最終更新日:平成20年8月18日

4章 白旗を掲げて降参という愚かさ無責任さ

前書き
 本論述は私個人の見解です。こんな考えもあるのか位に読んでいただければと思います。また,本件についての著作権は放棄するものではありません。




 亡国の民ユダヤの歴史
 国を失うと言うこと




 私は敢えて強烈な物言いをするが,敗れた国がどんな目にあったかを学ぶことは,独立がどんなに大切かを教える何よりの教師と考えている。その意味では世界史を学ぶことは極めて大きな意義があると考える。
 次に,いくつかの実例を元に考えよう。
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 亡国の民ユダヤの歴史
 この民族はユダヤ教の経典である旧約聖書(彼ら自身は律法の書,即ち,トーラーと言う。イスラエルにあるこの書の裏面には菊花紋がある。菊花紋はその起源はメソポタミヤにあり全地に広まったようで,高貴な紋章のようだ。勿論,日本の皇室の家紋でもある)に記されるように,この世の創世に始まり人類の始祖アダムとエバの創造と人類の堕落。兄カインによる弟アベルの殺害。神の裁きと真に正直で神の言葉に忠実に生きたノア,そしてその家族,やがて神「ヤーベェ」とのイスラエル始祖アブラハムとの契約の内容などこれほど詳細に記されているものはなかろう。実はアブラハム,イサク,ヤコブと3代に渡る信仰が認められ,最後には意の天子ガブリエルと夜明けまで闘ってヤコブがついにかの天使に勝ち,勝利者と言う意味のイスラエルの称号を得たと伝えられる輝かしい民族である。それゆえイスラエル民族は神に選ばれた民とする,所謂選民思想が生まれたのである。
 ここで,アラブ人のことに触れねばなるまい。実はアブラハムには妻サラとサラに永く子が無かったためにサラはアブラハムに女召使ハガル与えた。このハガルとの間に生まれたのがイシマエルつまりアラブ人の始祖なのである。それゆえ,イスラエル人とアラブ人は異母兄弟なのである。
 ハガルには子が生まれ,サラには子がなったためハガルは女主人を馬鹿にしたのだった。これが元でやがてサラにイサクが生まれるとハガルはサラにいびられ追放されるのである。宿命の対立なのか。
 この後,イサクの子ヤコブ即ち,イスラエルには12人の子が生まれる。この末裔がやがて12部族を形成するのである。その末っ子ヨセフはイスラエルに事の外愛された。そのため嫉妬から兄弟のいじめにあいエジプトに奴隷として売られていくのである。しかし,神の祝福があったというか夢の解釈が時の王ファラオに認められ,エジプトの国の大臣に上り詰めるのである。その夢とは,7年の豊作の後にエジプト全土に7年間の大飢饉がくる。そして,多くの民が倒れるであろうというものであった。彼は,豊作の7年の間に穀物を国の穀倉に貯められるだけ貯め次に来る飢饉に備えたのである。結果は,果たして7年に及ぶ大飢饉が全土に及んだのである。この国難を見事に克服し,エジプトに多大な富をもたらした功績によりヨセフは彼らの一族をエジプトに招かれ豊かな土地を与えられたのである。ところが,代を重ねると,よくあることと思うが過去のことを知らない王が起こるのである。やがて,増えたイスラエルの末裔は妬まれ遂には奴隷に落としめられるのである。
 ここで,イスラエルの民は400年の長きに渡って奴隷として苦しむのである。やがて,民族の嘆きは天に届き,神はイスラエルの民をエジプトから解放するために1人の使者を遣わすのであった。それがナイル川からエジプトの王妃が拾い上げファラオ(王)の子として育てた『モーセ』である。 青年になったモーセはやがて,自分がイスラエルの民であることを知るのである。地位も名誉も剥奪され追放されたモーセは神の山「ホレブ山」で啓示を受け兄アロンとともにファラオの元に赴き,やがて,数々の奇蹟の後イスラエルの民をエジプトから救い出すことに成功するのである。ユダヤ教ではこのように具体的に助けてくれる神の使者をメシア(救世主)と言う。キリスト教のいうメシア観と大きな違いがある。これとは違うが神の言葉を伝え,これから起こることを伝える者を預言者という。イスラム教を起こしたマホメット(ムハンマド)はこの預言者ということになっている。
