最終更新日:平成22年8月15日

8章 文明論

前書き
 本論述は私個人の見解です。こんな考えもあるのか位に読んでいただければと思います。また,本件についての著作権は放棄するものではありません。




 考古学の限界
 後の時代は前の時代より進んでいるか
 神話と科学する視点
 『戦略とゲーム』の文明による違い




 日本文明は第5の最終文明ともいうべき内容をもっている。他のどの文明とも異なり,自然との一体,共存を図ってきた唯一の文明である。この自然との共存こそは今日的テーマでもある。和を尊ぶこの民族はその意味で世界の範たる文明の創始者でもある。
 逐一概観してみよう。エジプト文明は都市の周りに,神殿の周りに緑はない。
メソポタミヤ文明も然り,インダス文明も然り,中国文明も然りである。 四大文明ではないがヨーロッパ文明の源ギリシャはどうか。パルティノン神殿の在った所は『はげ山』であろう。ヨーロッパ人は木を切り倒しきれいさっぱりとすることが『文明化』と考えていたのだ。
 ところで,日本はどんな考えであったのであろうか。昔からある神社を見たまえ,森の中にあるではないか。『森と共存』しているのだ。また,江戸時代に作られた日光街道をみよ。街道の両脇には今も大きな杉並木が残っている。現代でも陛下自ら,植樹祭を主催し,木を,緑を大切にしている。畑さえ所々に桐などが植えてある。私も子供の頃夏の暑い盛りに畑で草取りをしたことを覚えているが,木陰ほどありがたいものはない。暑さをしのぐ休憩をする時,最もよい場所を自然は提供してくれるのである。ということで祖先たちが木を,森を大切にしてきたのには訳があるのだ。日本は高温多湿で,今でも,風水害が多い。木や,森はこの風水害の防波堤となっているし,夏の暑いときは一服の涼を提供する。夏の日,木のない干々照りはとても辛いであろう。また,日本の家は木でできている。昔は屋根は草(萱や麦殻)で葺いていた。畳も藁やい草である。コンクリートなどに比べ,木は暖かいし湿気の調節もしてくれる。更に,木は燃料でもあった。大昔を言えば,木は紙の代わりもしていた。木簡がそうであるし,今でも家具,位牌,塔婆などその用途は限りなく多い。正に宝の元なのである。従って,木や,森や,自然との共存は,木や,森や,自然のためでもあったがそれ以上にそこに住む人のためだったのだ。日本では自然と一体となった生活はそれこそ自然と行われていたのだ。自然環境はそこに住む人間に多大な影響を与えずにはおかない。
 それだけではない。『神木』とさえなっているものも有る。日本では木さえ神になるのだ。ありとあらゆるものに神性を見出した民族,それが我が『大和民族』なのだ。
 皆さんはこれを,単なる『多神教』と考えるか。考えるとすればそれは余りにも西洋史観に毒されているとしか言いようがない。
 そう簡単ではないのだ。『単なる木とみる見方』と『木に神が宿っていると考える考え方』とを比較して,どちらのほうが『木』を,『森』を,『自然』を大切にすると思いますか。これは論ずるまでも無く明らかであろう。そう考えると『大和民族』の考えの方がはるかに優れていることが分かるでしょう。物事は簡単ではないのです。我々は『そういう意味で多神教というなら』それを誇ってよいと考えます。
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考古学の限界
 本当のところは殆んど不明というのが実態と考える。過去の断片の一部を以って推し量る訳だから,考古学にはこれしか方法が無い,土台無理というものだ。例えば3000年後今の時代を現在のかけら数片から推し量れるものか。例えば木製の茶碗が出土したとする。これだけを見たら現在の姿を何と考えるだろうか,とても人工衛星が飛んでいたなどとは考えないでしょうね,たとい図面が出たとしても,想像力が豊かだったねと考えるでしょう。証拠が出てこない限りは。であるから,たとい進んだ文明が仮にあったとしてもこれを見ることは不可能なのです。従って,実際も,我々が考える以上に進んだ時代があってもおかしくは無いのである。
