写真:増村多賀司氏  
校長講話集 空を見よ

尾崎喜八 荻原碌山 清澤洌 上原良司のことなど


高坂邦彦著

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               目  次 

  推薦のことば      語り部と生徒たち   草柳大蔵

  はしがきにかえて    春を待ちつつ ―早春賦―


  入学式    飯を食え・空を見よ・本を読め

  四月     君だけのTomorrow ―清水宏保選手のこと―

  五月     何を発信するか ―長野オリンピック、義足の聖火ランナー

  六月     雑草といけにえ ―差別といじめをいましめる―

  七月     たかだかとした心 ―司馬遼太郎の読書―

  一学期終業式    夏の思い出   親不孝のいましめ


  九月     田舎のモーツァルト ―尾崎喜八・君たちへの想い― 

  十一月    トロとロース ―読書のすすめ―

  十二月    君たちへの遺言 ―『きけ わだつみのこえ』上原良司の遺書―

  二学期終業式    生きる歓び ―第九交響曲「合唱」を聴く 


  一月     国際的な視野と醒めた判断 ―憂国の人・清澤洌―

  二月     穂高倶楽部の高き志 ―ゴードン・平林の信念と闘い―

  三月     高き想い、慈しみの心 ―荻原碌山の芸術と人生―

  立志式    つばさをください ―自由について―


  卒業式    二十一世紀に生きる君たちへ ―司馬遼太郎の遺訓―

  あとがき



       推薦のことば   語り部と生徒たち 

草柳大蔵  

 山田無門という臨済宗の傑僧がいた。
 大徳寺にあって、僧侶たちに禅宗の基本である「無門閑提唱」をする。午前七時より始まるこ
とが多かったが、僧侶たちは午前四時に起きて作業したり読経したりせいているので、山田老
師の話につい眠ってしまう。
 それが度重なったので、従者が、「せっかくのご講話中に眠るとは失礼千万。今後このような
ことがないように叱りおきます」と謝ると、老師は「わしは気にしておらんよ。わしの話は仏様に
向かって、『このように考えておりますが、それでよろしゅうございますか』とお尋ねしながらさせ
て頂いておるのだから」と平然としていた。
 高坂さんの「講話」を読んで、高坂さんは、生徒に話しかけながら、その背景にある日本にむ
かって語りかけているのではないかと思った。そうでなければ、これほど豊かで、しかも変化に
富んだ話題を採りあげることはできないだろう。
 高坂さんがこれだけの話をしているとき、その存在はもはや「校長先生」から抜け出て、一旦
は思想家になり、またその位置から抜け出て、現代日本の「語り部」になっている。
 この「語り部」の話を聴いた生徒たちの変容の深度が講話の終わりごとに整理されて記録と
なっているのも、本書の価値を高めている。
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   はしがきにかえて
              春を待ちつつ ー 早春賦 ー 

  信州は、春の訪れが遅いので、ひとしお春が待ちどおしい所です。
 長い冬が去って、待ちこがれていた春がやってくると、山々の残雪が、美しい青空に映えま
す。桜が咲き、鳥たちは楽しくさえずります。菜の花が咲き乱れ、蝶々たちが舞い遊び、ひばり
たちは、春らんまんの空で喜びの唄を歌うことでしょう。
 生きとし生けるものすべてが、春の訪れを告げ、暖かい日ざしの中でその歓びを全身で表す
のです。心おどる春・・・・・。君たちも、これからの楽しく充実した生活をいろいろと想い描いて
いることでしょう。
 そうです。人生はじつに素敵です。生きることは喜びです。四季の変化を楽しむことも、友だ
ちと語り合うことも、喜びも、悲しみも、生きていればこそ味わえる人生の醍醐味というもので
す。とりわけ、花開く直前の膨らんだつぼみのような年代にある君たち若者にとって、人生は、
これから、どのようにでも創っていくことのできる、素晴らしい可能性をもっているのです。

 信州安曇野の早春を詠った『早春賦』は、安曇野に住む人たちが春を待ち望む気持ちを、じ
つに的確に表現しています。(吉丸一昌作詞 中田章作曲 『早春賦』)

春は名のみの 風の寒さや       
谷の鴬、歌は思えど       
時にあらずと 声も立てず 

氷解け去り、葦は角ぐむ         
さては時ぞと 思うあやにく 
今日もきのうも 雪の空   

 立春が過ぎました。けれども、春とは名ばかりで、冷たい風が肌をさします。谷間にかくれて
いる鶯も、早く春のさえずりをしたいのだけれど、まだまだ春ではないから鳴きません。
 氷は解けて、川辺の葦も、もうすぐ芽吹くのでしょうか、角のように尖ってきました。そろそろ
春かなと思うのですが、昨日も今日も雪が降っています。早く春になってほしいものです・・・・。

 この歌は、二番まで歌って終わりにされることが多いのですが、早春賦のいのちは三番で
す。三番をもりたてるための一番・二番なのですから、この歌は三番まで歌わなければ、本当
の味がわかりません。三番には、深い意味が込められているのです。

春と聞かねば 知らでありしを 
聞けば急かるる 胸の思いを  
いかにせよとの この頃か  

  春が来るなんてことを聞かなければ、知らないでいたのに、聞いてしまったから、私の胸は
いっぱいです。この気持ちをいったいどうしたらよいのでしょうか、という意味です。
                                  
 春という言葉を、季節の春というだけでなく、人生の春、つまり、青春という言葉に置き換えて
みましょう。青春というものを知らなければ、子どものままだったのに、自分は知ってしまったか
ら、ひそかに心が躍っているのです。青春のこのひそかな想いや戸惑いを一体どうしたらよい
のでしょう。
                                  
 ・・・この歌は清楚で慎みぶかい女生徒たちが歌うと、とても似合う歌です。心が整った人たち
が想いを込めて歌うと、いっそうの味がでるのです。それでは、これから、ステージで一年七組
のみなさんに歌っていただきます。一年七組はこんなに立派になりました。(三学期終業式の
講話)

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 入学式
飯を食え・空を見よ・本を読め
                                        
 入学生諸君、中学校への入学おめでとう。君たちは、本日ただ今から、穂高中学校の生徒
です。
 中学生になったら、あれもしよう、これもしよう、こんな中学生になりたい・・・。君たちは、大き
な夢や希望をいだいてこの穂高中学校へ入学してきたことと思います。その夢や希望を達成
できるかできないかは、ひとえに、君たち自身の姿勢と努力次第ということをわきまえて、しっ
かり取り組みなさい。

 中学生は、人生で二度目の誕生期です。今までとは違う新たな自分を創っていく、つまり、新
しく生まれ変わるのです。君たちが卒業する頃には、「僕も、私も、なかなか立派な中学生にな
ったなあ」、と自分で自分に感心できるような、実り多い中学校生活を送ってくれるように期待し
ます。
 しかも、今日入学した一年生が、やがて三年生になって卒業する時、順調にいけば、穂高中
学校は二校に分かれます。つまり、君たちはこの穂高中学校の最後の卒業生になるわけで
す。ゆめゆめ、長年の間、先輩たちが築いてきた穂高中学校の歴史の最後を汚すようなこと
をしてはなりません。
  入学式にあたり、諸君の中学校生活が楽しく充実したものとなるように、そして立派な中学生
となれるように、三つのメッセージを伝えます。
 それは、「飯を食え」「空を見よ」「本を読め」、この三つです。

一 飯を食え
 まずはじめに、「飯を食え」というメッセージについて説明しましょう。
 まず、ご飯は活力の源です。ご飯をしっかり食べて、活力に充ちた中学校生活を送ること。
 君たちは、赤ちゃんではないから、只、口を開けているだけでは、ご飯は食べられない・・・。
自分の手で掴んで自分の口に運ぶ・・・。何ごとも自分で取り組み、自分で掴みとる。これが中
学生の生活の仕方なのです。

 また、ご飯を食べることが出来るのは、両親のおかげもありますが、まず何よりも、米づくり
の苦労をしてくれている人たちのおかげです。昔は、そのご労苦と共に、自然の恵み、神様の
恵みに感謝しながら食べたものです。今の「勤労感謝の日」というのは、自然の恵みに感謝す
る特別の日だったのです。昔の人たちは、こうした感謝の気持ちを表す為に、ご飯粒を粗末に
して落としたりすると、「罰が当たる」といってお互いに戒め合ったものです。

 ご飯のことだけではありません。君たちが今こうしていられるのは、君たち自身の努力も勿論
ありますが、基本的には、世の中のいろいろな人たちのおかげなのです。中学生ともなれば、
そういうことをきちんと理解できなければいけません。罰当たりな人間になってはいけません。
 感謝しながら毎日のご飯を頂き、活力を得て、その活力を、自分の為ばかりではなく、友だち
のため、人々のために発揮するような生き方をしなければなりません。    


二 空を見よ
 次に「空を見よ」というメッセージについて。
 中学生になった諸君は、これから身体も心も大変な変化をしていきます。自分でその変化に
驚き、面はゆく戸惑いを覚えるのです。心が複雑に揺れ動きます。そして、自分だけがそうかと
思って悩んだりもします。また、小学校の時と違って、なんだか、自分がとても賢く偉くなったよ
うな気がしますから、親や担任の先生のいうことも素直にきけない場合もあります。何も手につ
かないほど、人を好きになったり、逆に嫌いになったりします。無邪気だった小学校時代と違っ
て、人間関係にも大きな変化が現れます。
 そんな時、君たちは悩むのです。悩むことが悪いのではありません。大いに悩みなさい。み
んなそうして大きくなってきたのですから・・・・。ただ、その時、自分の身のまわりのことだけに
目が行ってしまうと、悩みが、とても、くだらない、質の低いものになってしまうのです。

 そんな時、青く澄んだ穂高の空を見てごらん。それだけで気分がさわやかになることでしょ
う。そして、大空の広さを想う時、自分が、今ここにあることの不思議さ、有り難さに、想いを馳
せることができるのです。   
 例えば、自分には二人の親がいる。親にもそれぞれ二人ずつの親がある。つまり、自分は四
人の祖父母のおかげで生まれてきた。いや、その四人の祖父母にもそれぞれ二人ずつの親
がある。その親、そのまた親・・・・、と考えていくと、自分一人がこの世にあるのは、先祖代々
いったい何千何万の人のおかげなんだろう。
 大空の大きさに比べれば、こんなちっぽけな自分と思えても、じつは、大空の拡がりにも似た
不思議なご縁のおかげで、今ここにこうしていられるのです。

 ゆめゆめ、自分を粗末にしてはいけません。視野を広く、目線を高くして、大きなスケールで
ものを考えるのです。
 夏になると、君たちはアルプスの燕岳へ登山をします。その頂上に立って、神々しい穂高連
峰を目にした時、また、雲海を下に見た時、そして御来光の神秘的な輝きを見た時、今の言葉
の意味がしみじみとわかるだろうと思います。
 中学生は、小学生の時よりも、先生から学ぶことの割合が減って、クラスや部活の人間関係
から学ぶことの割合が多くなります。ですから、クラスや部活の人間関係が爽やかで健やかで
あれば、それを学びます。グチグチと膿んでいれば、そういう人になってしまいます。さわやか
な人間関係は、待っていれば誰かが作ってくれるというわけではありません。一人一人が、自
分たちで作り出すのです。「空を見よ」。そして、「爽やかに、健やかに生きよ」。二番目のメッセ
ージでした。


三 本を読め
 最後に「本を読め」というメッセージについて。
 中学生になると、先生方からも、周りの人たちからも、「自分の考えを持って事にあたれ」と言
われます。とても大切なことです。「自分で考え、自分で取り組み、その結果について自分で責
任をとる」、これが中学生のあるべき姿です。

 ところで、そのように、自分の考えを持ち、そして、いろんな活動をとおして自分を創っていこ
うとすれば、必ず周りとの摩擦が生じます。失敗もします。思わぬ恥をかくこともあるでしょう。
「えっ、こんな筈ではなかった、そんなつもりではなかったのに」という失敗と挫折の連続が中学
校の生活だといってもよいのです。けれども、そのことは、何ら悪いことではありません。むし
ろ、そうしたことを数多く体験しなければ、今の自分から脱皮して大きく成長することはできない
のです。その時、頼りになるのは何と言っても友だちです。友だちと相談することによって、解
決することがほとんどかもしれません。けれども、本当に大切なこと、自分が真剣に考えている
ことについては、「自分と気の合う友だちとは違う人、まるで質の異なるもの、偉大なもの、自
分よりはるかに優れているもの、長い歴史のあるもの」、から学ぶことが大切です。

 自分を創るということは、言い替えれば、「自分より大きな壁にぶつかって、そして、それを乗
り越える。自分とは違ったものから学び取る」ことなのです。壁を乗り越えるたびに、前の自分
とは数段違った自分を発見することができるのです。
 本というのは、それを書いた人が、真剣に努力した結果に得た知恵の結晶なのですから、君
たちの今までの世界とは全然違うものです。ですから、「たとえ」として本を読めと言っただけで
す。べつに、本でなくてもかまいません。映画でも、劇画でも、そして、両親からでも、おじいさ
ん、おばあさんからでもいいのです。  
 自分より優れたもの、自分の世界とは違うものを素直に認め、それから学ぶという、高い志と
謙虚な気持ち、しなやかさとみずみずしさをもって中学校生活を送りなさい。


四 保護者の皆さんへ
 ご列席の保護者の皆様、本日はお子様の中学校入学、まことにおめでとうございます。
 ご承知のように、いま、中学校は全国的にいろいろな問題が取りざたされておりますので、保
護者の皆様には、大きな期待と同時に、一抹の不安に似たお気持ちもあろうかと推察申し上
げます。

 ただいま、生徒に説明しましたように、中学生というものには、青年前期特有の成長課題が
あります。その成長課題とは、今までに作り上げた自分の世界、自分のものの見方や考え方
を、一旦こわして、もう一度作り直す、育ち直す、生まれかわることです。難しい言葉を使いま
すと、生徒たちそれぞれが、「関係意識の再構成」を成し遂げるのです。

 中学校教育の任務は、一言で言いますと、こういう時期の生徒たちを、暴発させず、かといっ
て萎縮もさせず、長い時間をかけて、順次その社会的な成長を促し、健全に導くことにありま
す。その過程で、生徒たちは、喜んだり悲しんだり、そして、時には、悩んだり苦しんだり、そう
いうことの繰り返しによって、少しずつ青年に脱皮していくのです。そして、最後には、より質の
高い喜びを味わうことになるのです。このことをご理解下さって、基本的に安心していただき、
お子さんの成長を楽しみにしながら、その途中経過としての学校の教育活動全体を、長いサイ
クルで見て、お任せ下さるようにお願い致します。

 但し、中学生の親となった皆さんに、この機会に是非ともご理解しておいて頂きたいことがあ
ります。我が国では、明治時代以来、学校は、子どもに、教科の勉強を教えるだけでなく、しつ
けや訓育など、子どもの全てのことを背負ってやってまいりました。かつては、学校にそれだけ
の権威と権力を与えられていたわけであります。
 ご承知かと思いますが、昔と違って今の学校には、強権を発動して生徒を規制することは法
的に許されてはいません。おのずと、学校や教師が指導できることにも限界があるということに
なります。学校が、なお教育力を発揮できる為には、保護者や町の方々からの信頼と付託が
必要であります。是非ともご理解とご協力をお願いする次第であります。

 また、念のために申し添えますと、公教育の、「公」(おおやけ)という字の意味は、「みんなの
もの」ということであります。つまり、公立学校は、けっして、特定の一人二人の為だけのもので
はありません。「みんなのため」のものでありますから、そこで教育できるのは、親の責任ある
しつけによって、ある一定以上の社会的常識をわきまえ、節度ある行動が取れるようになって
いる生徒に対してだけであります。

 学校は、教育機関でありまして、警察や裁判所、あるいは、病院に代わる機能と権限をもっ
ているわけではありません。つまり、学校は、生徒のことについて、無限に責任を取れる能力と
義務があるわけではありません。学校に対して過大な期待や依存をせずに、各ご家庭におき
まして、責任をもってご配慮頂けますよう、よろしくお願い致します。
 昨日も、身体に障害をお持ちの生徒さんがこのたび入学するに際して、ご両親が学校にみえ
まして、いろいろとご相談がありました。大きな心配ごとの一つが、いじめや差別にあわないか
ということでありました。こういう生徒さんに対して、学習権を妨害し、人権を侵し、あるいは人
格を冒涜するような者がありますならば、学校は、加害者に対しまして強い指導に出ます。

 とは申しましても、生徒が何らかの問題を起こしました場合に、一番お困りなのは、本人とそ
のご両親であります。担任は、最大限の努力を払って当該の生徒と親の味方をする筈でござ
います。是非とも信頼して頂いて、担任や学年主任に何なりと相談を持ちかけていただきたい
と存じます。お互いの信頼関係があって、共に、子どもの為に知恵と汗を出すならば、必ずよ
い解決をするものでございます。
 終わりになりましたが、ご来賓各位におかれましては・・・(以下略)



◆(生徒の「生活記録」から)今日、新しい校長先生の紹介と新任の先生の紹介があった。今
年は、気持ちを 入れ替えて生活したいです。まずは、「飯を食う」「空を見る」「本を読む」こと
から頑張るぞ!
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後日の話 NHK『小さな旅』「新たなる出発」

 新三年生として転入してきたある生徒が、転入してきた日にこの講話をきいて、「空を見よ」
を文字どおりに実践しました。彼女は、卒業後に、その体験をNHK『小さな旅』に投稿して採用
され、「新たなる出発」というタイトルで放映されました。(以下は、そのナレーションから)

 ・・・二年生の後半から、私は自分のクラスに入れなくなりました。・・・いじめの生活から抜け
出したい。それだけの気持ちで転校することを決めました。どこへ行っても同じかもしれない、
 ほとんどあきらめの気持ちで新しい学校(穂高中学校)に転校しました。・・・・・・。

 ・・(学校隣の碌山美術館で)ベンチに腰かけて空を見上げると、優しい光が葉っぱの間から
こぼれおちる。何度も、何度も、穂高の空を見上げていました。高く澄んだ穂高の空。
 ・・・お前の悩みなんて、小さなことさ。勇気を出せって、パワーが湧いてくる。何か、いいこと
があるかもしれない。・・・心の底で、何か少しそんな気がした。
 ・・・・・・笑うことを忘れていた自分が、いつの間にか、友だちとおしゃべりしながら、レンガ道
を歩いている。・・・・・・・もっと、もっと、この道が長く続けばいい・・・・・・。
 ・・・・・・春、夏、秋、冬。・・・穂高は、いろんな顔を見せてくれました。芽ぶいたばかりの優し
い緑、赤や黄色の紅葉の山々。真っ白にそそり立つ北アルプス、身が引き締まる冷たい
風、・・・・全部、全部、好きになりました。  (今、東京で)いつ
も、穂高を思い出し、がんばろうと自分に言い聞かせます。とことん、夢に向かって頑張ってい
ます。・・・(A.N)




四月
       君だけのTomorrow ―清水宏保選手のこと―

 私たちは、長野オリンピックとパラリンピックで、大きな感動を味わいました。まるで、ジェット
戦闘機が飛んでいるかのような、船木選手の美しいジャンプ。里谷選手の魔法のような技、鍛
え上げられた、しなやかなバネ、・・・腰から下はピョンピョンと跳ねていますが、腰は常に一定
の高さです。すごい集中力とイメージトレーニングを要します。・・・・数え上げればきりがありま
せん。殊に、パラリンピックの選手達のことは、今ここで話をすると、熱いものがこみ上げてき
て、まともな話はできないだろうと思う程の感動を味わいました。
 今日、ここでは、清水選手の話をしましょう。清水選手は、金メダルを貰ったこともさることな
がら、その後の彼の言葉や行い(これを言動といいます。所作ともいいます)の素晴らしさで、
日本中の大人を感動させました。「この金メダルはお母さんのものだよ」といって、母親の首に
メダルを掛けていましたね。普通の人がそれをやったら、いやらしくて見てはいられないでしょ
うが、清水選手の場合は爽やかでした。感動的でした。
 彼はあのように小さな身体です。少年の頃から、チビ、チビといわれて、友だちから馬鹿にさ
れ、いじめられました。ある時、チビと言った友だちの家に、しこたま砂を投げ込んだので、母
親が掃除機をもって謝りにいったこともあるそうです。その上、彼は喘息持ちの少年で、その
発作に苦しんできました。今でも喘息の薬を飲んでいるそうです。
 「お前は身体が小さいのだから、人より余計に努力しろ」。お父さんはいつもこう言って、清水
少年をしごきました。父と子が一緒に一生懸命に努力して成長してゆくことを父子鷹といいます
が、清水親子はまさに父子鷹でした。父親は、常識では考えられないハードな練習を清水少年
に課し、彼も常識では考えられない頑張りでそれに応えたのでした。
 なぜ、そんなことをしたのか。じつは、彼の父親は、小さい頃に患った小児麻痺という病気の
せいで、足が不自由な身障者でした。けれども、彼は、自分の足が不自由であるということを、
ものともせずに、建設会社を経営して頑張っていました。お父さんは息子に何を託したのでしょ
うか。
 お気の毒なことに、そのお父さんは、清水少年が小学校二年の時に、癌になり、長い間患っ
て、彼が高校二年の時に亡くなりました。彼は、お通夜の晩にも、お葬式の日にもトレーニング
をしました。お母さんが泣いて怒りました。「こんな日に、何だって練習するの」。彼は答えまし
た。「お父さんが言っている。泣いている暇があったら練習しろって・・・・・」。彼は、泣きながら
寒い夜の闇に走り去りました。

  こんなに苦労したのに、彼はこう言ってます。「お母さんは大変な苦労をした。お母さんの苦
労に比べれば、僕の苦労なんかしれたもの・・・。」
 お父さんが亡くなってしまったので、会社は潰れてしまいました。お母さんは、借金を返すた
めに、カンカン照りの日中に、シャベルやつるはしを握って土木作業をしました。下水管の中に
入って掃除をしたり、繋いだりする作業もやりました。大型の金槌で、固いコンクリートを砕く作
業にも従事しました。・・・女性がですよ!・・・。
 清水選手が大学に入ってスケート部で練習するために、二人の姉さんも協力して仕送りをし
ました。そんな状態ですから、海外の試合に行くお金が無くて、遠征できなかったことも何度か
あったようです。
  ベルリンでのワールドカップでは、金メダルを獲得しましたが、翌年のリレハンメルオリンピッ
クでは、五位という成績に涙をのみました。大きな挫折を味わいます。何をする気力も失って
毎日、ぼんやり過ごしていたといいます。
 そんな時に、更に悪いことに、スラップスケートという新しいスケートが開発され、外国の選手
がどんどん新記録を出します。スラップスケートは、足の長い外国の選手に有利で、短足の清
水選手には圧倒的に不利なスケートなのです。彼は焦りました。
 ところが、彼が勤めていた三協精機という会社の人たちが、清水選手に協力しました。毎
日、会社の仕事が終わってから、十一時、十二時までかかって、スケートの改良に改良をかさ
ね、なんと十数回に及ぶ作り直しをして、清水選手にぴったり合うスケートが完成しました。会
社の人たちは言っています。「清水選手の努力に報いたい一心でした。」
 大会四日目のエム・ウエーブで、清水選手は金メダルを獲得しました。二位、三位の選手の
肩にも届かないような小さな男が、誰よりも大きく見えました。
  清水選手は、試合前の集中力を高めるために、チューブの『君だけのTomorrow』を聞いてい
たそうです。いい歌です。手元に歌詞カードを配ってありますから見て下さい。その一部分を拾
い読みしてみましょう。

         君だけのTomorrow    前田亘輝/UNI     

同じ服 似たような恋 着かざってうかれて
誰のため 何のためなの 一人で泣いた夜

信じるよりも 疑う方が楽で            
愛するよりも 愛されたい 誰もが寂しすぎて 

知らんぷり 楽な選択 ぬるま湯の中で
気にしてる 他人のことは 覗いたり貶したり
金や名誉じゃ この胸の隙間だけは埋められない      
 
 君たちもこの気持ちはわかるだろうね。・・・・・この歌は、その後がとてもいい・・・。

夢なんて願うものじゃない                  
汗水たらして追いかける Rainbow   
愛なんて貰うものじゃない                  
この手で育てなくちゃ    
涙は流すもんじゃない                      
 ぐっとこらえてから溢れる   
 未来は待ってるもんじゃない                
 その足で歩かなくちゃ Baby 

 いつの日か本当の笑顔
君だけの Tomorrow  
一度しかないこの道を
君だけの Tomorrow  
きっと来る Tomorrow 
やれるはず Tomorrow 


 では、その歌を聞きながら清水選手の姿を見ましょう。山田先生、ビデオとCDをお願いしま
す。


 出典 信州大学付属長野中学校『今村資泰校長先生講話集』


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆今日、今年度初めての校長講話がありました。講堂に入場したときは少しびっくりしました。
講堂にCDがかかっていたからです。今まで、こんなことは一度もありませんでした。何を話す
のかと、楽しみになりました。清水選手の話でした。私の知らない、清水選手の努力を知りまし
た。
  最後に、スクリーンで清水選手の活躍をCDを聴きながらみると、とても感動しました。
    
◆校長講話に感動した。中学校にきて、こんなに感動したことは、部活動以外では初めてだ。
本当に涙が出そうになった。スクリーンに現れた清水選手の姿。流れている音楽。校長先生の
話。すべてに感動した。何度見ても清水選手はかっこういい。
  私も努力して、見る人を感動させられるスポーツ選手になりたい。この校長講話では、何かす
ごく熱いものを学んだ気がした。きっと、ずっと忘れられない校長講話だ。
    
◆私は、今朝の校長講話で、長野冬季オリンピックのスピードスケートを見て、涙が出そうにな
りました。
 清水宏保選手。私はこの選手をオリンピックではじめて知りました。清水選手の今までの苦
労や努力を知って、本当にすごい人だなぁと思いました。そして自分に自信をもってがんばって
いる姿に感動しました。
  私も、清水選手に負けないくらい頑張りたいです。四年後にまた清水選手や他の選手の活
躍を見たいです。
    
◆今日、校長講話で清水選手についていろいろ聞きました。清水選手が金メダルを獲得した
後、いちばん最初にやったことは、自分の母の首に金メダルをかけてあげることでした。史上
最高の親孝行をしたと思いました。
 本当に、泣いてしまいそうでした。校長講話で初めて感動しました。
    
◆今日は、校長講話があった。つまらない話かと思ったら、清水選手の特集をやっていた。こ
んなのは初めてだった。最初は、ただ見ていただけだけど、見ているうちにすごい感動がふっ
てきた(特にお母さんにメダルをあげる場面)。泣きそうになった。すっご〜く心を動かされた。
    
◆今日の校長講話はすごかった。井口君も、涙が出るところだったって言ってたけど、私もそ
う。涙が出ちゃうところでした。あの清水選手のかっこいい姿は、何度見ても感動してしまいま
す。そんな感動をくれた校長先生にも感謝です。
    
