第37回(2010年12月1日号)朝倉めぐみの『何を食べても大丈夫! 透析しながら食道楽』
週3回人工透析をしているイラストレーターの著者が、日々の食事に気を遣いながらも楽しく生きている日常を綴った本です。
子どもの頃からずっと「食いしん坊」だった著者が腎臓病になってしまいます。30代半ばで四か月入院。低タンパク・高カロリーの食事に加え、カリウムとリンの含有量も気にしなければなりません。退院時に「以前と同じ生活に戻れば腎不全になって人工透析です。家に戻っても、しっかり食事制限してください」ときつく言われます。ところが、にもかかわらず退院して1か月も過ぎると元の生活に逆戻りしてしまいます。
アラフォーに差し掛かったころ、またして入院。四十すぎの年齢で透析宣告されたことにショックを受け、主治医を説得して退院します。透析だけはしたくなくて、「死ぬ気の食事制限は始まった」のです。
著者の取った行動は、徹底したレコーディング(記録)でした。秤(はかり)を持ち歩き、五訂食品成分表を見ながら、タンパク質、カリウム、リンの数値を調べ、ノートに記録していくというものです。ノートが10冊を超えたころ、仕事が忙しくなって量ることをやめてしまいます。「レコーディングをやめて、あっという間の三カ月。最後に透析になることを宣告されてから二年目」に、ついに透析導入という事態になってしまうのです。
週3回人工透析を受けることになり、「適量」を食べることがいかに大事なことかわかっていきます。お酒も好きで、食べ歩きを趣味にしていた著者が、厳しい食事制限のある生活を送ることになってしまいます。しかし、悲壮感はありません。自宅に友人を招いてホームパーティを開く様子や、外食も楽しむときの心得も書いています。以下に一部を紹介します。
自分が病気になってはじめて、ごはんやパンが大切、とか「適量」さえ気をつければごはん一膳くらい食べたって太るわけじゃないんだ、ということを思い知った。
要は、摂り方だった。
もちろん「適量」は鉄則。ただ「時間帯」も大切だ。
お昼なら多少カロリーを多めに摂っても午後の活動で消費できるはず。タンパク質の多いおかずやカリウムたっぷりの野菜をしっかり食べるのは夜にして、エネルギーになるごはんやパスタはなるべくランチで食べるのがいいようだ。
最近はおにぎりを食べさせる店も多いけれど、そういう店もランチには向いていると思う。
おにぎりは、具が少しでごはんがメイン。必要最低限のタンパク質が摂れて、炭水化物でエネルギー補給ができる。
(朝倉めぐみ『何を食べても大丈夫! 透析しながら食道楽』飛鳥新社、2010年、149〜150ページ)
人工透析が必要でも海外旅行にも出かけています。病気を抱えていると消極的になりがちですが、明るく楽しく前向きな食生活ライフは、病気がちの人だけでなく、多くの人々に共感を与えてくれます。おそらくたくさんの苦悩があったでしょうに、湿っぽいことは何ひとつ書いてはいません。お涙ちょうだい式の闘病記ではないところが良いのです。「食いしん坊」が「食いしん病」となり、暴飲暴食の果てに病気になっても、食べる楽しさを失ってはいません。
イラストレーターとしての特技を生かし、文章の合間にカラーのイラストが入っています。イラストつきのレシピで得意料理の作り方も教えてくれ、一日の食事例やキッチンの様子も描いています。食べること作ること作って食べてもらうことが大好きな著者の食生活のありようは、腎臓病であるなしに関わらず多くの読者に大切なことを教えてくれます。
第36回(2010年11月20日号)河合知子の『管理栄養士になる方法』
本書は、2009年から2010年にかけてこのまぐまぐメールに連載した文章を加筆修正したものです。新たに書き下ろした部分もあります。二部構成にし、PART1は、栄養士・管理栄養士の仕事についてまとめました。PART2では、管理栄養士国家試験必勝法が中心になっています。効果的な勉強方法や受験テクニックを紹介しています。
読者層を栄養士・管理栄養士を目指している専門学校や大学生、栄養士免許を持っている社会人たちを思い浮かべながら書きました。
栄養士・管理栄養士に関する本や国家試験対策の本はたくさん出版されていますが、本書はそれらとはちょっと異なる味わいを意識しています。栄養士が職場で感じる実態や、国家試験の不適切問題など多くの書物には書いていないことを書くようにしました。たとえば、以下のような文章です。
