越えず」とは,なかなか行かないから,この場面では,「こんなこと」を指導しようと予め考えておくのが良い。その教育目的は,心の温かい「祖国を愛し,郷土を愛し,祖先を愛し,祖父母を愛し,両親を愛し,兄弟姉妹を愛し,配偶者を愛し,隣人を愛し,自然を愛すことのできる,慈愛に満ちた人間を育てる」ことにある。愛はまた,高ぶらない,奢らない,如何なる報酬も求めない,人を自然を生かすものである。人はまた一人で生きることはできない。多くの人,自然に支えられてこそ生きていけることを感じなければならない。感謝の心をもった誠実で謙虚な人こそが世の光となることをも学ばねばならない。子はやはり先に生きた大人から良きにつけ悪しきにつけ学ぶのである。子は親の鏡と言われる所以である。弟は師を超えてこそ師の冥利,教育の真髄はここにあろうと思われる。正に身が引き締まる思いであってこそ,人を導く教師と思われる。
 具体的な教育内容は,外国の指導内容との比較検討の上,見劣りしないものにする必要がある。また,どんな教育レベルにしたところで,勉強をしない者はついていけない者がでる。こういう者は,落第させればよい。世の中は常に闘いなのだ。このことを幼いうちから叩き込んでおくがよい。それがその子のためなのだ。この訓練をせずに世の中に出すことは,裸のままいきなり寒風の中へ放り出すようなものなのだ。世の中で強く生きて行ける子供たちを育成する必要がある。もやしを大量に作ってどうする。従って,諸国の子供たちと闘って,勝てる子供たち,少なくとも負けない子供たちを作るにはどうするかが問われている。だから,世界の最高水準の教育レベルを目指すのだ。して,最低レベルをクリアできないものは落第とする。これは生きてゆくために必要だ。して,学年ごとに,最低消化すべきレベルを決めておき,学力テストで全国一斉に調査し,一定レベル以下は落第とすればよい。こうすれば皆必死に勉強することになるから,社会に出て使い物にならないことにはなるまい。生徒の本分は勉強することにあるのだから。これはまた,社会で生きてゆくための最低の力なのだ。ただし,特殊学級の生徒は身体的・頭脳的ハンディがあるのだから,状況により別の方法を考える必要がある。ここで,教育上配慮することは,人を友達を蹴落とすことが目的ではない,皆で生きるための競争であることを指導することだ。だから,教育現場では,互いに教えあう,また,協力しなければ達成できない,それぞれに責任を持たせたグループ学習などはできるだけ取り入れるのが良いだろう。こういう中で,コミニュケーション能力,協調の精神,説明能力などが培われよう。
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教育基本法改正によせて(15.6.9)
 1945年敗戦後,GHQの対日占領政策によって教育勅語が軍国主義の元凶のように言われ,現在の教育基本法に取って代わられた。新しい精神の下に,戦後の教育はなされてきた。いわばこの教育基本法が種であり,現在の教育の荒廃ぶりがその実である訳だ。アメリカ的考えは日曜には教会に礼拝に行き人として守るべき分別を教える機会がアメリカ国民にはあるから,自己中病にかかる人間は少ないのであろう。だが日本の場合,アメリカにある社会教育としての特別の人を除き教会の日曜礼拝は無く,人として守るべき道を教える機会を奪ってきたことになる。戦前の教育勅語はこのアメリカでいうならば,キリスト教会の日曜礼拝に当る,人として守るべき道を教える社会教育機関の役割も果たしていたのだが,GHQの役人どもは,この日本の現実を無視した教育制度を押し付けた結果,今日の教育の荒廃を招く原因を作る結果となったのだ。その罪は深く重いと言わなければならない。
 日米の違いを考慮に入れ,少なくとも,人として守るべき道の部分については残してしかるべきであった。これが無い現行教育基本法は欠陥法というべきものであった。従って,早急に改正して然るべきであったのだ。ようやくその機会が訪れたことは,日本の未来にとって,自分を取り戻す第一歩ということだと考えられる。
