17年度

H17/4/15
                    君子は義に喩り 小人は利に喩る

 風土という言葉があるが、知識人はいわば「風」のようなものだ。旋風を巻き起こしはするが
いずれはその地を去る。それに比べれば、農民や職人や商人は「土」である。その地に生きて
根付き、その生業や息づかいがその地の気風を育む。
 穂高にあった研成義塾について詳しい宮澤正典教授(同志社女子大)は、「研成義塾に集ま
った人々は、自己の労働に勤勉誠実な、文明人として恥じることのない教養を身につけた平凡
なよき農夫、商人、職人となった」といい、ワシントン靴店創業者の東條たかしのことを、「研成
義塾の教師井口喜源治が目指したものを最もよく受け継いだ一人である」と讃えている。(東
條たかし自伝『私の春秋』解説)
  その東條たかしが、研成義塾の教育の本質について書いている。
 「研成義塾はキリスト教主義にたつ学校でしたが、儒教の講義は丁寧・綿密・精細を極めまし
たので、当時、生徒はキリスト教にかぶれる前に儒教的精神に浸潤したように思います。
 先生の武士道的キリスト教に深い感化を受けましたのは、私どもの心にぴったり合ったため
ではないかと思います。」
 つまり、儒教と武士道とキリスト教とに共通の精神があり、しかも、元々それにぴったり合う
「私どもの心」(地域の気風)が在ったというのである。
 儒教といえば、封建的な礼節の教えだと誤解されやすいが、「仁を失ひて後に義あり。義を
失ひて後に礼あり。そもそも礼は忠信の薄きにして乱の首なり」とあるように、儒教の真髄は、
「礼」ではなくて「仁」なのである。仁とは人を人として尊重するという精神である。
 中国・朝鮮での儒教は「礼節の型」だが、日本では伊藤仁齋以来、内面的・精神的な「仁」
「義」の教えとして流布した。
 また、武士道とは、俗にいう「死ぬことと見つけたり」ということなんぞではない。「君子は義に
喩り、小人は利に喩る」という言葉どおりに、信義を尊び、地位欲や金銭欲などの利己心を邪
念として蔑む禁欲の美学なのである。剣道や弓道、座禅などの武家文化は、これらの邪念を
克服する道であった。
 江戸期の武士たちは貧困だったが、武士道を階級の誇りとした。下級武士やその下の地下
侍たちはとりわけそうであった。
 明治期になって、実業界に進出した彼らが日本的経営の気風を創り出した。例えば、三菱の
創業者・岩崎弥太郎の出自は土佐藩の地下侍である。
 明治実業界の大成功者・渋沢栄一は一橋家の家臣だが、「孔子の真髄は仁の一字にある。
実業界は仁を大もととすれば、工業に粗製濫造なく、商業に詐欺違約起こらず」といっている。
 経営者が従業員との一視同仁の思想をもって企業経営に臨むというのが、従来の日本的経
営の特徴であり強みであった。
 今は、知識人や政治家たちが一視同仁を否定して、「利に喩る」アメリカ化の旋風を巻き起こ
している。本当にそれでよいのかどうかは大問題なのに…。




H17/5/17
                   信濃乙女

 詩人尾崎喜八の随筆「信濃乙女」は、ある山行の際の朝の通学列車内のことを著したもので
ある。発表年(昭和十三年)や会話の内容から察するに、この話に登場するのは、旧制松本高
女の女学生たちであろう。

 「ミサちゃん、これ、わし、さっぱり判らんが言うてみて。」
 「どれどれ、これか、これは対頂角の問題じゃ。」
 「わし、その対頂角を忘れてしまったじゃ。」
 「忘れたのか。対頂角というのはな、二直線が交わって……。それでこの問題の証明は…。」
 「ミサちゃん、ここのso thatは何と訳すのか教えて。」
 「これか。ここのso thatは何々するためにという意味じゃ。彼女は健康を恢復するために海 
 岸へ行ったじゃ。海岸へ行ったから健康を恢復したという意味ではない……。わかった?」
 「わかった。ありがと、ミサちゃん。」
 「ミサちゃん、ミサちゃん。」
 …汽車は塩尻峠を後にして五月の朝の松本平を走っていた。明け方近く一雨ザッとあったら
しく、柔らかい乱雲のなごりが悠々と盆地の空を泳いでいる。左手の窓にはまだうずたかい残
雪を朝日に染めた北アルプスの青と薔薇いろの雄渾な連峰、右手の窓には今日登ろうとする
美ヶ原熔岩台地。………。
 ……僕はこの聡明なミサちゃんという子の、姉らしく、母らしく、しかも正に十五・六の小娘の
横顔を、車窓から飛び込んでくる風景と一緒に、信州全体への敬意をもって眺めていた。
                         (『尾崎喜八詩文集5卷』)