しかし、お役所というところは、基本的に自分の間違いは認めたがらないところです。受験生がいくら「これはおかしい」と主張しても、厚労省が「出題ミスでした」と認めてくれるかどうかは、わかりません。(86〜87ページ)
試験問題が良問か悪問かを見極める姿勢をもってほしいのです。管理栄養士養成に関わる教員たちが、国家試験問題を無批判に受け入れるだけでは、管理栄養士の力量を伸ばすことにつながりません。(91ページ)
私は、管理栄養士国家試験の合格率を宣伝に使っている大学を、それほど信用していないのですよ。(101ページ)
管理栄養士養成施設校に所属する教員たちが、ふだん思っていてもなかなか発言できないこともなるべく書いています。フリーランスの立場だからこそ書けた部分は多いのではないか、と思っています。
実際に出題された国家試験問題を取りあげて、どのような思考で解いていけば正答にたどり着けるのか、解説もしています。管理栄養士の資格が紙切れ一枚に終わらないように、実力を伴った、骨太の管理栄養士になってほしいと願っています。
【プレゼントのお知らせ】
本書の書籍化にあたり、まぐまぐメールの読者の方々の存在が大きな励ましになりました。お礼申し上げます。
そこで、みなさんに本書をプレゼントしたいと思っています。ご希望の方は、送付先と氏名をメールでお知らせください。外国在住の方、日本国内に送付先がある場合はなるべく日本の住所にしてくださるとうれしいです。
当方にはどなたが読者登録をしてくださっているかわからないしくみになっています。お知り合いの方もまだ面識のない方も、どうぞご遠慮なくお申し込みください。メールアドレスは、下のKS企画のホームページからプロフィールを開いてくださると載っています。
なお、購入ご希望の際には、私に直接注文していただければ、1冊1000円(税込み)にいたします。送料は不要です。どうぞよろしくお願いします。
第35回(2010年11月10日号)中島義道の『偏食的生き方のすすめ』
本書は、偏食が著しい哲学者の一年を日記風に綴ったものです。「サラミは手足の切断面のよう」で、「シチューは嘔吐物(おうとぶつ)のよう」、「ナマコはその形からぬめっとした感じから名前まで、すべて気味が悪い」と理由を挙げます。「シャコは巨大なダンゴムシのようで不気味であるが、なぜか食べられる」、「鶉(うずら)の卵はまったく食べられない。なぜなのかいまだにわからないが、あるいは適度に小さくてトカゲのような爬虫類(はちゅうるい)の卵を連想させるかもしれない」と、なぜ食べられないか述べています。たとえば、「卵」という漢字が卵の内部構造をそのまま示していて、グロテスクと再確認するからだと言います。以下にその続きを一部引用します。
キャビアは極端に小さく黒いから食べられる。
唯一(ゆいいつ)食べられる卵であるその鶏の卵でも、生卵を飲むことはできない。卵の原型が維持されているゆで卵も駄目。それは、やはり卵のもつ威力、つまり雌鳥(めんどり)が体内から産み出したままの「まあるい」形に抵抗があるのだろう。
だから、この完全な卵形は崩してしまわねばならない。
黄身と白身とを完全に攪乱(かくらん)して醤油(しょうゆ)と混ぜ合わせる古典的な「朝定食」にすれば、なんの抵抗もなく喉(のど)を通る。目玉焼きはまだ黄身と白身の部分が分離したままであるから、多少抵抗は残るが、ずいぶん卵の原型から隔たって平板化しているために、食べることができる(それにしても、この名前は残酷)。完全に原型が崩れた玉子焼きやスクランブルエッグは大好きである。玉子丼(どん)も大好きであり、玉子とじうどんも大好きである。
(中島義道『偏食的生き方のすすめ』新潮文庫、2005年、84〜85ページ)
勝手にせいと思ってしまいます。あまりの偏食ぶりに思わず笑ってしまいます。そして、自分の偏食にはどんな理由があるのだろうかと、つい考えてしまうのです。そもそも嫌いは嫌い、好きは好きで特段理由などはないと凡人は考えがちですが、好き嫌いに理屈を求めるところが哲学者らしい。ただし、『偏食的生き方のすすめ』というタイトルですが、偏食を薦めている本ではなく、また偏食のことだけを書いているわけではありません。
著者は、騒音公害や過照明など日常生活に敏感な人です。商店街で、「いらっしゃい! いらっしゃい! いらっしゃい! いらっしゃい!」とスピーカーを設置して轟音を放出している店を見つけると、すぐさまスピーカーのコードを引き抜き、抗議します。それでも改善されないと、スピーカーを取りあげ、住宅街の垣根の中にぽいと捨ててしまうのです。翌日、警察署が窃盗容疑をかけていることを学長から知らされても動じません。