 しかし,イスラエルの民の不信仰ゆえシナイ山で十戒の石板(中身は10の戒律で神との契約とされ,この石板を入れた箱を契約の箱という。アークともいう。)を受け下山するも,民を『モーセ』の側に立つ者と,『金の子牛』を神とする偶像崇拝者とに分け,偶像崇拝者を滅ぼし,再度石板を受け約束の地カナンを目指すのであった。が,民にせがまれ余りの不信仰に怒り,思わず神の杖で岩を2度打ち水を出す奇蹟を起こすのだが,2度打つという不信仰を犯し,(知識のない人のための解説,杖は奇蹟を起こす杖として神が約束したものだったから,1度打てば水は出るのである。2度打ったということは,このことを信じなかったことになり不信仰とされるのである。)それゆえ彼自身は約束の地カナンには入れずヨルダン川の手前,ネボ山に没するのである。神の定めとは厳しいものだ。一度の過ちをも許さないのだ。神の定めとはモーセ自身が自分に課した定めでもあろう。指導者にはこのように自分に対して厳しい者が相応しい。国民はついて行くであろう。実は,『イスラエル人』は,この40年の荒野での生活の中で『律法の民』として訓練されるのである
 モーセは次の指導者に苦楽を伴にしたヨシュアを選び後事を託すのであった。ヨシュアはカナンの地に住むパレスチナ人と戦い,イスラエルの民を率い『乳と蜜の流れる地』とされるカナンに定住するのである。この後士師の時代を経て,サウルがイスラエルの国を建国するのである。イスラエルは次の栄えたダビデ,ソロモンの時代を経て,北イスラエルと南ユダに分裂するのである。
 旧約聖書には栄光の時代の証,ダビデの詩篇とその子ソロモンの箴言が編まれている。さて,北イスラエルの民はB.C.721年アッシリアに滅ぼされ上流階級は各地に強制移住させられるのであるが,こちらに属したのは12部族の内の10部族が含まれていた。やがて,B.C.626年新バビロニアが興りB.C.612年アッシリアの首都ニネベは落とされ,B.C.605年アッシリアが滅ぼされ,この過程で10部族は解放されるのだが,その後の10部族の足取りは現在に至るも杳として不明である。
15.12.17一部加筆
 一説によると,東に向かい極東に向かったと。そして,この日本にその面影を見るという。余りにも習慣が似ているともいう。神輿を担ぐとか,鳥居とか,挙げればきりがないとか。神の道と神道,供に「神様の収集家である」非キリスト教国。菊のご紋。菊花紋ということになっているが,見ようによっては太陽とそれから発する光線をデザイン化した物のように見える。エジプトの神も元々太陽神。エジプト・メソホタミヤいずれも農耕文明であった事を考えると太陽を崇めるのは,生き物全ての命の源泉として当然といえば当然である。菊を崇める理由は無いからである。私はむしろこれは太陽をデザイン化した結晶ではないかと思っている。単なる円ではなく,強烈な光が命であるからである。私は子供の頃,太陽をどう書いたかといえば,赤丸に染めて(実際の太陽の色は黄色に近い)周りに光線の印である赤線をたくさん描いて表現したことを覚えている。古代人も同様に表現したとしても不思議は無い。むしろ忠実に黄色で。光線を16枚の花弁のようにデザインしたので,後世の人は菊と間違えたのではないかと考える。太陽と理解すれば合理的で全てが理解できる。いや,太陽に違いない。三種の神器の一つ鏡の裏には「有って有る者」とあるとか。「有って有る者」とは,シナイ山で神がモーセに語ったとされる「神自身の名」。また,言葉の中にもかなりの一致を見るものがあるということ。更にはカナンの地形と古都奈良の地形が実によく似ているとか。実際,北イスラエルの都のあったサマリヤは大阪湾を地中海に見立てると盆地であること,山間から海岸部にどちらも出られる地形,北には湖があるなど。もっとも違いはあるよ。南の死海に相当するものが無い,ネゲブの砂漠に相当するのも無い。もっとも人が余り住まないという意味では紀伊山地があるがね。(/15.12.17一部加筆)
参考文献Gに詳しいが,その他気になることを挙げると。天皇をスメラミコトと言うが,スメラはサマリヤ,ミコトは皇帝陛下を意味するという。また,ヤマトはヘブライ系アラム方言で『神の民』という意味が有るという。神武天皇の称号『カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト』は,意訳すると「サマリヤの皇帝,神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味するという。
 話は変わるが南ユダはB.C.586年新バビロニアに滅ぼされその貴族階級はバビロンに捕囚(B.C.586年〜B.C.538年)として連れて行かれた。やがて興ったペルシャに新バビロニアは滅ぼされユダの民は故郷に帰るのである。ここにユダヤ人が発生するのであるが,彼らは結局,20世紀までイスラエルの独立国を再興できなかったのである。ペルシャの属国として,次にローマの属国として。遂にA.D.70年熱心党がローマに対する独立戦争に敗れ,彼ら熱心党はマサダ要塞(ローマ帝国の属国ユダヤ王ヘロデがユダヤの民の支持を得ようとして民のために作った。が,支持は得られなかった。)で最後は自決し果てた。残ったユダヤの民は全地に追放さればらばらになり生き長らえた訳だ。それにしてもユダヤ人の信仰は凄い。2000年の時間を超えて信仰を守り民族の尊厳を守り通している。これは驚異的である。(参考文献CG)
