最終更新日:平成16年5月7日

3章 何が問題か

前書き
 本論述は私個人の見解である。こんな考えもあるのか位に読んでいただければと思います。また,本件についての著作権は放棄するものではありません。




 人間の自己矛盾
 民主主義の弱点
 荒魂の鎮魂
 荒魂を冒涜する企て
 国立墓地設立の企て
 国際交流は日本を罵倒することか
 国立墓地凍結はやむを得ずか
 戦後は白人の世界分割支配体制確立
 靖国は鎮魂と平和への誓い
 A級戦犯分祀強制は信教自由への重大侵犯
 中国は徳が低い死者に鞭打つ国
 中国大陸人は戦争に明け暮れた殺人者の末裔
 福岡地裁「靖国参拝違憲判決」の思惑
 未来を生きる
 外交は国益の闘い
 未来の道標




 人間は弱さ,制度的欠陥を抱えて生きねばならない。人は過ちを犯すものでもある。故に,これらを克服する努力を続けなければならない。

 人間の自己矛盾
 人間とは弱いというか,卑怯というか,できれば助けたいと思っても,身に火の粉が降りかかりそうなことはしないものだ。今日でも良く見られる光景である。電車の中などで誰かが暴行されていても誰も助けない。見てみぬふりをし,ひたすら不幸が身に降りかからないように震えている。正に,卑怯者の姿である。どこの国でもよそ者がきて成功すれば周りに成功しないでいる者は面白くないのである。これは何もドイツ人に限らない。アメリカでもしょっちゅう起こっていたことである。アジア人への攻撃などとしてね。清朝の時代アメリカに移住した中国人の中には成功が妬まれ白人に皆殺しにあった例が多数あるという。勿論,奪った財産は彼らの物となった。大体アメリカでは銃所持が自由で,寝るときでさえ靴を履いて寝るのは何故,理由は簡単,自分達が原住民を殺しまくって財産を国を作ってきたから,いつ狙われるか分かったものではない。何時でも対応できるようにすることから生まれた習慣だ。日本は本当に平和な国だ。家に上がるときは靴を脱ぎ,昔は家に鍵さえなかった。敵も,暴漢も,泥棒などもほとんどいなかったことを意味している。断っておくがこれは,この2国に限ったことではない。米国の開拓時代の話は,新たなる開拓地を求めて西部へ西部へと行き,カリフォルニアに到達した所,そこには中国人たちが既に土地を持っていたことへの怒りの心情がスタインベックの『怒りの葡萄』によく現れているから読んで見られるとよい。
 >索引に戻る

 民主主義の弱点
 注意しなければならないのは,群集に耳障りのいいことを言うのは権力奪取のため,政敵を追い落とすために言われることが多いことである。歴史を紐解くとそういった事例がたくさんあることに気づく。つい先日NHKで見たギリシャ時代の話もそうであった。愚かな群集は騙されるのである。僭主を防ぐための陶片追放を悪用して功労者を国外追放に追いやったのだ。えてして,民主主義は衆愚政治に陥りやすい欠陥を内包していることをよくよく肝に銘じて,これに代わる制度がない以上,賢く運用していく必要がある。最も効果的な対策は,皆が分別のある賢い国民になることなのである。従って,国民教育は極めて大切と,この観点からも言えよう。
 >索引に戻る

 荒魂の鎮魂
 ついでに,国に殉じた人のために感謝する気持ちが国民になければ国は滅ぶであろう。なぜなら「こんな感謝のない国民のために誰が命をかけて戦う気になるものか」と,感じるのは私一人であろうか。私なら,御免こうむりたいですね。ゆえに,民族の永続のため,国の永続のため国に殉じた人のためにはその冥福を祈り感謝の気持ちを表すことを躊躇してはならない。ましてや,国益を代表する者としての総理大臣はである。
 その意味で,小泉首相は今のところは立派である。日本では,最後には逆臣となった西郷隆盛でさえ上野公園に祭られる国柄である(西郷を士と思う有志によって銅像は建立され,その功績を後世に伝えている)。歴史的に国民は心が広いのである。古くは大国主尊のように神として祭られることさえある。また,最後まで反抗した榎本武揚は外務大臣になったとの記録があるから明治新政府の要職についている。このように武運がなく敗れた武将にも暖かいのがこの大和の国なのである。
 近代のお隣の政治家連のようなことはしない。もっともお隣の国でさえ,ひとかどの人物はたとへ敵でもすぐれた人物は手厚く葬っている。人の器が違うのである。器の小さい者ほど『スピッツ』のように騒ぎ立てるのである。悲しいことである。
 話を戻すと,例えば迷惑をかけた国には大変申し訳ありませんが国民が冥福を祈ることを認めて欲しいと,土下座してでも認めてもらうことである。彼らにとって許しがたい存在であろうことは想像に難くないからだ。日本には「肉を切らせて骨を断つ」という言葉があるが,彼らとてその犠牲を考えると簡単には引き下がらないかも知れない。もっとも,そこまでしなくとも彼らを納得させられればそれに越したことはない。この問題をこじれさせたのは,誰かは詳細資料から判る。日本には癌細胞の如き者がいるのだ。このままでは本体が危なくなろう。どんなに努力しても無に帰すに違いない。正に,トロイの木馬である。が,これも民主主義国家のいい面であるのかも知れない。議論を尽くし世界に通用する結論を導き出すための試練という受け止め方である。そういう意味では大いに議論を尽くすのはいいことだ。が,どんなに隣国の言い分を聞いたところで,万が一自国が危うくなったとき,自国を守るのはやはり自国民であるということぐらいは頭に入れておくのが良いだろう。場合によっては,隣国は敵となることさえ視野に入れておかねばなるまい。今でもその兆候は見え隠れする。東シナ海の資源探査問題,尖閣諸島をめぐる言いがかりの問題。中国が主張する大陸棚延長論などあげれば切りが無い。要するに自国に有利になるような考えを主張してくるであろうことは目に見えている。国際的な取り決めと歴史的事実に基づいて粘り強く交渉するしかない。何年かかっても譲れないものは譲れないとの毅然とした外交姿勢は特に大切だ。海底に眠る資源の開発などでは,アメリカを1枚噛ませるのが上策だ,共同で利害を守れよう。我々としては,13億の民が先進国並みの生活をするようになる過程でエネルギー,食料,その他もろもろの問題を中国はどう解決していこうとしているのかを注視して行かねばなるまい。その過程で,中国は東シナ海の海底資源をできるだけ多く分捕ろうとするに違いない。経済水域を国際取り決めの200海里ではなく大陸棚を主張するのもその現れである。大陸棚延長論だと200海里どころではなく広くなると踏んでいるからだ。利害を共有しながらも国際的なルールを相手にも飲ませる力は今の日本には残念だがない。このためにもアメリカの存在は必要だ。中国は,この民を食わせることだけでも大変なはずである。切羽詰ればごり押ししてくるだろうことは目に見えている。中国とはかかることからこの先緊張する局面があろうことは覚悟しておく必要がある。どう国益を調整して共存を図っていくかは政治家に課せられた命題だ。が,相手に譲るだけでは国益は守れない。言うべきことも言えないようでは,外務大臣をはじめ外交担当者は更迭されて然るべきと考えられる。相手に迎合するのは外交とは言えない。相手の使い走りと言っては言いすぎか。もう既に属国のような扱われようである。残念だが外交が分っていない。レベルが低すぎる。また,国民に自国を守る気概とそれなりの力が無かったら,相手に恫喝されたとき,すごすごと言うことを聞くしかないだろう。どんな理不尽なことでも。その兆候は見えている。残念だが自民党の中にも。靖国問題はその重要な試金石と考える。どこの国でも戦没者に哀悼の意を表するのは当たり前なのである。
 >索引に戻る

