フェリーニ   の映画
    
甘い生活の 実存的解析


フェリーニの映画『甘い生活』の実存的解析 

  ***** ニヒリズムの考察 *****

 高坂邦彦 

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T 映画『甘い生活』のあらすじ 

 ============================ 


                            
ここはローマの上空。

歴史を物語る壮大な建物の屋根また屋根。

まばゆいばかりの紺碧の空。


その空にポツンと一つ黒点が現れる。
黒点徐々に近づいてくる。

:

ヘリコプター!
耳をつんざくけたたましい爆音。

オヤッ、下に何かぶら下がっているではないか。


クローズアップ


意外にも巨大なキリスト像!。

どこかの教会堂から盗んできたのであろう。
スクリーンいっぱいにヘリコプターの大写し。

やがて、ヘリコプターは、ローマカトリック大聖堂の上空に飛来する。

パッと舞い散る無数の鳩
あっけにとられて見上げる豆粒大の人、人…

地上のあらゆる権威と秩序の象徴であるこの建物も、
空から見下ろせばただのタテモノにすぎない。

ヘリコプターは嘲るかのようにそこを通り過ぎ、
ビキニスタイルの美女たちのプール上空にさしかかる。
女たちはキャアキャアと嬌声を発して手を振っている。


マルチェロは、不埒にもキリスト像をヘリコプターにぶら下げて
ローマ上空で遊んでいるのだ。

キリストの顔のクロースアップ。

アッ、いつの間にか仏像の顔に変わってしまった。
と思いきや、三転してナイトクラブの道化師の顔になる。
ナイトクラブの退廃的な官能と喧噪……。

空虚な喧噪

倦怠

無意味



 



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 これは、ひとりの男が、限りなく自己を襲う虚無意識と苦闘し、ついには自己崩壊にいたるま
でを、監督フェディリコ・フェリーニが執拗なタッチで追求した映画『甘い生活』のファースト・シー
ンである。 

 主人公マルチェロは、田舎出身で今はローマに住む二枚目ジャーナリスト。白いスーツとサ
ングラスがよく似合ういささかキザなインテリ・ヤクザふうの男である。 

 彼の生活は荒廃している。女優(アニタ・エグバーグ)の尻を追い回してみたり、貴族の娘を
誘惑してみたり、軽佻浮薄な社交族に混じって古城の中で妖しい乱交パーティーを開いてみた
り・・・・と、まあ酒池肉林の浅ましさ。 

  彼を愛する女エンマ(イヴォンヌ・フォルノウ)は、彼を救おうと躍起であるが、彼には通じな
い。暖かき灯の下での幸せな家庭生活、人の心と心をいやし合う愛の生活から彼は逃げる。
「私が愛さなければ、誰も貴方を救ってくれないのよ。私だけなのよ」と言って彼にすがるエンマ
を路上に置き去りにしてスポーツカーの爆音高く去ってしまうのである。 

 のどかで美しく、やすらぎと連帯感に満ちた田舎から訪ねてきた父親でさえも、今の彼にはチ
グハグでうとましい。 

  尤も、彼にしてみればこのような生活をよしとしているわけではない。彼はこの状態から脱し
ようと必死になって苦しみ、もがき続けているのである。次のようなキェルケゴールの日記の一
節を、彼の場合に当てはめることができるであろう。 

 「私は、たった今、夜会から帰ってきたところだ。そこでは私が中心人物だった。機知は
私の口をついて飛び出し、みんなは私に笑いかけ、私を賞賛していた。………しかし、
私は、おのが頭に一弾ぶち込みたい思いであった。」 

 一度はキリスト像を弄ぶようなことをしてみた彼も、とうとう耐えきれなくなって教会に飛び込
む羽目に陥る。そこでは理知的な紳士スタイナー(アラン・キュニー)が待ち受けているのであ
った。落ち着きと慈愛に満ちたスタイナーは、彼のためにパイプオルガンを奏してくれる。会堂
を圧して鳴り響く『トッカータとフーガ・ニ短調』。・・・・・・荘厳で厳粛な雰囲気がスクリーンいっぱ
いに拡がる。このシーンでは、どんな無神論者といえども、しばしの間、神を信じる気分にもな
る・・・・・・。 

 この日以来、さしものマルチェロの生活も一変する。一生懸命タイプライターに向かい、ジャ
ーナリストとしての仕事に打ち込む。スタイナーの家を訪れ、まじめな画家、詩人、作家たちと
の交際も始まる。マルチェロは、ようやく「生きる意味」「生きがい」「やりがい」を見いだしたか
のようである。さわやかな海辺のレストランでタイプライターを打ち続ける彼は、ジュークボック
スから流れる音楽『パトリシア』を、うるさいから止めろ、とウエイトレスに言いつけるほど真剣で
ある。まさにひとりの男に立ち返ったというべきであろう。 

 おりしも、マリヤ様が再来したという事件がもちあがり、マルチェロはカメラマンを伴って取材
に出かける。広場に群がる素朴な善男善女。それを取り囲む報道陣。テレビの中継車…。
 しかし、これは金儲けのために仕組まれたインチキであることが判明してしまう。奇跡を待ち
望んでいた担架の重病人が、あわれにもにわか雨にあたって死んでしまう・・・・。 

 彼にとっての不幸はさらに重なる。よりによってそんなある日、尊敬するスタイナーが突然ピ
ストル自殺をして果ててしまうのである。原因は、他人にはおろかスタイナー最愛の妻にさえも
わからない。……だが、マルチェロだけは知っている。生前のスタイナーが、彼にその真情(…
……自らの生を脅かす根源的虚無感)を吐露したことがあるからだ。スタイナーといえどもそれ
を克服していたのではなかった。耐えていただけなのだ。マルチェロと同じだったのだ。 

