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評伝・清澤洌 

戦前日本の外交評論と憲法解釈 

―清澤洌と植原悦二郎― 

第T部 清澤洌の外交評論と自由主義
        ―国際的な視野と醒めた判断―

高坂邦彦 

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          目  次 

 は し が き

 第一章 清澤洌の実像  
 第1節 『暗黒日記』が生まれるまで 
 第2節  さまざまな誤解 
 第3節  清澤洌のバックボーン 
 第4節  清澤洌の真価 

第二章 日本社会の病理
    第1節  憂国の想い 
第2節  リアリズムの欠如 
第3節  個人と国家の関係意識 
第4節  対米劣等感と敵愾心 
第5節  中国蔑視と領土欲 
第6節  日本の世論とジャーナリズム
 
第三章 外交評論の基本的姿勢 
 第1節  国益論者・清澤洌 
 第2節  黄禍論への姿勢 
 
 第四章  清澤洌の外交評論 
 第1節  明治・大正期の日本外交
 第2節  日本の孤立化 
 第3節  満州事変 
 第4節  国際連盟脱退 
 第5節  日中戦争 
 第6節  日独伊三国同盟と南進政策 
 第7節  日米戦争 

 第五章 清澤洌の自由主義 
 第1節 「時代後れの自由主義」 
 第2節「自由」の意味 
 第3節 自由主義経済体制の問題 
 第4節 清澤洌のものの見方と考え方 

あ と が き ・出典資料 
 


は し が き

 日米戦争中の政治経済や戦局の状況、新聞報道、国民の暮らしぶりなどを克明に記録した
『暗黒日記』の著者・清澤洌(1890〜1945年)は、長野県南安曇郡北穂高村(現穂高町)出
身の外交評論家である。 
 また、明治憲法下において、国民主権論、象徴天皇論、責任内閣論等々を唱えていた大正
デモクラシー期の急進的自由主義者・植原悦二郎(1877〜1962年)も、同じ南安曇郡の明
盛村(現三郷村明盛)出身の政治家である。 
 二人は同じ時代に同じ郡内に生まれ育ったというだけでなく、裸一貫で渡米して苦学し、帰朝
後は共に自由主義の論客として活躍したことでよく似通っている。さらに二人は、在米中に二
年間シアトルでの生活を共有しており、深い交友関係をもった。清澤の初婚・再婚ともに植原
の世話によるものである。(清澤は初婚の妻子を関東大震災で喪った。再婚相手は植原夫人
の日本女子大英文科での教え子である。) 

 大正期から戦前・戦中の昭和期にかけて時代の波をまともに被って活躍した植原悦二郎と
清澤洌の生涯は、大正デモクラシー・自由主義崩壊の物語であり、また、戦争と憲法問題の物
語でもある。この時代の動向に敢然と異議を唱えた二人の生涯は、当然のことながら、苦難の
連続であった。 
 本書は、第T部で清澤洌、第U部で植原悦二郎、それぞれの言論と思想を紹介するもので
ある。ただし、元来は別々に発表するはずだった二人の人物誌を合冊にしたものであり、「戦
前日本の外交評論と憲法解釈―清澤洌と植原悦二郎―」の二つの「と」は単なる並列の意味
にすぎず、比較論や関係論ではない。また、T部とU部では表現に若干の差がみられること
と、同時代ゆえの内容の重複があることもおことわりしておかねばならない。 

第T部「清澤洌の外交評論と自由主義―国際的視野と醒めた判断―」について
 人に毀誉褒貶はつきものであるが、生前も没後も併せて清澤ほどそれが甚だしい人物も珍
しい。 
 まず、『暗黒日記』という書名の故か、清澤の地元でさえ、彼がイデオロギー過剰な反体制主
義者だったかのように誤解している人が多い。けれどもじっさいは、彼は過激なことや狂信的
なことが嫌いな醒めた人で、国益を第一に考えた現実的な政策を提言した穏健な思想家だっ
たのである。 

 そして、『暗黒日記』は清澤を一躍有名にはしたものの、他面では、彼が当時には珍しい程
の国際的な視野と的確な対米認識をもち、真の国益を考え、リアリズムに徹した外交評論家
だったことが忘れられる原因にもなった。 
 また、清澤は自由主義を貫いた評論家だった。今でこそ、自由主義は先進的なプラスイメー
ジの言葉になったが、当時の清澤は、「時代後れの自由主義」を振りかざす非学問的な評論
家だと言われたし、清澤には「哲学がない」と言う者すらいたのである。 
 国際的な視野と醒めた判断のありようを示した清澤洌の外交評論は、リアリズムに徹した具
体的な外交策もさることながら、私たち日本人が外国を認識する際に無意識の内に陥る病理
的傾向を指摘し、外国をどのように認識し、判断し、対処すべきかということを教えている。 
 また、清澤の論説は、一見いかにも現実主義的で合理主義一辺倒のようにみえる。しかしな
がら、徳富蘇峰や松岡洋右の言説の根底にある「卑しさ」を厳しく糺している清澤は、何よりも
節操と道義を重んじた理想の高い言論人である。 
 そういう清澤の唱えた「自由主義」とは、単なる反戦・平和・反帝国主義のイデオロギーでは
ないし、「自由気まま」や「自分本位」のことでもない。自由とはもっと次元の高い概念のことを
いう。けれども観念的な哲学でもない。 

 筆者は、そういう清澤洌の姿と、戦前日本の政治動向が、多くの人に理解できるようにと願っ
て第T部の清澤論を書いた。 

 第一章で清澤洌についての基本的な解説をしたうえで、二章で清澤の国際的視野からみた
日本人論・日本社会論を紹介する。 
 第三章では、清澤の外交評論の基本的なスタンスを解説し、第四章では、内政・外交に関す
る清澤のテクスト(言説)を、当時の内政や外交上のコンテクスト(前後関係)と併せて紹介す
る。これによって、当時の日本の政治・外交の実際の姿と、日中戦争、太平洋戦争への道行
きが理解できるとともに、『暗黒日記』だけから受けるのとは違う清澤洌の実像と、彼の切歯扼
腕の想いを感じることができるであろう。 
 第五章では、清澤洌の自由観と自由主義について解説をした。内容が少しむずかしくなるこ
とを承知しながらも、あえてこの章を詳しく書いたのは、今日に至っても、「自由」と「自由主義」
の概念は正確に理解されることなく、それぞれの人に勝手に濫用されているからである。その
ような安易な誤解や理解不足が、今後の日本社会の混迷度をますます深めていくのではない
か、という私の懸念が単なる杞憂に終わってほしいと願っている。 

                          2002年10月      著者 
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第T部  清澤洌の外交評論と自由主義 

―国際的な視野と醒めた判断― 

第一章 清澤洌の実像 


第1節『暗黒日記』が生まれるまで

 「社長、またやられました」と早口に言った。 
 「さっき、陸軍情報部から電話で編集長にすぐ来いと言うんですよ。今から行って叱られ
てきます。九月号の清原さんの原稿のことだと思うんです。」 
 「ふむ。またか、・・・ご苦労だね。何とかひとつうまく話をして来たまえ。」 
  清原節雄の論説は立派なものだった。それだけに軍部は嫌がるのだ。けさ、家を出た
時に妻が清原の一本気を心配していたが、やはり予感が当たったのだ 
  (石川達三『風にそよぐ葦』上巻p13) 

 石川達三の長編小説『風にそよぐ葦』の主人公・清原節雄は、穂高町出身の清澤洌がモデ
ルである。(1999年に新装版が再刊された。) 
 清澤洌は、1890年(明治23年)に北穂高村(現在の穂高町北穂高)の農家の三男として生
まれた。小学校を卒業した彼は、まだ、松本への鉄道も開通していなかった時代のこととて、
旧制松本中学校(現在の松本深志高校)への進学をあきらめ、地元にあった私塾・研成義塾
に通って井口喜源治の教えを受けた。 
 研成義塾とは、無教会派キリスト教信者の井口喜源治が、その強烈な個性の故に公立学校
から排斥されたので、地元の素封家・臼井喜代と相馬愛蔵(新宿中村屋の創業者)が井口を
支援して創立させた私塾である。ただし、当時は耶蘇教といって敬遠されていたキリスト教を標
榜していたので、生徒は必ずしも積極的な動機で入学したわけではない。当時、長野県の中
等教育機関は、鉄道もまだ敷設されていなかったうえに、長野中学校(現長野高校)と松本中
学校(現松本深志高校)しかなかった。松本への通学が困難だった安曇野での中等教育機関
はこの私塾しかなかったのである。 
 生徒たちは、村の悪童たちから「アーメンはゴーメンだ」とからかわれたり、井口先生が調子
外れの賛美歌を歌ったりすることが恥ずかしかったという。しかし、在学中に彼らは均しく井口
喜源治の薫陶を受け人格を錬磨した。後年の清澤は、研成義塾のことを次のように書いてい
る。 

  この研成義塾には先生が一人しかいない。七つの学年にわたる生徒たちを一人で教
えているのである。しかも生徒総数が三十人ばかりだったから、一学年あたりの生徒数
は五人とはなかった。(中略)地理も歴史も代数も幾何も英語も漢文も、すべてこの先生
一人で受け持たなくてはならぬ。この先生が何でも知っているのには驚きを禁じえなかっ
た。(中略) 壁は砂土である。屋根は板屋である。しかしてそれは天井を持たぬ。故に
雨の降る日、風の吹く日、天然の音楽はすこぶる強く僕らの耳朶を打つのである。また
先生の聖経を講ずるの間、僕らは神の大事業をいながらにして虚空に向かって見ること
ができる。(清澤洌「無名の大教育家」『井口喜源治』p115) 

 研成義塾を卒業した清澤は、「神に近い生活をなし得る百姓になるか、それともキリスト教の
伝道師になるかの一つをめがけ」て、1906年(明治39年)、16才で労働移民としてアメリカ
に渡った。日露戦争終了の翌年である。 
アメリカでは、後年の排日移民法に繋がる日本人学童隔離問題が起きた年でもあった。 

 彼は、日本人への差別が強かったその頃のアメリカで、さまざまな職業を転々としながら、苦
労してハイスクールと大学に通った。単なる労働移民ではなく、 内村鑑三のように農学を身に
付けたいという志をもって、学校に通ったのである。タコマ・ハイスクールとホイットウォース・カ
レッジで学び、ワシントン大学の聴講生になったといわれているが、確かな証拠はない。 

 ところが、当初は生活費を得るための手段だったジャーナリストとしての活動が本格化し、二
十一歳でアメリカの日本語新聞『北米時事』の記者、続いて『新世界』の記者となってめざまし
い活躍をした。ペンネームを「信濃太郎」といった。文筆活動に対する自信を深めた清澤は、
日本での活躍を希望して28歳の時(1918年・大正7年)に帰国した。 

 帰国後の清澤は、『中外商業新報』(日本経済新聞の前身)に入社し、アメリカの排日移民法
などについて論説を書く他、担当したコラム欄では国内問題を取りあげて、健筆をふるった。 

 帰国二年後の1920(大正9年)10月には、植原悦二郎(在米中に懇意になった三郷村出
身の衆議院議員)に紹介されて、フェリス女学院の教師・福井貞と結婚した。 

 同年の暮に、清澤は徴集され松本五十連隊で軍事訓練を受けさせられた。他の者に比べれ
ば老兵ともいえる三十歳での新兵訓練である。「前へ進めとか右向けとか号令がかかったが、
僕の身体は断じてその号令には応じません。・・・小隊長はこいつは耳が遠いのか・・・・、命令
拒否と判断したらしく、三四の兵卒に命令し、手とり足とり僕を前身させようとしたが、僕は地団
駄を踏んで抵抗し、遂に大の字になって仰臥したので入営の翌日から営倉に監禁される事に
なりました。」友人宛の葉書に彼はこう書いた。軍の方でも持てあまして、病気という口実をつ
けて一ヶ月で追い出してしまった。大正期の軍隊にはまだそうした温情と融通性があったもの
とみえる。 

 除隊後の清澤は、『中外商業新報』や『朝日新聞』の記者、『報知新聞』(読売新聞の前身)
の論説委員などを務めた。当時の対米認識と対米外交の間違いを指摘する政治評論を、新
聞や雑誌に発表したり、著書を刊行した。 

 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で、清澤は妻、娘、義妹、義母を喪くし
た。少年時代の研成義塾以来の友人斉藤茂宛の長文の挨拶状は、故人への愛情と哀しみに
満ちたもので読む者の心をうつ。 

 九月一日から算へて四十九日目に当たる今日、・・・(中略)・・・遺骨を鶴見の総持寺境
内に埋めました。・・・(中略)・・・四カ年の結婚生活、・・・(中略)・・・一度も口喧嘩すらした
事のなかった平和な家庭生活は、斯くして終焉を告げたのか、私は西日に面して、新し
い墓標を見つめ乍ら、暫く其処を動き得ませんでした。・・・(中略)・・・夫のため、子供の
ために一生を犠牲にした私共の母は、其最後を孫のために抛ったのでした。私は私の
接した婦人の内で、最も聡明で、且つ人情味の厚かった此母のことを追想して、其二三
日はただもう泣けて仕方がありませんでした。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・ 終わりに一言を加
えることを許して頂きたい。渋沢子(爵)が今回の災害は「天譴」だと云われた旨新聞で
見ましたが、私は横に頭を振りました。人間の刑罰でも当人以外には及ばぬことを常と
します。天と云ふものがかりにありとしても其刑罰は社会を覚醒せしむるために、罪なき
婦人や子供を殺さねばならぬものなのでしょうか。 
 種々な欠点もありましたろう。ただわたしら過去四カ年の家庭生活より知り得た確実な
一事は、死んだ義母も私の妻も、道徳的にも宗教的にも「悪」をなし得るような婦人では
なかった事でした。長い新聞記者生活をして社会の種々相を知るわたしにも、今の世に
こうした正直な、善良な女性のある事が、時々不思議に感じられた程でした。之等の
人々が死んだ一事だけでも、私は天譴説を信じません。・・・(以下略)・・・。 

 周知のように、関東大震災では、十四万人以上の死者・行方不明者が出た大災害のさなか
に、「朝鮮人が暴動を起こした」という流言飛語によって、数千人以上の朝鮮人が虐殺された。
また、憲兵大尉甘粕正彦によって、思想家大杉栄の一家が惨殺されるという忌むべき事件が
起きた。 

 アメリカで人種差別に苦しめられ、今は震災で妻子を喪った清澤にとって、この二つの事件
は胸が張り裂けんばかりのことであった。哀しみを抑えて著作に専念し、『米国の研究』(大正
14年)『モダンガール』(大正15年)、『黒潮に聴く』(昭和3年)などを出版した。 

 深い憤りを込めて書いた「甘粕と大杉の対話」を掲載した『自由日本を漁る』を著したのは昭
和四年である。殺害された大杉栄と殺害した甘粕大尉の亡霊の対話という形式をとって、双方
の思想の本質を暴露する内容だったので、右翼の憤激をかって、所属の朝日新聞社を辞めざ
るを得なくなった。その後は、フリーの評論家として、雑誌論文や著作出版、講演活動などをし
た。 

 小説『風にそよぐ葦』は、国民がものの見方や考え方まで取り締まられた戦争中の言論出版
界の苦労を描いている。清澤洌は、この小説のようにしてじわじわと発表の場を奪われてい
き、ついに、昭和16年、彼が51歳の時、内閣情報局によって、雑誌等への「執筆禁止者名
簿」にリストアップされてしまった。そのリストには、戦後の東大総長を務めた矢内原忠雄や、
戦後それぞれ最高裁判所長官を務めた横田喜三郎、田中耕太郎などもあった。こういう見識
の高い人たちと並べてリストアップされたのだから、皮肉なことに、清澤の見識の高さが政府
か証明されたようなものだ。 

 こうして発表の機会と場を奪われてしまった清澤洌は、「この戦争が終わったあかつきには、
軍人や政治家やジャーナリストたちの戦争責任を明らかにして、日本再生のために役立つ現
代史の論文を書こう」という計画をたてた。そして、そのための資料として、戦時中の政治経済
はもとより、庶民の生活状態、新聞の論調など、さまざまな事実やそれに対する短い感想をノ
ートに記録しはじめたのである。 

 当時、清澤は憲兵(軍隊の警察組織)や特高(特別高等警察)から常に付きまとわれ監視さ
れていた。このノートがあることを他人に知られれば、それを口実にしてたちどころに逮捕され
る危険な立場におかれていたから、見つからないように細心の工夫をしながらこれを書き続け
ていた。

 惜しむべきことに、清澤洌は、終戦まであとわずか86日という昭和20年5月21日に急性肺
炎にかかって他界した。したがって、日記をもとにして現代史を書くという計画は果たすことが
できなかったのである。 

 残されたノートの内容が、戦後の昭和23年に雑誌に発表されて大きな反響をよんだ。石川
達三の『風にそよぐ葦』は、それをタネにして書いた新聞小説である。ノートは、その後『暗黒日
記』という書名で出版され、各新聞や雑誌はこぞってほめたたえる書評を載せた。 

  「・・・・・・いまふりかえってみると、清澤氏は当然のことを言っているのだ。その当然の
ことがまったく通用しなかった時があったということをその時代を生きた一人として私もま
た、慚愧の念をもって思い出したのである。 
 非常識の時代には常識が必要だ。・・・・・・しかし、こうした発言を、ただ一人日記に書
かねばならなかった事情、氏を孤独に追いやった事情そのものこそ重要である。・・・・・・
暗黒日記を再び書く必要のないような時代を確保せよとこの本は教えている。」〈亀井勝
一郎『東京新聞』書評〉 


第2節 さまざまな誤解 
 毀誉褒貶は人の世の常である。『暗黒日記』やその著者・清澤洌に対する誤解や批判も無い
わけではなかった。 
  「清澤洌の『暗黒日記』ほど不愉快なものはないといいたい。停電になったと気象庁や
東電へ文句をダラダラと書く。これが批判だというが、そのくらいのことなら私だって考え
ていた。文句を書く机も部屋もなく、ずぶぬれになって死んでいった多くの人がいるの
だ。」(渡辺正治「戦中派親父むすこに語る」『中央公論』昭和四十七年五月号) 

 この文は、『暗黒日記』に対する誤解の典型的なものである。読みもせずに、暗黒=停電と
曲解でもしたのだろうか。この日記のことを、戦時中の清澤個人の私的な不平不満や、恨みつ
らみを書き並べたものだと勘違いしたのであろう。『暗黒日記』という印象の悪い書名のせいな
のかもしれない。 

 この日記は、終戦後に書く予定だった論文のための基礎資料なのであり、清澤自身はノート
の表紙に『戦争日記』と書いていたにすぎない。資料としての直接的なメモがこのような生の形
で出版されることは、彼の予定にはなかったし、ましてや、このようなお門違いの批判を受けよ
うとは夢にも予想していなかったに違いあるまい。 

 そもそも、この日記がはじめて雑誌に発表された時は、「憂憤の記録」という題であった。こ
の題の方が、国のことを憂いて当時の政府や軍人のやり方に憤りをもっていた彼の気持を言
い当てている。生前の清澤夫人はそう語っていたとのことである。(清澤洌『暗黒日記』岩波文
庫版 編者の解説 p383) 

  それにつけても、清澤洌は誤解されやすい人だった。その原因は次のようなことであろう。 


@ 自由主義 
 先ず第一は、清澤の唱えた自由主義そのものに対する誤解である。もともと、「自由」という
日本語は「勝手気儘」という悪い意味である。明治初期にミルの翻訳者が、良い意味のliberty
という英語に当てはまる日本語がなかったので、「自由」という訳語を当てはめた。これがそも
そもの間違いの始まりで、自由主義は「勝手気儘な主張」なのだと受けとられがちなのであ
る。 

 もう一つは、当時の世界的な経済不況が、自由主義経済のせいだ、資本主義経済のせいだ
と受けとられたことである。自由主義というのは、もはや役に立たない「後れた思想」だと考えら
れたのである。 

 したがって、清澤のことを、勝手気儘なことを言う人、後れた思想の持ち主、というふうに思う
人が多かったのも事実である。(これについては、五章で詳しく説明する。) 


A 英米的思考 
 二つめは、清澤の文体の問題である。かつての日本では、簡単なことでもできるだけむずか
しく書き表すと「深みがある、重みがある、学がある」などといって尊敬されるが、わかりやすく
書くとその逆にとられるという風潮があった。彼の文章はきわめて明快でわかりやすいから、
学者や編集者たちのなかには、清澤の文章は格調が低い、彼の考えは程度が低い、深い考
え(哲学)が無いのだと誤解する人が多かった。 

 じつは、むずかしいことをむずかしく書くことは楽なのである。むずかしいことを分かりやすく
書く方がよほど苦労するものだが、清澤洌は、分かり易い文章を、こともなげに猛烈なスピード
で書けるという能力に恵まれていた。 

 それもそのはずで、清澤はイギリスのバートランド・ラッセルや、アメリカのジョン・デューイと
いう思想家に共感し、彼らの著作を精読していた。この二人は、むずかしい思索の結果を、き
わめて分かりやすい文章に書き表した思想家たちである。とりわけ、バートランド・ラッセルは、
学者の文章修行の手本のようにされているほど明快な文章を書いた思想家である。清澤は無
思想どころか、二十世紀を代表する偉大な思想家ラッセルやデューイの哲学を自家薬籠中の
ものとしていた骨太の社会思想家だったのである。 

 そもそも、清澤洌が守ろうとした自由主義とは、英米的リベラリズム(自由主義)のことであ
る。ところが、当時の日本人たちは、思想も医学も工業技術も政治も軍事も、何でもかんでもド
イツが世界一だと思っていた。アメリカ・イギリスのものは程度が低い、英語のものはだめ、ド
イツ語のものだけがすばらしいと固く信じ込んでいたのである。ラッセルやデューイの文章に親
しみ、英米流のものの見方、考え方、書き方が得意だった清澤洌には分の悪い時代だった。 


B直言 
 三つめは、相手に媚びることのできない清澤の気質の問題である。日本では、相手の神経を
逆なでしないように遠まわしにものを言う人、相手の気持ちをくんで自分を相手に合わせられ
る人は「よくできた人」だといわれ、それをしない人は「カドのたつ人」だといわれる。 

 清澤洌は後者の方である。遠慮会釈なしに相手の間違いをズバッと指摘したりする。寸鉄人
を刺すといって、読者や第三者は痛快な思いをするだろうが、指摘された当人は狼狽し不愉快
になる。「恥をかかされた。あんな嫌な奴はいない。」と言いふらす。指摘された内容がどうなの
かということは二の次の問題になってしまう。討論はかみあわない。 

 ところで、近頃は日本人も国際化する必要があるということで、学校でもディベート(討論)の
学習をするようになってきたが、ディベートというものは、お互いが清澤洌のような姿勢をもって
いないとできないのである。 


C文化摩擦 
 四つめは、カルチャー・ギャップ(文化摩擦)という問題である。例えば、今の日本人が清澤洌
の時代にタイムスリップすれば、かなりの顰蹙をかうだろう。 
生活感覚があの時代の人たちとはかなり違うからである。昔の人たちからみれば、今の私た
ちは自分で自覚しているよりはよほどアメリカ化しているのだ。 

 清澤洌もそうだった。彼の生活の仕方はかなりアメリカ的だった。例えば、ある人が力を尽く
して彼を新聞社に就職させてやった。けれども彼はもっと条件のよい新聞社から誘いがあった
ので、遠慮なくそちらに行ってしまった。他人は清澤のことを恩知らずな奴だと思う。こんなこと
は、今ならプロ野球選手のトレードや、会社のヘッドハンティングなどで当たり前のことなのだ
が、当時とすればやはり顰蹙をかった。 

  また、丸ビルのレストランに出資したことが文筆家らしからぬと批判された。しかしこれは、清
澤が遠からず政府や軍の妨害によって文筆での生計の糧を失うことがほぼ確定的だったか
ら、生活防衛のためのやむをえぬ手段だったのである。おあつらえ向きなことに、このレストラ
ンの地下にあった倉庫入口の厚い鉄扉を閉じると外部から完全に遮断されたので、自由主義
者たちの秘密の会合の場としてよく利用されたという。 

 一つめから四つめまで、今なら当たり前のことなのだから、周りが遅れていたというか、清澤
が進みすぎていたというか、つまり文化摩擦の問題だというよりほかはない。 

 元信濃毎日新聞の記者坂本令太郎は、清澤のありのままの姿を次のように伝えている。 

 筆者は昭和十二年頃、清澤の風貌に接したことがある。雑誌『婦人公論』の座談会で
あった。小柄の中ぶとり、丸顔、髪はやや薄くなりかけ、和服に着替えれば何のことはな
い、田舎の村長さんといった風体。トツトツたる弁舌で外交や経済を説いて、誠実な人物
の印象を与えた。アメリカ仕込みの浮っ調子なものはぜんぜん見受けられない。(坂本
令太郎『近代を築いた人々1』p66) 


第3節 清澤洌のバックボーン 

@理想主義的な現実主義 
 清澤洌は郷里の研成義塾で学んでいた少年の日、有名なキリスト教指導者山室軍平の講話
を聞いて感涙にむせんだ。 

 「・・・・・・僕らはその熱弁に感涙が出て、どうにも止められなかった。爾来(それ以来)僕
は一貫して山室氏の支持者であり、嘗てその人格を疑ったことはない。・・・・・・」
                       (清澤洌「無名の大教育家」『井口喜源治』p117) 

 これが清澤洌の真骨頂である。彼の評論は常に現実的で具体的だった。世の現実を知らぬ
者の理想主義は、現実の前に簡単に吹き飛ばされる。逆に、理想なき現実主義は、現実の波
に呑み込まれ振り回される。けれども、清澤洌の現実主義には、その奥にきわめて高い理想
主義が宿っており、現実に押し流されないだけの芯があるのだ。彼は少年の日に研成義塾で
それを学んだ。 

 戦後長い間、単に『暗黒日記』の著者、反戦平和のイデオローグ、自由主義の闘士、等々と
して受け取られてきた清澤洌が、じつは、戦前・戦中としては破格に優れた外交評論家だった
ことを詳細に示したのは北岡伸一教授(東大法学部)である。北岡教授はその著『清沢洌―日
米関係論への洞察―』(中公新書)の末尾で次のように述べている。 

 ・・・清澤の専門家としての鋭い洞察力のさらに背後には、強い理想主義があったことを
見逃すべきではないであろう。彼の対米協調論の背後には、アメリカが建国以来―様々
な混乱や逸脱にもかかわらず―保持してきた自由、平等、個人の尊厳などの価値に対
する共感が、決定的な要素の一つとして存在していた。・・・(中略)・・・ 
 研成義塾時代にキリスト教を通じて注入され、移民体験によって育まれた理想主義
は、結局終生彼を離れることなく、壮年期の闘争心が薄れるとと共に、再び力強く蘇って
彼を支配することとなったのである。 
 一般に、現実に対するリアルな認識や対応は、何らかの価値に対する献身に支えられ
て始めて可能となるものであって、そうした根底のない「現実主義」は、現実の変容に追
随するだけのものになりやすい。(中略)清澤の外交評論は、リアリズム(現実主義)とア
イデアリズム(理想主義)との結びつきの稀有な例であった。(北岡伸一『清沢洌―日米
関係論への洞察―』p190〜192) 


B井口喜源治・内村鑑三との邂逅 
 研成義塾の井口先生は、塾生たちに「えらい人ではなく、良き人になれ」と教え、身をもって
それを示した。清澤洌と同様に渡米した東条◆は、よき人として誠実な事業で繁盛し、日本へ
帰ってからは東京銀座にワシントン靴店を開業して成功を納めた。彼は研成義塾の教育につ
いて次のように述べている。 
研成義塾はキリスト教主義にたつ学校でしたが、学術とともに精神的教育に力を入れられ、儒
教の講義は丁寧・綿密・精細をきわめましたので、当時生徒はキリスト教にかぶれる前に儒教
精神に浸潤したように覚えています。・・・・・・我ら教えを受けた者に及ぼした感化の深さは先生
の教訓の根底が常識を養うことにあったこと、また先生の特色とされる日本的キリスト教、武
士道的キリスト教が私どもの心にぴったり合ったためではないかと思います。(東条◆「常識の
修養」『井口喜源治』P120〜124) 

  「武士道的キリスト教」という言葉は、明治期日本のキリスト教の特徴をよく言い当てている。
きまじめなアメリカ・ピューリタン(清教徒)は、自分自身に厳しく、清廉で真摯なところが儒教の
教えときわめてよく似ており、武士階級出身者たちにとってはなじみやすいものであった。武士
道的キリスト教とは、アメリカ・ピューリタニズムが儒教の土壌の上に根付いた日本独自のキリ
スト教なのである。 

 その武士道的キリスト者として有名な内村鑑三は、井口喜源治の研成義塾を高く評価して、
鉄道もまだなかった不便な穂高へ東京から何度も訪れている。山室軍平が研成義塾で講話を
したのもそういう支援の一つである。 

 アルプスを望む大自然の中で、「春になるとよく聖書と賛美歌を持って万水という水足の
のろい川のほとりに行って、若草の上に腰をかけて井口先生の話を聞いたことを思い出
す。・・・・・・ピアノやオルガンの譜で習得したのではない調子は、間のびがしていて、正式
のものとは余程違ったものになっている。・・・・・・」
                         (「無名の大教育家」『井口喜源治』p117) 

 井口先生の調子外れの音頭による賛美歌がどんなに気だるく気恥ずかしいものだったこと
か・・・・・。先生の賛美歌には閉口した清澤洌だが、教えには深く魂をゆさぶられ、時には感涙
にむせんだ。そして、塾生仲間たちの清廉で真摯な生き方からも有形無形の大きな感化を受
けた。 

 少年の心は大臣・大将・博士を描く夢のような野心に燃える。他方において先生の教え
る宗教は、そうした地上の栄達は野花にしかぬソロモンの栄華のごときものだという。僕
はそのころ深い煩悶に落ちたものであった。 
 その後、僕は当時の渡米熱の波に乗ってアメリカに行ったが、自ら固く決心して、神に
近い生活をなし得る百姓になるか、それともキリスト教の伝道師になるかの一つを目が
けたのであった。(前掲書p115) 

 研成義塾を卒業した清澤洌は、他の研成義塾出身の渡米者たちと同じように、「かの地に、
神の国を築こう。神に近い生活のできる農民か牧師になろう」という高い志を抱いて渡米した。
井口先生のいわれる「よき人」になろうという想いだったのである。この時、彼はまだ十六歳の
少年だった。 


B「地の塩」 
 清澤は、少年時代の恩師・井口喜源治亡きあとの追悼会にて次のように述懐している。 

 私はクリスチャンではなくなったが、少年時代に私に与えられた井口先生の感化は今な
お続いています。私は井口先生によって、世の中には金や地位や名誉よりも、もっと大
切なものがあることを知りました。それは信念です。 
私は過去において、また現在において、自身が考えて正しいと思うことを曲げたことはな
いと恩師の前に申し上げることができます。井口先生はクリスチャンですから神様を言
われました。未信者の私は愛する国家のために正しいと思うことを及ばずながら主張す
るのです。時には自己一身の不利を覚悟しながら。(『井口喜源治』p163) 

 聖書では、社会が腐るのを防ぐために、たとえ少数であっても正しいことを目指して努力する
人のことを「地の塩」という。塩は食物が腐るのを防ぐことからイエスがそうなぞらえた。清澤洌
はクリスチャンではなくなったとはいえ、評論活動はまさに「地の塩」というにふさわしいもので
あった。彼はキリスト教信者にはなりきれなかったものの、少年の日に、井口喜源治や内村鑑
三から学んだ清教徒的良心と使命感をもって、潔癖な評論家人生を全うしたのである。 

 註、「地の塩」《聖書 マタイによる福音書 五章一〇〜一四》 
 幸いなるかな、義のために責められし者。 
 天国はその人のものなり。 
 汝らは地の塩なり。世の光なり。 

 労働移民として渡ったアメリカでのいい知れぬほどの数々の苦難・・・。自由主義を擁護する
ための日本での孤軍奮闘・・・。彼は高い理念をまげることなく、目先の苦難と闘い続けたの
だ。幼少期を過ごした安曇野の、目にいたいほどの碧い空、・・雄大で峻厳な冠雪の日本アル
プス、田圃一面のレンゲの花、万水川の清流、川辺に萌える緑・・・。そして、研成義塾で高い
理想に感動しながら学んだ若き日々のことを思い出しながら、「地の塩」としての自らを鼓舞し
ていたのである。 