 各党それぞれの立場から意見の相違があるのは有ってもいいと思う。よく話し合ってよりよい物を作って欲しいと考える。これからできる法律が次代の日本人の行動様式を規定することに大きな影響を与えるであろうことは当然のごとく予想されるからである。新法は十年,二十年,三十年と時間が経過することによってその教育の結果によって評価されることになる。新法によって教育された者自身から五十年位経って良い教育基本法であったと評価される法にできるのが最もよい訳だ。が,意志さえあれば表面化した欠陥は再度修正することもできよう。そうして法というものの欠陥は是正されよりよい法へと進化するものだと考えられよう。その意味ではぜひとも,定期的に法の評価をし,結果に基づく検討の機会と修正の機会を継続的にもたれることを期待したい。最初から完璧な法等できるはずも無いからである。
 現在の審議の状況を見ると,公明党は,「愛国心」に引っかかっているようだね。これがあると,戦前の軍国主義や宗教弾圧に発展するとでも考えているのであろうか。戦前は「国家神道」によって諸宗教が弾圧されたという歴史があるから,心配は理解できる。が,誰もまともな考えの人は宗教を弾圧しようなとどとは考えないとは思いますよ。オーム事件の後宗教に対する風当たりは強くなったところはあるかも知れないが。しかしこれは例外的なことであって,世の中のためになる布教活動や奉仕活動をして,その方法が世の中から見て受忍限度を越えない限り,宗教活動を制限する必要は無い。心配する必要はないと考えますがね。ただし,主旨から悦脱した活動をすれば批判はされるだろう。宗教人がその存在目的にかない節度ある活動をしている限り何の問題もなく活動の自由は保障されよう。現在におけるあらゆる団体の活動は全て法律にのっとってなされるようになっている。これを忘れた活動をしなければ特に心配には及ばない。であるから,「愛国心」を文言として基本法に載せても何の心配も無い。
 本来は,言葉でいえば「愛国心」が芽生えるものではないのだが,それをあえて入れなければ何も始まらないところが問題と言えば問題ではある。この種の感情はもともと自然に備わっている素朴な感情なのである。これは人間が群れをなしてその生命の安全を図ってきたその歴史に由来する。だから,帰属意識というものが強制される訳ではなくとも生まれながらに群れをなす動物なら自動的に存在するのである。従って,まともな親なら誰に頼まれなくとも,我が子を慈しみ育てるのである。これは動物的本能として備わっているからこそ,種は保存されてきたのである。民族や国にしてもそうである。そこに属する人達が,同族意識をもち団結し,共同して外敵から身を守ってきた結果が,民族や国として存在しそのような考えをするDNAが民族や国として受け継がれてきたのだと見るべきであろう。
 では,なぜ戦後の日本では,この帰属意識が希薄になったのであろうか。理由は簡単である。この帰属意識をGHQが,諸法律と諸制度をもって破壊したからである。人間ほど教育による影響を受ける存在は無い。ここで,民族や国としての当たり前の帰属意識を取り戻すことのテーマとして「愛国心」があるのである。であるから,この素朴な心こそが日本人としての存在理由であると考えられよう。つまり,まともな人間としての帰属意識の再生の意味がある。そして,これこそが日本が日本として存在し続ける理由である。もう一度国の代表者には,自分は日本人なのかという原点に立ち返って考えてもらいたい。されば結論は一つになろう。諸先生には賢明な判断を期待したい。これを否定するなら日本が日本である必要などなくなるのである。遠い将来においては,全人類が,民族や国という考えから離れた生き方を全ての人達ができる時代が来るかも知れない。恐らくその時は,強大な宇宙帝国によって地球が滅亡の危機にでも陥った時ではないかと考えますね。共通の外敵が現れると団結するものであるからだ。それまでは当分の間,国というカテゴリーは続くものと考えられよう。
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日本の立場に立った教育を(16.1.23-27)
 教育を日本人の手に取り戻す必要がある。中国人は中国で,朝鮮人は朝鮮で教育をすれば良い。そちらでなら日本をどう言おうと,日本の子供たちをスポイルすることにはならないからである。
 我々は韓国・北・中国の立場に立って論ずる必要はない。日本の立場に立って論ずればよい。
 日本で元寇といっている「文永の役(1274年)」や「弘安の役(1281年)」を韓国では日本に対する「征伐」と子供たちに教えているそうだ。日本に対する侵略とは言っていない訳だ。また,倭寇は日本を含め東アジアの人たちの海賊行為だが,これを彼らは日本の侵略と言っているそうだ。『自分たちこそなんだ』と,言いたい所だ。こんな言い方を認めるなら,韓国人や中国人が日本で犯罪を犯し,殺人や金品を強奪する行為も現在進行形の侵略になる。我々も現在侵略されていることになる。韓国はすでに竹島を侵略し自分たちの領土だと開き直ってさえいる。