 荒魂を冒涜する企て(15.1.10-2.14)
 現在,官房長官を先頭に,戦没者を葬る国立の施設を,靖国と別に作ろうという動きがある。こういう者を外国に媚を売る篭絡された高級官僚と言うのであろうか。いったいそこに何を祭るというのだ。だいたい,靖国には遺骸は収められていない。あくまでも御霊であって,遺骨では無いのだ。国立墓地を作って骨でも埋める気か。無い物を持って行きようが無いではないか。ある遺骨はそれぞれの家族の墓地に葬られている。御霊を分けるとでもいうのかな。それなら靖国の分社となるので訳がわからなくなる。まるで意味がないと考えるが。大体,大東亜戦争で無くなった兵士たちは,靖国で会おうが合言葉だったのだ。これを彼らが望んでもいない,国立墓地に,何を葬るのだ。遺骨があってこそ墓地は墓地として機能するのだろう。何も無いものを誰がお参りするのだ。ばかばかしい。国費の無駄遣いだ。外国の要求に迎合する,このような官僚は追放した方が良い。だいたい遺族はそんなところには行かないよ。
 こんな宗教的習慣にまで干渉する外国の要求は,「内政問題だ」と,突っぱねればよいのだ。ならば,中国で戦死した者で,彼らが確保した遺骨は彼らの国立墓地に埋葬されているとでもいうのだろうか。そんな事は無いであろう。
 こんな理不尽な要求は,「断固拒否」する必要がある。でなければ,赤紙一枚で散っていった英霊に申し訳が立たないであろう。
 このように頭の先までなめられるのは,事なかれ主義をとってきた官僚のせいと思われる。
 だいたい中国が支配している所は漢民族だけが住んでいたのではない。彼らは,そこに住んでいた多くの民族を殺しまくって統一をしてきたのだから。また,日本民族のかなりの部分、最近の研究ではその比率は40%にも達するようだ、は大陸に住んでいたことが最近の検証から分かってきている。戦乱を逃れてきたのかも知れないが。あえて言わせてもらうなら,祖先の地をとり戻そうとしてどこが悪い。だいたい地球上の土地はどこの民族であれ,歴史的に占有していただけであって,その土地の所有を未来永劫に約束などされてはいない。強い者が支配する。これが歴史の現実ではなかろうか。
 どこか間違っているか。間違ってはいまい。侵略されたと騒ぐ前に,侵略を許した先祖の怠慢を恥じよ。だから,日本の行動はあえて言うなら,この人間の営みに従ったまでであろう。日中戦争を日本が一方的に悪いなどとは思わないことだ。そう思うなら,彼らはますます増長するであろう。理不尽な要求など断固拒否する必要があろう。
 元々植民地を作る諸国民の動きは、未開の地に住む人々を文明化する、即ち、教化するという大義名分があったのだ。歴代の中国もかかる意図をもって辺境の民族を征服支配することを正当化してきたわけだ。従って、日本がアジア地域に進出したのも同じ文脈になるわけである。中国のは正当で他の民族は不当と言うことには無理があろう。
 >索引に戻る