 清澤洌は、井口先生と研成義塾の仲間たちからの学びを礎にして、厳しい時代の日本リベラ
リズムの稜線に屹立していた孤高の「地の塩」であった。 


第4節 清澤洌の真価 
 清澤洌が『暗黒日記』の著者としてだけ評価されているのでは、彼も浮かばれない。『暗黒日
記』は、評論を発表する道をふさがれた彼が仕方なしに始めた晩年の仕事で、しかも、未整理
な取材メモにすぎないのである。清澤の本領は、それ以前に発表してきた外交評論の的確さ
にある。 
 戦前に清澤と同様に自由主義擁護の論陣を張り、戦後に読売新聞の社長になった馬場恒
吾は、「太平洋戦争前後、正鵠な米国観を樹立しておったのは、彼ただ一人」と清澤洌を称讃
した。 
 また、現在の国際関係論、政治史専門の研究者・北岡伸一教授は、「清澤がその評論で示
した日米関係の認識は、同時代人の中で、例外的なまでに鋭いもの」であり、「今日の日本外
交、とくに日米関係を考える上で、なお新鮮さを失わぬ根底的で鋭い洞察」と評価している(北
岡伸一・前掲書序文)。また、彼の『日本外交史』は、敗戦以前に出た日本外交史の最高傑作
であり、戦後もこれを凌駕するものは多くないし、彼が作成した「外交史年表」は、日本外交史
研究者の必携の本となっているという。(北岡伸一「清澤洌と暗黒日記」ちくま学芸文庫版 
『暗黒日記』3の解説 p445) 
 当時のいわゆる親米家たちの甘い対米認識や感情的な反米主義者たちとは違う清澤の的
確な対米認識は、彼の移民体験によるものであると北岡教授はいう。清澤は、十六歳から二
十八歳までという長い間の労働移民としてのアメリカ体験によって、他のアメリカ留学生とは違
う醒めたアメリカ観を持つようになったのである。彼にはアメリカのいろいろな事実だけでなく、
その奥に潜む深層心理までもが見えていた。そのうえ、日本を国際的視野からみて相対化す
る観点を持ち、それを基にして、政治的リアリズムをもって対処することを提言した国益重視の
外交評論家だったのである。 
 当時の大衆は、戦後になって言われたように、戦争への道を軍に押しつけられたとか、だま
されたというわけではない。むしろ、大衆世論は積極的に軍のやり方を称讃し、新聞はそれに
迎合し煽動していた。清澤は当時のそういう風潮の中にあって、国際的な視点からの醒めた
判断を掲げ警告し続けていた筋金入りの評論家だったのである。 

 戦後の日本は、清澤洌の主張していたことの多くを実現してきた。思想信条や言論の自由、
男女平等、リベラルな民主主義の考え、日米協調や日中協調も実現し、国際協調は当然のこ
ととなった。だから、今日からみると彼の言っていることは平凡で常識的に思える。 
 けれども、当時の国際情勢や日本の状況の中で、これらを主張した清澤は理不尽な弾圧を
受けたのだ。彼は、何かに憑かれたようなあの時代の国策に妥協することなく、弾圧に屈する
こともなく、広い視野と冷静な判断で国際関係をとらえていた。特に日米関係についての彼の
分析と解説は他の追随を許さぬ的確なもので、今日の日米関係にも共通する根底的なものだ
った。 
 その彼から活動の場を奪ってしまって、秘密の日記だけを書かせていたことは、彼個人にと
っても、日本という国にとっても不幸なことであった。同じ時代のアメリカ政府が日本通の学者
たちを大切に扱い、日本との外交政策のためにおおいに役立てていたのとは大きな違いであ
る。 
 戦後になって、「こういう人物は今の日本に最も必要なのだが、・・・自分の出番の寸前にた
おれてしまった」(鈴木文史朗)とその死を惜しまれた。戦後の日本をリードしてきたのは、アメ
リカやイギリスに詳しい人たち、つまり、清澤洌と同じ考え方の人たちであった。同志としてごく
親しかった芦田均、吉田茂、石橋湛山はいずれも総理大臣を務めた。清澤洌の外交研究を高
く評価していた吉田茂は、終戦直前の彼の死を心から悼み、遺族に対する厚い配慮も欠かす
ことがなかったという。(北岡伸一『清澤洌』p168) 

 清澤の一周忌には、石橋湛山、植原悦二郎、長谷川如是閑、正宗白鳥など親友百人が集ま
った。長谷川如是閑は、その死を惜しむあまり壇上で声をあげて泣いてしまったという。(信濃
毎日新聞社『信州の人脈・下』p116) 清澤同様のリベラリストとして、戦時中は生活の糧を絶た
れ、苦しい生活をおくってきた長谷川如是閑は、清澤と共に味わった苦難を思って号泣したの
であろう。 

 長谷川如是閑は、新憲法制定後はじめての文化勲章受章者となった人物である。「近代三
百年の西欧デモクラシーの歴史的発達と変容、またそこにおけるイギリス思想とドイツ思想の
異質性を、戦前知識人、思想家としてほとんど唯一といってよいほど珍しく正確にとらえてい
た」(田中浩『近代日本と自由主義』p15)と評価されているが、清澤が戦後に存命であれば、同
様の評価をされたことであろう。(清澤とイギリス思想との関連については、本書T部の最終章
で詳説する。)                

目次へ

第二章 日本社会の病理 

第1節 憂国の想い 
 マッカーサーは戦後日本で占領軍総司令官として君臨し、日本の再生と民主化のために多
大な貢献をした。主権在民、男女平等、思想信条の自由、人権保障、社会福祉制度、義務教
育九年制、農地改革、地方自治・・・、これらは、ことごとくマッカサーの占領政策によってもた
らされたものである。したがって、マッカーサーは大多数の日本人から崇拝されていた。 

 ところが、彼は帰国後に米国議会における演説で「日本人は十二歳の子どもで 
ある」と本音を吐露したので、日本人たちは愕然とした。自尊心を傷つけられ 
て、いっぺんにマッカーサーが嫌いになってしまった。自由の女神像のような大 
きなマッカサー像を建てようという運動も立ち消えた。 

 けれども、「日本人子ども説」はマッカーサー一人だけのものではない。古くはラフカディオ・
ハーンも、「日本人の暮らしの魅力は、幼年時代の魅力に似ている」といった。チャーチルとロ
ーズベルトは、日本に対する最上策は「あやす」ことであると話し合ったし、日本駐在の外交官
で後の国務長官代理ジョセフ・グルーは、「日本人は子どものようなものなのだから、子どもと
して扱わねばならない」と述べている。 

 ピュリツァー賞受賞作家のジョン・ダワーは、『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別
―』)という衝撃的な本を書いた。そこには戦前・戦中のアメリカ側から見た日本人像と人種差
別の実態がありのままに記述されている。 

 日本人のことを猿だの鬼だのと、まさに人種偏見としか言いようのない内容であるが、心理
学と精神医学の専門家集団がまとめた、「日本人は子どものようなものである」という見解は、
今日の日本人をみても納得せざるを得ない面をもっている。(J.ダワー『容赦なき戦争』p261〜
268) 

 子どものようであるとは、幼稚、わがまま、原始的、非合理的、情緒不安定、攻撃的等々の
未熟な特性を有するということを意味する。日本人は、私的または個人的な信念というものを
欠いており、信念なきままに体制に順応する。これは、「グループ内なら安心でき、その外では
完全に個人的不安感をおぼえる不良少年の心理」と酷似しており、「日本人の行動とアメリカ
の不良少年の性格行動には二十八にもおよぶ類似点がある」(前掲書p246)。 

 「フィリピンでの敗北後、あらゆる制約がきれいさっぱり失われたときの彼らの行動が典
型であった。それは、怒り狂って自制心を失い、おもちゃを打ち壊し仲間であれ誰であ
れ、近くにいる者を蹴飛ばす失望した子どもにそっくりだ。」「日本人は屈辱に対しては、
子どものようにすみっこですねて気に病む。甘やかされ、なだめられない限り反逆す
る。」(前掲書p264) 

 ジョン・ダワーのこの著書は、我々日本人にしてみれば、辛辣で自尊心を傷つけられる内容
が多いが、労働移民としてアメリカ社会で揉まれた清澤洌にとって、この類のことは単なる知
識ではなく、自分らの同胞について実際に見聞したことだったのである。そうした体験をしなが
ら人格形成期をアメリカで過ごし、また、在米中の新聞記者としての経験をとおして、清澤には
アメリカから見た日本人や日本社会の異常さが見えていた。 

 外国から日本を見ると、何もかも如何に硬ばっているかだ。(中略)「日本は大人の真似
をしやうとする子供に似てゐる」―ロシア人のこの言葉に怒るやうでは、かれの言葉は
当たってゐることになる。日本の悪口や批判は、束にして笑葬してしまふ日が来るやう
に。大人の真似をしたがる子供が、当人は大真面目でも、外部から見るとどんなに滑稽
であるかを知っているわれ等は、さういふ日が来るのを愛する母国のために切に待つ。
                             (清澤洌『非常日本への直言』p61) 

 清澤洌の外交評論は、相手国がどうのということもさることながら、基本的には外国に対する
日本側の姿勢の問題、すなわち、日本人のものの見方や考え方の問題を論じているのであ
る。彼は日本人と日本社会の病理的現象について憂慮し、隔靴掻痒の想いをいだいていた。 

 個人と社会と国家との関係、リアリズムを欠いた感情的な判断、戦略なき願望的な甘い判
断、合理性を無視した狂信的な対応、誰も責任を負わない集団主義的な決定システム、・・・。
清澤は日本の政治や社会を憂慮すればこそ、これらのことに辛辣な批判をせざるをえなかっ
た。 

 評論社版『暗黒日記』の編者橋川文三は、その解題で次のように書いている。 

 この「日記」を読みなおし、胸をつかれることの一つは、清澤がしばしば述べていること
であるが、「敗戦によって果たして日本国民はより賢明になれるであろうか?」というもの
である。 
 彼は、むしろ敗戦を経験しても、なお日本人は真に覚醒することはないのではないか、
という疑念をいだいていたとさえ思われる。(中略)読者自身が、自己を含めて日本国民
ないし国家がこの二十五年間にどの程度に成長をとげたか、もしくはもとの木阿弥であ
るかを省察する多様な手がかりが与えられているということであろう。 
 官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナリズム、精神主義、道徳的
勇気の欠如、感情中心主義、島国根性、等々、日本人の劣性の側面を指摘して余すと
ころのないこの記録は、それがたんに冷笑的立場から書かれたものではなく、日本の再
生を熱烈に希求した愛国者の記述であるだけに、現代の我々にとってもなお生々しく迫
る自己評価の模範ということができる。 
 その意味では、この日記はただ戦争期における一リベラリストの辛辣・精細な見聞記
録というにとどまらず、人間の自己教育という一般的視点から見て教えられるところの多
い希有の記録ということができるであろう。(橋川 文三「解題」『暗黒日記』評論社版1995
年 p17、ちくま版1p461) 


第2節 リアリズムの欠如 
 ミッドウェー海戦で負け、ソロモン海戦も負け、ガダルカナル島で敗退し、連合艦隊司令長官
山本五十六は戦死し、日本の敗色が明白になってきた頃、清澤洌は日記に次のように記録し
た。 

 朝のラジオは毎日毎日、低級にして愚劣なるものが多い。否、それだけの連続だ。昨朝
は筧(克彦)博士というのが、のりとのようなことをやった。最初にのりとを読んで、最後
に「いやさか、いやさか」と三唱してやめた。ファナチック(狂者)が指導しているのだ。精
神主義の限界はある。精神に徹せよといっても、徹した後はいかにするかの具体的方
法がなくては何もならぬ。(『暗黒日記』昭和十八年四月三十日) 

 筧克彦は憲法を教えていた東京帝大教授である。講義の前に柏手を打って「いやさか、いや
さか」と祝詞をあげていた。「筧克彦は(学者ではなく)完全な宗教者である。彼はキリスト教、
仏教を遍歴した後、古神道を信仰し、古事記神代編にみられる上代人の信仰生活を我が生
活としようとした。これは上代人の心に立ち返ろうとした国学者の立場を一層徹底させたもの
である。(中略)ここから教室で柏手を打つなど、諸々の奇矯な行動様式が生ずる。」(長尾龍
一『日本国家思想史研究』p37) 

 いま考えれば信じがたいことだが、こういう狂信者が東大で憲法を講じていたのである。戦前
戦中のイデオロギーを支配したのは、こういう類の狂信者たちであった。大川周明は五・一五
事件を煽動した国粋主義者だが、戦後の東京裁判法廷で発狂していることが判明して精神病
院に収容された。医師の診断は脳梅毒だった。天皇機関説事件を仕立てて美濃部憲法学説
を葬り去った慶応大学教授蓑田胸喜は、その当時から学生たちには蓑田狂気(=胸喜)と呼
ばれて蔑まれていたが、戦後に精神病院で縊死した。文字どおり、「狂人のたわごと」によって
国が支配されていたことになる。 

 蓑田胸喜ら国粋主義者たちに同調して美濃部憲法学説を葬った大多数の国会議員は、そ
の後ただちに「国体明徴運動」を決議し、政治の世界から合理的な判断というものを駆逐し
た。彼らがもたらしたものは、きわめてプリミティヴ(原初的)な狂信の世界である。 

 事実を正視し合理的に対処するというリアリズムの精神が、政治の世界からも軍事の世界
からも駆逐され、内容空疎なスローガンが跋扈するようになった。清澤は弾圧を警戒したきわ
めて用心深い表現でこれを指摘している。 

 日本は支那の感化を受けただけあって、文字に対する執着は相当にあるのは事実
だ。しかし支那人と異なるところは、支那人は、静的人種であるが故に、自分で陶酔する
やうな文字を考え出して、それを据えて何年でも観賞し感心してゐるに対し、日本人は動
的人種であるから、その文章に陶酔すると直ちに行動に移したがる点である。(中略)支
那人はただ声明だけしてゐるに対し、日本人は行動に移す。そしてそれだけ危険性を伴
う場合も多い。 

 非常時以来の社会現象、国家現象をみると、皮肉にいへば文字から来る眩惑以外に
は何もないといへる。たとへば何々中心政治といふやうなのは、日本国民として一人とし
て反対のないであらうことは無論だが、具体的には何をしやうといふのだらう。自主外交
などといふことも、内容を解剖すると屁のやうなことであって、一人でやってゐる相撲で
はなし、一人で頑張れるわけはないのだが、この文字が感情に訴へる。 

 昭和維新といふやうな言葉もそうだ。幕末と現在では、いかなる意味でも、異なってゐ
ることが、少し頭のあるものなら分る筈だが、しかし「昭和維新」といふやうな言葉が出る
となんのことはない、目が眩んでしまふのである。(中略) 具体策を編み出す理性と推
理力が欠けている。(清澤洌『時代・生活・思想』p465〜467) 

 軍事の世界では、近代戦を戦うために合理的な戦略判断をせねばならないにもかかわら
ず、かえってリアリズムの欠如した、八紘一宇、神州不滅、聖戦貫徹、一億玉砕、神風、等々
の空疎な言葉が氾濫した。敗退は転進、全滅は玉砕、敗戦は終戦、と言い換えた。事態を正
視し対処することをせずに、言い換えるだけで問題解決を回避し先送りにするのである。これ
はいまだに日本人が有する悪い性癖である。(詳細は、中山治「日本人はなぜ言葉に酔いや
すいか」『日本人はなぜ多重人格か』を参照) 


第3節 個人と国家の関係意識 
 日本の政治の腐敗と堕落に抗議すると称して、皇居の二重橋前で爆薬を使って自殺した男
がいた。清澤洌がこの男の立場にたって政府を攻撃したのではないか、と想像する人がいる
かもしれないが、清澤はこのような狂気じみた極端な行動や、クーデターや暴力革命を何より
も嫌った。そして次のように厳しく批判している。 

 彼は国家という大きな石垣が一足飛びで出来ると思っている。見上げる上の方の欠陥
は実は下から積み上げねばどうしようもないものであることを忘れている。つまり、政府
の腐敗も議員の堕落も、それが醜い自分たちの姿であることが分かっていない。(「憤死
者の遺書」『中外商業新報』一九二二年五月二九日) 

 自分が爆死するだけならまだ許せる。戦前は自分の気に入らぬ政治家を暗殺することが頻
繁に行われた。当時の世界的に有名なジャーナリスト、ジョン・ガンサーは、ベストセラーになっ
た極東の状況報告『アジアの内幕』Inside Asia(1939)で、次のように述べている。 

 (第一次)世界大戦以来の十六人の日本の総理大臣の内、原、高橋、浜口、犬養、斉
藤の五人が暗殺され、六人目の岡田も危うく難を免れ、少なくとも、他に二人その危険
に遭った者がいる。これは(第一次)戦後特有の現象ではなく、戦前にも伊藤や大久保
のような、偉大な近代日本の建設者が暗殺されている。暗殺者たちは大抵軽い罪で放
免される。今でも、短い刑期を務めあげて、自由の身でいる総理大臣暗殺者がいる。リ
ベラルで宥和的な政治家、特に外交問題においてそうである者は、常に暗殺の危険に
つきまとわれている。 
 現代において、このような暗殺を許容可能な政治的武器だとみなす国民は、日本人の
他はアラブ人のみである。
          長尾龍一「ジョン・ガンサーと軍国日本」『西洋思想家のアジア』p212) 

 ワシントン条約を批准した原敬、ロンドン条約を批准した浜口雄幸、対中平和 
政策論者犬養毅等々を暗殺した者たちを、国粋主義者、ウルトラ・ナショナリス 
トという。 
 かつて松下電器のブランド名は「ナショナル」だったが、同社の製品が欧米に進出するにした
がって、このブランド名は他のブランド名に変えられた。ナショナルは翻訳すれば国民的という
ことだが、日本語の「国民的」とは若干違う悪いニュアンスをもっているからである。 
 nationalは、nationalism(民族主義・国家主義・自国中心主義)やnationalistと同様に、nation
が基である。そのnationについて、司馬遼太郎は、「明治以後の、ステイト(state)と呼ぶべき、
法による国家ができたときにも、日本はネイション(nation)を引きずっていたわけです。ナチュラ
ル(natural)、ネイティヴ(native)と同じような語感のネイション(nation)です」といっている。(司馬
遼太郎『東と西』p296) 
 ステイト(state)というのは、ひとりひとりの個人が意識的に国家との契約をむすぶ「社会契
約」によって成り立つ近代国家のことである。宗教とか民族とか、それ自体としては大切であっ
ても、それらが公共社会を乗っ取ってはならない、お互いが生地のままのもの(natural)を抑制
して、他人の自由な生き方を保障する仕掛け、これが近代国家(state)なのである。 

 ところが、血脈でつながっているような生地(native)のnationがそのままstateなのだと思い違
いをしたままに、stateの構成員たる「国民」(people)をつくることに失敗しつづけてきたのが明
治以来の日本の近代化だった、と司馬遼太郎は指摘している。 

 比較憲法学者樋口陽一は、「司馬の小説を、日本人に自信を取り戻してくれた国民文学であ
ると解釈するのは浅読みである。ステイトを作ろうとして遂に失敗した近代日本を問いなおすこ
とこそ、彼の遺した膨大な作品群をつらぬく主題である」、と述べている。(樋口陽一『先人たち
の「憲法」観』p50) 

 清澤洌の問題意識はまさにこのことなのである。つまり、国家や社会のあり方というものは、
その社会を構成している国民一人一人の意識のあり方の問題に帰する。政治が悪い、政治家
が悪いといってみても、せんじ詰めれば国民に似合った政治や政治家でしかない。社会が悪
い、政治家が悪いと嘆いている者も、その構成員の一人なのであって、同じ穴のむじなではな
いか。 

 「政治界の堕落は、決して政治家自身のみの堕落ではないのだ。(中略)政治を向上せ
しむるためには、国民自身の向上の他に道はない。噴水は水源より高くは上がらない。
まづ水源を高めよ」。(『自由日本を漁る』p249) 


第4節 対米劣等感と敵愾心 
 清澤洌が仕事でアメリカに滞在している時に、ロサンゼルス・オリンピックが開催された。日
本の新聞はこぞって日本選手の活躍を報道し、時には号外さえ発行した。出場選手は「決死
の覚悟」を述べ、負けた者は悲憤の涙をしぼった。 

 ところが、開催地アメリカでの関心はきわめて薄く、会場が満席になったのは開会式だけで、
他の日は五〇パーセントぐらいの入りでしかなかった。オリンピック関係の記事は、最終日でさ
え『ニューヨークタイムス』のスポーツ欄の六分の一を占めたにすぎない・・・。清澤洌はこの事
実を紹介し、次のように論評している。 

  そもそも、たかがスポーツ試合に「決死の覚悟」を持ち出したり、国をあげての祝賀会を催す
などは、劣等感のなせるわざである。対等の相手なら、二人や三人が試合に勝っても大騒ぎを
することもあるまい。 

 「外国から帰ってきて、特に目につくのは日本人のInferiolity Complex、即ち自己劣等感
である。日本は実際自ら敢然として自ら優者の気持ちを持ってゐるだろうか。少し逆説
的だが、日米戦争説なども、実はこの劣等感心理の一つの現れではなからうか。」
              (「日本人の自己劣等感」『アメリカは日本と戦わず』p20〜23) 

 清澤が移民として渡米してまもなく、アメリカで行われた柔道試合の興業は、対米劣等感とそ
れにもとづく日本人の対抗心の分かりやすい例である。清澤はその様子を詳しく書いている。 

 いつも虐められ、侮辱される婦人は、われと我が身を殺して、「面当」を以て復讐する
者すらあるではないか。弱い者が強い者に対するはかない反抗の手段、消極的な勝利
の快感である。米国に居る日本人がこれほど弱いといふのではないが、平常排斥され
て、悔しさは胸に徹してゐる。「それみろ」。一度でも、かういって白人を尻目にかけて、
胸のすくやうな気持になりたい。 
 かういふ心理状態の持主である在米邦人の間に、有力なる柔術家が来たのだ。迷っ
た羊の群に、羊飼ひが来たほど喜び勇んだのは無理がなかった。 
           (中略) 
 その柔術の名士が、いよいよ白人の前で、堂々と相組み、相搏つのだ。われ等の血は
躍った。「まァ来てみろよ」ニヤニヤしながら、わたし等は、知っている白人といふ白人に
は、みんな見物を勧誘した。  (中略) 
 ××八段は来た。美髭を胸のところまで垂らして、威張った恰好でマットの上にのぼる
ところが、如何にも頼もしかった。「頼むぞ」「しっかりやれ!」柔術家は笑ってこれに答
へた、がそれは、苦笑に消えた。こめかみのあたりがブルブルとふるへた選手と、これ
を見物する日本人の眼は、おそらく血走ってゐたに違ひない。勝負事、ことに外国人と
の勝負事になると、国の存立にでも関係があるやうに、一生懸命に興奮してしまうのが
日本人の常である。その時がさうであった。 
 合図の鐘がなると、二人はバネのやうに立った。(中略)何といふ体格の相違だ。サン
テルが岩のやうな頑丈さであるに対し、柔術家のそれはまるで筋肉が出来てゐなかっ
た。(中略)サンテルの足すくひがうまくかかって××八段は、堂々とマットの上に倒れ
た。機敏な猫が鼠を押さえるやうに、サンテルは直ぐその上に乗りかかった。「なんだェ、
あの敗けやうは。」 

 ワシントン大学に来てゐた四段の柔術家が、この成績を聞いて学校の板敷が折れるほど、足
踏みをして口惜しがった。サンテルはまた試合をした。その結果、若手のこの柔術家もまた見
事に負けた。 

 清澤はこの逸話の最後を、「自分一人だけで決めて、世界一だの天下無敵だのと威張り廻し
たところで、絶えざる科学的研究と、他のものとの比較研究を怠れば、国内だけではそれでも
通用するけれども、国際競争場裡に出れば赤恥をかかねばならぬ。これは単に柔道のことだ
けじゃない」と締めくくっている。若手の柔道家について述べた次の一節は辛辣な皮肉である。
                                    (『自由日本を漁る』p3〜17) 

今この人は、福岡から政友会の代議士として出てゐる。玄洋社振りの国粋派だから、日
本は、如何なる点でも米国に優ってゐると壮語してゐるであらうが、ただ併し柔術だけ
は、世界に誇る代物だと断言する勇気はない筈である。(前掲書p15) 

(蛇足ながら、この柔道試合の興業を企画実践したのは、同郷出身で当時ワシン
トン大学の学生だった植原悦二郎である。彼は柔術家にうまくのせられて興業をし
たが、惨敗されて大きな損害をこうむった。)
                        〈植原悦二郎『八十路の憶出』p10〜12〉 

 対米劣等感と対抗心をもった典型的で極端な人物が松岡洋右である。彼は日本の国際連盟
脱退、三国同盟締結、日ソ中立条約等々を押し進め、日本を国際的孤立に追い込んで日米
戦争への道を推進した政治家である。天皇が「松岡は頭がおかしいんじゃないのか」と側近に
もらしたほど、支離滅裂な外交をやった。司馬遼太郎は、彼のことを、「医者の研究課題のよう
な人だ」とまで断言している。(『司馬遼太郎が語る雑誌言論一〇〇年』中央公論社p55) 

 松岡は山口県に生まれた。生家は全国に知られた回船問屋で、坂本龍馬、高杉晋作、山県
有朋らがしばしば密会した所だった。長州藩に幕府征伐のための軍用金を徴収されたほどの
豪家だったが、明治維新で没落し、松岡が進学するための学費もまかなえなかった。仕方が
ないので、十三歳でアメリカに渡り、働きながらハイスクールと地方の二流大学夜間部を卒業
した。 

 更にハーバードかエールの大学院に進むという希望があったが果たすことはできなかった。
帰国したが、学歴エリートへの登竜門である東京帝大は、彼のような傍系者を受け入れてはい
なかった。明治大学に籍をおき、外交官試験を受けて採用された。 

 松岡には、長州に生まれにもかかわらず、時の藩閥政府に順調なコースで入れなかったとい
う不遇感があり、その反作用として、異常なまでの自己肥大感と政治的野心を抱いた。また、
アメリカ人に対する学生時代のルサンチマン(強者への恨み)によって、アメリカに対する敵愾
心を持ち続けた。そういう心の屈折が、後日の強気な対米交渉の仕方に大きく影響したといわ
れている。 

 松岡は口癖のように、アメリカ相手の外交は、「一度でも相手の威圧に屈したら、二度と頭を
上げることができない」、「殴られたら殴り返す」毅然たる姿勢で臨まなければならないと言って
いた。あらかじめ退避場を封じた毅然たる姿勢は個人レベルの問題なら雄々しくみえるかもし
ないが、「勇ましい国家」などという肩肘はった姿勢は自己満足にすぎず、現実には破壊の道
へまっしぐらに進むことになった。(三輪公忠『松岡洋右』p172) 

 同じ経験をしても受け取り方によって意味が違ってくる。どう受け取るかはその人の稟性とそ
の後の修養による。清澤も、松岡同様に、あるいは松岡以上にいいしれぬ苦労をした。しか
も、松岡のように大学を卒業できたわけでもない。けれども、清澤と松岡の生き方は一八〇度
異なるものになった。 

 もともと、大らかな気質の家の生まれで、辛い体験をしても反米家にならなかった清澤だが、
国内の反米世論の嵐の中にあっても、それに便乗した反米家を任じてはいられなかった。当
時の日本では、アメリカの欠点、野心、横暴等々について非難する反米的な本が数多く出版さ
れていた。そういう状況の中で、清澤は『米国の研究』(一九二五年)その他を出版して、劣等
感や被害者意識や敵愾心に毒されない、醒めた対米認識と冷静な対米交渉をすべきことを説
き続けた。 

 輸出入ともに大部分をアメリカに依存していた日本にとって、アメリカとの親善関係が日本の
経済的安定と将来の発展をもたらす最善の道であるという、醒めた認識があったからである。 

「米国の非を攻撃するのはいい。けれども一の非を否定することにより一〇の是をも否
定しさることは公平であらうか。日本自身にさえ期待し得ざることを米国のみに強ひて、
この点だけから米国を評価し去ることは両国の親交を庶ふもののとるべき態度であらう
か。」 
「忘れてはならない一事は、日本と米国とは、好むと好まざるとのかかはらず、(中略)あ
い対して生きねばならぬ運命の下に置かれて居ることである。」
                                   (清澤洌『米国の研究』序文) 

 アメリカは時には相矛盾したことをやることがある。このことをアメリカ非難の口実にする人も
いるが、アメリカの政治システムを熟知している清澤にしてみればなんら非難するにはあたら
ない。 

 そもそも政府の政策などというものは妥協の産物でしかない。さほど明確に練り上げられた
シナリオにしたがってやっているわけではない。これは日本とて同じである。 

 ただ、日本と違うところは、アメリカはそれ自体が大きな世界であって、他国に対する関心は
極めて低い。そのため、国民を対外政策に引きつけるためには、大義名分が必要である。そ
れも目先の利害得失のようなものではなく、アメリカの歴史と国民心理に根ざした理念でなけ
ればならない。アメリカが自由主義イデオロギーを振りかざすのはそのためである。理念・目的
が手段を正当化するのである。 
 したがって、この理念を他国との妥協を図るために枉げるなどということは絶対にしない。日
本がこう出ればアメリカがこう対応するだろうという、碁打ちのような作戦には動じないのがアメ
リカなのである。 
 これが清澤のアメリカに対する基本的な認識であった。 


第5節 中国蔑視と領土欲 
 内村鑑三がアメリカで不愉快な思いをしたことの一つに、自分が何回も中国人と間違われた
ことがある。

「お前はどこで洗濯屋をやっているのか」、「いつ辮髪を切ったのか」と尋ねられ、内村
は、「馬と同じに扱われてジョンと呼ばれている中国人と同等な侮辱と虐待をうけなが
ら、頭脳と心情の平静を保つには、キリスト教的忍耐力を必要とした。」
       (内村鑑三「余は如何にして基督信徒となりし乎」『内村鑑三著作集』第一巻p108) 

 アメリカにおける中国人差別に対しては同じ東洋人として憤りを持ちながら、自分が中国人と
同じに扱われるのを侮辱と感じているのである。内村鑑三でさえそうだったということは、他の
大部分の日本人たちの中国人蔑視感は推して知るべしというものであろう。 

 今思うと、戦前の日本人は不思議なほど中国人や朝鮮人に対する差別意識が強かった。当
時は中国人のことを「支那人」といっていたが、これは差別語ですらあった。いま六十歳代以上
の人なら、こういう風潮を現実の体験として持っている。 

 日本は古来、中国から文化を学び文明を入れてきた。日本での知識人やエリートにとっては
漢文を習熟することが必須の条件だった。日本人にとって、中国は永年にわたって尊敬と憧憬
の対象だったのである。それが失望と蔑視に転じたのは日清戦争以後のことである。 

 法哲学者長尾龍一教授は、「思うに、一八九五年から一九四五年の五十年間の日本を毒し
たのは、領土欲と中国蔑視でした」と言い、その病理を次のように説明している。 

 何といっても日本が領土欲を急に持つようになったのは日清戦争の勝利の後で、これ
については当時の外務大臣陸奥宗光の『蹇蹇録』が、下関における李鴻章との交渉の
経過を具体的にありありと叙述しております。李鴻章は最初に、「我々は日本の近代化
に非常に敬服している、今度の戦争は不幸なことであったが、今後東洋の長い平和の
ために、互いの行きがかりを捨てて友好関係を築き、西欧帝国主義に対してアジアが団
結しようではないか」と呼びかけた。 

 ところが、伊藤博文の側が、「台湾をよこせ、二億テールの賠償をよこせ、遼東半島を
よこせ」とパッと要求書を出す。台湾なんて戦場とはまったく別のところで、台湾人にとっ
ても青天の霹靂でした。見るみるうちに李鴻章の顔色が変わって、「こんな過激なことを
したら、日中は今後長きにわたって恨みを残し、決してろくなことはない、こんなやり方は
聡明だとは思わない」といった。 
 それに対して伊藤は、「我々は勝者である。お前は敗者である、ぐずぐずいうならば、
我が国の軍隊はいざとなったら北京まで攻めていく」と脅かした・・・・・・。(中略)これが領
土欲の出発点であると思います。 
 それから三国干渉が起こる。(中略)三国がもし日本に対して、「外国の領土をやたら
に取りたがるのはよくない。中国との間に今後長い恨みを残すから、領土はあきらめな
さい」とお説教をするだけで、自分たちも何もしなかったら、日本も、なるほどそういうもの
かと思って引き下がって、その後のお行儀がよかったのかもしれない。ところが、ロシア
は旅順、大連を取る。ドイツは青島を取る。フランスは広東を取る。 
 そこで日本は、彼らに負けずに次々と中国の領土を取ることを決意した。臥薪嘗胆と
いって、いつか仇を取ってやると固く決意し、中国の領土を取ることがその後の国家目
標になったわけです。
        (五十嵐武士・北岡伸一編『争論東京裁判とは何だったのか』p211〜213) 