 後年、彼は信州で生まれた自分の孫娘を美砂子と名付けた。
 尾崎喜八はまた、終戦直後のある日、講演のために夕刻の通勤列車で長野へ向かってい
た。
 斜め前の座席で、誠実なまなざしをした清楚な身なりの若い通勤女性が岩波文庫の「ジャ
ン・クリストフ」を読んでいる。ロマン・ロランがベートーベンをモデルに書いた長編小説だ。やが
て、列車は冠着駅に着き、彼女は本を閉じて降車した。
 尾崎がロランから貰った数通の手紙の一節に、「私の著書の真の読者は、フランスの田舎の
奥に埋もれ、名も無ければ富もなく、苦しい仕事に不平も言わず、常に黙々と働いている女た
ちだ」と書いてある。その話を彼女にしなかったことを、彼はちょっぴり悔やんだ。(「冠着」『尾
崎喜八詩文集6卷』)
  ◇   ◇
 信州人に対する尾崎のオマージュは、単純素朴な直截的なものではない。彼は信州人の嫌
な部分も十分に知悉していた。
 それどころか、終戦後、執拗に彼を難詰したのは、某信州人である。
  それにもかかわらず、尾崎は人間に対する希望を捨てなかった。若き日に白樺派に傾倒し
た尾崎喜八は、生涯にわたってラ・ヴィ・ユナニーム(全人一如の生活)の精神を以て、学生や
勤労者など、健気な人間に対する親しみと共感の情を抱きつづけた稟性の高い人であった。




H17/6/16
       李鴻章の忠言「日本国は久遠の仇敵たらん」 
   
 横井庄一さんは、戦争が終わったのに二十七年間もグァム島の山奥に潜んでいた。発見さ
れた時の名言。「日本はだいたい十年おきに戦争をやっているから、ここで待ってれば、また
日本軍がやってくると思った。」
 歴史年表を見るとなるほどそのとおりで、日清戦争以来、日本は戦争ばかりしていた。
 「台湾日報」の記者が日本に来てみたら、そこら中に「口から出ること常にうそ」という標示が
あるではないか。彼は「そのとおりだ」と思ったが、じつは、左横書きの「非常出口」を昔流に右
から「口出常非」と読んでいたのだった!
   ◇   ◇
  同じものごとでも、立場が違えば見方も意味も異なる。対中戦争のことを、日本は「侮日抗日
の暴支膺懲だ、大東亜共栄圏の建設だ」と謳ったが、諸外国は「日本の領土欲と中国蔑視に
よる侵略だ」と解釈した。
 司馬遼太郎は「日清・日露の戦争は祖国防衛戦争でした。明治の政治家は賢明で立派でし
たが、昭和の政治家や軍人は愚かで、日本と隣国に災禍をもたらしました」と言った。これを司
馬史観というが、中国側には認めがたい史観だろう。中国のいう「歴史認識の問題」の元をた
だせば日清戦争なのだから…。
 日清戦争後の講和会議(下関条約)に臨んだ外相・陸奥宗光は、清国の李鴻章にいきなり
苛酷な休戦条件をつきつけた。
@台湾その他の領土をよこせ。
A賠償金を二億テール払え。
 これを聞いた李鴻章は、顔面蒼白になって抗議した。
「@日本側のいう今回の戦争の目的は、朝鮮の独立ということだったではないか。清国は既に
朝鮮の独立を認めているのに、なぜ、清国の領土を奪うのか。
 A今回の戦争は清国が仕掛けたものではない。清国は被害者なのに、なぜ、清国が賠償金
を払わねばならぬのか。
 こんなやり方は日清両国の将来にとってよくない。日本国に対する怨みが生じ、久遠の仇敵
になってしまうだろう。」
 こう忠言する李鴻章に向かって陸奥宗光と伊藤博文は「我々は勝者だ。お前は敗者ではな
いか。つべこべ言うなら北京まで侵攻するぞ」と脅かした。(陸奥宗光『蹇蹇録』岩波文庫)
  中国を舐めたこのやり方が発端となり、その後の対中外交は日本のやりたい放題になった。
 やがて、中国には「久遠の仇敵」に対するナショナリズムが育ったというのに、日本は相変わ
らずの中国蔑視で日中戦争を起こし泥沼に陥った。日米戦争の惨劇も、その根源は日本の中
国認識の誤りからなのである。
 近衛内閣の勇み足で日中戦争が始まった時、浅間温泉の西石川旅館で病臥中だった植原
悦二郎は「近衛は間違っておる。実に困ったものだ」と慷慨し手にした新聞の上に涙を落とし
た。
 近衛文麿は当時の人気政治家だった。今の人気政治家某氏も「中国の反日は、近年の反
日教育のせいだ」と言っている。中国積年の怨念を知らぬげな政治家の夜郎自大というもの
だ。