 国立墓地設立の企て(15.2.12-2.14)
 15.2.11の報道によると,与党幹事長らは韓国で,国立墓地を見て,深い感銘を受けたと。靖国に替わる国立墓地建設を推進する旨の幹事長談話を発表したようだ。韓国の手前言ったのであろうか。本音は分からないが。我が国は民主国なのであるから,国民の意に反しては建設などできはしない。
 建設にご執心の公明党は創価学会の意向であろうが,神道は,教義もなく所謂高等宗教とは異なり,日本人の生活習慣のようなものなのだ。先祖を崇拝する。自然を崇拝する。八百万の神々を崇拝する。アミニズムに限りなく近い。いわば,この宗教的土台の上に高等宗教が組み立てられている事が分からないのであろうか。先祖を大切に思わない宗教など支持される訳は無い。国民の素朴な感情を否定しない方が良いよ。仏教も含めて,全ての宗教は神道と共存できるのである。神道では最高神とされる皇祖神である天照大神の系統とされる何人かの天皇が祭神となっている場合が多い。要するに先祖を祭っているのである。勿論,大国主や氏族の開祖が祭神となっている神社もある。また,自然石や巨木の場合もある。だから,神道と言っても,素朴な庶民の心を反映したものにすぎないのである。この素朴な感情を否定するなら,感情的な反発を生むであろう。共存の道を考えるのが良いと考えるが。古事記や日本書紀の記述は旧約聖書(特にモーセ五書)に実に良く似ている。原典が旧約聖書ではないかと思えるほどである。私自身はそうだと思っている。宗教者はもっと寛容になって世のために尽くすのがそれぞれの教えの言わんとする所を実現することになるのではないかな。対立や排他からは良好な関係は生まれないと考えますよ。靖国は戦没者に哀悼の意を示す場所に過ぎない。そんなに大仰な宗教というべきものではない。生活習慣なのだ。中国や韓国の理不尽な要求に屈するなら,彼らは味を占め,次々と要求をエスカレートし,われらを不利な立場に追い込むことを考えるに違いない。日本を口撃する彼の国らは友好国などではない。思い違いをしてはいけない,彼らは非友好国なのだ。靖国参拝に異議を唱えるのは中国・韓国と日本の反日集団だけである。
 >索引に戻る

 国際交流は日本を罵倒することか(15.2.12-2.14)
 15.2.14産経報道によると,既にアメリカで日本の政府機関の国際交流基金(藤井宏昭理事長)が,日本は過去の戦争に関して謝罪も賠償も十分にはしていないという前提からの対日糾弾の国際セミナー・シリーズを一月末から一年の予定でスタートさせた。この会議への中韓米独各国の代表はみな日本の戦後の対応は非道徳だとか厚顔だとする非難を述べ,日本人発言者も日本の態度への反対論者ばかりで,断罪される日本側見解の説明が無い一方的展開を,政府主催の会議で許した。セミナー推進に当たる参加者二十数人の学者,専門家は,日本は過去の残虐行為を謝罪,反省していないという非難を続ける中国系や韓国系の学者が主体。そのうえ日本の戦争関連行為はドイツのユダヤ人虐殺のホロコーストに等しいという前提が受け入れられ,ドイツ人学者や米国政府機関のホロコースト処理専門家が「ドイツはきちんと対応したが,日本はしていない」という趣旨の立場を表明した。日本人の発言者も日本はドイツのように謝罪と賠償をすべきだと主張する橋本明子ピッツバーグ大学準教授,日本の首相の靖国参拝などへの反対を赤旗や朝日で日ごろ表明している藤原帰一東大教授,米国人元捕虜の日本側への賠償請求を全面的に支持する徳留絹江氏(在米研究活動家)と産経記者(古森)の四人。日本政府の立場の代弁者が一人もいないという一方的な日本悪宣伝を言う者のために政府機関が金を出しているというのだからあきれる。国から禄を食んでいる東大教授もその筆頭というから驚きだ。この国は何とお人よしなのであろうか。こんな国益を害する教授は首にすればよいと思うが。公の場で平然と嘘に同調する。その影響を考えるなら,国籍剥奪国外追放でも良いくらいだ。何べんも首相は謝罪しているが,謝っていないとは,詭弁そのものだ。日本が原爆百個くらい投下されて,消滅すれば気が済むとでも考えているのであろうか。こんなろくでもないことに金を使う国際交流基金など廃止するのが国益と考えられよう。このような国益を害するようなものに国民の税金を出すこと自体犯罪と思うのだが。(/15.2.12-2.14)
 >索引に戻る

 国立墓地凍結はやむを得ずか(16.1.8)
 この問題について,福田官房長官は,当面国立墓地の話は「凍結」と16.1.6記者会見で言明した。建設は「国民の支持が無ければできない」と。国立墓地建設構想に対して,「石を投げる状況では建設はできない」と言っていた。政治家というものは国民の意を背負って政治を行う。これは一つの見識だが,政治家には確固とした「信念」が必要と思うが。よく考えた結果,国民感情を考えて,各国に対しては,靖国について理解を求める形で行くと,自分の考えを変えるというなら評価できよう。
 中国や韓国に対しては,との記者団の質問に対しては,それは「内政問題だから」と,模範答弁をしていた。これでよい。中国や韓国に対しては多大な迷惑をかけたことは事実だから,どんなに謝罪しても良かろう。盧溝橋事件では「中国側が先に発砲した」と,言ったところで,日本軍がそこに居なければ事件そのものが発生しなかったと考えられるから,中国人民にとって日本軍を追い出すためには,そうせざるを得なかったのだという論理も成り立つわけだ。
 これから更に友好を深めてゆくためには,水掛け論(中国が先に発砲した決定的証拠はない。せいぜい証言位であるが,証言ほど当てにならないものは無い。反撃だけなら,反撃して戻ればすむことだから,その後の展開を見ると侵攻の意図が感じられてしまう)を言い合っても,不毛の対立を助長するだけである。愛国者なら日本軍に発砲するのも当時の環境としては,ごくごく当たり前と考えられよう。日清戦争の折,桂と交渉した李鴻章は,その口上書を読めば,その文面をしたためた人物として,立派な人物であったことが分かる。明治新政府は列強に対して供に抗して行くために,頑張ろうと清に対しては当たった。その彼が日清戦争で清が破れたのは,中華思想にどっぷりとつかっていたためだと慨嘆したものだった。清はそれなりに富国強兵策は進めたのだが,西洋列強の侵略が続いていた訳だから徹底しなかった結果だろう。日本が中国に兵を進めたのには,欧州列強の毒牙から守りアジア人の手に戻す効果もあった点くらいは中国に対してきちんと言うべきであろうとは思われる。更に,日本に対して歯向かって来るように中国人を変える効果があったことは評価しても良いと思われる。黄色人種は白人に対して,長く下僕の地位に甘んじていた歴史がある。まだまだ対等という訳ではないが。現況は,具体的な植民地こそ消えたが,未だ白人が政治的にも,経済的にも,軍事的にも地球を支配する状況と言ったら語弊があるかな。大東亜戦争における日本の敗北は白人による地球規模の支配を決定的にした歴史的事件とも言えよう。
 >索引に戻る