◆今日、校長講話がありました。こんなにこっているのは、はじめてで、びっくりしました。清水
選手の努力や、勝ったときのポーズ・・・そして君だけのTomorrowの曲。スクリーンで見ていて
涙が出そうになりました。オリンピック、感動をありがとう。
    
◆校長講話で清水選手のビデオを見た。感動するシーンでした。 また、君だけのTomorrow
は、とても、ビデオにあっていてよかったです。


付記 この講話は、清水選手に関する内容も、CDや映像を活用する方法も、全面的に信州
大学附属長野中学校の今村資泰校長先生に教えて頂いたものです。記して感謝申し上げま
す。
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五月
   何を発信するか ― 長野オリンピック、義足の聖火ランナー

 あの尾崎豊の時もそうでしたが、今度は、X-JAPANのHIDEが、酒を飲み過ぎて、酔い覚め
の朦朧とした状態の時に、訳もわからず自殺しました。酒を飲んだわけでもないのに、何故か
後を追って自殺した哀れな中学生も出ました。・・・・・郷ひろみと二谷友里恵さんが離婚しまし
た。郷ひろみは、なんと、自分の妻の悪口を書いた本を百万冊も売って儲けました。・・・・・とま
あ、マスコミは埒もない脳天気なことばかり話題にしています。よほど気をつけていないと、何
が大事で、何がくだらないことなのか、ということが分からなくなってしまいます。

 長野オリンピックについてもそうでした。四月の校長講話で話したような、日本の若者たちが
素晴らしい活躍をしたことについては、なかなかいい報道ぶりでした。けれども、その蔭でいろ
いろな苦労をした、長野オリンピック委員会・NAOCを褒める報道は少なかったですね。むし
ろ、どうでもよいような些細な手違いの部分を取りざたされて、批判ばかりされていたように思
います。
 ですから、長野オリンピックで、長野県がやった、世界に誇るべき素晴らしいことについて、
私たちはあまり知っていません。
 じつは、長野オリンピックは、日本の歴史やオリンピックの歴史を変える、素晴らしいことをや
ってのけたのでした。
  覚えていますか? 開会式の時、会場へ走って来た最終聖火ランナーのことを・・・。イギリス
人のクリス・ムーンさんです。C・ムーンさんは、片足義足のぎこちない足取りで走っていまし
た。なぜ義足なのかいうと、地雷で吹き飛ばされてしまったからです。ボランティアとして、モザ
ンビークで、子どもたちを地雷の被害から守るために、地雷除去作業をしている時、地雷が暴
発したのです。
 C・ムーンさんは、自分の手足が吹き飛ばされてしまったというのに、「これは自分の責任で
ある、これで、モザンビークの子どもの怪我が一人減った」と言っています。それ以来、地雷廃
止運動に熱心に取り組み、地雷廃止運動のために、猛烈に暑いアフリカのサハラ砂漠で、し
かもあの痛い義足で、六日間も走り続けるということまでやっています。
  今まで、オリンピックというのは、開催する国の名誉のため、宣伝のためということもあったの
でしょう。最終聖火ランナーを、外国人にやらせるなどという国はありませんでした。今回が始
めてです。しかも、日本の宣伝ではなく、世界に向けて、「戦争をやめよう、地雷を廃止しよう」
という平和アピールを発信したのでした。
 この計画をしたのは、NAOCの人たち、つまり長野県の人たちなのです。現在の国際情勢は
極めて不安定で、いつ、どこで、戦争が起こっても不思議ではありません。こんな時に、長野オ
リンピックで、日本から世界に向けて戦争抑止・平和アピールをしようと計画したのです。

 ところが、あそこでC・ムーンさんに走って頂くためには、日本政府が、対人地雷全面禁止条
約に調印することが必要でした。良いことなのに、今まで、日本政府は、いろいろなおもわくも
あって、積極的な反対を唱えてはきませんでした。

 クリスさんに走っていただくために、NAOCでは、熱心に政府に働きかけて、対人地雷全面
禁止条約に調印させたのです。日本国家は、けっして対人地雷を作らないし、使用しない、と
いう強い決意の表明です。つまり、長野県の人たちが、政府を動かして全世界に向けてあのア
ピールを発信したのです。

 君たちも知っているように、日本は、かつて世界を相手にして戦争を起こし、中国や朝鮮をは
じめ、東南アジアの国々に悲惨な被害をもたらしました。勿論、日本人自身も多大な犠牲を払
いました。住民を巻き込んだ沖縄の戦闘や、広島と長崎の原爆体験は、言いしれぬほど深刻
な体験でした。
 以来、日本人は戦争をさけ、すでに、五十年以上にわたって戦争と関わりをもっていません。
世界の先進国の中では、こういう国は珍しいのです。それに、他の国のように、武器を外国に
売って儲けるようなこともしていません。ですから、日本こそ核兵器反対を主張し、武器輸出禁
止を主張し、対人地雷廃止を主張することができるはずなのですが、今まで、諸外国に対し
て、国としては、そういうことを主張してきませんでした。

 けれども、長野オリンピックは、その歴史を覆したのです。つい先日、十一日に、インドが核
爆弾の実験をしましたが、日本政府の厳しい対応は、今までにないものです。詳しくは今日の
新聞をみて下さい。
 二十世紀はもうすぐ終わりますが、この世紀は、悲惨な戦争に明け暮れた世紀でした。二十
世紀終末の長野オリンピックで、平和アピールをしたことの意味の大きさを知り、大いに誇りに
思わねばなりません。

 さて、君たちは穂高中学校生徒として、どこへ、何を、発信することができるだろうか。
 「世界へ向けて」というのは話が大きすぎるんだろうな。「日本へ向けて」でも大きいかな。長
野県ならどうだ。まだ大きいか。それなら南安はどうかな。照れくさいな。穂高町へ向けてくらい
ならいいのかな。

 じゃあ、次は「何を発信するか」という問題になる。世界平和か? その前に、教室の中、学
校の中の平和はどうか? 世界の環境問題か? それを言う前に、学校の環境はどうなって
いる? 清掃はしっかりできているか? 世界の食料問題というのはどうだ? 待てよ、給食を
たくさん残して無駄に捨てている、罰あたりなクラスは、いったい何年何組だ? 

 こう考えてみると、そもそも、自分たちは、外に向けて発信する何かがあったかなあという問
題に突き当たる。
 そういえば、今年の三年生は、「学校を変えるのだ」と言ってます。学校をどう変えようという
のだろうか。そもそも、学校を変えるとはどういうことなのだろうか。
 君たち一人一人が、そして、クラスのみんなが、生徒会長の呼びかけに応えて考えなければ
ならない。もちろん、学校を変えるということは、学校の建物を変えるということではないだろ
う。学校の雰囲気というか、気風を変えるということだ。学校の気風を、どうしたら変えられる
か。
 それは、君たち一人一人が変わることだ。そもそも、中学生というのは、今までの自分から脱
皮して、大いに変化するのだ、いわば、人生二度目の誕生をするのだから、当然、変わらなけ
ればならない。では、どういうふうに変わればいいのか。それぞれの学級で考えて、生徒会長
に答えを出そうではないか。

 長野オリンピックで走ったC・ムーンさんの人柄が、多くの人たちに感動を与えました。身体
が不自由であるにもかかわらず、負けじ魂で克服して、「なせばなる。人間は、価値あることに
向けて努力すべきだ」ということを示してくれました。C・ムーンさんは言っています。

  「二十世紀は、戦争に明け暮れました。次の世紀は、子どもたちの肩にかかっています。開
会式で、子どもたちと一緒にフィールドを走れたことは、非常な感動でした。あの場所で、目の
不自由な女の子と一緒に走れたということも、非常な感動でした。私自身、多くの困難やチャレ
ンジを経験していることもあって、めったな事では物事に感動しません。しかし、今回は、すべ
てのことに感動しました。対人地雷全面禁止問題は、私個人を超えた、大きな問題です。その
ような大きな問題を、私に代表させていただけたことを、大変、光栄に思っています。」
    
 では、その時のC・ムーンさんと、子どもの映像を見ながら終わりにしましょう。ビデオ映像を
お願いします。


参考資料 
 C・ムーン/小渕恵三/浅利慶太 対談記録・雑誌『読売』1998/4 所収  C・ムーン『地雷と
聖火』青山出版社


◆「君たちは、穂高中学校の生徒として、何を発信できるだろうか」と問いかけられて、ドキッと
した。僕は、答えることができない。なぜなら、一人の力は弱いから。でも、一人一人の力を合
わせることで、大きな力を生み出すことができると思う。(生徒の「生活記録」から)


後日の話 年度末の感慨
   (生徒会副会長 中垣枝津子「学校が変わるとき」『生徒会誌』四五号より)

 「学校を変えよう」。私たちの平成十年度の生徒会はそこからスタートしました。ただ、
学校を変えたい、学校を良くしたい。・・・・・そんな気持ちだけで動いていたような気がし
ます。
 今、一年を振り返ると、「しゃくなげ祭」の閉祭式の最後、全校でスクリーンのテロップを
読む声が聞こえてきます。鳥肌が立つようでした。こんなに大勢の人が一つになれるな
んて・・・・・・。 
 その日の夜は、寝ようと思っても、ずっとあの声が離れませんでした。
 私は副会長をやって教えられました。・・・(中略)・・・私の周りには、すごいパワーを持
っている仲間が沢山いました。「一人一人が変わり、一人一人が輝く」。一人一人の強い
意志があり、その上で誰かを輝かせることができる。自分自身も、輝いている仲間から
輝きをもらっている・・・・。(以下略)

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六月
      雑草といけにえ ― 差別といじめをいましめる ―

 日増しに暑くなってまいりました。雨もほどよく降ります。学校の雑草もぐんぐんと伸びます。
学校の前庭は、穂高町職員の遠藤先生が、毎日心を込めて雑草を取ってくれていますから、
とてもきれいです。君たちが手を抜いている所は、見事に雑草が茂っています。
 雑草のこのような伸び方と、それを取る人間の関係について、昔の人は、「篤農は草を追
い、惰農は草に追われる」と言いました。どういうことかと言いますと、精を出して真面目に仕事
に取り組んでいる人は、雑草が大きくなる前にさっさと取ってしまうから、いつもきれいな畑で楽
をしているのに、怠け者は、草が大きくなってから取るようなことをしているので、いつも草の伸
びるのに追いかけられて苦労している、というのです。
 このことは、農業ばかりではなく、日頃の仕事や勉強についても言えることですね。勉強に追
われるのではなく、勉強を追いかける・・・、そんな生活をしたいものです。

 さて、その雑草のことですが、よく「雑草は強い。雑草のように逞しく生きよ」などと言われます
ね。けれども、それは、じつは雑草のことをよく知らない人の言うことなのです。雑草は、人や
獣が踏みつけてくれるような場所でないと、他の植物との生存競争に破れ、やがて、その場所
は大きな木の茂みになって絶えてしまいます。逞しいどころか、却って、いちばん弱い植物なの
です。
 また、「名もない雑草」などと言う人もいます。とんでもないことです。この世の中に名前の無
い草なんてありません。名前が無いのではなくて、その人が、名前を知らないだけなのです。

  このように、よく考えてみれば、雑草に対して、私たちは、よく知りもせずに、なんと失礼なこと
をしていることでしょう。そもそも、どうして雑草などというのでしょうか・・・・。食べられないとか、
きれいな花が咲かないとか、人間の役にたたない草は、ひとからげに雑草ということにされてし
まっているわけですね。

  ですから、雑草退治をしながらつくづく考えます。人間はなんと勝手な生き物なのでしょう。人
間側の尺度で、雑草だなどと勝手に決めてどんどんと退治してしまうのですから・・・。植物です
から退治されても文句は言いませんが、私たちは、人間が相手の場合にも、こういう自分中心
の考え方というか、接し方をしやすいものなのです。時には、あたかも雑草にするかのように、
何の考えもなく相手を踏みつけにしたりしています。
  自分とは考え方や感じ方の違う人を、よく理解しようともせずに、価値が無い、くだらない、な
どと思ってしまうのです。それがこうじて、じゃまだ、どこかへ行ってしまえ、それが極端になる
と、死んじまえなどと思ったりもします。恐ろしいことです。悪い霊(これを悪霊といいます)にと
り憑かれた考え方です。

 悪霊といえば、ドストエフスキーというロシアの作家が書いた小説に、『悪霊』というのがありま
す。この小説の主人公たちは、「世の中の人々の考えや生き方は間違っているのだ、自分た
ちの考えだけが正しいのだ」、という考え方を持っています。自分と考えが合わない人間なんぞ
は、殺してもかまわないのだ、むしろ積極的に殺すべきなのだという考えに取り憑かれて、そ
れを実行するのです。そして、あげくの果てに、仲間割れのけんかをし、仲間が殺し合うに至
る、というあらすじの小説です。
 すでに、百年以上も前の作家が書いた小説そっくりのことが、一九七〇年代の日本にも起こ
りました。皆さんのお父さんお母さんたちの青年時代のことです。「連合赤軍・浅間山荘事件」
という事件です。はじめは、彼らなりの理想に燃え、いっしょに活動していた人たちが、仲間割
れを起こして、最後には、お互いが殺し合うという陰惨なことをしてしまったのです。つい最近
も、こういう考えをもった人たちが引き起こしたオウム事件について、裁判が進行中だというこ
とは君たちもよく知っているとおりです。
 ドストエフスキーの小説は、中学生程度の学力の人が読むと、その意味することを読み違え
るので、危険ですから、今の君たちに読むことをすすめはしません。興味のある人は、もっと大
きくなって頭をよく鍛えてから読むとよいでしょう。ドストエフスキーが言いたいことは、次のよう
なことなのです。

 人間に、雑草などというものはありません。名前の無い人はいません。踏みつけてもよい人
などいる訳がありません。人間は、人間がいちばんえらい、自分がいちばんえらい、自分を中
心に世の中が廻っている、などと思ってはいけないのです。みんな、お互いに欠点を持ってい
るけれど、それを許しあって、『共に生きる』(これを共生といいます)という生き方をしなければ
いけないのです。

 こういうことがよく分かっていない人が大勢いる学級は、いじめや差別が起きるのです。この
ことを、「いけにえの山羊」という、たとえ話で説明しましょう。

羊は今も灰色ですが、じつは山羊も、その昔、みな灰色でした。
山羊たちは、灰色ではどうもカッコウが悪いというので、白くなりたいと考えました。
 そこで、どの山羊も、灰色の部分を抜き去って、その色素を、いちばん弱い一匹のヤ
ギに押しつけたのです。ターゲットにされた山羊は、みんなの灰色を一身に背負って真っ
黒になってしまいました。
 黒くされてしまった山羊は、白くなった山羊たちからバカにされ、いじめられ、仲間外し
にあってしまいました。
 こうして、白くなりすました山羊たちどおしは、ケンカもせずに仲よく暮らすことができま
した、 とさ……。

 このたとえ話は、スケープゴート(いけにえの山羊)という、有名な心理学の理論です。人間が
三人以上集まった時には、お互いが自分の人格を高める努力をしないと、こういう現象が起き
ると言われています。灰色の山羊とは、私たちのことです。みなさんのことです。誰もが、なんら
かの欠点をもっていますから、真っ白ではなくて、お互いに灰色です。不満足です。誰もが、自
分は正しい人だ、良い人だ、真っ白だと思いたいのです。

 黒くされた山羊とは、クラスの中でいじめや差別をされている人、みんなのいけにえにされて
いる人です。みんなでその人を悪者にすることで、他の人たちは、お互いに安心しあって、よう
やく仲間割れが防がれているのです。

  けれども、現実には、誰もが、真っ白だといえるような良い人なわけはなく、灰色であることに
は変わりはないのですから、自分たちは白だと思っていても、それは思い違いというものです。
  自分たち自身が、白くなる努力をしないで、仲間をいけにえにすることで、自分たちは白くなっ
たと思い違いをしている・・・・・。こういう集団は、集団で重い病気にかかっているとしか言いよ
うがありません。これを、スケープゴート現象といいます。
  自分は灰色なのに、白くなりすました人はいませんか。そのおかげで、黒くされてしまっている
人は誰でしょう。自分たちは、白いつもりかもしれませんが、はたから見れば、そういう集団は
真っ黒に見えるものだということに気がつかねばいけません。

  自分たちの集団の病気の様子はどうなのか、どうしたらその病気を治せるのか、クラスのみ
んなで考えて、そのための努力をすることが、お互いの成長のためにぜひとも必要なことで
す。
  一人一人は灰色であっても、灰色同士がいたわりあい、助けあい、時にはきつく注意しあい、
集団としては健全な白色に輝いているとき、一人一人の灰色は見えなくなっているのです。

  クラスの中に雑草はないかと探しまわるのではなく、始めから雑草など生えないように、花を
いっぱい植えればいいのです。毎朝の学活で、クラスの皆が心を合わせて、朗らかな声で歌を
歌うような学級、よそのクラスとはひと味違う良い雰囲気をもっている学級、こういう学級には
素敵な花がいっぱいに咲くことでしょう。二学期最大の行事、「しゃくなげ祭」(註、学校文化祭
の呼称)に、君たちの学級は、どんな心の花を咲かせることができるでしょうか。楽しみにして
います。

 三年生は、先日、『つばさをください』という映画を見ましたね。学力差に対する差別や偏見
の映画でした。深い感動を覚えたことと思います。
 では、その時のテーマソング、『つばさをください』を聞きながら、校長講話を終わります。君
たちも一緒に歌って、あの感動を思いだしましょう。では、合唱部の皆さん、お願いします。


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆灰色のヤギの話はおもしろかった。私も自分と考え方や感じ方の違う人を、ただ嫌だと思っ
てしまっている気がします。でも、本当は、そういう違いを分かり合って一緒に生きることが大
切だとわかりました。
    
◆校長講話がありました。差別といじめということを雑草や山羊の話でたとえていました。人間
は自分中心だとつくづく思いました。

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七月(読書週間に寄せて)
       たかだかとした心 ― 司馬遼太郎の読書 ―

 長野市の、ある中学校の校長先生から聞いた話です。
 修学旅行についていったのだそうです。京都で、グループ別のタクシー見学を終わって、クル
マから降りたある女生徒が、目にいっぱい涙をためていました。
 校長先生は「どうしたの?」と聞きました。彼女は「壬生寺に行ってきたのです」と答えました。
校長先生は、「ハハーン、なるほど」と思ったそうです。
 
 いったい、彼女は、どうして、壬生寺で涙を流してきたのでしょう。その話を聞いた校長先生
が、すぐに「ハハーン、なるほど」と分かったのは、どういうことなのでしょうか。

 ・・・・・・彼女は、壬生寺にねむっている新選組の土方歳三に魂を奪われてしまったのです
ね。(板書 新選組・土方歳三)・・・・・・素敵な男なのです、土方歳三というのは…。
 司馬遼太郎という作家が、『燃えよ剣』という小説で、土方歳三のいつわりのない気高い心を
詳しく書いたので、彼の人気が高まりました。[板書 司馬遼太郎 燃えよ剣]

 新選組というのは、今の時代から考えれば、単なる人斬り集団でしたが、彼らには彼らの使
命感があり、中でも土方歳三は信義を尊び、高らかな心をもってその使命に殉じたのです。そ
れは哀しいまでに気高い心でした。[板書 信義・高らかな心・気高い心]

 司馬さんの時代小説は、次から次へとNHKテレビの大河ドラマとなりました。今やっている
『徳川慶喜』も、『最後の将軍』という司馬さんの作品をテレビドラマ化したものです。金八先生
というテレビドラマの先生役をやった武田鉄矢は、最初『海援隊』というフォークグループでデビ
ューしましたが、海援隊というのは、坂本竜馬が作った貿易結社の名前です。武田鉄矢は、司
馬さんが書いた、『竜馬がゆく』という小説を読んで、大の竜馬ファンになったのでその名前を
使ったのだ、と自分で言っています。

 坂本竜馬や土方歳三に限らず、司馬さんの作品はどれも素敵な日本人が主人公です。シャ
キッとしています。言うこと、行うことが凛々しく頼もしいのです。そして正直で誠実です。高らか
な心を持っています。司馬遼太郎の小説を読むと、元気づけられ、気概[板書 気概]というも
のを持つことができます。

 近頃は、何かというと、日本人や日本の社会がどんどん悪くなってきた、というふうな言い方
をすることが流行っています。けれども、じつはそんなことはないのです。このように凛々しく、
たかだかとした心をもって生き、そして、死んでいった人たちを讃えている司馬さんの小説が、
日本中の誰からも好かれ、ベストセラーになるということは、日本の大部分の人たちは、まじめ
であるということの何よりの証拠です。

 司馬遼太郎さんが、このように、次から次へと、素晴らしい日本人を主人公にした小説を書く
のには深い訳があるのです。司馬さんは、学生の時に軍隊に召集されて戦車隊に配属されま
した。
 当時の日本の戦車は、敵と戦闘になったら必ず負けるという、じつにお粗末なものでした。日
本の戦車から打ち出された弾は、タドンを投げたようにゆっくり飛んで行って敵の戦車に当たり
ますが、かすり傷が付くだけで、弾は跳ね返ってしまうのです。
 ところが、敵戦車の大砲の弾は、スポッとばかりに、簡単にこちらの戦車の鉄板を貫いてしま
います。しかも、もう一方の鉄板までは貫かない。回転しながら飛び込んできた大砲の弾が、
戦車の中でミキサーのようにガーッと回転するので、中にいる戦車兵は骨も肉も挽肉みたいに
なってしまう・・・・。兵隊たちは、戦車の内側にへばりついたそれを戦車から引き剥がす作業も
やらされたといいます。普通の人間は、そういう時にあまりの気持ちの悪さと、強烈な悪臭にこ
み上げてしまってゲーゲーと吐くのです。

 こんなお粗末な戦車で、しかも、日本と中国との戦争が泥沼のようになってしまっている時
に、なんと、更に戦線を拡大してソ連と戦いました。日本という国家が戦争をする意志はなかっ
たということで、ノモンハン事件と言っていますが、相手側からみれば、これは明らかに日本か
ら仕掛けられた戦争です。日本の全滅というに等しい負け方でした。この粗末な戦車の残骸
と、明治三十八年に作られたという、骨董品のような、三八式歩兵銃を抱えた日本兵二万人の
屍が、累々と横たわる・・・・。その屍をソ連の戦車が踏みつぶしていく。キャタピラーに揉まれ
て、死体の手足がバラバラになる、という無惨な敗北をしました。あまりにも悲惨なありさまで、
生き残っても発狂してしまった兵隊も多いそうです。

 ノモンハン事件は、昭和十四年です。司馬さんが軍隊に入ったのは十八年ですから、この戦
闘には参加していません。もし参加していたら死んでいたでしょう。
 司馬さんは、ノモンハンの話を聞いて、自分が死ぬということについては、そんなに恐怖心は
なかったといいます。けれども、戦車の中でミンチ(挽肉)になるのは嫌だ、そんな無意味な死
に方はいやだ、まさに犬死にではないか、と考えました。
 司馬さんの所属していた戦車隊は生きのびて、本土防衛、首都・東京を守るということで、東
京近郊に移転しました。司馬さんは聞きました。「いざ、敵が攻めてきて、わが戦車隊が首都に
向かって出撃する時に、道路いっぱいに逃げてくる避難民の交通整理はどうしたらいいのであ
りますか」。上官の命令は、「轢き殺して進め。」というものでした。・・・日本人のために戦って
いるはずの軍隊が、日本人を轢き殺して進むとは、いったい、どういうことなのか。司馬さん
は、「仕方がない。その時には、戦車が故障したことにして、動かずにいてそこで戦おう」と考え
ました。

 ・・・・司馬さんは、この国で生きている自分たちがなさけなくなって、思いっきり泣いてしまった
そうです。そして、「こういう、ばかな戦争をやる国は、いったい何なんだろう。日本人は、昔か
らこんなことばかりやってきたのだろうか。日本とは何か、日本人とは何か」、という疑問を持ち
ました。
 それで、戦争が終わってから、自分で、日本の歴史をしっかり調べてみたのです。そしたら、
昔の日本にはなかなか素敵な人、立派な人、信実の人がいっぱいいた、ということがわかっ
た・・・。それを、次から次へと小説に書いたわけです。

 司馬さんの調べ方は徹底しています。まだ若い頃に直木賞という文学賞を受賞した時、選考
委員の一人だった吉川英治という作家に、「伝記小説は書かない方がよい」といわれたことで
発奮しました。『竜馬がゆく』という小説を書く前に、竜馬に関係する資料を約三千冊、値段にし
て一千万円分を買い占めて、全部読んだということです。信じがたいことですが、大事な文字
が、文字の方から司馬さんの目に向かって飛び込んでくるのだそうです。

 こういう話を聞くと、私たちは、「司馬さんという人は、もともと頭のいい人なんだ。東大を出て
いるかもしれないな」などと、つい思ってしまいます。
 ところが、そうではないのです。彼が小学校四年生の時に、担任の先生が突然にやめてしま
って担任がいなくなったので、クラスはめちゃめちゃになってしまいました。今でいう学級崩壊で
す。
 そんなわけで、みな、勉強などしませんでした。中学へ入学しても勉強はできない。三百人中
の二百七十番ぐらい。不器用でスポーツもできない。・・・・自分は、二流三流の人間だ。劣等
感にさいなまれました。授業態度もあまりよくはなかったようです。
 ある時、英語の時間にニューヨークという単語が出てきたので、「ニューヨークという地名には
何か意味があるのですか」と質問したら、先生がカンカンになって怒りました。「ばかもん、地名
に意味なんかあるか。」・・・・・後で、図書館に行って自分で調べたら簡単に分かりました。ちゃ
んと意味があったのです。司馬さんは、先生がどうして怒ったのかよく分かりませんでした。

 そこからが、司馬さんの偉いところです。ふてくされたり、グレたりするのではなく、「そうか、
先生が相手にしてくれないんなら、自分で自分を教育するしかない。」彼はそう考えて、毎日、
図書館に通いました。市立図書館の本を全部読んでしまって、しまいには読むものがなくなっ
て、釣りの本まで読んだということです。

 私は、自分では本を読むスピードがかなり速いと思っていますが、この本(新書版)を読むの
に二時間ぐらいはかかります。司馬さんは、このくらい厚い本(司馬遼太郎『昭和という国家』)
を、お客さんが、コーヒーを一杯飲んで待っている間に五〜六冊読み終えてしまうのだそうで
す。内容の大切なところが一瞬にして目に飛び込んでくる、そういう力を付けたのですね。

 司馬さんは、「自分で自分を教育する気持ち、自分で学ぶ気持ちがあれば、学校も先生もい
らない。図書館と本屋さんがあれば充分だ。」と言っています。
 彼は偉い先生に教わったわけではないので、偉い先生のいうことだからとか、有名な先生の
言うことだから、という理由で信じ込んでしまう(これを、権威主義的な姿勢といいます。)ことを
しません。 