 韓国人が「強制連行」を言うのなら勝手だが,日本の公教育の総決算とも言うべき国立の入試にこのように外国の主張に迎合する問題を出すとは。子供達から元気を奪うことに繋がることが分からないのか。考えてもみよ。この状態は,『お前の親は殺人者だ,強盗だ。お前は犯罪者の子供だ』と繰り返し繰り返しその子供に言うようなものである。こんなことをたたみ込むように言われていて精神的におかしくならない方が不思議である。子供は皮肉れるばかりと考えるが。皮肉れるだけではない。教師を信じなくなり荒れるであろう。攻撃される細胞は,身を守ろうとするように,反撃,ひいては周りを全て敵と認識し,攻撃的な性格が作られるであろうことは体の中で行われている細胞の攻防を見れば明らかである。細胞の攻防と,人間の攻防は相似形を取っているのだ。人間自体細胞の集まりだから当然なのだ。これは由々しい事態だ。
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日本断罪教育は子供への拷問でもある(16.1.23-27)
 子は親の血統を受けついているのであって,そのDNAは子供の中に脈々として流れているのである。自分たちの父や祖父がやったであろう日本軍の断罪を子供に示せば,子は血が逆流する思いになるであろう。子供は大人に比べ知識も少なく反駁する術すらなく一方的に先祖の悪口を言われる訳である。もうこれは平和教育の名の下に行われる子供に対する拷問であると考えるが。教師が戦前のあの時代の歴史を教えるとき,子供達は,『また,日本の悪口か』と,つぶやくそうだが,大人達は,なぜ子供達がこうつぶやくかを考えなければならない。先祖を冒涜することは,自分が言われることに同じことなのである。血を受け継いでいるから当たり前なのである。事実を知るときが来ても良いがそれは精神的に十分に強くなった大人になって自分の頭で考えてものを言えるようになってからでも遅くはない。離婚した妻が小さい子供にあなたのお父さんはあなたを捨てて家族を捨ててあの女に走ったのよ。「憎んで憎んで憎みなさい」と,言うようなものである。子供にとって結果としてそれが事実としても,残酷であることに変わりはない。また,『あなたのお父さんは人を殺して死刑になったのよ』。あるいは,『強盗を働いて刑務所に入っているのよ。あなたはその子なのよ。あなたを愛せるわけないでしょ』。と毎日毎日その子に言うことがどんな意味を持つか考えてみよ。子供がおかしくならなかったら不思議である。やけっぱちにならないであろうか。また,そんな事を言う親を恨むであろう。事実を言われたとて決してうれしく思うことはないであろう。別れた男が憎らしくなると,残念だが,その子まで憎くなり,苛めや虐待,果ては死に至る折檻となることさえ稀ではない。日本の悪態を子供に対して言うということはこういう事なのである。どんなに言われてもその子供にとって身勝手な父の子である事に変わりはない。同じように子は日本人である現実は変わらないから,そのダメージは計り知れない。親の性質を子供たちは受け継いでいるから事は深刻なのだ。これを分からず言っていたなら馬鹿としか言いようがない。
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歴史教育の視点と教育の独立(16.1.23-27)
 我々としてはあの時代の日本の首相だったらどのように日本を導けたかを考えさせる視点がどうしても必要である。時代背景の中で考えさせることを避けていては日本の立場は分からない。自分は安全な場所にいて,裁判官のように,他人事のように論ずるのは歴史に対する冒涜と考えるが。
 東京裁判の判決はまともではないことは,インドのパール判事が日本の立場を弁護し始めたとたん,同時通訳を解除してこれを黙殺した事実をもって明らかである。我々はもう「東京裁判史観」から抜け出る必要がある。あれは公正な正義の裁判などではない。公正を装ったリンチであるからである。アメリカの知能犯なのである。これを成して始めて精神的隷属からの開放。即ち,真の教育の独立,隷従からの復権があると思われる。