H17/7/18
         日本国憲法の源泉 ー植原悦二郎の政治学ー 
          
 評論家の立花隆氏が、最近発刊された原秀成著『日本国憲法制定の系譜』(日本評論社)を
紹介し、植原悦二郎のことを高く評価している。(『週刊文春』6月2日号「私の読書室」)
 「日本ではすっかり忘れ去られている植原悦二郎という大正デモクラシー期の政治学者を掘
り出して、アメリカ側の日本国憲法初期起草者たちが彼の著書から基本的な発想を得ていた
ことを証明した。新憲法は、アメリカの押し付けというより、大正デモクラシーの嫡子であったこ
とが証明されたわけだ。」
 立花氏は、憲法問題について書いたりTV番組で語ったりしているので、憲法制定史に関す
る書物は数多く読んだが、この本には感心させられたという。
 「これだけ浩瀚な本は他にない。アメリカ公文書館の資料がぎっしり詰まっていて、これまで
に出た憲法制定史とは、記述の水準、論議の水準がまるで違う。憲法制定史はこの本を抜き
には語れなくなった。」
   ◇   ◇
 原秀成氏は、アメリカ公文書館に眠っていた国務省の資料でアメリカの日本研究者たちの足
跡を辿って、『日本国憲法制定の系譜』を著した。冒頭に植原悦二郎に関する記述が三〇頁も
ある。大要は次のとおり。
「ロンドン大学の留学生・植原の博士論文『日本政治の発展』(英文)が一九一〇年にイギリス
で出版された。この本は日本では知られていないが、英米の日本研究者たちにとっては日本
理解の為の基本書だった。」
 「アメリカ国務省は戦中に早くも日本の敗戦を見越して周到な占領政策を立案していた。
 憲法の骨子を起案したスタッフは、イギリス人外交官サンソムから日本の政治体制の問題点
を学んだが、じつはこれは、植原政治学の受け売りだった。
 つまり、日本国憲法の源泉は植原悦二郎の政治学である。」
   ◇   ◇
 ところで、原秀成氏は、「植原が当時の日本でこの本を出版していたら朝憲紊乱とされかね
ない内容である」と述べているが、じつは、植原は帰国後ただちに朝憲紊乱的(?)な政治学
書『立憲代議政体論』や雑誌論文を数多く著している。
 早くからこれらの憲法史上の意義に注目していた長尾龍一先生(元東大教授)のお世話で、
この度、信山社の日本憲法史叢書『植原悦二郎集』として纏められ復刻出版された。知る人ぞ
知る鬼才・長尾龍一教授(法哲学・法思想史)による植原伝と学問的評価も掲載されている。
 図らずも、この『植原悦二郎集』発刊が、植原を高く評価した原秀成氏の著作の発刊と重な
ったので、時宜を得た有意義な出版となった。大損を承知の上で出版してくれた学術専門書出
版の信山社に深く感謝する。
 蛇足ながら、小生が同書の編集と解説を担当させて頂く機縁となった、拙著『清沢洌と植原
悦二郎ー戦前日本の外交批評と憲法論議ー』は、一般読者向けに著した論評である。併せて
お読み頂ければ有り難い。(品切・松本市立図書館等に在)