あっぱれな人物です。変わった人です。周囲の摩擦など考えず、自分の考えていることを伝えようとします。自分に正直に生きている人でもあります。
電車のなかで携帯電話を使っている少女に注意した事件は、オチがおもしろい。調布駅から京王線に乗り込んだ時の話です。携帯電話をかけていた少女に注意しますが、少女はぶすっとしたまま無視。検札に来た車掌に大声で「この人、注意を聞いてくれない」と言ったところから大事件が勃発。少女との言い争いになって、二人は明大前で降ろされ、駅長室で事情を聞かれることになってしまいます。最後に、少女は著者に謝り、「おじさん、おもしろい人だから連絡先教えてください。」と言うのです。
偏食に話を戻しましょう。食べものの好き嫌いは悪いこと。偏食は直した方がよい。栄養士のみならず、大多数の人々はそう思っています。あれも食べられないこれも食べられないと告白すると、「じゃあ、何を食べるの?」と愚かな質問が発せられますが、著者は明確な返答をしています。「食べるのがたくさんありすぎて困るくらいである」。「不便なのは、ただ私が人々と「一緒に」動くときのみである」と述べます。「同席している人に有形無形の迷惑をかけることになる」とのこと。至極まともな著者の意見でした。
第34回(2010年11月1日号)吉田篤弘の『それからはスープのことばかり考えて暮らした』
長いタイトルの通り、主人公のオーリィ君がスープのことばかり考えて暮らす物語です。悪人は出てこないし、生々しい事件が起こるわけでもありません。読後感は、実にほのぼのとあたたかくなり、まったりとしてしまう、絵本のような不思議な本です。仕事や職場の人間関係で疲れたとき、心を癒してくれる本と言えるかもしれません。初出は、『暮しの手帖』の連載でした。
小説の舞台は、〈月舟シネマ〉という古い映画館が近くにある町です。失業中のオーリィ君は古い映画を観るのが大好きで、同じ映画を観るために何度も映画館に足を運びます。アパートの大家さんから、美味しいサンドイッチ屋さんのことを聞き、毎日のように通い、ついに、そこで働くことになります。
店主である安藤さんのサンドイッチの作り方は実にていねいで、作り置きなどしません。注文を受けてから作り始めます。「じっと見ていたら、サンドイッチは冷蔵庫から取り出してくるどころか、パンを切り分けるところから始まり、ハムときゅうりもそこでカットされ、手際よくさっさっさっと順にはさまれてい」くのです。「その一連の作業の手つき、身ぶり、それに顔つきまでもが、いちいち決まっていて、それこそ映画のよう」にオーリィ君は感じます。安藤さんの息子であるリツ君との交流も出てきます。
最初は人気のあったサンドイッチですが、次第に売れなくなります。販売戦略のひとつとしてスープを売ることになり、オーリィ君がおいしいスープ作りを考えることになりました。
オーリィ君は試行錯誤しながらさまざまなスープを試作していきます。納得できるスープを作り上げるのに夢中になって取り組むのです。その一部を以下に紹介します。
試行錯誤を繰り返し、ようやく完成したのは、〈えんどう豆のポタージュ・スープ〉で、またしても安藤さんの言い分を真似れば「なかなかの傑作」に仕上がったと自負していた。あとは、マダムの「あら、これ、おいしい」の一言を聞いて安心したい。
当日は昼間から仕込みを始め、チキンを焼き、サラダをつくり、簡単ではあるけれど「ディナー」と呼べるひととおりのメニューをどうにか取り揃えた。
何よりマダムへの御礼の気持ちがあり、そのうえで僕は、とにかくマダムを驚かせたいという思いがあった。
この「驚く」というのが最近の発見で、何ごとにせよ「素晴らしい」よりも「美しい」よりも「おいしい」よりも、出来れば「驚いた」と誰かに言わせたかった。
(吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』中公文庫、2009年、177〜178ページ)
サンドイッチを作るときも、スープを試作するときも、〈幸来軒〉というラーメン屋で夜鳴きそばを食べる場面でも共通している何かがある、と思えてきました。じっくりと考えてみると、それは食べる人が目の前にいて、作る人は食べる人のことを考えているということでした。目の前にいなくても食べてくれる人のことを考えながら作ります。作る人と食べる人の関係が相当意識されているのです。料理をするときの本質的な心構えが伝わってきます。
サンドイッチを作るときの姿勢や美味しいスープを作るための努力をさりげなく描いています。その押しつけがましさの無さもまた魅力の一つになっていると感じました。