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子供達を知の砂漠から救え(16.1.23-27)
 例外的な朝鮮人の徴用を強制連行として強調することは,他人の事ではない。自分に対する暴言なのである。我々は事実より悪く言う必要はないのである。日本の悪いことばかりを教えていて,日本に誇りを持てる子供を育てることなどできはしない。誇りがもてなければ,次第に元気が無くなり日本の子供達は死んでしまうだろう。死ぬとは自分や祖国に誇りがもてなく,力なく目はよどみうつろになる状態を指して言った言葉である。
 現況の子供たちは生きる道しるべも無く,悪い先人の足跡だけを強調して教えられ,道に迷い,飢え渇き苦しみもがいている状況でさえある。それが学校の荒廃として現れているのであろう。それだけに留まらない,非人道的な日本の行動ばかり強調して教えていると,それを理解するための神経回路が作られ,もっぱら自分がその行動をやってきたかのようになるのである。こうして凶暴な人格も形成され,人に対して危害を加えることも学習によってできるようになる。同時に自分を嫌悪する人格も形成される。要するに悪いことを教えていることにもなるのである。中国や韓国はそれが彼らの利益と考えるから執拗に言うのである。
 我々は子供が我が国に対して誇りを持てるような教育を,元気が出るような教育をしなければならないのであって,悪い事実を教えなければならない理由は何も無いのである。
 人は良い事を教えることによって良い事を考えることができるようになるのであって,悪い事ばかり教えていると思いつくのは全て悪い事となるのである。子供たちには溢れるばかりの良い事を教えるべきなのである。こうしてその目が輝いている子供達にしなければならない。
 良い子に育てることが少なくとも国益であり,子供たちに生きる力を与えることに通ずるから子供たちのためでもある。子供を悪くする中国や北・韓国のためのエージェント教師のために教育することは犯罪であると考えるが。
 民主党議員であった元米国務長官H・キッシンジャー(元々米民主党議員には容共ないし親共の議員が多い。ルーズベルト米大統領もそうだった)が,1970年に人民中国に飛んで,日本の頭越しに米中会談をした時,ソ連問題も当然話し合われたが,日本の事も話し合われたとか。その時,日本はあのまま放っておけば,21世紀には溶けてなくなるよ。と耳打ちしあったと言われている。
 彼らは占領プログラムで日本崩壊を組み込んだって訳だ。日本人でありながら,日本人でないような口の利き方をしている者が増えている。彼らの目論見に近づいているのである。彼らの狙いは日本を消すことなのである。このことは米国の外交機密に関する公文書の封印が解かれ研究者が知るところとなりその報告もなされたのだが,「朝日新聞を筆頭とする反日新聞」が日本国民に知らせることはなかったのである。彼らは日本をだめにするのが目的だから知らせることはないのである。我々としては断じてそうさせてはなるまいと考えるのだが。
 こんな米中の意図も分からず日中国交回復を急いだ日本も田中首相も共にピエロのようである。外国の指導者が何かを言う時は必ず意図がある。その意図を考えて行動する必要があるのだ。当時の日本は高度成長を終え,その経済は希望と自信に満ちたものであった。彼らは人民中国をうまく使い日本の押さえ込みを目論んで,然るべき密約を結んだに違いない。結果は彼らの目論み通りに今となってはなったと言うべきであろう。もっとも,別のモンスターを生む結果とはなったが。効き目があり過ぎたと言うことか。アメリカは敵も味方にしてしまうほどに,長期的戦略的外交も得意だということくらいは学んでおく必要がある。どこの国も表の話はしても裏の取引は公表しまい。外交はこの裏取引も知った上でする必要があろう。でなければ,大切な裏情報なしで政策決定をすることになろう。これでは国益を守れるとは思えまい。故に,こういった情報を掴むためにも日本は「諜報部員の育成」が求められよう。敢えて言うなら,各国にエージェントを配置することも。これは正しい外交政策を決定する上で必要な条件と思われる。外交官に諜報部員としての技術を身に付けさせしかるべく行動できるようにすれば良い。外交官には不逮捕特権が保障されているからである。
 植物も,植物に良い肥沃な土壌でこそすくすくと育つのであって,汚染された土壌ではまっとうに育つはずもないことは火を見るより明らかであろう。人間も同じ事で,我々は子供たちには溢れるばかりの良い事を教えねばならないのである。