H17/7/18
             「生きて虜囚の辱を受けず」 
         
 先頃のサイパン島への天皇の慰霊行幸に併せて、戦時中の衝撃的な記録映像が放映され
た。断崖からの飛降り自殺である。
 東條英機が作った『戦陣訓』「生きて虜囚の辱を受けず」の実行だが、あれはほんの一例に
すぎない。ガダルカナル、グァム、サイパン、レイテ、沖縄。日本軍はあらゆる戦場で投降を拒
んで玉砕した。戦陣訓が強要した集団自殺である。
 ところが、その戦陣訓を書いた東條英機自身が、戦後、自殺に失敗して占領軍に逮捕され、
米軍兵士から輸血してもらって命拾いしたのだから、国民はあきれてしまった。玉砕させられ
た戦没者たちがうかばれない。
   ◇   ◇
 清沢洌は『暗黒日記』に「東條内閣の知識と見識の無さは他に類例がない」と書いている。
 三郷村出身の政治家・植原悦二郎は、国会予算委員会で、英米両国に対する東條の無知
や愚昧非合理な戦争指導を批判したら、東條に報復され落選した。
(この件は平成十四年五月十五日の『炉辺閑話』で紹介済み)
 植原も清沢も長い滞米生活と学問によって正確な対米認識と合理主義を身につけていた。
 穂高出身の平林盛人中将も駐在武官としての長い滞米経験で確かな対米認識をもってい
た。昭和十六年の真珠湾攻撃の十一日後に、平林師団長は司令部の将校全員を集め馘首を
覚悟で東條批判をした。日頃の温顔とは違う怒気を込めた口調だった。
@日本は英米の寝込みを襲って勝ったつもりでいるが、一年後には劣勢になる。国力乏しく、
装備劣勢な日本軍は近代戦を闘い得ない。日本は必ず負ける。
A日本は無謀に始めてしまった対中戦争に精一杯で、新たに対米戦争をする余力なんぞな
い。
B東條大将には陸軍大臣や総理大臣としての見識は無い。早く予備役(退役)にすべきだ。
(右記は風早主計将校の証言)
 こう痛憤した平林中将の方が予備役にされてしまった。報復の馘首である。その後、松本市
長や戦後の穂高町長を務めた。
   ◇   ◇
 テレビのニュースをみていたら某婦人がしゃべっていた。「東京裁判は間違いだ。A級戦犯だ
のB級戦犯だのというのは、戦勝国が勝手に決めたことだ。……」
 A級戦犯たちは戦争を計画し強制した政府要人だが、BC級戦犯は強制された側の人たちで
ある。捕虜や住民を虐待し殺戮した咎により、現地の裁判で九三四名もが死刑になった。
 彼らは捕虜虐待を禁じた国際条約のことを何も教えられていなかった。「生きて虜囚になった
敵なんか辱められて当然だ」と思って虐待したのである。
 そもそも、東京裁判が間違いだという主張は、あの戦争が正当だったとの考えに基づいてい
る。東亜全域を戦場と化し、三百万人もの日本人と二千万人もの東亜の人々を殺し、東亜諸
国に末代までの日本への怨みを植え付けた戦争を、東亜の為の正当な戦争だったと言い張る
のはいくらなんでもあつかましい。