 正に,我々が過去を見る眼は象の毛を見て全体像を推し量るよりひどい状況だろう。故に,過去は『確認されたことはあった』と,いうこと『のみ』しか語っていないのである。また,人は移動するから,現在住んでいる人の祖先がそこにいた証拠にもならない。だから,大昔の文明をさして,自分たちの文明ということも当てにはならない。可能性は高いかも知れないが,そこの文明をほろぼして,別の地から来た者たちがその後を築いたってこともあろう。もっとも,そこに栄えた文明とならいうことはできる。現在と関係ないとしても。
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後の時代は前の時代より進んでいるか
 人は,後の時代の方が進んでいて当たり前と考えるだろう。物質文明についてはこれが当てはまる場合の方がはるかに多いことは確かだとは思う。が,文明が何かの原因で滅ぶと,全て最初からやり直しなんてことも有り得るでしょう。すると,進歩のレベルの逆転現象があってもおかしくないのである。特に,全地が滅びるほどのことがあるとですね。地殻変動によって大陸が沈むなんてことは大異変です。また,突然の寒冷化,あるいは高温化などが起こって,地球環境が激変なんてね。実際,長いスパンで考えると,氷河期,間氷河期の繰り返しで,今は勿論間氷河期。氷河期がきたらどれだけの人が生き延びるだろう。食料は激減するだろうから,食料の奪い合いから戦争がおこり,人口は激減ということも有り得るね。戦争にならなくても,寒さに耐えられずバタバタと人も家畜も動物も倒れる。あらゆる生命体に甚大な影響を及ぼすだろう。そういえば恐竜もこれで滅びた。環境の激変で。これは大隕石の衝突で全地にチリが舞い上がり日光をさえぎり急激な温度低下と,食料の急激な減少をもたらしたためと言われている。
 メソポタミヤ地方に残る大洪水伝説などは,聖書ではノアの洪水伝説としてあるが,近年その記録が粘土板に残っているのが発見されたようである。 これなどは自然の猛威による新規蒔き直しということであろう。
 実は,こんなに長いスパンで考えなくとも比較的小さな逆転は起こっている。どんなときだと思う。勿論,文明が破壊されたときないしはそれに近いときだ。戦争によって破壊された後とか,悪政によって活動が制限されたときなどは文明的にも衰え,前の時代より悪くなることが起こる。
 では,精神文化はどうか,これは必ずしも後が進んでいるとは残念だが言いがたい。これには地域格差もあるし,分野的な格差もあろう。一律には論じがたい。
精神文化に類するものには,@哲学,A宗教,B文学,C倫理道徳観,D芸術,などが考えられようか。進歩を考えるときに,何を進歩と定義するかで結論は変わってくる。そこで,勝手では有るが,『より平和で,心豊かで,人間の尊厳の向上につなれば』これを『進歩』と定め肯定評価を,余り変化が見られなければ『維持』,マイナスと見えれば『退歩』と位置付けることにする。
 するとどうだろうか,@Aは維持,Bは退廃文学が多く退歩,Cは倫理観喪失の状況を考えると悪化即ち退歩,D芸術は様々な表現法が編み出されているから進歩ということになろうか。
 それゆえ,様々な社会的問題が噴出しているのだろう。
概観してみるとやや『退歩』というべき状況と言っていいだろう。
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神話と科学する視点
 その昔,神話『言い伝え』と言ってもよいが,ホメロスの書いた英雄叙事詩『イリアス』と『オデッセイア』に書いてあった『トロイ』を発掘したドイツ人『シュリーマン』は,叙事詩の内容を実際にあったことだと信じ,皆が笑う中,発掘を続け『トロイの遺跡』を発見した。現在でも様々な発見がなされている。もっとも遺跡の捏造などがあると信用を失うのでこれに携わる方々には,歴史に忠実な僕となって欲しいと願うが。
 近年は考古学も進歩して,年代測定法も飛躍的な進歩を見ている。過去の推定が訂正されるケースも出ているようだ。