 悪い事ではなく,良い事によって,次に生きる人の見本とするのである。悪い事はいくら聞いても生きる見本にならないことは言うまでも無い。子供たちには,人としての生き方をまず教えねばならないのであって,悪い生き方を教えることは悪人を作るようなものなのである。絶対に避けねばならないことである。よく生きた人のこと,擬人化した動物の話としても勿論良い。人に対してよく接した誇れる内容を教えて,子供たちには,「このように生きるのですよ」と,暗に示すだけでもその効果は抜群である。子供たちは元気になるのである。正に水を得た魚であり,諸葛亮を得た劉備の如くなるのである。
 これは偉人の話があっても良いが,別に偉人ばかりとする必要は無い。また,日本人だけに絞る必要も無い。どこの国の人でもすばらしい人はすばらしいのである。凡人でも結構である。普通の人は凡人になる確率の方がはるかに高い。身近な題材に求める方が良いのである。ベンチャーの成功者でも良い。できるだけ多くの人の人生へのチャレンジ,生き様の概要を副教材として生徒に配るのが良い。これは生き方の教科書となるであろう。一般凡人の生きる見本となるからである。こうすることによって日本中の子供たちは良い生き方を学び良い栄養となって皆良い子になるであろう。子は国の宝である。良い子を育てることができれば国の行く末は安心である。世界に禍をもたらすことも無い。教育はかくあるべしと考えるが。
 日本では,日露戦で無くなったロシアの将兵の墓碑さえ残っている。これは明治政府の世界の戦争法を遵守するという方針から行われたことであった。後に駐日ロシア大使は日本各地を巡り,各地でしっかりと作られたこれらの墓碑を発見し,これに感激,感謝し,これらの建設に要した費用を出させて欲しいと駐露日本大使に書簡をしたためているという。
 戦った敵将は別に彼らに恨みがあったから殺したわけではない。国の利害が対立したから戦ったに過ぎないのであって,命じられて戦った人全てが言ってみれば,敵も味方も戦争の犠牲者に過ぎないからこれで良いのである。
 このように考えることができて初めて「和解」が可能となるのである。戦争といえども,人を殺すことは大変な事である。精神を切り刻むのである。生きても地獄を乗り越えてゆかねばならぬその心のうちは残酷である。我々はこれを理解しなければならない。戦争はむごいものである。親を,兄弟を,恋人を引き裂く。だから生き残ったものへの心のケアが必要なのである。現代ではベトナム戦でこのことの記憶が新しい。
 戦争は醜い。奇麗事はむしろ稀である。樺太戦では,捕虜を銃殺にしていた。ではなぜ。その理由は,彼らが当時使用を禁止されていた殺傷力の強い「ダムダム弾」を使用したからだったようだ。ルールを守らなければ我々だって怒り出すということであろう。ダムダム弾は炸裂弾のことで,弾丸が体内に入り爆裂する弾丸で,殺傷力が高いため使用が禁止されていたのである。過去には象などを仕留める場合にも使用されていた。現在は動物保護などの観点から使用は禁止されていると考えますが。
 戦争など無い方が良いに決まっている。戦争が起こらないようにすべきことは当然である。そのための外交である。が,それでも戦争は起こる。外交はある意味で武器を持たない文官による戦争と言う一面もある。従って,外交官は戦場にいる感覚が常に必要なのである。歴史の解釈では,歴史を,一断片を切り取って,そこからだけで判断するのではなく,一連の動きの中で判断してゆかねば,正しい判断はできないでしょう。
 歴史教育では,過去の判断を糾弾するのではなく,いろいろなシナリオを考えさせ,どうであったかを考えさせねばならないのではないか。与えられた条件で,どのような選択が可能であったかを可能性も含めて考えさせるのでなければ,歴史を生かすことにはならないと思われる。私たちは裁判官ではない。歴史を裁く裁判官など本来はいないのである。ひと時のちょっとした判断のずれが先に行って大きく影響することもあるのである。こういう羽目になぜなったのか。それを研究することこそが必要と思われる。して,その判断には世論の動向もまた大きく影響しているのである。信念のある政治家といえども大きな反対を押し切って決断をするのは並大抵のことではない。
 日本における政治においては,特殊な状態をのぞいて,大半が合議制で国としての意思決定は行われている。明治政府もそうだし,あの時代すらそうである。江戸幕府もそうである。室町時代,鎌倉時代もそうであった。国の始まりがそうであった。この国に秦の始皇帝のような独裁的帝王はいなかったのである。