 このことを端的に示して世論を導いたのが、徳富蘇峰である。かつては平民主義、平和主義
を説いていた蘇峰だが、「此の遼東還付が、余の殆ど一生に於ける運命を支配した。・・・・・・余
は精神的に殆ど別人になった」と自伝に書いている。 
これを機に排外主義、軍国主義に転じた蘇峰は、『大日本膨張論』という露骨な題名の書物を
書いた。蘇峰の中国観と侵略思想は、明治ジャーナリズムに多大な影響力をもっていた彼の
雑誌『国民之友』を媒体として、大方の日本人を膨張主義、侵略主義への賛同者にしていっ
た。 

 このような領土欲にとりつかれていた国民大衆が、日露戦争後の講和条約で代表団が領土
や賠償金をとってこないことに不満を抱いて、日比谷焼き討ち事件を起こした。また、強硬的な
中国侵略の出発点となった満州事変を世論は大喝采した。その後、軍は中国へ急速に戦線
を拡大していった。これは放縦な領土欲という以外には説明がつかない。 

 しかも、一叩きすれば中国は降参するだろう、もう一叩きすれば降参するだろう、と次々に戦
線を拡大し、日中戦争は泥沼化していった。その根底にあったものは中国蔑視である。 
 陸羯南、内田良平、内藤湖南、等々の中国論は、それぞれ蘇峰とは若干の相違はあるもの
の、中国を否定的にとらえ、差別・侮蔑感を根底にすえた中国認識を広めた点では同一であ
るといえよう。 

 野村浩一は、「近代日本の歴史は、中国認識失敗の歴史であった。そして、この歴史は、現
在もなお、基本的に変わったとはいえない。ある国を認識するということは、鏡のように、その
国を正確にうつし出すということではない。己の理解しうる範囲でしか、他の国民を理解するこ
とはできないものである。」(野村浩一「大陸問題のイメージと実態」橋川文三・松本三之介編
『近代日本政治史U』p52)と述べている。 

 清澤洌は、当時の国民大多数がもっていた中国観とはまったく別の中国観をもっていた。彼
は次のように述べている。 

 私が支那人に感心するのは、その国民が如何にも勤勉な点であります。生まれて働く
ために出来たやうに、労働して倦むことを知らぬ点であります。 
(中略)私は一国の盛衰は結局その国民が多く生産するかせぬか、即ち労働するかせ
ぬかによって決するものであることを信ずるからであります。 
 支那は一回も戦争に勝ったことがないほど喧嘩に弱い国民であります。然るに幾度敗
れても支那は依然として支那たることに変わりはありません。何故でせうか。私の直覚に
よると―研究したとは申しませぬ―彼らは労働するからです。 
 政治の支那をみれば真っ暗闇です。日本人の支那観は多くこの政治的立場から見る
が故に悲観的な観察で満ちてゐます。けれども眼を転じて支那を経済的に見る時に、支
那は何れの国にも劣らない未来があると思ふ。(中略)支那は遠い将来に於て、教育の
発達と共にこの方面から光明が来るのではないかと思ひます。
  (清澤洌『黒潮に聴く』p411〜412) 

 その国の盛衰は、政治もさることながら、なによりもまず国民の勤労に支えられた生産力に
よってきまる、という清澤の判断は彼自身の移民体験によるものである。アメリカの日本移民
たちはどこからも何の援助もなく、定着し発展していた。これに比べて、満州の移民たちは、政
府の保護にもかかわらず十分な発展をしていなかった。そうした移民たちよりも、日本の圧迫
にも屈せず黙々と働く中国人たちが、いずれは満州を奪回して統一中国を形成するであろうこ
とを予測していたのである。(北岡・前掲書p58) 

 清澤のこのような中国観は、そのまま朝鮮についての見方にも当てはまる。 
 朝鮮に対するインフラ整備のために莫大な経費がかかっているのに、その見返りとしての利
益はごくわずかのものであり、しかも、それもごく一部の階級に利益をもたらしているだけで、
朝鮮人全体には何ももたらしてはいない。民衆が貧しければ需要は少なく、生産は発展しな
い。朝鮮統治は朝鮮にとっても、日本にとっても益することは少ない。また、彼と会った朝鮮独
立運動家たちは、どんな結果をもたらそうともあくまでも独立を求めると主張していた。アメリカ
での迫害経験者としての清澤にとっては共感できる主張である。 

 清澤は、朝鮮を日本に同化させることは不可能であり、自治を与えることが賢明策であると
論じている。清澤のこのような見解は、当時の主流であった同化主義的な植民地政策論と真
っ向から対立するもので、かつて、伊藤博文が併合に反対したのとほぼ同じ考えであった。  

 伊藤博文は韓国独立運動の志士に暗殺されたので、積極的な韓国併合論者だったかのよう
に誤解され易いが、彼は山県有朋や小村寿太郎の韓国併合論に最も反対していた政治家だ
った。彼はソウルの講演で、「併合ははなはだ厄介である。 
韓国は自治せねばならない。しかし、日本の指導監督がなければ健全なる自治を遂げること
ができない」と保護国化の考えを述べている。 

  韓国における当時の日本人の行為は非道を極めていた。統監となった伊藤は、「かくの如き
非道の挙動はわが国民として最も慎まねば、韓国人民をして外は屈従を装い、内にわれを怨
恨するの情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓の関係に累を及ぼすが如きことあれば遺憾
とすべきことである。かくの如き不良の輩は取り締まる」と公言し、不良日本人の逮捕送還を実
行した。 

  岡崎冬彦氏は、韓国を保護国にしておくという「伊藤の考え方は、当時の帝国主義の世界の
常識の中でも最も穏健な部類に属するもので、それはまた当時の英米の専門家が韓国民の
幸福のためにいちばん良いと考えた方向でもあった」と説明している。 

  しかしながら、伊藤も最終段階では併合案に同意せざるを得なかった。相変わらずの韓国の
内乱と、不良日本人たちの所業で、日本は今さら後戻りできないほど韓国人の不信と怨恨を
かっていたからである。(岡崎冬彦『小村寿太郎とその時代』p292〜308) 


第6節 日本の世論とジャーナリズム 
 国民こぞって、熱病のように「アメリカ憎し、鬼畜米英を倒せ」といっていた時代だったから、
清澤洌は「アメリカびいきの戦争反対者だ。非愛国者だ。非国民だ」と言われた。 
 良い点も悪い点も含めてアメリカを知りつくしている清澤洌からみれば、政府や軍部のやって
いることは、日本を窮地に陥れることが明らかだった。彼はそのことを評論で繰り返して指摘し
たのであるが、政府は彼を非愛国者呼ばわりして言論を禁じ主張を封じたのである。 

 私は、私の持つ意見に対しては、常に強力なる反対論を歓迎する。しかし、私がこの
本を書いた動機が愛国的至誠によるものではないという者がいるならば、私は猛然とし
てその人に聞く。君が信じるように信じなければ愛国ではないと言うのか。愛国心にはた
だ一つの道しかないのか。さらに、君は何の権利があって自分だけが正しいと主張でき
るのか。 
 ・・・・私が父祖の国の前途を思ってこれに微力を捧げようとする精神はなにびとにも劣
らない。・・・。(清澤洌『転換期の日本』序文) 

 今のスポーツ新聞は、何にでもやたらに大げさで低俗な見出しをつけることで失笑をかって
いるが、戦時中の新聞報道は、まるで今のスポーツ新聞のようであった。 
 読者の理性に語るのではなく、低俗な感情に媚び、事実を誇張したり歪曲したりして、大げさ
な見出しで狂気のような国家主義と軍部の独断専横を煽動していたのである。各新聞は客観
的な報道やそれに対する自社の見解を述べることなく、軍の宣伝紙のようなありさまだった。 

 それは早くも満州事変(昭和六年)から始まっている。とりわけ毎日新聞は、「守れ満蒙=帝
国の生命線」と書き、社員たちでさえ「毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争」と自嘲したほど
のハッスルぶりだった。半藤一利氏は、著書『ドキュメント太平洋戦争への道』で、満州事変に
際しての新聞報道の過熱した煽動と、それに左右された政府について、次のように説明してい
る。 

  昭和十年頃以降の軍の強硬な姿勢とは違って、昭和六年に満蒙に戦火をひらくに際し
ては、軍は新聞によって導かれる世論の動静を恐れていた。ところが、フタを開けてみ
たら、どの新聞も軍に大喝采を送った。それまでリベラルな姿勢をもって、軍備縮小論を
主張し、統帥権干犯問題で軍を批判してきた朝日新聞さえも、満州事変勃発と同時に急
変した。「日本は正当防衛」「権益擁護は厳粛」と論じたうえに、「派遣軍将士の慰問」事
業をも開始し、慰問金応募者の住所、氏名、金額を掲載して大々的に「愛国」キャンペー
ンをしたのである。 
  十二月二十七日の朝日新聞夕刊には、奉天特派員荒垣という名で次のような荒唐無
稽な作り話が掲載されている。 

「四十度の熱で寝ていた者が戦闘にフラフラ出て行ったまま全快した」。 
「眉間から入った弾が頭蓋骨と皮膚の間をクルリと通って後頭部から抜けたのをホンの
 軽傷と思って戦っていた独立守備隊第○大隊の北山一等卒」。 
「胸部から背中に穴を開けられて、息をする毎に出血しながら敵と格闘した米山上等
兵」。 
 「爆弾の破片で足の肉をすっかりとられながらも突貫していった相沢一等卒」。 

 ここに明らかなように、新聞は、「軍や政府に抵抗したが、抑圧され、規制されて、挫折し、妥
協した」というのではない。新聞は、抵抗どころか、始めから積極的に笛を吹き太鼓を叩いた
のである。 

 マスコミは競って世論の先取りにつとめ、軍を鼓舞した。軍は俄然自信を強めた。東京の参
謀本部から関東軍参謀長あてに「輿論はおおむねこれを是認し、殊に国論は一致してこれを
支持しあり」と打電した。世論のことを昔は「輿論」と書いて、多数意見のことを意味した。文字
どおり御輿をかついだのである。 

 ところで、仕掛けた日本の関東軍は一万名、対する張学良の軍隊は二十五万名。朝鮮にい
る日本軍の加勢がなければ失敗に終わる。朝鮮軍司令官林銑十郎は、独断で朝鮮軍を満州
に越境させた。 

 これは、天皇の裁可があったわけではなく、まぎれもない統帥権干犯だった。さすがに、『機
密作戦日記』には、軍が新聞の影響力を恐れ、世論が軍部攻撃に転じることを危惧していたこ
とが記されている。 
 それにもかかわらず、新聞は「軍司令官の独断専行で国外出兵することができる制度に疑
問があるが、政府はこれを早く追認すべきである」と書いて、弱腰な若槻内閣の尻を叩いた。 

 これは大きな間違いである。統帥権とは軍司令官が独断専行できる制度ではない。天皇の
統帥権というのであるから、天皇の裁可がない司令官の独断専行は重大な統帥権干犯事件
であり、関東軍参謀石原莞爾、板垣征四郎、関東軍司令官本庄繁、朝鮮軍司令官林銑十郎
等は軍事裁判の重罪被告人のはずである。 

 だから、軍は秘かに世論の批判をおそれていた。ところがあにはからんや、そのことを指摘
した新聞はなかったし、かえって喝采を受けた。若槻首相や幣原外相は親英米派、国際協調
派であり、満州事変不拡大方針だったものの、新聞は軍の逸脱を讃え煽動するばかりで、そ
れを抑制しようとする内閣を支持しなかったから、若槻は世論に押されて追認せざるを得なか
った。新聞は軍といっしょになって政府の尻を叩き、国民を欺いたのである。 
                      (半藤一利『ドキュメント太平洋戦争への道』p66〜101) 

 統帥権干犯をした司令官には、なんら責めも処罰もなかっただけでなく、逆に、事態の拡大
を抑制しようとした参謀本部の今村均等が放逐された。統帥権侵害が賞賛され、それを抑えよ
うとした者の方が追い払われたのである。その後は、国家としての意思とは別に、現場司令官
による統帥権侵害、独断専行が行われ、政府がそれを追認することが当たり前のようになって
いった。 

 清澤洌は、このように「衆愚」を代弁するだけで「見識」を示さない新聞の報道姿勢について、
「現代ジャーナリズム批判」という講演で、次のように説明している。 

 「平生自分が考へて居ることを、新聞だとか雑誌だとかに依って裏書きされるといふこ
とを多くの読者は欲するのであります。随って多くの読者を漁るために、どうしても、国民
が持って居り、国民が考へて居る傾向を裏書きし、喜ばせるような記事で満たされなくち
ゃならんといふことになる。」 
 「総ての人の要求を満たす新聞といふものは何かと申しますると、それは其の国民が
持って居る伝統、感情に愬へるといふことになるのであります。」「一般を目がけることに
なるといふと、彼らを満足させるためには、其の調子を下し、そのもっている感情を満足
させるやうな風なことを書いてやる必要があるのでありますから、これに反抗することは
中々書けない。」 「新聞が大きくなるに従って、主張的には弱くなることがお分かりになる
と思ふ。」 

 日本の新聞は、低俗なゴシップ好きで、事実を重視せずに想像でものを書き、そして
何よりもリベラリズムを欠いている。これは、創造的理知的な批判精神などという次元以
下の日本人全体の低俗な傾向が、そのまま新聞に反映されているのである。「新聞は国
民性の鏡」であって、新聞だけに多くを望んでも無理なのだ。 

 清澤はこう慨嘆し、「ジャーナリズムを批判することは、国民性を批判することでもある」と述
べている。当時の駐米大使出淵勝次は、たまたま訪米中だった清澤洌に対して、「日本の新
聞はまるで気違ひのやうだ」と述べた。清澤は同感の意を表し、このことを日記に記したが、国
民も「気違ひのやう」だったことになる。 

 その世論がいかに外交問題を害しているかについて、清澤は『日本外交史』(一九四二年)
の序文で次のように批評している。 

 「民間輿論の強硬」(『日本外交史』) 
日本の外交は、民間の世論が常に強硬で、政府の政策に不満を持つ。幕府が外交を始
めて以来約九十年の間、軟弱外交だといって非難されなかった政府はない。最も有能な
外交家として陸奥と小村の名を挙げることに誰も異存はあるまいが、この二人ほど無能
外交家と罵倒された者はいない。日清戦争後の陸奥の外交交渉では、衆議院で政府弾
劾があった。日露戦争後の小村外交については、不満を抱いた者たちによる未曾有の
騒乱が起きた。外交は国民の憤慨の的である。その真価が分かるまでには十年、二十
年の時日を要する。これは我が国の特殊な現象である。 
 その理由は、 
 @国際関係のような総合的知識を要する問題について、一般民衆の判断力は足りな 
   い。 
  A支配階級に対する一般民衆の対抗意識がある。 
  B外交を一種の取引と見ずに、強弱勝敗の観点からしか考えない。外交は強く出さえ
   すれば勝つと思っている。 
等々である。いずれにせよ、対外強硬論が民間世論の基調である。民間世論はその性
質上無責任なものであるが、我が国の外交はこの特殊な国民的感情を無視することは
困難だ。 
 この感情の特徴は、あくまでも膨張を望むことだ。明治期の初代には、対外平等が目
的であった。その後は、対外優越を求め、世界に伸びて倦むことを知らない。短時日の
間に日本が膨張できたのは、この精神の所産といってもよい。 
 しかし半面、この感情の弱点は、止まることを知らないことである。妥協は卑屈の代名
詞であり、譲歩は敗北の別名だなどと考えているところに、余裕のある外交は展開でき
ない。国力以上の冒険に進み犠牲を大きくする危険もある。 
 外交に関するこのような国民世論の傾向は、過去において問題だっただけでなく、将
来の外交についても問題を投げかけるであろう。 
 後進国としては建設的な役割を果たしたこの傾向が、大国となった今では逆に悪い結
果をもたらしている。大国は、必然的に寛容と妥協を要求される。強力な政府のみが、こ
の強硬論を抑制し指導することができる。(『日本外交史』上巻p5〜7) 

 そして清澤は、日本の世論をこのような方向に導いた元凶、大日本言論報国会会長徳富蘇
峰を、その言論が間違いであるのみならず、道義的にも許せないと、次のように激しい批判を
した。 

 「徳富蘇峰に与ふ」(『東洋経済新報』昭和二十年三月十七日) 
 徳富蘇峰足下 ・・・足下の有する影響力は絶大である。大東亜戦争の世論の陣頭に
立って、これを指導し、これを引きずって行ったのは、誰よりも足下である。・・・・・第三次
近衛内閣当時、足下はその軟弱を叱咤し、右顧左眄を難詰した。・・・・・足下は単にそ
の強力なる関係新聞を動員するに止まらなかった。矢つぎ早に幾つもの著書を発行し、
それが大袈裟なる宣伝の力も加わって何れも一挙にして数十万部を売り尽くしたが、そ
の目的は日本がこの際、断固たる行動に出るべきことを主張するためであった。・・・・ 
 足下がよく知らるる如く日本においては対外強硬論は、常に大衆の人気を博する。そ
の反対に対外自重論は、卑怯軟弱の別名と考えられ、非難攻撃の標的となるのが常
だ。この事は明治以来の珠玉のような重臣高官にして、刺客の凶刃の犠牲になったもの
が、何に原因するところが最も多かったかを顧みても明らかであり、足下も亦日露戦争
当時、身をもってこれを経験された筈だ。 
 国民的傾向がここにあり、そしてそれが時に国家の健全なる発達に危険を及ぼすこと
のある事実を知ってゐる我邦の指導者は、謹んでこれに火を点ずることを避けた。単な
る一決断行によって、容易に国民的人気をかち得る場合にも、彼らはその上下に負う責
任の重大さに顧みて、冒険に突進することを拒絶した。この指導者たちの強い責任感こ
そ我国が明治以来、駸々として発展してきた最も大きな原因であった。記者(清澤)がこ
こでこのことを繰り返したのは、足下がその点で足下の親しい友人先輩と行く道を異にし
たことを想ひ出すためにすぎない。(中略) 
 足下の後輩として、遙かに小さな足跡を歩む者として、記者は併し、愛国の至誠と言責
だけはこれを重んずるつもりである。どう書けば天下民衆の喝采を博するかを知る場合
においても、しかしそれが我が熱愛する祖国のために幸福なる結果をもたらさずと知ら
ば、これを自制することを、せめては愛国者の真の任務と信じて来た。巧偽は拙誠に如
かず、記者はそこに、ただに言論人のみならず、一般識者の任務があると考へてゐ
る。・・・・・・・・無知にして是非の判断をなすことを得ないものも国家のために困った存在
ではあるが、しかし自ら分別ありながら衆愚と強力勢力に便乗するものが若しありとすれ
ば、その罪は前者に数倍する。(中略)責任感は政治家としても文筆人としてもその第一
歩だ。これなくして公人としての価値はない。 

 当時の厳しい言論統制下の日本で、よくぞ清澤の身に何も起こらずにすんだものだと思わせ
るほど、激しく厳しい内容である。最後まで自由主義の論陣を張っていた雑誌『東洋経済新報』
は、東条英機から内務省に「つぶせ」という指示があって、当時は四ページ分の用紙割り当て
しかなかった。社主石橋湛山が、「どうせつぶれるのだから、この際思い切って書け」と清澤を
督励して書かせたものである。しかし、それから二ヶ月後の五月二十一日に、清澤は思わぬ
病を得て他界した。清澤洌の生前に公刊されたものとしては、この論説が最後のものとなっ
た。 

目次へ

第三章 外交評論の基本的姿勢 

第1節 国益論者・清澤洌 
 清澤洌の外交評論の基盤を、平和主義、反軍国主義、反帝国主義、小日本主義などのどれ
か一つの概念でくくることはできない。それが書かれた当時の世界情勢や国内情勢(コンテク
スト)を抜きにして、清澤の言説(テクスト)だけを比較すれば前後矛盾していることさえある。彼
はある立場から主張はしても、その主張どおりに行われず事態が変化した場合には、それに
よって生じた結果を前提にして更に次の策を論じたからである。このことは、そもそも外交とい
うものが流動的な時事問題であり、相手との交渉であり、妥協の産物なのだから当然のことで
ある。 

 清澤は他のどの派からも支配されないノン・コンフォーミストだった。これは大宅荘一が戦後
日本の思想界のパラダイムに毒されないための手段として「無思想人宣言」をしたやり方とよく
似ているといえよう。清澤はこの基本的姿勢をもって、国際的な視野を欠いた判断や非合理的
な判断によって国益を損なうこと、政治家が政治や外交のことなど深くは知りもしない衆愚の
人気とりをして国益を害すること、等々について容赦のない批判をしたのである。 

 清澤洌論の定本ともいうべき『清澤洌―日米関係への洞察―』で著者北岡伸一教授は、清
澤の外交論の基本的な構想を次のように要約説明している。 

 「日米、日中、日英、日ソなどの二国関係の中で日本外交を考えるのではなく、・・・国際
システムの中でとらえ、日本の開国と膨張、イギリスの後退、アメリカの勃興、ロシアの
革命、中国の覚醒といったいずれも巨大な世界史的意義を持つ事件のすべてを論じた
上で、・・・・・日本は日英米三国の提携によって中国ナショナリズムの暴発を防ぎ、他方
で満州権益を徐々に返還することによって中国との親善関係をはかることが構想されて
いた。これによって日本はまずアメリカとの関係において、次いで中国との関係におい
て、貿易を中心として経済発展を期待すべきだ、というのが清澤の主張であった。」
                                       (北岡・前掲書p60) 

 このように、清澤洌はきわめて現実主義的な国益論者だった。当時は官憲から利敵行為と
みなされた彼の言説も、今読めば「国際的な視野と醒めた判断」を持っていた清澤が、真の国
益を考えて提言していたのだということが明白である。 
彼は忌憚のない政府批判や国民意識の批判を行ったが、彼のことを、あたかも反体制、反政
府主義のコスモポリタンだったかのように速断するのは誤りである。 
彼が強烈な愛国者であったことを、橋川文三は次のように述べている。 

 一見冷然として日本を批判するかのような姿勢の根底にあったものは、ほとんど国士と
いってよいような烈々たる愛国者の気概である。「神よ、この日本を救え!」という祈念
が「日記」の底を貫いていることを見逃すことはできない。「ああ、天よ、日本に幸いせ
よ。日本を偉大ならしめよ。皇室を無窮ならしめよ。余は祖国を愛す」という言葉は彼の
真情であり、(中略)激しい愛国者清澤の魂の叫びであった。
                        (ちくま学芸文庫版『暗黒日記』1の解説p456) 


@『外政家としての大久保利通』 
 現代日本の国民的作家司馬遼太郎は、多くの人に敬愛されており、司馬に対する批判的な
言説はあまり聞かないが、ある年齢以上の鹿児島出身者には司馬ぎらいが多いのだという。
                                 (『司馬遼太郎の跫音』中公文庫p225) 
 彼が、鹿児島県での絶大な人気者西郷隆盛よりも、嫌われ者の大久保利通を高く評価し、
小説『翔ぶが如く』をはじめとして、晩年に至るまで、何度もそのことを書いたり話したりしたか
らである。(司馬遼太郎「大久保利通」『歴史の中の日本』中公文庫等) 

 西郷隆盛の人気は出身地薩摩だけではない。明治の知性を代表する福沢諭吉も、『丁丑公
論』で、「西郷が何か悪いことをしたとでもいうのか。西郷は、主君に恨まれてまで封建制を打
破するために廃藩置県をするなどの大功をたてたのに、賊名を着せるのはおかしいではない
か。西郷は無私である。乱の原因は政府にある」と、西郷を弁護し讃えている。 

 こういう西郷評価とは反対に、政治的リアリズムに徹した大久保利通の方を高く評価したの
が、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(一九七六年)である。 
 じつは、大久保利通に対するこのような価値判断を、既に一九四二年の時点で示していたの
が、清澤洌の著書『外政家としての大久保利通』(昭和十七年刊)である。多読をもって知られ
る司馬は当然この著書を読んだことであろう。 

 『外政家としての大久保利通』は、それまでの清澤の評論文とはスタイルを一新している。公
文書はもとより、関係者の日記や書簡を引用して厳密な考証を加たもので、学術論文ともいえ
るものである。昭和十七年当時の清澤は、危険思想家として時事評論を発表する途を閉ざさ
れていた。そこで、時局に直接触れない人物評を著したのである。 
 しかしながら、この著作は、単に時局の問題に直接触れることのない内容のものを発行した
のではない。近衛や東条の政策が、日本のおかれた国際的な立場というものに全く無頓着
で、政治的リアリズムを欠いていることを暗に批判するために、その対極の例である大久保利
通の施政を賞賛しているのである。 

 大久保が岩倉具視らと外遊している間に、政府を預かった西郷隆盛、板垣退助らは、すでに
征韓論を固めてしまっていた。板垣退助は、ただちに釜山に軍隊を派遣することを提唱した
が、西郷は大義名分が立たないことを理由にそれを斥け、先ず、自分が派遣大使として韓国
におもむいて交渉し、その後にことを起こすことを決定していた。 
 帰朝した大久保は、盟友西郷の征韓論を抑えて西郷を下野させた。これが西郷の悲劇の始
まりで、やがては西南戦争に担ぎ出されて討ち死にする。源義経や赤穂四十七士が好きな判
官贔屓の大衆からみれば、西郷は善、大久保は悪だということになる。 
 大久保が西郷の征韓論に反対した理由は次の二点である。 

 一つは、日本はまず内治を整え、国家富強の基礎を固めねばならないからである。鉄道、学
校、軍隊、司法機関、の設置等々で莫大な経費がかかっている。多額の外債と多数の外人技
師や学者とで、半植民地のような状態から抜け出すことがまず必要である。こんな状態のとき
に韓国を攻撃すれば、フランスやイギリスに漁夫の利をもたらす。また、外債償還が滞ったり
すれば、英国その他の外国には日本への侵略の口実を与える。 

 二つ目の理由は、西郷が死に場所を求めているからである。西郷は、薩摩藩の金で明治維
新を実現したうえに、廃藩置県で薩摩藩も潰した。薩摩藩主島津の恨みをかって身の置き所
がない思いをしている。旧武士の不満を昇華させる必要もあると思っている。西郷が派遣大使
として韓国へ行くのは、彼が殺されることによって日韓戦争の口実を作るためである。大久保
は、日韓戦争も反対だし、西郷が旧武士層のために死ぬことにも反対である。 
 征韓論は、近代日本の大陸進出政策論の最初のものである。清澤は、無謀な征韓論を抑え
た明治初期の大久保の判断を賞賛することをとおして、国力や国際状況もわきまえずに「大東
亜戦争」政策をとっている昭和の近衛や東条を批判したのである。清澤はこの著で、「明治の
政治家はけっして責任を回避しなかった」と述べている。  


A「日本外交を貫くもの」(『日本外交史』上巻) 
 清澤は、昭和十七年にもう一つの本格的な論文『日本外交史』も出版した。上・下巻合わせ
て六七四頁の大冊で、ペリー、ハリスの来航から日米開戦までを詳細に論じたものである。そ
の序文「日本外交を貫くもの」で、清澤は次のように外交思想の基本を述べている。(同書p3
〜7) 

 外交は総てのものと同じで、物理的原則が働く。ボールを無理に蹴り上げても必ず元
の高さに戻ってくる。一国の外交もそれと同じで、時には飛躍しすぎたり、また、後退した
りするが、いずれはその国の実力相応の線に沿うものである。 
 例をあげれば、明治七年に西郷従道は中央政府の意志に反して台湾出兵をし、戦い
には勝ったものの、明治七年の日本には台湾を統治する力はなかった。西郷自身が困
り、大久保が外交交渉で尻拭いをした。台湾を経営する力がつくには明治二十七年以
後まで待つ必要があった。 
  「同じことは征韓論についてもいえる。個人的な人気から、今でも西郷隆盛の征韓論が
同情されて居る。しかし仮に西郷の意を貫いて、その時韓国を征伐したとする。その勝
利は何人も疑はないが、その経営が果たして出来たか、もし然りといふ人があったら、
それはその頃の極東勢力の均衡がまるで分からない人だ」。 
 その時の政治家や輿論が無理をして進んでも、結局ボールが元の水準に戻るように
戻るのである。だが、どうせ戻るなら何をしても同じではないかというわけにもいかぬ。仮
に西郷の征韓論が行われていたとしよう。どうせ国力の線と並行するところまで帰ってき
ただろうが、そのために国内の整備は、殆どできず、堅実な発展に非常な支障をもたら
したことであろう。 
  「絶えざる発展を目がけながら、しかも国力がこれを支持出来ぬやうな線へ逸脱しない
ことを心がけるのが政治家と指導者の任務だ。この点で日本は、殊に明治年間におい
て誠実にして聡明なる政治家に恵まれてゐた。彼等は一方に無責任なる輿論に叩かれ
ながら、そして時に暗殺の危機に面しながら―実際また凶手に斃れた者が多かった―
冒険に赴くことを拒絶した。彼等はその態度において極めて真面目であった。」 


B「内田外相に與ふ」(『中央公論』昭和八年三月号。『非常日本への直言』に再掲) 
 満州事変(一九三一年・昭和六年)、上海事変(一九三二年・昭和七年)、満州建国(一九三
二年・昭和七年)を起こし、続いて国際連盟を脱退し(一九三三年・昭和八年)、日本が急速に
国際社会での孤立化の道を進み始めた時、清澤は、外務大臣内田康哉宛の書簡文という体
裁を借りて、次のような激しい内容の論説を雑誌に発表した。外交交渉のありように対する清
澤の基本的な考えがよく示されている。(以下、要点のみ抜粋) 