ちなみに、『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫、2009年)も同じ著者です。つむじ風食堂に集う人々の物語です。こちらも合わせて紹介しておきます。
第33回(2010年10月20日号)児玉定子の『日本の食事様式』
私はかつて「児玉定子論文に学ぶ 出版物にみる栄養指導の展開」と題して、児玉定子の論じた「栄養指導講義」を軸に研究ノート(市立名寄短期大学「紀要」、1993年)をまとめたことがあります。『増補改訂版栄養指導講義』(学術出版、1962年)を手にしたとき、その知見の深さ、栄養指導に臨む骨太の姿勢にちょっとした感動を覚えたものです。労働科学研究所から1956年に出版された『栄養指導講義』は、その後、出版社を変え、版を重ねましたが、現在では入手困難な書物となっています。
一方、本書は新書でもあり、栄養士以外の人々にも広く読まれている本です。肝心要の栄養士がこの本の存在さえ知らずにいるのは大変もったいないと思い、取りあげます。
1913(大正2)年生まれの著者が1980年に著しました。出版後30年が経過しましたが、まったく色あせることはありません。家政学の大御所だった児玉定子のダイナミックな食事様式論は、現在の日本人の食に関する今日的問題を考えるにふさわしい題材だと考えます。
「私たちが日常食べている食べもの・料理は日本料理ではないのか、日本料理は中断されずに続いているのではないか、日本料理の伝統とは何をさしているのか、という疑問」から出発しています。ハリス総領事、ペリー提督が供応を受けた料理、将軍慶喜が開催した英国公使パークスへの接待メニューを取りあげ、伝統的日本料理の特徴や西洋料理を当時の日本人がどのように取り入れたかを説明していきます。西洋料理との比較によって日本料理の特徴がより鮮明になってきます。
現在の食生活との関連で言えば、支配階層専属のプロの料理人が限られた弟子にしか伝えなかった伝統的な技術の継承は、中断してしまったと論じます。家庭の主婦が作る家庭料理と日本料理の料理人(プロ)が引き継いできた調理法はまったく異なることを、数々の事例を出して述べています。
たとえば、てんぷらの衣。家庭で作るときには、さっくりと軽く揚げるために、氷水を使い、練らないようにします。プロの作る衣は、「花がさき、細かいサクサクの衣の薄い層ができ、ちょっといじったくらいではくずれ」ません。作り方が違うのです。卵は卵黄だけ用い、小麦粉をよく練り合わせて、衣の台を作ります。「太い箸の先か指でチョンチョンとたねを落してやる」方法で花をさかせ、時間が経っても形を崩さない方法を紹介しています。日本料理四条真流師範の肩書きをもつ児玉定子ならではの説得力です。
明治の日本料理は主として中流階層の宴会に使われ、日本料理の伝統はこれらの酒宴料理のなかに変則的に保存されることになった。これらの中級の日本料理店では、しだいに和洋折衷の料理を出す店も多くなった。
上層は鹿鳴館に象徴される西洋料理に傾斜していった。これをまねて中流向きの西洋料理店も多数現われるようになった。
こうして明治は、牛肉をはじめ酪農品その他の新しい西欧の食品を使いこなすことに忙殺され、前の時代に伝統的食事様式の再評価は、後代にまたねばならなかった。
この西欧式食事様式の移植は、大正指導層の、いやます西欧心酔を経て、太平洋戦争後のアメリカ式食事様式の導入に接続し、明治の西欧化は増幅され、本格化してきた。他方、この傾向は、戦後の大衆社会状況の波に乗って津々浦々に拡散しつつある。
(児玉定子『日本の食事様式』中公新書、1980年、172〜173ページ)
栄養指導に携わる栄養士は、自然科学だけでなく人文科学、社会科学の素養も必要なのだと教えられます。少々難解なところもありますから、大学のゼミや読書会のテキストとして複数の人たちと一緒に読むと、疑問が解けたり理解が深まったりするでしょう。何回読んでも、そのたびに新しい発見や議論の素材が見つかる本です。
第32回(2010年10月10日号)佐伯芳子の『栄養学者佐伯矩伝』
栄養学者、佐伯矩(さいきただす)の伝記です。栄養士養成施設校の授業ではほとんど扱わないので、佐伯矩の名前さえ知らないで栄養士になる人がたくさんいます。日本で初めて栄養士という職業の必要性を感じ、その養成に力を注いだ佐伯矩のことを是非とも知っておいてもらいたい。そう思って、本書を取りあげます。