 この二つの事件を契機に、可哀想にもマルチェロは再び元の状態に転落してしまう。 
今までは酒池肉林に浸りながらも、まだまだ、どこかに自制心が働いていた。……が今度はも
ういけない。デカダンな馬鹿騒ぎの主人公は彼自身になってしまうのである。れっきとした淑女
にストリップをやらせたり、酔っぱらった女に馬乗りになって羽毛を撒いたりと、いやはや大変
な騒ぎ。それは、到底、狂宴などという言葉なぞでは言い尽くせるものではない。
……『パトリシア』のメロディーは、かしましくもむなしく流れる。  

  夜を徹した乱痴気騒ぎの薄明、彼らは潮風に当たるために海岸に出るのであった。 
そこでは、勤勉な漁師たちが地曳網を曳いて漁にいそしんでいる。 

Click ! Final Scene 
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大勢が群がるようにして曳き上げた網に、
なんと、たった一匹の巨大なエイ。

……ナンセンス!
グロテスクなその形。不釣り合いに小さな目のクローズアップ。

……烈風に舞う砂。会話を途切れさす潮騒。

………鉛色の空。

重くのしかかる「無意味」「空虚」「不条理」………。

それらを黙して見ているマルチェロ

向こう岸に立っているレストランのウエイトレス
に向かって手を振り別れを告げながら、
画面の奥へと消えていく。

惨めにくたびれたスーツの背。救いようのないその姿。

やがて点と化す………。

Fin





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 この映画は大変な話題を呼び、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した。ここで使われた音楽
『パトリシア』と『アルデベルチ・ローマ』も大ヒットで、おりしもローマ・オリンピックが開催されて
いる年でもあったので、その閉会式の後、参加者は丸めた新聞紙に火をつけて松明を作り、
『アルデベルチ・ローマ』(ローマよ、さようなら)を歌いながら街をねり歩いたとのことである。 


Click ! 
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U 『甘い生活』が提起している問題 


恐怖に対するものは「勇気」であり、 
不安に対するものは「自由」である。 
(ルドルフ・カスナール) 


 マルチェロは、幸せな家庭生活を築こうといってすがるエンマを、「そんなものは、ミミズの生
活だ!」と罵倒し、暗い路上に彼女を置き去りにしてスポーツカーの爆音高く走り去ってしまい
ました。
「ミミズの生活」! これほど、私たちの生活現実を的確に表現した言葉はありますまい。 

 この映画を、没落寸前の斜陽貴族や精神分裂病患者がくりひろげるでたらめな行動だなどと
解釈してはなりません。カンヌ映画祭にこの作品が出品された時、はじめの内は退屈だとかつ
まらないとかいう意見が圧倒的で、その夜はこれをめぐる議論で沸き立っていたとのこと。監
督フェディコ・フェリーニは、妻のジュリエッタ・マシーナ(『ジェルソミナ』の主演女優)、主演のマ
ルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エグバーグ等を伴ってこの祭に参加していたのですが、理解
されないことでイライラした態度だったそうです。 

 ところが、数日後にパリで封切られ、批評家の圧倒的支持を獲得し、大入り満員の報が伝わ
るや、プロデューサーは連日まきかえし宣伝にこれ努め、当のフェリーニは、情勢観望というと
ころでヨットに乗って海上生活を楽しみ始めたとか・・・・。ついには、グランプリ受賞に至ったの
ですが、なぜ、このような事態が生じたのでしょうか。 

 近代のさまざまな歴史的現実と、自然科学の長足の進歩は、従来 Homo Sapience(理念的
人間)と考えられてきた人間が、むしろ、Homo Faber(功利的人間)であることを明らかにして
きました。 

 人々は、合理化された技術的な算定と予測に基づいて打算的な配慮をすることが可能にな
り、それぞれの人は、人間として最も本質的な精神であるべきはずの「自由」(真の自己実現、
主体的自由、自律)を自ら放棄して、社会とか組織とか他人とかに対する配慮と従属をしてい
る存在になり下がってしまっています。

 私たちは、他の人たちと同じような物を買い、同じような楽しみを味わねば、なぜか世の中に
取り残されていくように感じますし、また、文学や芸術や政治について、多くの人が見たり判断
したりするような見方や判断を自分もしなければ、一抹の不安を感じるのです。テレビのコマー
シャルや週刊誌の氾濫は、こうした風潮にますます拍車をかけます。 

 ハイデッガーは、このような現代人の姿を「世人」(das Man) と名付けました。本来あるべき
「真の自己」(eigentliches Selbst) を自ら回避して「平均性」(Durcheschnittlichkeit) の内に埋没
することにより、「公衆性」(Offentlichkeit)の中を浮遊する、誰ともつかぬ「ひと一般」「世人」
(das Man)となってしまっているというのです。 

  マルチェロの言った「ミミズの生活」というのは、まさに、こうした das Man としての自分を自覚
して発せられた言葉に他なりません。マルチェロはそれを必死になって拒否しているのです。こ
の映画の価値をいち早く認めたパリの知識人たちには、監督フェリーニが提起している問題意
識の重要性がいたく心に響いたものと思われます。 