 もし,他の民族だったらとうに民族は解体していただろうに。勿論,ユダヤ人を結び付けていたものはヤダヤ教に他ならない。
 この民族は,A.D.70年に約100万人が虐殺され,残りは奴隷にされる。1099年7月第1回十字軍では住民のイスラエル人の殆どが焼き殺され,生き残った者は奴隷として売却された。1500年代初頭のこの地のユダヤ人社会は異教徒であるが故にイスラム国家から締め付けられ衰退し5千人位にまで減少していた。第1次世界大戦が始まった1914年頃やっと8万5千人位まで回復し,1948年5月には65万人となっていた。そして,前後するが20世紀において,ヒトラーの第3帝国からアウシュビッツのヨーロッパ在住のユダヤ人六百万人(子供150万人を含む)ともいわれる虐殺を受けるのである。最近の情報では450万人と訂正されている。国を失った民族がどれほどの辛酸をなめているかがこれで解るだろう。敵が来たら降参すればいいなどと,簡単に言って欲しくないものだ。こういう人は「羹に懲りて膾を吹く」類いだが支配下になるということは虐殺もあれば抹殺だってあるのだ。子や孫をそんな目に合わせて良い訳はあるまい。今は問題なくても,代を重ねていくうちに,暴君が現れることだってあるのだ。そのことを忘れてはならない。抹殺された民族は調べれば他にもいるだろう。敗れて国を失えば民族にとっての安住の地はない。何十代にも渡って流浪の民になるか,消滅するかである。だから,国防は何よりも優先課題であることはよくよく肝に銘じておくべきだ。国を失ったら何も残らないのだから。人権も何もないのである。そもそも日本人ということさえ消えることもあると覚悟する必要がある。最悪は抹殺(皆殺し)である。そんな馬鹿なと考えるのは勝手だが。現実に起こっているし,過去には何度も起こっている。従って,『ない』とは言い難い。
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 国を失うと言うこと
 国を失うということがどんなことか考えてもらいたいものだ。
いつもアメリカのように寛大(といっていいのかな。実は,この国は余裕があるときは実に寛大だが,現在の話,余裕がなくなるとそうではなくなるから注意が必要)とは限らないのだ。
 イギリスも,フランスもオランダも第2次世界大戦,太平洋における大戦,東アジアにおける大戦が終了した後,旧植民地を取り戻そうとして軍を派遣したのだ。従って,独立は現地の住民と現地に残った元日本兵の義勇兵によって勝ち取ったのだ。決して彼らが積極的に独立を与えたのではないのだ。実は,降伏が認められるためには武器の引渡しをしなければならないが,武器が無ければ独立軍は勝てないことを分かっていたので,彼らのために奪われたことにして武器と弾薬を渡したのだ。アジアの独立を助けようとする明確な意思が働いていたことが分かる。勿論戦い方も教えたのである。白人に対してよりもはるかに彼らに心は近かったことを意味しているのである
 チベット(1990年の人口226万人,同年の中国の総人口が11.8億)を見よ。かの地は漢人の支配することなどほとんどなかったのだが,中国共産党は軍隊を派遣し200万人もの住民を虐殺し,独立を奪い,盗人猛々しく内政問題と強弁している。して,この虐殺の指揮官こそ何を隠そう現人民中国国家主席「胡錦濤氏」である。日本軍の悪さの比ではないわな。そのころ中共の人口は1960年,1990年の人口を元に直線補間により推定すると,約4.8億人である。当時の資料がないので直線補間により推定すると生き残った人口は92万人となる。従って,その前は約300万人いたことになる。約3人に2人は殺された勘定になる。もっとも当地で生産される食料によってそこに生きることのできる人口に制約を受けることを考えると226万人位の内200万人が殺されたのかも知れないね。こちらの説だと226万人の内200万人が殺されたことになるから,ほぼ10人のうち9人近くが殺されたことになる。いずれにしても共産党の支配に異を唱えた者は皆殺しにあったということであろう。ほぼ皆殺しに近い大変な虐殺ということになる(15.6.10一部加筆)
 毛沢東曰く,「革命は銃口から生まれる」と。言葉の通りにやってのけた訳だ。
 今尚,チベットの住民は自由を失い共産軍の銃口下に暮らしている。また,指導者でありラマ教(チベット仏教)の高僧でもあるダライ・ラマはインドに亡命しているのである。
