ドストエフスキーの思想 

ラスコーリニコフ的論理の破綻と新生

 ―近代精神の帰結とその克服―

高 坂 邦 彦 


目 次

T ヒューマニズムの究極的帰結としてのラディカリズム

U ラディカリズムのジレンマ

V 「〜にも拘わらず」(Trotzdem)  ―近代精神の克服―

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BGM: Tomaso Albinoni : Adagio <THE DESK TOP SYMPHONY ORCHESTRA> 


T ヒューマニズムの究極的帰結としてのラディカリズム 

  周知のように、西欧近代精神の、理想主義、合理主義、自由主義は、ルネッサンス以来の楽
天的な人間謳歌、人間中心、ヒューマニズムがその根幹である。 

 十九世紀末ごろからその限界が意識されはじめ、ごく一部の敏感な思想家たちによって「近
代の終焉」がいわれてはいたものの、それは、あくまでごく一部の者の感覚でしかなかったとい
えよう。 

 しかしながら、ヒューマニズムそのもののもつさまざまな問題性が露呈してきた「現代」の状況
のもとでは、そうした敏感な人々のみならず、すべての者に、自己の拠って立つ生の基盤(ラデ
ィックス)についての考察、すなわち、現代に生きうる新しい精神原理についてのラディカル(根
源的)な模索をすることが課せられているといえよう。 

 実存主義とは、まさにこの精神原理の模索、人間再検討の苦悩的な試みに他ならない。神
の死亡通知を受け取り、そしてまた、ヒューマニズムや理想主義の自己欺瞞をのぞきみてしま
ったわれわれとしては、好むと好まざるとにかかわらず、サルトルやカミユに倣ってラディカリズ
ムの途を辿るより他はないのだろうか。 

 この問題にいち早く気付き、近代精神のいきつく先が必ずサルトルのような無神論的実存主
義であること、そしてそれは必然的に破滅への途を辿ることを洞察したのは、すでに百年以上
も前のロシアの作家ドフトエフスキーであった。 

 彼は、しばしば誤解されるような「暗い人間心理」の分析者、「深いキリスト教的な愛」の証言
者、「死んだ神を蘇らせる霊的な作家」などではなく、ましてや、ヒューマニズムや理想主義の
作家でもなく、ひとえに、人間にとっての究極的(ラディカル)な思想が実存主義的無神論であ
ることを洞察し、それを果ての果てまで極めた徹底主義者(ラディカリスト)であった。 

 ドストエフスキーは、時代と場所を遠く離れた今日の我が国でも多くの人々に興味をもって受
け容れられている。この事実は、二千年にわたるヨーロッパ精神のきわめてラディカルな帰結
である無神論的実存主義が、もはや現代日本に無縁なものではなく、深い内面的かかわりを
有することの何よりの証であろう。そしてそれは、無神論的実存主義が、そのヨーロッパ的起
源と性格とにもかかわらず、時代と場所の限定を超えた普遍的性格を有するものであるから
に他ならない。 「人間にはすべてが許されている。人間は、何をしてもよい。法律も道徳も人
間を縛ることはできない。人間は神のように自由な主権者なのだ」と主張し、それを実行しよう
とするドストエフスキーの主人公たちに対して、われわれは自分たちの代表選手の奮闘を見守
るかのような緊張感をもってあの長い小説を一気に読み通してしまう。それというのも、こうした
実存主義的無神論が、われわれの常識的なヒューマニズムの究極の形態であり、われわれ
が精神の奥深くに秘かに隠しもっているものであるからに他なるまい。 

 彼の初期の作品『貧しき人々』や『虐げられし人々』は、その題名のゆえに、ともすれば虐げ
られた貧しい人々に対するヒューマニスティックな同情を基調としているかのように受け取られ
やすいのであるが、そのような先入観を取り去って素直に読めば、却ってそのようなヒューマニ
ズムに対する根深い不信の表明であることが判明する。 

 この世では、罪もない人間が苦しめられ、憎むべき悪人が却って栄えているという運命の不
公正があるという事実は、「正義の味方」なるものが無いことの証であるとして、「正義」そのも
のの実在性を疑う。また、情欲というものがいかにしても滅し得ぬ根源的なものであるという事
実は、これを罪として非難する「道徳」や「良心」の方こそかえって空疎な観念でしかないことを
物語る、としてこれを否定する。 

 この世の秩序を維持すべき「正義」と、良心にもとづく「道徳」は、近代ヒューマニズムの二大
支柱であるのに、それらが、運命や罪という実存的状況の中におかれるとき、根底から崩され
ることをドストエフスキーは指摘しているのである。 