 ところで、困ったことには、「ミミズの生活」をしているdas Man としての自己を拒否して本来的
な自己を回復したいという実存的自覚のもとに、自己についてのidentity(存在検証・存在証
明)を試み始めると、その意図とは逆に却って限りない混沌や虚無の世界に陥り、悪くすると
自己崩壊にまで至ってしまうのです。マルチェロもその例にもれませんでした。 

 私は、マルチェロの後を追いながらマルチェロに従って考え、そのようになる訳とその解決の
途を探ってみたいと思います。 

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V 実存的存在の発見 

 西洋には古くからモメント・モリ(Momento mori汝は死ぬべきものなることを銘記せよ)という
ことわざがあります。この言葉の意味するところは説明するまでもないでしょう。das Man として
の生活に警告を与え、実存的に生きることを要求するのになんと適切な言葉ではありません
か。(いうまでもなく、実存的人間の課題は死のみではありませんが・・・・。) 

 核兵器使用上の手違いから、世界中が廃墟と化してしまい、残されたごく少数の人々が「死
に至る存在」(Sein zum Tode)として運命づけられた最後の生活をするという、いかにも現代的
な着想の『渚にて』という映画がありました。監督スタンリー・クレーマーの着想の良さにもかか
わらず、物語の展開はいかにも楽天的で、やはりアメリカ映画だなあ、との感を持たざるを得
ませんでした。まったくもって無意味な、そして確実にやってくる、しかも、誰も看取る者なき
「死」という限界状況に追いつめられた人間、歴史の終末に居合わせた人間が、はたしてあの
ように勇ましくしていられるでしょうか。「諸君! いざこういう事態に陥っても、この映画の人た
ちを見習って何も考えずに静かに死んでくれ給え。」という主題なのかなとの皮肉な感想を抱い
たのは私だけではありますまい。 

 この『渚にて』にみられるように、私たちの日常生活では、実存的な問題やそれから派生する
不安を忘れさせるためのさまざまな慰戯が存在しています。パチンコ、アルコール、ミステリー
ブック、スポーツ等々数え上げたらきりがありません。巷に氾濫する「愛」や「生きがい」でさえ
もあるいはそうなのかもしれません。これら諸々のものは、実存的な問題から目を背けさせ、
「死を忘れるな」というよりもむしろ「死を忘れろ」と誘惑します。そしてその結果は、実存的意識
のない怪物的な人間を生み出すのです。例えば「死」についてはあたかも子どものようにその
瞬間の生物的苦痛しか問題にならないような奇怪な人間になり下がります。 

彼らは、「ミミズの洞穴」の滑りをよくするためにプラグマティックに伸びたり縮んだりすることに
あくせくするだけで、貴重な一生を終えるのです。 

 けれども、こうした生き方は、その人の人生をあじけない次元の低いものにするばかりです。
動物にとっての「生」は単なる「与えられたもの」でしかありませんが、意識をもった人間にとっ
てのそれは常に実現されるべき「課題」であることを思えば、実存的意識・実存的不安は人間
のみが有するものであり、人間を他の動物と区別するゆえんのものであり、そしてそれ故に、
人生に対する創造的な働きを示唆するものでもありましょう。 

 それなのに、私たちは、いたるところで実存的問題を早諦めに諦めて(というよりは気がつか
ないで)、非実存化してしまっています。例えば石川啄木の詩に、 

     なんとなく 
     自分を嘘の塊のごとく思ひて 
     目をばつむれる 

というのがあります。彼はここで「自分を嘘の塊」であると意識したにもかかわらず、それはた
だ「なんとなく」にすぎませんし、結局は「目をつむって」布団にでももぐり込んでしまったのでしょ
う。自己の醜悪さについて徹底的に考えることをせず、情念の拡散に終わらせてしまい、却っ
てそれを甘美なものとしてしまうのです。かっての女学生たちが彼に対してせつない程の共感
を覚えたのは、このようにセンチメンタリズムに終始しそれに自己陶酔している姿に魅せられ
たからなのでしょう。やがて、彼女らが成長するにつれてそれが反感に変わったのは、ものご
とを徹底的に追求することをせず、結果的に周りに迷惑をかける彼の人生態度の甘さが鼻に
つくからに他なりません。 

 こう言ったからといっても、私はなにもこうしたものを浅薄だなどとけなすつもりはありません。
人間にこうした感情がまったくなかったら、潤いのない砂漠の砂のような人生を送ることになる
でしょうし、こうした心情も、「あわれ」「をかし」から枯淡な「わび」「さび」の世界にまで深化する
こともできるのですから・・・・・・。 

 けれども、それを人生態度(Existenzart)とすることは、人生から実存的問題を排除し、あらゆ
る問題を美的段階(Asthetisch)に止まらせることで、それを享受しているにすぎません。たとえ
ばの話、「つくづく自分が嫌になった」などといって一人で草むらに寝ころんでいるようなオセン
チな人は、そうした自己嫌悪の気持ちが、じつは、自分で見積もっている自己と現実の自己と
の大きなギャップによるものであること、すなわち、自己嫌悪という見かけのその奥に、それ程
までに自分を大きく見積もっているという鼻持ちならぬ自己肯定があるのだという事実に気付
こうともしません。   

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W マルチェロを救うものは何か 

 いろいろと偉そうなことを述べてきましたが、私自身も、そう徹底してものごとを考える力はあ
りませんし、自分の人生を試験管に入れて振り回す程の勇気を持ち合わせているわけでもあ
りません。ですから、この映画の主人公マルチェロの、愚直ともいうべきほど自己に忠実な行
動や、「虚偽に身を任せるよりは、キェルケゴールの答え、すなわち絶望、を恐れることなしに
選ぶ」(カミユ)というような誠実さに羨望とも憧憬ともいえる感情を抱くのです。人間がその実
存的自覚によるラディカルな追求の果に見いだすものは、実存主義の思想家のいうような「不
条理」「嘔吐」等々でいい表される「無意味性」そのもの、そして、そこから生ずる「空無の恐怖」
(horror Vacui)でしかないのですから・・・・。 

