最終更新日:平成16年5月7日

7章 卑屈な日本,よさを見直せ

前書き
 本論述は私個人の見解です。こんな考えもあるのか位に読んでいただければと思います。また,本件についての著作権は放棄するものではありません。




 中国文明の模倣と言う怪
 中国制度の模倣と言う怪




中国文明の模倣という怪
 私のタイトルは刺激的かな,実はこうすることで問題を浮き彫りにする効果があると考えている。勿論,文明・文化の終着駅として実は日本の文化・文明を捉えているのだが。日本が受け入れたのは何も中国に限ったことは無い。どこの国の「もの」でも「有効」と考えることは取り入れて来た。それが日本なのだと思う。
 よく「唐の長安に倣って奈良の都を造った」と,歴史書に書いてある。そこで本当にそうかと思って調べると,なんと似てはいるが決定的に異なることがあった。外壁ともいうべき高さ10mは有るであろう長安城の城壁が無いのだ。これでは殻の無い貝みたいな物で無防備な都である。とても長安城を真似たとは言えまい。勿論外壁ともいうべき城壁は日本では必要性が無かったのだ。あり得ない訳ではないが,異民族が攻めてくるなんて事も考えにくいからね。
 日本では,以前も何回も遷都が行われた。年表にあるだけでも,601年飛鳥斑鳩宮,630年飛鳥岡本宮,636年田中宮,645年難波豊崎宮,656年飛鳥岡本宮,667年大津京(この宮は663年白村江の戦いに敗れたので安全保障の観点から難波からより遠い大津に移された),673年飛鳥浄御原(ここに遷都できたのも唐との国交回復で攻められる恐れが低下したため),694年藤原京,710年平城京,744年難波京,745年平城京,784年長岡京,794年平安京である。ちょっと調べただけでもこれだけある。しかも都造営の速さは唐より速い。
 遣唐使が派遣されたのは,630年8月犬上御田鍬ら(使は632年帰国),653年(朝鮮半島風雲急の折り留め置かれ654年5月高向玄理(国博士)唐で死す),702年6月遣唐使栗田真人(704年7月帰朝)などがある。
 最近の発掘によれば藤原京はこれまでに考えられたものよりかなり大きくその規模は3倍にも上るという。これも倣って作ったことになっているが,約40年も前の知識で作ったことになる。従って,これ自体が不自然だ。本当に真似たいと思ったら最新の情報で作ろうとするものだ。この時代,調査団を送ろうとすればいくらでもできたがそれを送っていない。
 また,白村江の戦いで唐に敗れたので,唐に倣う動きが出たと言う学者もいるが,戦後アメリカの影響を受けたようにと。馬鹿なことを言うと思うよ。こちらの場合はアメリカに占領されその支配に屈し,人も金も大変につぎ込まれたから多大な影響を受けたのだ。だが先の場合は占領された訳ではない。人も金も上陸した訳ではない。だいたい白村江の戦いで敗れたのは,川を遡った唐の水軍を追って,河口に関する情報不足の中を川を遡ろうとし浅瀬に船が足をとられ動けなくなる船が続出したからだ。日本の河川は小さいのであまり河川で戦うことはなく,海上での戦いが主だったので海戦には慣れていたが,河川での戦いは不慣れであった。中国は大河が多く川と海では普段から河川での戦いがほとんどだったから河川での戦いは唐が有利になるのは当たり前。こちらの船の方が多かったので,相手を甘く見たのが失敗の原因だ。たかだか一つの戦いに敗れただけではないか。従って,唐を崇め奉る必要もないのである。
都を造るには土木技術の他に宮大工の建物建造技術も必要だ。真似れば出来るというものではない,技術が無ければ出来ないのだ。その意味ではこれまで何回も都の造営をしてきた事実は,技術を磨き伝承するためには好都合である。
 遣唐使と結びつけて,倣って建てたということ自体おかしい。建物は別の造りではないか。日本は雨の多い土地柄,長安は黄土地帯で雨は少ない。同じ造りの訳はないのだ。これ文系的な発想。まねればできると思っているのだろう。形が似ていれば中身も同じと思っているのだろう。物を作ったことのない人の発想である。デザイン的にいいかなと思うことは取り入れたかも知れないが,取り入れていないものある。文化というものは相互に影響し合うものだ。ついでに言うが,日本には『巧みの技術の伝承法』が確立している。今日に言う実業学校のシステムを社会的に制度として所有していたと言うことだ。それが,伊勢神宮の式年遷宮(685年)である。どうしてどうして日本の文化維持制度はたいしたものである。外国にこのような制度を寡聞にして聞かないが。
 式年遷宮とは20年に一度宮全体を造り替える事である。こうすることによって細部に至るまで宮大工の建造技術伝承が確実に行われるのだ。
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中国制度の模倣と言う怪
 645年大化の改新。唐の律令制に倣って646年改新の詔が発せられた。日本における律令制度の始まりである。律は刑法でほとんど変更無く。令は刑法以外の法律で日本独自のものも多数。これを以って倣ったと言う。これは言い様だが,刑法などはそんなに違える必要性がなかったというのが実情で,ここで刑法が始めて出来た訳ではあるまい。およそ集団が生活するためには集団の掟というべきものがあるのだ。単に記録が残っていないだけ,無秩序であった訳がない。世には慣習法という物もある。従って,唐の律と日本の刑法に相当する決まりはさほど違いが無かったのだ。令の部分は違いがあったので作り変えられたということであろう。要するに唐の律令制度は日本の制度強化のために日本の考えで利用されたのであって模倣ではない。そもそも,受け入れる土壌が無ければ何事も根付かないのである。つまりは利用価値のある部分だけが利用されたということだ。
 同時に官僚制度なども留学生から情報は伝わっていたはずだが,宦官(宮中で働く役人を宦官というが皇帝の胤以外が紛れ込むのを防ぐために男は全て断種の手術が施された)制度等は日本では取り入れられていない。これを見ても分かるように日本の判断で良いと思うものを取り入れ,まずいと思うものは取り入れていない。単に模倣と言うべきでないことはあきらか。その後も,今日でも良いもの,役立つものは積極的に取り込んでいる。まさに,日本文化の特徴は文化の坩堝で,ありとあらゆるよいものを飲み込んで自分のものにしてしまうことである。
 神道(これも多分そうだと考えている),鉄器の製法,青銅器の製法,儒教,仏教,鉄砲,ガラス,明治憲法を始め様々な文物,現代では様々な特許の導入という形で。謙虚に良く学ぶ国ほど栄えるものである。この日本の姿勢こそ世界の範になる文化そのものと考えるのであり,奢ることなく今後も世界の各国から学びつづければ永久に栄えるであろう。
 中国が早く文明が栄えたと言っている。がそれなら何故日本より遅れたと思う。簡単な理由だ,この国はその昔から中華思想にどっぷりと漬かってきた,これがいけないのだ。周りは蛮族で学ぶべきものは無いとでも思ってきたのだろう。だから,学ぼうとしなかったのだ。近年になって,やっとその過ちには気づいたようだが遅れを取り戻すのは容易ではない。奢った者のつけである。
 よもよも,我らは謙虚になることを忘れまいぞ。
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