 それに続く作品『地下生活者の手記』の主人公は、今まで自分を半生のあいだ支配してきた
「美しくて高尚なもの」という理想に反逆して、自己の意思そのものを至上のものとする。彼は、
世界の破滅と自己の破滅をも賭けて、自己が真の自己たらんがための「自由」を求めるので
ある。この主人公にとっては、それが人間の人間たるゆえんであり、人間は開闢以来そのよう
にして生きてきたし、今後もそのように生きるべきであると思えるのである。 

 現代実存主義の思想家サルトルが標榜する「自由」とは、このようにすでに一世紀も前のドス
トエフスキーの主人公たちが考え実現しようと試みたものに他ならない。 

 次の大作『罪と罰』になると、この問題は、なおいっそう深化発展する。世の不公正や不正義
をたえず目撃しながらも、われわれが、まだなお正義や道徳などといった「空疎な観念」を否定
して不正義を実行するという勇気を持てないのは、「なにびとも、悪をなせば良心が痛み、善を
なせば良心がやすらぐ」ということのためでしかない。 

・・・・ならば、「正義」や「道徳」などというものは、われわれのもっているわずかばかりの良心に
よってのみその実体性を保っているにすぎぬではないか。主人公ラスコーリニコフはこう判断
し、そこで、「良心」などという「道徳的尾てい骨」の無い人間、たとえばナポレオンのことを頭に
浮かべる。 

 ナポレオンは、自分の野心のために数えきれぬほど多数の人間を虫けらのように踏みつぶ
し、世界を血潮で浸すという大犯罪をやってのけたにもかかわらず、なんら良心の呵責を感ず
ることはなかった。それのみか、踏みつぶされた人々、この哀れな虱たちは、彼を咎めだてす
るどころか、却って英雄として崇拝し銅像を建ててさえいるではないか! この倒錯した現実の
ゆえに、ラスコーリニコフは、「・・・・・・してみると、(良心の無い人間にとっては)何をしても許さ
れているのだ」という結論に至る。 

 道徳もヘチマもあったものではない。人はその欲するところにしたがって何をすることも許さ
れているというのに、この無限の「自由」の恐ろしさに耐え得ぬ「凡人」(虱ども) は、良心などと
いうケチくさい尾てい骨によって、神や道徳などというつまらぬ観念を作り、我が身を呪縛する
ことによって凡俗の中庸人・凡人となってしまう。だがしかし、この「自由」の重みに耐え得る堅
固な精神力をもった非凡人(ニーチェ流にいえば超人)は、その良心をかなぐり捨てることによ
って神(正義)と道徳とを踏み倒し、この「自由」を行使する権利をもつ、とラスコーリニコフは考
えるのである。そしてその否定的自覚の徹底的意志表示としての質屋殺しを計画し、実行した
のであった。 

 選ばれた人間(非凡人)は何をすることも許されている。むしろ積極的に悪と不公正をなし、
多数の虱どもを救うべきである、というラスコーリニコフ的論理は、熱烈なヒューマニスト、理想
的な正義の希求者であるドストエフスキーの主人公たちにとっては、現実にはそれを得られぬ
がゆえに陥った帰結、いわば余儀ない事実の認定、強いられた結論に他ならない。ラスコーリ
ニコフの論理を受け継ぐ『白痴』のイッポリート、『悪霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』の
イワン、・・・・・・彼らはみな、もとはといえば熱烈なヒューマニストであった。人間の善性を信じ、
この世が善と正義とに支配されることを夢みたのである。 

 しかるに、現実のこの世では、不義が横行し、理不尽な力に蹂躙されているではないか。彼
らのヒューマニズムは、この倒錯した現実に我慢がならず、ここに反転していっさいの意味を
否定し、「すべてが許されている」というラディカルなニヒリズムに到達したのであった。いわば
彼らは、強いられたニヒリストというべきであって、彼らをニヒリズムに駆り立てたのは、彼らの
内に潜む異常なほど熱烈なヒューマニズム・理想主義だったのである。 

 卑劣で非情極まる彼らのラディカルなニヒリズムが、このようにむしろ人並み以上に熱烈な彼
らのヒューマニズムから発しているという事実は、逆にいえば、ヒューマニズムや理想主義、す
なわち近代精神そのものが、その意図と見かけはどうであれ、非情なラスコーリニコフ的非凡
人論の素因を原理的に内包していることの何よりの証であるというべきであろう。物や獣とは
異なる人間の人間らしさを主張するというかぎりでは穏健そのものにみえるヒューマニズムが、
じつはその根底に、「すべてが許されている。人間は何をしてもよい」という恐るべき非凡人論
の萌芽を秘めている・・・・・・・・。これこそ、ドストエフスキーの全作品を一貫して流れる根本的な
見解に他ならない。 

 下は学生たちの過激な政治活動から、上は国際間の紛争にいたるまで、「力」による支配の
横行する今日の世相の混乱は、国民がいまだヒューマニズムの精神に未熟なため、あるいは
教育の不行き届きのためというよりも、むしろヒューマニズムそのものがもつラスコーリニコフ
的精神の顕れと解釈すべきであろう。 