 このようなことが分かってみますと、彼を救おうとして、今さら現実生活での出世だとか愛だと
かいった類の「生きがい」などを持ち出すのは、いささか的外れであることがわかります。仮
に、彼の生活がもっと苦しかったならば、あるいは、もっとやりがいのある仕事をもっていたな
らば、マルチェロはあのような状態に陥らずに済んだでしょうか。そういえば、彼もジュークボッ
クスから流れる音楽『パトリシア』を、うるさいからと止めさせてタイプライターを打ちまくった時
期もありました。ところがどうでしょう。同じ『パトリシア』をむなしいストリップ騒ぎの伴奏にせざ
るをえなくなってしまったではありませんか。 

 das Man としての自分の姿を自覚してしまった者にとっては、「生き方」云々以前に「生きる意
味」が見いだせないのですから、仕事も恋愛もしょせんは「無意味」でしかないのです。 

 そもそも、そのように矮小化された日常性を欲し、しかもそのような自らの虚偽性を隠蔽しよ
うと企む不誠実なdas Man からの解脱を図ることが、マルチェロの出発点だったのですし、そ
の結果として、いっさいのものを相対化し無意味化してしまう虚無感と空虚感を身をもって実感
してしまい、彼の生の根源をゆさぶる「空無の恐怖」をみてしまったのです。 

 私たちは、マルチェロをくだらぬ奴などといって嗤い捨てることはできません。P・ H・シモンは
言っています。 

 「自分たちの日常行動のいかに多くが、不安を減少 回避しようという動機によって決定
されているかを 自覚するならば、どれほど多くの人々が驚嘆するであろうか。」 

 あらゆる娯楽、アルコール、政治活動、性への耽溺等々も、こうした人たちにとっては一時し
のぎのトランキライザーにしかすぎません。夕方になると巷の灯が恋しくなるのも、パチンコ屋
のジャラジャラという音に誘われるのも、クルマを買ってかっこうよくとばすのも・・・・、無意識の
不安がなせる慢性トランキライザー中毒かもしれないのです。 

 ローマ大学出身の監督フェリーニは、主人公マルチェロの姿をとおして、これらの営為が、不
安の根源から一時的に目をそらせるだけで、けっして根本的な解決にはならぬばかりか、ます
ます不安をつのらせ、やがては自己崩壊にまで至ることを示しているのです。 


1,宗教? 
 ですから、彼がひたすら希求するものは、彼の精神をとらえて離さぬもの、永遠にして不変な
るもの、そしてそれによる「真の自己」の実現、すなわち、精神的自律、内面的自由の獲得な
のです。 

 キリスト像を弄ぶようなマルチェロの不埒な行動は、こうした欲求の裏返しであることを理解
せねばなりません。君子は怪力乱神を語らずなどといって、信仰を持たずとも平気だし、むしろ
それを誇りにさえしていられる我が国での無神の主張は、ただ単に神は無いという以上の意
味はないのでしょうが、ローマカトリック大聖堂上空におけるマルチェロのそれは、自分たちの
従来の精神的支柱であった神がもはや死んでしまったという深刻な主張であるということを考
慮しなければなりません。 

 周知のように、近世ヨーロッパは、「考える我」(デカルト)としての理性的自我に対する絶対
的信頼から出発しました。カントはそれを受けて、外界の客観世界は主観(つまり自分)による
構成であるとして、主観の優位を説きました。それが、ヘーゲルに至ると、ついに、主観的精神
はその弁証法的発展によって絶対精神(つまり神!)にまで成り上がりました。神の似姿が人
間なのではなくて、逆に、人間に似せて神を作ったにすぎないというフォイエルバッハの認識
は、こうした近代精神がいきつく当然の結論です。 

 ・・・・とすれば、人間そのものが実存的自覚によってその存在根拠を失うとき、当然のことな
がら「神は死んだ」とならざるをえません。 

 世の中が進歩への前進をなしつつあり、すべての人が生まれながらのキリスト教信者であ
り、ドイツ観念論が花咲き、ゲーテやシラーが生まれ、ロマン主義のそよ風がヨーロッパ全土に
漂っていた・・・・、そんな時代にマルチェロが生まれていたならば、彼もあのようなことにはなら
なかったでしょう。 

 この世の権威と秩序の源泉であるべき神が死んだという主張は、我々を取り巻く総てのも
の、かみなり親父や教師は言うにおよばす、教養や芸術や学問、さらに人間性、理性、正義、
真実、・・・・といった理念のことごとくがその権威と威信を失墜し、ついには彼の存在そのもの
までもが相対性の中に浮遊する無意味なものと化したというラディカルな主張と一体のものな
のです。このような価値観の崩壊現象を、ニーチェは「偶像のたそがれ」といい表しましたが、
マルチェロは、まさにこうした時代精神の落とし子な のです。 