 話は変わるが,神話と言って笑う無かれ。意外と神話は先祖の伝承を伝えたものだからよほどに大事で,過去の事実を伝えている場合が多い。
 あえて言うなら,嘘を後生大事に言い伝える馬鹿がどこにあろう。意味の無いことに心血を注ぐものか,馬鹿らしいと思うであろう。ということは大事,真実で有ればこそ伝わっているのだ。
 出雲大社の48メートルにも及ぶ大神殿も最近その証拠が発見され記録の正しさが証明されたようだ。以前は,これをそんな巨大なものがその時代に建てられる訳はない。単なる神話だ(これを唱えた人達の言う神話は作り話の意)。と言って一笑に付した。で,彼らは自分の不明を恥じているのであろうか。恥じる者はいまい。そういう事を言う人間はそれだけのレベルの人間なのだ。謙虚さがなく,検証もせずに軽々に『無い』と言うからこういう事態を招く。これなどはそのよい例である。
『端から否定するのは科学する者の姿勢では無い』とはどうやら言えそうだ。大事な視点は,先祖の遺言をもっと大切に考え,実証しようとする視点をもつ事であると考える。
 もう一つの例に,例えば『奇蹟』は何故起こるのか。端から笑う人もおろうが,それは浅はかな人間の結論である。
 奇蹟は実は起こるのだ。どんなとき,何故起こるか,考えることは面白いとは考えぬか。ここでも,奇蹟を定義しよう。奇蹟とは『通常では起こりえないことが起こること』を『奇蹟』というのだ。
 そういう意味では『奇蹟』は,人の真心を引き出すことに成功したとき,大きな力を発揮し,『奇蹟』は起こるのだ。
 イエスが大勢の群集に僅かのパンを祝福して分け与えたとき,食べ終わってみるとその何倍ものパン屑が集まったとされる『奇蹟』もこれである。実像は読者に考えてもらいたい。これを読んでいる人には考え付くはずである。
 また,人間の脳は3%位しか使われていないと言うから,かなりの可能性を秘めている。また,数がいれば様々な能力を持っている人がいるものだ。  象は見えない水のありかが分かると言う。不思議ではないか。人間は象以上の筈であろう。ならば水のありかが分かる人が現れても不思議はない。
 アフリカの狩猟民は目がすこぶる良い(視力4.0とか6.0とか,どちらか忘れたが)と聞く。よく見えるものだけが生き延びることが出来たからそうなのだろうが(進化論の適者生存)。我々の感覚ではとても考えられないことが現実にはある。この意味することは我々の感覚で不可能なことでも可能なことがあるということである。端から否定するのではなく謙虚に検証する姿勢こそ科学する者の目ということではないだろうか。これから,未来に羽ばたく者には,こういった視点をぜひとも忘れないで欲しいと思っている。
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『戦略とゲーム』の文明による違い
 戦国武将はよく囲碁や将棋を,ヨーロッパでは西洋将棋をしたようだ。これは,たかがゲームだがこのルールを見るとその文化の違いがはっきりする。ゲームなどはその地の者が考案したのであろう。そこにはそこに住む人達の生き方が反映されるのである。
 まずは『将棋』,これは日本発(と考える)で舞台は,戦場の戦いである。面白いのは,取った駒は自分の持ち駒として使えることである。これは,今まで敵として戦ってきた者でも,下れば味方になることを意味している。駒の違いは各武将の能力差を表している。各武将をどう使うかで勝敗は決まる訳で,各武将の使い方が勝敗を分ける。正に大将の采配ということになる。
 駒の配置は布陣である。また,敵陣に入った駒は成金となる。これなどは敵陣深く切り込めば手柄を立てるチャンスがある訳で恩賞をいただくチャンスともなり兵はそれこそ必死に戦う訳だ。それゆえ成金なのだろう。ト金などはさしづめ,雑兵への鼓舞かと思う。