 ドストエフスキーは、人道主義、博愛主義、理想主義を純粋培養して、その究極の正体を暴
露し、その自己破綻を顕示してこれを自滅させたのである。彼にとって、その主人公たちの思
索過程は、ヒューマニズムという近代精神に潜む悪魔的正体を明らかにするための巧みな帰
謬法的論理の展開にほかならない。彼らの深化発展する思索過程は、ラディカルな否定主義
が、一見高尚なヒューマニズムから導かれる究極的な結論であることを、論駁の余地なき徹底
さをもって証明しているのである。 




U ラディカリズムのジレンマ

 ところで、ラスコーリニコフは、神のような主権者としての「非凡人」になるための「自由」の確
認をしようという殺人行為を、その意図に反してあたかも夢遊病者のような状態でしか行い得
ず、しかも、後には警察に自首して出る。「俺の殺したのは人間ではない。俺は道徳を殺した
んだ。・・・・・・俺は、道徳を殺そうとしたが、踏み越えることができず、こっち側に残ってしまっ
た。・・・・・・ただ殺すだけを敢えてしたにすぎない。しかも、それすらも今となって考えてみるとで
きなかったんだ」と嘆き、ナポレオンを羨望して口ごもる。「いやはや、ああいう人間は、血肉で
はなくて青銅でできているんだ。」 

 このように、ドストエフスキーは、ラディカルな否定主義者・ニヒリストととして登場させる彼の
主人公たちを、例外なく自己破綻に陥らせているが、これは言うまでもなく凡俗な勧善懲悪思
想のためなどではない。そしてまた、彼らがニヒリスト・非凡人論者となるに至った思索過程の
過ちを指摘するためなどでもない。むしろ逆に、非凡人論という一見して度外れなこの論理的
帰結を生んだラスコーリニコフの知性の確かさを保証するために次のように言明している。「彼
は、この問題を、道徳的見地からはすっかり解剖しつくしているのだ。是否善悪についてのラ
スコーリニコフの判断力はカミソリのように鋭く、彼の考えのどこを探しても、明確な反論はでき
なかった」。   

  世間的俗物の典型的人物ルージンは、ラスコーリニコフの非凡人論(自己の理性にしたがっ
て忠実に考えてみれば、他人の頭を斧で叩き割ることも許されるという説)を聞いて問い返す。
「けれどもあんた、道徳は? 法律は?」ラスコーリニコフは、得たとばかりに言い放つ。 

「何をつべこべ言っているんだ。君がさっき並べ立てた理屈(社会正義)、 あれを究極まで押し
つめれば、人を斬り殺してもいいことになるんだ。」 

それを聞いたルージンは驚いて叫ぶ。 
 「これは、ずいぶん手きびしい。だってあなた、ものごとには程度ってものがございますよ。」 

 これなのだ。世の良識人はみな、ほどほどという程度をわきまえた「生活の知恵」によって、
狡猾に、卑劣に、安全に生きている。だがしかし、程度の差は量の差であって質の差ではな
い。量の匙加減は個々人の事情によって異なるではないか。すでに一歩踏み出しているの
に、二歩踏み出してはならぬという根拠はいったいどこにあるのか。近視眼的理性主義者や
自己陶酔的理想主義者たちが、みずからすでに一歩踏み出していることを棚にあげたまま、
二歩踏み出したラスコーリニコフを非難するのは、己に対する無知、ないしは欺瞞というもので
あろう。ドストエフスキーは言う。「おお、五カペイカの賢人たちよ、君らはなぜそんな中途半端
なところに止まっているのだ。」 

 ラスコーリニコフやイワンの思索過程に誤りがないものとすれば、彼らの自己破綻はいった
い何に起因するというのか・・・・・・。 

 フランスの哲学者フールキエは、サルトルの「自由」思想がその哲学的粉飾の背後に隠し持
っているものは、単なる動物的本能でしかないと指摘したが(フールキエ『実存主義』クセジュ
文庫)、すでに一世紀以上も前にドストエフスキーは、『罪と罰』の副主人公スヴィドリガイロフに
おいてこれと同じことを洞察し、ラスコーリニコフと対比している。 

 今日、『罪と罰』について語る多くの評者は、スヴィドリガイロフを、とるに足らぬ下劣な色情
狂と解するためか、まじめな問題として追求しない。しかしながら、スヴィドリガイロフのもつ思
想的意味を明らかにし、この作品全体における彼の役割を解明することにより、作者ドストエフ
スキーの真意は鮮明になる。読者は、ラスコーリニコフがこの男と深いかかわりをもち、しか
も、殺人行為の後にソーニャをさしおいてまずスヴィドリガイロフのところへ行ったことの意味を
考えるべきなのである。 