  このようなことを知悉しているマルチェロは、キリスト像を弄ぶようなこともしましたが、しまい
にはとうとう耐えきれなくなって教会に飛び込みました。その時は、理知的な友人スタイナーの
奏するパイプオルガンのかもしだす厳粛な雰囲気にやすらぎを覚えました。(バッハ:トッカータとフ
ーガ 二短調 本頁のBGMはその曲
 そして、スタイナーが催すサロンで文化人との交流をしたり、執筆に身を入れたりし始めま
す。スタイナーは、親切でまじめな学者であり、二人の子どもと美しい妻、そして優れた友人た
ちに囲まれて、一見理想的な家庭生活、精神生活をおくっています。温かさと優しさ、人間味に
恵まれた意義ある生活をしている人々の象徴ともいうべき人物でした。そして、それもひとえに
彼の信仰生活のたまものであるかのようにみえました。 

 ところが、その彼が、自宅で催したパーティーの夜、幸せな眠りについている二人の子どもた
ちの寝室で、マルチェロに意外な告白をするのです。 

 「総てのことが皮相的、日常的で、総てのことが組織化されており、総てのことがきまり
きっている今の生活ほど惨めなものはない。なぜって、それらを私は信じていないから
だ。それらはみなうわべだけのものにすぎず、「真実」を隠してしまっている。
 ・・・・私を脅かすのは、夜の静けさだ。暗闇が重くのしかかってくる。
・・・・時には、やがてこの子どもた ちが知るようになる将来の世界を考えてみることもあ
る。人々は、将来の世界は素晴らしいだろうと言う。
 けれども、それはいったいどんな意味でなのだろう。」 

 この苦渋! これが、人をして思わず謙虚にひざまづかせずにはおかぬ敬虔な音楽を奏で
たスタイナー、すさみきったマルチェロの心に安らぎと潤いを与え生きる方向を示したスタイナ
ー、慈愛と安定感、信仰者の雰囲気に満ちたスタイナーの知られざる内面だったのです。 

 そして、ある日突然、いたいけな二人の子どもを道連れにしてピストル自殺をしてしまいま
す。駆けつけたマルチェロは、「彼も恐ろしかったのか」と呟きましたが、この時、彼にとっての
唯一頼みの綱であった意義ある世界の象徴が崩壊してしまったのです。 

 近代人は、神様が腐っていく臭いを嗅ぎましたが、現代人は、たとえ自分が腐っていく臭いを
嗅ごうとも、「神は死んでいる」という認識の下に生きねばならぬということを十分すぎる重みを
もって再認識させられたのです。 

 (註、但し、監督フェリーニは、マリヤ再臨騒動シーンの描き方でも明らかなよう
に、宗教を外面的な習俗・制度の次元でのみ捉えており、したがって、その宗教
批判も皮相的でしかない。論理的追求よりも感覚に訴える映画という表現手段に
よる制約もあろうが、結論があまりにも性急で浅薄であるとの感は拭えない。)

2,政治
 このような問題を考えるとき、多くの人の頭に浮かぶのは、こうした人間を生み出すような社
会環境を改革せねばならないということです。人間は文字どおり人の間に生きる社会的動物な
のですから、その住む環境から多大な影響を受けることは自明の理だからです。機械化され
組織化された現代社会の歪みが人間疎外を生む、というあの公式論的な説明は、人間精神
が環境のいかんによって大きな違いを生ずるという前提にたっています。ですから、学生たち
は、反戦、反帝国主義といった体制批判をし、打倒、体制 破壊といったスローガンを掲げて政
治活動を行います。 

 マルクス主義のすぐれた論客ルカーチは、その著『実存主義か、マルクス主義か』で次のよう
に述べています。 

  実存主義が問題とするテーマは(ということは、マルチェロの問題はということと同義で
す)資本主義の末期的症状、すなわち独占資本主義段階における非人間化の進行とい
う客観的状況が、主観的に反映されたものにすぎない。それは、内面的空虚という観念
への陶酔であり、社会生活からの逃避でしかない。そして、いずれは非喜劇的な袋小路
に行きづ まる。・・・・結局、実存的な「無」などというものは、「歴史的必然性によって死
を宣告された資本主義社会における神話」でしかない。 

 このように、ルカーチによれば、マルチェロは、いってみれば崩壊寸前にある資本主義社会
の落とし子なのですから、資本主義社会を壊せばこういう問題はおこらないのだということにな
ります。 

 しかしながら、これこそあまりにも「非人間的」な判断というものです。そもそも、「空無の恐
怖」などというものは、人がそれで陶酔したり逃避できる安易な場所なんかではないのですが、
いともたやすくそのように論じるところみると、「空無」「不安」「罪」といった実存的な問題が何で
あるかを理解し得ずに、人間を条件反射のパブロフの犬と同等視しているとしか思えません。 

 ルカーチの論法でいくと、パスカルの『パンセ』や、幾世紀か前に禅が説いた「空」や「無」、大
乗仏教の菩薩道、・・・・・・これらはみな「崩壊寸前の資本主義社会の産物」 であったということ
になります。 

 「地獄にゆくもわれひとり、浄土にゆくもわれひとり、ひとり、ひとり、とみつけたり。」「仏の御
名を唱えつつ、地獄のたねをまかぬ日ぞなき。」という門徒宗の自己認識。それからまた、「あ
あ、作家は告白するにも言葉を飾る。・・・・・・こう書きつつも、僕は僕の文章を気にしている。
……ああ、もう僕を信ずるな」(太宰治)というような道徳的宗教的苦闘、実存的苦悩に対して、
政治がいったい何をしてやれるというのでしょうか。政治によってこれらの問題の解決をしよう
などという期待を持つ人は、das Man どころか、はるかに低次元のパブロフの犬なみの生理的
次元にいることを恥じねばなりません。 