佐伯矩は、明治9年生まれ、昭和34年に亡くなりました。明治、大正、昭和の時代を栄養学の発展と共に生きた人物です。本書の扉には、佐伯矩の胸像や写真が載っています。胸像は2体あって、1体は佐伯栄養学校校内に、もう一つは国立栄養研究所におかれています。佐伯矩は、大正9年に国立栄養研究所(現在の独立行政法人国立健康・栄養研究所)が開設されたときの初代所長です。そして、大正13年に佐伯栄養学校を開設した人物でもあります。エール大学大学院を卒業した時の写真も掲載されています。
愛媛県に生まれた佐伯矩は、県立松山中学を経て岡山の第三高等学校医学部(現在の岡山大学医学部)を卒業します。その後、京都帝大医化学教室、内務省伝染研究所での研究を重ね、明治38年にはエール大学のフェローとして渡米します。
佐伯矩のアメリカ滞在は明治44年まで続きます。佐伯矩が帰国した理由について、日本で当時猛威を振るっていた脚気と結核を挙げます。国民病とまで言われたそれらの解決には、栄養学の研究が必要だと感じていたのです。しかし、食べものを研究対象にすることは学問として低位に見られていた時代で、そうした苦悩もあったようです。以下に一部を引用します。
学問といえば、高貴なものという観念からは、あまりに俗に思われる食事の指導は、矩という人間も栄養学もいやしいものに思わせたことがあったようです。
当時、博士といえば数が少なく権威があったのですが、矩は“食物(クイモノ)博士”と呼ばれましたし、「料理に関係するとは博士の面汚しだ」ともいわれました。
ちなみに申し添えますが、矩は鋭敏な味覚をもっていましたし、科学技術者や医師独特の器用さをもっていましたが、自分で料理をしたことはありません。唯一の例外は、すきやきでした。日本の家庭では、主人が初めは手がけるものとされていますが、矩は、西欧風の食卓でお客や家族に肉を切り分けるのよりは楽だと笑いながらつくっていました。
それでも何となく板につかないし、上手でも、好きでもありませんでした。
「料理はそれ自体が目的ではなく、栄養の目的達成の手段である」
「もし下手なら食べてもらえないから、それでもだめだが、ただおいしくて喜ばれればよいというものではない」といっていました。
(佐伯芳子『栄養学者佐伯矩伝』玄同社、1986年、39〜40ページ)
現在、栄養士必携となっている『日本食品標準成分表』の元となった『日本食品成分総攬』(昭和六年完成)は、佐伯矩と国際聯盟本部ライヒマン博士との協力で世に出されたもの。「日本はもともと食品の種類が非常に多いので、ことに困難」という状況にも屈しませんでした。他国の食品分析の模範ともなる『日本食品正文総攬』の出版は、重要な事業のひとつとなりました。
百年前、西洋の学問を積極的に取り入れた時代に、日本人の抱えている栄養上の問題を把握し、栄養学の発展に尽力し、栄養士という仕事の必要性を感じた佐伯矩。栄養学を学問としても、実践活動としても確立していくには何が必要かを考え、実践に移した功績は大きいと言えるでしょう。
著者の佐伯芳子は、佐伯矩の娘です。本書の後半には資料として佐伯矩だけでなく芳子や息子の論文も掲載しています。佐伯一族が栄養研究に関わった、その一端が伺えます。
第31回(2010年10月1日号)宮尾登美子の『菊亭八百善の人びと』
第二次世界大戦で中断していた、江戸時代から続く老舗料理店を再開する物語。八百善の九代目の妻になった汀子の目線で書いています。宮尾登美子が本書を書くきっかけになったのは、八百善九代目当主の妻である栗山恵津子著の『食前方丈』(講談社、昭和61年)でした。「八百善ものがたり」と副題がついた『食前方丈』が世に出ていなければ、本書も当然誕生していないわけで、活字に残しておく不思議な力を感じてしまいます。
本書は、汀子が嫁ぐ昭和22年から昭和33年までの時代で、伝統ある老舗経営の苦労や八百善で働く人々の人間模様が描かれています。1991年には舞台化されましたし、2004年にはNHKのドラマにもなりました。
著者はあとがきで、「料理に関する饒舌(じょうぜつ)をつとめて避けた」と打ち明けています。「いま日本は食糧も極めて豊かで、料理の専門家ならずとも食物については一家言を有する方が多」いなか、料亭で働くさまざまなひとたちに対する興味をそのまま書いたと述べています。