 内田外相足下 
 私はあなたの外交、従ってあなたに対して甚大な不満と懸念を有するものなので
す。・・・・・・・・・我が国が重大なる国際的岐路に立つが故に、・・・・・ は好意ある沈黙を守
ってきたのです。しかしながら差し迫まる国家の安危と、われ等の良心は、これ以上わ
れ等をして沈黙することを許さない。国家は船、われ等は乗り合わせたる船客である。
怒濤にもまれる船の運命を気遣う点において、船橋に立つあなたと、船底の一隅にある
われ等と何等の相違があるものではない。 
 国民の輿論は貴方を支持して居り、あなたは人気の中心にある。しかし私がこの書を
あなたに呈する所以は、あなたが人気があることそれ自身が、国家百年のために憂慮
にたへないからなのです。国内において外相とその外交政策が人気があることと、世界
において日本が人気があることゝは全く別です。否、事実はそれと正反対であることは、
誰に分からなくても外相の任にある貴方には分かってゐなければならぬ。・・・・・・・・。 
 あなたの外交の根本的な謬りは、余りにも断定的であり、余りにも固着的であり、また
常に最後の死線を国民に約束してしまうことであります。 
 あなたは議会において、就任匆々、焦土となっても国権は守ると云はれました。焦土と
なっても国を守るのは軍人の領分であって、あなたとしては身を賭しても、さうした事態を
来たらしめないことを、その職能とせねばならぬと思ふ・・・・・・・・。 
 あなたは又、リットン委員会が北京にあって、その報告書を起草中に満州国を承認し
てしまった。それは正に絶対的な背水の陣を布くものであって、日本の外交的立場を釘
付けにしたものであった。 
 死線をこゝにおいて、その後貴方はたゞ頑張り通した。「一歩も引かない」とか「最小限
の要求」とか、・・・強硬文字で、貴方の口から出ないものはないといってよかった。そして
その時々に新聞は日本の正義と、あなたの決意を喝采したのでした。 
 しかしながら、私の諒解する外交といふものには、二つの禁制があります。一つは、
「断じて」neverとか「常に」alwaysとかいふ断定的な言葉を使はないことであり、第二は、
決して結果を急がないことである。この二つの禁制に背いた外交は、過去において、長
い目でみると屹度失敗してゐます。これが外交といふものが劇的でない理由であり、ま
た、健全なる外交が国民の喝采を受けない理由でもあるのです。・・・・・・・・。 
 あなたは主義を守るに国家を焦土に化するも辞せずといって居られる。世界始まって
以来、かくの如く大胆なる声明を外交開始当初になした外交官が他にあらうか。 
 貴方が陥られた第二の過失は、ジェネバの連盟会議に松岡洋右氏を送られたことで
す。かう云ふと世間は必ず私の言の奇なるを非難されるでありませう。松岡全権の奮闘
は何人もこれを疑はないのではないか。松岡を抜擢したことを難ずるとは何事ぞと・・。 
 考へてみて下さい。日本は・・・・・・世界から無類の侵略国のやうに見られてゐた時で
す。その上に内田外相が焦土外交を叫んでいたのです。この時に日本がジェネバでな
すべき外交は、円満無碍の外交、即ち平和的空気を示す外交であるべくして、××とし
て炸裂する強硬外交であってはならない筈です。日本が世界から侵略国の汚名を受け
てゐればゐるだけ、せめてその外交は臆病なほど平和的でなければならぬ。それが日
本を窮地から救ひ、世界の諒解と同情を集むる所以である。然るに松岡全権の活動は
却って、日本の強硬なる面を世界に広告したことになりはしなかったか。・・・・・・・・。 
 私の指摘したいのは、結局貴方の責任であるところの対国際連盟戦術が、頗る拙劣
であったことです。・・・・・・英国の新聞も「委員会の諮問を妨害しやうとする日本全権の戦
術は重大なる誤謬であった。彼の行動は理事会を刺激して、少しも事態を改善せず、誰
も日本に同情しなかった」(Manchester Gurdian Nov.25,1932.p14)と云ってゐる。・・・・。 
 その後、日本は絶えず「連盟脱退」といふ最後の切札を振りかざして衝突している。…
決議案の撤回を迫り、「もしこれを撤回しなければ、その提案者が予期しなかったであら
う結果を来たらすであらう」と声明した。………。 
 英国の新聞はかう云ってゐます。「松岡氏の演説は、効果的な皮肉があり、また狂信
的に誠実な国民主義の呼吸があった。国際連盟と世界の世論に対する大胆な否定は
異色のものであった。これは日本を完全に謬まらしめ、交渉をほとんど無用にした過失
であった。始めから終わりまで、交渉を是認する些少の妥協的精神も言葉もなかった。」
                              (Manchester Gurdian Dec.9, 1932) 
 私はこれを日本が新しく外交上に例を開いた「背面弁護」といひ、あなたの外交を「背
面外交」といひます。背面傍聴席の親類や肉親は泣くほど喜ぶのですが、肝心の裁判
官に訴える力に至っては全然疑問だといふほどの意味であります。・・・・・・・・。 
 わが国民は、・・・外交を戦争と心得てゐます。かれ等の重大なる関心事は勝つか負け
るかであって、国家百年のために幸福であるか、不幸であるかではない。小学生徒まで
もが、松岡全権に血書を以て激励してゐる有様をご覧なさい。かれ等は一体何を「激
励」しやうとしてゐるのですか。・・・・・・・・。かれ等は外国の事情に無知であり、外交の本
質について諒解し得ない。 
 私の貴方に対する不満は、国民のこの弱点を是正しないで、却って利用してゐること
である。強硬でさへあれば喝采する国民の心理を濫用して、焦土外交をいひ、向こう見
ずの自立外交を主張している点である。・・・・・・・・。 
 私は国家の前途を、心から憂えるものとして貴方に祈願する。あなたはこの重大な岐
路に立つ日本を救ふために、・・・・・・国家のために貴方が辞職することを要望する。  
                                 (『非常日本への直言』p3〜22) 

C政治に携わる軍(第三党)の思想 
 意外に思う人がいるかもしれないが、清澤は天皇についてはイギリス型の立憲君主としての
天皇像を抱いて敬愛しており、批判がましいことや恨みがましいことは一切書いていない。 
 二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)は陸軍将兵千四百名を動員した軍事クーデター
だったが失敗した。青年将校たちのねらいは、軍部による独裁政権を樹立して天皇親政の「昭
和維新」を起こそうというものであった。彼らは、天皇が自分たちの意思を了解し賛同してい
る、という幻想を抱いていたのであるが、天皇はこの事件に際して今までにない憤りを顕わに
した。 

 じつは、天皇自身は天皇親政の立場ではなく、「君臨すれども統治せず」という立憲君主の
立場をとっていたから、皇国、皇軍、皇道を唱える荒木大将や真崎大将らの皇道派軍人たち
をもともと敬遠していたのである。侍従武官本庄繁の日記にはその様子がありありと記されて
いる。皇道派寄りの本庄が天皇に対して、彼らの行動は許し難いがその精神を思えば咎める
ことはできない、という意見を述べたところ天皇は言った。 

 朕(天皇自身のこと)が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校ら、その精神に於ても何
の恕すべきものありやと仰せられ、・・・・・朕自ら近衛師団を率い、此が鎮定に当らん・・・。 

 事件当初は反乱軍に媚びた対応をしていた軍上層部は、このような天皇の憤りを知って態
度を変えたので、クーデターは失敗に終わった。 
 五・一五事件も二・二六事件も、犯人の青年将校たちはその動機として、国民の貧窮に対す
る政治の無策をあげ、「昭和維新」の正当性を主張した。清澤は五・一五事件の際に、この青
年将校たちのことを、「軍国主義とマルクスと、ゴッチャになって統一のつかない頭の如何に多
いことよ」と日記に書いているが、これは日本の軍人たちがもっていた体質を見事に言い当て
ていた。(『暗黒日記3』ちくま学芸文庫版p418)。ここでいうマルクスとは、厳密な意味のマルク
ス主義のことではなく、貧者救済のための革命志向、国家統制志向という程度の意味であ
る。 
 一九三九年に発刊されアメリカのベストセラーとなったジョン・ガンサーの『アジアの内幕』は
驚くべき洞察力をもって日本を分析しているが、清澤の指摘したような日本軍の政治的特質に
ついて次のように見事に看破している。 

 諸国の陸軍と比べて、日本陸軍は全く独特なものである。天皇との密接な結びつき、封
建的伝統と近代技術との奇妙な結合、その果たす政治的役割、対社会的衝動と野心、
そして宗教性。(中略)将校となるためには成績以外の階級・党派・特権は何も考慮され
ず、多数の将校は貧民の出身である。陸軍は日本の大衆を代表する人民軍(people's 
army)である。 
  陸軍は他の干渉を受けない自律的組織である。これは統帥権の独立という憲法慣行
と、軍部大臣現役武官制によって制度的に保障されている。そしていかなる内閣をも、
陸軍大臣を引き揚げることによってつぶすことができる。 
 立身欲に燃えた将校たちは、軍のトップが政治的ポストであることを知っているから、
若い頃から政治的関心をもっている。 
 陸軍は中国人に向けて弾丸を撃つばかりでなく、世に向かって紙の弾丸を発する。一
九三四年の「陸軍パンフレット」に始まり、陸軍は繰り返しこの種のものを発表してきた。
一九三八年にも激しい反米主義的パンフレットを発している。 
 これらのパンフレットの中で、注目すべきは、満州国を模範とする計画経済の主張で
ある。それは、反共、反資本主義を骨子とし、社会主義的色彩を混ぜた国家主義を唱
え、ファシズム諸国の全体主義理論の強い影響下にあり、プラトンからスチュアート・チェ
ースまで様々なものを引用する。 
  『プラウダ』(ソ連共産党機関紙)の論説を思わせるところもある。例えば、富の不公平
な分配が貧困と失業を招いたとし、資本主義のもたらした利己主義・個人主義・金権主
義の清算を唱えているところなどである。一九三四年に陸軍パンフレットが発表される
と、東京の金融関係は恐慌をきたし、株価が暴落した。 
 パンフレットは、東亜に楽園を築くという崇高な使命などという日本的自己欺瞞の表現
に満ちている。なぜ陸軍が、このような半ばファシズム、半ば社会主義、そして反資本主
義の思想を抱くのか。 
 第一には商業を嫌う武士道の伝統。 
 第二には軍人に貧農の出身者が多いこと。 
 第三に軍は日本金融資本の国際主義・平和主義的傾向を軍事予算抑制論の担い手で
     あるとして嫌うこと。 
 第四に資本家のあげる利益を軍事に利用しようと目論んでいること。 

 などである。いずれにせよ、どの国でも保守派の牙城である陸軍が、日本では「革新
派」であることは注目すべきである。
      (長尾龍一「ジョン・ガンサーと軍国日本」『西洋思想家のアジア』p173〜175) 

 ガンサーのいう陸軍パンフレットとは、陸軍省が昭和九年に発行した『国防の本義と其強化
の提唱』のことである。国防を最高の価値とする立場から、国際主義、個人主義、自由主義の
排撃を主張している。清澤洌は、この陸軍パンフレットが出されたとき、ただちに「『第三党』の
出現」という論説で、次のように根本的な問題点を指摘した。軍のことを「第三党」と揶揄したの
である。 

 「『第三党』の出現」(『中央公論』昭和九年十二月号) 
 私が陸軍省のパンフレット発表の事実を知って感じたのは、強力なる「第三党」の出現
といふことであった。政党を否認するこの人々としては、「第三党」といふ言葉を快く受け
入れないにちがひない。「第三党」といふ以外に適当な呼び方がないほどに政党の本質
を備へてゐるのが、今回のパンフレットの宣言だ。 
 それは総ゆる方面に亘って、一貫した政策と立場を有してゐる。現在の経済機構を批
判して富の分配に及び、その主張は根強い国家社会主義に発している。(中略) 
 軍部は他方において、満州における行政権の獲得を期してゐる。(中略) 
一方に行政的実権を得ると同時に、他方国策案を具して国民に問ふ。これが「第三党」
の出現でなくて何であらうか。そしてこの「第三党」は、従来の如何なる政党よりも強力で
ある。(中略) 
 パンフレット案は問題を根本から見ようとしてゐる。経済機構そのものにまで触れて、
農民貧困の原因にさかのぼっている。総ての右翼人の案がそうであるやうに、それはお
そろしく左翼主義的公式論であって、どれだけ実行できるかは問題であるが、しかし今ま
での政党の農村救済案では救はれなかった農民の多数と、今一つは軍部の発案でさへ
あれば、それに絶対的価値ありとする少なからざる数の群衆に、強い刺激と同感を呼び
起こすであらうことは疑へない。 
 かくて農村対策及び一般政策に関し、陣形は完備した。 
 第一は、従来の政党である。(以下略) 
 第二は、プロレタリア主義の流れである。(以下略) 
 第三は、今回はじめてパンフレット案によって体形をとったファッショ的国家社会主義案
である。そして第二と第三とは、ある段階において第一に対して、より多く結びつく可能性
を有するであらう。
                              (『中央公論』昭和九年十二月号) 

 清澤のこの醒めた洞察は、その後あまりにも見事に的中した。近衛内閣による昭和十三年
の国家総動員法の公布は、清澤が指摘した第二のプロレタリア主義(社会主義)と第三のファ
ッショ的国家主義との結びつきである。国民大衆党議員浅沼稲次郎(戦後の社会党書記長)
は、この治安維持法案審議の国会で、「国家を中心と致しまする生産組織に変える必要があ
る」と、政府と軍部を督励する演説をしている。社会大衆党機関誌『社会大衆新聞』の発行者
麻生生久は、賛意を込めてこのパンフレットの共同研究を呼びかけた。
            (長尾龍一「帝国憲法と国家総動員法」『思想としての日本憲法史』p135) 
 この法律は、明白な憲法違反であり、治安維持法以上の悪法であるとして見識ある政党人
は猛反対したが、議員に対する巧妙な根回しと懐柔によって法案は通過した。(本書p202,203
参照) 

 戦後になって、日本の超国家主義、ナショナリズムの問題に、丸山真男とは別の角度からア
プローチし続けた橋川文三は、この時点での清澤の慧眼を高く評価している。
(橋川文三「昭和思想」筑摩書房刊『近代日本思想大系36昭和思想集U』の解説。再掲
『昭和ナショナリズムの諸相』p233〜234) 

 超国家主義に凝り固まった青年将校たちに対してカリスマ的な影響力を与えていた北一輝
は、かつて『国体論及び純正社会主義』という著書を発刊した(一九〇六年)。内容は社会主
義の進化論的基礎づけとでもいうべきもの(長尾龍一『思想としての日本憲法史』p88)だった
ので、発売直後に政府の発禁処分を受けた。「二十世紀が社会主義という夢想に始まって幻
滅に終わった世紀であるとするならば、この書は今や幻滅に終わった多くの夢が熱烈に語ら
れている」(前掲書p107)。本質は左翼的だった北一輝を崇めた右翼と軍人たちは、この夢を
北一輝と共有していたことになる。 

 清澤は昭和九年時点での論説「『第三党』の出現」を、軍に取り込まれた政党人への憤懣を
込めて次のように締めくくった。 

 考えてみれば政党は愚かであった。かれらが根城とする農村救済及び産業保護費と
軍備費とは、対蹠的な関係をなすものであった。一定の量しか取り出すことのできない
財布であることに気づかずして、かれ等はまず夢中になって軍事予算に先取権を与え
た。気がついてみた頃は、最早軍事予算は圧倒的な位置を占めてゐた。(中略) 
 もし政党が、軍事費が無限に増加することに反対するならば、まづ一九三五、六年は
謂はるゝ如くに危機であるかといふ点に始められねばならぬ。そして 
 (一)所謂国際危機は必ずしも危機にあらず、 
 (二)国際的危機は外交的手段によって相当確信的に避け得られるものであ 
る事、 
 (三)軍備の拡張は徒らに相手を刺激して、却って国際不安を増し一国の安 
全感を失ふものであること、 
 この三点を論証しなくてはならぬ。 

 軍備の問題が国際情勢の認識によって左右さるゝ以上、前提の変更はその論理全部
の崩壊を意味するであらう。両者の論戦と対陣は、まづこの前提から開始されねばなら
ぬに拘わらず、政党その他の反対の陣営は、従来余りにも容易に国際危機説を受け入
れすぎて来た。 (中略) 政党がこれと対抗せんためには、どう割引しても同じ程度の理
論と熱意が要るのである。「第三党」と既存政党の勝敗はそこで分かれる。
                               (『中央公論』昭和九年十二月号) 


第2節 黄禍論への姿勢 

@めりけん・じゃっぷ(American Jap) 
 戦前のアメリカで、下積みの生活をしていた日本人たちのありさまを生き生きと描いた通俗
作家がいる。本名は長谷川梅太郎だが、林不忘というペンネームで『丹下左膳』シリーズを書
き、牧逸馬というペンネームで通俗家庭小説を、そして、谷謙次というペンネームで『めりけん・
じゃっぷ』シリーズを書いた。(阿川尚之『アメリカがみつかりましたか―戦前篇』p213〜240) 
 『めりけん・じゃっぷ』には、皿洗、コック、ウエィター、執事から、用心棒、詐欺師、博徒にい
たるまで、あらゆる職種でたくましく生きる日本人たちが面白おかしく描かれている。例えば、
執事として住み込んだ家でダンナと改名し、差別意識の強い主人にダンナ、ダンナとよばせて
溜飲を下げた男の話など、笑いとペーソスが軽妙な筆致で語られる。 
 『めりけん・じゃっぷ商売往来』の「悲しきタキシード」には、アメリカの排日的な雰囲気とそれ
に気を病む日本人についての見事な叙述がみられる。 

 食堂車へ行った。ボーイはすこぶる親切で、あれこれ世話をやいてくれる。梅太郎は
紳士を気取り、ゆうゆうと食事をすまして食堂車を出た。 
 次の日、ボーイたちは彼をにらんでいるばかりで、いくら待っても中へ入れてくれない。 
「排日!」という一語が梅太郎の脳裏をかすめる。「なんだ、ばかにするねぇ」とすごん
だ。屈辱を忍び、排日に憤り、故国を思って感傷的になる。 ボーイの一人が小声で言っ
た。「あなたは、チップを置かないから嫌われるんですよ」。 
 梅太郎は、チップをやる風習があるのをすっかり忘れていた。そして、自分がボーイた
ちの態度を排日と勘違いしたことを、大いに恥じ、反省する。 
  「恥じ入ると同時に驚いた。自分のこころもちに驚いたのだ。私じしんの僻みに、その
ひがみを発見したことに、私は驚かなければならなかった。 
 えとらんぜはえてしてかうした僻みを持ちやすい。排日でもなんでもないことをこの僻み
からさう解釈して、かへって、先方を白眼で見ることによって、事態を悪化させて、ほんと
の排日の原因をつくるやうなことはないかしら。そして、ことに、人見知りをする日本人に
は、一歩海外へ―特にアメリカへ―出た場合なぞに、この種のひがみ、こころのどこか
に潜在してゐる被排斥の疑心暗鬼がありはしないか。それが、個人としてはわりに単純
で明達なアメリカ人に、不必要にして不愉快な気持を抱かせて、そこから排日の煙 
をあげるやうなことが、万が一にもありはしないか」 
 梅太郎はただちに行動に移す。一枚の紙幣を握らせた。 
 「ボーイの態度は急変、転変、かめりおん、手の裏を返す、その変わりやうったら…」。
  一ドル紙幣と間違えて五ドル紙幣を渡してしまった。おつりがほしい。
                                    (阿川 前掲書p219〜220) 

 『アメリカが見えましたか』の著者阿川尚之氏は、長谷川梅太郎を好意的に紹介し、「こうした
分析は、おそらく現代の日本人にも相当あてはまるだろう。当時アメリカ西海岸に広く見られた
排日の気運と、それに対する日本人の反発を考えれば、梅太郎の態度はすこぶる冷静と思わ
れる」と述べている。(前掲書p220) 

 しかしながら、梅太郎が軽く明るく語るその背後には、口には出せない屈辱感や劣等感、哀
しみが潜んでいる。梅太郎は、黙々と白人に仕える黒人のボーイを「悲しきタキシード」と観察
しているのであるが、それは自分たち日系米人の鏡像でもある。 


A内村鑑三と新渡戸稲造の場合 
 学歴も肩書きもなく労働で糊口をしのがねばならなかった日系移民たちは、梅太郎のように
哀しみをこらえて現実的に対処し適応せざるをえなかったが、日本での地位があった留学生な
どの一時滞在者は、人種差別という事実で自尊心を傷つけられ不適応をおこした。 

 内村鑑三は不適応者の典型である。札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した時、すで
にクラーク博士はいなかったが、彼が残したキリスト教精神が横溢した学校で洗礼を受けた。
卒業後に農商務省の役人に就いたが、それも辞して、アメリカの大学に留学する。ところが、
アメリカ人から受けた侮蔑に我慢がならず、現実のアメリカに幻滅し、過剰なほど日本への愛
着がわく。「おお、日出る国の安息、蓮池の静寂が慕わしい!」。「余は終始一異邦人であっ
た」。内村鑑三の無教会主義はアメリカキリスト教の支配を排除するためのものであって、彼 
の複雑なアメリカ観が反映している、と阿川は指摘している。(前掲書p116) 

 清澤洌は郷里穂高の研成義塾で学んでいた少年の頃、義塾に講演に来た内村鑑三を知っ
た。清澤は義塾を卒業して移民として渡米する前に内村鑑三を訪れて挨拶しているが、その
時、「アメリカへ行ったら、あまり神様、神様というな。利用されるから」と忠告されて、「内村先
生の言と云へば徹頭徹尾有難く同感に候ふが奇体と思ひ居り候なり」としたためている。
       (宮沢正典「清澤洌」同志社大学人文科学研究所編『松本平のキリスト教』p296) 
  新渡戸稲造は内村鑑三とならぶ戦前日本の良心的思想家であった。第一高等学校(東大教
養学部の前身)の校長、東大教授、東京女子大の初代学長をはじめ、枚挙にいとまのない程
の肩書きをもって多方面に活躍した。とりわけ、日米間の理解を深めるための「太平洋の橋」
になろうという抱負をもって努力したことで知られている。 
 新渡戸は、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受けたうえに、その後に入学した東京帝大
の教育内容に失望したので、アメリカに私費留学したという恵まれた境遇だった。彼はジョン
ズ・ホプキンズ大学大学院で、後の大統領ウイルソンの後輩だった。ウイルソンの唱えた国際
平和、国際協調の理想に共鳴してその敷衍に努めたのである。 

 新渡戸は自他共に認める親米家ではあったが、アメリカが排日移民法を成立させた時は、
深い悲しみにおそわれ、二度とアメリカの土は踏まないとまで宣言して憤りを表明した。新渡戸
はアメリカを過度に理想化していたがために、幻滅の仕方も極端だったのである。 その後、
新渡戸は、日本政府から要請されて、日本の満州政策擁護のためのアメリカ講演旅行に出か
けたが、誰も耳を傾けなかった。彼と面談したフーバー大統領は、犬養毅暗殺事件について触
れ、「あなたたち指導的思想家は、国の将来をどうするつもりか」と問い質した。 「太平洋の
橋」となって日米間の誤解を解きたいという新渡戸自身の意図とは別に、日本でもアメリカで
も、彼は「日本の満州政策の弁護をする矛盾した平和論者」「軍部の圧迫に妥協した節操のな
い思想家」と評価され、多くの友人を失った。途中のカナダで悲劇的な客死を遂げたことはよく
知られている。 
 新渡戸は東京帝大法学部で植民政策に関する講義をしていた教授だったが、彼には、満州
や中国への強硬的な日本の政策がアメリカの不信をかって日米関係を危うくする、という認識
がなかった。彼の関心は専ら日米関係の問題、とりわけ対米移民問題だけに終始し、朝鮮や
中国については同化政策を採ることを説いていたのである。 


B清澤洌の場合 
 新渡戸が、書物や一部エリートとのつき合いだけをとおしての、理想的なアメリカしか知らな
かったのに対して、清澤は労働移民としてアメリカ人と接していたから、長谷川梅太郎の『めり
けん・じゃっぷ』(アメリカの日本人)的な現実認識を持っていた。アメリカを過度に理想化せ
ず、はじめから、長所と共に短所もよくみていた。したがって、排日移民法についても過度に幻
滅したり、いたずらに悲憤することもなく、新渡戸とは違う対応をした。 

 清澤は当時の日本の社会通念に反して、日本の対朝鮮・満州・中国政策を批判していたが、
これは、彼自身が労働移民としての差別を受けた経験が基になっている。 
 清澤洌は、苦労することを覚悟のうえの移民として十六歳の時に渡米した。 
人々が互いに気をつかいながら心やすくつき合っていた故郷の村を離れ、言葉も通じない異
国で体験したのは、話に聞いていたピューリタン(清教徒)の国アメリカとはあまりにも違う日本
人排斥の実態であった。「めりけん・じゃっぷ」どころの話ではない。清澤洌は故郷の友人に手
紙をしたためた。 

・・・・とにかくここでの日本人への待遇は驚くほど低いのです。ジャップ、スケベイ、
これが通り言葉です。彼らはあらゆる侮蔑の声でもって迎えてくれます。・・・・・・ 

 清澤は、人種差別、日本人排斥、重労働と低賃金という幾重もの屈辱を味わいながら、生活
費を得るためにあらゆる職業を転々とした。自活しながらハイスクールや大学にも通い、やが
て、在米日本人を対象にした日本語新聞の記者となって活躍するようになった。 

 排日移民法の問題は、清澤にとって単なる自尊心や意地の問題ではない。彼と共に渡米し
た仲間の現実の生活問題であり、死活問題であるから、ことの経過を注意深くみていた。 
 日本政府は、他の国と差別されたことに激昂し感情的な対応をするばかりで、被害者である
移民たちの権益を守ることは二の次にした。移民たちは、じっと静かに迫害に耐えていたが、
祖国のこの対応に当惑し、見捨てられたことを実感した。官僚の日本外交に対する清澤洌の
不信は、この時の経験に根ざしている。 

 日本は長い武士教育の結果、面目を尊ぶ国民である。外国人がよく日本国民を形容
するところのプラウド・ピープルだ。日本人の面目は支那人の面子とは異なる。支那人
は蔭で実益を提供することにより、面子は直ちに解消するが、日本人はこの面目のため
に容易に実益をも犠牲にする。「金やなんかの問題じゃないぞ」といひ「男は意地だ」とい
ふと、そこには論理も利害もなくて、あるものは「顔」だけになる。 
 この国民が、その色の故に白人種から軽視され、排斥されるのだ。そこに甚大な憤懣
が生まれるのは当然だ。実際利害としては、それほどでもない米国の移民問題につい
て、終始親米論を主張して、逝くまでそのために尽くした渋沢子(爵)や新渡戸博士など
までが、どんなに憤慨したか。それは他国民には、ほとんど諒解されないほどの憤慨で
あった。そしてそれは人種的感情に根ざした面目論以外で説明できるであろうか。
                                  (清澤洌『現代日本論』p61) 

 ヨーロッパのような団体自治の伝統がないアメリカの政治体制は、しばしば世論による専制
を招くことがある(A・トクビル『アメリカの民主政治 中』p162〜222)。禁酒法はその典型例であ
るが、排日移民法もその一つである。 
 しかし、一方には世論の専制に屈しない健全な勢力も必ず存在する。一九二四年に移民法
を提案した下院移民委員長は、行き過ぎを非難されて六年後に改正案を提出した。この事実
によって、清澤は、アメリカには「衆愚」も多いが、反面、健全な道徳感をもった「見識者」たち
が政治を根底で支えていることをみてとった。 

 日本が米国に有する悩みは、また米国自身の悩みなのである。米国の識者と為政者
は、血にはやる群衆を如何にして正導するかに苦心し居り、しかし毅然としてその態度
を鮮明する道徳的勇気を有してゐる。この二つの流れは、米国建国以来相争闘してき
たものであって、米国がいくつもの欠点を包蔵しながら、大体中正を謬らず、われ等の
望みを嘱するのもこの力が一方に植えつけられてゐるからである。 
 我等は心を大にして、卑近な言葉でいへば米国のこの正義派に力を貸して、米国の行
く道を誤らしめざるだけの大抱負を要すると思ふ。即ち米国を形成する最善の要素と結
びついて、好戦派、煽動派を挟撃する程の大きなところを見せたいと思ふ。
                                       (『米国の研究』p54) 

 中国人や日本人などの黄色人種の進出によって被害をこうむるという考えを黄禍論という。
日清日露戦争後にアメリカで盛んになった。橋川文三は黄禍論の膨大な言説を博引旁証して
『黄禍物語』を書いたが、その中で清澤の言説を引用し、次のように高く評価している。 

  満州事変から支那事変へと展開した日本の大陸侵略は、一方では田中メモランダム
の実現であると共に、他面では一八九五年カイゼルによって始めて提唱された黄禍の
妄想の実現という意味をもった。いわば黄禍は「妄想から現実へ」と転化したのである。
日本の中国への本格的侵略が始まった昭和十二年、アメリカのThe Atlantic Monthly
(May,1937)はカイゼルが次のように言ったことを伝えている。「日本人は白人を、白人が
悪魔を憎むように、憎んでいる・・・・・・。日本人は悪魔だ。それは簡単な事実だ。われら
に対する危険は日本ではない。統一したるアジアの頭目に日本がなることだ。日本によ
る支那の統一、それが世界を脅威するところの最大の凶事だ」。 
 ここに引用した『アトランティック・マンスリー』の記事は、外交評論家清澤洌の「新黄禍
論」(『世界再分割時代』所収)からの孫引きである。一九三〇年代に入ってからの「黄
禍」の問題が、新しい様相をおび始めたことをもっとも明らかに見抜いていたのは、恐ら
くこの清澤洌であったといってよいであろう。彼はそのことを「旧黄禍論」と「新黄禍論」と
いう区別で表しており、「古い黄禍論は売られた喧嘩である。近頃の黄禍論は当方から
売った喧嘩である」といっている。「しばらく忘れて居った黄禍論を揺り起こしたのは、今
度は日本側自身であった。満州事変以来、いわゆる日本精神が盛んになって国内にお
いて発表される元気のいい言説は、無論そのままに外国で紹介されるのだ。ことにこの
役目をつとめたのは、喋ることでは謙遜というものをしらない大将荒木であった。」 

 清澤のこの「新黄禍論」は、旧黄禍論を「ファナチックな頭に生まれた空想的恐怖論」と
して斥けつつも、反面当時の日本の軍国主義的「黄禍」を批判する主旨を貫いたもので
あった。 

  「これ等の言説を総て笑い飛ばしても、ただ一つの事実が残る。日本はどこまで進出
するのか分からないという世界の疑惧である。また、日本人としては人種問題を振りか
ざして、世界の民心を刺激しながら進む方がいいか、それともできるだけそうした逆風を
避ける方が、日本の国策として賢明であるかの問題が残るのである。非常時の実力者
たちが権力を持つ間は恐らくは前者の険道を歩むであろうことは、その争いを欲するイ
デオロギーからも明らかである。従って将来、黄禍論は機会あるごとに世界に持ち出さ
れるであろう」と清澤は述べている。(橋川文三『黄禍物語』p220〜222) 

  日本の軍事侵略への警戒心がたかまり、とくに日本の第二の政府ともいうべき軍部の動向
について外国のジャーナリズムが関心を寄せるようになったのは、満州事変以後のことであ
る。清澤は、日本の軍事侵略や、日本人にとっては比較的理解しやすい荒木のパーソナリティ
ーや言説が、外国人の目には黄色日本人の野獣性と不気味さの象徴にみえることを警告した
のである。 

 (このように、外国ジャーナリズムの言説を紹介することによって問題点を露わに
するのは、清澤が発売禁止や弾圧を逃れるためにしばしば使った手法である。) 

 清澤は自分の子どもへの手紙という体裁をかりて、人種差別への基本的な考え方を次のよ
うに書き残している。 

お前はまだ子供だからわからないけれども、一つのお願いは、お前が大きくなっても人
種が違ったり国家が違うからといって、それで善悪可否を決めないようにしてくれ。 
 お前の父さんはアメリカに行っておった時に、人種の違いでいじめられたこともあった。
その時には、「なに、こいつらが・・・・」と燃えるような憤怒を感じたものだが、しかし年齢
をとって静かに考えるようになってからは、地球の上から、一人でもそういう狭い考えを
持つ者が少なくなることを念ずるようになったんだ。
  (「我が子に与ふ」『非常日本への直言』p5) 

 橋川文三は、清澤の右の言葉を引用し、「清澤はアメリカにおける人種的偏見に厳しい批判
をいだきつづけてきた人物であるが、終始また彼は日本人の偏狭な優越感に対し、身を以て
抗争をつづけた。彼の遺稿となった『暗黒日記』をつらぬくものは、日本の立場やアメリカの立
場を超えた理想の立場であり、そこから再び日本への熱烈な愛情の表現であった」と結んでい
る。(前掲書p245) 

目次へ

第四章 清澤洌の外交評論

第1節 明治・大正期の日本外交 
  太平洋戦争が終わって二十八年もたってからグァム島で発見された旧日本兵の横井庄一さ
んは、「日本は、だいたい十年おきぐらいに戦争をやっているから、ここで待っていれば、また
日本軍がやってくると思った」と言った。そう言われてみれば、なるほど明治維新以来、昭和二
十年までの日本は、左記のように戦争ばかりしてきている。 

戊辰戦争    一八六八年(明治 元年) 
西南戦争    一八七七年(明治一〇年) 
日清戦争    一八九四年(明治二七年) 
日露戦争    一九〇四年(明治三七年) 
第一次大戦参加 一九一四年(大正 三年) 
シベリア出兵  一九一八年(大正 七年) 
山東出兵    一九二七年(昭和 二年) 
満州事変    一九三一年(昭和 六年) 
日中戦争    一九三七年(昭和一二年) 
ノモンハン事変 一九三九年(昭和一四年) 
仏印進駐    一九四〇年(昭和一五年) 
対米戦争    一九四一年(昭和一六年) 

 清澤洌がアメリカから帰朝して評論活動を開始したのは大正七年、日本で時事問題としての
外交評論を始めたのは大正九年である。右表の下段の部分に相当する。 
 大正十年にはワシントン会議が開催され、国際協調時代の幕開けとなった。それまでの日本
は国際協調について細心の注意を払って努力をしてきており、ワシントン会議では英米と並ん
でこの体制を支える重要な国家として扱われた。 
 昭和に入ると日本は急速に国際社会から孤立していき、清澤が他界した昭和二十年の日本
は破滅の状態に陥っていた。清澤は、軍主導で破滅への道を進んでいた時代の日本の外交
政策を批判し続けたのである。そんな彼の言説は当時の日本軍部や政府は勿論、一般大衆
からも背を向けられた。 
 戦後になってから、「国民は軍部に騙されて戦争に巻き込まれたのだ」と言うことがはやった
が、それは言い訳である。国民も一緒になって国際協調精神からの逸脱を歓迎し、軍を煽動し
ていたのであり、それを批判していた清澤は人気がなかったのである。 
 国民がそういう意識を抱いたのは、明治期に我が国がやった戦争は、ことごとく勝ち、その都
度、賠償金を得るなり領土や植民地を獲得するなりしてそれなりの国益を生んでいたからだ。
しかし、このことが、後になって日本が自分で自分の首をしめることにつながった。 