 先にも述べましたが、人間にとっての「生」は動物のそれのような単なる与えられたものでな
く、常に実現されつづけるべき「課題」であり、そしてそれが、人間を他の動物と区別するゆえ
んのものなのですから、動物的・自然的次元への後退によって犬の幸福ならぬ見せかけの自
己統一を図ろうとするのは、非人間的発想以外のなにものでもないのです。 

 素朴な政治信仰が自惚れによって偶像化されるとき、いっさいが政治的次元に引きずり下ろ
されることは明らかですから、人間がそれから解放されなければならない迷惑千万な怪物にな
ることは史実が物語っているとおりです。 


3,哲学 
 個々の人の生き方にかかわる実存的レベルの問題を、政治問題に転嫁することの愚かしさ
を述べたわけですが、この見解を当然のこととして認める人ではあっても、無意識のうちにこ
れと大差のない過ちを犯していることがあるのではないかと思います。 



 例えば、子どもが何か悪いことをすれば、家庭環境や生育歴のせいであるとされ、彼 
の幼少から現在までの環境について興信所の報告書もどきの報道がされます。また、心 
理学者と称する講釈師がテレビ画面にしゃしゃり出てさもわけしり顔に解説をします。 
そこでは、当の本人が意志し決断し実行したということについての責任はあまり取りざ 
たされてはいないようです。 

 今日、誰もかれもが、「恥を知れ」とか「バチあたりめ」とかいう言葉を忘れてしまったかのよう
な一億総無責任の状況を呈しているのは、個人の営為の責任をすべて「学校教育の欠陥」と
「政治の貧困」と「家庭環境」になすりつける風潮のためとしか思えません。 

 人間の営為のいかんをこのように「環境」とそれによる「心理」の側面からしか解釈しないとい
うことは、意志を持って精神活動をしている人間の尊厳を著しく損なうものといわざるを得ない
でしょう。マルクスやフロイドの理論そのものが真に理解され適用されてるかどうかはともかくと
して、こうした思考方法や判断方法はマルクスとフロイドの影響によるものであることは明らか
で、二十世紀はマルクスとフロイドの時代だなどと揶揄されるのも仕方のないことです。 

 このような風潮に抗して、人間的な「個」の尊厳をうたい、真剣な主体的思考と行為の必要性
を説くのは、いうまでもなく実存哲学です。実存という言葉は人間の現実の存在ということを意
味しますから、いつの時代であっても真剣に自己の生を考えた人は実存的思考の持ち主であ
ったといえるでしょう。敗戦によってあらゆるもののはかなさと観念性とを思い知った今日の私
たちは、極めてラディカルであり実存的な思考をしているといってもよいのかもしれません。 

  人間の理性と科学的精神に絶大な信頼をよせ、その可能性の実現に向かって邁進した近代
人の楽天的な人間観とは違って、今日の実存哲学は、近代末期における近代精神の破局を
経験し人間の可能性に絶望した現代人の自己意識というわけですから、実存哲学こそ、『甘い
生活』が提起している問題に何らかの処方箋を与えてくれそうに思えます。マルチェロは、この
実存哲学に期待をしてもよいでしょうか。 

 そういえば、私も、マルチェロの不可解な行動を解釈するに際して、実存哲学者ハイデッガー
の das Manや Sein zom Tode をはじめとしていろいろな概念を借りました。 
ハイデッガーは、このように今日の私たちの状況を巧みに分析し解釈してみせますから、マル
チェロについて考察するような場合にはとても便利なのです。というよりはフェリーニのこの映
画は、ハイデッガー哲学の影響のもとに生まれたものだと断言してよいでしょう。マルチェロや
彼をとりまく人々の行動は、ハイデッガーが分析考察してみせた das Man そのものですし、主
演のマルチェロ・マストロヤンニがまた、ハイデッガーの問題意識をよく理解して巧みに演じて
います。

 (彼は、後にカミユの『異邦人』の映画化にあたって、主人公ムルソーを完璧な までに演じきるなど、こうした
問題についての資質と才能に恵まれた俳優である。) 

 ハイデッガーは、個々の人々が das Man からの脱却するための「決断」 (Entscheidung)の必
要性を説いています。ところで、彼の弟子だったレヴィットは面白い洒落を言ったものです。「私
は、決断しようとしている。それは確かだ。ただ、何に対して、何を決断すればよいのか、それ
がわからない・・・・。」これでは、せっかくの実存哲学も、マルチェロを救うどころか、マルチェロ
となんら変わりがないもののようです。これはいったいどうした事情に基づくのでしょうか。 

 ハイデッガーが、実存哲学者としてデビューし、今世紀の生んだ数少ない偉大な哲学者とし
て目されるようになったのも、『存在と時間』という形而上学の著書によってなのですが、そこで
彼は、彼の存在論(On-tologie)を実存論的に展開しています。彼は、自らの用語である「憂慮」
(Sorge)、「不安」(Agst)、「有限性」(Endlichkeit)、 「死」(Tod)等々が、実際経験の次元に属する
「存在的」(Ontisch)な概念ではなく、「存在論的」(ontlogisch)な概念であることを強調していま
す。 

 したがって、ハイデッガーは、マルチェロの陥っているような状態を「非本来的存在」
(uneigentliches Sebstsein)であると指摘し、本来の自己になるための「決断」を要請するので
すが、その具体的内容(wie)や具体的目標(Wozu)についてはなんら指示できないのです。 