 スヴィドリガイロフは、自己の情欲との長い間の苦闘をとおして、それが道徳や良心といった
「観念」などよりもはるかに根源的で強烈な現実の事実であることの確認を余儀なくされる。そ
して、否定しても否定しきれぬものならば、なぜ、否定する必要があるのか、「まあ、おっしゃっ
て下さい。何のために私は自制しなければならないんですか」と居直りをきめこむ。しかも、自
分の醜陋極まりない行為を罪悪とは認めぬのみならず、却って、これを抑制しようとする努力
そのものが虚偽であるといい、善行者や道徳家の自己欺瞞を嘲笑し愚弄するのである。 

 彼は、単に肉欲の満足を求めるだけでなく、美しいもの、貴いもの、善、義、等々、人々が神
聖とするものを、下劣な情欲で蹂躙するということで道徳の自己欺瞞を暴露し、そのことに特
別な快楽を味わうのであるが、それはとりもなおさず、道徳に対する過剰な意識の裏返しに他
ならない。 

 すなわち、罪ある情欲の根源的事実とともに、これに打ち勝つことを命じる道徳規範の厳粛
性について、「五カペイカの賢人」たちよりもよほど強烈に意識しているのである。多くの者がな
にげなくやるように自然に根ざすという理由をもって自分の情欲行為を是認することは、彼にと
ってみれば、道徳を否定し、真理を否定し、この世の意義あるものすべてを否定することにつ
ながる。ラスコーリニコフは、老婆殺しによって、自分の論理に基づく無道徳主義(非凡人論)
の確認をしようとしたのに対して、スヴィドリガイロフは、自分の自然に基づく無道徳主義を確
認するために、高貴で清浄な処女ドーニャ陵辱を試みようとする。 

 思うに、人間理性の立場に立つ限り、ラスコーリニコフの非凡人論はいかなる反対説をも見
いだし得ぬ究極の結論であろうし、人間の自然性にたつかぎり、スヴィドリガイロフの無道徳主
義はいかなる非難をも嘲笑しうる究極の結論であろう。   

  したがって、ラディカリスト・ラスコーリニコフは、このラディカルな色情狂スヴィドリガイロフの
行為をも是認するのが当然であろうに、彼は、スヴィドリガイロフを「無頼の悪党」「淫蕩な卑劣
漢」「世界における最も空虚で無意味な悪漢」として「底知れぬ嫌悪感」をいだく。 

  ラスコーリニコフは、いわゆる進歩主義的社会正義を極限まで押しつめれば人を斬り殺して
もよいことになる、と言ってルージンを驚かし、「カミソリのように鋭い」自分のラディカリズムが
「偉大」で「完璧」であることを誇った。がしかし、それも結果的にはスヴィドリガイロフの淫蕩な
情欲主義となんら次元の差は無い単なる動物的行動であることを思わされ、自己の破滅を予
感するがゆえにスヴィドリガイロフを嫌悪し憤激するのである。 

  そのスヴィドリガイロフは、あわやというところで、ある種の厳粛感に妨げられてドーニャ陵辱
の企てを果たし得ずに、自己破綻のなかで自殺を遂げる。 

 一方、ラスコーリニコフの殺人行為もなんら非凡人論の確認とはなり得ず、却って自己破綻
に陥り、ナポレオンに対する絶望的な羨望をもって、「じっさい、ああした人間 (血なまぐさい汚
辱の中で平然と生きうる真の主権者・自由人)は、血肉ではなくて青銅でできているんだ」と思
わざるを得なかった。 

 ラスコーリニコフは、自己の行為の卑劣さにつまづいて破綻し、スヴィドリガイロフは、対象の
犯しがたい清浄さに負けて滅びたのである。このことをキリーロフ(『悪霊』)は、こう表現する。
「じっさいのはなし、この自由は恐ろしいもの」で、この「自由」に基づく「永久調和」の状態を「十
秒以上持ちこたえるためには、生理的に変化しなくちゃだめだ。」(ここに言う生理的に変化す
るとは、動物的次元にまで堕落するということである。) 

 これはとりもなおさず、生を課題として生きる人間のみがもつであろう「自由」は、生を所与と
して生きる動物にしか実現できぬものである、というジレンマの表白に他ならない。スヴィドリガ
イロフに対する、ラスコーリニコフの嫌悪と憤激の原因はまさにここに存する。 

 さきにも述べたように、彼らはもともと熱烈なヒューマニストであった。彼らをニヒリズムに駆り
たてたのは、彼らの内に潜む異常なほどに熱烈なヒューマニズム・理想主義であった。多くの
者が意義ありと信じて疑わぬ「正義」や「道徳」に対しても、敏感にその虚偽性と無意味性とを
嗅ぎ取るドストエフスキーのニヒリストたちは、裏返せば、欺瞞のそれではなく真の意味での
「正義」や「道徳」を望む欲求がひと一倍苛烈であるからに他ならない。 