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教育の神髄(16.1.23-27)
 医者は患者にあなたは明日にでも死にますと言うであろうか。家族にはたとえ真実を言ったとしても,本人には言わないのだと考えるが。本人は状況からその死期を悟るものであろう。
 子供達や国の将来にとってプラスとなる教え方をする必要がある。教育は事実を教えることに主眼がある訳ではない。人として自立して,夢と希望を持って社会に巣立っていけるように激励,鼓舞,援助するのが教育と思うが。
 それが内政問題である「教育の神髄」である。文部科学省にはしっかりと指導監督することを求めたい。この問題の根は,外国に内政干渉の根拠を与える「近隣条項」にあるのであろう。これは即刻廃止しなければならない。これは国会議員の義務である。これを戴き続ければ,ばい菌を増やすことはできても,元気の出る子供たちを育てることはとてもできない。
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教育現場における人権尊重の教育(17.1. 7)
 以下は平成15年9月18日私学教育研修会で「人権尊重の教育の工夫と課題」の資料として私が報告したものである。子供たちの人権をいかにして守るか。また、人権尊重の精神をいかにして育てるかという視点から論じたものを多少の校正を試みたうえで提示したものである。

 当校は私学で通学範囲が広範囲にあり、特定の地域から生徒が集中して来ているといった状況にもないため、特別に差別などに意識した教育は行われていない。する必要がないといった状況があります。とは言っても、広い意味で個々の人権を尊重する配慮は常に行なわれている。われわれ教師が常に起こりうる状況において、どう対処すべきかを心得ておく必要があると思われます。


◎ 教室での秩序維持は人権尊重の第一歩
― 教室で騒いだり、授業の進行の妨げになる生徒への対処 ―
 このままの状態を放っておくことは、真面目に授業を受ける多くの生徒の教育を受ける権利を該当生徒が犯していると考えられます。教師としては当然の義務である該当生徒への注意をするわけです。素直に言うことを聞き入れて教師の指示に該当生徒が従ってくれれば問題はそれほど大きくはならないと思われます。問題は、注意しても言うことを聞かない生徒が現れた場合である。  この場合、生徒が言うことを聞かないのは、「教師の指導が悪い」からだ。とか、「指導力がない」からだ。と、言うのは簡単であるばかりか、問題の解決には何にもならないと思われます。これまで、実は、マスコミをはじめ教育関係者からもこう言われてきたように思われます。その結果は、状況は悪化の一途を辿り、学級崩壊や学校崩壊と言われる状況が巷にあふれるようになったのではないかと思われます。
 注意しても従わず、他の生徒の教育を受ける権利を奪う児童生徒は、学校長による「懲戒」の対象になることを、教師の共通認識にしなければ状況の改善にならないばかりか、真面目に授業を受けようとしている生徒の人権侵害の状況を継続せしめるだけではない。該当生徒を「他人に迷惑をかけても何とも思わない人間」へと益々追いやることに手を貸していることになるのではないかと思われます。このような生徒が社会に巣立ったとき、彼らを社会は「愛する」ことができるだろうか。社会からつまはじきにされ、疎外され、場合によっては、犯罪者へと追いやることになりはしまいか。世の中には犯罪者があふれている。事件のない日はないくらいである。この犯罪者にも子供の時代はあったのである。
私たちは、児童生徒をこのような立場に追いやらないためにも、「間違った事をした、あるいはしている生徒」に対しては、毅然とした態度で「悪いことは悪い」と、指導し、行動を改めさせる必要があります。また、必要なら保護者に来てもらい、状況により停学、あるいは特別な施設(このような児童生徒のみを登校させる施設を、公立なら地域ごとに作りまとめて指導ができる)での授業なども考慮してゆく必要があるでしょう。その目的は「子供たちを自立できる有為な人材に育てることもあるが、社会から可愛がられ、愛される存在に教育する」ことにあると考えます。