 囲碁はどうだろう,これは『天下取り』ゲームである。盤上はさしづめ中原である。石をどう置いていくかで天下の形勢が決まっていく。中国では大軍どうしの戦いである。日本では,関ケ原の戦いなどは東西合わせて16万位で大戦(おおいくさ)と言っているが,200年に行なわれた,魏の曹操と華北の平原一帯を基盤とする大勢力を有していた袁紹が戦った天下分け目の戦い「官渡の戦」では袁紹の70万と曹操の7万が戦った。規模は関ケ原の5倍である。絶対に負けることはないと確信していた袁紹ではあったが,戦いが終わってみれば,窮地に陥っていた曹操が勝ったのであるから,戦は数ではないことが分かる。この戦いは,人の器がもろに出た戦であった。有能な人材を集めはしたが活用できず,決断力に欠けた袁紹は戦場で,参謀同士の反目から裏切りにあうのである。結果は再起不能の大敗であった。有名な「赤壁の戦」では魏の曹操は83万の大軍を自ら率い,呉の水軍と蜀漢の連合軍,こちらは合わせて5万程度と長江を挟んで赤壁で対峙したが,曹操は大敗を喫し命からがら広陵へ落ち延びていったのだ。諸葛亮孔明の献策と読み,周兪の果敢なる火攻めの勝利である。蜀漢の劉備が関羽の弔い合戦で,呉に対して起こした兵力でさえ70万である。時代は下って,隋の煬帝が高句麗を攻めた戦は100万の大軍であった。天然の要害に守られた高句麗はこれを撃退することができはしたが。これに学んだ唐は新羅の誘いをこれ幸いと,洋上から撃っ出,まず百済を滅ぼした。しかる後南部から高句麗を攻め一気に滅ぼしたのである。いかに戦略が大切か分かろうというものだ。日本では,結構「大きな戦」である「3万〜4万位の規模の戦い」などは,中国では,小競り合い程度でしかないことが分かるであろう。そこには個人の能力差などは勝敗に余り影響しない。戦略が影響するのだ,石をどう置くかが戦略なのである。戦略と戦略の戦い,それが中原の戦いなのだ。詳細に見ると,二眼は自活できる国を,一眼は比較的大きな砦を,石は各砦を意味する。石は連結して打てなどは補給の大切さを教えるものであろう。「こう」などは激戦地を,辺は辺境で,隅は異民族の地,盤上の要衝は戦略上の要衝などと解釈することができる。指し手は二大勢力といったところであろう。このようにして,囲碁は歴代の王朝がしのぎを削って戦った世界の盤上での戦いなのである。よくできているよ。ゲームをする中で自然と戦略的な発想が育つようになっている。さすがに歴史の重みを感じてしまう。元が日本に最初に送り込んだ兵力は日本からすれば大軍にも見えたであろう。今川義元の上洛時の軍は3万で大軍と言われたが,元にとっては一地方である高麗の小規模な軍でしかない,二回目の高麗,宋の連合軍14万にしても少し大きいかなと感ずる程度であることが分かる。日本にとっては天地がひっくり返るほどの騒ぎであったろう。100万もの大軍が来たらどうなったであろうね。何も博多に行く必要は無かったのであるから,これも司令官の驕りであろうが,何も防御の固いところを攻める必要はないのである。手薄な所を攻めれば一たまりも無かったであろう。わざわざ石塁をものともせず乗り込んだのは,最強の頼みとする所を撃破して戦意を挫くことに意味があったのだとは思うが,やはり,過信と言うべきであろう。日本など一ひねりだと思ったのであろう。これまで,行く所敵知らずの勢いだったからね。もっとも,クビライカーンの高等戦術であったのかも知れないね。宋は下ったとはいえ油断できない強大な水軍を持っていたからだ。これをいい口実のもとに葬ったのであるから国内政治という意味ではあれで良かった点はあろう。が,3度目の遠征も考えたようだから,水軍の力をそぎ,日本も服属させたかったに違いない。
 西洋将棋はどうか,実は余りこのゲームのことは知らないので言える事だけ述べるに留める。日本の将棋と違い,取った駒は使えない。つまり持ち駒にならないのが大きな違いだ。考えても見たまえ。ヨーロッパはだいたい異民族との戦いである。だから,例え降伏しても,敵側について味方と戦うなんてことはないのだ。これは,大きな違いである。敗れれば,捕虜となって奴隷となるか殺されるか。寛大なら被征服民となって重税にあえいで生きるかのどちらかである。
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