 また、何らかの政治的な立場からのめがねで、ものごとを判断すること(これを、イデオロギ
ー的な判断といいます。)や、欲得ずくの判断も嫌いました。
 坂本竜馬や土方歳三の手紙や日記などを、自分で直接に調べて自分の頭で考えるのです。
そうすると、竜馬なら竜馬について、今まで多くの人々が言ってきたこととは違った姿が見えて
くる。それを小説に書き著したのです。だから、司馬さんの小説を読むと、ああ、竜馬はこんな
に素敵な人だったのか、と改めて感じることができるのです。
 司馬さんの小説を読んだ人、話を聞いた人は、みな日本の歴史や社会について、今までとは
違う新しい見方、事実に基づいた冷静な見方ができるようになります。相手の立場からものを
考えよう、という気持ちも湧いてきます。もっと自分を高めようという気持ちを抱きます。そして、
日本について、日本に住んでいる自分について、自信と誇りを持つことができるようになるので
す。

 その司馬さんは、平成八年二月にお亡くなりになりました。司馬さんは、素朴で平凡な菜の花
が好きでした。その年の三月に司馬さんを偲ぶ会が催されましたが、その会は「菜の花忌」と
名付けられました。司馬さんが小学生の教科書のために書いた、『二十一世紀に生きる君た
ちへ』という文章が朗読されました。短い文章なのですが、司馬さんは、長い小説を書く時より
も苦労して、何度も何度も書き直したそうです。「日本の子どもたちに、何とかして分かってほし
い」という思いがひしひしと伝わってきます。司馬さんはこう言っています。

 もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはや
さしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。
 それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、『たのもしい君たち』
になっていくのである。・・・・・・・・
 君たち、君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならな
い。

 ・・・・司馬さんのこの言葉は、日本の子どもたちへの貴重な遺言となりました。

 これから、図書委員の人たちが、皆さんの手元へその文章を配ります。そして、図書委員長
さんが、二枚目の四行目から読みますから、皆さんも心の中で読んで下さい。   


出典
  今村資泰  『校長講話集』信大付属長野中学校
  司馬遼太郎 『歴史と視点』   新潮文庫
 司馬遼太郎 『十六の話』    中央公論社
  〃 『昭和という国家』 NHK出版
  〃 『燃えよ剣』    新潮文庫 


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆校長講話がありました。司馬遼太郎の「二十一世紀に生きる君たちへ」のプリントが僕たち
に渡されました。それには、今、僕たちがすることが書かれていたので、それを実行していきた
いと思います。
    
◆校長講話がありました。いろいろな巡り合わせで、私が司馬遼太郎さんの文章を全校の前
で読ませていただきました。すごく緊張して手足が震えて、のどがカラカラでした。でも、文章を
読みながら、文の中にこめられた思いが、自分の中にも涌き出てくるような不思議な気持ちに
なりました。

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 一学期終業式
           夏の想い出 ― 親不孝のいましめ ―

 明日から、待ちに待った夏休みです。君たちは、今度の夏休みには何をする予定ですか。こ
の夏は、どんな思い出を作ることができるでしょうか。
 私には、毎年、夏がくるたびに、キリキリと胸が痛くなるような思い出があります。

 君たちの家でもそうだと思いますが、お盆になると迎え火を焚いて、ご先祖様を家にお呼び
し、お盆の終わりには送り火というのを焚いて、また、元の場所へお送りします。  
  今は、川が汚れるという理由でやりませんが、私が子どもの頃、私の育った地方では、お盆
の祭壇に供えた茄子や胡瓜に、割りばしを刺して足を付けてやり、それを葦を編んで作った祭
壇の敷物にくるんで、川に流して先祖を送るということをしました。

 あれは、小学校二年生の八月十六日のことでした。大きな深い川に架けられた吊り橋の上
で、母が線香を焚いて、お祈りをしながら供え物を川に流しました。私は、何の考えもなかった
のでしょう。母がお祈りをしているすぐ傍らで、なにげなくその川にオシッコをたれたのです。

 母は、あっけにとられたような顔をして私の顔を見ていましたが、しばらくすると、私をしっかり
抱きしめてさめざめと泣き始めました。私も、何だか悲しくなってきてオチンチンを出したままシ
クシクと泣き出してしまいました。
 川の流れの音と、蝉の鳴き声と、二人が鼻をすする音がしました。そして太陽が遠のいて、
風に揺れるとうもろこしの葉の照り返しが、やけにまぶしかったことを覚えています。

 母は、その冬の二月に亡くなってしまいました。子どもの私からみても、あまり幸せそうではな
かったし、病気がちの母でした。
 それなのに、母を悲しませた親不孝な子どもでした。母は、私を抱きしめながら、「ご先祖さま
に向かっておしっこをするなんて、この子はなんという罰あたりな子どもなんだろう。」と、しみじ
み悲しかったのだと思います。

 その後の私の育ち方は、必ずしも、楽しく幸せというわけではありませんでした。
 小学生の時も、中学生の時も、家出をしちゃおうか、グレちゃおうか、いっそのこと死んじゃう
か、などと思ったことも何度かありました。そんな時に、必ず、母の涙のことを思い出して何もで
きなくなるのでした。

  ・・・・毎年、夏がきて、とうもろこしの葉が、さわさわと風に揺られて陽の光を照り返すのを見
ると、きまって、あの川の流れの音と、蝉の鳴き声と、遠のいた太陽、そして、母の涙を思い出
します。 そして、私は、胸が痛くなるのです。

 君たちは、この夏休みに親を悲しませるようなこと、親が寿命を縮めるような親不孝なことを
絶対にしてはいけません。一生のいやな想い出を作ってはいけません。

 君たちの夏休みが、とてもいい夏休みになるようにという祈りを込めて、三年生の「選択音
楽」の人たちが、『夏の思い出』という素敵な歌を歌ってくれます。よい思い出をいっぱい作って
下さい。では、合唱をお願いします。


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆終業式の校長先生の話を聞いて、夏休みを楽しく過ごすということだけでなく、今まで僕たち
を育ててくれた両親に感謝して、両親を決して悲しませてはいけないという教訓のようなものを
感じた。
    
◆校長先生のお母さんはどうして泣いたのだろう。どうして抱きしめたのだろう。怒ったりしなか
ったのは、私にとっては不思議でした。でも、このお母さんの涙が、校長先生を支えてきたのか
なとも思いました。



  夏の思い出       江間章子作詞 中田喜直作曲    

夏が来れば 思い出す    
はるかな尾瀬 遠い空   
霧の中に うかび来る    
やさしい影 野の小径    
水芭蕉の花が 咲いている       
夢見て 咲いている 水の辺り   
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空   
    
夏が来れば 思い出す           
はるかな尾瀬 野の旅よ        
花のなかに そよそよと         
ゆれゆれる 浮き島よ        
水芭蕉の花が におっている          
夢見て におっている 水の辺り      
まなこつぶれば 懐かしい            
はるかな尾瀬 遠い空              

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九月
      田舎のモーツァルト ― 尾崎喜八・君たちへの想い ―  

[生徒の入場開始から整列が完了するまで、モーツァルト『ピアノソナタ 十一番 K331』第一楽章を演奏。]

 今、金子先生が弾いてくださっていた曲の名前を知っていますか。・・・・・モーツァルトが作曲
した、『ピアノソナタ 十一番 K331』という曲の第一楽章です。
 何を隠そう。じつは、私はこの曲に、深い深い思い出、とても悲しい思い出があるのです。  

 私は、中学生の頃、諏訪の八ケ岳の麓の高原の村に住んでいました。冬の風が厳しい所で
したが、そこの中学校は、だだっ広い高原の真ん中にあって、風がもろに当たる所でした。今
から思うと大変なオンボロ校舎でした。
 そのオンボロ校舎の音楽室から、放課後、この曲がいつも流れてきたのです。とても上品で
美しい人が、音楽の先生に教わりながら弾いているのでした。今と違って、どこの家も貧乏でし
たから、ピアノがある家などはありませんでしたし、田舎のことでしたから、ピアノを教える塾も
ありません。学校が唯一の練習場だったわけです。その人の名はK子さんといいました。

 昔の中学校というのはけっこう暇で、放課後、私たちは、毎日のように友だちと群れて遊んで
いました。みんなが憧れているK子さんでしたから、私たちは、なるべく音楽室の近くで遊んだ
のですが、男子の友だちたちは、皆、お互いに牽制しあっていました。

 そんなある日の国語の授業の時でした。ライバルがとんでもないヘマをやらかしたのです。彼
は、お金持ちの坊ちゃんで、身なりも持ち物も私たちとは差があって、スマートで恰好よくて羨
ましかったものです。私の中学生の頃は、まだ日本全体が貧しくて、中学生は質素な生活をし
ていたものでした。例えば、今、君たちがなにげなく口にしている、コーヒーや紅茶、バターなど
は、めったに口にできない貴重なものでした。そのお坊っちゃんはS君という名前でしたが、国
語の時間に、「紅茶」という漢字を、なんと、「べに茶」と読んだのです。

 とたんに教室中が、ギャハハという笑いの渦になりました。私はそれがおかしくて笑ったという
よりは、何だか嬉しくなって大声を出して笑いころげました。「何だ、Sの奴め、紅茶も知らんく
せに恰好つけやがって、アハハッ。」というわけです。
 笑いながら、私はK子さんの方を見ました。当然、いっしょになって笑っていると思っていたの
に、K子さんはクールな目で私を見ていたのです。私は、軽蔑されているとわかって、一瞬ドキ
ッとし、顔がこわばりました。

 K子さんは、上品な美人です。それに、とても頭がいいのに、優しくて謙虚な人でしたから、み
んなの憧れの的でした。私は、ライバルのS君に対する、自分の卑しいこころねを、憧れのK
子さんに見抜かれてしまったのでした。
 その日を境にして、彼女は急に私に冷たくなってしまいました。それだけでなく、前には仲良く
なかったはずなのに、私の前でわざとS君と仲良くしているようにも思えました。自分の妬み心
が丸見えに見透かされてしまった、恥ずかしい経験です。惨めで深刻な失恋です。

 自分より優れた人、自分に無いものを持っている人が、何か失敗した時に喜ぶのは、自分の
心の奥に嫉妬という感情があるからです。嫉み妬むという漢字を書きます。 

 妬みは、人の失敗を喜ぶという形ばかりではなく、いろいろな形での不平不満、人の悪口、う
らみごと、不公平だという訴え、正義や平等の要求、あるいはまた、いろいろな形の言い逃れ
などに姿を変えて現れます。勉強のできる人や、運動のできる人に対する、「勉強ばかりでき
たってべつに偉いわけじゃない」、「運動ばかりできたってしょうがない」などという気持ちも、嫉
妬の変形です。「あの葡萄は酸っぱい」というイソップの逸話のようなものです。お互いに足の
引っ張り合いをするということは、嫉妬以外の何ものでもありません。また、他人の、どうでもよ
いことを、あれこれ言いふらす口うるさい、口さがない人もそうです。

 心の奥に妬みがあって言うことや、やることは、当の本人には自覚ができていないのです
が、周りの人には、彼や彼女のいじけた心根が丸見えで醜悪なものです。そればかりか、その
醜悪な気分を周りに撒き散らすのですから、周りが暗くなります。はた迷惑もいいところなので
すが、日本人にはこのことを自覚できていない人が多いのです。
 この場合、妬む人よりも妬まれる人の方が悪いのだ、という考え方、妬まれないように遠慮し
て何に対しても積極的に振る舞えないというのは、日本独特の悪い気風なのです。
 聖書には、この妬みの物語がいたるところに出てきますが、いずれも、妬む方の人がイエス
にその間違いや醜さを諭されています。ですから、日本人とは違って西洋人には、「人間という
ものは、妬み、妬まれる者なのだ。そして、妬む者の方が醜いのだ」ということが常識になって
います。

 話を、モーツァルトのことに戻します。
 私は、今年この穂高中学へ着任してまもなく、前庭に「田舎のモーツァルト」という詩を書いた
石碑があったので、不思議に思って調べてみました。次のようなわけでした。

 尾崎喜八という有名な詩人がいます。その人が穂高中学の音楽室に案内されてきたら、若
い女の先生がモーツァルトのピアノ曲を演奏していた。・・・それを、中学生たちが一生懸命に
聴いていた・・・・・。尾崎さんは、穂高中学の生徒たちが、若い女の先生のピアノを一生懸命に
聴いていること、妬みだとかいじめだとかには縁がなく、気持ちが爽やかで純真な生徒たちで
あることに深い感動を覚えた。・・・・・それを詩に書いた。・・・・というわけです。

 つまり、穂高中学の生徒がどれほど素晴らしいかということを、よその有名な人が詩に書い
て、このような立派な詩集(『尾崎喜八詩文集』創文社)に載せて下さったというわけです。
 しかも、この詩集にそれが載っていることを、この学校の生徒が見つけたというのです。つま
り、こういう良い本を読む生徒がいる中学校だということです。嬉しいことではありませんか。


               田舎のモーツァルト    尾崎喜八  

中学の音楽室でピアノが鳴っている。 
生徒たちは 男も女も  
両手を膝に、目をすえて、 
きらめくような、流れるような、  
音の造形に聴き入っている。  
そとは秋晴れの安曇平、  
青い常念と黄ばんだアカシア。  
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で  
新任の若い女の先生が孜々として 
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。 
          尾崎喜八詩集『田舎のモーツァルト』所収     


 さて、そこで、君たちのクラスのことを考えてみましょう。
 他人のことについて、何かと口さがない人はいませんか。口には出さなくても、心が膿んでし
まって、不平不満だらけの人はいませんか。人の足を引っ張ってばかりいる人はいませんか。
心の奥底に妬みがあって、いろいろ言ったりやったりしているのに、その醜い自分に気がつい
ていない人は誰でしょう。逆に、妬まれることにビクビクし、周りの気配ばかりを気にして金縛り
にあって、何もできずにいる人は誰でしょう。

 妬みをなくせとはいいません。聖書にもあるようにそれは無理です。ですが、妬みの心は醜
い心です。はた迷惑です。妬みの気持ちを、羨ましいという素直な気持ちや素直な憧れ、ある
いは、明るいやきもちなどに変える努力・訓練をしなければいけないのです。

 どのクラスにも、きっとK子さんのような人がいることを、私は、信じたいと思います。尾崎喜
八さんを感動させたような素敵な生徒が昔も今もいるのです。

 「有名な詩人の尾崎喜八さんが、私たちの母校、穂高中学の生徒たちのまじめで誠実な姿
に感動し、そのことを褒めた詩をつくったんだ。母校の庭にはその詩を刻んだ石碑が建ってい
るんだ」。このことを、やがて、君たちが、この穂高中学校を卒業してよその場所に行ったと
き、あるいは親になったとき、誇らしげに語ってほしいと思います。

  皆さんのクラスの歌声はどうですか。だいぶ上手になってきたでしょうね。歌声が響き合う学
級は明るく爽やかで、お互いの心が響き合っている素敵な学級です。そういう素敵な学級ばか
りになって、全校生徒の爽やかな心が素敵に響き合い、しゃくなげ祭(学校文化祭)の音楽コン
クールでは、朗々とした歌声が響き合うことを今から楽しみにしています。

 それでは、先ほどのピアノ曲、モーツァルトの「ピアノソナタ 十一番 K331」を、はじめから通
して聴きましょう。では、お願いします。

詩「田舎のモーツァルト」に関する、尾崎喜八自身の注釈を読む。


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆校長先生の失敗談は、誰の心にもありそうなことで、身近に感じられました。

◆尾崎喜八という有名な詩人が、昔の穂高中学校の生徒に感動して、そのことを詩に書いてく
れた。これは、穂高中 にとってすごいことで、自慢できることだと思います。
 今、尾崎さんが穂高中学校の前を通ったら、私たちは詩に書いてもらえるでしょうか。

◆校長講話の後に、ソナタ三三一を弾いた。何しろ、千何十人もいる学校に、お母さん方もい
たので、ステージから見た人数はものすごい数に見えた。そのおかげで、緊張はものすごいも
のだった。でも、椅子に座ると、結構落ち着いて弾くことができた。途中、ちょっと間違えたけ
ど、ストップしてしまうことがなくて安心した。
 後で、お母さんが、「穂高中の生徒は、すごく真剣に話を聞いていた」と言ってくれたのでうれ
しかった。

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後日の話『田舎のモーツァルト音楽祭』のこと
 この講話の翌年から、生徒会主催で『田舎のモーツァルト音楽祭』が実施されることになっ
た。初回の音楽祭冒頭に、生徒たちは、尾崎喜八先生のご息女尾崎榮子氏から、詩の一節
「孜々として」という言葉の意味「ひたむきにはげむ」大切さをお聞きしたのをきっかけに、この
言葉を生活意識向上のための指標にした。そして、学校文化向上のための精神的支柱となっ
た。
また、この言葉は閉校記念出版誌の書名ともなった。
 なお、この音楽祭は、穂高中学校が東西二校に分離後も「孜々として」という精神が続くよう
にと、両校の合同行事として引き続き実施されることになった。

 初回の音楽祭(平成十一年十一月六日)には、尾崎喜八研究会(みずならの会)のメンバー
二二名が全国各地から訪れた。同研究会の会誌(『尾崎喜八資料』第十六号)は、その時の
様子を次のように記録している。

 平成十一年十一月五日〜七日、第十二回みずならの会は大糸線穂高駅集合。まず
「ガストホーフたかはし」に高橋達郎氏を訪ねる。・・・(中略)・・・
 六日朝九時から安曇野の町立穂高中学校で生徒会企画主催の「田舎のモーツァルト」
碑前祭及び音楽祭が行われるので全員で参加した。
 講堂の舞台いっぱいの大きなスクリーンには尾崎喜八が訪れた頃の旧校舎、「田舎の
モーツァルト」碑建立除幕式の光景、奥穂高を背景に上高地で撮った尾崎の肖像写真、
詩「田舎のモーツァルト」「安曇野」等が写し出されナレーションで説明される。尾崎の詩
の朗読が流れる。
 講堂には千人近い生徒が着席していて近頃珍しいマンモス中学校の様子が窺われ
る。遺族の挨拶の中で、今はあまり使われない孜々としてという言葉の持つ意味の大切
さを説明し、「是非今日はこの言葉を覚えて帰って下さい」と結んだ。碑前祭の後「田舎
のモーツァルト音楽祭」が開かれ、日頃ピアノやヴァイオリンを習っている生徒達の演奏
が行われた。バッハのドッペル協奏曲(ヴァイオリン合奏)、ベートーヴェンのピアノソナ
タ、ドゥビッシーの「月の光」等一〇曲、最後はモーツァルトの「レクイエム」より「涙の日」
によって締め括られた。
隣に腰掛けられた高橋達郎氏とともに何度か目頭を押さえたが、それは、「外は秋晴れ
の安曇平・・・」、澄んだ空は巻雲の饗宴、いちょうは鮮やかな黄に、隣の碌山美術館を
囲むかえでの見事な紅葉、正面に聳える常念、子供達の一生懸命の演奏、三十数年前
に尾崎喜八が体験したのと同様の感動に我々も胸を打たれた・・・。(以下略)


 また、第二回目の同音楽祭(閉校記念音楽祭を兼ねた)に行われた『第九』の大合唱を聴い
た尾崎喜八研究会員の先原章仁氏(多摩市在住)は、次のように記述している。

 …ご自分の詩が機縁となって、(生徒たちが)母校の大きな節目に、孜々としてベート
ーヴェンを歌うこの姿を、尾崎さんがご覧になったら、またどれほど熱い感動の涙を浮か
べられたか想像に難くありません。これまで聴いた第九の中でも、とりわけ胸を打つもの
でした。… (尾崎喜八研究会『尾崎喜八資料』第十六号三二頁)

 『田舎のモーツァルト』の詩と音楽祭は、ひとり穂高中学校だけのものではなく、全国の尾崎
喜八ファンとの貴重な共有財産であることを物語っている。
       

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十月
     あしたはもっと幸せに ―『鐘の鳴る丘』の話 ―    

            [音楽『とんがり帽子』 映像 鐘の鳴る丘集会所 ]
 これは、穂高町にある「鐘の鳴る丘」会館です。この会館へは、他の観光施設のように、たく
さんの観光客が訪れるわけではありませんが、わざわざ訪れる人には、特別な思いがあるよう
で、この前に立って、ハラハラと涙をこぼしているのだそうです。
 そういう人たちは、みな、私より上の世代の方々で、君たちのおじいさんやおばあさんたちの
世代です。いったい、どういう訳なのでしょうか。

 日本は、今から五十年以上も前に、世界中を相手にして戦争をし、無惨に負けました。戦争
末期には、大都市の建物はみな爆撃で破壊され、一面の焼け野原になってしまいました。
 その様子をビデオで見てみましょう。
         [ビデオ映像 ・B29機上から爆弾投下の様子]
 アメリカ軍のボーイング29 、いわゆるB29という爆撃機から爆弾を投下しているところです。
この爆撃機が飛行する一万メートルの高さまで舞い上がってこれと戦える戦闘機が、当時の
日本にはありませんでしたから、B29は、何の邪魔もなく悠々と爆弾を投下しました。それを空
襲といいますが、人々は、毎日毎日、敵の空襲がないかとビクビクして暮らしていました。
 東京は、昭和二十年三月十日に大空襲を受けましたが、その時は、爆弾ではなくて、焼夷弾
という、人をばかにしたようなもので焼き殺されたのです。焼夷弾というのは、油を詰めた筒に
着火装置が付いているだけの簡単なものなのです。日本の家は木と紙でできているので、爆
弾なんか使わなくても、そんな簡単なもので焼き払うことができたというわけです。
       [ビデオ映像 ・東京大空襲の火災の様子 ・焼け跡の焼死体〈ナレーション付〉]
 この東京大空襲が、どれほどすさまじいものであったかということを書いた、『東京が燃えた
日』という本があります。図書館にありますからぜひ読んで下さい。
[ビデオ映像 ・廃墟の東京] 戦争が終わった時の東京です。 見渡す限り、何も無い焼け野原で
す。焦げた土と書いて、焦土といいます。田舎へ食料を買いにいく人たちです。文字どおり殺
人的な混雑です。[ビデオ映像 ・買い出し列車]
 新宿の駅前広場の様子です。[ビデオ映像 ・闇市]終戦直後は大変な食料不足で、飢え死にす
る人が後をたちませんでした。その様子は、君たちが一年の国語の教科書で習った、『大人に
なれなかった弟たちに』(米倉斉加年)に書いてあるように、じつに深刻なものでした。大人たち
は、自分が生き延びるため、自分の子どもを飢え死にさせないために、食べ物を手に入れるこ
とに必死でした。

 野坂昭如という作家が書いた『火垂の墓』という物語があります。野坂さんの実際の体験を
書いたものです。空襲で家を焼かれてしまい、両親も焼け死んでしまったので、彼は、まだ赤ち
ゃんだった妹を背負って、毎日、食べ物を探し歩きました。          あまりにもお腹が
すくので、妹に分けてやる分を、何度か自分で食べてしまいました。妹は栄養が足りずに死ん
でしまいました。野坂さんは、そのことを一生の心の傷として生きているのです。この『火垂の
墓』は、ビデオが図書館にありますから、学級でぜひ見て下さい。

 野坂さんのように、空襲で家を焼かれ、親を失った子どもたちは、夜は野宿をし、昼間は町を
放浪して歩きました。彼らのことを浮浪児といいました。戦後の東京や大阪の街には浮浪児た
ちがいっぱいいました。

[ビデオ映像・浮浪児の様子と浮浪児をつかまえる様子]これでは、あまりにも子どもたちがかわいそう
だ。日本の子どもたちがもっと明るい希望をもって生きられるようにと、アメリカ人の宣教師フラ
ナガンさんが音頭取りをしてできたのが、『鐘の鳴る丘』というラジオドラマです。昭和二十二年
から始まって、七百九十回の連続ドラマとして放送されました。毎日、夕方になると、この主題
歌の「とんがり帽子」という歌が、ラジオから流れてきました。昔は、今のようなテレビはなくて、
ラジオもNHKだけでしたから、日本中の子どもたちがこの放送を聴いたのです。

 このドラマは映画化されましたが、その時の舞台となったのが穂高町です。穂高町の青年
が、浮浪児たちのことをかわいそうに思い、東京から穂高町へつれてきて、住む家を作ってや
って、彼らと共に幸せをつかむための努力をするという物語です。映画でこの青年の役をやっ
ている佐田啓二という俳優は、中井貴一のお父さんですから、ずいぶん昔の話ですね。

 NHKの連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、敗戦直後の焼け野原で、誰もかれもが自分のこ
とに精一杯で、他人のことなんかにはかまっていられないという荒れすさんだ日本人たちに、お
互いがいたわり合い、助け合うことの大切さを思い起こさせました。また、明日を信じて努力し
ようという勇気を与えてくれたのです。
 戦後の焼跡から、今日のような繁栄に至るまでには、君たちのおじいさんおばあさんの世代
の、いっしょうけんめいな努力がありました。つらいことを必死でこらえながら、「あしたはもっと
幸せに」と願って努力をしてきたのです。最初に話した、鐘の鳴る丘集会所の前で、ハラハラと
涙をこぼしている人の気持ちが、君たちにも少しは分かってもらえたかなと思います。

 きょうは、穂高町の「鐘の鳴る丘」歌う会の皆さんが、君たちに「とんがり帽子」の歌を教えて
下さいます。それでは、お願いします。(鐘の鳴る丘歌う会 ・西山紀子氏による歌唱指導)


参考資料        
 菊田一夫  『鐘の鳴る丘』 松竹ビデオ
  野坂昭如  『火垂の墓』 ブエナビスタビデオ
 早乙女勝元 『東京が燃えた日』岩波ジュニア新書
 NHKビデオ『映像でつづる昭和史』東芝EMI


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆今日の校長講話の時、僕は「鐘の鳴る丘を歌う会」の人たちの横にいたから、その中の一
人の方が「今、校長先生が話をしているのは、ちょうど私たちの時代よ。」と教えてくれた。
 そして、焼かれた人々のビデオを見ているとき、僕たちは「うわぁー」「かわいそう」と表面的に
しか見れないけれど、その方たちは、涙を流しながら、一言もしゃべらずに耳を傾けていた。浮
浪児のビデオのときも同じで、まるで自分たちの小さい頃と映像を重ね合わせているようにも
見えた。
 その人たちが流した涙は、実際に戦争を体験した人しかわからない、僕などでは理解できな
いほど重いものだと思った。

 註 「鐘の鳴る丘歌う会」は、穂高町有明にある法務省少年矯正施設有明高原寮で毎年催さ
れる「鐘の鳴る丘コンサート」を強力に支援し続けている地元の合唱団のことであり、「早春賦
愛唱会」と同じメンバーで構成されている。穂高町の小・中学生や町民も参加するこのコンサ
ートは、参加総数五〇〇名ほどの大行事である。


NHK連続放送劇『鐘の鳴る丘』主題歌
   とんがり帽子   菊田一夫作詞 古関裕而作曲  

一 みどりの丘の 赤い屋根       
  とんがり帽子の時計台   
  鐘が鳴ります キンコンカン      
  メエメエ 子山羊も鳴いてます     
  風がそよそよ 丘の上        
  黄色いお窓は おいらの家よ    
      