 このように、ハイデッガーの哲学は、分析や解釈にはおおいに役立つとはいうものの、ことが
ひとたび各自の生き方いかんについての問題になると何のかかわりもなくなってしまうのです。
先のレヴィットの洒落は、ハイデッガーがフライブルグ大学総長としてナチスドイツに加担する
という恥ずべき「決断」をしたことを揶揄して言った言葉なのです。 

 (蛇足ながら、この高名な哲学者レヴィットは、ナチスドイツのユダヤ人迫害を
逃れるために、日本に来て東北大学で教鞭をとっていたことがある。彼の、ハイ
デッガーに対する想いは複雑なものがある。) 

 その意味では、実存哲学者はちょっとも実存的ではない、などと言ったら生意気なと 
いって叱られるかもしれません。キェルケゴールは、自分が死んだら「哲学教授」たち 
が彼の哲学を章節に割り付けて、出来上がった観念の体系として説明するだろうと想像 
して憤怒に襲われたという話が、いかにも本当らしく思えます。 


4,文学 
 実存が、まさに現実の存在のことであるとするならば、これまで述べたように、哲学者たちに
よって「実存論的」に語られ得るようなものではないのですから、今日の実存思潮の普及を促
した立役者が、いわゆる実存哲学者の哲学論ではなく、サルトルやカミユの小説や戯曲であっ
たこともうなずけるところです。 

 ハイデッガーやヤスパースの哲学を、「テーブルの上でかるたをやっているだけだ」と揶揄す
るサルトルは、「自己回復」の企てとしての「自由」の偉大さについて語ります。 

 人々は、「自由」をあたかも獲得すべき対象、到達すべき目標のごとくに錯覚し、「自由
のために」というような言い方をするが、それは、「自由」が何であるかを知らない人の言
いぐさである、とサルトルは言います。人間は、まず実存してしかる後に自由であるので
はなく、自由であるということと実存するということとは一つのことでしかない。人間は、自
由であるより以外の在り方を持たない。 

 それを例えばこんなふうに表現しています。 
 「風が蜘蛛の巣から引き離し、地面から十尺ばかりのところに浮かんでいる蜘蛛糸の
ような自由……。僕は蜘蛛糸の重さしかなく、虚空の中に生きている」(オレスト)。 

 また、『実存主義とはヒューマニズムである』という講演では、次のように述べています。 

「人間は、いかなる支えもいかなる救いもなしに、たえず自分を創り出すべく運命づけら
れている。」 
それはすなわち、「行動することにおいてしか自由はない」ということであり、「人間は己を
実現する かぎりにおいてのみ存在する。」そして、生きているかぎりこの自由の賭はけ
っして終わることなくなされ続ける。」 
 これは、ニーチェのいう綱渡りにも似て、立ち止まることも振り返ることもできぬ至難の
技である。 
けれども、そのつど自ら決意し選択していくという自由の重みに耐えかねて、なにものか
に依存したり逃避したりして、既成の価値に己を従わせるのは自己欺瞞でしかない。 

  しかしながら、「生まれながらに拘束されている人間もいる。彼らには自由がな
い。・・・・彼らも行動はする。けれども彼らの足は砂利のために皮がすりむける。・・・・ま
た、こういう人間もいる。黙っている人間、つまり心の奥底で濁った地上的な重さを感じ
ている人間だ。・・・・・・まあいいさ。こういう連中は優れた人間ではないのだ」。 

 『甘い生活』のマルチェロは、まさしく、優れた人間ではありませんでしたから、サルトルのいう
「自由」の重荷に耐えることができませんでした。 

  しかしながら、私見によれば、これはマルチェロが優れた人間でなかったためというよりは、
むしろ、サルトルの思想そのものの必然的な結論であろうかと思われます。そのことをフール
キエは端的に次のように言います。 

「出発点においては、サルトルの自由論は無限の可能性があるようにみえた。 だが、こ
の言葉の隠し持っているものを明確にしてみた結果、我々は、偽りの自由、つまり、生物
としての自発性しか問題になっていないことを確認せざるをえない。」
                         (フールキエ『実存主義』クセジュ文庫) 

 サルトルやカミユの文学が、ハイデッガーの哲学よりも実存思想の流行に拍車をかけたのは
事実ですが、その反面、いわゆる実存が皮相的に解釈され、あるいは誤解される因となったこ
とも見逃すことはできません。これは、誤解する方が悪いといえばいえるでしょうが、それよりも
むしろ、サルトルの思想がフールキエに指摘されたような正体を有するものであるという事情
に起因するものでしょう。そもそもサルトルの思想は、前の戦争をとおして人間性の極限を知り
尽くし、深刻な絶望感を抱いた西欧人のもので す。 

 ところが、我が国では、大多数の人々が敗戦をむしろ解放と捉え、人間の可能性についてア
メリカ的な幻想をいだきました。したがって、サルトルによる「参加」や「行動」(フールキエに言
わせれば、単なる生物学的自発性)の鼓舞は、本来の意味であるニヒリズム克服のための哲
学としてよりも、建前を外した恥知らずな本音の発露的言動を正当化するための手段になった
という面があったことは否定できません。 

 自然で素朴なヒューマニズムを支えている社会的・精神的基盤が崩壊し、人生のいっさいの
価値に絶望し、ニヒリズムが人格の核心を食い荒らすようになると、最後に、自分に残った動
物的本能の発露に人生の支柱をを見いだそうとする人生観が生まれることを古今の作家は明
らかにしています。

 他とのバランスを失した経済的価値観のみの極端な肥大、規範意識の希薄化・・・・ 等々、現
代の世相は、みながそれぞれに自己の「自我」や「生」の主張をすることに余念がありません。
これは、つきつめれば、ティーリケの指摘するようなニヒリズムのなれの果というべきものでしょ
うが、我が国におけるサルトルの実存思想は、その自覚を促すよりも、逆にそれを正当化する
ために利用された面がある、と私は考えます。 