 本章第2節の清澤の外交論を理解するための予備知識として、清澤が外交評論を始める前
の明治大正期における日本外交の軌跡を理解しておきたい。 


@日清戦争による領土と賠償金の獲得 
  日清戦争は、朝鮮半島における覇権を争って日本が清国(中国)に挑戦した戦争である。火
蓋が切られた海戦の勝利に続き陸戦は連戦連勝だった。翌年の明治二十八年に講和条約
(下関条約)では清国に次のように大幅な譲歩をさせた。 

@、清国に朝鮮との宗属関係を清算させ、朝鮮の独立を認めさせた。 
A、日本は、旅順、大連などのある要地・遼東半島、及び台湾、澎湖諸島の領有権を
  獲得した。 
B、邦貨にして三億五千万円以上の莫大な賠償金を得た。日本の軍備拡張費に充てら
  れた。 

 台湾は日清戦争の戦場でも何でもなかったが、この講和条約以来、昭和二十年の太平洋戦
争敗戦に至るまでの間、台湾は日本の領土だった。中国福建省に近い台湾を領有すること
は、日本にとっては大きな国益につながったが、何の関係もない台湾人にとっては理不尽であ
る。無事に済むはずもなく、抵抗運動によって日台双方合わせて二万人をこえる死者がで
た。 

日清戦争での楽勝が、その後の日本の領土欲や中国蔑視をもたらしたことについては、本書
の第二章、第5節で述べたとおりである。 


A三国干渉と日英同盟 
  ところが、遼東半島の割譲を得たことについて、ロシアがドイツやフランスと組んでその領有
権を放棄するように迫った。有名な三国干渉である。日本はイギリス、アメリカ、イタリアなどに
介入させて対抗しようとしたが、期待したような反応を得ることができず、全面的に屈服せざる
を得なかった。このことに悲憤慷慨する国民に対して、政府は、ロシアと戦うには国力が貧弱
であるから、この際、「臥薪嘗胆」の心をもって国力培養に努力するように、と訴えた。 
 この苦い経験は政府首脳の伊藤博文や山県有朋の脳裏に深く刻み込まれた。その後の伊
藤や山県は、国際的孤立に陥らないような外交対処をするべく細心の注意を払うようになっ
た。 
 その後、中国で義和団の乱が起こり北京を包囲した。公使館を包囲された各国は軍隊を派
遣して義和団を鎮圧した。事件解決後に各国の軍隊は撤兵したが、ロシアは引き続いて満州
に残った。日本はロシアに対する警戒心を強め、これと対抗する目的で日英同盟を結んだ。 


B日露戦争とその後の日本 
 日清戦争から十年後の明治三十七年に日露戦争を始めた。ロシアと戦争をやったとはいっ
ても、日本軍が遠いロシアまで攻めていったわけではない。義和団事件が収拾した後も満州
から撤兵しなかったロシアの軍隊と戦ったのである。大国ロシアとの戦争は、世界中の国々が
ロシアの勝ちに終わると予想した程の国運をかけた戦争だったが、辛うじて勝利に終わった。
勝ったとはいっても、ロシアにはまだ余力があるにもかかわらず、日本の戦力は限界だった。
その内幕はむしろ日本に不利であり、日本政府は早い時点での講和を願っていたのである。 

 ポーツマスでの講和条約の全権大使小村寿太郎自身は強硬派だったが、ロシアに対しては
政府命令もあって強硬な要求は出せない。そんなこととは知らない国民大衆は、小村たちが賠
償金を取れないことに不満をもって日比谷公園で抗議集会を開き、各所に放火するなどの暴
動を起こした。 
 日比谷焼き討ち事件を煽動したのは、小川平吉(長野県出身の政治家。後に鉄道大臣とな
るが疑獄事件で失脚した)や、かつての自由民権運動家・河野広中、それに新聞各紙である。
河野らは小村全権宛に脅迫電報を打ち、満州派遣軍には進撃せよと打電した。 
 三万名をこえる群衆が官邸や新聞社に押し寄せて投石をした。警察署二、交番二百六十カ
所、教会十三、電車十五台が放火された。戒厳令がしかれ逮捕者は千七百名に及んだ。この
事件は日露戦争中の諸外国の親日的な世論を一変させた。 
群衆が十三もの教会を焼き討ちしたことが、日露戦争はキリスト教徒と異教徒との戦いであ
り、日本人は黄色い野蛮人にすぎないという人種論的な感情を高め、アメリカにおける排日的
な世論と排日土地禁止法等へ連なる遠因となった。(平間洋一『日英同盟』p64) 

 司馬遼太郎は、「この群衆こそが日本を誤らせた。日比谷公園に集まった群衆は、やはり日
本の近代を大きく曲げるスタートになったと思います」と述べている。
                                  (司馬遼太郎『昭和という国家』p36) 

 日本はこの戦争によって朝鮮半島におけるロシアの影響力を一掃して、韓国への支配を強
めた。明治四十三年には韓国を併合して朝鮮と呼称を改め、それ以後、三十六年間にわたっ
て同化政策を続けた。また、ロシアから遼東半島の租借権と満鉄を獲得して、満州進出への
足場を得た。 

  日露戦争の後、ロシアに代わって日本が満州で勢力を伸ばしていることによって、日本と英
米との間に緊張関係が生じた。そもそも日本はロシアによる満州独占に反対し、その門戸開
放のために英米両国の支援を得て日露戦争をしたのである。ところが、その後、満州の日本
軍は撤兵せずに居座り続け、あたかも、満州が日本の軍政地のような態度をとった。国際関
係に無頓着な国民世論は大いに支持したが、当然、イギリス・アメリカからは正式な抗議がき
た。 

 日本の国際的地位について鋭い洞察力をもっていた伊藤博文は、明治三十九年に「満州問
題に関する協議会」を開催して強硬的な軍を抑えた。「日本が満州で現状の軍政を継続する
のは、親日的な英米を敵にする自殺行為である。ロシアはこれを口実として極東の軍事力を
強化し、将来のロシアとの再戦では大きな打撃を受けるであろう。中国二十一省の人心は日
本に反抗し、日本は今後中国の怨恨の的になる。」 
 伊藤博文は、児玉参謀総長が軍の行動を正当化しようとする小理屈を全て粉砕した。この
伊藤の見識と政治力をもって、はじめて日本は英米協調という世界政治の主流路線を歩むこ
とができたのである。(岡崎久彦『小村寿太郎とその時代』p288) 


C第一次世界大戦参戦 
 一九一四年(大正三年)〜一九年の第一次世界大戦はヨーロッパ大陸でのことだったから、
日本は何の被害も被らなかっただけでなく、戦争特需による輸出の 
増大で好景気を生じ急速な経済発展を遂げた。繊維産業、造船、鉄鋼、電力、化学工業が飛
躍的に伸びた。一九一四年には十一億円の債務国であった日本が、一九二〇年には二十七
億円の債権国となった。 
 したがって、この戦争が戦争成金を生んだことぐらいの印象しかもっていない日本人が多い
のであるが、この戦争中に日本は中国の恨みをかい、欧米の列強国からは日本の領土欲と
膨張欲を見透かされ、新生ソヴィエトからも恨みを持たれたのである。 
 この戦争を大隈重信首相は「国運の発達に対する天佑」といい、加藤高明外相は「千載一遇
の大局」と言った。日本は日英同盟を理由にしてドイツに対して宣戦布告をし、ドイツの租借地
だった青島を占領した。青島陥落の報に接した国民は熱狂し、皇居前広場は祝賀の提灯で光
の海になった。 

 日本は中国に対して、日本の属国扱いのような「二十一ヶ条要求」を突きつけた。中国は最
後通牒を呑み込まされた五月九日を反日ナショナリズムを鼓舞するための「国恥記念日」にし
た。日本はドイツ領南洋諸島の一部も占領した。戦争終結後、敗戦国ドイツが中国に有してい
た権益を、日本がそのまま継承するという覚え書きをイギリスとの間に交わした。 
 この措置に憤った中国は、戦後の講和会議に出席しなかった。政友会の原敬は、二十一ヶ
条条約は日中関係を悪化させ、日本に対する列強の猜疑心を増大させただけだと批判した。
ドイツとの死闘を展開していた列国にしてみれば、日本のやったことは火事場泥棒のように思
えたのである。 

 また、この世界大戦でドイツと苦戦していたロシアで、レーニンが作った革命政権がドイツと
の戦闘を止めたので、連合国軍としてシベリヤにいたチェコスロバキヤ軍が孤立した。連合国
側はこれを救出する目的で派兵したが、アメリカは九千人、イギリスは五千八百人、中国は二
千人、フランスとイタリアはそれぞれ 余名というのに、日本は七万二千四百人という膨大な兵
員をシベリアに派兵し、しかも、大戦終結後も撤兵しなかったから、列国から領土への野心を
見透かされた。 

 この戦争は、ヨーロッパ列強すべてが関わった。交戦国は総力を投入して戦い、戦闘員、非
戦闘員の区別なく戦車、機関銃、毒ガスなどの近代兵器による未曾有の大量殺戮が行われ
た。この戦争を通じて、ヨーロッパでは人間社会の未来に対する深刻な懐疑が生まれ、「西欧
の没落」が論議されもした。一九一九年(大正八年)に行われたパリ講和会議では、ウイルソ
ン大統領、ロイド・ジョージ首相、クレマンソー首相らが国際連盟を作る問題について熱心に討
議した。日本は五大国の一つとして遇されたが、深刻な経験をしたヨーロッパ諸国とは国際 
認識が一サイクルずれており、戦後の平和維持という課題よりも、日本の権益の獲得に関心
を集中させていた。 


Dワシントン体制下の日本―国際協調時代― 
 一九二一年(大正一〇年)、アメリカの提唱によって日本、イギリス、フランス、その他の国が
ワシントンに集まり、軍縮と極東問題について会議を行った。 
日本は英米とともに世界的な軍事均衡とアジア・太平洋地域の安定をになう三大国の一つとし
て認められた。軍艦の保有比率を決めた他、九ヶ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタ
リヤ、ベルギー、ポルトガル、中国)は中国における国際協調原則を決めた九ヶ国条約を締結
した。中国の独立と領土保全の尊重、安定政権の樹立を促すような環境整備等について相互
協力をすべきことを約した。日本はこのワシントン体制という新しい秩序の重要な構成国にな
ったのである。 

 日本は大正十年の原敬内閣の時に始まったこのワシントン体制の精神を尊重し、昭和二年
の若槻内閣に至るまでは、国際協調路線を採ってきた。幣原喜重郎は、大正十三年から通算
五年と三ヶ月間、日本外交を指導した。幣原は日本の国力を正しく認識しており、英米との協
調路線を堅持して国益を守ろうとした。 

 当時の中国は軍閥同士の内戦時代であり、しかも、イギリスや日本との関係で失った権益を
奪回しようとするナショナリズムが勃興していた。幣原は主権や内戦には干渉しないこと、領土
は侵さないこと、その他、中国側に理解ある対応をした。幣原外交は、今日でこそ平和的、穏
健的な外交として高く評価されているが、当時の日本では軟弱外交と非難され評判は芳しいも
のではなかった。 

 大多数の国民たちは軍部と同じように、国際秩序のために中国に譲歩せねばならないこと
や、貿易収支や通貨換算率による国際経済秩序は日本を亡ぼす、国家の命運が中国や列国
の意思に左右されるようでは日本が犠牲になると考えたのである。 

 清澤洌の外交評論は、このような国内世論とは反対の立場でされ続けた。彼は幣原外相の
対外姿勢について、戦争たけなわの昭和十七年でさえ次のように明言している。 

 対外的には国際協調、対内的には政党優勢の時代は、従来の伝統的大陸政策に反
省を加へしめて、その新政策として経済主義的進出の線に副ふに至らしめた。即ちそれ
は領土、資源に重点を置くよりも、寧ろ市場に重点を置くものである。市場を獲得せんが
ためには人心の和親を必要とし、それは自然にまた協調外交を必要とした。(中略) 
 幣原外交はこの時代を表象する最も適当な外交政策であった。大正十三年の議会演
説において彼が「帝国の権益を擁護増進すべきは論を俟ない。しかし相手にも同様に権
益の主張がある。その場合には両者の中間に於いて、なるべく吾に近い一致点を発見
するのが外交の要諦である」と述べたのは、所謂幣原外交の指導精神と観るべきであら
う。(清澤洌『日本外交史』下P424) 


第2節 日本の孤立化 
@国際協調路線からの逸脱 
 昭和二年に成立した田中義一内閣は、それまで日本がとってきた国際協調路線から逸脱し
て、山東出兵をはじめ露骨な対中国政策に転じた。当時はこれを列国とは関係のない「自主
外交」だと称して国民はおおむね歓迎した。 
 国際協調を支えるべき国家間の信頼が経済破綻でくずれ、中国のナショナリズムも伸びてき
たことを理由に、日本は周回おくれの帝国主義策をとり、国際社会での孤立化の道に進んだ
のである。すでに、イギリスではボーア戦争の後の一九〇六年総選挙で「小英国主義」を掲げ
る自由党が圧勝し、拡張主義的「帝国主義」の時代は終わっていた。 
清澤は田中内閣の外交政策を次のように厳しく批判した。 

 田中内閣は済南に在住する二千人の財産―田中首相のいわゆる重大な利害は約五
十七万円にすぎないが、これに対して日本が出兵に支出した額は後でも説くように精確
に三千七百四十万円である。かりに日本の国内で、五十七万円の財産が何かの理由で
危機に瀕したとする。日本政府はこれを保護するために三千七百万円を支出して出兵
する意志があるであろうか。 
 更に支那における邦人の事業が不振だからというので、これがため貸出した低利資
金、恐らくはもう返済されぬであろう低利資金が青島方面と長江方面だけで四百二十万
円ある。この内訳は青島方面が三百万円、長江方面が百二十万円だが、然らばその青
島方面に邦人が幾らいるかというと約一万七千人である。・・・・全部に頭割りに金をやっ
たとしても二百円近くになる。 
もし国内で商売がうまくゆかなくて困っている者があった場合に、日本政府は一人頭二
百円の低利を貸せるか。 
 漢口には日本人の人工が約一千人である。これに対してこれを保護するために、現に
日本から陸戦隊五百五十人、軍艦五隻(乗組員五百六十三名)が現に常置されており、
少し多い時には在留同胞一人に軍人四人あてと機関銃二台、軽機関銃四十台を以て
守備したとのことである。国内においても随分不安な場合もあるが、日本政府は一人の
同胞を四人の軍人で警護する準備があるか。 
 満蒙の利権については日本は国運を賭しても、これを擁護すべきことは、政友会政府
は勿論、民政党政府といえどもこれを揚言している。然らばその満蒙の利権というもの
は何かというと田中首相によると静謐それ自身・・・何という珍答弁だ?・・・だが、算盤で
はじき出してみると、最も重要なものは満鉄に他ならない。その満鉄の財産は払込額が
三億五千五百万円で、三菱銀行の預金に少し輪をかけたほどのものである。これを擁
護するのに一個師団の兵隊と特別守備隊を以てしている。政府に聞くが国内の同じくら
いな大会社に対し、日本国家は「国運を賭しても」、また毎年これだけの人力と金力を消
費してこれを擁護する用意があるか。・・・・・(中略)・・・・。 
 われらは問題を根本から考え直す必要がある。(中略)世界を通して借款鉄道を敷設
するために懸命になっている国などは、もうどこにもありはしない。英国すら印度の鉄道
から着々手を抜きつつある。・・・(中略)・・・ 何故日本は、十九世紀の夢を繰り返して、
これがためには日支の関係をも犠牲にして顧みざらんとするのであろうか。
(「愛国心の悲劇」『中央公論』昭和四年五月号、『清澤洌評論集』2002年刊p117〜129) 

 清澤のこのような主張は、現代の国民的作家といわれる司馬遼太郎の主張とよく似ているこ
とに気づく。司馬は次のように言っている。 

 倫理的な問題としてではなく、利害の問題として考えてみましょう。朝鮮を併合すること
が、国家として儲かることだったのでしょうか。・・・・昭和になってからは満州ですね。満
州を取って何をするつもりだったのでしょうか。・・・・私は聞いてみたいのです。アジア人
のすべてから憎まれ、われわれの子孫までが小さくならなければいけないことをやってい
ながら、どれだけの儲けがありましたかと。(司馬遼太郎「帝国主義とそろばん勘定」 
『昭和という国家』p38〜43) 

 清澤や司馬のこのような論に対して、「国家の存亡を賭けて血で購った領土を、そろばん勘
定で考えるとは何ごとか。これぞ、まさに戦後的価値観であり、国家・国益を害するものであ
る」という考え方もありうる。 

 清澤は話をわかり易くするために現実的な算盤勘定で説明してはいるが、彼の真意は同じ
論説の次のような表現に遺憾なく示されている。 

 田中内閣の外交政策を検して、われらが特に感ずることは、それが熱烈なる愛国心を
基調としていることである。この内閣ほど「国策」をいうものなく、この内閣ほど「国威発
揚」を説くものはない。・・・(中略)・・・田中首相は軍人出身である。元来、軍人は古往今
来愛国心と離れて存在するものではない。 
 この愛国心から出た国策というものが自国第一主義の形をとるのは当然であろう。(中
略)極端に自国の意志を主張する心は、やがて他国の意志と自由を圧迫しても顧みざる
心となるのは自然の勢いである。(『清澤洌評論集』p119〜120) 

  愛国心の悲劇は、対手の立場と心理状態が判らないことである。 
始めに述べたように愛国心はその性質上必然的に排他的である。故に自己の目的を遂
行するに急であって周囲を顧みる暇がないのである。支那に澎湃たる国民主義が起り、
自国建設の意志が盛んになって来た時に、これによって利益をうるためにはこの潮流に
のって政策を定むることであるが、愛国心にはこの余裕がない。そして排他的なる日本
の愛国心と支那のそれとが相会すれば衝突するのは当然である。(前掲書p130) 

 清澤のこのような外交思想は田中内閣の採った領土拡張策とは対極のものであるが、じつ
は、すでに清澤以前にもあった。石橋湛山らの唱えた「小日本主義」である。実業界向けの経
済専門誌『東洋経済新報』の社長兼主筆の石橋湛山は、当時の国策だった大日本主義、植
民地獲得、軍国主義を批判して、小日本主義、植民地放棄、産業主義を提唱した。日本の大
陸政策は、その手法もさることながら、目的自体が全く間違いであると主張していたのであ
る。 

 石橋は経済専門誌の編集者にふさわしく、植民地獲得と維持のために要する費用や軍備
と、植民地から得られる利益とを計量し比較検討して、それが全く採算の合わない不合理な政
策であることを論証した。植民地を放棄し、大日本ならぬ小日本主義を採る方が、国際的な信
義のうえから望ましいだけでなく、経済的にも得策だというのである。(清澤が論説に使った経
費の数字は、おそらく石橋から得たものであろう。) 

 国家のために血であがなった他国領土を領有せよというのは当時の国家主義者の考えであ
り、国際信義を考えて他国領土を侵略するなというのは国際協調主義者たちの論法である。
前者は利己主義であり、後者は利他主義である。 
 清澤や石橋は、前者のような近視眼的国益論は却って国益を損なうことを主張したばかりで
なく、後者のような、なまじの利他主義的・道義的判断も間違いであると主張していた。植民地
を放棄して対等な商売相手とするという徹底的に功利的な外交政策を採る方が却って相手国
の信頼を得ると考えていたのである。石橋は『東洋経済新報』の社説「先ず功利主義者たれ」
(大正四年五月二五日)で、次のように説いている。 

 恩恵、人道という考えから対中国政策を決めるのは、たとえそれが心からのものであ
っても、よくないことである。恩恵は与える側の都合でいつどう変わるかもしれない。これ
は、商人同士が、品物を適正な値段で取引せずに、一方が他方にお慈悲に金を恵んで
やるようなものだ。相手が立派な営業者だったら、俺は乞食ではないといって怒るであろ
う。 
 唯一の途は功利一点張りで行くことである。自分の利益を根本としていっさいを思慮
し、計画することである。商人は自分が利益を得るために取引相手の感情を害すること
はできない。客が貧乏になることも願わない。相手が温かい感情を持ち、相手が富み栄
えることは、やがては自分の利益につながることである。 

 「我が輩は敢えて我が国民に云う。我等は曖昧の道徳家であってはならぬ。徹底した
功利主義者でなければならぬ。然る時に茲に初めて真の親善が外国と生じ、我の利益
はその中に図らるゝ・・・。」(『石橋湛山全集』第一巻p405〜407) 

 石橋がここで言っていることは、外交は真の自己利益を基礎として構築する小日本主義を採
ることによって、結果的には他者への愛情や同情を寄せることができる、ということなのであ
る。この社説が書かれた頃、清澤はまだ帰朝していなかったが、石橋のこの思想は、清澤の
帰朝後の対中国政策論、対朝鮮政策論の随所に示されている。
                          (例「国際的新時代来る」『転換期の日本』所収) 

 じつは、『東洋経済新報』の社説は無署名なので、全て石橋が執筆したかのように思われて
いるが、石橋よりも清澤の方がたくさんの社説を執筆していた。石橋湛山は、「清澤君は最も
熱心に、毎週欠かさず会合に出席し、社説も書いてくれた。その執筆量はあるいは社内の私
よりも多かったのかもしれない」と書いている。
                 (石橋湛山「清澤洌君の思い出」『石橋湛山全集』第十三巻p544) 

 清澤には、石橋湛山と同じ小日本主義の思想が根底にあったのである。清澤が主張してい
た国際協調論は、他の親米知識人・ウイルソン主義者たちのような思想的・観念的レベルのも
のではなく、徹頭徹尾、国益の面から現実的に判断したものだったのである。彼は田中内閣の
膨張主義的な外交策を鋭く批判した「愛国心の悲劇」を次のように結んでいる。 

 われらが指摘せんとするのは日本の国運と天秤にかけるほど大事がっている満蒙の
利権などというものが、経済的にみて決していうがほどのものでなく、約四億円もの資本
を二十カ年も運用して、それに軍事費、警備費その他総ゆる国家の援助を与えれば、
大概の事業はあれくらいにはなるであろう点である。即ち利益を得ているのは支那であ
って、日本の利益は実質であるより想像的、経済的であるよりも地図的満足にすぎない
のである。愛国心を算盤珠にのるものにせよ。それが対支問題、朝鮮問題、台湾問題
を解決しうる唯一の方法であり、また不景気打開策でもある。(『清澤洌評論集』p132) 


A経済恐慌と国民世論 
 東北地方のある村役場の掲示板に「娘の身売りの場合は相談下さい」という張り紙が張られ
たことがある。江戸時代の話ではない。昭和初期のことである。なんと、親が自分の娘を売っ
て家族の生計を支えたのだ。当時の日本はそれほど貧しかった。都会では失業者があふれて
いた。不景気などという生やさしいものではない。経済そのものが破綻していたのである。 

 農山村の生活は悲惨だった。今と違って当時の農家の主な現金収入源は生糸繭だった。全
国一面に田圃以外は桑畑で覆われていた。その生糸の輸出額は全国生産額の八一%も占め
ており、対米輸出総額の八二%を占めていた。(『岩波講座・日本通史』第一八巻 p327)その
生糸の価格が昭和初期の経済恐慌でいっぺんに四分の一以下に暴落し、深刻な農村不況に
陥ったのである。 

 経済不況をもたらしたものは、第一次世界大戦の終了によって需要が急激に減ったうえに関
東大震災による経済打撃である。銀行の膨大な不良債権は国民に金融不安を与え取り付け
騒ぎも生じた。 
 そのうえ、アメリカの経済破綻が全世界に拡がった。当時のアメリカは、イギリスに貸した戦
争資金は返ってくる、フォード自動車のような工業生産力は上がる、株式市場は活況だ、とい
うわけで大変な好景気に浮かれていた。ところが、ある日突然にバブルがはじけた。(一九二
九年一〇月二四日「暗黒の木曜日」という。)株式市場は大暴落して自殺者が続出し、失業者
が街にあふれる大不況に陥った。それがたちまち世界中に拡がった。第一次大戦後に世界の
金融システムが崩壊してしまっていたからである。それまで世界経済を支配してきた大英帝国 
イギリスの国力が急激に落ちてしまったから、国際的な金融システムを支配し調整する力を失
っていたのである。 

 現在だと、こういう場合には国際的な金融システムが破綻しないように国家間の利害を調整
する。ところが、当時は初めてのことだったから、世界各国は「自由貿易では駄目なのだ、自
国の利益だけを考えるのだ」と保護貿易の体制に移ってしまった。日本の貿易相手だった
国々が高い関税をかけて実質的な輸入制限をしたのである。 

 その上、ブロック経済というものにシフトした。イギリスには、カナダやオーストラリアやニュー
ジーランドなどの連邦国があるし、インドなどの植民地もあるから、その範囲(ブロック)だけで
経済がまかなえる。フランスやオランダもそれぞれ植民地を持っている。アメリカは自国内で何
でもまかなえる。何もない日本は窮地に陥ってしまった。 

 明治維新以来、日本はイギリスが作った自由貿易体制の中で、繊維製品の輸出を中心にし
て成長してきた。国づくりや日清・日露戦争の資金も、イギリスの金融市場のおかげで調達で
きたのだった。それが崩壊し世界の経済秩序が変わってしまって、日本の経済は破綻したの
である。 

 さらに悪いことには、この世界恐慌によってイギリスは金本位制度から離脱したというのに、
日本はこの時期に産業の国際競争力を強化するためと称して金本位制度に転換した。グロー
バリズムに合わせようとして努力したら、グローバリズム自体が崩壊していたのである。まるで
嵐の日に戸を開け放ったかのように外貨はいっぺんに激減した。完璧なマネー敗戦である。 

 そのような経済崩壊にもかかわらず、浜口雄幸首相と井上準之助蔵相は、緊縮財政策を固
持して譲らず、「国民の皆さんが今の痛みを我慢すれば必ず好転する」というばかりで、事態を
ますます悪化させた。新聞には日本経済という重病人の家族に向かって、浜口医師が「病気
は治るが、患者の命は保証できない」と言っている漫画が掲載された。 


第3節 満州事変 
 北原白秋は、満州に住む日本人家族の幸せな様子を想像して「ペチカ」という童謡を作っ
た。 

  ♪ 雪の降る夜は 楽しいペチカ。 ペチカ燃えろよ お話しましょう。 

 閉塞状況の日本からみれば、満州は国際的で発展的な香りがする夢のような所であった。
満鉄特急「あじあ号」は、当時の国内最高の東海道線の特急「つばめ」とは比較にならぬほど
の雄姿と豪華さだったし、今のような航空便は無かったのに、パリの最新ファッションは二週間
もすれば大連に現れた。ハルピンはロシアが作った都市だったから、いかにもロシアふうな異
国の雰囲気にあふれていた。ペチカはその象徴的な設備である。 
 大連から日本へ修学旅行に来た女学生たちは、下関港で荷揚げ作業に従事する港湾労働
者を見て「あらっ、日本人がクーリー(労務者)をしているわ!」といって驚き、列車に乗って「ま
あ、日本の列車はどうしてこんなに小さいのかしら?」といぶかしんだ。日本で目にするものす
べてがみすぼらしく見えた。満州の都会に住む日本人たちはそのくらい恵まれていたのであ
る。満州では、クーリーは中国人のやることだったし、鉄道は広軌道で大きく豪勢だった。 

 その満州国というのは、日本が日露戦争で得た満州での権益(遼東半島の租借と満鉄)を守
るために派遣されていた日本の軍隊が、勝手に作ってしまった徒花のような国である。 

 一九二五年に普通選挙法ができ、日本も大衆政治の時代になっていた。国民大衆の権利意
識は伸長してきたとはいうものの、彼らに国際情勢についての確かな見識があるはずもなく、
軍の強硬派や国家主義者たちがくりひろげる政府批判や「国家改造」の理念にたやすく共感し
た。軍縮条約を批准した浜口首相の狙撃犯人を、国民は無私無欲の愛国者として同情した。
浜口雄幸の後を継いだ若槻礼次郎は、中国で高まってきた排日運動を国際協調の精神で抑
えようとしたが、国民世論はこのような外交策は軟弱だ、侮日暴支(日本を侮り抵抗する中国)
を膺懲せよ(懲らしめよ)と批判した。 

 軍にとっては「機は熟せり」である。「排日侮日の中国を相手にして、ワシントン条約諸国との
協調体制を採っていたのでは満州における日本の特殊権益は守れない。武力を行使してでも
日本の手で満州における日本の特殊権益は守らねばならない・・・。」鉄道を爆破するという手
口によって、それが中国側からの攻撃であるから自衛のために応戦するのだという口実で、た
ちまちのうちに満州全土を日本の軍事支配下においた。翌年には「満州国」の建国宣言をして
しまった。 

 満州事変から建国宣言までに際して、軍は、公然と統帥権を侵して独断専行したが、そのこ
とを指摘し批判した者は誰もいなかったこと、最初は不拡大方針を発表した日本政府が、軍と
国民世論におされて追認していったこと等々については、二章6節ですでに述べたとおりであ
る。 

 満州を王道楽土、五族協和の理想の国にするというのは後から考えた建前で、実際は「満
州は日本の生命線である」という極めて自己中心的な発想にもとづく傀儡国家の建設であっ
た。 

 九ヶ国条約に反するから、中国は事件を国際連盟に提訴した。国際連盟の理事会では調査
団を派遣して調査に当たらせた。その結果をまとめたリットン報告書は、今日の時点からみれ
ば、日本側の権益にも配慮している公平なものである。 
清澤は、このリットン報告書への賢明な対処によって満州問題解決の糸口となることを期待し
て「リットン報告から大詰めまで」(『非常日本への直言』所収)を発表している。 

 しかしながら、軍ならびに政府は、このリットン報告を一方的に不利なものだと受け止めた。
そこで、日本の大使は、国際連盟の議場で「満州事変は日本の自己防衛である」と演説した。
「満場は水を打ったように静まりかえって謹んで聞いた」と日本の新聞は報じたが、事実は、満
場がハッハッハッという哄笑と私語で騒然となったのである(『非常日本への直言』p53)。日本
の言い分はともかくとして、やっていることは、他国には侵略としか見えない・・・・・・。 

 清澤は、石橋湛山と同様に、満州を生命線などと呼んで過度に重視しても経済的に採算が
合わないのみならず、条約違反を犯して、列強国を敵とすることによる貿易上の行き詰まりに
よって、国を危うくすることを主張した。彼は満州事変が起こる前から、「満蒙における日本の
特殊地位」(『黒潮に聴く』昭和三年)、「満蒙と日米の立場」(『自由日本を漁る』昭和四年)など
の論説で、次のように、日本の対満州政策が国際条約に違反することを指摘していた。 

 日本では、対支政策については、その政党及び当該大臣の態度によって多少の違い
はあるが、こと一度満蒙に対する根本問題に関するや、それは全然同一だといふことが
できる。・・・・・・ 
 田中内閣は成立早々、東方会議なるものを召集したが、その終了に当たって田中首
相は、日本は満蒙の治安維持に任ずる旨を声明したのであった。満蒙といふ兎にも角
にも支那主権の下にある地域に対し、日本といふ隣国が治安維持の責任を帯ぶるとい
ふ声明は驚くべき事である。 
 然からば日本が、かくの如く特殊地位を主張する根拠は何処にあるか。・・・・・・・・。 

 第一には歴史的理由である。即ち日本が国運を賭して満州をロシアの手から奪ったと
いふことである。・・・・・・・・。現在日本の政局を担任して居る人々は、日露戦争の頃は壮
年であって、所謂臥薪嘗胆の苦を経験した人々である。従ってこの人々が満蒙に対し正
常以上に執着して居るのは、同情すべきことである。 
 併しながらこの事は、日本人にアピールするやうに支那人及び世界列強にアピールし
ないであろうことは確実である。ロシアが帝国主義的野心を以て満蒙に勢力を張ったこ
とに対し感謝しなかった支那及び列強が、それがたまたま日本に移ったからとて、これ
に感謝する理由はないであろうことは、われ等もこれを公平に認めざるを得ない。 