 戦後は白人の世界分割支配体制確立(16.1.8-13)
 考えても見たまえ,安全保障理事会で拒否権を持つ五つの国と,歴史的背景を。中国(中華人民共和国)は中華民国の代わりだし,この中華民国も国連の設立や,戦後の支配体制には何の発言権も無かった。フランスもだが。戦勝国でないフランスはイギリスがドゴール将軍が作ったフランス亡命政権に影響力を行使するために,同様に中国はアメリカが影響力を行使するために,それぞれ安全保障理事国として組み込まれた。中国の場合は白人のみによる支配体制と思われるのを避けるために意図的に組み込まれた面もある。アメリカは中国を入れたところで御せるとも考えたであろうね。なにせ蒋介石は中国共産党という病巣をかかえ,アメリカの援助を必要としていた訳だから。何の不都合も無く自分たちの正当性を主張するには格好の材料であった訳だ。当時の国際政治力学の結果であることは明らかである。即ち,戦後における世界支配体制は白人によって勢力圏も分割され支配されたのである。これが冷酷な国際社会の現実である。冷戦などは白人同士のいわばコップの中の争いに過ぎなかった。多くの国にとって,それはあたかも蚊帳の外で,観客席の一人に過ぎなかったとも言えよう。
 日本は,米国の顔を立てながらも,卑屈になるのではなく,国際社会一員として,平和と安全に責任を持つ国として,力によってでは無く,その行いによって,世界の諸国民から賞賛されるべき道を考えて推進するのがよろしかろうと思われる。
 >索引に戻る

 靖国は鎮魂と平和への誓い(16.1.8-13)
 靖国神社へは近隣諸国が何んと言おうと,8月15日に30年も参拝し続けることだ。これは30年にさして意味がある訳ではない。一世代の意で長い間継続してという程の意味である。足りなければ更に30年続ければよい。欲を言えば三世代90年である。要するにこれが自然になるまで続けるという意味である。モーセさえ,信仰の土台があったイスラエルの民でさえ、これを律法の民とするのには40年もかかったではないか。浸透するには時間が必要なのである。されば代も変わり,これが通常の姿となろう。今生きている者もかなりが死に絶えるし,これだけの時間がたてば,参拝したからといって,日本が悪い方向には行かないことを実態をもって証明もできるからである。
 A級戦犯と言ったところで,裁いたのは戦勝国。彼らは時代の犠牲者である。我々まで尻馬に乗る必要は無い。彼らだけの責任ではないからである。その意味では,キリスト教徒でもあった故大平元首相のA級戦犯についての答弁は理にかなっている。彼の答弁は「A級戦犯についてはやがて歴史が審判を下すだろう」であった。色眼鏡で見るのではなく,客観的に公平に見られるようになって初めて正当な評価が生まれるのであって,それには十分な時間の経過を必要としている。と言ったのだ。その通りである。政治家はもっと長期的な展望に立って,信念と自信をもって事に当たってもらいたい。先の大戦の真の評価を得るには,まだまだ時間の経過を必要としている。犠牲者の鎮魂と不戦の誓いのために靖国には参拝するのである。分かってもらえるまで訴える以外に無い。分かってもらえないのであれば,今の人に分かってもらう必要は無い。見解の相違ということで良い。
 >索引に戻る