 彼らの自己破綻の原因は、絶対的な完璧さを望む理想主義のゆえに現実の(相対的な)理
想主義を否定し、空無を恐れるあまりに空無を主張するという自己矛盾を犯していることにあ
る。ドストエフスキーは、主人公たちの自己破綻を示すことによって、人間にとっての究極的な
思想である無神論的実存主義は、そもそもそれを望むような種類の人間にとっては絶対に実
現することのできない自己矛盾であること、すなわち、自己の意識の中で正義と道徳を否定し
て自己の自由を得るというしごく簡単な(と思える)ことが、人間にとって不可能な業であることを
明らかにしているのである。 

 彼らはみな、ニヒリスティックな実存主義的無神論が、人間にとっての究極的な思想であるこ
とを自覚し、しかもそれは、現実の人間にとって本来的に実行不可能なものであるというジレン
マのために、自己破綻に陥り自滅したのであった。これは、究極的なジレンマであるがゆえ
に、それを脱出する途はどこにもないのである。もしあるとすれば、それこそ奇跡とでもいわね
ばならぬであろう。 




V 「〜にも拘わらず」(Trotzdem) 

 ところが、まさにその奇跡こそが、このジレンマを解きほぐす鍵であることをドストエフスキー
は明らかにしているのである。ラディカリスト・ラスコーリニコフの自己破綻を救い、新しい途を
指し示したのは言うまでもなくソーニャであるが、彼女の存在そのものは、どんなに一生懸命に
考えても反対説が見つからぬと自称するラスコーリニコフの非凡人論・超人論の根底に、重大
な誤算があることを彼に教える。 

 世界中の「やつら」「五カペイカの賢人」「虱ども」は、いかに巧みな論理学と精緻な倫理学を
もってしても、彼を罪ありとすることはできぬけれども、ひとりソーニャ、このかよわい女の存在
のみが、彼の理論はまったくの誤謬であることを顕示する。善悪の秘密を見破って神のごとき
自由を獲得せんとし、そのために、愛する母妹のもとさえ離れた彼が、ソーニャのもとへ行き、
「ぼくは、昨日お前に言った。自分は許しを請いに来たのではないって・・・・・・。ところが、いま、
こうして言い出してみると、まるで許しを請うているような調子になってしまった。・・・・・・つまり、
ぼくは許しを請うたのだよ、ソーニャ」と告白し、善悪の神聖さの前に打ちひしがれてしまうので
ある。 

 今日、『罪と罰』について語る多くの評者は、ラスコーリニコフが、みずからの超人思想を実
行する意力を欠き、肝心のところでその論理的帰結の恐ろしさに堪えかねてソーニャの膝に泣
き崩れたことが彼の失敗点であるという。すなわち、彼の自己破綻の原因は、現実の情念と抱
合せぬ純粋な論理の抽象性にあるというのである。そして、ソーニャのいわゆる宗教的情念に
感化されることによって救われたと解して、ある者は安堵のため息をつき、また、ある者はそ
の安易さを嗤う。 

 しかしながら、多くの読者のそのような期待にもかかわらず、作者自身の意図は、そのような
「宗教的情念」を提示することではない。知性のかわりに情念を、ないしは知情意をミックスし
た円満な人格を提示しようとしたのではないのである。凡俗の中庸人は直ちに円満な人格に
立ち戻るかもしれぬが、「カミソリのように鋭い」ラスコーリニコフは、自己自身に関してあまりに
無知な「五カペイカの賢人」や、自己欺瞞的な道徳家たちの「愛の家」へはけっして戻りはしな
いであろう。戻ってはならないのである。 

 それならば、ソーニャは、ラスコーリニコフにとっていったい何なのか?・・・・・・。 

 彼女は、ラスコーリニコフの殺人行為を知ったとき、夢中で彼を抱きしめ接吻をした。 
 ・・・・・・「ソーニャ、お前はなんという不思議な女だ。ぼくがこんなことを打ち明けたというの
に、・・・・抱いて接吻するなんて・・・・。お前、自分がわからなくなっているんだろう。」 
 彼女は、「いいえ、この世界は広いけれど、いま、あなたより不幸な人はこの世にいませんも
の!」と叫んで嗚咽する。この一件は、ラスコーリニコフのジレンマを解決する不思議な女ソー
ニャの秘密を物語る。 