二 みどりの丘の 麦畑         
  おいらが一人でいる時に      
  鐘が鳴ります キンコンカン     
  鳴る鳴る鐘は 父母の        
  元気でいろよと いう声よ     
  口笛吹いて おいらは元気     
 
三 とんがり帽子の時計台
  夜になったら 星が出る
  鐘がなります キンコンカン
  おいらは帰る 屋根の下 
  父さん母さん いないけど
  丘のあの家 おいらの家よ

四 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち 
  鐘がなります キンコンカン
  きのうにまさる今日よりも
  あしたは もっと幸せに 
  みんな仲良く おやすみなさい

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十一月 読書旬刊によせて
          トロとロース ― 読書のすすめ―

  心で秘かに想っている大好きな人の前に立つと、心臓がドキドキしますね。困ったことや悲し
いことがあると、胸が痛くなります。ですから、昔の人たちは、心臓で、ものを感じたり考えたり
しているのだと思っていました。恋のマークがハート型をしているのは、そのせいなのです。
 今の私たちは、ものを考えるのは、頭にある脳細胞だと知っています。けれども、脳みそが
恋をしているなんて、どうもあまりロマンチックではありません。やはり、ドキドキするハートで恋
をしているのだと考えた方がいいのかもしれません。

 ところで、じつは、「人間は、言葉を使ってものを考えたり感じたりしている」ということには、誰
も、あまり気づいていないようです。
 おちついて、よく考えてみましょう。「今日は暑い、ここに紙がある、紙の色は白だ・・・」。こう
いうふうに、ものを考える場合に、必ず言葉で考えているのです。ですから、言葉をたくさん持
っている人ほど、内容豊かにものを感じたり考えることができるのです。例えば、青という色に
も、コバルトブルー、ウルトラマリン、プルシャンブルーなど、いろいろあります。その言葉を知
っている人は、今日の空の色は、その内のどれだかをしっかり区別して感じているのですが、
知らない人にとっては、ただ単純に青色でしかないのです。
 君たちは、今の時代の人間の方が、平安時代の人間よりもうんとセンスがいいなどと思って
いるかもしれませんが、高校生や大学生になって国語で古典の勉強をすると、当時の人たち
は、今の私たちより繊細な色の感覚をもっていて、微妙な違いを見分け、使い分けていたこと
がわかってびっくりすることでしょう。

 ブリという魚は、成長するにつれて、名前がワカシ→イナダ(ハマチとも言います)→ワラサ→
ブリと変わっていきます。昔は、武士が出世するにつれて、例えば、日吉丸→木下藤吉郎→羽
柴秀吉→豊臣秀吉と変ったことと似ていますから、ブリは出世魚などと言われて、正月などに
食べるのです。
 なぜ、同じ魚を、ワカシ、ハマチなどと区別するのかというと、それぞれに特徴があって、味や
歯ごたえが違うからです。味の違いは、魚を多く食べる日本人にとっては、大事なことだったわ
けです。
 それどころか、一匹の同じマグロでも、部分によって、トロだの、中トロだの、赤身だのと、味
の違いをよく知っていて、その違いにこだわるのです。

 魚ではなくて、肉を多く食べる国の言葉には、魚をこんなに細かく区別した言葉はありません
から、彼らは、ブリを食べようと、ハマチを食べようと、同じ味に感じているのです。それどころ
か、おいしい高級魚の鯛と安い鱈を同じ味に味わっているのかもしれません。
 ですが、彼らは、肉に関しては、どの部分の肉であるかによって、味や歯ごたえが違うことを
よく知っているので、ロースだ、ヒレだ、バラだといって、その区別にこだわるのです。近頃は、
日本でも、そういう肉を多く食べるようになりましたから、区別をして売っていますが、私の子供
の頃の日本では、一般大衆の食べる食肉は、牛だ豚だという区別はありましたが、ロースだヒ
レだなどということは、どうでもいいことでした。そんなふうに区別することは知りませんでした。
わずかばかりの肉を小さく薄く(向こうが透けて見える程・・・・)切り刻んで、それを味出しにして
煮た葱やしらたきを食べたわけですから、どこの部分の肉であろうと、肉でありさえすればよか
ったのです。

 このように、魚を食べる文化圏と、肉を食べる文化圏では、それに関する言葉の種類や数が
まるで違っています。その違いは、味わい方や感じ方の違いでもあるのです。
 それを、ボキャブラリーの差といいます。使える言葉の数が多い人を、ボキャブラリーが豊か
であると言います。ボキャブラリーの豊かな人は、豊かな分だけ、多くのことを感じたり、考えた
りしているわけです。逆に、その人の言葉の限界が、その人の感覚や思考の限界、文化の限
界なのだといえます。

  このことは、君たちが高校や大学に進んだ時に、しっかり自覚することでしょう。世の中には
ボキャブラリーの豊かな人がいるものです。そういう人は、考え方も確かですから、そういう人
の前では、ボキャブラリーの貧困な人は劣等感に悩まされるのです。教科の成績も上がりませ
ん。
  君たちは、どのようにきれいとか、どのようにかわいいのか見分けないで、簡単に、「すっごく
きれい」、「かわいいー」というだけですし、こういうわけで、こういう理由でと言えずに、「ムカツ
ク」とか「キレル」とかいうだけです。

  君たちが、心豊かにものごとをとらえたり、確かな考え方ができるようになりたいなら、まず第
一に、いっぱい読書をして、ボキャブラリーを豊富にすることです。中学時代の読書量の差は、
高校時代の実力の差となって現れます。高校時代の読書量の差は、大学時代の実力の差と
なって現れると言われています。ですから、中学生の今、進んで本を読んでみましょう。
 はじめはいやでも、一冊二冊と冊数を重ねるにつれて、自分の読み方が早くなり、内容がよく
わかるようになり、考え方もしっかりしてくるのが分かって楽しいものです。

 どんな本でも構いません。それを書いた人は、必ず、現在の君たちよりもボキャブラリー豊か
で確かな人なのですから、選り好みをしないで、どんどんと本を読むこと、そうすれば、自分に
はどんな本が良いのか、自分で分かってきます。その時は、かなり、自分の頭がよくなったと思
ってよいでしょう。


校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆校長講話は、読書旬刊についてだった。ものを考えたり、感じたりすることが、今の世の中
では少なくなっている。それは、あまり本を読まなくなってきたことと関係あると思う。自分もボ
キャブラリーを増やして、感じる心を磨きたいと思う。
    
◆校長講話を聞いて、今の中学生は、何の区別もしないで、簡単に言葉を使っているとあらた
めて思った。
    
◆今日、校長講話があった。私は、話を聞き、ものを考えるときに、基準となるのが言葉なの
だと納得させられた。本を読むことにより、ボキャブラリーが豊富になり、心豊かに考えられる
ということがわかった。

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十二月
   君たちへの遺言 ―『きけ わだつみのこえ』上原良司の遺書―


    [テロップ映像 上原良司の暗号化された遺文]

きょうこちゃん さようなら  ぼくは きみがすきだった 
しかし そのとき すでに きみは こんやくのひとであった 
わたしは くるしんだ  そして きみのこうふくをかんがえたとき
あいのことばをささやくことを だんねんした 
しかし わたしは いつも きみをあいしている

 これは、太平洋戦争末期に、爆弾を積んだ飛行機でアメリカの戦艦に体当たりして死んだ、
穂高町有明出身の大学生が、死を覚悟した出撃の前に、暗号にして、親にだけそっと教えた
心の秘密、遺書です。その人の名は上原良司さんといいます。(ビデオ映像・上原良司飛行服姿の遺
影)

 爆弾を積んだ飛行機で体当たりをする残酷な戦法を、特別攻撃隊、略して特攻隊といいまし
た。特攻隊の軍人は勇ましいというわけですから、「きょうこちゃん、ぼくはきみがすきだ」などと
言ってはならなかったわけです。それに、必ず死ぬことがわかっている出撃前に、全員が遺書
を書くのですが、それもみな検閲といって、上官に開封されて調べられるので、本当の気持ち
を書くことなどはできませんでした。

 そこで、上原さんはどうしたかというと、親にだけ知ってほしい心の秘密を暗号にしたのです。
その暗号は、自分の家にある本箱の右の引き出しに入れてありました。それは親にだけしか
知られたくない大事な秘密なので、簡単には見つからない仕掛けにしておいて、親への遺書の
最後のところにそのことを書いておきました。
 その遺書を読んだご両親が右の引き出しを開けてみると、むずかしい内容の本が入ってい
ました。その本をめくってみると、とびとびに活字を選んで○印で囲んでありました。それを順に
並べたら、最初に読んだような内容の告白だったのです。親がそれに気づいたのは、すでに、
上原さんが沖縄の海で帰らぬ人となってしまった後でした。
 その時は、片想いの洽子さんも、よその家にお嫁にいってたった半年で肺結核で亡くなってし
まった後でした。
・・・・これを読んだお母さんは、胸がはり裂けんばかりの想いだったことでしょう。

 上原さんは慶応大学の学生でした。戦争が激しくなるにつれて学生も、戦争にかりだされまし
た。前に話した司馬遼太郎さんもそうでしたね。学生たちは、戦車兵や飛行兵、潜水艦乗組員
など訓練が難しいところに配属されました。それを学徒出陣といいました。            
  (ビデオ映像・出陣学徒壮行式・特攻隊出撃・特攻機爆死)

 このように、特攻隊の人間爆弾として南の海で死んだ人たちは、三千人をこえました。
 その他にも膨大な数の人たちが南の海や島で戦死しました。グァム島とかサイパン島とか聞
けば、皆さんは、楽しい観光地と思うでしょうが、それらの島々は、日本がひきおこした太平洋
戦争の激戦地で、多くの島々で、二万人から三万人、五万人という人たちが死んでいるので
す。例えばサイパン島では、一万五千人のアメリカ兵、三万人の日本兵、合わせて四万五千
人が戦死しました。
 ガダルカナルという島では、約二万人の日本兵が亡くなりましたが、そのうち戦闘で弾に当た
って死んだのは四分の一だけで、他の四分の三の兵士たちは、なんと、食料が何も無くなって
次から次へと餓死していったのです。
               (ビデオ映像・激しい艦砲射撃と食料補給の途絶・ガダルカナル島の戦死者の様子)

  このような人たちが書き残した遺書や日記をまとめた本があります。『きけ わだつみのこえ』
という本です。わだつみというのは海の底にいる神様のことですから、『きけ わだつみのこえ』
というのは、戦死して南海の深い海底にねむっている兵隊たちの「魂の叫びを聞いてくれ」、と
いう意味です。
 戦争が終わってから発行され、空前のベストセラーになりました。今でも売れ続けている有名
なロングセラー本です。

 この本の最初に載っているのが、なんと、わが穂高町出身の上原良司さんの遺書なのです。
 どうして最初に載せられているのかということは、読んでみればわかります。この本の最初を
飾るにふさわしく、内容の程度が高くて、しかも、格調の高い文章です。さっき説明したような厳
しい検閲を恐れずに、自分の信念を明確に書いています。今の社会からみれば、ごく当たり前
の内容ですが、軍国主義一本に塗り固められ、他の考え方をする人は周りの誰からも非国民
とののしられ、逮捕され、監禁され、時には拷問を受けたりする時代だったことを考え合わせる
と、これは大変なことなのです。
 上原さんの文章は、この本の後半にも載っています。こちらの方は、日記だったり両親あて
の遺書だったりするので、軍に提出した公式の遺書よりも率直に上原さんの気持ちが表わさ
れています。いよいよ出撃が近くなった日の日記にはこう書いてあります。

 「・・・特攻隊員として爆弾を抱えた飛行機と共に自爆することは、あらかじめ予定して
いたことだから、何ら恐れてはいない。淡々とした気持ちである・・・。自分は生きていて
も日本を守るためにはあまり役にたちそうもない。死んで日本を守るのだ。この戦争を
やるために政府が国民に言ってきたことなんか自分は信じていないが、そんなことはどう
でもいいことだ。自分は、あくまでも日本を愛する。・・・・・愛する日本・・・・。」

 それより前のある日の日記にはこう書いています。

 「人間味豊かな自由にあふれ、そこに何ら不安もなく、各人はその生活に満足し、欲望
はあるけれども強くはなく、喜びに満ち、幸福な、真に自由という人間性に満ちあふれ
て、この世を送る時代が近づきつつある。」

 ・・・・・つまり、上原さんたちは、愛する親や兄弟、かわいい妹、愛しい恋人、懐かしいふるさ
との友だちたちが住むこの日本が、もっとよい国になることを信じて、命を捧げたのです。彼ら
個人個人は、この戦争は負けることがわかっていました。それでも、日本の未来に希望を託し
たのです。上原さんは、こう書き残して戦場に赴きました。

 特攻隊のパイロットは一器械にすぎぬと一友人が言ったことは確かです。操縦桿を採
る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸い
つく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。・・・・・
 一器械である私は何も言う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大に
するように、国民の方々にお願いするのみです。


 戦争に負けてから、国民はみな努力を重ねて、今日の日本をつくってきました。日本は、上
原さんが願ったような、豊かで自由な国になりました・・・・・。

 さて、上原良司さんが生き返って、今の社会を見、君たちの姿を見たら何と言うでしょう。
 上原さんがせつに願っていた、「自由な社会」というのは、遅刻をする自由、授業を怠ける自
由、だらしない服装をする自由、先生の指導に従わない自由、学校を自分の為だけのものと
考えて勝手なことをやる自由、他人にさんざんな迷惑をかける自由、こういう自由がはびこる
社会のことなのでしょうか。軍人さんたちは、そんなくだらない社会、わがまま勝手な子どもを
つくるために尊い命を捧げたのでしょうか。
 今の社会のこういう状態を知ったら、上原さんは、「俺が夢見た未来の日本は、こんなのでは
ない。これでは死んでも死にきれない」といって怒るのではないかと思いますが、どうでしょう
か。それに、マリアナやソロモンの深い海底に眠っている、何万人ともしれぬ兵隊さんの魂もよ
みがえって、「わだつみの声を聞け」と怒り狂うかもしれません。

 それからもう一つ、君たちが知っておかねばならないことがあります。君たちのなかには、大
人になってから、東南アジアの国々や、南太平洋の島々を訪れる人もいるでしょう。その時に
なったら、ぜひ今日の話を思いおこして下さい。
 君たちが、これらの国々や島々を訪れると観光客として歓迎されるでしょう。けれども、その
ことでいい気になって、傲慢な態度をとったり、礼儀をわきまえなかったりすれば、君たち一人
一人の問題ではなくて、日本人全体、日本という国が信頼と尊敬を失うのです。現に、戦後育
ちで過去の歴史を知らない日本の会社員たちが、東南アジアの国々で無礼なふるまいをして
いるという事実があるのです。
 これらの島では、何の関係もない日本という国のおかげで、ある日突然に自分たちの島が戦
場になりました。飛行機や戦艦からの爆弾や砲弾が雨あられのように打ち込まれ、島の形が
変わってしまうかと思わせる激しいものでした。元々の島の住民たちは、日本のおかげでとん
でもない被害にあったわけです。日本では忘れても、相手はいつまでも忘れるわけがありませ
ん。
 ましてや、日本がこれらの国々に何をしたかということを、日本人である君たちが何も知らな
いなどということがバレたら、相手は憎しみの感情すらもつことでしょう。軽蔑され、恨まれこそ
すれ、信頼され尊敬されるわけがありません。立場を変えてみれば分かることです。
 昔の戦争のことを、今の君たちが謝る必要はないかもしれません。けれども、そういう事実が
あったということは承知していて、相手に接するのでなくてはなりません。参考までに、理科の
高梨先生が、マレーシア・ペナンの日本人学校に勤務していた時の体験と感想を書いた資料
を後で配ります。読んでよく考えて下さい。

 近頃、国際理解ということの必要性がいわれています。学校でもそういうクラブや授業を設け
るところも現れてきました。相手をよく知ることは大切なことです。けれども、私は、真の国際理
解をするためには、まず、自分が、日本自身のこと、特にその歴史を知ることが大事だと思っ
ています。国際理解の前に、まず、日本のことをよく理解しなければならないのです。そしてそ
れは広い知識と確かな判断力を必要とするのです。

 それに、相手に対する謙虚な姿勢も必要です。理解という字は、理屈が解るという字を書き
ますが、これはunder-standの訳語としては、意味を取り違えたきわめてまずい訳語です。
under-standとは、単語の意味そのままに、下に立つということです。つまり、相手より下の気
持ち、謙虚な姿勢になることによって、やっと相手のことが解るのだということを意味している
のです。
 日本は、昭和十六年にハワイの真珠湾を攻撃して、アメリカとの戦争に突入しました。日本
人は、前に校長講話で話したように、この戦争で悲惨な苦労をしましたから、「戦争の被害者
だ、空襲の被害者だ」という思いが強いのですが、相手のアメリカの人たちにしてみれば、宣
戦布告なしの卑怯な真珠湾攻撃・戦争突入だったわけですから、日本は加害者です。リメンバ
ー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)といって、今でもそのことを忘れてはいないのです。
 そのような、相手の立場からの考え方を知っておくことが、真の国際理解のためにはぜひ必
要なことなのです。きのう、十二月八日、アメリカではremember Pearl-Harborの日です。

 きょうの校長講話は、日本という国、日本人たちが、いつかきっと素晴らしいものになることを
信じながら、尊い命を犠牲にした戦死者のことを話しました。上原さんは、出撃を前にした最後
の故郷への訪問を終えて軍隊へ戻る時に、橋の上で大きな声を出して「さようなら、さようなら」
と叫んだそうです。故郷の山や川に向かって叫んだだけではなく、お父さん、お母さん、それに
ふるさと有明に住む方々、そして後の世に生まれるであろう君たちにも叫んだのです。
 上原さんのこの叫びをかわいそうと思うならば、君たちは、もっともっと社会に目を向け、世
界を知り、歴史を学び、自分を磨き、そして、たかだかとした心をもったよい社会人にならなけ
ればなりません。
 上原さんだけでなく穂高町の戦死者は、六五八名です。つまり、この学校の二年生と三年生
を合わせたぐらいの数の人が、戦死されたのです。その方々に対して、今、ここでつつしんで
黙祷を捧げましょう。(黙祷一分)。

 それでは、もう一度ビデオを見ながら校長講話を終わりにします。最初に出てくる映像は、君
たちと同じ年頃の中学生が、沖縄でどのような目にあったかという記録です。
 (ビデオ映像・沖縄鉄血勤皇隊遺影と遺書 ・特攻隊出撃光景 ・特攻隊爆死光景 ・上原良司遺影 ・遺文テロップ
「にほんをあいする・・・」)


資料 
 戦没学生記念会『きけ わだつみのこえ』岩波文庫
  上原良司・中島博昭『あゝ 祖国よ 恋人よ』昭和出版
  NHKビデオ『映像記録史・太平洋戦争』前・後編 潟|ニーキャニオン


  校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆校長講話、鳥肌が立った。校長先生の話すひとつひとつの言葉、生々しい映像…。人間が
してはならない悲惨な過ちに涙がこぼれそうだった。「明日の日本のために…」と尊い命を捧
げた人々、その人たちの死を無駄にしないために私にできることは何だろう?戦争をやってい
る中で必死に生きようとした人たちみたいに、もっともっと必死に生きていきたい。どんなことに
も体当たりして。自分が大切だと思うこと、自分が信じるものに正直にぶつかっていきたい。そ
して、戦争で亡くなった人の分も生きるんだ。
    
◆今日見たことはたぶん一生忘れないと思う。なぜなら、今日見たものは人間の、そして日本
の歴史だから。彼らの死を無駄にしないように僕は生きていきたい。
    
◆校長講話があった。なんか、何とも言えない気持ちになった。今夜は、また眠れないでしょ
う。私もこれからずっと日本で過ごすだろう。だから恥ずかしい行動だけはとらないようにした
いです。
    
◆今日は、戦争についてのお話でした。私たちは今、何不自由なく生活しているけれど、昔は
子どもから大人まで戦争にかり出されて、多くの人が亡くなってしまったんだなぁと悲しくなりま
した。私たちはこの多くの人の死を無駄にしないように生活しなければならないと思いました。
    
◆私たちは戦争を知りません。でも、自分には関係ないことだと思って、過去に何があったの
かも知らないまま生きていくのは、いけないことだと感じさせられました。戦争をもっとよく知らな
いといけないのかもしれません。
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配付した資料 シャムさんから教えられた日本の過去 
   高梨 雅夫(穂高中学校教諭)

 マレーシア・ペナン島は美しい島でした。その島にあるペナン日本人学校に勤務していた私
は、六年生の社会科学習として、太平洋戦争当時にペナンでどんなことが起きていたか、現地
の人から直接話を聞く機会がありました。
 誰から話を聞けるのかあてもなかったので、日本とマレーシアの友好に尽くして下さっていた
シャムさんというおじいさんに紹介をお願いしたところ、シャムさん自身が当時ペナンにいたと
言うことで自分で話をして下さることになりました。そこで、ある日シャムさんを訪ね、担任して
いた六年生と一緒に話を聞きました。以下は、話の要約です。

 私が小学校に入ってから間もなくの頃、太平洋戦争が始まりました。始まるやいなや、
日本軍はマレー半島の制空権を握り、ペナンの上空にも日本軍の飛行機が来るように
なりました。戦争が始まる前の新聞報道などでは、日本軍は弱く、戦争が始まっても簡
単に勝てるようなことが書いてあったので、はじめのうちは上空を舞っている戦闘機が日
本軍の物だとは思いませんでした。しかし、その飛行機から爆弾が落とされ機銃掃射が
されるようになってようやく、本当に日本軍がペナンに近づいていることを知りました。そ
れでも、まだその頃はイギリス軍が追い払ってくれるだろうと思っていたのです。しかし頼
りにしていたイギリス軍は、すぐにペナン島からシンガポールへ移動してしまいました。そ
れと同時に日本軍が入ってきました。
 日中戦争が始まって以来、日本軍は敵である中国系の人々を恐れ、憎んでいました。
ペナンへ進軍した日本軍も中国人スパイを恐れ、ペナン島に住む中国系という中国系
の人々をすべて集め、スパイであるかどうかの検査をしました。私も子供でしたが連れて
いかれました。
 検査をする会場には、板塀で囲まれた特設の細い通路がありました。通路の壁には小
さなのぞき窓があり、中からスパイを見つける人が目を光らせていました。私たちは一人
ずつ通路を歩かされ、疑いのある人はその場で捕らえられました。 
 自分の番がきてその細い通路にはいるとき、自分はまったく関係ないと思っていました
が、見張っている人に何と言われるかもわからず足が震えてとまりませんでした。通路
の最後で日本兵の横を通り抜けたとき、ほっとして膝の力が抜けたのを今でも覚えてい
ます。
 一緒に行った人の中には日本兵に捕らえられ、そのままどこかへ連れて行かれた人も
いました。数日すると、町の中心部の交差点に台が設置され、そこに処刑された人が並
べられました。恐ろしい光景で、今思い出しても鳥肌が立ちます。タイピンという所では、
住民も捕まえられ、女も子供も処刑されました。何人殺されたのか知りませんが、数ヶ月
の間、毎日処刑が続きました。マレーシアの教科書には、日本兵が赤ん坊を放り投げ銃
の先に付いた剣で突き刺している光景がのっていますが、そうしたこともあったのです。
 女たちは皆、兵隊に見つかるのを恐れて隠れていました。体や顔を泥で汚くしたり、着
る物もぼろをまとったりして、遠くから見ても男に見えるようにしました。それでも兵隊た
ちは女を捜して家々を歩きました。捕まって被害にあった女性は大勢います。
 日本軍は、中国系マレー人を特に厳しく弾圧しました。逆にマレー系の人を大切にし民
族同士が憎しみ合うようにしました。(註 マレーシアは主としてマレー系、中国系、インド
系の三民族によって構成されている国家) こうした日本軍のやり方に反抗した人も何人
かいますが、そのたびに捕えられ処刑されました。
 最初の数ヶ月は、こうした処刑が特にひどかったのです。捕まるのを恐れた人は、皆ジ
ャングルに逃げ込んで、飢えに耐えながら生活しました。後になって、そういう人たちか
ら、木の根でも虫でも、食べられる物は何でも食べたという話を聞きました。
 そのうちに日本軍による統治が始まりました。お金が日本のお金になり、日本のお辞
儀を練習させられました。学校も日本の学校となり、日本語を教えられました・・・。

 シャムさんは、目の前にいる日本人の子供に優しい眼差しを向けながら、戦争中にマレーシ
アで起きたことを淡々と語ってくださいました。恐ろしい過去の事実を、加害者の側の子供たち
に静かに語るシャムさんを見ていて、私は何も言えなくなりました。普段ニコニコとして日本人
の相手をしてくれる方の過去において、日本がこのように不幸な関わり方をしていたことがショ
ックだったのです。聞き取りが終わったあと、何ともぎこちないお礼しかできなかったことが鮮
明に浮かんできます。
  「しっかり勉強して、日本とマレーシアがもっともっと仲良くなれるようにしましょう。」と言ってシ
ャムさんは見送って下さいました。

 日本人学校には、校舎に住み込んで警備をしてくれていた、サミーさんというインド系のおじ
いさんがいました。腰も曲がった相当なお年なのですが、朝、私たち教員と行き会うと「おはよ
うございます」と深々と頭を下げてお辞儀をします。時には、背筋を伸ばして敬礼をする事もあ
りました。自分の覚えている日本語を使ってみせたり、日本の軍歌を歌ってみせる事もありま
した。しかし、シャムさんの話を聞いてからというもの、サミーさんがあいさつ代わりにしゃべっ
てくれる日本語も、にこにこしながら歌う軍歌も、単純に「上手ですね。」とは聞いていられなくな
りました。

 太平洋戦争時代に加害国であった日本は、今やマレーシアにとって、経済上もっともつなが
りの深い国となりました。数多くの企業が進出し、その工場は現地の人の大切な働き口となっ
ています。年間の観光客は二十万人を越え、観光客の落とすお金も貴重な収入源です。こうし
た中で、かつての日本軍の行為を非難する人は、あまり見かけません。
 しかしそれは、人々が過去をその記憶から消し、すべてを許したということではないのです。
マレーシアだけでなく、中国、韓国、フィリピン、オーストラリア等、太平洋戦争で日本がかかわ
ったどの国も、戦争の悲惨さを伝えようと資料館を建てたり、学校教育を行っています。私たち
が広島・長崎を忘れないように、他国の人々も、日本が戦争で行ったことを忘れてはいないの
です。
  これからは、ますます、さまざまな国の人とふれあう機会が増えるでしょう。そうした中で、私
たちは、一個人としてだけでなく、日本人として、日本という国が価値ある国、隣人としてふさわ
しい国と認められるよう努めなくてはならないと思います。
 そのためにも、過去における日本と他国とのかかわりを正しく知り、理解を深めなくてはなり
ません。私たちが、過去の事実を厳粛に受け止め、謙虚で誠実な姿勢を忘れることなく他国の
人と接していくなら、遠くない将来、私たちは心から受け容れられていくのだと思います。

  白い砂浜、真っ青な空、エメラルドに輝く海・・・・・。そんな美しい南の島ですが、幾多の命が
奪われ、数知れぬ人々が慟哭した場であることを知っていて下さい。               
                               【完】

