中国文明の模倣という怪
私のタイトルは刺激的かな,実はこうすることで問題を浮き彫りにする効果があると考えている。勿論,文明・文化の終着駅として実は日本の文化・文明を捉えているのだが。日本が受け入れたのは何も中国に限ったことは無い。どこの国の「もの」でも「有効」と考えることは取り入れて来た。それが日本なのだと思う。
よく「唐の長安に倣って奈良の都を造った」と,歴史書に書いてある。そこで本当にそうかと思って調べると,なんと似てはいるが決定的に異なることがあった。外壁ともいうべき高さ10mは有るであろう長安城の城壁が無いのだ。これでは殻の無い貝みたいな物で無防備な都である。とても長安城を真似たとは言えまい。勿論外壁ともいうべき城壁は日本では必要性が無かったのだ。あり得ない訳ではないが,異民族が攻めてくるなんて事も考えにくいからね。
日本では,以前も何回も遷都が行われた。年表にあるだけでも,601年飛鳥斑鳩宮,630年飛鳥岡本宮,636年田中宮,645年難波豊崎宮,656年飛鳥岡本宮,667年大津京(この宮は663年白村江の戦いに敗れたので安全保障の観点から難波からより遠い大津に移された),673年飛鳥浄御原(ここに遷都できたのも唐との国交回復で攻められる恐れが低下したため),694年藤原京,710年平城京,744年難波京,745年平城京,784年長岡京,794年平安京である。ちょっと調べただけでもこれだけある。しかも都造営の速さは唐より速い。
遣唐使が派遣されたのは,630年8月犬上御田鍬ら(使は632年帰国),653年(朝鮮半島風雲急の折り留め置かれ654年5月高向玄理(国博士)唐で死す),702年6月遣唐使栗田真人(704年7月帰朝)などがある。
最近の発掘によれば藤原京はこれまでに考えられたものよりかなり大きくその規模は3倍にも上るという。これも倣って作ったことになっているが,約40年も前の知識で作ったことになる。従って,これ自体が不自然だ。本当に真似たいと思ったら最新の情報で作ろうとするものだ。この時代,調査団を送ろうとすればいくらでもできたがそれを送っていない。
また,白村江の戦いで唐に敗れたので,唐に倣う動きが出たと言う学者もいるが,戦後アメリカの影響を受けたようにと。馬鹿なことを言うと思うよ。こちらの場合はアメリカに占領されその支配に屈し,人も金も大変につぎ込まれたから多大な影響を受けたのだ。だが先の場合は占領された訳ではない。人も金も上陸した訳ではない。だいたい白村江の戦いで敗れたのは,川を遡った唐の水軍を追って,河口に関する情報不足の中を川を遡ろうとし浅瀬に船が足をとられ動けなくなる船が続出したからだ。日本の河川は小さいのであまり河川で戦うことはなく,海上での戦いが主だったので海戦には慣れていたが,河川での戦いは不慣れであった。中国は大河が多く川と海では普段から河川での戦いがほとんどだったから河川での戦いは唐が有利になるのは当たり前。こちらの船の方が多かったので,相手を甘く見たのが失敗の原因だ。たかだか一つの戦いに敗れただけではないか。従って,唐を崇め奉る必要もないのである。
都を造るには土木技術の他に宮大工の建物建造技術も必要だ。真似れば出来るというものではない,技術が無ければ出来ないのだ。その意味ではこれまで何回も都の造営をしてきた事実は,技術を磨き伝承するためには好都合である。
遣唐使と結びつけて,倣って建てたということ自体おかしい。建物は別の造りではないか。日本は雨の多い土地柄,長安は黄土地帯で雨は少ない。同じ造りの訳はないのだ。これ文系的な発想。まねればできると思っているのだろう。形が似ていれば中身も同じと思っているのだろう。物を作ったことのない人の発想である。デザイン的にいいかなと思うことは取り入れたかも知れないが,取り入れていないものある。文化というものは相互に影響し合うものだ。ついでに言うが,日本には『巧みの技術の伝承法』が確立している。今日に言う実業学校のシステムを社会的に制度として所有していたと言うことだ。それが,伊勢神宮の式年遷宮(685年)である。どうしてどうして日本の文化維持制度はたいしたものである。外国にこのような制度を寡聞にして聞かないが。
式年遷宮とは20年に一度宮全体を造り替える事である。こうすることによって細部に至るまで宮大工の建造技術伝承が確実に行われるのだ。
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