 A級戦犯分祀強制は信教自由への重大侵犯(16.2.20-24)
   つい先日,元首相は,こともあろうに,中韓に迎合して,A級戦犯を分祀すればいいと,以前の持論を再び弄したようだ。こんなことを戦前ならいざ知らず,今となっては一民間の宗教施設となった靖国神社に対して求めるなどできる訳は無いことをご存じないのであろうか。これを認めたら国家権力の宗教に対する弾圧となることが分かっていないようだ。いやまてよ,そう言うことで,自主的に分祀をしてもらおうと考えているということか。だがこれは狡賢い威嚇と言うものだ。1人の考えで遺族会が動くとも思えないが。
 それとも何か,これ幸いに靖国神社を国立の神社にしようというのかな。国のために散った者を民間の施設が護持すると言うのも変な話だから,それならそれで国教というわけではないが,その歴史に配慮し英霊を国立の靖国神社に祭ると言うのなら,それ自体を否定するつもりは無い。ただし,これによって他の宗教への弾圧になることは避けねば成らないことは言うまでも無い。だが,たとえ国立にしてもA級戦犯とされた人々も合祀のままでよい。分祀など必要ない。彼らは戦争の犠牲者であるからだ。百年千年平行線でも譲ることは無い。我々にとって,死者は全てこの世の縄目から全て解放されるのであって,死んで後まで鞭打つことはしないという信念を曲げてまで妥協はする必要は無いと考えるが。これは生き方の問題である。生き方まで指図を受ける筋合いは無い。だが,そもそも無形なる霊魂を混沌たる霊界の中からどうやって分けだすと言うのだろうかとてもできない相談と考えるのだが。いわば水の中に入れた「水あめ」が溶けて渾然一体となった状態の水の中から「水あめ」を元の状態で全て残らず取り出す作業に似てできるどおりはない。だからできないと神社側は言っている。
 国家権力は靖国神社に対して,いかなる強制もしてはならないのである。信教の自由は憲法によって保障されている訳で,この内容は改正論議によっても変わることは無いと思われる。日本は自由と民主主義の国家なのだ。中国のような独裁国家ではないのである。国家に都合の良いように宗教にあれこれと指示する訳けには行かないことが分からないのであろうか。こんなことは中韓が折れて日本に合わせればすむことだ。それで何も問題が無くなる。あれこれと可能性を弄するから付け込まれるのである。それはできない。英霊を冒涜することはできないと突っぱねればよいことだ。めげずにいうことだ。彼らは単に時代の犠牲者である。彼らだけに特別責任がある訳がない。また,彼らを祭ったのも靖国神社の責任でもない。然るべき筋からの申し入れがあってのこと。いったん受け入れたからには御霊は全て保護されるのである。神社側もそれはできないと既に返答している。それ以上言えばそれは弾圧になる。早々に前言を撤回すべきである。
 この問題,昭和33年までには戦犯の釈放が成り,刑死者も戦争の犠牲者として,当時の左右社会党を含む国会の全会一致で戦犯の刑死者の遺族年金・恩給が支給されることになったことが全てを物語っている。
 中韓が文句を言うようになったのは,昭和60年8月7日に朝日新聞が書いた,内政干渉誘導記事のせいである。昭和53年までにA級戦犯も含めて合祀が終わり,何の問題も無く54年から59年まで首相による参拝は行われていた。いったい朝日は中国人民日報の東京支社であろうか。少なくともその姿勢はそうなのでしょうね。
 この朝日新聞,戦前どんな報道姿勢であったことか。10万人以上を殺した東京に対する爆撃を東京大空襲とアメリカから名称の改称を強制され,爆殺とした記事をとがめられ,戦後GHQに発刊停止処分を受けてからはアメリカの大人しい飼い犬になる。後には諸外国の手先のような論調となるのだから,人も新聞も時の権力の声に合わせるか。この名称,大量殺戮をぼかす為の言い換えに過ぎないと思います。実態を正確に表現するなら東京大爆殺の方がより正確と考えますよ。前の考えの方がまともと思いますが。この新聞,進歩的文化人の旗振り役を自任する。他の新聞の読者は調べもしないなどと侮蔑したことを平気で紙面に書く神経はどうかしている。自分たちはエリートと言いたいわけであろうか。手前達こそろくに調べもしないで書いている記事もあったようだ。余り決め付けない方が良いと思うが。限られた時間で記事を書くわけだから,間違いがあってもやむを得ない部分もあるにはある。が,誤報の時はきちんと誤りを報道することだ。これをせずごまかそうとする態度が一番いけない。一律に小さく書くのではなく,事が重大なら大きな見出しで,誰にも分かるように報道することである。されば報道の誠意は伝わる。時の大きな権力には迎合するとは。節操の無いことはなはだしきは新聞人ということか。いや,新聞人に限らないかも知れないな。人というものは全てある意味で卑怯者なのかも知れぬ。正しいと思うなら信念と心中するくらいの気構えが無くては人に感動は与えぬ。正に,生きんとする者は死に,死なんとする者は生きるである。キリストの言葉でも煎じて飲むのがよろしかろう。
 この問題は日本人が名誉を回復するか否かの問題である。断固として妥協は排除する必要があると思われる。全ての問題に合意する必要は無いのである。対立点を残したままで結構である。相手の言いなりになることは,自分を失うことに通ずる。それができないのなら,アメリカの一州になった方がマシであると思う。
 中国のように回りの国を見下す国の配下になることだけは御免である。いまだに自分の国を世界の中心という意味の「中国」と言うことを改めないこと自体が不遜な態度であると考えるが。もっとも,今もっていずれ世界の中心に名実供にして見せると言う意気込みなのかも知れぬな。彼らがその意気込みなら日本も見習ったらよい。キリストも言っている。私が平和をもたらすために来たと思うな,私はむしろ火を投げ込むために来たのだと。激しい精神の持ち主でもある。その強さが今日なお命脈を保っている所以であろう。精神的な強さが無ければ併呑され,この世から消えるだけであろう。精神の復活をこの日本に求めたい。正は正,邪は邪と言うことができ,国益に基づきものが言える強さをである。(/16.2.20-24)
 >索引に戻る

 中国は徳が低い死者に鞭打つ国(16.1.8-13)
 海南島では,縄にて縛られ膝まづいている東条英機像がさらしものにされているそうである。こんな中国人は日本人とは天地ほどの違いがある。彼は刑死によって既にその罪を贖っている。こんな中国になどに行かなければよいのである。中国は「死者にさえ鞭打つ」極めて狭量の国であることは分かっている。元楚,後の呉の「伍子胥」さえ死者に鞭打つことを「狭量」と認めているではないか。わが国はいつまでも怨み続けるなどということはしない。いたって寛容な国なのだ。いつまでも仇敵を怨み続けるなどということはしない。敵も味方もそれぞれ国の正義を背負って戦ったのだと思う。背負って立つ文化・文明が異なるのだ。中国に合わせる必要など無いのである。キリストも言っているではないか。敵を許せと。『敵を愛せ』と,さえ言っている。敵を許すことができなければ「平和は来ない」。我が国は恥じることは何も無い。我が国は中国文明の一地方などでは断じてない。寛容の精神に富んだ極めて優れた文化・文明なのであると思います。
 >索引に戻る