H17/9/16
           「満州事変」喝采の政治心理学 
          
 昔、日光・華厳の滝で投身自殺した旧制第一高校(現東大)の学生・藤村操は、遺書が珍妙
だったので一躍有名になった。
 「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今。万有の真相は不可解。我この恨を懐いて煩悶。終に死
を決するに至る。」
 つまり、哲学的問題に悩んでの自殺だという遺書だが、これは体裁のつけすぎで、本当の理
由は身の程知らずの横恋慕だった。相手の名は多美。父親・菊池大麓は東大や京大の総
長、学習院長、文部大臣を歴任した。
 そういう良家深窓の令嬢は、まだ前途も定かならぬ十八歳の学生なんぞの相手ではなく、多
美は前途有望な東京帝大教授・美濃部達吉の若き妻になった。
   ◇   ◇
 美濃部達吉の憲法学説(天皇機関説・国家主権説)は、当時の権威ある正統説で、政府も
官僚も、そして天皇側近も天皇自身もこの説に則っていた。
  それに拠って、大正期〜昭和初期には、普通選挙の実施、実質上の衆議院の優位、議院内
閣制等々、西欧型の立憲君主制が実現していたのである。
 それがいともたやすく崩壊したのは、国民や新聞が軍に期待し喝采を送ったからである。
 昭和六年、軍は勝手に満州事変を起こしたものの、じつは新聞や世論の批判を予想し危惧
していた。ところがあにはからんや、新聞は軍に喝采を送り、不拡大方針の若槻内閣に対し
て、「政府はこれを早く追認すべきである」と批判し煽動した。
 天皇は事変を後で知った。つまり、天皇の事前裁可はなかった。だから、現地司令官による
明白な統帥権侵害であり、国家への反逆の筈だが、そのことを指摘した新聞はなかった。
 世論の喝采で増長した軍は、政府の意志とは無関係に、現地司令官に統帥権侵害の戦争
を何回も起こさせ、それを後で政府に追認させた。日本が戦争好きだと嫌われたのも無理は
ない。
   ◇   ◇
 植原悦二郎を指導し博士号を与えたロンドン大学のウォーラス教授は高名な政治心理学者
である。彼は言う。「人間も政治も、当人には無意識の本能や深層心理に支配されている。」
 そういえば、藤村操の自殺は哲学的煩悶が原因だと本人も周りも思っていたが、真因は失
恋による彼の鬱的な気分だった。
では満州事変を喝采した大衆の無意識の真因は何だったのか。
 政治経済的な理由とは別次元の原初的な領土欲・膨張欲・支配欲は、もはや中国のナショ
ナリズムの芽生えに伴って安易には充たせなくなっていた。その苛立ちを一気に晴らせた快感
で喝采したのではあるまいか。
 蛇足ながらウォーラスはこうも言っている。「政治スローガンというものは本当の事情を隠して
単純な二者択一の問題にすり替えられる。大衆の見識が高まれば、こういう演説で大衆操作
を謀る政治家を見破るようになるし、そんな演説を聞いている自分を恥ずかしく思うようにもな
るのだろうが…」
 ウォーラスは百年も前の学者だが、今の政治状況にも当てはまる卓見というものであろう。




H17/10/18
           「田舎のモーツァルト」音楽祭 

 来る十月二四日(月)午後一時から、穂高東中学校で例年恒例の「田舎のモーツァルト」音楽
祭が催される。尾崎喜八の詩「田舎のモーツァルト」にちなんだ一般公開の音楽祭である。学
校の前庭にその詩碑がある。
        
  中学の音楽室でピアノが鳴っている。
  生徒たちは 男も女も
  両手を膝に、目をすえて、
  きらめくような、流れるような、
  音の造形に聴き入っている。
  そとは秋晴れの安曇平、
  青い常念と黄ばんだアカシア。
  自然にも 形成と傾聴のある
  この田舎で
  新任の若い女の先生が
  孜々として
  モーツァルトの見事なロンドを弾いている。
    