 第二には、接壌地域としての特殊地位である。これはワシントン会議の際、廃棄された
ところの有名なる石井ランシング協定にも規定してあり、また、日本が機会あれば持ち
出すところのものである。一九二〇年の政府声明にもかうある。・・・・・・・・。 
 即ち、接壌地なるが故に日本が特殊の関係にありとの事実は、列国に承認されたるも
のであるといふのである。併し支那は元よりこれを認めず、ワシントン会議において「日
本に接壌地として満州が大切であれば、同じ理由で支那は接壌地として朝鮮の特殊地
位を主張せねばならぬ」という反駁をなしてゐる。 

 第三には、日本の甚大なる利害が含まれていることである。・・・・(中略)・・・・ 
 
 第四には、日本が生存するために満蒙を必要とするという議論である。国が生存せん
がために他国の領土を必要とし、それが特殊地位を形成し得る理由になりうるかどうか
は元より議論の分かるるところである。・・・・・・・・。 

 日本の満蒙における特殊地位を主張する理由は、・・・・・・・・大体以上のやうであると思
ふ。即ちそれは条約的であるよりも慣習的、歴史的であり、理論的であるよりも、やや感
情的であり、多分にself-assertion(手前勝手)でもある。 
 然からば、これに対して米国の立場は如何。英露両国とも、支那に対して有する利害
が多いだけに却って明らかなヴォイスを発することが不可能な状態におかれている。日
本の主張に対し正面からチャレンジし得るものは、米国あるのみといってもいい。 

 正面的立場からすれば、支那全体に対しまた満蒙に対する政策について、日米両国
の意見の相違はないといっても差し支へない。米国の対支政策は何人も知るやうに支
那の独立及び領土保全、支那における商工業の機会均等主義、即ち門戸開放主義で
あるが、これについては日本は何回も列国に対して誓約して、今更この根本主義に疑ひ
を持ち得ないまでになってゐる。即ち日本は日英同盟協約(一九〇二年、一九〇五年、
一九一一年)、日仏協約(一九〇七年)、ポーツマス条約(一九〇五年)、日露協約(一
九〇七年)、高平ルート協約(一九〇八年)、石井ランシング協定(一九一七年)等にお
い 
て、何れもこの意味のことを声明して居り、従ってこれに対し忠実に実行する責任を負っ
て居るのである。 
 ・・・・更にその後、ワシントン会議において九カ国条約を結んだ。この幾つもの条約、声
明に縛されてゐる日本は、今や田中内閣の蛮勇を以てしても、「治安維持」の目的以外
には兵を動かすことはできないことになって居る。これは注目すべきことである。
                                 (『自由日本を漁る』p461〜470) 

 このような清澤の立場からすれば、満州事変は到底認めがたい。清澤はその時、アメリカに
滞在していたが、邦字新聞『北米時事』に次のような見解を載せた。 

日本はワシントン条約その他で中国の主権尊重をし、戦争を放棄する不戦条約にも調
印しているが、これとの関連をどうするか。中国全体に日本に対する排斥暴動が起こる
だろうが、これをどうするか。この占領地を永久に占領し続けるわけにはいかないが、撤
退条件をどう考えているのか。そもそもこの戦線をこれほど拡大する必要があったの
か。(北岡『清澤洌』p91孫引) 

 今日の視点からみれば、清澤のこのような見解はしごく妥当で常識的にさえ思える。けれど
も、当時の日本ではきわめて評判の悪い少数意見にすぎなかった。 
新聞の論説は第二章6節に詳説したように、軍を煽動するものだった。満州事変を批判した学
者は、横田喜三郎、矢内原忠雄、吉野作造だけだったし、民間人では清澤と石橋湛山ぐらい
なものだった。(北岡前掲書p93)

  満州事変が国民から圧倒的に支持されたのは、国民の膨張欲・領土欲ということもさること
ながら、これによって日本の景気がよくなったからである。けれども、この当時の満州が豊かに
見えたのは、日本が莫大な国家予算を投じてインフラ整備をしていたからである。これは現代
ふうにいえば巨額の公共投資でありバブル経済である。だから、日本国内にも一時的な好景
気をもたらした。それを、先の見えない国民は大歓迎したのである。 

 政府は満州への移民をすすめ、疲弊していた農村から数多くの開拓者が集団で入植した。
彼らはソ連との国境付近の土地を与えられ開拓をした。話に聞いていた楽土は真っ赤な嘘
で、土地は痩せ雨はなく気候は寒冷で実りは乏しく、生活は苦しかった。同じ満州とはいうもの
の、都市生活者とは雲泥の差の厳しい生活状態だった。政府の宣伝にもかかわらず、当時流
行した東海林太郎の歌謡曲「国境の町」は、荒涼とした満州平原の様子を如実に表現してい
た。 

 橇の鈴さえ寂しく響く、雪の広野よ 町の灯よ、 
 一つ山越しゃ他国の星が、凍りつくよな国境 

 終戦直前にソ連軍が侵攻してきた時、日本軍は彼らを置き去りにして逃亡したから、残され
た日本人たちは逃亡の途次で襲撃や略奪に遭い、悲惨な地獄の苦しみを味わい、命からがら
日本に引き揚げてきた。絶望の果てに集団自決したり、自分の子供を殺害したり置き去りにし
てきた親も多かった。今日の中国残留孤児は、この時に置き去りにされた子供たちである。諏
訪出身の藤原てい(新田次郎夫人)の著作『流れる星は生きている』(中公文庫)は、満州から
の逃避行で、母と子が言語に絶する悲惨な苦労をした様子を描いたノンフィクションである。 


第4節 国際連盟脱退 
 日本は、昭和六年の満州事変、昭和七年の「満州国」建国宣言に続いて、昭和八年に国際
連盟から脱退した。清澤は、この問題に関する外交交渉のやりかたについて内田外相を強く
批判し、「国家のために貴方が辞職することを要望する」 とまで言いきった。その理由の一つ
は、内田外相が俗論に媚びて「焦土外交」を唱えたことであり、もう一つは、自己顕示欲の強い
激情家・松岡洋右を全権代表に任命したことであった。(本書p69〜72) 

 松岡洋右が連盟脱退を宣言して議場を去ったことは、当時は国民から賞賛をあびたパフォ
ーマンスだったが、今日では、国家の方向を誤った愚策であったことが明白である。国民の大
多数が松岡を賞賛し熱狂的に迎え入れた時代に、清澤は醒めた視点で次のように厳しい松岡
批判をした。 

 「松岡外相に与ふ」(『中央公論』昭和八年五月号) 
 この文を書いている時に、あなたはまだ米国に居られますが、あなたが横浜、東京に乗
り込む時の光景が、今から想像されて胸の踊るのを禁じ得ません。上は廟堂の顕官か
ら下は都下数万の小学生までが、沿道人垣を造って、いかに感激と誠意を以てこの時
代の英雄を迎へるでありませうか。・・・。 
 私は今、二十七カ年以前に、同じ米国から帰った日本全権小村寿太郎男(爵)を想起
します。あなたに対して、ラジオと、歓迎の渦巻と、国民の喝采が待ってゐるのに対比し
て、日露戦争を纏めて帰った小村全権の祖国には、氷のやうな冷遇と、非難と、憤怒が
立ちふさがってゐました。時の官憲の好意で、長男の小村欣一氏が横浜の沖合まで父
を出迎へに行くと、寿太郎男は一目見て、「アッ、お前はまだ生きてゐたのか・・・」と暗然
として、我が子の手をとったとのことであります。 
 小村全権がかういったのも無理はなかった。講和会議を通じて、終始かれに達した報
道は、驚くべき強硬なる故国の輿論でした。・・・講和条約に調印せんとする九月五日に
は、帝都の不満は××して、ために×××がしかれ、×××××の××××されたも
の一六九、××一〇三〇名に達したのであった。興奮した一部の群衆が外務大臣官邸
に押し寄せて、彼の家族に××を加へんとした事実を彼が知ったのは、実に会議の最
後であったのです。 
 この国民の不満と憤慨を知りながら、彼はその不人気な外交交渉を纏めたのでした。
彼から見れば、彼の家族が生き残っていたのは寧ろ不思議で、恐らくは国民憤怨の犠
牲になってゐたと考へたでありませう。欣一氏は父親に「お前はまだ生きていたのか」と
いわれ、挨拶する言葉もなく、ただ涙が下がったと、生前、親しい友達に当時を顧みて述
懐したと聞きます。小村全権の淋しい都入りに比して、あなたはまた何といふ華々しさで
ありませう。 

 小村全権が行かれたポーツマス会議と、今回あなたによって代表されたジェネバ会議
とは、何とよく似てゐることか。日本の歴史において最も重要な画期的会議たる点にお
いて同じであります。世界の檜舞台において全人類の注意を集め得た点において似て
ゐます。大学教授といふものが、バイカル以東の割譲を説き、露都進撃を唱へて強硬論
の先頭をなしたことと、今回、数は更に多いが学者の連盟が出来て衆論を率ゐたことも
似ているではありませんか。 

 しかし、当時と現在とを比較して異なった点が少なくとも三つあります。 
 一つは、日露戦争当時にあっては、総理大臣桂太郎と、外務大臣小村寿太郎は一体
となって、いかに民論の迫害があらうとも断乎として講和会議を纏める意志があったの
に対し、ジェネバ会議の場合には、総理大臣斉藤實、外務大臣内田康哉は民論の赴く
まゝに動くといふよりも、寧ろ民論に責任を転嫁して、「輿論の趨向」とか「国民の総意」と
かと、この蔭に隠れんとしたことであります。 
 あなたも知られる通り、当時の首相、外相は国家のためにまことに決死の覚悟をして
ゐました。彼らの頭には国家百年の計あって、自己と家族の安否は元よりなかった。大
任が終わって相手と握手した時に、「自分は本国の多数者より非難を受けることは確か
だ。何びとも総ての人を満足させることは不可能だ。露国にも亦幾多の不満足な者が居
らう。さりながら、群衆心理は時局の難問を解するものではない。吾々の業は縁の下の
力業に類する。われ等は啻その義務を果たしたことを以て満足すべきだ」といった。 
 これを三十年を経た今日と比較すると何といふ相違でありませうか。連盟と断った内田
外相は「総ての人を満足させて」ゐますし、あなたを歓迎する国民の熱意も、国民挙げて
あなたの行動を裏書きしてゐることを示します。 

 第二に当時と現在と異なる点は、桂と小村が絶対に、わが国の国際的孤立を避けんと
したに対して、斉藤、内田は寧ろわれから進んで孤立を選んだことである。…(中略…) 

 第三に当時と現在と異なるところは、日清戦争の時も、日露戦争の時も、必ず衆論に
抗して毅然と立つ少数有力者があった。・・・・・・(中略)・・・・。しかるに、昭和八年、同じ国
家の危機に面して、××××のために説をなすものは何処にありますか。(中略)
(三省略)・・。 

 四 今一つ感じたことは、怒濤のやうな民衆の熱意に送られ、生一本の貴方が余りに
これに感激しすぎはしないかといふことであった。 

 貴方は政治家であります。その眼が常に民衆の動きを離れない政治家であります。民
衆政治の現在において、この事は元より当然でありますが、しかしこの民衆は小村全権
がいったやうに「民衆心理は時局の難問を解するものではない」場合が決して少なくな
い。いな、現在の如く国際関係が複雑微妙に働いてゐる場合には、民衆はその全貌を
つかんで、国家百年の計をたてるといふやうなことが果たして可能でありませうか。・・・・
(中略)・・・・。キング・モッブ(群衆王)の前に平伏し、恐怖して、ただその御機嫌を失はざ
らんことにつとめてゐるではないか。・・・・(中略)・・・・。
   (五・六・七 省略) 
  八 ・・・・(中略)・・・・。貴方は国際連盟の総会において日本のために気を吐き、世界
は日本といふ義人を十字架にかけるのだと叫ばれました。・・・・(中略)・・・・。外国の新聞
雑誌に目をさらす者でなければ、現在の日本が如何に世界に不人気であるかは想像が
つかないであらう。最近到着した紐育タイムスには、ロンドン特電として、「松岡ロンドン
の群衆に嘲はる」との題下に、「松岡氏は放送二時間前に到着した。警視庁は異常な警
戒を以て氏を警護し、氏は警官の厚い行列の中を通過した。放送局の外には松岡氏
に、日本は馬賊の国だ、と叫んだ者あり、また氏が建物の内部に急ぎゆくのを見送っ
て、恥を知れ、との叫び声が続いた」とあります。場所が冷静をもって鳴るロンドンだけ
に、他の場所も想像されて同情にたへません。 


第5節 日中戦争 
 満州事変に続いてすぐ起こった上海事変の際に、アメリカ人たちが日本人に対してどのくら
いの悪感情を抱いたかを、ちょうどその時アメリカに滞在していた清澤は、じかに体験して日記
にしたためた。 

 「上海を日本軍が攻撃する記事、各新聞を大袈裟に埋む。朝、電車に乗ると、僕の顔を
ジロジロ見ている者多し。けだしこの事件が余程米国人を刺激してゐるのだ。子供や婦
人に対し、爆弾を投げて殺し、死傷者無数とある以上、米国人の神経をいらだたすのも
無理なし。・・・・・・日米戦争の声漸く盛んだ。」
              (昭和七年一月二十九日。『暗黒日記3』ちくま学芸文庫p417) 

 清澤はこれより前の昭和三年に次のように書いている。清澤のこの見解は、ワシントン体制
下の世界で日本が有利な立場にいるためには当然のことであった。 

「私は今後の対支外交は結局、対英米外交だと思ふ。」「支那についてはあくまで英米と
協調すべきで、抜け駆けの功名は一時は利益のやうに見へても、結局は支那に乗ぜら
れて何も得るところはないことに終わる。米国との協調といふ如きことは、排日問題以後
不人気な題目ではあるけれども、一国の政策は感情に左右されるにはあまりに重大だ。
私は日本の国力と支那の現状から、経済的にも政治的にも、出来るだけ英米と提携す
べきものであって、これがまた支那のためでもあると思ふ。」(『黒潮に聴く』p431) 

 雑誌『中央公論』昭和十一年十一月号は、「日支妥協の方途ありや」という特集を組み、学者
や評論家への葉書アンケートをしたが、清澤は次のようにいちばん現実的に的確に答えてい
る。  

 @日支妥協の方途は無論あり。ただし、現在の日本国民のテンペラメント(気質)では悲観の
外なし。 
 A妥協方法は日本の位置に顧みて、日本側の態度によって決するところ多し。 
  第一に何を目がくるかの目標を常に明らかにすべし。 
  第二に戦争と外交とは別なものであることを知るを要す。 
  第三に日本の新聞の小児的かつ一方的な憤慨を抑圧すべし。 
  第四に外交の一元化なくして外交は不可能なり。 
  第五に形式を整ふることにのみ無用な努力をなすべからず。いかにして実質を得るかを考
へよ。北支問題についても然り。 
  第六に蒋介石没落後の混乱と、そこから来る日本の不利を思ふて、出来るだけこれと協力
し、かれを利用しながら難局を打開すべし。 
  第七に従来の如く既成事実をつくり、そこに背水の陣をしいて挑発する外交方法をとるべか
らず。 
  要するに鼻の先より遠くがみえぬやうな近視眼政策を一掃すべし。支那四億の民衆が日本
国民を敵視する如きに至らば我等は後世の子孫から恨みを受くると知るべし。 
  但しこれを支那側から見れば日本に感謝すべき理由あるやも知れず。何となれば現在の日
本の態度が支那のナショナリズムを揺り起こし、その国民主義的覚醒が国家統一となって支
那国家としての進歩的役割を果たすかも知れぬからだ。
                               (『中央公論』昭和十一年十一月号p246) 

 翌年の昭和十二年七月七日、盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、右の清澤の警告にこ
とごとく反するものであった。 

 日中戦争は、閣議その他で合議された上で日本の国家意思として始められたものではな
い。満州事変と同様に、既成事実を先に作ってしまうという軍の独断専行による戦闘開始を、
政府が追認したものであり、中国に対して宣戦布告はしていない。清澤が心配したように、軍
はまたもや既成事実を作ってしまうという策に出たのである。 

 さらに悪いことには、政府と軍との外交の一元化どころか、軍内部においてさえ一元化がさ
れていなかった。かつて満州事変を起こした張本人・石原莞爾は、この時、東京で参謀本部の
作戦部長になっていた。対ソ防備を重視していた彼は中国への戦線拡大には反対で、拡大派
の説得をしにかかったが、部下(課長)の武藤章から、「我々は満州事変における石原のやり
方を模範としている」と言い返されて言葉を失った。 

 日中戦争勃発は、石原が先例を示した下克上であり、統帥権干犯である。したがって、国家
の統一的な意思としての戦争目的も明確ではない。清澤の言った「何を目がくるかの目標」は
不明確である。だから、終戦や講和の条件も何ら定まってはいない。余計なことに、近衛文麿
は「蒋介石を利用して難局を打開」するどころか、国民政府を相手とせずという声明を発して、
蒋介石との交渉を一方的に断ち切ってしまった。昭和政治史上の愚行の一つといわれてい
る。 

 清澤が予言どおりに中国ナショナリズムが覚醒し、国家統一のごとき様相を呈してきた。清
朝の崩壊以来、群雄割拠していた軍閥が国民党の下に結集し、これと、共産軍(八路軍)は抗
日民族統一戦線を作ったのである。 

 「支那はちょっと叩けば、すぐに参る」どころではない。中国はいかにも広大無辺である。中
国軍は攻めればさっさと逃げ、撤退すれば追いかける。駐屯すれば妨害する。こういう戦線が
際限もなく拡がったが、占領地域は点と点だけで面にはならない。個々の戦闘での勝利も何の
意味も持たない。兵隊たちは歩兵とはいうがよく歩かされた。拡がりすぎた戦線へは食糧補給
さえままならぬ。兵隊たちは行く先々で、自分の食料を略奪することが常態となり軍紀も乱れ
た。 

 当時、日本では「天に代わりて不義を討つ」という軍歌が歌われていた。日本が中国を侵略
することは天の道で、それに抵抗する中国のナショナリズムは不義だという、はなはだ手前勝
手な歌である。まさに、「支那四億の民衆が日本国民を敵視する」ことになり、「後世の子孫か
ら恨みを受くる」ことになった。 

 盧溝橋における局地的な紛争を、中国との全面戦争に拡大して泥沼化させたのは近衛内閣
である。 
 昭和十二年五月に第一次近衛内閣ができた当初の近衛は国民に大歓迎された。長身で
堂々とした体躯や容貌が好印象を与えたことと相まって、近衛が五摂家の筆頭の家系だから
皇室と軍との関係がうまくいくのではないか、四十五歳という若さだから何か清新なことをやる
のではないか、等々の期待をしたのである。 
 しかしながら、清澤は、それ以前から近衛の問題性を指摘しており、よい評価はしていない。
昭和十年の『現代日本論』では、近衛が不満を抱き易い性格であること、現実を正確に把握し
ていないこと、身近に左翼から右翼にいたる雑多な人物を近づけており、自己の主義主張を
堅持することは難しいだろうと見抜いていた。(『現代日本論』p243〜260) 

 近衛はまだ若かった頃「英米本位の平和主義を排す」(大正七年)という論文を発表してい
る。イギリス、フランスなどのようにすでに植民地を保有し、あるいはアメリカのように自国内の
資源に恵まれている「持てる国」と、日本のような「持たざる国」との間には大きな差があるでは
ないか。アメリカのいう正義と人道は、アメリカや先進諸国の権益をカムフラージュするための
イデオロギーにすぎない、という主張である。「満州は日本の生命線」というスローガンはこの
延長線上のものである。 

  近衛のこの英米観は、清澤のそれと正反対の方向のものである。近衛文麿は一次内閣の時
に、悪評高い、「国民政府を相手とせず」「東亜新秩序」という声明を発し、国家総動員法を制
定した。二次内閣では、三国同盟を結び、仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)進駐
をし、三次内閣では日米開戦やむなしの状況に陥らせた後に、内閣を放り出し東条に政権を
渡した。すなわち、日中戦争から世界を敵にした太平洋戦争への展開を実質的に推進したの
は、「英米本位の平和主義を排す」という思想の持ち主、近衛文麿だったのである。 

 また、昭和十一年の『時代・生活・思想』では、近衛がアメリカで「持てる国、持たざる国」論を
披瀝して、列国間の領土と植民地の公平化がないかぎり世界平和は達成できぬと主張したこ
とについて、外国には通用しない単純で自己本位的な判断である、と徹底的に批判した。 

 「単に日本に与えられたる領土が少なく、その人口比率が多いといふならば、同じやう
な国が他にもある。日本だけが生きえて、他の国家はその犠牲になってもいゝといふ議
論はなりたゝない。日本に生命線がある以上は、中華民国にもあるだらう。民国人が何
故に日本人の発展のために犠牲にならなければならないかといふ疑問は、日本人にと
って答ふるに困難である。」 

 「歯に衣着せずして評すれば、近衛公の独断的議論は、識者を首肯せしむるよりは、
効果から観て反対な結果を生みはしないかと思ふ。(中略)証明する事実も挙示せずし
て、単に断定を繰り返すのみでは、内には国民の慧智を愚弄する以外には効をなさない
し、外には世界をしてわが国民の頭脳を軽蔑する以外には用をなさない。」
 「それはそれとして、近衛公の一文は大きな問題を投げかけた。第一の問題は、(中
略)領土と原料が公平に分配されれば、それで世界の平和は来るかどうかだ。第二は、
右が然りとしてもその公平なる分配は如何にするかの具体案だ。」
                                (『時代・生活・思想』p271〜290) 

 このように国際関係の認識が偏っていた近衛が、度重なる失政の末に内閣を放り出した際、
清澤は、「気紛れとしか言いようがない」と憤慨している。 


第6節 日独伊三国同盟と南進政策 
 戦後の日本医師会長を長く務めた武見太郎は、喧嘩太郎といわれながら厚生省相手に医
師会の権益を守ることに尽力した人物である。彼は、昭和十五年九月のある日、宮中から往
診を依頼された。近衛文麿が失神したからである。近衛は天皇から、「いよいよ三国同盟を締
結することになったが、これで国民がさぞ難儀をするだろうね」と言われて、スーと血の気が失
せたのである。ドイツ・イタリアとの三国同盟締結はまさに「国民の難儀」の始まりとなった。 

 ドイツは第一次大戦後のベルサイユ体制打破を唱えて政権をとったヒトラーのもとで、再軍備
をし、フランス、オランダ、ポーランドを電撃的な攻撃で占領した。ドイツは破竹の勢いで世界
制覇をするのではないかとさえ思われた。 

 日本では「バスに乗り遅れるな」というのが合い言葉になって、フランスやオランダが東南ア
ジアに持っている植民地(フランス領インドシナ、オランダ領東インド)に目を向けた。ゴム、錫、
石油等の天然資源を得ることが目的だった。 
 一方のヒトラーは、イギリス、フランスとの戦争のために、それらの国々のアジアの植民地に
駐留しているイギリス軍、フランス軍をアジアに足止めする日本の攻撃に期待していた。 

 すなわち、ドイツ・イタリアと三国同盟を締結することは、日本がドイツとイギリスとの戦争に参
入してイギリスと戦火を交えることを意味し、それは同時にアメリカとの戦争に発展することを
意味した。近衛内閣は松岡洋右を外相にして強引に締結した。 

 この同盟を結んだのは、ナチス・ドイツとの同盟によって「力の立場」を示せば、日本が南進
政策をとって仏印その他に進出しても、アメリカの軍事介入を抑止できるだろうという判断をし
たからである。ところが、この思惑は外れ、アメリカの反発は厳しく、対日制裁手段を一段と強
化し、日米関係は破局に向かって進んだ。 

 かねてから、清澤洌の外交評論は、世界の中で日本が生きていくためには円満な日米関係
を維持することが肝要だということにつきる。中国問題だけなら、まだ対米戦争は回避の可能
性があった。ところが、三国同盟締結は、最も危険な対米威嚇路線であり、清澤がこれまで主
張してきたことがらすべてが水泡に帰したことを意味する。彼は憤りを抑えて、三国同盟のもつ
意味について次のように解説している。 

「三選ローズヴェルトの肚―日独伊同盟と米国の態度―」(『改造』昭和15年12月号) 
 日独伊三国同盟が英米を目的にしたものであることは一般の常識である。英米は独
伊の正面の敵であり、その英国は米国と離れられない関係にある。該同盟が松岡外相
の声明した如くに「何れの特定国をも目的としているものではない。勿論、米国を向ふに
廻すといふのでなく、強いて言へば米国に良かれかしとの考へで締結されたものである」
としても、同盟そのものが軍事的、政治的、経済的相互援助を約束して、必然に或種の
想定敵国を想像するものである以上、そしてその敵国は世界を見渡して他に存在しない
以上、米国としては該同盟を以て、米国を目標とし、米国を牽制するためであると解す
る。 

 ローズヴェルトは、選挙演説で公然と日独伊三国同盟をとりあげ、三国陣営に対する
米国の断乎たる対抗決意を明らかにし、対英援助の必要を力説した。ローズヴェルトが
圧倒的な多数で三選されたことは、米国民がその干渉政策を是認したことを意味する。
米国は世論の国である。従来ローズヴェルトの政策に反対してきた者も、この選挙の結
果、矛を収めるであらう。従って、ローズヴェルトの外交政策は、今後大した反対に会う
ことなく進められるとみるべきである。 

 この同盟締結によって、日本は、米国の注意を太平洋から離せない外交方針をとって
しまった。 
 「従来必ずしも一つのものではなかった日支事変と欧州戦争は、これによって一貫不
離のものとなった。日独伊同盟によって、もはや、独伊対米国、日本対米国といふ二つ
の並立する外交ではなく、日独伊対米国といふ一単位になったのである。」 
 「米国は、ここ当分は軍事的、外交的に対日包囲政策をとらんとするであらう。軍事的
には、英国と協力し、またオーストラリア及びニュージーランドと共同防衛戦を形成して、
豪州よりハワイ、アラスカ、アリューシャンを結ぶ対日防衛線を固めるであらう。欧州戦
争が何らかの事由で中止されれば、最も脅威を蒙るのは日本であらう。」 
 「アメリカ外交は、三つの方法が行われるであらう。第一に蒋介石政権への援助強化
である・・・・・・・・・。第二に対日経済圧迫である・・・・・・・・。実行はいつでも可能だ。第三は
ソ連に対する働きかけである・・・・・・・・。」 

 三国同盟締結後のアメリカの対日政策は、清澤洌がここで予想したとおりに展開していっ
た。 

第7節 日米戦争 
 清澤洌の甥・笠原清明は、東京の丸ビルでレストラン「銀星」を経営した。食糧難の戦争中
も、食料切符による外食券食堂としての指定を得て営業を続けることができた。ビルの地下に
ある事務所兼倉庫は厚い鉄扉で仕切られており、話し声が漏れることはなかったから、清澤、
嶋中らが中心になってつくった二七会の自由主義者たちが集まって会合を開いていた。 

 集まっていたのは、中央公論社主・嶋中雄作、政治家・芦田均、政治学者・蝋山政道、評論
家・長谷川如是閑、阿部真之助、作家・正宗白鳥、哲学者・三木清等々の錚々たるメンバーで
ある。彼らは配給米だけでは空腹なので、「銀星」の大釜を洗った水で作った重湯をすすって
いたという。 

 歯学生だった親戚の笠原貞行氏(後の豊科町長、長野県教育委員長)は、何度かその場に
居合わせて彼らの話を聞いていた。田舎から上京したばかりで何も知らない十八歳の歯学生
は、彼らが東條英樹の批判などをし合うのを聞いて、「こんな非国民みたいなことを言うおっさ
んたちがいるんじゃあ戦争に負けてしまう」と真剣に心配した。ある日、清澤に向かって言っ
た。
 「おじちゃんは嘘をついた。『アメリカは日本と戦わず』なんて本を書いたが、いま戦っている
じゃないか」。清澤は答えた。「いや、嘘は言ってない。僕は、アメリカは戦わずと言ったのだ。
この戦争は日本が戦いを挑んだのだ。アメリカの方から戦ったのではない」。
                                             (笠原貞行氏談) 

 清澤の著作『アメリカは日本と戦はず』(昭和七年)は、かねてからアメリカ通として『米国の
研究』(大正十四年)、『黒潮に聴く』(昭和三年)、『アメリカを裸体にす』(昭和五年)などで、ア
メリカの実相と、日本の対応のあり方を説いてきた清澤に対して、出版社が『アメリカは日本と
戦ふか』という題名での執筆を依頼したものである。 

 日露戦争以後から、日本では数多くのセンセーショナルな「日米戦争論」が発刊されていた
が、それらの多くは少年雑誌向けの「ヨタ話」に類するものであったといってよい。(猪瀬直樹
『黒船の世紀』文春文庫の参考文献欄には、その類の書籍の大量なリストが掲載されてい
る。) 

 ところが、昭和七年頃は、満州事変、上海事変、満州国建国、焦土外交宣言、等々日本の
具体的なアジア戦略がとられてきたので、「日米戦争論」もにわかに現実性を帯びてきた。そう
いう風潮の中で、アメリカが日本と戦う可能性があるのかどうかということを説明するように求
められたのである。依頼された題名『・・・戦ふか』ではなく、『・・・戦はず』と題されたこの著作
は、詳細な論証をした三七四頁の大冊であるが、その大要は次のようなものである。 


『アメリカは日本と戦はず』(昭和七年) 
 「雨後の筍のやうに出る日米戦争に関する出版物が、米国の戦意について語っている
が、私は左様に信じ得ない。」
満州問題や中国問題でアメリカが日本と戦争するはずはないのである。 
 「米国が満州問題について差し出口を利くことは事実であるけれども、しかしこれは、
門戸開放主義の本尊、九カ国条約、ケロッグ平和協定の主唱者として、一応は義理にも
せねばならぬ処置であって、米国は、かつて日本が二十一ヶ条の要求を支那につきつ
けた時もこれに抗議し、北樺太占領をふくむ西比利亜出兵の時も日本に釘を打った。米
国の国務長官が誰になっても、まづこれだけの定石は国務省の伝統的方針からやむを
得ないところである。」(『アメリカは日本と戦はず』p334) 
 
 しかし、満州の所在さえ知らぬアメリカの大衆が、満州に大きな関心を持って満州のために
若者を戦場に送るであろうなどと考えるのは、アメリカの事情を知らないからである。アメリカ
人はそれほど国際的ではない。したがって、満州・中国問題でアメリカが戦争を起こすことに、
アメリカでは世論の支持があるはずもない。 

 (註、太平洋戦争後のアメリカは朝鮮戦争やヴェトナム戦争、イラクやアフガンへの介
入などを積極的にしているが、これは、真珠湾攻撃以後にアメリカが国外政策、国防政
策を大変換したからであり、戦前のアメリカは清澤が説明したとおりの国であった。) 

 アメリカは、侵略された場合以外には、大統領の権限で戦争を引き起こすことはできないと
いう憲法の国家である。議会の承認がいるのである。その議会は国民大衆の世論の動向に
従う。だから、日本に対して国務省がどう言おうとも、アメリカは戦争を起こせないのである。
(前掲書p240) 

  「米国を旅行して公私各方面の米人に接し、かつ新聞、雑誌などを通じて米国の世論
を知りたる日本人は、異口同音に余輩に語って曰く、『米国に来て最も驚いたのは対日
感情及び態度の案外冷静なことである。故国に居った時には、米国は今にも宣戦を布
告するのではないかと思はれた時もあった。米国の各方面に排日気分が漲って新聞、
雑誌などは挑戦的態度をあふって居るものと思っていた。ところが米国に来てみると、そ
んな様子は少しも見えぬ。米人は個人として我々に親切であるのみならず、輿論の趨勢
を見ても挑戦的気分などはどこにも無い。』われ等は米国といふ雑多な人種が住む大陸
国を、日本流の国家主義的眼光で見ることが、結論に狂いを来すのである。」
                                       (前掲書p338〜339) 
  「しかしながら例外というものがある。如何なる場合に戦争が起こり得るか。第一は、両
国の国民の感情が尖っている時に何らかの大事件が勃発した場合である。」 
 「上海事件の際はその危険性があった。米国全土の対日感情は最悪に達し、日本大
使館、日本総領事館、日本字新聞などに抗議の電話、手紙が雨のやうに降ってきた。
われ等は当時ニューヨークにあって、地下鉄その他で憎々しげにわれ等を睨む幾つか
の目にぶつかったのを、今でも忘れない。」 
  「この時、上海において両国の軍人でも衝突するか、軍艦でも撃沈するやうな事件が
勃発した場合は、果たして戦争なくしてやむであらうかを私は心ひそかに憂へていた。」
                                           (前掲書p357)
 「第二に、日本の行政機関が完全に戦争を欲するグループの手に落ちた場合である。
政府機関を手に入れたこのグループは、必ず宣伝をして、大々的に敵愾心を煽るであ
ろう。新聞と学校と団体と公共機関は、国民に戦争を煽る役目を引き受けるであろう。 
                                           (前掲書p359) 