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後日の話 オペレッタ『レクイエム―遺された想い―』の上演
 この講話の翌年、平成十一年十月二十四日に、三年生有志生徒一〇〇余名が、オペレッタ
『レク イエム―遺された想い―』を公演し、良質で高度な作曲、巧みな演出効果、完成度の高
い歌唱で感動を与えました。最終場面では、中学生には無理と思われている、モーツァルトの
『レクイエ ム・ラクリモーザ』をさえ見事に演奏・歌唱したほどです。 
 しかし、基本的には、「上原さんが遺していかれた想いを伝えたい」という生徒たちによる、真
摯でけれんみのない演技に、私たちは感動を覚えたのだといえるでしょう。
 構成と脚本、演出は、高梨雅夫。作曲ならびに演奏指導は、臼井学、片岡美保、田島立子。
映像及び音響効果、花村英俊。舞台効果、藤原文恵。歌唱参加(バス)永藤章雄の各先生な
ど、大勢の先生方による共同製作です。三年生の担任や、その他の全職員も、積極的な支援
をしました。


保護者の新聞投書「市民タイムス」平成十一年十一月八日
 穂高中学校生徒による、オペレッタ『レクイエム―遺された想い―』を観賞し、とても感
動しました。昨年秋から先生方が構想を練り、上演までには、まざまな苦労を重ねてき
たであろうこの作品は、「これが中学生か」と思うほど素晴らしいものでした。澄んだソプ
ラノの響き、変声期の生徒もいるだろうに、びっくりするほどよく通る男子の声。
トランペットによる、もの悲しい「海ゆかば」の演奏、衝撃的なフィルムやスライド、そして
クライマックスの混声合唱の美しいハーモニー。(中略)
 生徒たちのピシッと決まった姿は映画のようで、子どもたちが演じていることを忘れてし
まいそうでした。(中略)
 そして、何より心に残ったのは、この舞台を総勢百名の中学生たちが、先生方の指導
で心を一つにして完成させたことです。
 戦争を知らない世代である私の子どもが、親となる頃には、戦争を知らない人がほと
んどになるでしょう。でも、戦争にまわる話は、平和な社会であればこそ語り伝えられて
いくべきです。オペレッタは十二月にテレビ放映されるとのこと、またぜひ見たいと思いま
す。(矢野口文美) 

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二学期終業式
       生きる歓び ― 第九交響曲「合唱」を聴く ― 

 十二月十日のことでした。私がたいへんにお世話になった、先輩の関崎先生が亡くなられ
て、ご葬儀がありました。ご自身は教頭にも校長にもならず、生涯、担任を貫きましたが、私が
教頭になった時には自分のことのように喜んでくれて、いっしょにお酒を飲んだこともある人で
す。三年生の中には、穂高北小学校で教わった人もいるので、穂高中学校の生徒もたくさん
参列していました。
 関崎先生は、ファイトがあり、明るくていつもニコニコしていましたから、誰からも好かれてい
ました。悩みなんぞは何もないかのようでした。
 けれども、私は、先生が、たいへんなご苦労をされたことを知っています。お子さんがまだ赤
ちゃんの時に、奥さんが亡くなられました。先生は奥さんの入院中に、毎日、赤ちゃんを背負っ
て両手に大きな荷物をもって病院に通いました。当時は、まだ各家庭でクルマなぞはもってい
ませんでしたから苦労なことでした。
 後になって、よい方と再婚され、お子さんも立派に育ててもらえましたから、とても幸せで安心
でした。ご葬儀の時の弔辞を聞いていたら、ご退職されてからもみんなから好かれ、地域の花
づくりや合唱団の指揮者をやっておられたそうで、いかにも関崎先生らしいと思いながら聞い
ていると、なんと、あの冬季オリンピックの開会式の時の、第九交響曲「合唱」の合唱団に参加
して、奥さんとごいっしょに歌われたということでした。人生を讃え、友を讃え、世界を讃えるあ
の歌・・・・。
 苦労を乗り越えて幸せになられた関崎先生ご夫妻には、いかにもふさわしいことでした。

 そういえば、今年の校長講話は、冬季オリンピックの話が最初でした。五月の校長講話で
は、同じ開会式でのクリスさんの地雷廃止アッピールの話をしました。そして、穂高中学からは
何を発信するのかとも聞きました。それに応えて君たちは「学校を変えるのだ」、「一人一人が
変わり、一人一人が輝くのだ」というアッピールを発し、見事にそれをなしとげました。しゃくなげ
祭での、「広島平和記念祭レポート」の時、全校生徒が総立ちになって自然に歌い出した時の
感動は、今、思い出すだけでも素晴らしいものです。県大会、北信越大会で活躍するなど、部
活動の成果もじつに見事なものでした。学校生活のマナーや交通マナーも見違えるようによく
なりました。

 さて、君たちもよく知っているベートーヴェンという作曲家は、神様が乗り移って楽譜を書いた
のではないかと思える程の天才的な作曲家で、若い時から大いに尊敬され、もてはやされまし
た。
 けれども、それにしては、経済的にも家庭的にも恵まれずに、悲惨な人生を送りました。あま
りにも悲惨なので、一時は自殺を思って遺書を書いた程です。ハイリゲンシュタットの遺書とい
う有名な遺書です。
  けれども、ベートーヴェンは、自殺の誘惑に勝ち、その後、全世界の人々の胸を打つ、じつ
に見事な名曲をたくさん作りました。交響曲は全部で九つ作りました。最後に作った交響曲は
第九「合唱」という交響曲です。この交響曲につけられた最終部分の合唱「歓喜の歌」は、さん
ざんな苦労を乗り越えた上での人生を讃え、他の人を讃え、世界を讃え、神を讃えます。

 「学校を変える」、「一人一人が変わり、一人一人が輝く」という目標をたて、それを見事にな
しとげた君たちこそ、第九の合唱を聴くと、きっと、心が感動でいっぱいになることでしょう。そし
て、自分の心がとても温かくなり、豊かになって、心の底から力が涌いてくることを実感できる
でしょう。友だちや親との取るに足らないイザコザや、心のモヤモヤが、いかに、くだらなくて、
みっともないことであるかをつくつぐと思うことでしょう。

 それでは、これから、カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン楽友協会
合唱団による、ベートーヴェン第九交響曲「合唱」第四楽章の演奏を、レーザーディスクでプレ
ゼントします。
 君たちにとって、きたる新年が輝きに満ちた、ますます良い年であるようにと祈っています。

カラヤン指揮の「第九交響曲」を鑑賞する。(3楽章〜 ) 

後日の話 一二〇〇名による第九の「合唱」
 この時の一年生が三年になったとき、全校生徒一〇〇〇余名と、町民有志約二〇〇名によ
って第九「合唱」(ドイツ語による)が演奏された(五九頁に記述と写真掲載あり)。練習に際し
ての臼井文代氏の何回ものご支援、穂高商業高校深沢厚先生による弦楽指導、長瀬博氏に
よる町民合唱の指導等々の献身的なご支援があった。
ピアノ伴奏(臼井文代氏)とソリスト四名だけはプロ演奏家に依頼した。

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一月
     国際的な視野と醒めた判断 憂国の人・清澤洌

一 司馬遼太郎と清澤洌 

(ビデオ映像 ・昭和初期の経済不況と農村疲弊の状況 ・満州事変・満州建国 ・国際連盟会議場から日本代表団が
退場し脱退する様子)

 いま見た映像は、一九三三年(昭和八年)に日本が国際連盟を脱退した時の日本代表の演
説と、その代表団が会議場から退場してしまった様子です。今の君たちがこんなことを聞け
ば、「何ということを・・」と思うかもしれませんが、当時の日本人の大部分の人は、このニュー
スを聞いて胸がスカッとしたのです。

 どうしてかというと、当時の日本は、中国領土の東北部に満州という国を作って日本の植民
地にしました。そのことについて、国際連盟では、日本のやりかたがよくないといって批判した
のです。日本は、それに対して、イギリスやフランスなどの西欧諸国はすでに植民地を持って
いるではないか。日本も持って何が悪いか。満州がなければ日本の経済はなりたっていかな
いのだから、「満州は日本の生命線である」といってゆずりませんでした。そして国際連盟を脱
退してしまったのです。

 さっきの映像で演説をしていた人は、松岡洋右という日本代表ですが、彼はその後、悪名高
いナチスドイツのヒトラーや、イタリヤの独裁者ムッソリーニと組んで、日本、ドイツ、イタリヤの
三国同盟を結びました。日本の悲劇の始まりです。その後の日本は、世界中を相手にした戦
争への道をまっしぐらに進んだのです。
 けれども、当時の日本人は、まだそんなことはわかりませんでしたから、これで日本も道が開
けたと思って、大多数の人々は気分が高まりました。松岡洋右は当時の人々にもてはやされ
たヒーローでした。三国同盟を結んで群衆に歓迎され得意満面の松岡洋右の様子を見てみま
しょう。(ビデオ映像 ・三国同盟調印の様子 ・ヒトラーと共に群衆の歓呼に応える松岡洋右)

  ところで、七月の校長講話でくわしく紹介したことのある司馬遼太郎さんは、日本が、満州や
朝鮮を植民地化しようとしたことについて、あれは、経済的には割に合わない損なことだったと
いうだけではなく、中国や朝鮮の人たちの恨みをかった愚かな国策であったと厳しい批判をし
ています。(ビデオ映像 司馬遼太郎の講演「帝国主義とソロバン勘定」一部分)

 「われわれは、いまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じます
ね。堂々たる数千年の文化を持った、数千年も独立してきた国をですね、平然と併合し
てしまった。併合という形で相手の国家を奪ってしまった。・・・朝鮮半島の人びとは、あと
何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。
 倫理的な問題としてではなく、利害の問題として考えてみましょう。・・・・そもそも、植民
地へ売るものがあって、はじめて十九世紀的な帝国主義というものが成立します。ところ
が売るべき何もないのに朝鮮半島を取ってしまったのです。何もないから、東洋拓殖と
いう国策会社を作りました。朝鮮半島の人びとが一生懸命に先祖代々耕してきた水田を
取り上げたりしました。
 実際のソロバン勘定からいったら、持ち出しだったでしょう。鉄道をつくったり、総督府
をつくったり、学校をつくったり、郵便ポストをつくったり、それはそれでいいのですが、我
を持ち出して恨みを買った・・・・。
 昭和になってからは満州ですね。満州を取って何をするつもりだったのでしょう。・・・・・
中国の全域が反日に立ち上がる。やがて全面戦争化して日中戦争が始まる。日本の没
落への道が坂を転がるようにして始まるわけです。
 ・・・・・・・私は聞いてみたいのです。アジア人のすべてから憎まれ、われわれの子孫ま
でが小さくならなければならないことをやっていながら、どれだけの儲けがありましたか
と。どれだけ儲けるつもりでそれをなさいましたかと。・・・そのころの偉い人びとはいまほ
とんど死んでいますがその死者をよみがえらせて質問しても、だれ一人答えられないだ
ろうと思います」。
                                  
 このような、司馬さんの歴史の見かた考え方は、冷静で偏りがなく、今日の日本の知性を代
表する確かなものであるといわれているのですが、じつは、司馬さんより六十年以上も昔、しか
も、あの戦争のさなかに、司馬さんと同じことを考えて新聞や雑誌に発表していた評論家がい
たのです。
 それは、北穂高出身の清澤洌という人です。六十年前に司馬さんと同じことを考えていたくら
いですから、戦後まで生きていたら、たいへんな活躍をされたはずですが、まことに惜しいこと
に、戦争もあと三ヶ月で終わるという、昭和二十年五月に病気で亡くなってしまいました。


二 アメリカ通の清澤洌
 清澤洌は『暗黒日記』という本を書いた反戦思想家で、ちょっとこわい人だと思っている人も
いるようですが、それは彼のことをよく知らない誤解です。
 一八九〇年(明治二三年)、この町に生まれた清澤洌は、むかしこの町にあった研成義塾を
卒業して、十六歳の時に単身アメリカに渡りました。家からの仕送りはなく、自分で働いて勉強
をし、アメリカで新聞記者になりました。
 その間にさんざんな苦労をしましたから、アメリカの良いところも悪いところも分かりすぎるほ
どよく分かっている人でした。
 ちょうど、日露戦争が終わって第一次世界大戦の頃でしたから、今まで日本の後ろ盾になっ
てきたイギリスが世界一の地位から落ちて、アメリカがこれに代わってきていることや、日露戦
争もなんとか無事に切り抜け、第一次世界大戦にも関わって分け前にあずかった日本に対す
る、イギリスやアメリカの見方が厳しくなってきていること、等々の国際情勢がよく分かっていま
した。 
 ですから、日本が満州に進出したり、国際社会の問題児だったドイツと手を結ぶことが、国際
的な視野からみて、どれほど、国の利益を損なう危険なことであるかがよく分かっていたので
す。
 最近は、国際化社会だからといって、あちこちの大学に、国際関係学科というのが開設され
てきていますが、六十年以上も前に清澤洌がやっていたことは、その国際関係学だったわけ
です。彼自身はそれを、外交問題の研究といっていました。
 彼が、新聞や雑誌に発表したり、本に書いた論文は膨大なものですが、その一部が最近、
復刻版として発行されました。これです。(『清澤洌選集 全八巻』日本図書センター刊)
 これらの論文の内容について、現在の東大の政治学教授・北岡伸一先生は、「視野の広さ、
全体を貫く視点の確かさ、叙述の見事さなどでは、これをしのぐ外交史は、まだ書かれてはい
ない」と高く評価しています。(北岡伸一『清澤洌』中公新書のはしがき)
 日本は、清澤洌が心配したとおりの道をたどり、世界を相手にした悲惨な戦争をしました。そ
して、敗戦後はアメリカの強い指導のもとで、清澤洌が夢見ていたような社会を築いてきまし
た。
 戦後の政治や学問の世界で活躍したのは、清澤洌と同じようなイギリス・アメリカ的な自由主
義者たち(例 吉田茂元首相、石橋湛山元首相等々)でした。清澤洌は、当時は数少ないアメ
リカ通だったわけですから、彼が戦後まで生きてさえいれば、大活躍しただろうにと思うと残念
です。


三 清澤洌のみた日本の社会
 清澤洌は、当時の日本の政治や外交のやりかたについて、次のような欠点をあげています
が、これは、現在の政治や外交のやりかたでもあります。それに、よく考えてみれば、今の日
本社会の姿そのものです。例えば、この学校の生活にもみられることです。

 その一つは、自国の都合でものを考えるだけで、相手の国の事情はどうかという意識が少な
いことです。他国のことについてあまりにも無知なので、こちらがこう出れば相手はこう変わる
だろうなどと勝手に考えますが、相手には相手の原理原則や事情があって、そういう駆け引き
にはのってこないのだということがわかっていません。

 二つめは、事実にもとづいた科学的合理的な判断よりも、その場のムードに支配されやすい
ということです。確実な情報をもとにして冷静な判断をしなければならないのに、「みんながそう
思っている、感じている」からといって、みんなでそろって判断を間違うのです。清澤洌は、マス
コミが責任ある報道をしないでムードをあおるからいけないのだと言っています。そして、そも
そも、一つめの欠点も二つめの欠点も、当時の学校の教育がいけない。個人個人が責任ある
考えをもって行動するように教育していないからだと述べています。

 三つめは、そういう世間のムード、世俗の評判を気にしておもねる人が多いことです。政治家
や公務員というものは、たとえ自分自身の評判がどんなに悪くなろうとも、たとえ自分が暗殺さ
れるような危険があろうとも、国家のためを想えば、まげてはならないことがある・・・・。
 清澤洌はそういう例として、大久保利通が冷静な判断とつらい努力をして、国民的な人気者・
西郷隆盛の征韓論を押さえ込んだことを讃えています。また、日露戦争後のポーツマスでの講
和会議にのぞんだ小村寿太郎の冷静な態度をほめると共に、彼を批判し罵倒したマスコミや、
その扇動にのった国民大衆を、日本の外交を毒する困りものであると批判しています。
 じつは、司馬遼太郎さんも、清澤洌と同じことを言っているのです。現実をみて冷静に判断し
ている大久保利通を評価している小説が『翔ぶが如く』です。『坂の上の雲』という小説では小
村寿太郎を評価しています。司馬さんの講演ビデオを見てみましょう。

[ビデオ映像 司馬遼太郎「帝国主義とソロバン勘定」抜粋]  
 私は『坂の上の雲』という小説を書きました。・・・日露戦争というのは祖国防衛戦争で
ありました。・・・ロシアは地球を覆うほどの大国であります。とても勝てるものではないの
ですが、アメリカのルーズベルト大統領が肩入れしてくれたおかげでうまく痛み分けにな
った。ロシアはその気があればいくらでも戦争を継続できるわけですから、ポーツマスで
の講和会議におもむいた小村寿太郎は大きな要求賠償金までは請求できないことを知
っております。小さな要求しか出さない。そのために国民全体から非難されるだろうこと
も覚悟しています。
 日比谷公園に集まった群衆は、もっと賠償金をとれ、屈辱的だといってほうぼうに火を
つけたりしました。
 この群衆こそが日本を誤らせたと私は思っています。彼らがロシアからもっと金を取
れ、領土を取れというのは、日露戦争に完全に勝ったと思っているからですね。
 じっさいは、戦場では砲弾すらなくなりつつあった。これ以上続ければ自滅するだろう。
そういうきわどい戦争なんだということを、政府もジャーナリズムもいわない。政府は戦争
の状況を全部知っているくせに、不正直に日比谷公園で興奮している群衆の方にピント
を合わす。
 日比谷公園に集まった群衆は、やはり、日本の近代化を大きく曲げていくスタートにな
ったと思います。


四 清澤洌と松岡洋右の違い
 小村寿太郎は、何も分かってはいない群衆から罵倒されても、ひたすら国のためを想ってじ
っと耐え忍んだのです。
 小村寿太郎とは逆に、理知的な判断のできない群衆に媚びておもねった典型的な政治家
が、きょうの話の最初に映像で見た松岡洋右です。俗世間の賞賛をえて得意満面の様子があ
りありとみえましたね。司馬遼太郎は、この松岡洋右のことを、やくざ映画のヒーローのよう
だ、医者の研究課題のような人だとまで言ってます。(『司馬遼太郎が語る雑誌言論一〇〇
年』 P55)
 松岡洋右は、清澤洌と同じように、子どもの時にアメリカに渡り、苦労して働きながらアメリカ
の大学を卒業しました。当時、日本人がアメリカでこのような勉強のしかたをすることが、どれ
ほど苦労なことだったかということが、君たちには分からないでしょう。立派な大蔵大臣として今
でも尊敬されている、高橋是清が、やはりアメリカで働きながら勉学していた時、本人が知らな
い間に奴隷として売られてしまっていた、などという嘘のような本当の話があったことで、その
厳しい状況が少しはわかってもらえるかと思います。
 当然、松岡洋右も、当時のアメリカの日本人に対する、烈しい偏見と排日運動の嵐の中で差
別を受け、したたかな屈辱を味わいました。
 また、彼が卒業した大学は、アメリカでは片田舎の二流の大学でした。自尊心の強い彼にと
ってはこれも屈辱的なことで、超一流のハーバート大学やエール大学を出た、アメリカ大統領
や政府の要人たちに対して劣等感と敵愾心を持っていました。
 彼のことを司馬さんが、医者の研究課題だというのは、こういう心の奥底のわだかまりと、そ
れによる肩肘はった不自然なきばりのことを言っているのです。

 ところで、一方の清澤洌も、アメリカでは、松岡洋右と同じように差別を受け、屈辱を味わって
います。彼はアメリカから出した郷里への手紙にこう書いています。

「とにかく、ここでの日本人への待遇は驚くほど低いのです。ジャップ、スケベイ、これが
通り言葉です。彼らはあらゆる侮蔑の声でもって迎えてくれます。・・・・・」。

 しかも、彼は松岡と違って、大学は卒業していません。大学の講義を聴講しただけです。

 しかし、清澤洌はこのようないろいろなつらいめにあったにもかかわらず、松岡洋右とは違っ
て、アメリカに対する敵愾心などは持ちませんでした。それどころか、日本はアメリカから学ば
なければならないことばかりだということを、ことあるごとにとなえたのでした。だから、国際連
盟脱退宣言をして凱旋将軍のように帰国した松岡洋右を、きつくいさめる論文を雑誌に発表し
ています。

 同じ年頃に、同じアメリカで同じようなひどいめにあったのですが、松岡洋右はきわめつきの
アメリカ嫌いになって日本を悲劇に陥れ、一方の清澤洌は逆に抜群のアメリカ理解者になって
松岡を批判したのです。 この違いのもとは、じつは清澤洌がこの穂高町に生まれ、育ち、教
育を受けたことにあるのです。


五 井口喜源治先生のおしえ
 彼は少年の頃、研成義塾という小さなキリスト教の学校で、井口喜源治先生から、キリスト教
や儒教の教えを受けました。キリスト教の信者にこそなりませんでしたが、井口先生のおしえ
は彼の一生を作りました。井口先生は、「金や地位や名誉のある偉い人になろうと思うな。誠
実な人、気高い人、良い人になれ」ということを身をもって教えました。
 井口喜源治先生について、彼は次のように言っています。

 少年時代に私に与えられた井口先生の感化は、今なお続いています。私は、井口先
生によって、世の中には、金や地位や名誉よりも大切なものがあることを知りました。そ
れは信念です。私は、過去においても現在においても、正しいことをまげたことはないと
いうことを、恩師の前で申し上げることができます。私は愛する国家のために、正しいと
思うことを主張するのです。時には自分一身の不利を覚悟しながら。

 ですから、彼は、政府のやりかたで日本のためにならないと判断したことについては厳しい批
判をし続けました。けれども、青年の頃には厳しい表現で論じていた彼の評論も、壮年になっ
てからは、国民の幸福を願って読者に静かに語りかけるような調子に変化しています。彼はこ
うも言っています。キリスト教的精神そのものです。

 人間の考えや行いの根底には愛がなければならない。自分と立場が違う人や外国に
対する憎悪に根ざした主義や主張は受け入れられない。意見というものは、単に相手の
欠点を指摘するだけではなく、根底に愛を持って建設的な代案を示すのでなくてはならな
い。

 アメリカでのつらい経験についてさえ、彼はこう言っています。

 昔、アメリカで人種差別による迫害を受けた時には、燃えるような怒りを感じたものだ
ったが、一人でもこのような狭い考えを持つ人を少なくしたいと思うようになった。

 まさに井口先生のおしえそのものです。彼は、アメリカの悪い点を知りながらも、それ以上に
アメリカの建国精神、気高い理想主義に敬服しそれを讃えたのです。そしてそれは、彼が少年
の頃、武士道のような井口先生のキリスト教精神にふれていたせいにほかなりません。


六 清澤洌の憂い
 このようにいろいろと知ってみると、清澤洌のことを、ただ単に、『暗黒日記』という本を書い
た人だとか、『暗黒日記』というのは戦争中の彼の不平不満を書いたものだ、などと考えていて
はいけないことが分かります。
 『暗黒日記』という書名だけが有名になってしまいましたが、あれは清澤洌自身がつけたもの
ではありません。彼が亡くなった後に、出版社が勝手につけた書名です。彼はノートの表紙に、
「暗黒日記」ではなく、「戦争日記」と書いていたのです。
 その戦争日記は、戦争中の彼の私的な愚痴や憤懣を書き記したものではないのです。戦争
が終わったあかつきに、日本再生のための本を書くことに備えた自分だけのメモだったので
す。ですから、そのままの形で出版されることを予想して書かれた原稿ではありません。

 この日記の根底を貫いているものは、真の愛国者・清澤洌の、国を憂える気持ちです。「神
よ、この国を救い給え」という祈りにも似た気持ちなのです。
 彼が戦後まで生きていたとしたら、このノートをもとにして、どのような内容の本を書いたでし
ょうか。当然のことながら、国際的視野からみた日米関係の本当の状況を詳しく解説し、それ
に対する日本政府や軍の判断の誤りを指摘し、そしてさらに、彼らを支えた日本人一般の世
論の誤りも指摘したことでしょう。

 けれども、じつは、彼がいちばん憂えていたことは、日本人がみなもっと賢くならなければい
けない、一人一人が広い視野と確かな判断力を身につけて、ひとにまどわされないで自分自
身の考えをもって行動しなければいけない、ということでした。

 自由主義者・清澤洌のいう自由とは、それぞれの人が勝手気ままなことをやる自由のことで
はありません。一人一人がしっかりした自分の考えをもち、お互いの立場を認め尊重しあい、
自分が他人から支配されないかわりに、自分も他人に対して寛い心で接するという、心の姿勢
や態度frame of mindのことなのです。これは、少年の頃に井口喜源治先生から学び、やがて
アメリカで磨きをかけた彼の信念です。
 今の私たちが、そういう自分の考えや心の姿勢をもっているかどうかと聞かれれば、自信を
もって「はい」と返事をしかねる状況です。
 そういう状況こそが、そもそも日本の社会を悪くしているのだ、というのが清澤洌の考えなの
です。私たちは、清澤洌のおしえ(もとをたどれば井口喜源治先生のおしえ)を知って、こころ
高らかな生活をしたいものです。尊敬すべき大先輩・清澤さんからみたとき、君たちのクラスと
いう社会、この学校内という社会の様子は、はたしてどうなのでしょうか。

 全国から穂高町を訪れる人々は、穂高のこの素晴らしい景色を見るためだけではなく、気高
い姿をした山々の麓に住むこの町の人たちに、美しい夢をいだいて来るのです。

出典
 清澤洌『暗黒日記』岩波文庫
 『清澤洌選集 全八巻』日本図書センター
 北岡伸一『清澤洌』中公新書
 三輪公忠『松岡洋右』中公新書
 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版
 武田清子『日本リベラリズムの稜線』岩波書店
 信濃毎日新聞社『信州の人脈』信濃毎日新聞社
 宮沢正典「清澤洌」『松本平におけるキリスト教』同朋社に所収
 NHKビデオ『映像でつづる昭和史』EMI


  校長講話を聞いて(生徒の「生活記録」から)
◆清澤さんの、「お金より、地位より、名誉よりも大切なものを手に入れた。それは信念です。」
という言葉に胸を打たれた。自分が殺されてしまうかもしれないのに信じた事にはまっすぐ進
む清澤さんはすごいと思った。周りの人や国のこと、日本や自分のことを考えて意見を言える
っていうのは私にはできないから、清澤さんを見習いたい。
    
◆社会科の時間に習ったところが校長講話で話題になったので、聞いていてよくわかった。当
時は戦争色が強かったので、国際連盟を脱退したり、三国同盟を結んだときにヒーローのよう
になっていたけれど、そんな中で穂高町出身の清澤さんが戦争を批判していたと知って驚い
た。どんな状況でも自分の意見や信念を貫ける人はすごいと思った。
    
◆校長講話がありました。戦時中の日本にも、戦争に反対した人がこの穂高町にもいたんだ
と初めて知りました。周りに惑わされずに自分の考えを通し、本まで書いたと聞き、とても立派
だと思いました。
    