 そもそも実存主義文学の問題意識・出発点は、現代人の「自我」や「生」が近代人のそれの
ように主張されるべき実体を持った自明のものではないという自覚のもとに、その苦悩を追求
しようというものだったはずです。にもかかわらず、戦後わが国の政治的・思想的位相と、サル
トル思想の隠された原理(生物学的自発性)とが都合よくミックスされ、皮相的な「生」の主張の
次元にとどまっているのは、嘆かわしいことといわねばなりません。 
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X 結語ならぬ結語 

 話を『甘い生活』に戻して、マルチェロの場合について考えてみましょう。・・・・・・なるほど、彼
の生活は常軌を逸した狂気の沙汰としか見えません。しかしながら、彼は、それをけっして楽し
んだり広告しているわけではないのです。放蕩の限りをつくしてはいるものの、無邪気な子ども
や自堕落な道楽息子のように楽しむことなどできずに、いつも「おのが頭に一発ぶち込みた
い」思いにかられている彼は、教会に飛び込んでみたり、仕事に打ち込んでみようとしたり、文
化人との交流に期待したりして、「不安」の状況から脱しようと苦しみあがいています。それは
けっして『甘い生活』なんぞではなく、にがい生活とでもいうべきものです。 

 その苦い生活も、物語の始めのうちは単なる「不安」「虚無」の自覚ぐらいでしかありませんで
した。アメリカから来た女優の後を追い回している頃のマルチェロには、彼女の逸脱した行動
をあっけににとられて眺めるだけの余裕がありました。 

 ところが、スタイナー亡き後、彼の「空無の恐怖」は極限に達し、めちゃくちゃな状態に陥りま
す。見る者が思わず目を覆いたくなるような乱痴気騒ぎの中心人物は、彼自身になってしまう
のです。離婚した淑女の慰安パーティでのストリップ騒ぎ、四つ這いの女にまたがっての畜生
扱い、・・・・・・酔っぱらった彼は、枕の羽毛を引っぱり出して、わけのわからぬ叫び声を発しな
がら部屋いっぱいに撒き散らします・・・・。フワフワと舞い散る羽毛は、あたかも行方定まらぬ
彼の心情そのもののようです。 

 翌朝、疲れた身体を浜辺の風に吹きさらし、髪の毛をバサバサさせながら、対岸の少女に向
かって叫んでいる時の彼は、哲学者や文学者の語る「不安」や「虚無」をはるかに通り越した
「自己崩壊」をきたしているといえます。いわばそれは発狂寸前であって、このことは、人間にと
って、「たじろぐことなく無を見つめて・・・・」というような、いわゆる実存主義流の虚無の主張は
耐え得ぬものであることを示唆しています。 

 彼の必死の努力にもかかわらず、彼が声を発することができず、入り江の向こうに立ってい
る少女(・・意義ある世界の象徴・・・・)には何も届かず、そしてまた、彼女の声も彼には届かな
いあのラストシーンのもどかしさは、フェリーニがこうした耐え難い状態を表現したものに他なり
ません。              Click ! Final Scene 

 マルチェロのこのなれの果をみると、マルチェロや私たちのような凡人にとっては、カミユの
描く『異邦人』のムルソーのような人物は、現実性のない観念の遊戯でしかないことがはっきり
します。人間は、あのような不条理の自覚とその主張には到底耐え得るものではないからで
す。 

 ティーリケは、ニヒリズム(虚無主義)を他のイズム(主義・主張)と区別してこういいます。 

 「およそイズムというものは、医師であろうとの志を持ち、それぞれのイズムは世界を救
おうというプログラムを持っている。ところが、ニヒリズムは、おのが身を食い尽くす細菌
に感染した患者である自分を発見する。」(ティーリケ『ニヒリズム』筑摩書房) 

 片方でニヒル(虚無)をいいながら、もう片方でイズム(主張)をいうことは自己矛盾です。
論理的にはその主張も無意味なはずなのですから・・・・。つまり、実存と主義は自己矛盾なの
です。実存が実存主義になるとき、人間は「生物学的自発性」の次元に堕するしかありませ
ん。実存的な問題は、何らかの積極的な主義主張ではなく、絶望の叫び、救助の祈願としてし
か存在しえないのです。フェリーニは、このことをじつに雄弁に映像で教えてくれました。

【完】 
Nino Rota - 'La Dolce Vita (finale)'


初出 信州大学教育学部/曙寮誌『あけぼの』 昭和37年 
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 上映時間 185分   製作国 イタリア/フランス (イタリフィルム) 
 初公開年月 1960/09/ 
 監督: フェデリコ・フェリーニ 
 製作: ジュゼッペ・アマト  アンジェロ・リッツォーリ 
 原案: フェデリコ・フェリーニ 
 脚本: フェデリコ・フェリーニ 
     エンニオ・フライアーノ 
     トゥリオ・ピネッリ 
     ブルネッロ・ロンディ 
 撮影: オテッロ・マルテッリ 
 音楽: ニーノ・ロータ 
 出演: マルチェロ・マストロヤンニ 
     アニタ・エクバーグ 
     アヌーク・エーメ 
     バーバラ・スティール 
     ナディア・グレイ 
     ラウラ・ベッティ 
     イヴォンヌ・フルノー 
     マガリ・ノエル 
     アラン・キュニー 

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