 たくさんの詩を書いた尾崎だが、この詩は特に気に入っていた。随筆にこう書いている。
 「新任の女の先生が孜々として弾き、それをまた、いささかも音楽擦れしていない信州安曇
の中学生たちは身じろぎもせず傾聴している。この光景は、強く私の心を動かした。」「そして
田舎! ああ、私の郷愁の理想世界のいなかというもの…。これこそ、モーツァルトの芸術の
本当のすみかでなければならない。そして願わくば私の詩もまたそのようでありたい。」
  ◇   ◇
 平成十一年に初めて催された音楽祭に全国各地から尾崎喜八研究会員が訪れた。碑前祭
と音楽会の様子が、研究会の機関誌に次のように記録されている。
 「講堂の舞台いっぱいの大きなスクリーンに尾崎が訪れた頃の旧校舎、奥穂高を背景に上
高地で撮った尾崎の肖像写真、詩『田舎のモーツァルト』『安曇野』等が写し出され、ナレーショ
ンで説明される。尾崎の詩の朗読が流れる。講堂には千人近い生徒が着席している…。今は
あまり使われない『孜々として』という言葉の意味(ひたむきに努めるさま)の大切さを、遺族が
挨拶の中で説明した…。
 日頃ピアノやヴァイオリンを習っている生徒たちの演奏で、バッハの……。ベートーヴェンの
……。最後に『レクイエム』(モーツアルト)の『涙の日』の合唱で締めくくられた。
 …外は秋晴れの安曇平、澄んだ空は巻雲の饗宴、いちょうは鮮やかな黄に、隣の碌山美術
館を囲むかえでの見事な紅葉、正面に聳える常念岳、子供たちの一生懸命の演奏。……三
十数年前に尾崎が体験したのと同じ感動に我々も胸を打たれた…。」
 (「尾崎喜八資料」十六号)
  ◇   ◇
 生徒たちの演奏が良質で、聞く姿も立派なのは、この詩が持つ不思議な力のおかげである。
 詩人の感動を追体験して衿を正すことのできる生徒たちは幸せだ。更に幸せなことに、安曇
野生まれの作曲家・飯沼信義教授(桐朋音大・院)が顧問で、毎回、プロの演奏を聴ける。
 昭和六十年にこの詩碑を建てた見識ある方々と、想いの高い音楽会実行委員諸兄(代表・
望月芳彦氏)に敬意を表す次第。



H17/11/16
           安曇野ルーツの憲法学者たち
          
 新しく安曇野市になった地域は、偶然か土地柄か、三人の硬骨の憲法学者のルーツであ
る。
  ◇   ◇
◆豊科地区には宮沢姓の家が百軒以上ある。戦後憲法学界の第一人者・東大の宮沢俊義教
授は親の仕事の関係で小学時代を長野市、中学以後を東京で過ごしたが、親は豊科の人で
ある。
 彼は美濃部達吉の弟子で、昭和十年の天皇機関説事件当時には、東京帝大で師の憲法講
座を受け継いでいた。天皇機関説事件に巻き込まれた美濃部の家に
柳行李一杯程の脅迫状がきた。
 そこで、弟子の宮沢が新聞紙上に美濃部擁護論を発表したところ、右翼が自宅に乗り込ん
できて脅迫し、憲法学教授に憲法を教えた!。法学部長は彼の身を案じて、「この問題は政治
的に根が深いのだから、隠忍自重するように」と忠告した。
 その後の彼は、講義での天皇の説明を避けて「第○条については申すまでもありません」の
一言で済まし、余談で韜晦し続けて戦前・戦中を切り抜けた。
 戦後は新憲法の最高権威者として大きな足跡を残した。

◆三郷出身の植原悦二郎は、副議長や内務大臣を務めた政治家だが、じつは、ワシントン大
学とロンドン大学大学院で学んだ本格的な政治学博士だった。
 英米両国で十年間も政治学を修めて帰国した植原からみれば、明治末の日本の憲法学は
愚劣だった。彼は美濃部達吉や吉野作造をさえ批判したが、学界は彼の主張に応えずに黙殺
した。
 彼らにしてみれば、国民主権を唱える植原の学説と関われば、自分の学者生命に災いを招
きかねなかったからである。
 最近明らかにされた事実だが、戦後の日本国憲法の源は、なんと、英国で出版された植原
の博士論文や彼の大正期の雑誌論文だった。つまり、日本国憲法はアメリカの押し付けという
よりも、大正デモクラシーの正統な嫡子だったことになる。(七月十八日の本欄で詳しく紹介
済)