八百善は、食文化史や食物史のテキストには必ず載っている、江戸本膳料理の老舗です。時代劇にも出てきます。あるとき、美食に飽いた客が茶漬を注文したところ、半日待たされた挙げ句ようやく出されたのは、煎茶の土瓶と飯、瓜茄子の粕漬を切りまぜにした香の物だけ。あとで勘定書をみると一両二分と書いてあった話は有名です。なぜ高いのか。茶銘を選び、米は越後の一粒選り、最もお金がかかったのは茶を入れる水だという。早飛脚を仕立てて玉川まで水を汲みに走らせたので莫大な運賃にかかったという話です。美味しいものを追求する老舗のプライドや贅を尽くした料理を食べたいという特権階級の存在も見えてきます。
家業が伝統ある老舗料理店だから、ふだんの食事も豪華なのだろうかと思いますが、自分たちの食事にはほとんど気を留めない様子です。
今夜のおかずは大根と生揚げの煮物、このごろはダシの煮干もカルシュウム源だというので、皿に一しょにつけ合わせるが、考えてみれば今週は大根と干物とが一日がわり、しかし誰ひとりこの家の人間は文句をいわず、そそくさとかき込んで茶の間から出てゆく。
ペルリを饗応したという本膳料理の献立てを立てた六代目から、日本のごちそうの粋を伝授された七代目はさらに料理研究家の八代目へとそれを伝えている話を聞いたあとで、大根と生揚げの一皿と麦飯の食事で満足している了二を思うと、汀子は何だかふしぎでならなかった。
(宮尾登美子『菊亭八百善の人びと 上』中公文庫、2003年、177〜178ページ)
八百善四代目が残した『料理通』の内容を折り込みながら、老舗料理店を経営していく難しさが至るところににじみ出ています。八代目は茶人でもあり、毎月のお茶事の話も出てきます。茶の湯と茶事に出される料理の深い関係も読み取れます。
しかし、小説の主題は汀子を中心とした八百善に働く人々の人間模様。汀子がひそかに思いを寄せる板場の小鈴との関係が少しずつ全面に出てきて、下巻に入ると途中で本を閉じたくなくなるくらいです。
『櫂』、『鬼龍院花子の生涯』など宮尾文学を映画化した監督、五社英雄は別の文庫本の解説のなかで、こう言っています。「宮尾さんの作品に登場する人物は、常にたぎる情念にのたうち廻り、味が濃い。」(宮尾登美子『もう一つの出会い』新潮文庫、1985年、242ページ)
宮尾登美子自身は、「恵津子さんを汀子に重ね合わせ、江戸っ子らしいからりとした明るさに焦点を絞った」と、これまで描いてきた女性とは異なるタイプとして描きたかったようです。しかし一読者としては、小鈴への思いを抑えながら、八百善を守ろうとする汀子に宮尾文学に通底する情念あふれる女性の魅力を感じたのでした。
サブタイトルは、「遵守」に蝕まれる日本。遵守(じゅんしゅ)とは聞き慣れない言葉ですが、法律家がよく使います。「目上の人から言われた事や法律などを、よく守ること」(新明解国語辞典)という意味。
著者は、たびたび水戸黄門の印籠を例に出して、思考停止社会に陥っている日本社会を心配しています。水戸黄門が印籠を示すと人々がひれ伏して「勧善懲悪」的な解決によって決着することを多くの人々は違和感なく受け入れてきました。法令、規則、規範、あらゆるものの「遵守」を押しつけられることで、何が問題なのか、どうしてそうなったのか、考えることをしなくなった、というのです。
第1章は、食の「偽装」「隠蔽」に見る思考停止を取りあげています。第2章以下、耐震偽装問題、村上ファンド事件、秋田連続児童殺害事件のケース、厚生年金記録の「改ざん」問題などを例に、社会にはびこっている思考停止の問題を次々と指摘していきます。
一見、食や栄養士とは関係ない本のように見えます。しかし、第1章の食に関する数々の偽装問題や隠蔽問題を考えるとき、栄養士も無関心であってはならない、そう考えて本書を推薦する次第です。
2007年1月、消費期限切れの牛乳を原料に使ったシュークリームを製造・出荷していたことで、菓子メーカーの不二家は、新聞やテレビなどの大マスコミから連日激しいバッシングを受けました。どうして不二家は存亡の危機に立たされたのか。著者は、不二家の信頼回復対策会議の議長に就任し、不二家の信頼失墜の原因調査と信頼回復のための対策の検討を行った人物でもあります。その調査の中で、多くの人々の認識の誤りを指摘しています。以下、その一部を引用します。
不二家がマスコミや社会から強い批判を受けたのは、消費期限切れの原料使用の「隠蔽」が原因でしたが、実際には、不二家の側が積極的に隠蔽を図ったわけではありませんでした。単に、全量消費済みで健康被害も品質上の問題もまったく生じなかった過去の期限切れの原料使用の事実を「公表しなかった」だけのことだったのです。