◆今日、校長講話で清澤さんという人の話を聞きました。私はこの人はすごいと思います。もし
かしたら殺されてしまうかもしれないのに自分の意見を主張しつづけるなんて私にはできないと
思います。私だったら周りに流されると思います。でも、自分の意見をもって自分なりに主張す
るのは大切なことだとわかりました。みなの前で発表できなくても、自分の意見だけはしっかり
もっていたいです。
    
◆校長先生の話は、一時間聞いていてもあきない。穂高に住んでいるのに、分かっていないこ
とがたくさんあるんだなあと考えさせられます。
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 〈追加資料〉
        清澤洌の日本人観            高坂邦彦

 野茂も、イチローも、大魔神も、どうして、あのように外国人の中で堂々としていられるのでし
ょうか。愛想笑いするわけでもなく、さりとて、顔を引きつらせて、気ばっているわけでもありま
せん。自然体です。降板や三振の場合でも、日本人のやりがちな照れ隠しの苦笑いなどせ
ず、さっぱりとしたものです。
 戦前生まれの私たちの世代は、こうはいきません。外国人は、全然こちらの顔色を読んでく
れないし、譲る姿勢をみせないので、不覚にも、自分の方がたじろいでしまうのです。気おされ
る不快感を我慢できなくなって、間の抜けた薄笑いをしてごまかしたりします。
 負けまいとして、「出てこいっ、大統領!」とか、「アメリカを、ガツンとやったる」などと絶叫し
たりする人もいますが、いざ、本当に出て来られれば縮み上がってしまいます。ボス缶コーヒー
のテレビCMみたいにです。
 これは、外国人たちからみれば、みっともないことなのですが、無意識の行動パターンですか
ら自覚がありません。ビルのガラスに映った自分の姿を見れば、短足で不格好な自分を実感
できるのとは、わけが違うのです。

 清澤洌は、『暗黒日記』の著者として有名ですが、彼の本来の仕事は外交評論でした。今で
いう国際関係論のことですが、それは同時に、日本人論のことでもありました。
 外交の問題は、相手国に関する知識や情報が大切なことはいうまでもありませんが、もっと
大事なことは、それをどう受け止め、解釈し、対処するかということです。これは、日本側の行
動パターンの問題なのです。
 十六歳から二十八歳までのアメリカ生活での見聞や読書などによって、清澤は、国際的な視
野と醒めた判断力を身につけました。ですから、日本人の意識や行動パターンについて、その
欠点を的確にみることができたのです。
 彼は、明治二十三年、北穂高村に生まれ、小学校卒業後は、研成義塾という私塾で学びま
した。この小さな私塾のことを、かの内村鑑三は最大級の賞賛をし、来訪もしています。この塾
の教育でキリスト教精神にめざめた清澤は、牧師か、それに近い生活をする農民になることを
夢みて渡米します。
 ところが、内村鑑三が薫陶を得た、クラーク博士のような人物が多いと期待したアメリカでし
たが、そういう人物はきわめて稀でした。アメリカに対する全くの認識不足でした。
 アメリカでは、日本人が、最下層民族としての屈辱的な扱いを受けて苦労していることも驚き
でした。シアトルには、日本女性の働く風俗店が軒を連ねていました。外国から見た日本は、
想像以上に貧しくて、みじめな国だったのです。

 それなのに、日露戦争の後ですから、日本の鼻息は荒いのです。世間知らずで自尊感情が
強く、アジアの盟主だと威張り、隣国への差別意識と領土欲をむきだしです。アメリカでは、や
がて日本人が世界中にはびこるだろうという、黄禍論が生まれ、日本からの移民を閉め出す
排日移民法も成立しました。
 海外からの視線を知らない独善的な日本は、アメリカの動きに被害者意識と敵愾心を持ちま
した。神がかりのナショナリズム(国家主義)が強くなり、それがまた、うす気味悪がられたので
す。
 「日本には、自分の立場しかない。相手国のことが分かっておらず、相手の事情を理解する
ことができない。劣等感と敵愾心の塊で、一人が痛いというと、全員が痛いと叫ぶ。」
 清澤の外交評論は、こういう日本人たちに対して、根気よくその非を説いていたのです。
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二月
      穂高倶楽部の高き志 ―ゴードン・平林の信念と闘い―

一、日米戦争と日系アメリカ人の立場
 きょうは、昔、この穂高町からアメリカに移民をした人の子ども、つまり、日系二世の、ゴード
ン平林さんの誇りと信念をもった行動について話します。

 君たちもすでに知っているように、日本は、一九四一年十二月八日、ハワイの真珠湾を攻撃
しました。相手は無防備でしたから、大戦果を納め、多くの日本人は大変に喜びました。[ビデオ
映像 真珠湾攻撃 ]
 ところで、当時、ハワイには約十六万人、アメリカ本土にも十数万人の日本からの移民とそ
の子どもたち(日系二世)が住んでいたのです。親たちが子どもたちに誇り高く語って聞かせた
母国日本が、このような仕打ちに出たことに、二世の人たちは大きなショックを受け、悲しみ、
憤りました。彼らは、日本が突然に仕掛けたこの戦争によって、悲劇的な運命を歩まされるこ
とになりました。アメリカ国民から日本に向けられた「卑怯なジャップ」という見方が、そのまま、
彼ら日系アメリカ人にも向けられて、直接的な差別を受けることになりました。アメリカに渡って
から、それまでに受けてきた、言いしれぬ差別や屈辱に耐えながら、営々と築いてきた地位も
財産も剥奪され、砂漠の中に作られた強制収容所に送られたのです。[ビデオ映像・アリゾナの日
系人収容所]
 日本政府は、彼らがこういう立場に陥ることなど何ら考慮せずにハワイを奇襲したのです。
 日系人たちは、母国日本から棄てられたというだけでなく、アメリカ人たちから彼らにそそが
れた、「卑怯なジャップ」という汚名を晴らさねばなりませんでした。「自分たちは、けっして卑怯
者ではない、アメリカの国籍を持つ忠誠なアメリカ人である」ということを示すには、日本人では
ないということを、行動で表さねばなりません。
 こういう想いの日系二世だけの軍隊、「第一〇〇大隊」と「四四二連隊」が結成され、ヨーロッ
パ戦線の最前線に出されました。彼らは、白人部隊なら命令をされないような、激しい戦闘ば
かりを受け持たされました。当然に死傷者も莫大なものでした。ドイツ軍に囲まれた二〇〇人
の白人部隊を救出するために、一四〇〇名の日系米兵が死傷したこともあります。隊長だけ
は白人の将校でしたが、あまりに激しい戦闘が続くので、戦死したり発狂したりで、十三名も交
代しました。最終的に、五〇〇〇人の部隊のうち、生き残って凱旋パレードに出られたのは数
百名だけでした。
 彼らは、親の母国である日本から裏切られた憤りと、住んでいるアメリカからは忠誠を疑わ
れた悔しさをバネにして、勇敢に闘い、向かう先々でめざましい戦果をあげましたから、ほどな
くしてアメリカ人たちから信頼と賞讃を得るようになりました。

  [ビデオ映像 ナチス強制収容所解放の様子] 彼らの部隊は、常に危険な最前線を進んで行きまし
たから、この悲惨なユダヤ人強制収容所をダッハウで真っ先に発見して、鍵を外し扉を開けユ
ダヤ人を解放したのも日系人部隊だったのです。日本とアメリカの両方から偏見と差別を受け
た日系二世たちが、強制収容所で凄惨な虐待をされていたユダヤ人を救い出したのは、象徴
的な出来事でした。けれども、慎み深い日系人たちは、そのことを自慢して手柄話をするような
ことなどはしませんでした。それどころか、強制収容所のことを聞かれた人は、その時の悲惨
な光景を思い出しただけで涙があふれ、声がつまり、顔がゆがんで言葉が出なくなるのでし
た。   
 二世たちは、アメリカ国家に対して、他の国からの移民たちの数倍の忠誠心を示し、言いし
れぬ忍耐をし、大きな犠牲を払わねばならなかったのです。 
  日系アメリカ兵の軍隊、第一〇〇大隊と四四二連隊の生き残った勇士たちを前にして、トル
ーマン大統領が行ったスピーチは、彼らが何と戦ったのかという重くて深い意味を明快に表し
ています。

諸君は、自由諸国のために我々とともに戦った。合衆国が、諸君の成し遂げたことに対
してどれほど感謝しているか、言葉で言い表すことはできないほどである。
 また、諸君は、敵とだけでなく、偏見とも闘い、そして勝ったのだ。その闘いを続け給
え。そうして、この偉大な共和国の建国精神を実現するための闘いに勝ち続けるのだ。

 最近の例をあげれば、第二次大戦五十年後の記念パレードで、第一〇〇大隊と四四二連隊
の七十歳をこえた退役軍人たちの行進に対してだけ、クリントン大統領は起立して敬礼をしま
した。彼らが、アメリカでいかに高く評価され、尊敬されているかということを物語るエピソードで
す。 


〈追加資料〉日本人は、日系アメリカ人たちの、このような、痛ましい犠牲と血みどろの努力を
どう思っているのだろうか?。日系米兵の手記を集めて編集した、ハワイの僧侶・荒了寛は、
深い哀しみと憤りを込めて、次のように書いている。 

 パンチボウルは、第二次世界大戦をはじめ、朝鮮戦争や、ベトナム戦争で死んだ兵士
の霊が眠る、アメリカ合衆国の国立墓地である。・・・・・・ホノルル市を一望する、眺めが
素晴らしいオアフ島の名勝の一つとなっていて、一日数十台の大型観光バスが訪れる。
 真珠湾奇襲五〇周年記念の年、例年のごとく、パンチボウルに集まって、仏教連盟主
催の追悼を行っていた。・・・・・法要の最中に、日本人観光客を乗せた大型観光バスが
入ってきた。たちまち、二十数台が中央の参道に並んだ。・・・・バスが着くたびに、どっと
観光客がはきだされる。広い参道も、たちまち雑踏と化した。私たちの法要は三〇分ほ
どで済むのだが、その間じゅう、石段を上り下りする観光客は、嬌声をあげながら階段
を通って行く。
 私は法要の途中から、この観光客のことが気になりだした。誰か一人ぐらい手を合わ
せる人はいないのか、私は読経しながら、観光客のようすを見守っていた。他の僧侶た
ちも同じ思いであったろう。しかし、ついに手を合わせるとか、黙祷を捧げるとかいう客の
姿は皆無であった。
 観光に来たのだから、霊園も、法要も、真珠湾攻撃五〇周年も、関係ないよ、と言わ
れればそれまでだが、しかし、その国の人たちの痛みや悲しみを秘めた、いわば、その
土地の聖域に足を踏み入れたからには、信仰や信念にかかわらず、それなりのたしな
みというものは持っていてしかるべきであろう。しかも、この墓地には、日本人の真珠湾
攻撃ではじまった戦争のために、ヨーロッパ戦線や太平洋の戦域で戦い、死んでいっ
た、同じ血が流れている日系二世の兵士たちの霊が眠っているのである。手を失い足を
斬られ、あるいは病を得て、やっとこの島に帰ってから死んだ兵士は数千にのぼる。
 階段の最上段には、若き兵士を象徴する、空を衝くような白亜の神殿が建っていて、
その台座は五〇人ほどが入れる礼拝堂になっている。・・・・どの宗教の人でも礼拝でき
るようになっている。見ていると、数人の中年の婦人が入っていった。しかし、あわてて出
てきた。トイレと間違えたのである。何組もが同じことを繰り返している。
 法要が終わって、祭壇を片づけ、他の僧侶たちと一緒に、私たちは、みな、言葉もな
く、パンチボウルを出た。ゲートを出るときに、一瞬、車の中から見た、観光客の群を凝
視している衛兵の悲しみの目を、今でも、私は忘れることができない。
 ・・・私には、現地の人の心の悲しみや痛みに無関心な日本人観光客の態度と、日系
移民が十数万人もいたハワイに、奇襲攻撃をかけ戦果をあげたと喜んでいた、開戦当
時の日本人の感覚とは、無関係ではないように思えてならないのだ。・・・日系移民は棄
民だったのか。(荒了寛『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか?』p16〜p18 )
 (註 その後、パンチボウルは、観光バスからの下車禁止場所に指定された。「たしな
み」を欠いた日本人観光客たちの、恥ずべき所業のせいで、規制が必要となったのであ
る。


二 ゴードン平林の信念と闘い                       
 [静止映像 ゴードン平林夫妻]この写真の人は、明治時代の末に、穂高町からアメリカに移
民として渡った平林俊吾という人の息子、ゴードン平林さんです。苦学を重ねた末に博士号を
取り、最後にはカナダのアルバータ大学・社会学部長を務めた学者です。前にいる女性は、ゴ
ードン夫人のエスターさんです。
                                                        
(註、エスターさんの父親フロイドさんは、平和運動家として有名な人です。原爆が落とさ
れた直後の広島に来て、「アメリカが犯した罪を償う意味で、せめて被爆者のための家
を作らせて下さい」といって何軒もの広島ハウスを建てました。広島市の名誉市民になっ
ていますし、平和式典にも招待されています。)
 
 ゴードンは、四四二連隊の軍人たちとは別の形で、日系人の名誉のため、人間の尊厳を守
るために闘いました。排斥され、差別され、隔離された日系人の立場に深い悲しみと憤りを覚
えた彼は、「二流国民の立場に甘んじるか、さもなくば刑務所に入るか」と思いつめていたので
す。収容所行きの命令には従わず、また、夜間外出禁止令にも従わずに無視しました。結果
として裁判にかけられ、有罪の判決を受けて刑務所に入れられました。「私はアメリカ市民であ
る。それを強制排除し、また、他の人種と差別して夜間外出禁止にするのは、明らかに憲法違
反である。」ゴードンの主張はこの一点にありました。
 アメリカ憲法は、アメリカ独立宣言の理念に基づいて一七八七年に定められたものです。そ
の後、必要に応じて修正箇条が付け加えられてきました。一八六八年の修正第一四条では次
のような重要な内容が明記されました。

【修正第一四条第一項】 合衆国において出生し、または帰化し、その管轄権に服する
全ての人は、合衆国およびその居住する州の市民である。いかなる州も、合衆国市民
の特権または免除を損なう法律を制定し、あるいは施行することはできない。また、いか
なる州といえども、正当な法の手続きによらないで、誰からも、生命、自由、または財産
を奪ってはならない。

 つまり、日系アメリカ人を対象とした強制排除令と夜間外出禁止令は明白な憲法違反なので
す。

 「私は、この憲法精神にのっとって、個人の良心に基づいて行動しました。誰にも、生命、自
由、幸福の追求をする権利があると信じていたからです。同じように考えている日系アメリカ人
が多いと思っていましたが、結果的には私ひとりだけでした。」
 「お母さんがね、涙を流しながら言ったのです。おまえが政府の命令に反対する理由はよくわ
かる。でも、今は戦争なのよ。政府に反対したら銃殺されるかもしれない、そうでなくても家族
がバラバラになってしまうと困る。この際、気持ちを静めて家族で収容所へ行ってちょうだ
い・・。 つらかったですね。私は両親を説得することから始めなければならなかったのです。政
府の命令に従うのは私の良心が許さない。一生後悔することになる。それよりは、たとえ刑務
所に入ろうとも自分の信念に従って行動しようと決めたのです。」

そしたらなんと、ワシントン州議会のファークハーソン議員が、こう申し出てきました。

 「大統領令は明らかに不正な命令です。ゴードン平林防衛委員会を結成して、あなたをでき
るかぎり支援します。これは、あなた個人の闘いではなく、アメリカ市民の正義の闘争なので
す。」

 この委員会に加わった人たちは、大学教授、ゴードンの友人の学生などで、全員が白人でし
た。彼らは、ゴードンの弁護士費用などを負担してくれました。この戦争ではアメリカ兵の死傷
者の数も膨大なものでしたから、アメリカじゅうが「卑怯なジャップ」「日本憎し」と思っていた時
代です。言うまでもなく、陪審員もみなそうでした。ゴードンは裁判に負けて服役しました。

 それから四十五年後の再審(やり直し裁判)の法廷で、ゴードンは、毅然として格調高 く陳
述しました。

 「最初に排除命令に逆らうことを決意した時から、アメリカ市民として憲法が私を守って
くれることを期待しました。私は、あの時の裁判に敗れた後でも、憲法に対する信頼はも
ち続けてきました。
 今度の裁判は、私だけのものではありません。日系アメリカ人だけのものでもありませ
ん。アメリカそのものが裁判にかけられているのです。」

 学者として、一貫してインディアン差別や、憲法と民主主義の問題について研究を重ねてき
たゴードンは、世界の模範的憲法と思われている合衆国憲法の運用について論点をしぼりま
した。大統領の発した強制排除令によって、彼の投票権が奪われたことは、合衆国憲法修正
第一五条に違反するものであると主張したのです。「合衆国市民の投票権は、人種、体色、過
去における服役等によって、拒絶や制限をされることはない」という条項です。

 「この再審請求は、合衆国に対する私の忠誠が疑われたために、その潔白を示す目
的で提出しました。憲法が保障する公民権の中で、果たすべき義務のひとつは投票権で
す。私は、選挙権を得た年齢から必ず投票をしてきました。けれども、強制排除令で刑
務所に入れられている時は、この義務を果たすことができませんでした。
基本的人権と社会正義を保障するはずの憲法は、それがもっとも必要とされる危機状
況の時に、それを護ろうという市民の覚悟がなければ、単なる紙くずになってしまうので
す。
 政府の命令に従うか、違反するかという問題に直面したとき、私には、違反の途しかあ
りませんでした。私の人生哲学と、よき市民であり続けたいという信念は、憲法上の保障
があってこそ、かなえられるものです。アメリカ市民としての私の権利が侵され、刑務所
入りの途しかないというのは、アメリカが、建国原理を放棄したことです。」

 それにもう一つ、両親が、逮捕状もなしに刑務所に入れられたことも憲法違反である、と主張
しました。

 「政府側証人として召喚された両親は、私の支援者の家に泊まることを許されずに、刑
務所に収監されました。政府は、日系アメリカ人に対する人権侵害を正当化するため
に、両親を、私の支援者に近づけなかったのです。政府が、私の憲法上の基本的人権
にまったく配慮していなかったからです。
 私の両親に対する政府の冷酷非情さは、私の心の底まで意気消沈させる衝撃でした。
両親を刑務所に収監したという事実は、今日まで私の心の深い傷として残っています。」

 ここまで陳述したとき、ゴードンはこみ上げてきて言葉に詰まってしまいました。満員の傍聴
席からは、すすり泣きの声が聞こえました。
 一九八六年に連邦地裁は、四五年前の強制排除命令に違反したという原判決を破棄して、
ゴードンを無罪としました。また、日本人と日系人だけに出された大統領の夜間外出禁止令に
ついても、翌八七年には憲法違反であるとの判決もあって、ゴードンは晴れて完全無罪となり
ました。
 ちょうど、一九八七年はアメリカ憲法制定二〇〇年の年だったので、人々の関心は憲法に向
いていました。ゴードンのこの働きを記録したドキュメント映画『終わりなき闘い』unfinished 
business はアカデミー賞の候補作になりましたし、多くの憲法特集号の雑誌、テレビなどは、あ
の有名なマーチン・ルーサー・キング牧師のスピーチと並べて、ゴードン平林の陳述を取り上
げました。
(ゴードンは、この他にも、徴兵忌避をしたので、この罪で一年間の服役をしています。ゴ
ードンが忌避した理由は、「アメリカ人としての公民権を認められず、忠誠心まで疑わ
れ、差別されている日系人には、徴兵に応じる義務はない」というものでした。これにつ
いては、すでに、終戦直後の大統領恩赦によって前科が取り消されていました。
 二千八百名が、強制収容所から軍隊に入りました。ゴードンと同じ理由や、父母の祖
国・日本を相手に闘うことはできないという理由で、徴兵忌避をした日系二世は三百十
五名だけでした。)


三 キング牧師の「夢」
 キング牧師と聞いても、君たちには遠い昔の歴史上の人物としか思えないかもしれません
が、私たちの世代の者は、ゴードンがキング牧師とならんで雑誌やテレビに取り上げられたと
聞けば、それだけで彼の働きの大きさを思います。
       
(ここで話したキング牧師の公民権運動については別頁)


四 穂高倶楽部の志と祈り
 ゴードン平林は、アメリカ国家から何の庇護も受けられず、却って、反逆者であるとみなされ
て刑罰を受けたのでした。それが、四十五年後の再審裁判で無罪の判決を得ることができた
のは、ゴードンの努力のたまものですが、日系人たちそれぞれが言いしれぬ努力をしてきたこ
と、それに、いまビデオで見たような、キング牧師らの公民権運動による、アメリカ社会の変化
のおかげでもあります。
  じつは、アメリカは、建国以来、差別と迫害を繰り返してきた国なのです。そもそも、最初に
アメリカ大陸に渡ったのは、イギリスで迫害にあっていたピューリタンたちでした。彼らは、次に
やってきたアイルランドのカトリック教徒たちを迫害しました。その後、フランス、ドイツ、イタリ
ヤ、オランダ、ポーランド、ロシア、中国からの移民者が、順々に差別・迫害のターゲットにされ
てきたのです。
 元から住んでいたアメリカの原住民は、インディアン(インドの人)と呼ばれ、開拓者たちを妨
害する凶悪な種族だと決めつけられて、騎兵隊に殺戮されました。西部劇映画の元祖のような
『駅馬車』は、凶悪な酋長ジェロニモと開拓者たちの闘いが描かれていますが、これは歴史の
事実とはなんの関係もありません。ジェロニモは、こう嘆いています。

 「私は、家族といっしょに平和に暮らしていた。食べる物は豊富だったし、よく眠り、一
族の面倒をみ、完全に満足していた。・・・・私は正しくふるまい、馬も人も殺しはしなかっ
た。
 いったい、私が何をしたというのか? 私は家族と平和に暮らし、クルック将軍が言っ
たとおりのことをして、彼の忠告に従っていた。私は光と闇に祈り、神と太陽とに祈って、
家族とともにそこで静かに生活させてくれと頼んだ。なぜ、人が私のことを悪く言うのか
わからない。私を逮捕しろと命令したのは誰なのかを知りたい。」 

 日本や中国からの移民は、インディアンがほぼ殲滅された後に始まりましたから、かっこうの
ターゲットになってしまいました。日本からの移住者たちは、先に移住していた白人たちからの
最下層の扱いを耐え忍び、低賃金をいとわず勤勉に働きましたから、やがて、経済的に成功
する者が多かったのです。農地を手に入れ、立派な家を建て、店舗を構えることができまし
た。
 これが、却って災いしました。先に移住してきた者たちにとっては、職が奪われ、土地が奪わ
れるという結果になったのです。そこで、日本からの移住者たちを標的にした、差別的な法律
や制度が次々と作られました。
 穂高町からアメリカへ渡った人たちも、この被害をもろに受けました。一世の人たちはアメリ
カ市民権を得ることができませんでした。せっかく買った土地を、後から作られた法律で没収さ
れたりもしました。
 こういう仕打ちにあえば、普通の人たちは負けてしまいます。性根も曲がってくるでしょう。け
れども、研成義塾出身の穂高からの移民者たちは違いました。アメリカへの出稼ぎではなく、
無教会派キリスト教の信仰をもって、アメリカに「神の国」を築こうと志して集団で渡米したので
す。ですから、彼らの心には太い支柱、大きな志があったのです。
 彼らは、この志をまっとうできるようにと、「穂高倶楽部」という名の会を結成して互いに励まし
合っていました。リーダーだった勝野庄一郎さんは、こう祈っています。

 「井口喜源治先生は、こう言って私たちを送り出しました。神は、かの地にもおられる。
つねに、神を畏れて人を恐れず、正義のために堂々と闘い、弛みなき勤勉をもって活動
せよ、と。
 その言葉の如く、私たちは、神を畏れて人を恐れず、多くの試練に耐えてきました。神
が、私たちを愛して下さったからです。神は愛なり。・・・・・アーメン。」

 人間は誰しも、世間の人たちから嫌われたくはない、誉められたいという気持ちがあります。
けれども、物事の判断の基準をそこだけにおくと、とんでもない間違いを犯してしまうことがあり
ます。
 例えば、いじめや差別はいけないことだとわかっていても、仲間から嫌われたくないので、一
緒になっていじめをするというようなことです。
 けれども、それは、神様の目からみたらとんでもない間違いです。井口先生のいわれた「神
を畏れて人を恐れず」というのは、そういう間違いをしない「善き人」でなければならないという
意味です。
 平林利治という人の息子さんは、戦後、アメリカ政府の外交官として高い地位まで出世しまし
たが、次のように語っています。

 「子ども時代、生活は貧しく苦しかった。クリスチャンとしてのしつけも厳しかった。でも、
貧しい生活のなかから、子どもたちは両親が期待した以上の善き人になっていった。・・・
父は、つねに井口喜源治への尊敬とその教えを私たちに言い聞かせました。父が愛読
していた内村鑑三全集は今でも家宝として保存し、それを誇りに思っています。」

 このような、「善き人でありたい」という志と「誇り」、これが穂高倶楽部の人たちを支えたので
す。そして、人々から信頼と尊敬を得ることができたのです。
 その一つの例を話しましょう。当時、結婚のために移民する日本の女性は、本人に会うことも
なく結婚相手を決め、和服姿で渡米しましたから、アメリカ人たちからは人身売買のように誤解
され、それがまた差別の種となりました。
 けれども、穂高からの女性たちは、教会に行くかのような服装で、心身ともに凛とした姿勢で
気品がありました。[ビデオ映像 穂高町からの移住女性たち]
この写真は、穂高町から結婚のために移民した女性たちです。ゴードン平林さんの母親は、こ
の写真の後列真ん中の人です。

 ゴードンさんは、昭和六三年十月八日、穂高町で講演をしていますが、その時に、この母親
について、あまり上手ではない日本語で次のように語っています。

アメリカの憲法には、どの国から来ても、どの宗教を信仰していても、肌の色がどうであ
ろうとも、市民(国民)は、みな同じだと書いてあります。けれども、シアトルと西海岸で
は、日本人や中国人排斥が激しくて、毎日のようにいじめられました。
 お母さんが私に教えました。「私たちを排斥している人の方が、恥ずかしいことをしてい
るのです。私たちは、何も悪いことはしていないのだから、頭を垂れずに胸をはってやり
なさい。おまえの生い立ちは、日本の深い文化ですから、排斥する人たちよりも立派な
文化なんだから、恥ずかしいことはないから、いくら排斥されても、めげないで元気を出
してやりなさい」と言いました。
 「アメリカで生まれてアメリカで育つのだからアメリカ人になるしかない。だったら、二級
品のアメリカ人ではなく、第一級のアメリカ人になりなさい」と言いました。

 考えてもみて下さい。まだ明治時代の女性が、こういう考えをもっていて、子どもに言い聞か
せたのですよ。今の人たちのように、学校での高等教育なんか受けたわけではないのです。研
成義塾でわずかばかりの間、学んだだけなのです。何を学んだかということですが、それも、
次のような、ゴードンさんの話から察しがつきます。