 中国大陸人は戦争に明け暮れた殺人者の末裔(16.1.8-13)
 だいたい彼らが現在大陸で生きていること自体が殺人者でドラキュラと同類の末裔であることを証明している。「詩経」にも載っている。彼らはよほどに戦争が好きだったのだ。獰猛な虎そのものであったろう。人肉を食らい雄たけびを上げたであろう。戦乱が続いた大陸では人を殺さねば生きてこられなかったからである。明々白々であろう。彼らの先祖は人肉まで食したではないか。唐の時代さえ人肉が売られていたと書物にはあるそうな。そんなに威張れた歴史ではあるまい。人にあれこれ言える立場ではなかろう。今般の与党訪中団は「無宗教の施設を建設できるように努力する」と,言ったようだが,そこまでのサービスは必要ない。努力はしたが「国民の理解が得られなかった」と,いくらでも説明は付くから,ある意味では賢い答弁ではあったかも知れない。が,この件では国民感情もあり難しい,と言えば済むことではないか。中国も国民感情を考えると言わざるを得ないのであれば,言えばよい。我々とて同じことだ。中国がいつまでも狭量な言動を続けるなら,中国を引き上げ,「インド・南アジア・パキスタン」に投資を展開したら良い。韓国も同様だ。合わせれば,中国のサイズにはなろう。中でも「インド」のパール判事は唯一日本を弁護した人である。はるかに我らに心は近かった。だいたい我ら日本が大陸に行くようになったのも,平和に暮らしていたところを,あたかも針でちっちめられように,休んでいられなくし,いじめいびられたからではなかったか。そのせいもあって文明化した点はあるにはあるが。こちらも歴史の犠牲者とも言えるのである。(/16.1.8-13)
 >索引に戻る

 福岡地裁「靖国参拝違憲判決」の思惑(16.4.15)
 福岡地裁の裁判官は,小泉首相の「靖国神社参拝は違憲」と,判断したようだ。公用車を使ったから公的参拝であり,公的参拝は憲法が禁止していると言うわけだ。こういう判断が生まれるのなら,首相が公的参拝としても支障が無いように憲法を改めねばならない。
 だが,私はこの判断は憲法を意図をもって故意に捻じ曲げ恣意的に判断した裁判官の「靖国参拝を妨害するための判決における傍論」だと考えますね。だいたいこの憲法を作ったGHQは戦後靖国参拝は差し支えないと許可を与えている。つまり,参拝と言う次元は憲法が禁じているものではないと言うことだ。憲法では信教の自由を謳っている。こんなものは公人であろうと無かろうと関係ない。だいたい,葬式を見よ。どんな宗教形式であれ,私人,公人の区別などせずに参加しているではないか。参拝程度のことで「憲法違反」などと言う神経こそイカレテイル。アメリカを見よ。宗教を排除しているはずのアメリカの大統領就任時における宣誓式では,聖書に手を置いて正しい政治を行うことを神に誓っているではないか。更に米国には国立の聖堂すらあるとのことだから驚くほかはない。これに比肩できる施設はさしずめ「国立の靖国神社」であろう。この類の程度は儀式の域を出ない。儀式は良いのである。国家神道が他の宗教への圧迫ないし弾圧となった戦前の歴史があるから憲法はこれを戒めたのである。憲法が禁じているのは「他宗教への弾圧になるような国の宗教への関与を禁じた」のであって,人の単なる宗教行為を禁じているわけではない。信教の自由はこれを認めているのだ。
 この判決のように拡大解釈するなら,特定の主義主張をもってあれこれと政策決定することも憲法違反と言わねばならない。特定の団体の主義のための政治活動も憲法違反になる。なぜなら公務員は全体の奉仕者であり決して一部の奉仕者ではないからである。念のために言うが,国会議員といえども特別公務員というれっきとした「公務員」なのである。だから厳密に言えば特定の支持基盤に立つ国会議員などは,特定の集団の利益を代弁するとも考えられ,「憲法違反」になると思われる。一方では権利として認め,他方ではこれを否定するものがほとんどではないか。所謂「アクセル」と「ブレーキ」の関係にすべてあり,どちらに過ぎても良くなくそのバランスにこそ国民の幸福は築かれるものと考えられよう。要はバランスと思いますよ。反対意見はあっても良いが,相手の意見も尊重する「バランス感覚」が最も必要なことと思われる。
 首相が「靖国に参拝する」ことは,戦没者を持つ家族なら「国の命令で戦場に散った者への冥福くらい祈ってもらいたい」と考える気持ちは多数の意見としては当然ではないか。少数意見としては戦没者がいる家族ないし子孫の中にこれに反対する者がいることは勿論知っている。が,私自身は近親者に出征した人はいたが,戦没者はいないけれども前者のように思います。
「首相の靖国参拝」に対し違憲判決などが出る状況なら,憲法を改正して首相及び国務大臣の職務の仲に,「国難に殉じた英霊に対し,靖国神社を問わず,これに冥福を祈る」ことくらい義務として明記したらよいと考えますね。その日などは政令で定めるとし,政令などで終戦の詔勅が天皇陛下により放送された八月十五日と定めれば最も良いと考えられよう。
 また,靖国神社は,アメリカの国立聖堂のように,その歴史と国の命令で戦地に赴き没された御霊を守ると言う特殊性に鑑み,国費で護持できるように憲法を変えるのが国としての尊厳の確立には必要と思われる。この場合,一般の神社とは切り離して考えればよい。要するに例外規定を設け,護持に必要な補助金を受け取ることができるようにすることではないか(勿論,この場合,国の会計監査を受ける必要はある)。でなければ「赤紙一枚で散っていった者の御霊は浮かばれまい」と,考えますがな。
 現在の状況は一部の有志によって御霊が守られているといった状況であって,これを正常と考えますか。神社がつぶれれば荒廃の社と化し御霊はどうなる。哀れではないか。国による靖国の護持はこうならないための国としての最低の責任ではなかろうか。若い時には考えもしなかった靖国神社だが,年のせいであろうか五十半ばを過ぎた齢になると,心の世界が,御霊の世界が気になるのは人が霊を持った存在と考えられるためであろうか。
私は,今の状態こそが異常なのだと思いますよ。
 日本はこの問題を乗り越えて初めて,戦後の縄目からの解放,即ち,真の独立を得ることになると考えます。外国の言いなりになって来ている現況は,精神的な占領下にあると言わねばならないのではなかろうか。
 私は,この日本に,自分の考えで立ち,世界の平和と繁栄のために貢献できる大人としての日本になることを期待したい。そのためには,国家観と意志を持たねばならないことは言うまでも無い。人間の決断には時として判断ミスもあろうが,それを乗り越えて日米は将来にわたって良好な協調関係を伴った同盟関係を維持することが国益と考えます。
>索引に戻る