 このことを、彼女の母性愛ないしは恋愛感情、あるいはヒューマニズム精神の発露、そしてま
た信仰に基づくいわゆる「伝道」行為などと解してはならない。 
 彼女は、意地の悪い肺病病みの継母と、飲んだくれの父親、それに幼い弟妹を餓死から救
うために、自分の体を売りにでかけ、金を得て帰ると一言もものを言わずにベットに横たわり、
壁に向かってその痩せこけた肩をブルブル震わせているという生活を繰り返しながら、汚辱と
絶望と罪の苦しみの中に生きている。恋とか母性とか、そして清らかな信仰生活とかいった概
念からはおよそほど遠い、「惨めな化粧をし、黄色の鑑札を付けた」恥ずべき娼婦でしかない
のである。善を求め自己犠牲を愛する高潔な善行者やヒューマニストではあり得ぬし、まして
や、罪深い人間を「救ってやりたい、改心させたい」という熱意に満ちあふれた「信仰あつき伝
道者」でもあり得ない。彼女は、ドーニャのような清らかで誇り高い処女ではなく、「だって、私
はこんな・・・・、汚れた・・・・」と自己の罪意識のために自分は人の前には立てず、顔を天に向
けることもできぬ取税人(ルカ伝十八章)のごとくに思いなしながら生きているのである。 

  (ドストエフスキーは、ドーニャのような「伝道者」の義と高潔の中に潜む最も恐るべき欺
瞞を、スヴィドリガイロフの存在によって暴露せしめ、この「伝道」精神を是認するかぎ
り、却ってスヴィドリガイロフの無道徳主義が究極の結論であることを顕示しているので
ある。) 

 ラスコーリニコフの知性によれば、彼女は、「運河へ飛び込むか、精神病院へ入るか、それと
も心を石にして淫蕩のただ中へ身を投ずるか」の三つの途しかありえない。しかしながら、現実
の彼女にはこの内のどれを選ぶことも許されない。罪深き娼婦というわが身を思えば生きるに
生きられず、さりとて、彼女の稼ぎなくしてはたちまち滅びてしまう家族の生活を思えば、死ぬ
ことは勿論のこと、自暴自棄的な堕落の底に身を沈めることすら許されないのである。 

 ラスコーリニコフは言う。「お前が、それほど忌みきらっているこんな泥沼の中に住んでいるこ
と・・・・・・、お前の中では、こんな汚辱や賤劣と、それとは正反対の美しく清い感情とがどうして
肩を並べていられるのだろう。いっそ、ひと思いに運河に飛び込んでしまった方が、はるかに
正しくて賢いやり方だろうに・・・。」 

 彼は、どうして彼女が自殺しないのか、発狂せずにいられるのかと怪しむ。この世に不義が
横行するという事実のゆえに、道徳は観念による幻想であり神は存在しない、何をすることも
許されている、と判断した彼には、汚辱と清浄とを共存させるソーニャの存在を理解することが
できない。しかしながら、彼女は、この矛盾に耐える。耐え得ぬままに耐えている 

  彼は、この謎を解きあぐねた末、ふと、「この女は、奇跡が起こるのでも待っているのではあ
るまいな」と疑い、試みに、「お前は神様にお祈りをするかい、ソーニャ?」 とたずねてみ
た。・・・・・・彼女は、しばし黙っていたが、やがて力を込めて答える。「神様を七れてどうして生
きられましょう。」 

 そして、意外にも、「偉大で完璧」な無神論者ラスコーリニコフに向かってこう言うのであった。
「背教者、あなたは、何も、何もわかっていないんですわおお、神様この人は何もわかっ
ていないのでございます・・・・。」ああ、何をかいわんや。彼は、内心ひそかに叫ぶ。「ウン、
やっぱり思ったとおりだ。狂信者、まさしく狂信者だ」 

 ラスコーリニコフの「カミソリのように鋭い論理」は、彼女が運河に飛び込むか、発狂するか、
あるいは堕落の底に居直りを決め込むか、この三つの途をしか考えることができなかった。こ
こに、彼女は、それ以外の第四の途、「信仰」によって存在している!・・・・。人間の可能性を究
極まで試みんとしたラスコーリニコフは、この第四の途を考えてもみなかった。むしろ、考えつ
かないのが当然であり正しいことであろう。それは、「論理」に背く「背理」であり、人間の可能
性についての絶望でしかないからである。 

 だが、ソーニャは、この非論理、「背理」によってのみ生きる。・・・・・・理想主義的な正義の希
求者ラスコーリニコフにとっては、この世に罪と不義が存在するという事実は、神不在の何より
の証拠であった。すなわち、神はあくまで正しい者にとっての神であり、人間の論理と良心の代
名詞であった。しかるに、ソーニャにとっては、罪と不義との存在こそかえって彼女を神に近づ
けることになる。「・・・・・・神様を離れてどうして生きられましょう。」これが、彼女にとっては最後
の言葉なのである。 