お父さんとお母さんは、「あれしなさい、これしなさい」とはあまり言いませんでした。
ただ、「誠実にしなさい」ということはいつも言いました。「教会へ行く日曜日だけ誠実では
だめ。毎日、誰にも誠実にしなさい」、とよく言いました。家で親のやることを見ています
から、それで、私は正直になれました。
 両親は、井口喜源治先生と内村鑑三先生のことをよく話してくれました。お父さんやお
母さんの精神には、井口先生や内村先生が入っていると思います。そういう両親を見て
育ちましたから、私が何か決断するときには、井口先生や内村鑑三先生の考えが入っ
ていると思います。

 内村鑑三という人は、明治大正期の文化人に大きな影響を与えた偉大な宗教家・思想家で
す。穂高倶楽部の人たちの心の支えだった井口先生が、内村鑑三を心から尊敬していました
から、穂高倶楽部の人たちも内村鑑三を心から尊敬したのです。内村鑑三も、井口先生と研
成義塾を大いに認め励ましていました。
 内村鑑三の直弟子ともいえる南原繁、矢内原忠雄という思想家は、ともに東大総長を務めま
した。地位が高いというだけでなく、立派な人格者でしたから、誰からも尊敬されました。内村
鑑三の弟子だということは、つまりそういうことなのです。尊敬された内村鑑三はもちろん偉い
けれど、彼を尊敬した穂高倶楽部の人たちの誠実な生き方というものに注目すべきでしょう。
シアトルの穂高倶楽部というのは、内村鑑三の提唱した無教会派キリスト教の海外唯一の集
会所だったわけで、これは驚くべき偉大な事実なのです。
 ゴードン平林さんは、日系三世の人たちから敬愛されていますが、それは、単に日系人の名
誉のために努力したからというだけではなく、「アメリカは独立宣言の精神を実現すべきだし、
できるのだ」という高い理念を指し示したからなのです。その元をたどれば、内村鑑三や井口
喜源治先生の教え、穂高倶楽部の人たちの高い志と祈りであったということになります。

 今までの話で、君たちが、アメリカについて誤解するといけませんから、念を押しておきます。
 アメリカからみれば、日本の方が、人種や国籍について厳しい差別をしているのです。日本
は、移民はもとより、難民や政治亡命を認めてはいませんし、外国人の子どもには、日本で生
まれたとしても、そう簡単には日本国籍を与えていません。宇多田ヒカルが、アメリカで生まれ
たというだけでアメリカ国籍をもっているのとは大きな違いです。国籍を与えないということは、
憲法の保障する公民権も与えないということです。そもそも、ゴードンさんのような主張そのも
のが、日本では初めから成り立たないのです。
 アメリカは、もともと、多くの人種の移民で成り立っている国です。さまざまな人種・民族、さま
ざまな言語や宗教や風習、異質なものが雑居しているのです。ですから、たえず差別の問題に
直面しながら生活しています。アメリカがかかえる人種問題は、私たちが想像するよりも、はる
かに複雑ですし、それだけに、それへの取り組み方も真剣なのです。かつてのインディアン差
別の西部劇映画も、現在では、歴史の事実を正しく描き、白人の方こそ、約束を破り、暴虐の
限りをつくしたことの非を描いている『ソルジャー・ブルー』や『ダンシング・ウィズ・ウルブズ』の
ようなものに変わってきています。
 
 アメリカの独立宣言や合衆国憲法の謳っている民主主義と自由と平等は、あくまで最終の目
標であり、理想なのです。その目標の実現に向かって困難な現実と闘っているかぎり、理想や
目標は現実以上の意味を持つのです。
 ゴードン平林は、アメリカ合衆国に対して、このことを改めて呼び覚まさせたのです。大統領
は、戦時中のアメリカ政府がやった日系人差別についての謝罪文を発表し、収容された全て
の日系アメリカ人に対して、二万ドルずつの補償金を支払いました。失った資産や味わった苦
痛を補うにはあまりにも微々たる金額ですが、日系アメリカ人の名誉を回復した意義深いこと
でした。
 君たちには、このことが当然のように思えるかもしれませんが、国家というものが国民に対し
てこういうことをしたのは、世界でも初めてのことなのです。それも、ゴードン平林さんの長い間
の闘いがあったからのことなのです。
                                         
 『アメリカ・ザ・ビューティフル』(「麗しきアメリカ」)という素晴らしい歌があります。これは讃美
歌ですが、アメリカでは各種の催しものの開会式で歌われ、まるで国歌のような扱いをされて
います。アメリカ人の先祖たちは、世界各地から、祖国での迫害や貧困から逃れて、アメリカ
大陸という「自由の新天地」「神の約束の地」にたどりつき、営々と自分の人生や地域社会を築
きあげてきました。この歌には、そんな祖先(ピルグリム・ファーザーといいます)や神を敬う、
アメリカ人たちの気持ちが込められているのです。人種や、民族や、文化の違いを越えて、み
んなが歌う時、静かで瞑想的な雰囲気が高まり、人々の心は一つにつながって、深い感動を
おぼえるのです。
 この歌のキーポイントは、「私たちはみな神の恵みの下にある。神の恵みの下にあるお互い
には愛があるはずだ。愛がなければならない」ということです。

 私の好きな黒人ジャズ歌手レイ・チャールズは、これを、ソウル・ミュージックふうに心を込め
て歌っています。
 今これから、AETのエイドレン先生に、レイ・チャールズそっくりに歌っていただきます。ヴォ
ーカルはハート・エイドレン。ジャズ・バンドは、ピアノ臼井学先生、キーボード田島立子先生、
ベース中村雅至先生、ドラムス小林かおる先生、トランペット中澤貴子先生、トロンボーン鈴木
智春先生、サックスは生徒会長高山優子さんのお父さん・高山正和さんです。それでは、お願
いします。



出典
  宮原安春『誇りて在り―研成義塾アメリカへ渡る―』講談社
  同志社大学人文研編『松本平におけるキリスト教』同朋舎
  猿谷要『物語・アメリカの歴史』中公新書
  辻内鏡人 中條献『キング牧師』岩波ジュニア新書
  荒了寛『ハワイ日系米兵』平凡社


本稿は、おもに、宮原安春著『誇りて在り―研成義塾アメリカへ渡る―』によって記述したもの
です。
  本稿を書くにあたって、宮原氏から詳細なご指導を頂きました上に、本書への大幅な引用転
載を許諾して頂きましたことに御礼申し上げます。なお、宮原氏の本は、現在品切れ中です
が、穂高中学校閉校記念誌『孜々として』に、宮原氏によって、新たに短く書き直されたものが
掲載されています。



         麗しきアメリカ (America the Beautiful)     (意訳 高坂)

ああ 麗しき大空 黄金色の麦の穂波   
実り豊かな平原 聳ゆる紺碧の山々 西と東の大海原          

アメリカ アメリカ                  
神は、この国に恵みをもたらし
神の御心 兄弟愛を授け給う    

ああ 讃うべき先人たちよ 己が身よりも ひとを慈しみ     
後の世の我等を想いて 艱難を克え郷土を創れり    

アメリカ アメリカ  
全ての者は凛としてかく在れかしと 
神は 我等に黄金の腕を授け給う      

目次へ


三月
            高き想い、慈しみの心 ―荻原碌山の芸術と人生― 



一 碌山と黒光の物語
 きょうの校長講話は、荻原碌山の芸術と、彼の人生についての話です。
 まず、この画像を見て下さい。碌山の『女』という作品ですね。[画像・『女』]
碌山は、これの完成とともに命が燃え尽きて亡くなったのです。三十歳という短い命でした。
(註、評伝等の三十二歳というのは昔の数え方による年齢で、満年齢は三十歳である。)
 皆さんは、今までに本で読んだり、誰かから聞いたことがあると思いますが、これについては
興味ぶかい物語があるのです。

 新宿駅東口のすぐそばに、中村屋という有名なお菓子店があります。全国的にも有名なこの
菓子店をつくったのは、穂高町出身の相馬愛蔵という人でした。この人はとてつもなく器の大き
い人でした。現在、ここ安曇野は、独特の文化的風土を誇っているのですが、そのもとを作っ
たのは、相馬愛蔵とその仲間たちだったのです。
 愛蔵の器の大きさを見込んで、東京から嫁入りしたのが黒光という人です。この写真の人で
す。[画像・相馬黒光]
 彼女は、その頃の最先端の文化と教育水準を誇っていた、東京の明治女学校を卒業した才
媛(優れた女性)で、普通なら、江戸時代のままのような、当時の田舎に嫁入りするような人で
はありませんでした。
 愛蔵の兄さんの相馬安兵衛という人が、またスジのとおった大物でした。弟の愛蔵が、当時
の田舎には似つかわしくないハイカラなインテリでクリスチャンの黒光という女性と結婚したい
と相談すると、「よかろう、もらってこい」と返事をしました。そして考えました。

「弟の愛蔵のもとには村の若い衆が慕って集まってきている。日本は新しい時代を迎え
た。この山国の庄屋の家に集会所を作ってやれば、相馬家の若い跡継ぎ夫婦のもと
に、若い衆が集まり、やがて、この田舎にも新しい風が吹くだろう。嫁はハイカラさんだと
いうから、ひとつ、とびきりの洋館を建ててやろう。」

 彼は、わざわざ横浜へ行って、自分の目で西洋式の建物を見てまわり、帰ってきてから自分
で設計図を描いて建てさせました。格式の高い立派な洋間ができました。
       [画像・相馬家洋間]
 この洋間が今日の安曇野文化発祥の拠点となりました。あの有名な研成義塾を作ることを
考えたのは相馬愛蔵とその仲間たちですし、建設資金や知恵を出して具体的に助けたのは兄
の相馬安兵衛なのです。最近出版された『相馬黒光』(集英社)という本や、堀金村出身の臼
井吉見という作家が書いた『安曇野』(ちくま文庫)という小説には、そのくわしい事情が書かれ
ています。いつかは読んでみましょう。
 弟の相馬愛蔵という人は、後輩の面倒をよくみ、後輩たちから慕われました。兄の安兵衛は
愛蔵のやることを大きな気持ちで支え、精神的にも経済的にも支援しました。

 碌山は本名を荻原守衛という青年でしたが、先輩の愛蔵を慕い、愛蔵も後輩の彼を可愛が
り面倒をみました。守衛青年は尊敬する先輩・愛蔵の新妻・黒光の魅力的な美しさと教養の高
さに憧れました。黒光が東京から持ち込んだ新しい時代の考え方は、若い守衛に大きな影響
を与えました。
  その黒光が嫁入りの時にもってきた油絵が、この洋間に飾ってありました。当時の田舎には
大変珍しい貴重なもので、守衛青年にとっては新鮮な驚きでした。彼はこの油絵を見て、画家
になることを志したのです。
 その後、相馬夫妻は東京に出て、中村屋を開業し、成功しました。碌山が外国から帰ってき
た時は、大きな店になっていましたから、碌山は彫刻の制作に疲れると、そこへ行って相馬夫
妻や子どもたちと語らっていました。

 その相馬黒光が自分の子どもをつれて碌山のこの像を見にきた時に、子どもが「あっ、かあ
さんだ」と言ったというのです。 黒光は、碌山が自分のことをつくったのだとわかって息が詰ま
る思いがしたと言っています。自分でそう言っているのです。[画像・『女』] この作品のモデル
は岡田みどりという別の人でしたから、黒光がモデルをやったという意味ではなくて、自分への
憧れや恋の気持ちを碌山が作品にしたというわけです。
 碌山が自分のいろいろな想いを書きつづった日記があったけれど、黒光は碌山の秘密を守
ってやるためにそれを焼き捨ててしまった・・・・・・・。その様子を見ていた碌山の親友の戸張弧
雁という人が、泣きながら、黒光のことをヘッダ・ガブラーだと言った・・・・・。ヘッダ・ガブラーと
いうのは、イプセンという作家の劇の脚本に出てくる女性で、魅力をふりまいて男を惑わす人
の名前です。黒光はまさにそういう類の女性でした。
 つまり、碌山は、ヘッダ・ガブラーのような魅力をもった黒光を慕い、憧れ、恋こがれて、傑作
『女』を作ったのだということになります。話としてはたいへんによくできた話で、碌山について
語られる時には必ずこのことが話されます。

 私は、世間の人々に知れわたっているこの物語を、今まで長い間そのまま受け取ってきたの
ですが、近頃は、「どうも変だな。このできすぎた話によって、碌山のほんとうの苦労がわから
なかったり、作品の価値が貶められているのではないか」と思うようになりました。

 黒光は、この作品を「なまめかしい」と言いました。なまめかしいというのは、色っぽいというこ
とです。この作品が色っぽいですか。皆さんはそんな変なことを感じますか。うまくは説明でき
ないけれど、もう少し気高い何かがあると思いますよね。また、黒光はこの作品は「封建時代
の女性の悩み」を表したものであるとも言いました。そうでしょうか。
 君たちも自分でやってみればわかりますが、このポーズは現実には無理な苦しいポーズで
す。けれども、見た目にはとても美しく感じますし、見る人の心を打つ何かがあります。碌山は
自分のすべてを表現するために、このフォルムの追究に文字どおり命をかけたのです。
 ですから、この作品は、黒光との恋愛物語や、男女間のスキャンダルめいたことなんぞを頭
に置かずに鑑賞しないと、作品の本当の価値がよくわからないのではないかと私は思います。


二 芸術は人格の顕れ
 碌山は、品格の高い芸術を生み出せるように、自分の人格を作りあげる努力をし続けて、三
十歳の命を燃焼しつくしたのです。晩年の碌山が信頼する人に送った手紙があります。[字幕
の画像]

蕾にして凋落せんもまた面白し。天の命ならばこそこれ亦せん術なし。
ただ人事の限りを尽くして待たんのみ。
事業の如何にあらず。心事の高潔なり。涙の多量なり。以て満足すべきなり。

 私の人生が、このまま花開かずに蕾のままで終わってしまってもよいのだ。天の決めたこと
だと思えばよい。自分はできるかぎりの努力をするだけである。自分にとって大切なことは、よ
い作品ができるとか、できないとか、そういう問題ではない。どれだけ、高く潔い心をもち続ける
ことができるか、どれだけ、人のために涙を流せるかということなのである・・・・・。

 碌山研究の専門家・信州大学の仁科惇先生(現在は碌山美術館長)は、こう書いています。
 「なんという研ぎ澄まされた言葉でしょうか。一瞬一瞬を精一杯に生きた者だけが到達できる
悟りの境地です。心の清らかさは人の目には見えません。人知れず流す涙も人の目にはわか
りません。しかし、ほんものの美しさというものはそういうところに宿るものなのでしょう。それ
は、けっして華々しくはなく、ひっそりと野に咲く花のようにです。」(仁科惇『碌山三二歳の生
涯』p7〜8)

 碌山の『女』は、こういう高潔な人格の象徴というべきものなのです。「芸術は人格の顕れな
り」というのはこういうことを意味します。
  じつは、この手紙の受取人は片岡當という女性です。彼女は、碌山の芸術と人生について、
よく理解していた人でした。碌山が穂高から出て、東京の明治女学校の校長先生にお世話に
なっていた若い頃に、清い交際が始まりました。
 その後、碌山がアメリカに渡って美術の修行をしている時、あまりの生活の苦しさに耐えかね
て「これ以上は無理だ、美術の修行はもう止めよう」と思いました。ところが、彼女からの心の
こもった励ましの便りを受け取ったので挫折せずにすみました。回数重なる文通の間には、彼
女の方が碌山から励まされたこともあったようです。
 碌山が外国から帰ってきた時、彼女は、故郷の岡山で女学校の先生をしていました。新聞で
碌山の死を知って彼女の心はちぢに乱れました。けれども、それを表に出すことなく、誰に語る
こともなく、遠くの岡山で一人で一ヶ月の喪に服しました。毎日の仕事は滞りなく進めましたが、
魂は抜殻のようでした。
 やがて思い立ち、昔、碌山が、アメリカへ発つ前に井口喜源治先生といっしょに登った富士
山へ追悼登山をしました。その帰途、穂高へ来て碌山のお墓参りをし、荻原家の人たちにもお
見舞いをしました。碌山と強い心の結びつきがあったことなど何も言いませんでしたが、碌山
の母親は、紫の袴をはいた折り目正しい彼女が帰ったあと「守衛さが生きていれば、ああいう
人と結婚したずらに・・」と言いました。彼女はその後、朝鮮に渡って運命を天に任せました。

 さっきの手紙のことや、彼女がやったことは、彼女が、誰かにしゃべったり、何かに書いて発
表したものではありません。彼女は、このことを自分の日記に書いて、心に秘めたまま亡くなっ
たのです。仁科教授が、この人の日記を調べていてわかった事実なのです。碌山の手紙その
ままに、心を高く潔く保ち、人知れず涙をたくさん流したのです。最後の最後まで抑制のきいた
つつましい上品な女性でした。 


三 碌山の人格形成
 碌山美術館にあるたくさんの彫刻像は、碌山が長年かかって作ったもののように勘違いしが
ちですが、フランスから持ち帰った『坑夫』と『女の胴』『メダル』の三点以外は、すべて、碌山が
日本に帰ってきてから、わずか一年半ぐらいの間に作ったものです。
 たったの一年半にあれだけ質の高い、あれだけの数の作品を集中的に作ったわけです。し
かも、碌山は長い間、画家になるための勉強をしていたので、彫刻は、日本に帰る直前と、帰
ってからの合わせて三年半やっただけです。
 画家になるはずだった碌山が彫刻家になってしまったのは、フランスでロダンの彫刻に出会
ったからです。ロダンの『考える人』という作品を見た瞬間に、「あっ、自分が求めていたものは
これだったのだ」と思ったのです。碌山はロダンに会って、芸術についての自分の考えを述べ
ました。ロダンは聞きながら深くうなずき、「それなら、君は私の弟子だ」と言いました。彫刻の
仕方をロダンから手ほどきしてもらったというわけではありませんが、碌山の考えが、ロダンと
まったく同じだったのです。
 ロダンは、碌山のことを、「フランスの弟子たちよりも、私の芸術を理解した」とほめました。
 ロダンにほめられた碌山の考えは、いきなり生まれたものではありません。碌山は、絵画の
修行に入った最初からWhat is art ?ということを繰り返しつぶやいていました。これは、「何が
芸術か」、「芸術とは何か」と訳すよりも、どうしたら芸術になるのか、芸術作品を作るとはどう
いうことなのかと訳すべきでしょう。碌山は、常にこのことを頭において修行を続けたのです。
 絵を描いたり、彫刻を作ったりするには、それなりの技術的な修行をしなければならないこと
は誰でも分かりますが、碌山はその修行の他に、「芸術というものは、おのずと人柄というもの
が表れてしまうものだ。したがって、よい芸術作品を作るということは自分の人格を高めること
だ、それが自分の課題なのだ」と考えてその努力をしたのです。

 碌山はこの安曇野の美しい自然の中で育ったからよい芸術家になった、という人がいます
が、そうでしょうか。それならば、ここに住む私たちみんなが優れた芸術家になれるはずです
が、そんなことはありません。
 碌山はミレーの絵が好きでした。これがミレーの絵です。[画像・ミレー『落ち穂拾い』『晩鐘』]
君たちはこの絵から何を感じますか・・・・・。俗っぽいところがありませんね。神聖な世界、永遠
の世界への憧れのようなものを感じませんか。
 ミレーはこう言ってます。「ものを見るには、目だけをいくら大きく開いてもだめだ。心の働き
がなければ何も見えはしない。」
 碌山は、この心の働きというのが、素晴らしかったのです。まだ東京へも行かずに実家で農
業を手伝っていた頃の日記があります。

 予は早朝、白金より等々力へ舟を揚げに行く。            
 等々力橋下に舟にのり 万水銀色清緑を上る。         
 吁、何等の愉快ぞや。                                
 寒気は厳しく 日は晴れて                              
 西に常念の白雪 肌に徹するの時、                      
 凡ての俗汚を忘れて 清水の上に吟ず。                  
 而して今日は終日此の快を惜しむ。                
 即ち業は 水道用の石運びなり。                      

 一月二十七日の日記ですから、一年中で一番寒さが厳しい時です。しかも早朝です。心臓病
のために、厳しい作業はできない身体で、舟をあやつって土木工事用の石運びをするつらい
作業をしているというのに、彼は太陽の光に輝く常念岳の雪肌をみて、俗世界を忘れているの
です。そして、何と愉快なことよ。日が暮れてこの快感が終わってしまうのが惜しい、と言ってい
るのです。仁科先生は、「何という張りのある精神と感覚であろうか。厳しい自然に対応するに
は心身の緊張がいる。それが歓びとなっている」と碌山を賞賛しています。(仁科惇『碌山・三
二歳の生涯』五二頁)
 これを書いた時の碌山は満十九歳でした。その後、アメリカやフランスで大変な苦労をしなが
ら修行を積んだのですが、碌山は何事にも常にこのような心がけをもって取り組みました。

 碌山を召使いとして使ってくれていたフェアチャイルド家の人たちは、このような気高い精神
をもった碌山を尊重し大事にしてくれました。フェアチャイルド夫人は、事故のために亡くなった
自分の息子さんの葬儀のために中国へ行った帰りに、わざわざ日本へ上陸して穂高へ墓参り
に来ています。しかも、何ら恩着せがましくなく、当たり前のことをやっただけですと言って帰り
ました。このように来てもらえたのは、碌山が立派だったからですが、単なる召使いのために、
はるばる長い航海をしてやってきたフェアチャイルド家の人たちは、格段に立派なわけです。
 碌山は、古きよき時代のアメリカの知的エリートのこの家族の、高潔で、端正で、つつしみ深
い生活姿勢に毎日ふれることによって、高貴なnoblesse oblige(ノブレス・オブリジ、高い身
分や金持ちの者ならば持たねばならない、高潔な精神と、謙虚な姿勢)ということを学んだは
ずです。
 彼の人格について、次のようにじつに的確に表現した人(河東碧梧桐)がいます。

 「何処まで抑制の人であるか、遂に其深度の測定は出来ぬ。彼を想像すると、一見赤
裸々な無邪気な子供のやうであるが、心の奥底には厳然として裃をつけている凛々しい
男性的な容貌が目の前に浮かぶ。それは先天の稟性か、努力修養の結果か。」

 先天的(生まれつき)に優れていたことはもちろんですが、たいへんな努力もしたのです。

四 明治期青年の苦悩 ―煩悶―
 考えてもみましょう。碌山が生まれたのは明治十二年です。つまり、十二年前は鎖国の江戸
時代だったのです。碌山が二十歳の時には明治三十二年です。その頃は、今まで長いあいだ
日本人の精神の支えであった江戸時代の考え方が否定され、西洋からいっぺんにいろいろな
考え方が入ってきました。そんな社会状況の中で、どの考え方が正しいのか、自分はどの考え
方をもって生きてゆくべきかということは、当時の青年たちにとって、深刻な問題でした。その
悩みを当時の人たちは人生観上の「煩悶」といいました。
 碌山は、「煩悶は美なり」と書き残しましたが、この煩悶という言葉を、現代的な男女問題の
悩みというふうに受け取ると、碌山の人生の苦悩も、その作品の本当の価値も分かりません。
世の中の人たちが、今まで信じきってきた考え方を信じられなくなった時代に、人生観を形成し
ていく上での迷い、自己を形成していく上での思い悩みや困難というふうに考えて下さい。
 今の君たちには分からないでしょうが、この悩みのために北村透谷という人は自殺していま
す。藤村操という人も自殺しています。碌山が言っている煩悶という言葉は、このような深刻な
意味を持つものなのです。後の人たちが後の時代の考え方をして、男女問題の悩みだったの
だろうなどと勝手な想像をするのは的外れです。 

 黒光が、若き日の碌山に与えた明治女学校的な浪漫主義も、新しく外国から入ってきた考え
方の一つでした。浪漫主義というのは、わかりやすくいうと、夢をもって理想に燃え自分を生か
す道を考えよう、という思想ですから、江戸の封建時代から、明治の新しい時代を迎えたばか
りの明治二十年代には、人気全盛の考え方でした。しかし、この考え方は、明治三十年頃を境
に、その問題性がだんだん明らかになって衰退してゆき、やがて、明治女学校そのものもつぶ
れてしまいました。碌山が、いちはやく明治女学校の世界を抜け出てアメリカに渡ったのも、そ
の限界を見抜いたからだろうと考えられます。

 例えば、空を飛びたいという夢を持っても、そのまま三階のベランダから飛び出せば、下に墜
落して死んでしまいます。夢を実現しようとするなら、空気の性質や浮力の法則などの自然の
ことを正確に知った上で、それに合わせた方法をとらねばなりません。これを自然主義といい
ます。
 碌山は、思いどおりの絵を描くための基礎的な修行として、自然の事実を客観的に学ぼうと
し、人体デッサンはもちろん、骨格とか筋肉についても、じつに緻密な勉強をしました。[画像・
碌山が描いた人体デッサンと筋肉組成図]

 けれども、そんなことばかり続けていると、なるほど、姿かたちはそっくりだけれども、面白くも
おかしくもないものができるだけです。そこで、さっきのミレーが言ったような「心の働き」という
ことが大事になってきます。碌山は、「心の働き」をもって生命というものを表すようにしたいと
努力しました。これを印象主義といいます。(註、ここでいう印象主義とは、絵画史上の印象派
よりは広い意味である。)

 ところが、次の段階には、生命力を表すとはいっても何のための生命か、人は何のために生
きているのか、人生の真髄は何なのかという問題に行きつきます。その答えは、文章にした
り、作品に直接表すことなどできません。自分のすべてをかけて作った作品に、おのずと象徴
的に滲み出るのです。これを象徴主義といいます。
 碌山は、ごくおおまかにいってこのような道筋をたどりました。これは近代の人たちの考え方
の進化そのままの遍歴です。長い人生を、この遍歴のために費やしたのが島崎藤村です。浪
漫主義にとどまったままで破滅したのが北村透谷です。碌山は、これをなんとたったの十年間
で急いでかけぬけて死んでしまったのです。
 最後の作品、『女』は、碌山の人格を象徴する作品だと、私は思いますが、これについては
最後にふれることにして、その前に、碌山の「愛」ということについての誤解を解いておきましょ
う。


五 碌山の愛 ー多量の涙、慈しみの心ー
 碌山は、子どもの頃に心臓病を患ったので、家の農作業をしっかりできなくなってしまいまし
た。そのため、自分は役にたたない厄介者だ、余計者だ、という劣等感にさいなまれた経験を
もっていましたので、病気の子どもに対しては非常に心を寄せました。
 碌山が描いたこの絵を見て下さい。[画像『ジョージ』『病める児』]
 碌山がこの絵を描いてからすぐに亡くなってしまった襄二君です。相馬愛蔵・黒光夫妻の息子
です。この子がかかっていた肺結核という病気は、今と違って、当時は、有効な治療法や薬の
ない命取りの怖い病気でした。しかも、感染力が強いので、親以外は誰も近づかない病気でし
た。碌山は、そんなことはいっさいかまわずに、この子に心を寄せて誠心誠意つくしました。[画
像・襄二を抱いている碌山の写真]
 その献身ぶりが親以上だったので、襄二君はじつは碌山の子どもなのではないか、という噂
がたったほどです。(碌山がアメリカで修行中に生まれた子どもなので、そのようなことは原理
的にありえないし、きょうの話でもわかるように、碌山は、今でいう不倫をするような類の人では
ありませんでした。)
 碌山は、周りの人たちから、あらぬ噂をたてられていることなどお構いなしに、目の前のはか
ない命に対して、多量の涙を流しながら、精いっぱいの真心をつくしたのです。