 未来を生きる
 私は,大学時代にプラトンが書いた「ソクラテスの弁明」を読んだことがことがあるが,「悪法も,また法なり」とアテネの裁きに従い,弟子達の勧める脱獄(弟子が多く居たのでやろうと思えば出来たが)を退け,当時の処刑法である毒杯を仰いで刑に服した。彼の生き方こそ真の愛国者の生き方であろう。なぜそれが愛国者なのかと思う人がいるかも知れないね。それは自分の説や命よりも自国の法を尊重し優先したからだ。これ以上の国を愛する姿勢はない。世の中には,自説を優先し,公の決まりを無視する人がおるが,百人いれば百人の考えがあり,めいめいが自分の考えで好き勝手に行動したらどうなるか,言うまでもなかろう。それゆえ彼の哲学は世界の文明に多大の影響を与え歴史にその名を残したのだと思う。ここで逃げていたらただの人で歴史にもその名を残さなかったに違いない。正に未来を生きるとはかくのごとき生き方を指すのであろう。そう言えば,キリストもそうであった。自分を殺す者のために神に祈ったと言う。強烈な死に方である。死ぬことによって彼の教えは今日まで2000年の長きに渡って西洋精神文明の真髄となっているのである。このように,死をも恐れぬ気概がなくて人の心を動かすことは難しい。政治家たる者にこの水準を求めるのは無理なのかも知れぬが。『死なんとする者は生き,生きんとする者は死す』とは,なんという言葉であろうか。『知る者は知れ』ということであろう。(参考文献C)
 >索引に戻る

 外交は国益の闘い
 中国や韓国の政治家は立場上,日本に批判する人がいるのに彼ら被害を受けた側が批判しないとすれば政治生命を絶たれる。従って,現況では靖国神社参拝を歓迎する訳はない。われらの立場を伝え。末永い友好を忍耐強く訴える他はない。
 外面は良いが内面が悪い親父を母子は尊敬するであろうか。外国の言いなりになる外交ほど楽な外交はないが,それでは国益を損ねる。未来永劫に禍根を残すことになる。外交の真価はどれだけ国益を盛り込むことができるかで決まると考えます。また,外国の言いなりになることは,一見友好を深めるように見えるが,そうではない,自国民はフラストレーションが高まるであろう。相手国を不満に思う者が増えるであろう。これでは真の友好は築ける訳はないのである。日本も相手の国を理解する事は大事だが相手の国も日本を理解する事もまた必要である。お互いに理解しあって納得してこそ互いのわだかまりも解け真の友好を築けるというものではないか。互いの宗教観,教育に対する考えは意見を言うのはいいがあくまでも相手国を尊重する事が前提である。余り言い過ぎると逆効果になる事を互いに知るべきである。決してプラスにはならない。人間と言えども感情を持った動物である事を忘れてはならない。
 それにしても不思議なのは韓国である。彼らは日本が敗れたから独立できたのではないか,いわば日米開戦をしてくれたから独立の機会が訪れたのだ。ハルノートでも朝鮮の独立を求めてはいない。と言うことは,正に開戦してくれてありがとうと言うのが彼らの立場だと考える。その意味ではA級戦犯様々のはずだ。言うことと考えることとが混乱している正に支離滅裂と言っては失礼かね。冷静に考えたらどうかね。こんな考えしか出来ないから2000年に渡って中国の王朝の属国だったのだと思うが。
 中国共産党にしたって同様だね。日本が列強を追い出してくれて,更には日米開戦してくれて負けてくれたからうまく漁夫の利を共産党は得たのではないか。国際政治の現実をよく分析したらどうかねと思うのだが。従って,戦犯には感謝してもいい状況と考えるが,どうして短絡的に考えるのでしょうね。日本が何もせず,イギリスやロシア,フランスが居座っていたほうが良かったと言うのであろうか。もっと正直に話し合ったらいいだろう。そうしたら,独立はもっと困難であったろう。アメリカも介入なんてことになってね。当然,アメリカは蒋介石を後押ししただろう。満州事変以後の話。国際的に批判されるのはここからだ。もっとも彼らが批判するのは軍国主義に対してであろう事は分っているつもりだ。これが彼らを苦しめたと思っているからね。
 だがそれを言うなら,いったい明治の初期,これ以外の生き方を日本は許されたであろうかを考える必要がある。弱肉強食の時代にである。こうしなければ日本とて植民地になっていたであろう。時の指導者は敵も味方もたとい苦しくても外国の介入を招く選択はしなかったのだ。賢明な選択であった。そして生きるために富国強兵に努めたのだ。それを軍国主義と言うなら,もはや『何をか言わん』である。あの時代にあっては生きるための選択だったのだ。
 このプロセスが最善だったとは言わないがそれなりに必要なプロセスではなかったか。だから,両国とも不幸なことでは在ったが,これを必要なプロセスと認め未来志向で協力関係を作っていくのがベストと思う。そうでなければ,未来永劫に真の友好などは出来ないであろう。日本に謝らせつづけることが彼らにとっていいことなのであろうか。そうは思えない。日本人はフラストレーションを膨らませるだけだからだ。決して彼らを友人とは思わないであろう。過去にさかのぼれば彼らだって日本を攻撃したのだ。お互い様ではないか。最近の考古学的検証からは,日本人そのものも大陸の難民が移住して先住民を蹴散らして築いたようであるから,強者が弱者を支配するのは人類の歴史そのものと言うこともできよう。
 >索引に戻る