 イラク,トルコ,シリア,イランにまたがって住むクルド人を見よ。モンゴルの席巻の前のその昔民族の英雄サラディンを生んだ民族であるが,彼らは1400万人の人口を数えながら第二次世界大戦は民族自決の大戦であったというが,戦勝国の思惑もあって独立はおろか実質的に自治さえ認められず,時によりフセインによる暴虐の嵐に耐えている。連合国側に立ち米国の同盟国であるトルコをもこの問題を抱えているので,米国は手を出さないのだ。ご都合主義と言えなくもない。もっともこちらのクルド人は人権が保障されておりトルコ内で生きることを彼らが望んでいるのなら特に問題はないのだが。イラク国内では,一応,クルド人の自治は認められているが,人権が蹂躙されているから問題だ。毒ガス攻撃(実験)にさらされ大量のクルド人がモルモットのように虐殺されたが,誰も助けようとしない。クウェートの時はアメリカを中心に多国籍軍を編成しこれを助けたのにだ。利害も無ければたとい不正義が行われても敢えて火中の栗を誰も拾おうとはしないという証左であろう。
 平成15年3月11日(2003年)の読売報道ではクルド人は全体で3000万人,トルコだけで1200万人となっていた。
 その昔,モンゴル帝国は13世紀初頭,中央アジアのホラズム帝国を反抗したかどで婦女子に至るまで皆殺しの虐殺をしたのだ。このときのホラズム側は投降したのだ。モンゴル帝国の一員になれると思ってね。
 日本は,島国だったから独立をし得たのであろうか。それだけではなかろう。
 古代においても,唐・新羅の連合軍は,百済をそして,高句麗を葬り去ったのだ。百済の民は日本に亡命し,高句麗の民の一部はに北に逃れ渤海を立てたのだ。この前の王朝隋も攻めたのだよ。残虐な皇帝「煬帝」は10倍以上の100万の大軍でね。高句麗を。戦場の後は死体で埋め尽くされ川が赤く染まったと。容赦は無いのだ。それが国と国との衝突,戦争なのだ今も昔も変わりはしない。現代は規模が大きく火力も強力なだけ更に凄惨だ。
 古代ローマにおいても,フィニキア人の植民都市国家『カルタゴ』この都市国家は,都市国家『ローマ』と,地中海の覇を争って,第二次ポエニ戦争では,名将『ハンニバル』がイスパニアからローマまでを席巻したこともあったが,最終的には,三次に渡るポエニ戦争の結果,BC146年ローマによって完全に都市を破壊され,住民は抹殺されたのだ。ローマは発展し,BC27年ローマは帝政となる。オクタビアヌスは初代皇帝として,アウグストスの称号を得る。やがてローマはヨーロッパの世界帝国として君臨することになる。
 1602年オランダの東インド会社による植民地支配を受けたインドネシア(1949年独立)や,1571年〜1900年に渡ってにスペイン植民地にされたフィリピンは島国ではないか。それぞれに4世紀にも渡ってその支配を受けたのだ。フィリピンに至ってはボールのように米西戦争の代償としてアメリカ(1900年〜1946年7月独立)の植民地になった違いはあるが。インドも4世紀のながきに渡って大英帝国の植民地とされ続けた訳だ。この国では,1600年に作られた東インド会社が植民地の出発点だ。1800年頃には全土がほぼ支配下に収まり,大変な収奪が行われる。税は3倍になり飢饉でも容赦はなかったから餓死者が続出し,治水も行われなくなった。もっぱら収奪のみが行われたのである。1858年には直轄統治となる。ビルマ(現ミャンマー)は1886年から英領インド帝国の一州となり1948年に独立した。その点日本が行った植民地政策とは程遠い。
 今でこそ紳士面しているフランス大統領。彼らはフランス領インドシナ(ベトナム,カンボジアを指す)を取り戻しに軍隊を派遣しベトナム戦争の元を作った。元日本兵は勿論,ベトナム人を助けた。戦い方も教えた。特にフランスが敗れたディエンビンフーの戦い等では。後は彼ら自身が戦う中で戦い方を学んで行くことになる。
 旧植民地を取り戻そうと4年も戦ったオランダの首相,可笑しいとは思わないか。
先頃,厚かましくも,オランダの如きは捕虜の補償をなとど騒いでいる者がいるし,お先棒を担ぐ日本人もいるから呆れる。
 彼らは何故にインドネシアにいたのだ。彼らこそ,住民を苦しめてきた張本人であるし,また植民地による搾取を続けようとした尖兵ではないか。盗人猛々しいとはこういう人たちを言う言葉であろう。恥ずかしくないのであろうか。恥ずかしくないのだろうね。彼らは貪欲だから。
彼らは,日本軍と戦って敗れてさえいなければ居座りつづけていたであろう。所詮,白人は貪欲な豚みたいなものだ。追い出さなければ出て行かない。(豚と言っては失礼か。まあ,豚はひっきりなしによく食べるからこう言ったまでのこと他意はない)
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ユダヤ民族略史「ヒクソス=イスラエル民族」として改編