 然り、彼女は、罪を赦すという神の憐れみを信じることによってのみ生きながらえている。人
間の可能性に絶望して、人間ならぬ神の可能性によってのみ生きているのである。すなわち、
神は赦すべからざる者をあえて赦す罪人にとっての神、人間の論理と良心を破って全く望みの
無いところに望みを与え、あり得べからずことをあり得させる神、まさに論理を破る「背理」、
「奇跡」の神なのである。彼女は、それが、「理に背くにもかかわらず」(trotzdem)、いや理に背
くがゆえに敢えて「信ずる」。 

 論理によらず背理によって? 現実によらず信仰によって? 神? 奇跡? ・・・・・・観念の
お化け、無知低級なる者の慰みごと・・・・・・。ああ、救いようのない狂信者ソーニャよ。嗤うべき
現実逃避。・・・・・・こんな非現実的・非論理的な事柄が、ラディカルな否定主義者ラスコーリニコ
フにとって何ほどの意味を持ちうるというのか。こんなことが、どうして、善と正義の支配する新
しい世界創造の原動力となりうるものか!   

 しかしながら、ここに、ソーニャは、この「奇跡」が非現実ならぬ現実の、まさに「現実」の事実
であることを、その存在をもって証する。人は、ふつう「奇跡」と聞けば、何か魔術的な超自然
的現象と解するがゆえに、科学的合理的知性をもってこれを斥ける。ドストエフスキーは、今日
のキリスト教がいまなお昔ながらの神話的形式によって伝えている奇跡という不可解な表現の
真意が、けっして現代の科学的知性と矛盾競合すべきすじあいのものではなく、ソーニャのよ
うな「生き方」そのものであることを教えている。 

 シベリアの極悪流刑人たちは、いまだ十八歳にしかならないこの小娘ソーニャに向かって言
った。「お母ァ、ソフィア・セミョリーナ、あんたはおれたちのお母ァだよ。優しい情け深けえお母
ァだよ!」・・・・その優しい情け深けえお母ァは、ラスコーリニコフの殺人行為を知った時、この
恐るべき人殺しをかき抱いて接吻し嗚咽にむせんだ。このときラスコーリニコフは、「たまらなく
苦しく」感じるが、その理由が何であるかを悟り得ない。彼女が、世界歴史もペルシャのキロス
王のところまでしか習わなかったという「無学者」でなかったなら、あるいは次のように「論理
的」に説明して聞かせたかもしれない。 

 ラスコーリニコフは、「やつら」「虱ども」がナポレオンを尊敬したという事実をもって、「・・・・・・し
てみると、何をすることも許されている」と結論した。
 ということは、彼は、自分が軽蔑する虱どもを、世界の審判者、善悪の判断者に仕立て上げ
ていることになるではないか。いわば、凡俗な虱どもの判断に服従したことになるのだ。いやい
や、もっと端的にいうならば、彼の中に潜む虱的精神が、ナポレオンを許し崇め銅像を建て
た。ナポレオンに脆拝した虱は、誰よりも先ず彼自身であり、彼が発起人となってナポレオン
の記念像を建てたのである。彼は、虱どもを世界の審判者、真理の判定者にした点でまさに
虱であるばかりでなく、虱どもがナポレオンを脆拝したと判断した点で、最も虱的精神に満ちた
虱なのである。偉大なる「非凡人」「超人」もなんのことはない、結局はただの虱にすぎない。し
かも、最も虱的な虱でしかないのだ。 

 彼の自己破綻は、彼が、自分の非凡人論を貫徹するだけの意力を持ち合わせぬ臆病な虱
であったがためではなく、その非凡人論自体が、すでに卑劣な虱的精神に基づく俗人・凡俗の
論であるからにすぎない。これを自覚せぬ彼は、まさにソーニャのいうごとく、「何もわかってい
ない」「不幸な人」なのである。 

 一介の卑劣な虱にすぎない彼が、こともあろうに己を非凡人・超人と規定して、他の虱どもと
峻別せんとした。だがソーニャはこれと反対に、ラスコーリニコフのいわゆる虱どもとの切って
も切れぬ深い連帯を感じる。・・・・・・「ああ、どうぞ、もうそんなふうにおっしゃらないでくださいま
し! 私たちはみな同じ者でございます。」「いったい、神様を離れてどうして生きてゆけるでし
ょう。」 

 彼女は、足元の汚い大地に接吻することをラスコーリニコフに勧める。彼女自身が、すでにこ
の「汚い大地」、つまり罪ある人間を愛しているからである。しかも、これはけっして相手に対す
る憐憫や自己満足の為ではなく、己の罪に対する深い自覚に基づく連帯感によって生ずる「共
生」「共苦」(Mitleiden)なのである。罪ある者を救ってやろうとして伝道するかわりにこれと共に
苦しむ。気高く誇り高い処女ドーニャのように「あなたは卑劣な悪人です」と断罪し説き教える
かわりに、どんな卑劣漢とも連帯性を認めて恥とせず心ひとつに苦しむ。操を金と換えたことを
嘲笑する意地の悪い継母や、それで稼いだ金をみな酒代に変えてしまう父親に対しても、耐え
得ぬままに耐え、それでもなお「共に生きる」ために自分の身を罪の汚辱に渡す。 