しかし、いったん火がついたマスコミの「隠蔽」批判は、なかなか治まりませんでした。その多くの報道が、食品衛生法や食品の製造実態についての無理解や誤解に基づくものでした。埼玉工場での生菓子製造に関しての基準違反、細菌数、苦情件数から始まって、一般のクッキー、チョコレートの異物混入、フランチャイズチェーンでの消費期限切れ材料の使用の事実などが、極めて不正確な内容で次から次へと報道され続けました。
なかには、食品中に含まれる「細菌数」についての検査指標に過ぎない「大腸菌群」を重大な健康被害と結び付く「大腸菌」と混同して、「大腸菌検出しても、回収せず」などという表現で報道したメディアもありました。告発証言はすべて匿名、モザイク映像で、真実性が疑わしいもの、証言者の存在すら疑わしいものも多数ありました。
(郷原信郎の『思考停止社会』講談社現代新書、2009年、22ページ)
「「雪印の二の舞」という表現は外部コンサルタント会社によるもの」でした。「発覚したら雪印の二の舞」は重要なキーワードです。この言葉で「社内に箝口令をしいて作為的に隠蔽を行おうとしたと決めつけられた」と社会批判を受けることになります。TBSの朝の番組を例に挙げ、思考停止してしまったマスメディアの問題も取りあげます。
視聴者はテレビで報道されることや新聞に書いてあることを、そのまま何の疑問も持たずに受け入れてしまいがちです。食に関して一般人よりも多少は知識も見識もある栄養士ならば、本当に正しい報道なのか、報道しなかった裏側にあるものは何かを考える必要があります。社会にはびこる思考停止に陥らず、何が問題なのか、どうすれば良いのかを自分の頭で考える訓練を積み重ねる必要があることを教えてくれる本です。
第29回(2010年9月10日号)香川綾の『栄養学と私の半生記』
栄養士をめざす人にとって、香川綾の名前を知らない人は少ないと思います。計量カップや食品の「四群点数法」を考案した栄養学者で、女子栄養大学の創設者でもあります。
本書は、1985年に女子栄養大学出版部から出版された同名の本を底本としています。香川綾は、1899年和歌山県生まれ。86歳のときに出版したことになります。1997年に98歳で亡くなりました。長命の栄養学者と言えます。
タイトルは「半生記」ですが、自分の両親のことから、香川栄養学園の創立50周年まで、香川綾のほぼ全ての人生を駆け足で紹介しています。学問の大切さを教えてくれた父親のこと。14歳のときに母親を亡くしたこと。師範学校に行ったものの医者になる夢を捨てきれなかったこと。22歳で東京女子医専に入学したこと。関東大震災の体験。香川昇三との出会いと結婚、子育て、そして夫の死。激動の時代を生き抜いてきた人生です。
栄養学に魅せられ、香川昇三とともに家庭食養研究会を設立したのは34歳のとき。36歳のときに月刊誌『栄養と料理』を創刊します。女子栄養学園を設立したのは38歳のときでした。50歳のとき、「本邦食品のビタミンB1と脚気の研究」というテーマで東京大学から医学博士の学位を授与されました。
51歳で女子栄養学園短期大学を設立します。「社会に出て充分な働きができる」、「立派な栄養士を育てること」に尽力し、「栄養専門の四年制の大学」をつくることが念願でした。「念願の栄養学部ができ、栄養学士を送り出」したのは、昭和40年。香川綾66歳のときでした。栄養士養成に並々ならぬ尽力があったことがうかがえます。前年の昭和39年に徳島大学医学部に栄養学科が設立されますが、このときの徳島大学学長が、香川栄養学園理事でもあった児玉桂三でした。厚生省・文部省の認可のいきさつを垣間見ることができます。
香川綾の功績は、大きく分けて、栄養改善活動と栄養士養成教育の二つと言えます。四群点数法を考案した経緯も詳しく書いています。その一部を以下に紹介します。
栄養学は、学問の進歩とともに、そしてその時代の食生活や環境に合わせて、実行されやすいかたちにすることがたいせつです。よく私は、栄養学の知識を「覚えただけでお蔵入りさせてはだめですよ」と口が酸っぱくなるほど言っていますが、栄養学は生活の中で生かされてこそ、私たちの生命を支えるのです。
そう私は考えていたので、その時代の食生活を栄養的なものにする「食事法」を、広く多くの人たちに利用さらやすいかたちにして提案し続けてきました。
まず最初に提案したのが、昭和三年ごろからの「主食は胚芽米、魚一、豆一、野菜が四」です。これは前にも述べたように、脚気の予防と白米偏重を改めて栄養のバランスをとることがねらいでした。戦前は、ずっとこの食事法の普及に努めました。
これを発展させ、「五つの食品群」としたのは昭和二十三年ごろのことです。