 未来の道標
 我らが,歴史から学びどうすべきかは,判断の誤りをしないための工夫を歴史の断片から学び取ることであろう。それは,正しいと心の底から信ずることは信念を通すためのあらゆる努力を惜しまず相手に対して忍耐強く説得することであろう。
 また,歴史を研究し,過ちの原因を究明し対策を講じることこそ,死者への手向けとなるであろう。
 例えば,関東軍の暴走を追認という形で認めた事は大きな誤り,罰すべきは罰する勇気が必要であろう。(参考文献@)が,残念なことには軍が見逃せば,憲法上そうせざるを得ない事情があったようである。憲法を直さなければ軍の暴走をどうすることも出来なかった。従って,当時の日本は2つの国があるが如しだったのだ。問題の根本である憲法を改正せねばならなかったのだ。だが,当時の政府にそれだけの力は無かった。思うに内閣総理大臣が陸軍大臣,海軍大臣の上にある必要があったのだが。今次大戦を位置付けるに,『文民統制の制度を作るために尊い血が流された』と言うこともできよう。
 中国の故事にある「泣いて馬謖を切る」と,言うように,軍律違反は「程度によっては処刑も有り」でなければ国の命令は届かなくなる。(このときは軍律違反で大敗したので処分を受けたのだが,当時の時点では必ずしも失敗とは言えなかった,戦功を上げた面もあるように,そこで処分はしにくかった面はある。が,たとい軍功を上げても軍律違反は後々まで禍根を残すのでやはり罰しなければならないだろう。)その結果は,今次大戦のように途端の辛酸を国民に負わすことになることもあるのであるから。もっとも,やられたらやり返すことができなければ身は守れないから,その辺の細やかな軍規は必要ではあるが。現在も気になることは,不祥事を起こした官僚の始末が甘いことである。
 >索引に戻る


靖国問題小史
《平成13年7月30日(月)(2001年)読売新聞1面及び2面「地球を読む」の概略》


首相の参拝

昭和20年10月(1945)

幣原首相靖国神社参拝,戦没者の霊を弔う。

昭和20年10月(1945)

GHQの指示で戦没者への公的関与一切禁止

昭和25年(1950)

講和条約署名

昭和25年(1950)

吉田茂首相,批准を待たず,「戦没者の慰霊祭等への公式参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を行う。吉田も遺族達も

昭和25年(1950)以後

吉田は4回,岸は1回,池田は5回,佐藤は11回,田中は5回首相として公的形式で参拝。

三木首相

大衆迎合政治家。一国平和主義者。防衛費1%枠。私人として参拝したと説明。当時稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席したことを「個人の立場で」と釈明したことがその背景にあったと推察されている。

福田首相

前例に従う。その後,私的参拝となる。


戦犯合祀の問題

講和条約発効

講和条約発効と同時に,まだ服役中の同胞の釈放運動が起こる。

 

講和条約の規定の下に関係諸国の同意を得て昭和33年までに全員が釈放された。

 

これと,平行して戦争裁判の刑死,獄死者の遺族年金,恩給支給の運動も起こった。通常3年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されるが,戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲者と考えるという事であり,当時の左右社会党を含む国会の全会一致で決定された。

34〜53年

この年から戦争裁判受刑者が逐次合祀され,53年にA級14名が合祀されて完了。

54年 

 大平首相参拝何の問題もなかった。

55年,56年 

 鈴木首相参拝何の問題もなかった。

57年 

 「自虐史観」の発端となる教科書問題が起こり中国の「対日批判が激しくなる」が,「A級戦犯合祀」の批判は特にない。

58年,59年

 中曽根首相参拝,問題とならず。

60年8月15日

59年に靖国懇談会を設け,その報告書に基づきこの日,中曽根首相公式参拝を行った。

60年8月7日

 朝日新聞は「中国が厳しい視線で凝視している」と書き。これが発端で以後中国がいちゃもんをつけるようになる。以後政府を苦境に追いやる。いったい朝日はどこの国の新聞であろうか。朝日は外国から内政干渉するように誘いをかけたのである。

60年8月10日

 人民日報は,靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道し,はじめは互いに相手国を引用する形で,反対運動を開始した。

60年8月14日

 中国外務省スポークスマンが「アジア各国人民の感情を傷つける」と,はじめて公式に反対の意思表示をした。

60年8月27日〜30日

 社会党訪中において,社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いにあげる。反対運動は燃え上がる。

その後 

 中曽根は退任まで参拝できなくなる。


「侍従長の遺言」(2001年8月12日10:00〜10CH)

28-29年

恩給法改正「A級戦犯も支給対象とする」

40年

靖国神社が厚生省に戦犯を含む資料の送付を依頼 

41年

厚生省が靖国神社にA級戦犯の祭神名票を送付

45年

靖国神社崇敬者総代会でA級戦犯の合祀を決める。筑波宮司預かりに(そのまま死去)

53年7月

松平永芳氏が宮司になる

53年10月

A級戦犯を合祀

53年11月

合祀名簿が昭和天皇のもとに

 >戻る