 さればこそ、言葉はなくとも彼女の目は宥恕と赦免を語り、どんな大きな罪に悩む者も、彼女
のもとにあってはやすらぎを得る。シベリヤのあらくれ男たちは、いみじくもそれを「優しい情け
深けえ、お母ァ」と表現した。 

  この「優しい情け深けえ、お母ァ」は、彼と共にシベリヤの流刑地に向かい、そこで生活をす
る。彼女は、この人殺しの大罪を共に苦しんでくれる者がひとりもいなければ、彼がまったく滅
んでしまうことを知っていたのである。彼女が敢えてそれをするのは「母性」や「恋慕」による愛
(エロス)ではなく、敢えて罪を赦す奇跡の愛によって彼女自身が生かされていることを知悉す
るがゆえに具現する真の他愛、奇跡の愛(アガペ)によってなのである。 

 けれども、彼女は、けっして神について語ることをせず、教えもしなかった。つまり、あのいか
にもいやみな「伝道」をすることはなかった。「彼は、徒刑生活を始めたばかりの頃、彼女が、
宗教で彼を悩ませ、聖書の話をしてそれを自分に押しつけてくるのではないかと考えたことが
あった。しかし、まったく驚いたことには、彼女は一度として聖書の話をしようとはせず、一度た
りとも彼に聖書を薦めはしなかった。」 

 彼女は、愛について説き教えるのではなく、その身をもって「奇跡」の愛を具現する。そしてそ
れはきわめて徐々にではあるけれども確実にラスコーリニコフを変えてゆく。かって、彼はネヴ
ァ河の橋の上に立った時、なにゆえとも知らずに自殺を思い止まった。作者はそのとき言っ
た。「彼は、あの時、すでに自分の確信の中にある深い虚偽を予感していたかもしれなかっ
た。けれども、彼はそれを悟ることができなかった。したがって、彼はこの予感が、彼の将来の
転回と、復活と、新しい人生観との予言者であったことを悟ることができなかったのであ
る。」・・・・・・いまや彼はそれを悟る。予感したものの実体が何であるかを知るに至った。 

 彼は、流刑地シベリヤの獄中で、全世界の人々が恐ろしい伝染病に感染してことごとく滅し
尽くされるという夢を見る。その病原菌は、なんと、人間の「自己確信」であった。
「この細菌は、理知と意志とを付与された幽霊であった。これに食い入れられた人たちは、た
ちまち悪魔に魅入られた狂人のようになるのだ。人類は、いまだかってなかったほど強烈に自
分が賢くてしっかりした者であると考え、自分の判断や信念を動かし難いものと考えるようにな
った。 

 全村、全市、全国民がこれに感染して。ことごとく狂人になってしまった。誰もかれもが不安な
気持ちにとらわれて、互いに互いを理解せず、各自が自分一人だけ真理を把握していると考
えて、他人を見ることが悩ましくなり、自分の胸を叩いたり、泣いたり、悶えたりする…。誰が誰
を裁いたらよいかもわからなければ、何を悪とし、何を善としたらいいのか、その区別さえもつ
かなかった。なにびとを罰し、なにびとを弁護したらいいのか、それもわからなかった。」
 かくして、この自己確信に満ちた人々は、互いに自己を主張して相争い、滅ぼしあい、ついに
全人類は滅亡してしまう・・・・・・、というのである。 

 自己確信の病毒菌に犯された虱! 卑劣で臆病な虱の取るに足らない自己確信 これに
気付けば世界は変わる。かっては、神の不公平・暴虐として目に映った世界の現象も、いま
は、反対に人間による不義暴虐として自分自身の胸を打つ。この世の不義・混乱・闘争・災禍
はすべてこの自己確信という病毒菌に犯された人間自身のなせるわざであった。ほかならぬラ
スコーリニコフ自身のなせるわざであった。 

 ・・・・・・・・・かくて、彼の生活は変わり始める。以前にはみずからを高しとするがゆえに、「誰を
も愛し得なかった」彼も、いまやその傲慢が砕けて人を愛し得る者となる。 
みずからの心に芽生えたソーニャへの愛が、神への信仰告白であることを感じる。 

 永い間はりつめていた河の氷も音を立てて流れはじめ、シベリヤの広野に春が兆したある朝
早く、あたりに人影のない作業場の河辺で、彼は、ソーニャの足元に身を投じ、泣いて彼女の
膝をかき抱くのであった。 
【了】 
初出 『信濃教育』昭和52年12月号 

 出典 吉村善夫教授著『ドストエフスキー』(昭和二十八年・新教出版社刊)
     なお、同著は1965年に改訂新版として再版されている。 


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