B.C.1860年頃

イスラエル一族 カナンに定住。

B.C.1730年頃*

イスラエル民族(ヒクソス) エジプトデルタ東部移住。

B.C.1650年頃*

イスラエル民族(ヒクソス) エジプト第15王朝(王都アヴァリス)創設(6代)。

B.C.1542年頃*

イスラエル民族(ヒクソス) エジプト第15王朝終焉(王都陥落)。イスラエル民族奴隷と化す。

B.C.1205年頃

イスラエル民族 出エジプト。35年荒野をさまよう。

B.C.1170年頃

イスラエル民族 カナン侵入定着。150年間にカナンの大部分を平定し遊牧から農業へ変わる。士師(外敵と戦う時だけの指導者)の時代

B.C.1020年頃

イスラエル民族 王制始まる。サウル王イスラエル建国。ペリシテ人が進入しこれとの戦いから士師の欠陥が露呈し王制に移行する。

B.C.1004年

ダビデ王位に付く(〜965年)

B.C. 965年

ソロモン王位に付く(〜930年)。この時代神殿などの建造のため重税となる。また,ソロモンが属した一族を優遇したとの反感から彼の死後10部族が離反する。

B.C. 930年

イスラエル 北イスラエル(19代,首都サマリア)と南ユダ(ソロモンの子が指導者,首都エルサレム)に分裂

B.C. 721年

北イスラエル アッシリアに滅ぼされる。

B.C. 586年

南ユダ 新バビロニアに滅ぼされる。

B.C. 538年

ペルシャの属国

B.C. 333年

ヘレニズムのトレミー王朝,セレウコス王朝の支配下。クネセット・ハゲドラ(大議会)設立,第二ユダヤ国家(第二神殿時代)

B.C. 166年

反乱(マタテヤ⇒息子ユダ(通称マカビー)セレウコス軍を破る)

B.C. 142年

ユダ(当時のイスラエルの名称),ハスモン王朝(政治と宗教の自治復活)

B.C. 129年

セレウコス朝崩壊により,完全独立。以後80年間ユダヤの律法を基礎とした政治的統一を達成。領域はソロモン王国と同じくらいだった。

B.C. 63年

ローマの属国影響下に入る。

B.C. 40年

アンティゴネス・マッタティ最後の抵抗,3年後敗北処刑。ローマの属国となる。

B.C. 37年

ヘロデ(ハスモン王ヒルカノス2世の娘婿)ローマによりユダヤの王となる。彼は都市の造営,ヘロディオン,マサダの要塞をつくる。神殿の改修をしたが,民の信頼と協力を得られなかった。