 その後の日本は、清澤が、あってはならない例外として憂慮した途を辿っていった。政治は
軍部に掌握され、国民は戦争に向かって煽られ教育された。「軍艦を撃沈した大事件」真珠湾
奇襲は、なかなかまとまりにくいアメリカの世論を、一挙に対日戦争へと駆り立てて、「真珠湾
を忘れるな」という敵愾心を持たせる役割を果たした。清澤が、あってはならないとして警告し
たこと全てがそのとおりに行われたのである。 

 内閣情報局は、日米開戦十カ月前の昭和十六年二月に清澤を雑誌に意見発表させてはな
らない者として指定した。日米開戦の日、清澤は人前も構わず本を床に叩きつけて憤激した、
と石橋湛山は書いている。(『石橋湛山全集』第十三巻p545) 清澤が二十年もの間やってきた
評論活動は水泡に帰し、国際的視野を欠いた無知蒙昧と、非合理的な判断がこの国を支配
するに至ったのである。 

 パールハーバー奇襲を日本人たちはすでに忘れかけているが、アメリカ側からみれば日本
が一方で平和交渉のポーズをとりながら、その交渉打ち切り通告もせずにやった「だまし討ち」
sneak attackである。それに対するアメリカ人たちの嫌悪感は今日まで続く対日不信の原点で
あり、ポスト・パールハーバーの歴史意識というべきものである。日米経済摩擦などで、日本に
向かってアメリカ人が主張する「きたないやり方」という非難はこの延長線上のものである。
                                油井大三郎『日米戦争観の相克』p49) 

 雑誌への執筆禁止処分を受けて発表の場を失った清澤は、学問的な外交史の研究に没頭
していた。
 昭和十七年に発行した『外政家としての大久保利通』と『日本外交史』は、それまでの清澤の
論説とは趣を異にしており、一次資料を利用した学術論文である。 
 また、細密な外交史年表の作成にも携わった。(これらが学術的にも高く評価されるものであ
ることはすでに紹介した。本書p29,30) 

 その後の清澤は、戦時下の詳細な記録をし始めた。史上これほど悲惨で哀れな戦争はなか
った。H・G・ウェルズは「後世の歴史家は、当時の日本が正気であたかどうかを疑うであろう。
当局者の頭脳は凶人に近いものというべきだ」と評したし、蒋介石は「日本は飲鴆の狂人にな
った」と評した。清澤は戦争が終わった暁に、戦争指導者たちの妄言と哀れな国民の姿を記
録した厳密な資料に基づいた『現代史』を書くことを期して、そのための資料を蒐集し始めたの
である。ノートの標題は『戦中日記』だったが、彼が亡くなっていた戦後になって『暗黒日記』とし
て発行された。 

 『暗黒日記』(昭和十七年十二月九日〜昭和二十年五月五日) 

 昭和十八年二月十一日 
 紀元節だ。朝日さやけし。ああ、天よ、日本に幸いせよ。日本を偉大ならしめよ。皇室
を無窮ならしめよ。余は祖国を愛す。この国に生まれ、育ちて、死ぬ運命に結ばるの
だ。 

 昭和十八年七月四日 
 天気よし。一日中、畠や庭の手入れ。読書できず。食うことは、こうも時間をとるものか
と思う。夕食前に風呂を浴びると、こうして居っていいものかと思う。時勢が僕を使わな
い。 

 昭和十八年十月一日 
 大東亜戦争は非常なる興亡の大戦争也。筆を持つ者が、後世のために、何らかの筆
跡を残すは、その義務なるべし。・・・・(中略)将来、大東亜外交史の資料とせんがため
なり。 
 神よ、日本を救え。 

 昭和十九年一月九日 
 予に、もし専門あらば「米国」と外交についてである。予の約三十冊の書籍はそれだ。
然るに米国を対手とする戦争において、予の言は全く封じられて、国家につくす方法が
ないのである。その上に予の糧食を断つべく政策が行われている。・・・・(略)・・・。 

 昭和十九年四月五日 
 (インパール進攻作戦を「至妙なる策戦」と持ち上げた新聞記事のスクラップを貼付した
左側に) 
 印度作戦は、大きな政策から観ると、悲しむべき結果を生ずることは明瞭だ。仮にイン
パールをとったらどうするのだ。それ以上進めず、さればとて退けぬ。戦線の釘づけなの
である。そして犠牲は非常に多かろう。 

 昭和十九年十二月三十一日 
 ・・・本年終わる。経済的にも一杯一杯であった。・・・将来が不安である。・・・。 

 昭和二十年一月一日  
 昨夜から今暁にかけて三回空襲警報鳴る。焼夷弾を落としたところもある。(中略)日
本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だと
かいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義者」だ
という理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼ら
は味わっているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。
結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えて
いる。第二に彼等は戦争の英雄であることに酔う。第三に彼等に国際知識がない。知識
の欠乏は驚くべきものがある。 
 当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。そ
れから婦人の地位をあげることも必要だ。 
 日本で最大の不自由は、国際問題において、相手の立場を説明することができない一
事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は
断じて世界一等国となることはできぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。 
 日本がどうぞして健全に進歩するように―それが心から願望される。この国に生まれ、
この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を
偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国
民が覚るように―。「仇討ち思想」が、国民の再起の原動力になるようではこの国民に見
込みはない。 
 僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年の歴史を書き
続ける。後世を目がけて努力しよう。 

目次へ

第五章 清澤洌の自由主義

第1節「時代後れの自由主義」 
 清澤は自由主義を標榜した評論家である。自由主義は、今でこそ「良い思想」として受け容
れられているが、戦前は「悪い思想」として右翼からは抑圧され、「時代後れの思想」として左
翼からは批判されていた。それのみならず、自由主義は、一般庶民からも敬遠されたのであ
る。 

 「自由主義とは何か」という問いに対する答えは、自由主義を唱える人の数だけある。2節で
詳説するように、そもそも自由についての概念そのものが多様である。その上、文化的自由、
経済的自由、政治的自由、等々内容も多岐にわたる。各国の歴史や事情によっても内容は異
なる。つまり、自由主義という言葉に込められている意味が各人各様で、単一の意味には集約
できないのである。 

 自由主義という言葉の意味する内容が一律ではないことは、自由主義を批判する側にとって
は好都合である。自分の勝手な自由主義イメージを想定してそれを批判したり、何か一つ不都
合な事例をとりあげて全体を批判し排撃することができるからである。こういう方法によって、
自由主義は「悪い思想」「後れた思想」ということにされてしまったのである。 

 大正期に花開いた自由主義的な社会風潮が、急速に退潮することになった最初のきっかけ
は関東大震災である。大正十二年九月一日に突如として関東一円を襲った地震は、東京だけ
で十万人以上の焼死者を出した。大火災は三日まで消えることなく燃え続け、東京じゅうに死
骸が累々と積み重なり、地獄のような様相を呈した。 
 この惨禍は、自由恋愛や自由主義に対する天罰だという風潮が高まった。天罰 などという言
葉がリアリティーを持っていた時代である。自由を謳っていた白樺派の雑誌『白樺』が、この震
災を契機にして廃刊になったことは象徴的な現象である。 
 白樺派の有島武郎は、小説『或る女』を書いたが、これは良家の娘が船旅の途中で船員とス
キャンダルを起こした実話にもとづいている。それを書いた有島自身も、人妻と心中事件を起
こし世を騒がせた。「カチューシャ可愛や」という歌で一世を風靡した松代出身の舞台女優・松
井須磨子が、早大教授・島村抱月と不倫関係になって顰蹙をかった。 
 これらの現象が、大正自由主義を象徴するものと受けとられ、自由主義は、無責任で無規範
な自己主張であり「悪い思想」であると世間の人々から思われたのである。 

 自由主義陣営にとって決定的に不利だったことは、昭和初期に世界中を襲った経済恐慌で
ある。経済恐慌に陥ったのは、自由放任主義の資本主義経済のせいであり、自由主義のせい
であると考えられた。そのために、自由主義は、昭和維新・国家統制を唱える右翼と、資本主
義体制の打倒を唱える左翼の両翼から「時代後れの思想」であると批判され攻撃された。 

 清澤洌は、「自由主義批判講演会」に自由主義者の代表として招聘されたが、マルクス主義
者戸坂潤から揶揄され愚弄された。聴衆の大学生たちは、清澤に対する戸坂のシニカルな批
判に同調して冷笑を浴びせた。資本主義の陥穽を克服できる科学的な経済学であると自称し
ていたマルクス主義の方が、当時は人気が高かったのである。当時の自由主義というものは、
それぐらい人気がなかった。もっとも、その席で国粋主義者藤沢親雄が、自由主義はその源
が西欧のものであり、「国体の本義」に悖ると述べているが、さすがにこれには誰も拍手しなか
った。(「自由主義とその批判」『講演』東京講演会刊 二九五輯 紀元二五九五年) 

 このような時にもかかわらず、ようやく実質化してきた政党政治、議会政治は、その実をあげ
ることなく、政府の経済政策は、やることなすこと裏目に出た。大蔵大臣・井上準之助も高橋是
清も、恨みをかって暗殺された。政治家たちは、国家の課題は二の次で、自分たちの政権争
奪戦に血道をあげているような様相を呈しており、汚職事件も多発していた。 

 これらの状況により、自由主義の政党政治は駄目であると世間に受けとられ、軍部が政治
に乗り出す口実を与えた。軍事クーデター五・一五事件に対しては、庶民の同情や共感は犯
人側に寄せられ、殺害された犬養毅の遺族の方が却って非難の目を向けられた。庶民大衆
は軍のやることに対して喝采を送ったのである。 

 ドイツでは、世界一自由主義的だといわれたワイマール憲法の下で、世界一のインフレをま
ねき、失業者が街にあふれ、ワイマール体制は崩壊した。第一次大戦後の莫大な賠償金支払
いが、ドイツの経済破綻をもたらしたのであって、ワイマール憲法体制のせいではないにもか
かわらず、ドイツの自由主義陣営は面目を失い「自由主義は後れた思想」ということになってし
まった。 

 ヒトラーが政権を掌握できたのは、「国家社会主義」という名のナチズムによってこの問題が
解決できるかのような幻想を国民に抱かせたからである。日本は、そのヒトラーやイタリアのフ
ァシスト・ムッソリーニと三国同盟を結んだ。 

 当時の国民大衆は、国際連盟脱退と三国同盟締結をした松岡洋右を歓迎したし、大学を出
たての時に「英米中心の平和主義を排す」という論文を書いた近衛文麿が首相になった時は、
大いに期待し、大歓迎したのである。 

 清澤洌は、こういう時代状況の中で、自由主義が「悪い思想」「時代後れの思想」と誹謗され
ている時に、あえて、英米流の自由主義を掲げて評論活動をしていたのである。 


第2節「自由」の意味 
 自由主義が非難され排除された直接の理由は、前節で説明したような当時の社会情勢によ
るものではあったが、遠因を辿れば、そもそも「自由」という言葉自体が誤解を生みやすい言
葉だったということにもある。明治初期にミルの翻訳者が、liberty に「自由」という翻訳語を当
てはめたことが、誤解を生む元となったのである。 

@ 翻訳不可能なlibertyという概念 
 自分勝手な言動をする人に対して、「自由をはき違えている」などということがあるが、言葉の
正確な意味からすれば、その人はべつだん自由をはき違えているわけではない。「自由」とい
う日本語は、もともと「自分勝手」とか「勝手気儘」という意味だからである。はき違えているの
は、むしろ、自由を良い意味に受けとっている側なのだということになる。 

 柳父章は著書『翻訳語成立事情』で、有名な民俗学者・柳田国男の次のような思い出話を引
用して、「自由」という「悪い言葉」が翻訳語として使われたことの非を説明している。  

 私は五つか六つの頃に、丁度日本に「自由民権」といふ言葉が潮の如くに流れ込んで
来る時代に遭遇致しました。 
 私の家は村でありますが、或日一人の若い博徒が泥酔して私の家の門口に寝てしま
って動かぬ。それを立ち退かせようとして、いろいろな人が手を掛けて起こそうとします
と、その人が、「自由の権だ」と言って怒鳴ったことを記憶して居ります。 
 これが自由という言葉に対する私達の概念を頗る混乱させまして、何だか非常に厭な
困ったもののように感じ、久しい間、その時代の自由民権運動の首領でありました板垣
退助さんに対する反感のやうなものが抜け切らずに居りました。 

 柳田が、「自由」を「厭な、困った」悪いものであると感じたのは、柳田が悪いのでも板垣が悪
いのでもない。泥酔して他人に迷惑をかけた時なんぞに使えるはずもない、libertyという輝かし
い原語に、自由という「厭な、困った」日本語を当てはめたのは中村正直である。中村が翻訳
したJ・ミルのOn Liberty『自由之理』が広く読まれたこともあって、libertyについては自由という
翻訳語が定着したのである。(柳父章『翻訳語成立事情』p175〜191) 

 西周、福沢諭吉、加藤弘之らは、この翻訳語がきわめて不適当であることを指摘し、自らは
自主・自在・等々を用いていた。福沢は『西洋事情 二編』で次のように述べている。 

 洋書を翻訳するに臨み、或は妥当の訳字なくして訳者の困却すること常に少なから
ず。譬えば訳書中に往々自由(原語リベルチ)通義(原語ライト)の字を用ひたること多し
と雖ども、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず。就中、此篇の巻首には専ら自
由通義の議論を記したるものなれば、特に先づ此二字の義を注解して訳書を読む者の
便覧に供すること左の如し。 

 第一 「リベルチ」とは自由と云ふ義にて、自主、自専、自得、自若(落ちついているこ
と)、自主宰(自分で自分を支配すること)、任意、寛容、従容(ゆったりとおちついている
こと)等の字を用ひたれども、未だ原語の意義を尽すに足らず。
            (福沢諭吉『西洋事情』二編巻之一『福沢諭吉全集第一巻』p540) 


 右に列記した言葉の全てを合わせればlibertyという意味になる。つまり「 libertyの意味を一
語だけで的確に伝える日本語は無い」と福沢は言っているのである。それまでの日本社会に
は、libertyという概念も実体も無かったのだから当然のことである。 

 すると、日本では「自由」という言葉を使う側も受けとる側も、共にその意味についてはよく分
からないままに「自由」ということに賛成し、あるいは反対していたことになる。「自由」は、福沢
が列記した中では「任意」が近いのだろうが、元来が「勝手気まま」という意味なのだから、数
ある訳語の中でも一番悪い意味である。だから、泥酔した無頼の博徒でさえ、自己弁護と自己
主張のために自由という言葉を使えたのだ。libertyという言葉がもつ真の意味と、泥酔した博
徒の狼藉とは全く相反するにもかかわらずである。 

 自由主義に執拗につきまとう不信、誤解、曲解、排撃の思想状況は、漢字の「自由」という語
の本来の意味が、「勝手気まま」「ほしいまま」ということであったからだ、と武田清子は指摘し
ている。(武田清子『日本リベラリズムの稜線』p21) 

 近代日本の歩みの中で、この傾向は今日に至るまで続いてきている。日本では自由といえ
ば、いまだに、拘束や制約からの自由、すなわち「〜からの自由」という面ばかりが意識されて
いることは周知のとおりである。福沢諭吉が自主、自得、自主宰という言葉で言い表した面、
すなわち「〜への自由」という自主自立的な方向は忘れられているのである。 


A 中江兆民の自由観 
 福沢諭吉に限らず、明治の先覚者たちはこのことをよく理解していた。中でも、ルソーの翻訳
者で自由民権の理論的指導者だった中江兆民は、このことを強く意識し警告していた。自由は
天賦とはいうものの、それは「学びとらねばならぬもの」であるといい、次のように説いている。 

 人々には天賦の自由がある。自由はまことに天のたまものである。しかし、これを培養
しなければ、自由は自分で発達するものではない。世の中を秩序のないままにしてお
き、国を野蛮のままにしておくとすれば、道もなく教えもなくていいだろう。 
 しかし、世には秩序がすでにあり、国はもはや野蛮ではない。だから、身を修め、世間
に対処する道を考えなければならない。いろいろな工業や芸術をきわめなければならな
い。食べ放題で、暖かい着物を着、逃避して教えを受けない者は畜生である。(中略) 
 だから、父兄たる者は、子どもに干渉すべきであり、幼い時に勉強させるべきである。
父兄がこれを怠るときは、政府はすべからく父兄に干渉し、勉強をさせるべきである。自
由は天が与えてくれるものである。それなのに、父兄が教育を怠ってその子に自由を得
させないとすれば、これこそ、父兄がその子の自由を剥奪するものである。(中略) 
 教育の滋養を与えず、精神を餓死させても、まだそれが、むごいことを知らない者がい
る。不思議なことではないか。(中略)教育の飢え死を救うのは社会の義務である。(中江
兆民「干渉教育」『日本の名著36 中江兆民』p75 飛鳥井雅道による口語体訳) 

  このように、中江兆民がフランス語の「リベルテ」の真意義を正確に把握できたのは、彼に
は、土佐で身につけた陽明学の素養があったからだといわれている。陽明学では、天が与え
た「良知」(良心)の命に従うことが王学である。これは今ふうにいえば、倫理的自己抑制、自
律ということであり、修養を要することなのである。兆民は「自由」をそのように把握した。 


B ミル『自由論』の誤訳 
 兆民に限らず、西周、福沢諭吉、小野梓らの明治期の先賢たちは、libertyの意味をほぼ的
確に理解していた。例えば、福沢諭吉は、『学問のすすめ』八編で、「唯自由自在とのみ唱へて
分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従
ひ、他人の妨を為さずして、我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨
を為すと為さざるとの間にあり」と述べている。すなわち、彼のいう分限とは、自分の言行に責
任を持てるresponsible forということであり、「天の道理」(law of nature)をわきまえているという
ことなのである。 
 明治の先賢たちの、自由に対するこのような的確な理解が、その後の日本ではあまり敷衍
せずに、拘束からの自由という外的な理解にとどまってきたのはなぜなのか。 

 自由民権運動家・河野広中が、中村訳によるミルの『自由之理』を馬にまたがったまま読ん
だだけで、分かったと言ったという有名な話がある。だからといって、河野が格別にすぐれてい
たというわけではない。この翻訳書が、自由民権運動家たちに都合のよいように過度に単純
化されたものだったからにすぎない。ミルの『自由論』を最初に翻訳した中村正直は、libertyを
自由と訳しただけでなく、society(社会)を、あろうことか「政府」と訳したのである。 

 当時の日本には、藩、村、社中等々はあったが、個人と個人が集まって作る「社会」という概
念はなかった。市民社会というような場合の社会は、藩や村や社中とは意味が違う。訳しよう
がなかったから、福沢諭吉は、原文の意味を充分にわきまえたうえで、次のように苦労して日
本語の文章としての脈絡を大切にした意訳をしている。 

福沢諭吉訳 人間交際の途を全うせんには、懶惰を制して之を止めざる可らず。或は之を罰 
        するも亦仁の術と云ふ可し。 
現代的直訳 社会は、人道的な手段でなら、怠け者を抑え、罰する権限を与えられている。 

 福沢の努力に比べれば、中村が単に「政府」と訳したことは、努力不足の誤訳、あるいは、
政治的意図をもって翻訳したのだということになる。ミルにとっては、libertyに対立する最大の
ものはsocietyであった。彼は、社会の多数世論による横暴(tyranny of majority)を抑制して少
数者の自由を保護すべきであると説いているのである。ミルがこうした意味で書いたsociety
を、中村正直は「政府」と訳したのだ。(柳父・前掲書p3〜14) 

 社会の慣習や世論の専制に対して、個人の個別性や多様性を主張したミルの文章中の
societyを政府と訳したのでは、元来の「市民社会と個人の対立」という意味が「政府と個人の
対立」という図式にすり替わってしまう。しかも、ミルの説いた英雄崇拝否定論は削除されてい
る。 

 社会を政府と訳し、英雄崇拝否定論を削除したこの翻訳書は、志士的な自由民権運動家た
ちにとってはぴったりである。この翻訳書は自由民権運動、明治専制勢力に対する闘争の聖
典となった。自律を説き、抑制の必要を説いた哲学的・人間学的に深い意味をもつミルの「自
由」が、日本では単なる政略的なスローガンになってしまったのである。 

 その時以来、日本の一般人には、ミルの「自由」は、あたかも、拘束や抑制からの自由、反
体制のための自由であるかのように誤解されてきたが、ミルの説いていることは、いささか違
う。ミルの自由観とは次のようなものである。 

 アダム・スミスやベンサムは、人間を、利己心で動く衝動の動物でしかないとみなしている
が、ミルによれば、人間は自己規制力(self directing power of personality)という理性を持つ存
在 である。人間は自律性をもっているというのである。 
 人間の理性は、一律一様のものではなくそれぞれの個性があり、多様性がある。 
自由は、ベンサムによれば、最大多数の最大幸福のための必要条件であり、手段でしかない
が、ミルによれば、自由はそれ自体に固有の価値があり、目的であり、人格の要素である。 
 ミル以前においては、自由に対する社会や国家の干渉が許される領域は極めて限られてい
たが、ミルは、人格の成長を図るためには自由を制約せねばならぬこともあるという。自由を
放棄したり、「腐った橋を渡ろうとする者」は強制的に制止すべきだというのである。 
 従来の自由主義は、国家機関を通じて行われる政治的、行政的な干渉を排するにとどまっ
たが、ミルは、多数世論による暴威から少数者を保護すべく、多数者の暴威を抑制すべきで
あると説いている。


C 清澤洌の自由観 ―自律― 
 清澤洌は、自我の芽生える少年時代を片田舎の私塾・研成義塾で純粋培養のようにして育
った。彼は、義塾の井口喜源治から、きわめて儒教的色彩の強い武士道的キリスト教を教え
られた。 
 彼は内村鑑三を敬慕し、渡米前には挨拶にたち寄って指導を受けてもいる。内村が、研成
義塾の井口喜源治を支援し、何回も来訪して講演をしてくれたからである。在米中も内村に対
する敬慕の念は変わらなかった。その内村は「自由の尊厳」を力説し、「自由とは気儘勝手を
行ふの意にあらず、自由は自ら己を治るの意なり」と教えていた人である。
                                   (『内村鑑三著作集』第五巻p322) 

 このような素養を持っていた清澤にとっては、「自由」というものが「自律」のことだというの
は、いうまでもなく当然のことであった。清澤と周りとの間に終始つきまとったズレは、自由とい
う言葉の持つ根本的なイメージの違いに起因しているといってもよいであろう。 

 研成義塾を卒業後の清澤は直ちに渡米した。彼は、十七歳から二十八歳までの思想形成期
をアメリカで過ごし、ハイスクールや大学でliberalismの精神を学んだ。また、民主主義政治体
制という「開かれた社会」のもとでの「自律した個人」「自由な市民」の姿をつぶさに見聞し体験
することをとおして、彼は、自由主義を現実の生活信条として体得することができたのである。 

 彼は労働移民としてアメリカで線路工夫をやっていた時の経験談を例にして、アメリカ人の自
律心について親戚の笠原貞行氏に語っている。 

「アメリカの線路工夫は、時間までに現場に着いて着替え、誰が見ていなくても契約した
時間分はしっかり働く。それにひきかえ、日本人の工夫たちは、監督が見ていなければ
できるだけさぼろうとする。このひと事でもわかるように、日本人はアメリカ人にかなわな
い。この戦争は日本が負けるにきまっている。」(笠原貞行氏談) 

 当時、日本人はアメリカの経済力や国土の広さ、資源の豊かさは知っていたが、アメリカ人
の精神は浅薄な拝金主義だなどと思っていた。個人主義の国だから戦争になればすぐに降参
するなどと勘違いしていたのである。清澤はアメリカの経済力もさることながら、アメリカ国民の
勤勉で真面目な精神に目を向け、当時の他律的な日本人とは違う、自律的な人間のありよう
を笠原青年に説いたのである。 

 アメリカ的なものの見方・考え方・生き方を思想として整理した哲学者デューイは、『経験と教
育』その他の著書で、人間の自由について次のように説明している。 

 人々は、自由を単なる外的なものであると誤解しやすいが、外的自由は、内的自由を
達成するための手段であって目的ではない。 
 ほんとうの自由とは、自ら価値ある目標をたてて、それを達成するために自主的に観
察や判断をするという内心の自由、知性の自由である。 
 知性は、目的達成のために自然的衝動や願望の一時的抑制もする。したがって、自
制は自由と表裏一体のものである。すなわち、自由とは自律のことである。 

デューイのこの自由観、自律的人間観は、そのまま清澤の自由観であり人間観であるといって
もよいであろう。 


第3節 自由主義経済体制の問題 

@ 自由放任経済体制の行きづまり ―スミスの「見えざる手」― 
 周知のように、十九世紀のイギリスは自由主義の勝利の時代であった。産業革命の成果が
花開き、資本主義経済が発展した。この時代を自由放任(レッセ・フェール)の資本主義時代と
いう。 

 スミス(Adam Smith 1723〜1790)は、各人の利己心にもとづく自由な経済活動が、全体として
は公共の繁栄と調和を生むと主張した。市場は自己調整の機能をもっており、「神の見えざる
手」ともいうべきものが働いているのだから、政府は何も手を出さない「小さな政府」であること
が望ましいというのである。 

 すべての人間は自己の快楽を目的として働き、それが最大多数の最大幸福をもたらすという
ベンサム流の功利説、貧困は人口増加の自然の結果であるからと救貧政策に反対のマルサ
ス人口論、生物界の生存競争における適者生存・敗者淘汰というダーウインの進化論の人間
社会版を唱えたスペンサーの社会進化論、等々はスミスの「見えざる手」の思想を正当化する
ものであった。 

 しかしながら、現実の社会は、生存競争の勝者には「富の集中」、敗者は「忘れられた人々」
という事態を招いた。勝者たちの行き過ぎた経済活動や、敗者たちの悲惨な生活実態が何ら
問題にされることなく、階級間の対立や労使紛争の解決は先延ばしにされた。二十世紀が「戦
争と革命の時代」だったのは、十九世紀から先延ばしにされてきたこの問題が一挙に火を噴
いたからである。 


A 自由主義経済体制の修正 ―新自由主義の「見える手」―  
 自由放任の資本主義体制が生んだ労働者階級の貧困生活の惨状を目のあたりにしたマル
クスは、ロンドンの図書館へ通いつめて『資本論』を書いた。彼が資本主義の行き詰まりと革
命を説いたことはあまりにも有名であるが、同じ動機ながら、マルクスのような革命という手段
によってではなく、資本主義体制を改善することで解決しようと考えた者たちが同じイギリスに
いた。 

 二十世紀初頭のホブソン(J.A.Hobson1858〜1940)やホブハウス(L.T.Hobhouse 1864〜1929)
は、自由放任の資本主義経済体制のもとでの無制約な自由競争の結果「持てる者」と「持たざ
る者」とに分かれたことの解決を考えた。 

 一九一一年にホブハウスが著したLiberalism『自由主義』は、新自由主義の記念碑的な著作
である。彼は、個々の人間の自由はもとより大切であるが、自由を実質的に実現させるために
は、国家による合理的・倫理的な判断にもとづいた調整が必要であると説いたのである。 

 社会は自由放任や競争原理だけで維持できるものではないし、進化するものでもない。健全
な社会を成り立たせるためには、もはや、野放図な自由競争を放任したり、弱者や敗者を無
視する淘汰の原理は障害物である。「神の見えざる手」が及ばぬ階層への公平な分配として
の年金、失業保険、健康保険等々を整備するなど、政府の具体的な施策「見える手」を通して
社会の公平や公正を実現し維持しなければならない。国家には、勤勉な国民が自分の生活を
健全に維持できるだけの条件を整える義務があるというのである。 

 「個人の人格や権利の実現はこうした健全な共同体(社会)においてのみ可能なのであり、こ
うした社会によってのみ、人間は生きるに値するものとなれる」とホブハウスはいうのである。
かつて、「ゆりかごから墓場まで」と喧伝されたイギリスの福祉政策は、この新自由主義思想の
しからしむるところであり、現在の労働党にその思想は生きている。 

 この新自由主義は、経済的自由主義が生む弊害を国家的政策で解決する点では社会主義
的色彩を帯びてはいるというものの、基本的には、個人の政治的・社会的自由を保障する自
由主義である。 

 従来、政治思想史の上では、自由放任の自由主義から国家介入主義への転換にあたって
転轍機の役割を果たしたのはグリーンの理想主義や、フェビアン社会主義であるとされてきて
いるが、実際は新自由主義こそが福祉国家の思想的源流なのである。(高橋哲雄「ホブソン再
評価のために」『ホブソン自伝』p206)  

  清澤洌の著作の随所にみられる「自分は社会主義者である」(例えば『激動期に生く』p18)と
いう表現で意味しているのは、この「新自由主義」の社会主義的な側面のことである。清澤の
いう社会主義とは、生産と分配の全てを統制する純正な意味での社会主義のことではなく、野
放図な自由競争を抑制し、年金や福祉制度の整備など弱者への具体的な施策をする新自由
主義のことなのである。 

 イギリス自由党が選挙で敗北した際に、詳しい事情を知らぬ日本で、自由主義の凋落である
かのような議論がなされたことがある。この時、清澤は、イギリスでは、自由党も保守党も労働
党もみな自由主義であることを説明し、ホブソンの名も挙げて新自由主義について解説してい
る。(「社会主義と新自由主義」『転換期の日本』p304〜316)イギリス労働党に対する清澤の深
い思い入れは、新自由主義に対する思い入れでもある。(例えば『時代・生活・思想』p21) ちな
みにイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、貴族出身の自由主義者で、かつ労働党員だ
った。 

 清澤が、この新自由主義に関する説明不十分なままに、社会主義という言葉をしばしば使っ
たことが、彼に対するいらざる誤解を生んだ一因ともなったことは否定できない。戦前の日本
では、社会主義がいけないとなったら、『昆虫の社会』という生物学の本まで発禁処分を受けた
ほどの愚劣なことがまかり通っていたのだから・・・。 

 清澤の思想的盟友石橋湛山は、新自由主義をいみじくも「個人主義と社会主義との統合」だ
といっている。(『東洋時論』大正四年三月二五日号、『石橋湛山全集』第二巻p476) 

 石橋湛山は自らの立場をホブハウスのnew liberalismに倣って「新自由主義」であると規定し
ていた。(『石橋湛山全集』第二巻第四部) 彼は、自分でイギリス新自由主義の思想家・ホブ
ハウスのLiberalism(『自由主義』1911)を入手し、アンダーラインを引きノートを書いて丹念に
読んでいた。(宮本盛太郎「東洋経済新報社とイギリス新自由主義」『日本人のイギリス観』
p72) 

 ホブソンやホブハウスの存在を石橋に教えたのは、石橋の雑誌『東洋時論』で論壇にデビュ
ーし活躍した植原悦二郎であろう。ロンドン大学で政治学博士の学位を取得して帰朝した植原
は、明治大学で学生にホブソンやホブハウスを購読させている。(本書p229) 


第4節 清澤洌の「ものの見方と考え方」 
 自由を標榜する者たちが大勢集まれば良い社会ができるというものでもない。自分の自由と
他人の自由の利益は相反するからである。だから、自分の自由を享受するためには、他人か
らそれを冒されないという保証がいる。このことは、自分も他人の自由を冒してはならないとい
うことを意味する。つまり、自由主義を維持するためには、各自にそれなりの道義的な責任を
果たしてもらわねばならない。 

 清澤は、それを「心構へ」「生活態度」としての自由主義といい、「何故に自由主義であるの
か」(『現代日本論』昭和十年)、「時代と生活」(『時代・生活・思想』昭和十一年)その他の評論
で、この心構えについて根気よく説いている。そこで述べていることや、彼の著作全編を貫いて
いる清澤の「ものの見方・考え方」を整理すると、次のようになる。 