◆憲法の理念を掲げて、アメリカ政府の日系人差別と闘ったゴードン平林という学者がいる。
(このほど初代安曇野市長になられた平林伊三郎氏の家は、ゴードンの父・平林俊吾の本家)
 研成義塾で学んだ俊吾は高邁な理念をもって渡米した。しかし、日米開戦に伴って日系人は
みな強制収容所に隔離された。
 息子ゴードンは収容所行きも徴兵も拒否して、「政府の日系人隔離策は憲法違反だ」と提訴
したが、懲役刑に処せられた。
 戦後四十五年が経ち、彼は憲法に詳しい大学教授になった。そして違憲訴訟の再審を自力
で闘って勝訴した。レーガン大統領は昔ルーズベルトがやった日系人強制収容を謝罪し、政
府は被害者全てに賠償金を払った。
 憲法理念の実現の為に四十五年間も孤独な闘いを続けたゴードンの勝訴は、折しも米国憲
法二〇〇年の年だったので、多くの雑誌やテレビが取りあげた。彼の生涯を描いたドキュメン
タリー映画『終わりなき闘い』はアカデミー賞候補になった。




H17/12/17
           「安曇野」考 

 運転中に、「ここは安曇野、気をつけて」という看板を初めて見た時、安曇野に熊や追い剥ぎ
なんか居ないのになあと思った。次の機会によく見たら、下に交通安全と書いてあった。親切
な安全運転の標語を、熊だの追い剥ぎだのと勘ぐった自分のいやしさがなさけない。
 丸山健二の『私だけの安曇野』という本を読むと無性に腹がたつ。

「安曇野の女性は子どもも老婆も抜け目のない眼つきをしている。唇は悪意を秘めて歪んでお
り、顔はふてぶてしい。気を許してはいけない相手だ」
「眼玉が充血するほど捜してみたが美人はいない。」

 安曇野の女性を、よくもこんなあしざまに書いたものだと、昔、職場の昼休みに話題になっ
た。すかさず高山女史がふざけて皆を笑わせた。
「私はその丸山健二とかいう作家を存じませんの。私とお会いになって、この美貌と知性と上
品さを知ってらっしゃれば、そんな悪口はお書きにならなかったのにほんとに残念ですわ。オッ
ホホッ。」
 彼女は賢い美人だが、この作家はそうは書かないだろう。物事は見る側の見方のようにしか
見えないのだから…。

 碌山は山を見てこう想った。「ああ愉快ぞや。寒気は厳しく日は晴れて、万水清緑。西に常念
の白雪肌。…凡ての俗汚を忘れて終日この快を惜しむ。」
 同じ山のことを、相馬黒光は「明けても暮れても巨大な山岳にさえぎられた生活に、裾からふ
るえ上がる寂寥を感じ、おののきを噛みしめた。」
 彼女はこの地がワーズワースの詩のような田舎ではないからと心身を病み、傷心の内に四
年で東京へと去った。後日、『女学雑誌』に罵詈雑言を載せた。「ああ陰悪なる田舎よ。追想す
る毎に不快の感を喚起す。」
   ◇  ◇
 文人が当地の風景や人物を記すには「安曇平」よりも「安曇野」の方がふさわしいようだ。
 安曇野を有名にしたのは昭和三九年の臼井吉見の小説だが、安曇平のことを最初に安曇
野と書いたのは吉江孤雁で、明治三九年のことだったと小林俊樹氏が書いている。孤雁は塩
尻出身の詩人でフランス文学者にして早大仏文科の創設者とのこと。(『信毎タウン情報』04.
10.4コラム「安曇野と吉江孤雁」)
 尾崎喜八の詩「安曇野」は、早くも昭和二九年の作である。南豊科駅のプラットホームから見
た安曇野の美しい光景と、見送りに来た豊科の女学生の品のよい所作を謳ったこの詩には、
近頃の「安曇野ブランド」などという即物的な言葉とは別次元の文化の薫りがある。
 ところが、この美しい詩が肝心の地元にはあまり知られていない。この詩に作曲した多田武
彦の「安曇野」が地元で歌われたこともおそらくないだろう。(多田武彦は大学グリークラブ向け
の上質な男性合唱曲を数多く作った作曲家である。)
 安曇野をこよなく愛した詩人や作曲家の想いを、地元の人たちが埋もれさせているのはいか
にも勿体ない。



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