(香川綾『栄養学と私の半生記』日本図書センター、1997年、238〜239ページ)
戦後、栄養のある料理を広く普及させるには、料理のものさしを統一することが必要と考えました。計量カップと計量スプーンの考案です。鋳物の街である新潟県燕市に出かけ、30cc、15cc、5ccと三種類の計量スプーンを試作した話も出てきます。昭和二十三年のことでした。
香川綾自身が医者であり、医者の立場から食事の大切さを考え、普及していったことが随所に見られます。栄養学を生活の中で生かす大切さを力説しておられます。一人の栄養学者の生きざまを通して、栄養士や栄養士をめざす人々が今現在、何をしなければならないのかを問い直し、大きな活力を与えてくれる本と言えます。
第28回(2010年9月1日号)松田誠の『脚気をなくした男 高木兼寛伝』
脚気をなくした男、高木兼寛の伝記です。管理栄養士の国家試験には、ときどき高木兼寛のことが出題されます。ですから、高木兼寛の名前は「聞いたことがある」という栄養士の方々は多いと思います。
著者は、東京慈恵会医科大学教授(出版当時)で、高木兼寛に関する豊富な資料・史料を使い、どういう人物だったのか、わかりやすく伝えています。ふんだんに取り入れている写真が、当時の様子を想像する手助けにもなっています。蛇足ながら、高木兼寛は、東京慈恵会医科大学を創立した人です。日本で初めての看護学校を起こした人としても評価されています。
本書は、「南極大陸によみがえる高木兼寛の業績」と題した序章から始まります。高木兼寛、エイクマン、フンク、ホプキンス、マッカラムのビタミン研究の先駆者たちの名前が、南極の地名につけられました。欧米の研究者たちのなかで唯一の日本人である高木兼寛の名前が、高木岬という南極大陸の地名になっている。この名誉ある出来事が、高木兼寛の世界的評価を示しているともいえます。
しかし残念ながら、ビタミン学者として鈴木梅太郎はよく知られていますが、高木兼寛の知名度は日本ではそれほど高くはありません。どうしてなのでしょうか。こうした疑問を抱えながら、読み進めていくと、多くのことがわかってきます。
脚気は江戸患いとも言われ、白米を食べていた江戸に住む人々が地方に戻ると自然に治ることから、その名がつけられました。ビタミンの発見以前の話です。近代化の波と共に脚気は軍隊でも大流行となり、軍医たちを悩ますことになります。海軍軍医総監であった高木兼寛は、白米から玄米に代えるという食事の改革によって脚気を克服します。しかし一方で、脚気の原因を「白米食説」ではなく「細菌説」と主張する勢力が強く、高木兼寛の意見はことごとく否定されるのです。
その中心人物は、陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)でした。陸軍VS海軍だけではありません。ドイツ留学派VSイギリス留学派。東京大学VS東京大学以外の大学。当時のさまざま背景が交錯していることがわかります。「脚気は食事の欠陥であり、これを改めれば治せる」という高木兼寛の学説は認められず、厳しい批判にさらされます。以下に、治療成績に基づく高木兼寛の思いを描いた部分を紹介します。
従来、兼寛は、麦飯はたんぱく質が多いから、日本の脚気を予防・治療するにはもっとも適当であろうと期待していたものであった。ところが、麦飯たんぱく質のほうが米飯たんぱく質より消化が悪いというのである。これが本当なら自分の期待は間違っている。
しかし、兼寛には一つの安心感があった。その年の三月から海軍兵食を、パン食から麦飯に切り替えていたが、脚気患者はさらに減少し、成績はきわめてよいのである。大沢の批判をどのように受け取るべきかわからないが、とにかく、いまのところは、集計されつつある予防・治療の成績(つまり統計)を信ずるしかないと思った。そのうち、麦飯がなぜ脚気に効くのかという、もっと合点のいく説明ができるに違いないと思った。
(松田誠『脚気をなくした男 高木兼寛伝』講談社、1990年、100〜101頁)
高木兼寛は脚気治療に貢献した人、という断片的な知識ではなく、ビタミン発見までの壮大なストーリーや時代背景を頭に入れておくことも栄養士にとって無駄なことではないと考えます。
プライベートでは、子どもたちを相次いで亡くし、決して幸せではなかった晩年のことも書いています。人間・高木兼寛の生き様の一端を知ることのできる本と言えるでしょう。
高木兼寛を扱った本として、吉村昭の小説『白い航跡』(講談社文庫)、板倉聖宣の『模倣の時代』(仮説社)もあわせて紹介しておきます。こちらもオススメ本です。