われわれ自身が研鑚をつみ指導力をアップする努力をすることも勿論必要だが、教科書どおりの場面はまずない。どんなに注意を払っても百%完璧な指導を全ての教師ができるとは思えない。児童生徒にも態度を改めさせる教育上の制度的支援が必要と思われる。まともな教育を受ける機会さえ奪われる状況を許していては、子供たちに申し訳がないと思われます。解決できるのは、われわれ大人だと思います。この問題を、教師一個人の問題として捉えるのではなく、教育制度も含めて社会全体の問題として対策を講じていかねば、明るい明日の教育はないと思われるのですが。


◎ 人権尊重のみを強調するのは人間の身勝手、根の部分に注意を
 ― 動物など生けとし生けるものをいたわるのは治める人間の務め ―
 新教徒革命、フランス革命などなど、人類が手にしてきた人権というものは実は、他の人間の人権を踏みつけることによって手にしてきたものである。血塗られた人権獲得の歴史であることは明白な事実であろう。人を殺しておいて人権を叫ぶとは、何と空恐ろしいことか。自己矛盾に気がつかないのであろうか。実は、この人権思想そのものは自己中心的な自分勝手な考えの所産に他ならない。だから彼らの子孫は各地に植民地を作り、在住の人々を牛馬のごとく扱っても何の心の痛みもなかったのであろう。所詮は自分たちだけの人権主張だったのである。
 今日においてはかなり広範囲の人々に対して人権を尊重すべきことが主張されるようになってはきているが。だが、この人権は他の生命体を虐殺し、これを食することを前提としたあさましい身勝手な考えである。人間は牛を豚を鶏を数限りなく殺して食べている。もし人間が豚で、豚が人間だったら、人間を殺して食べる豚を何と思うことであろうか。きっと恐ろしい鬼とでも思うことであろう。われわれはこのように、人権尊重を言う者でさえ、食べられる動物から見たら全て恐ろしい存在である鬼の仲間に過ぎない。
 人間は常に自分のやっていることを正当化し合理化する生き物である。この事実を踏まえた上で、全ての生き物とできるだけ共存する道を模索し、生きられたらどんなに心が助けられるか。少なくとも動植物の愛護くらいの精神は幼いうちにその心に大人の模範を以って刷り込んでおく必要がある。そして、これこそが他の弱い存在を労わる心の成長に欠かせないことと考えるのである。人を人として尊重することが自然とできるのは、愛護の生活実践習慣から自然と身につくものであろう。そういう意味では児童生徒の時分に、花壇に下肥を施し種を蒔き、毎日水を適切にやり、世話をすることで綺麗な花を咲かせる。人間の愛に植物は美を以って返す自然の理を経験することが大切と考えるのだ。そして、これこそが人間の情操を育てるものであろう。私も小学生の時分に花壇の手入れを毎日していたことを今でも覚えている。そういう情操の土台があってこそ他を思いやる慈しみの情感が育まれるものと信ずるのである。決して、机上で勉強したから身につくものではありえない。日々の生活の中で、動物や植物を可愛がり育てることで、自然と愛する姿勢や態度が身につくものと信ずるのである。われわれ教師が正に最初にしなければならないことは、この生きた実践教育を小学生の低学年までに経験させることではなかろうか。不思議なほどに、いま、小学校での生活で覚えていることは、何を勉強したかではない。勉強で覚えていることは小学低学年で毎朝やった掛け算99、放課後にやったワークと小学六年で学んだクラーク博士のことだけである。花壇の手入れ。サツマイモを皆で栽培し収穫し食べたこと。冬友達と馬乗りをして遊んだことなどである。とにかく私の経験では、体や手を動かして毎日したことを実に良く覚えている。だからこう言った実践経験をともなう教育がもっとも人格形成に影響するのであろう。
 頭を教育によってどれほど変わるか、頭では分かっても体がついてこない。勿論、しないよりはましなのは分かるが。行動を伴わないものは単なる知識に終わろう。花を育てるときに、葉や花に直接肥料や水をやることを目的としない。それらは全て、根から吸収されやすいように土に混ぜたり、地面に十分に散水し花に良い状況とするのである。皆さんも思い出して欲しい。子供の時分を。
何をすぐ思い出すかを。思い出すことこそ、そのときに最も影響を与えているのである。  この事実を踏まえて指導をすることがより効果のあがる人間性を豊かにする教育と信じます。
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