 彼がフランスで勉強していた時、日本政府からたくさんのお金をもらって留学していた本保義
太郎という人が肺結核で倒れました。いざ結核ということになると、感染を恐れて誰も近づきま
せんでしたが、ひとり碌山だけはお見舞いに行き、よく世話をしました。亡くなった時、当時は
日本から家族が来ることなどはできませんでしたから、碌山一人で葬式の世話をしました。そ
の頃、碌山は貧しくて、毎日パンと水だけで命をつないでいるような状態だったにもかかわらず
にです。
 このように、碌山はひとの不幸を見て見ぬふりのできぬ人だったのです。

 彼は、アメリカに発つ前に、知り合いの人の息子・松井秀雄君という少年に、お別れの記念
にと小さなノートを渡したことがありました。[画像・松井秀雄少年] 少年はそのノートに、菊の
花をはさんでおきました。
 少年はその後、重い病気になりました、彼はアメリカの碌山への便りでそのことをしらせまし
た。ノートにはさんであった菊の押し花も同封されていました。
 碌山は、折り返し心のこもった返事を書きました。原文は格調高い文語体なのですが、わか
りやすいように口語体に直して読みます。

 ああ君よ、君は、八月から病気で寝ているそうですね。かなしいことです。何というむご
い悪魔だろう。何というひどいサタンだろう。なぜ、花のような君をからかうのだろう。こん
なにもひどく苦しめるのだろう。
 長い間病気で寝ておられる君は、ただでさえつらいのに、寒さも加わるこのごろだか
ら、すきま風もどんなに苦しくお感じになることだろう。
 花には嵐、月には雲がじゃまをするように、才能をもっている人には、とかく病気がス
キをねらいやすいものです。世の中に、病気という悲しみがなかったらどんなにいいだろ
うかと祈るけれども、でも君よ、病気も神の与えて下さる一つの宝ではないだろうか。僕
も幼いころ重い病気にかかり、ちょうど君ぐらいの年に、二度目の病気にかかって二年
間病床で過ごしました。今なお、不治の心臓病が残っています。今でも、少し無理な仕事
をすると、心臓がおどって息苦しくなります。
 けれども、この二年間の病気が、僕にはどんなに神の恵みであったことでしょう。今の
朝夕の不快な気持ちでさえ、神の恵みと感謝しながら、朝に夕に神を思う頼りとしていま
す。人間に、もし病気がなかったら、少なくとも、神を想う心もうすく、同情の心もうすらい
で、世の中は荒々しくなる気がします。病気は、もともと不幸には違いありません。けれ
ども、この意味では、僕は、病気もまた人の心を養うもの、神は病気をもって僕に神の存
在をお示しになっているように思います。
 君よ、学問の途中でさぞかし残念に思っておいでだろう。けれども、本を読むだけが勉
強ではありません。学校だけが学問ではありません。生涯が勉強なのですから、勉強が
遅れるなんてことは決してありません。病の床は試練の道場だから、同情の心、あわれ
みの気持ちなどを修めるにはこのうえない学校です。とりわけ、ありがたい父母の心、姉
上や妹のただならない心づくしは、病気をしない者にはわからないことです。
 どうか秀ちゃん、失望しないで、苦しいだろうし、いやであろうが辛抱して、薬も牛乳もど
んどん飲んで、まず第一に元気を出して一日も早くよくなってくれ給え。君の家の新年
は、君の全快の時だと、菊姉さんも言っておいでです。
僕はね、病人を見舞うことが好きだから、東京にいるならば、毎日でも行って大いに元気
を出してもらおうと思うのだが、海を四千里も離れた所では、君の病気さえ知らないでい
たほどです。もうじきお正月。梅の花の咲くのもまもなくでしょう。病気なんか蹴散らしてし
まうように僕は祈っているから。ご両親はじめ、お姉さんたちの祈りを神様がお聞きにな
って、よくなることと信じていますから、早くよい知らせを聞かせて下さい。
菊の花、二輪うれしくいただきました。涙の落ちるのをとめることができず、声をあげて
泣きました。
 
 明治時代のことですから、飛行機はありません。外国からの手紙は船で運ばれましたから、
一ヶ月から二ヶ月もかかりました。碌山のこの手紙が着いたのは、松井少年が亡くなってしま
った後でした。少年の母親は、泣きながら霊前にこの手紙を供えました。
 碌山は、この手紙で他人の子どもの不幸に対して声をあげて泣いたと書いています。碌山は
よく泣く人でした。自分がつらい時に泣くというのではなくて、ひとのことで大いに心を痛め涙を
流す人だったのです。まさに「多量の涙」を流したのです。

 碌山は、「愛は芸術である。煩悶は美である」と書き残しました。きょうの話でわかったと思い
ますが、この愛というのは、男女間の愛という単純な意味ではありません。男女の愛というの
は、自分は相手を愛しているつもりでも、それによって自分が幸せになるためなのですから、
結局は自分のための愛です。自分が中心です。けれども、碌山のいう愛は、己を捨ててひとに
つくすこと、見返りなど期待しないで、ひたすら相手のためにつくすという、やさしい慈しみの
心、慈愛という次元の愛なのです。

 黒光に対してもそうです。当時、黒光の家庭は、今でいう家庭崩壊に近いものでした。黒光の
困惑ぶりは目にあまるものがありました。碌山は、他人の思惑などかまわずに、真心を込めて
黒光につくしたのです。このことを、黒光に対する恋愛感情と解釈するのは正確ではないでしょ
う。
 ずっと後年になって、黒光が語ることを聞き取って筆記し、本を作るという仕事を担当した、
島本久恵という婦人記者がいます。それは『黙移』という本ですが、この仕事をとおして黒光と
関わることで、黒光のありのままを知ったであろうこの記者は、「碌山は(黒光を)救えると思っ
たし、救おうと思った」と書いていますが、これは碌山と黒光の関係の本質をじつに的確に表現
しているように思います(島本久恵『明治の女性たち』みすず書房)。碌山には、黒光の性(生
まれつきの性質)に対する深い哀しみ、優しいいたわりの気持ち、慈しみの心があったのだと
思います。


六 「高き想い、慈しみの心」の結晶『女』
 碌山の最後の作品『女』は、碌山の人格のすべてを象徴している作品です。もう一度よく見て
みましょう。 [画像、『女』。音楽、ヴィラ・ロボス『アリア』キャスリン・バトル]



 日常の世界をこえた高い精神世界、神秘的な宇宙への想い、聖なる世界への憧れ、碌山
は、それまでに、美術、文学、宗教などをとおしてつちかってきた高度な精神、「高き想いと慈し
みの心」の全てをこの像に注いだのです。碌山の魂は、全部この像に吸い取られ、命が尽きて
しまいました。
 私には、この「女」の像は、西洋風の姿をした観音様か菩薩様のように見えます。

 夫や子どもをはじめ、数多くの人たちをまきこんでキリキリ舞いさせながら、波乱に富んだ人
生を送った相馬黒光も、晩年には、仏の道に救いを求め、静かに人生を振り返って、夫・愛蔵
の稀にみる寛い心と人徳に感謝しています。静かな庵室に住んで野鳥に親しみ、願をかけて
写経をし、庭に地蔵をおいて拝んでいました。碌山が祈りを込めて作った『女』の像に近づいた
のでしょうか。

 相馬黒光は、晩年近くに、この穂高中学校の生徒にも心を寄せてくれました。碌山美術館が
できるより前のことです。穂高中学校の玄関前に、碌山の『坑夫』像を建てるように力をつくし
てくれた上に、本当は達筆家なのに、生徒にも分かるようなていねいな筆字でメッセージを書
いて贈ってくれたのです。銅板にして坑夫像の土台に埋め込んでありますから、あとで読んで
みましょう。
  わが穂高中学校の正門にある、『坑夫』のブロンズ像には、荻原碌山の「高き想い」が込めら
れているのです。

『坑夫』は明治四十年荻原守衛が滞仏中の作品で我国に近代彫刻の道を
拓いた不滅の傑作である。
この度、作者の郷里に学舎が設けられたのを祝って遺族荻原家が原作を
提供し、学校が之を銅像として建てたのは その雄渾な精神を以て深く子弟
を薫育し
郷土の宝として永久にこの作を伝えん為であって誠によろこばしい事であ
る。
       昭和廿九年四月   相馬黒光


出典資料                                     
仁科惇『碌山・三二歳の生涯』三省堂
高坂正顕「明治思想史」『高坂正顕著作集』七巻 理想社
仁科惇『荻原碌山 ―その生の軌跡―』柳沢書苑
猪木正道・椎名麟三他『近代日本とキリスト教』創文社
仁科惇『碌山』柳沢書苑
吉村善夫『藤村の精神』筑摩書房            
宇佐美承『相馬黒光』集英社
相馬黒光『黙移』『穂高高原』郷土出版社    
郡定也「荻原守衛の青春」同志社大学人文科学研究所編
野上弥生子『森』新潮文庫                  
『松本平におけるキリスト教』同朋社
臼井吉見『安曇野』1・2巻 ちくま文庫     
碌山美術館『荻原守衛の人と芸術』信濃毎日新聞社
南安曇教育会『荻原碌山』南安曇教育会      
笹村草家人他『碌山荻原守衛全作品集』講談社 


本稿は、仁科惇『碌山・三二歳の生涯』と、宇佐美承『相馬黒光』、ならびに郡定也「荻原
守衛の青春」(同志社大学人文研『松本平のキリスト教』に所収の論文)を底本として執
筆しました。
 仁科惇先生には、格別のご厚意によってご著書からの多くの引用を許諾して頂き、ま
た、執筆に際して碌山美術館理事長柳沢廣氏、同館の元学芸員千田敬一氏、画家中
村石浄氏から懇切な教示をいただきました。深く感謝申し上げます。なお、碌山美術館
から、写真の掲載を許諾して頂きましたことに御礼申し上げます。

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立志式(十一年度)
          つばさをください ― 自由について ―
                 担任による「立志式」事前指導用に全校生に配布した資料

 私たち人間は、誰もみな自由を求めます。 「自由を獲得するため」という名目の戦いで、い
ったい、どれほどの人間が戦場の露と消えたか、計りしれません。三年生がオペレッタで発表
したように、穂高町出身の上原良司さんは、自由に憧れ、自由な世界がくることを強く願いなが
ら特攻機で飛び立ちました。清澤洌、ゴードン平林・・・・・みな、自由を獲得するために闘いまし
た。
 私たちが、日頃恩恵を受けているさまざまな自由は、こうした貴い犠牲のたまものなのです
から、私たちは、自由ということについて、もっと真剣に考え、大切にしなくてはなりません。

 自由というと、君たちは、親や教師から干渉されたり束縛されたりしないこと、校則などが無
いこと、お金がふんだんにあって何でも好きなものが買えること、学校や職場に行かないでぶ
らぶらしていられること、等々のことを考えることでしょう。つまり、自分に対する外からの束縛
や抵抗の無い状態のことを自由だと考えているわけです。

 君たちは、全校合唱で「翼をください」という歌を歌いましたね。君たちは、この歌が大好きだ
と思います。


     翼をください   山上路夫作詞 村井邦彦作曲    

いま、私の願いごとが
かなうならば、翼が欲しい       
この 背中に 鳥のように       
白い翼 付けてください         
                                  
いま、富とか名誉ならば        
いらないけれど 翼が欲しい      
子どもの時 夢みたこと         
今も同じ 夢にみている         
                                  
この大空に 翼をひろげ         
飛んで 行きたいよ             
悲しみのない 自由な空へ       
翼はためかせ 行きたい         


 悲しみのない自由な空へ飛んで行きたい・・・・。じつに、いい歌詞ですね。・・・。
 『ドラえもん』の「のび太」くんは、「タケコプター」と「タイム・マシーン」と「どこでもドアー」がある
ので、ジャイアンやスネオの意地悪から逃げて、いつでも好きな時に、好きな時代や場所に飛
んで行くことが出来ます。あれは、じつに傑作な漫画ですね。君たちも、のび太くんのように、あ
んなアイテムがあれば、いやなことはしなくてもいいし、いやな所からは逃げることができるし、
自由自在でいいのになあと思ったことがあるでしょう。
 
 でも、本当にそうなのでしょうか。スキーを例にして考えてみましょう。私は、スキーを習い始
めの頃、何度も何度も転びました。転ぶたびに、もっとなだらかで一直線のゲレンデだったら転
ぶこともなく、自由自在に滑れるのになあ、とうらめしく思ったものです。
 ところが、いくらか滑れるようになってから分かったことは、スキーというものは、一直線に滑
ってみても、ちょっとも面白くはない。立木やコブなどの障害をスイスイと自由自在にかわしな
がら滑ることが楽しいんで、スキーの醍醐味はそこにあるのだ、ということです。
 今、「自由自在」にと言いましたが、自由というのはまさにこれです。価値のある目的をめざし
て、抵抗や障害を乗り越えて、自分をコントロールすることなのです。
 人間は、文字どおり「人の間」で生きている生き物なのですから、自分に対して他人や社会が
何も抵抗にならないということは原理的にありえません。ロビンソン・クルーソーのように、無人
の孤島に住むにしても、生きていくためには、自然の猛威という外からの抵抗と戦わねばなり
ません。つまり、自分以外のものから受ける束縛は、スキーでの立ち木やコブのように、人間
が生きていくうえに必然的に伴うことなのです。

 したがって、それは、自由を束縛することもあるでしょうが、逆に、自由を成り立たせるために
必要な条件なのだともいえます。空を飛ぶ鳥にとって、空気は抵抗になるでしょうが、そもそ
も、空気がなければ空を飛ぶことはできません。空気の浮力のおかげで空中に浮かぶことが
できるだけでなく、抵抗も利用するからたくみに飛ぶことができるわけです。
 生まれたばかりの赤ちゃんをお風呂に入れると、恐がって手足をばたつかせて泣きますが、
ガーゼでやさしく手足をくるんで抱いてやると、ご機嫌よくお風呂につかっています。束縛があ
る方が自由なのです。君たちも、自由な題で作文を書けなどと言われれば困るでしょう。友だ
ちについて書けとか、遊びについて書けとかいうように、制約があった方がはるかに自由自在
に書くことができますよね。

 ですから、外からの抵抗が、自分の自由を実現できなくさせている原因だと思っている人は、
いわば、自由についての初級スキーヤーなのだということになります。封建時代や軍国主義の
時代ならいざ知らず、今の日本の社会で、あるいはこの学校で、自分は自由ではないなどと思
っている人がいるとすれば、その「不自由の原因は、相手にあるのではなくて、自分の心の内
にあるのだ、つまり、自由についての初級スキーヤーなのだ」と言わざるをえません。

 自由についての上級者とは、巧みにスキーのできる人たちや、気流の抵抗を上手に利用し
て飛べる鳥のように、自分の前方が見えていて、しかも、そこにある障害や抵抗を自分のため
に有効に利用できる人のことを言います。自主的に自分で価値のある目的をたてて、これの
実現のために自分で判断し、障害があればこれを排除したり、逆に利用したりして、目的を達
成する能力のある人、すなわち、自立心をもった人のことです。
 口うるさいお母さん、厳しい先生、気の合わない友だち、無い方がいいと思っている校則、こ
れらはみなスキー場でのコブや立木のようなものです。君たちが自由の達人ぶりを発揮するた
めの舞台装置なのです。

 このような、せっかくの舞台装置を、自由の邪魔だと思ったり、負けてしまったりする人もいま
す。何が価値あることなのかを考えてもみない人、その場の雰囲気に支配されて自分がなす
べきことを見失ってしまう人、しっかりとした自分というものがなくて、人の言いなりになってしま
う人、親や先生が常に自分をいたわってくれることだけを期待している人、何でもひとのせいに
したがる人・・・・。自立心のないこれらの人たちは、自分の不自由を嘆いて訴えるばかりで、自
分がすでに自由であることに気づこうともしません。ましてや、使おうともしません。
 こういう人たちは、自分で何もしようとしなかったり、横道へ外れそうになったりしますから、ま
わりからつまらぬ干渉や強制を受ける羽目になって、ますます、不自由な状態に陥っていきが
ちです。かわいそうといえばかわいそうですが、人間、十四・五歳ともなれば、それも自分の身
から出た錆というもので、自分の責任だと気がつくのでなければ、自由を口にする資格はない
でしょう。

 きょうは「立志式」です。二年生の諸君は、一人一人がそれぞれの「こころざし」をたて、それ
を果たすことを、全校の皆さんの前で誓うわけですが、誰にも共通しているこころざしは、自由
の初級プレーヤーではなく、上級プレーヤーになるということです。満年齢で十四歳といえば、
昔の数え方だと十五歳、つまり、大人になる元服の歳です。君たちには、「ドラえもん」のアイテ
ムはもう有りません。子どものようなことは言ってられないのです。いやなことからも逃げること
ができません。自分で取り組まねばならないのです。
 だからこそ、「子どものとき、夢見たこと、今も同じ、夢に見ている」という『つばさをください』
の歌詞が、懐かしく、優しく感じられるのでしょう。

 ここ安曇野には、今の季節にぴったりの、そして、君たちの年頃にぴったりの、すてきな歌、
『早春賦』があります。大人になりつつある君たちのために作ってくれたような歌です。今年か
ら毎年やることになった「立志式」は、この歌の持つ深い意味を感じながら
『早春賦』を歌う日でもあります。 


出典 吉村善夫『愛と自由について』新教出版社 
   影山任佐『「空虚な自己」の時代』NHKブックス
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卒業式
     二十一世紀に生きる君たちへ ―司馬遼太郎の遺訓―                           

 諸君、卒業おめでとう。
 君たちは、三年生になってすぐに、「学校を変えよう」と言い出した。そのうちに、学校を変え
るためには、「一人一人が変わり、一人一人が輝くのだ」と言い出した。そして見事にそれをや
り遂げた。まことに素晴らしい三年生であった。君たちは、このことをずっと誇りに思い続ける
ことだろう。君たちの卒業にあたって、私の大好きな司馬遼太郎さんの遺訓を読み上げたい。
 司馬さんは、これを、二十一世紀に生きる君たちのためにと、心を込めて書き残したのであ
る。


     二十一世紀に生きる君たちへ           司馬遼太郎

 私は、歴史小説を書いてきた。(以下 略)

  (著作権者から頂いた転載許諾は、拙著書籍のためのものであり、Web up はできません)

出典 大阪書籍『小学国語 6下』
(大阪書籍株式会社及び司馬遼太郎記念財団の転載許可済)
 


        あとがき

   平成十年度に穂高中学校で行った校長講話を、まとめて本にしました。(但し、二月「穂高
倶楽部の高き志」と、立志式「つばさをください」は、十一年度のものです。)
  
   本書を上梓するにあたり、かねてよりご尊敬申し上げてまいりました草柳大蔵先生から身
に余る推薦のことばを頂戴致しまして、万感せまるものがあります。あつく御礼申し上げます。
  
   穂高町は、近隣の他の地域では考えられないほど、たくさんの偉大な人物を輩出していま
す。みな、私たちからみれば、近づきがたいほど、生涯にわたって高らかな心を貫き通した
方々です。
  生徒たちに、これらの人物を紹介し、解説するのは、穂高中学校長の責務だろうと考えて
話しました。もともと、程度の高い内容ですから、わかりやすく説明するのがむずかしくて、私自
身の勉強はつらいものでした。けれども、千名を越える生徒が、あるときは笑い、あるときは涙
ぐんで、静かに聞いてくれ、時には、生活記録などに寸評を書いてくれるので、それを楽しみに
して、一生懸命に原稿を書きました。昼間は分刻みの勤務状態でしたから、毎朝四時頃から
読書し執筆しました。今にして思えば、このひとときは至福の時間でした。
   後半は、どんどんと難しい内容になってしまいましたが、私の力不足のせいです。生徒たち
に聞く力がついたと、ひそかに期待して甘えていたのかなと反省しています。
  
   じつは、装いこそ新しく見えるかもしれませんが、私の講話の根本にあるエトス(感じ方や考
え方)は、ずいぶん古くさいものです。「ああ、なつかしいなあ」という感慨を抱かれる方もおら
れることでしょう。
   それにもかかわらず、生徒たちが、素直に受け容れ、具体的な行動で応えてくれたことは、
私にとっては、むしろ意外なことでした。(言うまでもなく、それぞれの先生方による、適切な事
後指導と、具体的な手だてがあったからからではありますが・・・。)
   そして、判ったことは、「今どきの若者が変わったというのは、表面だけしかみていない人の
偏見なのだ。生徒たちは、じつは、こういう類のメッセージに飢えていたのだ」ということです。こ
のことは、近頃の生徒たちのことをよく知っていたつもりの私にとっても、新鮮な驚きでした。
   そういえば、いかにも現代の若者ふうで、私たち大人には理解できないものと決めてかかっ
ていた「君だけのTomorrow」というチューブの歌も、歌詞をよく読んでみたら、なんのことはな
い、「一生懸命にがんばろう」という大まじめなものだということを知ることができました。
   『学級だより』に掲載された生徒の寸評を転載したのは、こういう、現実の生徒たちの素朴
でけなげな姿を、直截、読者に分かって頂きたいためです。
  
   いちばん配慮したことは、生徒たちが、「高らかに、爽やかに、健やかに」学校生活を過ご
せるように、そして、そういう生き方を身に付けるようにということです。『たかだかとした心』や
『田舎のモーツァルト』は、その頂点ともいうべき講話です。
   『田舎のモーツァルト』の講話は、翌年、生徒会主催による「田舎のモーツァルト音楽祭」に
発展し、当日、スライド映写された尾崎喜八氏の詩の一節、「孜々として」(まじめに励む)は、
生徒たちの生活意識向上のための指標ともなりました。
   また、自分のことにしか関心がないといわれる近頃の生徒たちに対して、自分たち一人一
人が、社会を構成している一員であり、歴史の連続上にあるのだ、ということを自覚するよう
に、との願いもありました。『あしたはもっと幸せに―鐘の鳴る丘の話』や『君たちへの遺言―
きけ わだつみのこえ・上原良司の遺書―』という講話は、その典型的な例です。
   これらの講話は、翌年のオペレッタ上演に発展し、生徒の真摯な演技と、完成度の高い演
奏が好評を博しました。職員が、ここで感じた確かな手応えが、その翌年、一二〇〇名による
第九の大合唱の実施へと向かわせましたし、修学旅行先は広島に変更されました。
  
   本書の講話は、映像や音楽、照明等を駆使した大がかりなものです。したがって、毎回、放
課後に約一時間を費やして行いました。(但し、四月の講話だけは、朝の十五分間で行いまし
た。)
   このように、校長講話でビデオや音楽を使うのは、私も初めての経験です。このような方法
を採ったのは、近頃の子どもたちが、ひとの話をまともに聞こうとせず、私語が多くて騒然とし
ているという風評に対する挑戦でした。興味深くて分かりやすい話をしよう、というプロ根性の
発露です。
 
  ステージで、演奏したり、合唱したり、朗読をしてくれた、けなげな生徒の皆さん。
  必要な文献を多忙な筆者に代わって揃えられた図書館司書有賀小夜子先生。原稿の加除
修正の ためのモニターを務めてくれた西澤さつき先生。
  原稿に合わせて的確にビデオテープやテロップの編集をしたり、音響や照明を担当してくれ
た、花村英俊先生、高梨雅夫先生、山田哲久先生。
  毎回の歌唱や演奏の指導をし、かつ、「田舎のモーツアルト音楽祭」やオペレッタ「遺された 
想い」を実施した音楽科の臼井学、片岡美保、田島立子の三先生。
  校長講話に応えるべく、的確な生徒会活動を展開してくれた、飯泉大輔先生、高梨雅夫先
生。 文化祭展開の名手、内田伸二先生。
  ただでさえ多忙な年度末にもかかわらず、ジャズ・コンボを組んで練習し好演してくれた若い
 先生方、そして、彼等にジャズ奏法を指南し共演してくださったPTAの高山正和氏。
  生徒の生活記録にある、けなげな寸評を学級通信に掲載し続けてくれた加藤浩先生。
  また、講話に際して大勢で参加してご支援くださった、鐘の鳴る丘歌う会(早春賦愛唱会)、 
ならびに清澤洌顕彰会の方々・・・。
  
 本書の講話は、このように、多くの方々のおかげで出来たものです。記して感謝申し上げま
す。
  
 この講話集録を編集するにあたって、格別のご厚意をもって玉稿の転載や写真掲載を許諾
してくださった、尾崎榮子、宮原安春、仁科惇、池田まり子、相馬安兵衛、上原清子の諸氏、な
らびに、大阪書籍株式会社、司馬遼太郎記念財団、碌山美術館、平凡社、穂高町観光協会、
農水省安曇野農業水利事務所、長野県農政部、等々の諸機関に厚く御礼申し上げます。
 いつも拙著に使わせて頂いている横山武士氏の凛とした写真『槍ヶ岳の夕暮』に加え、今回
は、横山徳三氏の写真集『安曇野郷愁』から、安曇野の原風景ともいうべき写真を数多く転載
させて頂けたことは幸いでした。
 なお、榊原好恭氏には、拙稿に丹念に目を通して筆者の無知と粗忽を正して頂き、また、電
算印刷株式会社の百瀬鋭一氏には、前著『私家版 教育論集』と同様に美本に仕上げて頂き
ました。
 皆様、どうも、有り難うございました。
  
 この度、このような本として上梓できましたのは、旧穂高中学校(現穂高東中学校)の中野隆
夫教頭先生、ならびに、穂高中学校最後のPTA会長として尽力された望月芳彦氏のおかげで
す。深甚なる感謝を申し上げます。
  
         二〇〇二年一月六日              高坂邦彦(前穂高中学校長)
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     写真提供 碌山美術館、穂高町観光協会、農水省安曇野農業水利事務所、
           長野県農政部、毎日フォトバンク、信毎フォトサービス、
           文藝春秋、林忠彦写真研究室、池田まり子、上原清子、
           相馬安兵衛、横山徳三、横山武士、丸山潔高の諸氏           
    転載許諾 尾崎榮子、宮原安春、仁科惇の諸氏                
           大阪書籍株式会社、信濃毎日新聞社、平凡社、尾崎喜八研究会、 
           日本音楽著作権協会(出)許諾第0115208ー101号

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            校長講話集 空を見よ                    
                 尾崎喜八 荻原碌山 司馬遼太郎のことなど
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            2002年1月6日発行                 
                著 者   高坂邦彦  
                発行者   高坂先生講話集刊行会  
                          代表 中野隆夫 望月芳彦  
 
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