@醒めた判断 ―非イデオロギー― 
  清澤の論説にみられる特徴の第一は、感覚的、心情的な判断を排して、醒めた判断をして
いることである。いっさいの非合理的な信念や願望的思考を排する清澤の立場からすれば、
軍や右翼の唱える昭和維新は、科学的根拠のない願望的思考であり、「この戦争はきっと勝
つ」という信念は、非合理的な狂信にすぎない。清澤は左右両派のイデオロギー的思考を嫌
い、「右翼と左翼は同じ」だとまで明言している。(「左翼は右翼と同じ」『現代日本論』p11〜14) 

 「世に謂ふ国家主義乃至は愛国主義といふものは、根本において感情を土台にして居
ります。如何なる場合にも自国の行為が絶対善であるのですから、それは冷静なる合理
と理論を超越しなければ、その立場が維持できるものではありません。少し極端にいへ
ば、この人々には理屈はありません。」(清澤洌『現代日本論』p306) 

 「いずれにしても、私どもからみれば極右と極左は同じものなのです。その相異は左翼
がその主義を明らかにするのに弁証法論理を有してゐるのに、他方は歴史的感情を武
器にしている点が異なるだけです。」(『現代日本論』p13) 

 イデオロギーというものは、それを信奉し酩酊できる人にとっては意味があるかもしれない
が、酩酊できない醒めた体質の人にとっては虚構でしかない。世の中には、イデオロギーに酩
酊できる人の方が少ない。酩酊者たちはその希少性によって自分を優れた者だと錯覚する。
そして酩酊できない体質の者を侮蔑し、恫喝し、弾圧し、最終的には翼賛体制を作るのであ
る。 

 清澤は左右両方のイデオローグたちから批判された。持ち前の資質と長い間の海外生活の
経験によって、醒めた判断力と国際的な視野を持っていた清澤洌は、酩酊できない人間だっ
たからである。 

 醒めた現実認識と合理的な戦略判断というものが著しく欠けていた時代に、清澤はその非を
指摘し、合理的な判断の仕方を説いていたのである。彼は自分の娘への語りかけという形にし
て次のように述べている。 

 「お前は一生の事業として真理と道理の味方になってくれ。道理と感情が衝突した場合
には、躊躇なく道理につくことの気持ちを養ってくれ。これは個人の場合もさうだし、国家
の場合でもさうだ。・・・・・・・・お前は世の中を救うの何のといふ夢のやうな考へを持たな
いでいゝ。一生、道理のあるところに従った―さういふ確信を持ったやうになれば、それ
でお前へのお父さんの願ひは足りるのだ。」(「序に代へて」『非常日本への直言』p9) 


Aイギリス自由主義の哲学 ―科学的合理主義― 

 民主主義を哲学的に基礎づけるには二つの方法がある。 

 一つは、いくつもの異なる価値観が相対立するとき、その「どれが正しいかを論証することは
できない」という価値相対主義にたつ立場である。ヨーロッパ大陸の新カント派系列の学者が
力説したことである。これは、悪くすると「人それぞれだ」ということになりかねない。 

 他の一つは、イギリス経験主義哲学の認識論によるものである。経験主義の認識論とは、い
わば自然科学の方法のことだと思えばよい。現実に関する我々の知識は経験的事実によって
テストされねばならず、理論が現実に合わない場合は理論の方が修正されねばならないと判
断する。 

 清澤洌は明らかに後者のイギリス経験論の立場である。彼は、イギリス自由主義の象徴的
思想家ともいうべきバートランド・ラッセルに共感と敬意を抱いて、その著作をじつに丹念に読
み、その思想を自家薬籠中のものとしていた。単なる親米家、親英派というのではなく、思考
の枠組みそのものまで、ラッセルに倣った自由主義者で、清澤洌のキー・コンセプトは、ラッセ
ル流の科学的合理主義だったといってもよい。このことは、次のような清澤の主張が、後述の
ラッセルの主張と酷似していることを確認することによって納得できるであろう。 

マルクス主義者はマルクスに些少の間違ひあることも認めませんが、自由主義者とは、
マルクスにも多少の間違ったところもありはしないかと疑う人のことです。また、右翼主
義者は自分の国家が誤謬をおかすことがありとは絶対に考へられませんが、自由主義
者とは、自国も、人間が運転してゐる以上は、時には間違った間違ったこともやるので
はないかと考へてみる者のことです。 
 一つのものを絶対に正しいと信ずる時に、そこに進歩はありません。発明と改良は、物
心両方面ともに、これに欠点がありうることを認めて、完成せんとする努力からきます。
                                       (『現代日本論』p22) 

一方、ラッセルは『政治と哲学』という講演で大略次のように述べている。 

 自由主義とは、「自分も生き、他人も生かす」という信条であり、公の秩序を乱さぬ範囲
での寛容と自由の信条である。政治上の綱領に独断と狂信を盛ってはならないという信
条である。 
 自由主義のものの考え方の核心は、「見解の内容」にあるのではなく、「主張の仕方」
にある。自由主義者は「これが絶対に真理だ」とは言わない。「現状ではこの見解が最
善だと思う」という姿勢でものを言う。自分の見解が、新しい証拠によってくつがえされる
可能性があることを承知しているのである。科学的合理的な自由主義者ならば、自分の
考えが間違っている可能性があることをわきまえて、自分の見解を、独断的dogmaticに
ではなく試行的tentativeな立場で主張せねばならない。(碧海純一『ラッセル』p152) 

 ある見解が正しいかどうかは、事実に基づく冷静な分析と検討によって合理的に判断される
筈である。清澤は、「私の持つ思考力の傾向は、論理の追究に心が引かれるよりも、寧ろ事実
の教訓に胸を打たれるのである」といいながら、スペイン内乱を例にして次のように説明す
る。 

 その目前の例がスペインの内乱だ。そこでは今、左翼と右翼が血みどろの争闘をして
ゐる。その惨虐なる光景は目を蔽ふにたるものがある。この場合、左翼の立場を解剖し
てその正しさをいふものがあらうし、あるひはまた右翼を弁護するものもあらう。確か室
伏高信君だったと思ふが、世界の人はこの争闘に対して何れかに加担すべく、そしてそ
れは中立を許さないといふ意味のことをいってゐた。(読売新聞) 
 しかし私はその何れに対しても加担する気持ちが起らない。(中略)目指す究極の理想
が、かうした方法によってどうして実現できるのか。それは、理想でも主義でもなしに、大
なる殺人団の衝突であるにすぎぬ。私は動機がよければ、手段は正当化されると考える
ファシスト的イデオロギーに対しては、早くより対立してゐるのである。 
 仮に左翼が勝つとする。これだけ大仕掛けの右翼の襲撃に対しては、必ずこれに備へ
てその相手に大弾圧を加へなくてはなるまい。右翼主義者の殲滅をも含むであらう。そう
してもなほ右翼の蠢動は免れまいから、總ゆる検察的、スパイ的行動をなすであらう。
かうなると、左翼の理想がどんなに高くても、これを実行することは相当期間は絶対に不
可能だ。極めて好都合の機会をとらへて天下を握ったロシアの共産党が今なお弾圧期
から脱せぬのがこれを例証する。 

  また仮に右翼が勝つとする。その結果・・(中略)・・・・・。 
 左右両翼の抗争は、二つの場合以外は永遠に継続するだらう。二つの場合とは、反対
派を屏息せしめつくすか、悉く殺しつくすことである。・・(中略)・・かうなれば、右翼も左翼
もあるものではない。文明か野蛮かの問題である。思想の問題ではなくて、破壊か死滅
かの問題だ。 

 左翼にも、また右翼にも傾聴すべき論理のあることを毫末も疑はない。だが、その何
れが正しいと認めるにしたところで、その理想がかうした犠牲を伴はねばならぬとするな
らば、文明国民がいだくに値しない。 
 また、この衝突は不可避だと説くならば、それは明らかに嘘である。スペインよりももっ
と高度の資本主義の国で同じことが繰り返されたわけではなく、また同じ程度の国に同
じ混乱があるといふわけではない。(清澤洌『時代・生活・思想』p11〜13) 

 このように、自分の主張が正しいかどうかは、事実に基づく言論の生存競争の場にさらして
みなければ分からない。 

 「思想を自由市場に引き出せ。そこで勝てないものは存在理由のないものなのだ。」  
                                  (『非常日本への直言』p331) 

 したがって、言論の生存競争の機会を奪う言論の抑圧や統制は、健全な自由主義の発展を
阻害する。「言論の自由」は「言論の自由」自体のためではなく、自由主義の発展のために必
要なのである。清澤が言論の自由を力説したのはこのためである。 


B多元主義 pluralism 
 清澤の自由主義を、価値の多様性を受容する中庸主義であるということがあるが、これは誤
解を招きやすい表現というべきであろう。 

 価値の多様性をそのまま認めれば「人それぞれ」で、どちらが正しいのかという判断はできな
い。価値観の争いは「神と神、信者と信者の争い」で論争はもの分かれに終わるか、「どちらで
もよい」ことになってしまう。清澤は無政府主義者大杉栄と、彼を殺害した国粋主義者甘粕大
尉の双方を、価値観が違うからと認めているわけではないし、双方の中間を採っているわけで
もない。双方とも間違っているということを論証しているのである
                          (「甘粕と大杉の対話」『自由日本を漁る』p267)。 

 つまり、清澤のいう多元主義とは、価値が相対的だから双方の主張のどちらが正しいか決め
られないとか、双方とも正しいとかいうことではないのである。 

 清澤が価値の多様性を受容するというのはpluralismのことである。pluralism の元々の意味
はracism(人種差別主義)の反対概念で、多様な人種が併存することをいう。つまり、白人も黒
人も黄色人種もみな「併存する価値がある」「寛容に平和的共存をすべきである」という人生観
上の価値多元主義なのであって、論理の問題、言説の正否の問題とは無関係である。 

 この思想を国家関係にまで敷衍すれば、次のような清澤の見識となる。 

 「単に日本に与えられたる領土が少なく、その人口比率が多いといふならば、同じやう
な国が他にもある。日本だけが生きえて、他の国家はその犠牲になってもいゝといふ議
論はなりたゝない。日本に生命線がある以上は、中華民国にもあるだらう。民国人が何
故に日本人の発展のために犠牲にならなければならないのか・・・・。」
                                 (『時代・生活・思想』p275,276) 

 「ロシアが帝国主義的野心を以て満蒙に勢力を張ったことに対して感謝しなかった支
那及び列強が、それがたまたま日本に移ったからとて、これに感謝する理由はない。」 
                                    (『自由日本を漁る』p464) 

 また、清澤のいう中庸とは、双方の中を採るという意味ではない。高邁な目的のためと
称していかなる手段をも正当化するマルクス主義や国粋主義のような極端な方法では
なく、無理のない漸進的な改善を進める方法を採ることを意味しているのである。『現代
日本論』p23参照 

C知的な誠実さ intellectual integrity 
 ところで、言論の自由競争を成り立たせるためには、言説の内容が明晰でなければならな
い。清澤の文章がきわめて易しいのは、「思想が無い」からでも「程度が低い」からでもない。
彼は、自分の見解と相手の見解を明確に述べ、両者をフェアに噛み合わせることによって妥
当な結論を引き出そうという努力をしているのである。言説を明晰にして知的に誠実でなけれ
ばならないという、知識人としての義務を明確に意識して書いているのだ。 

 例えばの話、「明日の天気は晴れ又は曇り、場合によっては雨」という曖昧模糊とした言い方
は、全ての場合にあてはまるので、結果がどうなろうとも、「自分の見解は正しかった」というこ
とができる。そのような言い逃れができるだけでなく、同じ手法で相手を攻撃することもでき
る。 

 だがしかし、これは占師の手法というものである。ゲームに参加するにはゲームのルールに
従ってもらわねばならない。占いや呪文は言論の生存競争のゲームに参加する資格がない。
イギリス・アメリカの知識階級にとっては、曖昧模糊とした表現は、「知的な誠実さ」intellectual 
integrityの欠如を意味する。文章が明晰であることは知的な誠実さを示す基本的な条件なの
である。 

 このような清澤の姿勢に対して、例えばマルクス主義者向坂逸郎は、「清澤氏の書く理屈は
粗雑で我慢ができないところがある。内心自由主義の欠陥を知っていて、これを救ふために、
理屈をイギリス辺から借りてくる」と述べ、いつまでも時代後れの自由主義にしがみついている
人物であると批判した。(北岡・前掲書p128)
同じくマルクス主義者の戸坂潤も、同様な批判をしていたことはすでに説明した。(本書p138,
139) 

 ところで、マルクス哲学の基盤にヘーゲル哲学があることは常識であるが、そのヘーゲル哲
学を、ラッセルは「たわごと」であると断言している。哲学専門家にとって、ラッセルは社会思想
家としてよりは、『プリンキピア・マテマティカ』(数学原理)などの論文によって、数学や論理学
の分野で革命的な貢献を果たした学者として有名である。そのラッセルからみれば、ヘーゲル
が数学や物理学について述べていることは、たわごと(muddleheaded nonsense)でしかない 
し、論理は混乱している。(ラッセル『西洋哲学史』下p206〜221) 

 ラッセルは、「マルクスの哲学の中でヘーゲルに由来する部分は全て非科学的である。それ
を真であると信ずべき理由が全くない」(前掲書p264)とマルクス哲学を批判している。また、革
命直後のロシアを現地で実際に観察したラッセルは、強い不信と危惧の念を示している(ラッ
セル『ロシア共産主義』)。
 哲学史上の事実や、現実認識からみれば、後れていたのはむしろ戸坂や向坂の方で、ラッ
セルの徒・清澤の方ではなかったのである。 


D漸進的な手法 piecemeal method 
 ものごとを判断し計画し実行するあたっては、全く相反する二つの道筋がある。一つは、壮大
な体系を先に作ってから、具体的な各個の問題をいっぺんに解決しようとする方向であり、もう
一つは、問題ごとに解決法を見いだして順次に解決していく方法である。前者の長所は、原理
原則がいつも確固としていることであり、後者の長所は、現実問題への柔軟な対応がしやすい
ことである。 

  一般的に、専制社会では前者の方法がとられ、民主社会では後者の手法がとられる。人間
社会が対象の社会施策は「やってみなければ分からない」ことが多い。社会施策上の長期に
わたる大規模な計画をたてて実行すれば、その計画が誤りであった場合の国民の被害や悲
惨は甚大である。ましてや、そこに非合理的信仰や願望的思考が混在していたのでは、国民
の災禍はとどまることがない。 

 したがって、現実を冷静にみすえながら一歩一歩慎重に対処していく漸進的(gradual)な方法
を採るべきだというのが、民主主義社会におけるいわば常識である。清澤が、日本の全体主
義国家観による国家統制に反対し、また、ナチズムやマルクス主義を批判していたのは、この
精神に基づいてのことなのである。 
(これについては、本ホームページ掲載の、ポパー哲学への手引き・V章を参照されたい。)

 「自由主義者は現状維持論者であるどころか、常に現状打破論者である。自由主義者
が、たまたま現状維持派に見える所以のものは、急激なる変化を好まないからである。
明らかなことは、進歩せんがためには常に生物学的な漸進主義をとらねばならぬ。」
                                     (『時代・生活・思想』p22) 

「自由主義者はマルキストに反対します。現在有してゐる文化的特権は放すまいとする
自由主義者が、結果の明らかでない冒険に突入しようとするマルキシズムに反対するの
は申すまでもありません。自由主義者は、汽車が走っている間に停車場を改造しやうと
する主義で、停車場を改造するために、汽車の運転をとめることに反対なのです。」(『現
代日本論』p21) 

「その政権に反対する者が極刑に処せられるのはソヴェトだけではない。・・・大きな目的
に達するための過渡期にすぎないと、ヒトラーもいふにちがひないのです。 
 しかし私どもは、非常な高い犠牲を払って到達するのが理想郷だとは考へません。私
どもの立場は、そうした過渡期を造ることに反対するのです。かりに大きな目的を達する
ために、そうした過渡期の必要がありとしましょうか。聞きたいのは、その過渡期はいつ
終わって、その意図する社会が出現するものでせうか。」(『現代日本論』p18) 

 対象への科学的合理的なアプローチは、問題ごとに漸進的な解決をしてゆく自然科学のよう
な方法を採る。ラッセルの系譜上にあるイギリス経験論の哲学者K・ポパーは、戦後に発刊さ
れた名著『歴史主義の貧困』で、マルクスやヒトラーの社会政策の弊害を指摘し、漸進的な社
会科学の方法(piecemeal method)の利点について詳細に論じているが、清澤はすでに戦前
から日本でそれを述べていたのである。 


E「心構え」「生活態度」としての自由主義 ―「開かれた精神」― 
清澤は、自分の幼い子どもに諭すという形をかりて、国民の中国蔑視と敵視の非を説いてい
る。 

・・・お前の今朝の質問が私を驚かした。(中略)お前のいふことを聞いて、お父さんは思
はず憂鬱になった。「この空気と教育の中に、真白なお前の頭脳を突き出さねばならん
のか。」 
 お父さんは、お前の教育について始めて真剣に考へたよ。それと同時に、思はずバー
トランド・ラッセルのことを想ひ出したんだ。かれの教育に関する著書の中に、かれの息
子が教育期に達して、その教育問題に直面するやうになってから、始めて真剣に教育の
ことを考へ、その思索の結果がその著だといふ意味のことを書いてあった。そしてその
後、かれは夫人と共に少年のための学校を経営するやうになった筈だ。・・・・
                (「序に代へて―わが児に與ふ―」『非常日本への直言』p3) 

 なお、この文は、橋川文三編の『暗黒日記』評論社版・ちくま学芸文庫版の序言としても再掲
されている。) 

 「今朝、今更ながら人間をひとへに敵と味方に分ける現代の教育に、お前を託さねばな
らぬことに云ひ知れぬ不安を覚えたのだ。・・・(中略)・・・ 
お前はまだ子供だから分からないけれども、お前が大きくなっても、人種が違ったり、国
家が違うからといって、それで善悪可否の絶対標準を決めないやうにしてくれ。」(前掲
書p4) 
 「現代の教育にお前を託するには、お父さんには相当に不安がある。それが少し心配
だが、しかし去らばとてラッセルを真似て学校を建てるだけの甲斐性はあるまい。この現
在の空気の下で出来るだけお前を、道理を把持して動かない人間に導いて行くの外は
ない。」(前掲書p10) 

 自由主義者ラッセルは、イギリスの公教育に懸念をいだき、理想の教育をすべく、妻ドーラと
共にビーコン・ヒル学校という私立学校を創設し経営した。ラッセルの教育理念は彼の著『教
育論』(1926)及び『教育と社会体制』(1932)に詳しく述べられている。 

 人間の持つ理知を正しく使用することを知性とよび、この知性を育てることが真の教育である
とラッセルは考えた。『教育と社会体制』で、ラッセルは次のように主張している。 

 教育の目的は、すばらしい個人を生むことである。その個人とは、新しい発見のできる
知性をもち、深い人間的な感情をもち、意志をもって自己を発揮できる力を持った人の
ことである。このような個人は、保守的な教育によって盲目的に協力することだけを教え
られた人とはまったく違う。 
 「政府が考える市民とは、国の現状を尊敬し、その維持に身を捧げるものである」。 
 「一人の人間を殺せば犯罪者として取締りの対象になるが、外国兵士を幾人も殺せば
英雄と呼ばれるのは理不尽というものである。」 
 「そのような国家主義教育の憎しみの教育、それ自体が悪いものである。」 
 「子どもたちは自分の国が最良のものだと教えられる。しかしこの命題はすべて虚偽で
ある。」 
 「国家主義教育は、どうしても偽りを教える。純粋に知的な側面からみて問題である。」 

 ラッセルのこの見解と「わが児に與ふ」(1933)がじつによく似ていることがわかるであ
ろう。当然のことながら、清澤は右の『教育と社会体制』(1932)も読んでいたことであろう
が、清澤がラッセルの思想を自家薬籠中のものとしていたことを示す一例である。その
稿で清澤は次のようにも述べている。 

「・・・・お前にたゞ一つの希望がある。それはお前が対手の立場に対して寛大であらうこ
とだ。そして一つの学理なり、思想なりを手に入れる場合に、決して頭から断定してしま
はない心構へを持つことだ。」(同右序文p7) 

 「一つの学理なり思想なりを手に入れる場合に、決して頭から断定してしまはない心構え」と
いうのは、清澤が主張していた「心構えとしての自由主義」の核心ともいうべき事柄であるが、
本節Aで説明したラッセルの「科学的な態度」と全く同じことである。その心構え・生活態度を
国民大衆のものにしたいというのが清澤の願いであった。 

「社会の革新の原理を、著者は機構や対外的発展を基礎とせずして、個人の生活の態
度としたことは、この著の最初に述べたとおりである。著者の任務は、私が正しいと考へ
る生活態度を大衆に植えつけ、揺り動かすことにありと自ら考へている。」(『時代・生活・
思想』p468) 

 ここで清澤が述べている「正しいと考える生活態度」とは、今日よく言われるところの「開かれ
た姿勢」open mindのことである。第二次大戦後にイギリスの哲学者カール・ポパーは、全体主
義的な社会思想がもたらす惨禍を『開かれた社会の敵』という名著に著し、戦後のヨーロッパ
思想界で多くの読者を得た。ポパーが批判的考察の対象にしたものは、スターリンのソヴィエト
やナチス・ドイツのような独断的で非合理的な「閉じた精神」closed mindである。それに対して 
ポパーが提唱したものは、相互批判を許す「科学的態度」「開かれた精神」open mindである。 

 ポパーの社会哲学はラッセルのそれとほぼ同じであるが、ラッセルの徒、清澤洌は戦前の
日本において、それと同じ論理でマルクス主義と国粋主義を批判していたのである。歴史に「も
し」はないとはいうものの、もし清澤が戦後にも生きていたならば戦争日記を底本にして書いた
であろうはずの『現代史』は、そのまま、『日本版・開かれた社会の敵』という名著になったこと
であろう。 

 ドイツ思想が主流だった我が国では、今日にいたってもラッセルが正しく理解されているとは
言い難い。彼の社会活動を場当たり的な反体制活動と受け取っている人も多いので、清澤と
ラッセルとの類似性を指摘すると、清澤までもがそのように誤解されかねない。 

 しかし、ラッセルの社会哲学や社会活動は、けっしてそのようなものではなかった。碧海純一
教授は次のように解説している。 

  ラッセルはメフィスト的外観にもかかわらず、彼の鋭い批判の背後にあって、それを支
え、鼓舞しているのは社会理想である。彼の思想を裏から観察するならば、その内面に
あるものが実はきわめて優しい人間愛であり、むしろ宗教的ともいうべき惻隠の情であ
る。(碧海純一『ラッセル』p189) 

 このラッセル評を、そのまま清澤洌に当てはめることができる。彼は、少年の日に内村鑑三
の講演や井口喜源治の講話に涙し、海外移民の同胞の運命に心を痛め、中国や朝鮮のナシ
ョナリズムに共感し、また、震災で喪った妻子への愛を臆面なく友人に綴ることもできた、温か
い心の持ち主だった。晩年近くの清澤の身近にいた親戚の笠原貞行は、「言論は辛辣で、寸
鉄人を刺す鋭さを持っていた人だが、人柄は大らかで、小さなことにくよくよしない優しい人だっ
た」と語っている。 

  清澤は「我等の生活態度―夢と憎悪の哲学―」と題する一文を次のように締めくくっている。 

 ・・・われ等は個人の場合にも国家の場合も、対手に対する憎しみといふものが、その
個人と国家を偉大にすると考ふることは出来ぬ。われ等は愛を基調とせねばならぬ。そ
れが結局かれを大きくする所以である。 

 著者は道学者でもなければ、また理想主義者でもない。著者の口から愛とか憎悪とか
といふやうな道学者めいたことをいふのを自ら皮肉にすらも感じないのではない。しかし
著者は現在の情勢を観ると、問題は結局根本的な哲学観に落ちると信ずる。それはか
れがその哲学を愛に置くか、憎しみに置くかである。たとへばこれを国際問題について
も、かれの哲学を愛に置くものは四海同胞主義をとる。 

 これに対して、その人生観の根底を憎悪に置くものは、対手を敵と見る。敵と見るから
対手の不幸を願ふ気持が起るし、またこれに対して常に備へる感情を持つ。そしてかれ
の行動は自身に対する敵愾心の発露と解するやうになる。かれに対しては、妥協しよう
としないで場合によれば叩き伏せて支配しようとする。この思想の具体化は国家主義と
なる。 

 この思想の危険なことは、自分が伸び、生きんとする思念が強烈なるが故に、他の人
の幸福と生くる権利を忘るゝことだ。日本の生きる権利を主張するのはいゝが、兎角に
支那人の同じ生存権を忘れがちになる。自身の主張を貫徹せんとする熱意が強いが故
に、対手の思想は叩き伏せてもいゝといふ態度に変形するのである。 
 不思議にこの思想は左翼と右翼に共通するものである。イタリーのムソリーニも、ソヴ
ィエトのスターリンも、その心的傾向において同じであることは、われ等が昔から説いて
きたところである。かれ等の哲学はいずれも憎しみの上に樹立されてゐると思ふ。著者
は到底この種の哲学に服するわけにはゆかない。現在こうした思想が盛んになってゐる
といふことは、それが正しいといふ証明にはならぬ。・・・(中略)・・・。 

 祖国を愛するものとして、今こそ憎しみの教育の代りに愛の教育を説くことが、眞に愛
国者の義務と感じたのであった。『日本を成長させよ。この国をして伸びてやむことなか
らしめよ。われ等をして最も犠牲の少ない道を選ばしめよ。』
                               (『時代・生活・思想』p469〜471) 

 外交評論家としての清澤の高い矜持と使命感は、このような社会理想と優しい人間愛に基づ
くものであった。彼はキリスト教に帰依はしなかったものの、少年の日に井口喜源治や内村鑑
三から学んだ清教徒的良心と使命感をもって、潔癖な評論家人生を全うしたのである。 

【了】

目次へ


           『清澤洌と植原悦二郎』 あとがき 

 「失敗は成功のもと」という格言があるが、実際にはそうでもない。自分が無知無能力だっ
た、夜郎自大で判断を間違えたなどと、失敗の本当の理由が分かれば自尊心が傷つくから、
無意識のうちに、「悪いのは自分ではない。相手の方が悪かった」 と自己正当化をする。周り
の者からみれば、その心理作用が丸見えだから、「あの人は自分のことがよく分かっていな
い」などと陰口をたたかれるが、本人は無自覚なのだから、改めずに相変わらず同じパターン
を繰り返して、同じ失敗をする・・・。精神分析学者の岸田秀氏は、このプロセスを「失敗は失敗
のもと」と説明している。

 植原悦二郎は、『通俗立憲代議政体論』の最終章で、「我が国では、歴史の事実を尊重もし
なければ、学ぶこともしないが、失敗の歴史から学ぶことが大切である」と説いている。 

 また、清澤洌の外交評論は、じつは日本人論であり日本社会論でもあるが、失敗の本当の
理由をリアリズムをもって自覚しようとしない日本人の通弊を憂いている。 

 植原悦二郎が早くも明治四十五年に指摘し、清澤洌が悲惨な戦争のさなかに嘆いていた日
本人及び日本社会の特性は、今日に至ってもそんなには改善されていないということを思わせ
られる昨今の社会状況である。筆者は、そのような時代認識と憂慮をいだきながら本稿を執
筆した。 

 本稿を執筆するにあたっては、清澤洌次女の池田まり子氏、親戚の笠原貞行氏、植原悦二
郎孫の植原千文氏、生家の植原脩市氏の諸氏から文献資料の提供やお話を頂いた。その
他、多くの諸氏のご助力に感謝申し上げる。 

          二〇〇二年九月                        著者記 


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出典資料 

  清澤洌『清澤洌選集』(復刻版)日本図書センター1998 
   第1巻『アメリカは日本と戦わず』1932(昭和七年) 
    2  『黒潮に聴く』1928(昭和三年) 
    3  『自由日本を漁る』1929(昭和四年) 
    4  『非常日本への直言』1933(昭和八年) 
    5  『現代日本論』1935(昭和一〇年) 
    7  『外政家としての大久保利通』1942(昭和一七年)、中公文庫1993 
    8  『日本外交史』1942(昭和一七年) 
  清澤洌  『転換期の日本』千倉書房1927(昭和四年) 
    〃   『時代・生活・思想』千倉書房1936 (昭和一一年) 
   〃   『暗黒日記』評論社1995、ちくま学芸文庫2002、岩波文庫1990 
   〃   『清澤洌評論集』2002 岩波文庫 
  北岡伸一『清澤洌 ー日米関係への洞察ー』中公新書1987 
    〃   『日米関係のリアリズム』中公叢書1991 
    〃   『日本の近代5―政党から軍部へ―』中央公論社1999 
  長尾龍一『思想としての日本憲法史』信山社 1997 
    〃   『西洋思想家のアジア』信山社 1998 
     〃   「パル判事の論理」五十嵐武士・北岡伸一編 
                      『争論 東京裁判とは何だったのか』築地書館 1997所収 
  橋川文三『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会1994 
    〃   『近代日本政治思想の諸相』未来社1968 
    〃   『黄禍物語』岩波文庫 2000 
  橋川文三編『近代日本思想大系36昭和思想集U』筑摩書房1978 
  宮沢正典「清澤洌」(同志社大学人文科学研究所編 
                       『松本平におけるキリスト教』同朋社)所収1979 
    〃    「外交評論家の抵抗」(『戦時下抵抗の研究U』みすず書房1969) 
  入江昭 『太平洋戦争の起源』東京大学出版会1994 
   〃  『日本の外交』中公新書 1966 
  武田清子「清澤洌のファシズム批判」 (『日本リベラリズムの稜線』岩波書店1987) 
  樋口陽一『先人たちの「憲法」観』岩波ブックレット 2000 
  斉藤茂編『井口喜源治』井口喜源治記念館1952  
  J・ダワー 猿谷要監訳『容赦なき戦争 ―太平洋戦争における人種差別―』 
  平凡社ライブラリー2001 
  内村鑑三「余は如何にして基督信徒となりし乎」 『内村鑑三著作集』第一巻 岩波書店1958 
  松隈俊子『新渡戸稲造』みすず書房 1969 
  A・トクヴィル 井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』講談社学術文庫1987 
  中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫 1994 
  松尾尊~『大正デモクラシー』岩波書店1974 
  三谷太一郎『大正デモクラシー論 ―吉野作造の時代―』東京大学出版会1995 
  朝河貫一『日本の渦機』講談社学術文庫1987 
  猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書 1995 
  油井大三郎『日米戦争観の相克』岩波書店1995 
  平間洋一『日英同盟』PHP新書2000 
  三輪公忠『松岡洋右』中公新書1971 
  岡崎久彦『小村寿太郎とその時代』PHP1998 
  木村時夫『北一輝と二・二六事件の陰謀』恒文社1996 
  佐々木毅編『自由と自由主義』東京大学出版会1995 
  I・バーリン 福田歓一他訳『自由論』みすず書房 1971 
  柳父章 『翻訳語成立事情』岩波新書1982 
  宮本盛太郎『日本人のイギリス観』御茶の水書房 1986 
  J・A・ホブスン 高橋哲雄訳 
  『異端の経済学者の告白・ホブスン自伝』新評論 1983 
  石橋湛山『石橋湛山全集』第一・二・十三巻 東洋経済新報社1950 
  増田弘 『石橋湛山研究「小日本国主義者」の国際認識』東洋経済新報社1990 
  姜克実 『石橋湛山の思想史的研究』早稲田大学出版部1992 
  B・ラッセル 市井三郎訳『西洋哲学史』みすず書房 1956 
    〃     河合秀和訳『ロシア共産主義』みすず書房1990 
    〃     魚津郁夫訳『教育論』 (バートランド・ラッセル著作選集7)みすず書房1959 
   〃     鈴木祥蔵訳『教育と社会体制』明治図書1960 
  碧海純一『ラッセル』勁草書房 1961 
    〃  『合理主義の復権』木鐸社1973 
  K・ポパー 久野収訳『歴史主義の貧困』中央公論社 1961 
    〃   小河原誠他訳『開かれた社会とその敵』未来社 1980 
  半藤一利『ドキュメント太平洋戦争への道』PHP文庫 1999 
  半藤一利他『昭和史の論点』文春新書2000 
  阿川弘之他『二十世紀日本の戦争』文春新書 2000 
  石川達三『風にそよぐ葦』毎日新聞社1999 
  司馬遼太郎『東と西』朝日文庫1995 
  阿川尚之『アメリカがみつかりましたか―戦前篇』都市出版 1998 



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