   6年

ローマ帝国の直接支配となる。

  30年頃

ユダヤの民 イエスを十字架にかけ処刑する。

  66年

ユダヤ全面蜂起

  70年

エルサレム完全破壊,約100万人のユダヤ人犠牲となる。何万人もが奴隷として売り飛ばされる。

  73年

要塞マサダ陥落,熱心党自決して果てる。

  132年

シモン・バル・コフバ蜂起,一時ユダとエルサレムを回復するが  3年後鎮圧される。

  313年

ビザンチン時代。キリスト教徒が優勢。自治,公民権も奪われる。

  614年

ペルシャ侵攻,ユダヤ人これに協力。

  629年

ビザンチン軍再エルサレム侵攻。ユダヤ住民追放となる。

  636年

アラブ人がこの地を征服。バグダットのカリフが代わる。特別人頭税と土地税を支払う代わりに生命と財産,信仰の自由を保障される。

  717年

非回教徒に対する制限が加えられる。農地に重税。社会的経済的差別待遇ますます強化。ユダヤ社会弱体化。

 1099年

第1回十字軍。ラテン王国樹立。ユダヤ焼き殺されたり,奴隷として売り飛ばされる。

 1187年

クルド族サラディンこの地を征服。エルサレムに定住する権利などある程度の自由を得る。

 1193年

十字軍,この地を取り戻すも要塞内に留まる。

 1291年

回教徒マムルークに征服される。十字軍を恐れたため,港を破壊され海外貿易は途絶え,都市は衰退した。

 1517年

オスマントルコに征服される。

 1917年

12月 英軍エルサレム入城。バルフォア宣言でシオニズム運動を支持

 1939年

〜45年 アウシュビッツ600万人の虐殺

 1948年

5月14日イスラエル建国。ユダヤ人の人口65万人,〜49年7月独立戦争

 1956年

シナイ作戦

 1967年

六日戦争。エルサレムの再統一

 1982年

イスラエル,シナイ半島から撤退。

 Iの資料にはB.C.1700頃カナン定住とあるが,カナンにアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの四代に渡って生活したので170年,ヨセフが奴隷として売られて(記述から17歳前後と思われる)から大臣になり一族が移住,このときヨセフ80歳,してヨセフが死ぬまで30年,一族が移住してエジプトを出るまでに430年という考えから表のように修正してある。

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モーセの十戒

 「わたしはあなたの神,主であって,あなたをエジプトの地,奴隷の家から導き出したものである。

1.

 あなたはわたしのほかに,なにものも神としてはならない。(唯一神)

2.

 あなたは自分のために,刻んだ像を造ってはならない。…それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。…(偶像崇拝の禁止)

3.

 あなたは,あなたの神,主の神を,みだりに唱えてはならない。

4.

 安息日を覚えて,これを聖とせよ。…

5.

 あなたの父と母を敬え。

6.

 あなたは殺してはならない。

7.

 あなたは姦淫してはならない。

8.

 あなたは盗んではならない。

9.

 あなたは隣人について,偽証してはならない。

10.

 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。…(貪るとは欲しがること)

 資料C「出エジプト」より。…は省略文があることを意味する。

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約束の地カナン
 彼らにとって何故約束の地がカナンなのか興味のあることではないか,思い出してみよう,彼らがイスラエルとなったいきさつを。イスラエル人にとって直接の祖先はアブラハム,イサク,ヤコブなのである。この一代目アブラハムはもとアブラムといってメソポタミヤ,カルディヤのウルに住んでいたが神に招命されカナンへ移住するのである。そこに移住した後,祝福され与えられた土地が本人がいた場所カナンの地だったのである。と言うわけで一族の祖先が住んでいた土地それが『カナン』だったのだ。このことはエジプトに移住した後も記憶の中にあったということだろう。エジプトを出て行くとなると真先に浮かぶ土地は祖先が住んでいた地『カナン』と,いうことなのだろう。エジプトにはかなわないが,カナンならエジプトからも,メソポタミヤからも辺境の地で小部族が争っていた土地で割り込む余地もあるとふんだ面もあるだろうね。パレスチナ人との争いは祖先の時代からあったのだ。パレスチナ人にとっても故郷だろうね。なにしろアブラハムもそこに住んでいた人たちと戦ったのだから。もっとも,居留という形をとっていたので,比較的仲良く一緒に生活していた人達もたくさんいた。戦った人達もいたので,その人達とを考えると,4000年来の戦いということになる。当時も今も,生きるということは闘いでも,戦いでもあるのだ。
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