憲法・政治学に関する論文集



政治学者・憲法学者としての 
植原悦二郎の業績 
―明治憲法のイギリス・モデル解釈―


(植原悦二郎が創設した松本第一高校における講演) 

高 坂 邦 彦
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         目 次 

   はじめに

 一、政治家としての植原悦二郎
      五・一五事件と植原悦二郎
      東條英樹との争い
      終戦工作・戦後の植原
      政治家植原悦二郎の真骨頂

 二、植原悦二郎の勉学
      向学の念で家出
      ワシントン大学
      ロンドン大学大学院
      イギリス政治学者

 三、大正デモクラシーと植原悦二郎
      吉野作造批判
      山県有朋批判

 四、植原悦二郎の憲法学
      天皇機関説事件の意味
      植原悦二郎の象徴天皇論
      明治憲法のイギリス的解釈

 五、植原悦二郎の政治心理学
      大正デモクラシーの崩壊
      国民性と植原悦二郎の想い

 資料案内



はじめに 

 植原悦二郎先生は立派な政治家でしたが、じつは、先生は政治家としてよりも、政治学者・
憲法学者としての方に貴重な存在意味があるのです。 

 今まで、このことは憲法学の専門家にさえ知られてきませんでしたが、このたび、法律学専
門の出版社(信山社)で発行している日本憲法史叢書の一冊として『植原悦二郎集』が出版さ
れました。 

 この憲法史叢書は、金子堅太郎・穂積八束・美濃部達吉・佐々木惣一等々、有名な憲法学
者たちの論説集です。植原先生の論説集がこの叢書の一冊として刊行されたのは、先生の唱
えた憲法学説が憲法学史上の重大な意味があるからです。 

 植原先生は、一般的にはドイツ的だといわれていた明治憲法をイギリス・モデルで解釈しまし
た。そして、その内容は戦後の新憲法にそっくりだったのです。 
今日の話は、そのことをできるだけ分かり易く説明したいと思います。 


         一、政治家としての植原悦二郎   

               五・一五事件と植原悦二郎、    

 そうは言っても、植原悦二郎先生は政治家だったわけですから、最初に政治家としての植原
先生のことを少しだけ説明しましょう。 

 植原先生は大正六年に犬養毅の国民党から立候補して国会議員になりました。先生を国民
党党首の犬養毅が熱心に説き伏せたのです。先生は大学教授だったので最初は嫌がってい
たのですが、「教壇で学生に教えるよりも、国会議員になって国民を導いた方が議会政治の発
展の為になる」という犬養毅の説得で心をうごかされたようです。 

 犬養毅の国民党は藩閥政治批判の少数野党でしたから、やはり藩閥政治を批判し議会政
治の発展を願っていた植原先生とは考えが合っていたのです。 

  ところが、その犬養毅が昭和七年に起きた五・一五事件で殺されてしまいました。植原先生
は、この五・一五事件の時に、ピストルで撃たれて瀕死の状態だった犬養首相のもとへ、まっ
先にかけつけて介抱し最後を看取った人です。植原先生はあの有名な犬養毅から最も信頼さ
れ、頼りにされ、期待されていた人だったのです。 

 この事件は若い軍人たちが起こしたのですが、当時の内閣書記官長(今は官房長官といい
ます)だった森恪という人は、同じ官邸内の廊下続きの部屋にいるのに、犬養首相の枕元にい
る植原先生に四・五分おきに電話をよこして死んだかどうかを聞くだけで、部屋には来ません
でした。森は犯人側と通じている…。植原先生にはそれがわかりました。 

 植原先生の地元三郷村の神谷博さんは熱心な植原支持者でした。その神谷さんが事件の
あった年のお盆に、植原先生に誘われて一緒に犬養毅の新盆見舞いに行きました。先生は霊
前で合掌したまま長い時間、全然動きません。先生の後ろに座っていた神谷さんが不思議に
思ってそっと見たら、こわいもの知らずの先生なのに泣いているのです。神谷さんは、先生の
深い悲しみをしみじみと感じ、これからの先生の苦労を心配しました。 

 五・一五事件は、それまでに折角伸びてきた政党政治・議会政治の息の根を止めた事件で、
その後の日本は、国際連盟脱退(昭和八年)、天皇機関説事件(昭和十年)、二・二六事件(昭
和十一年)、日中戦争(昭和十二年)、太平洋戦争(昭和十六年)と軍国主義・全体主義一色
になっていきましたから、自由主義者の植原先生にとっては苦難の連続でした。 
戦時中に東條英樹首相と争ったのは、その典型的な例です。 


               東條英樹との争い

 植原先生は戦時中に行われた翼賛選挙で落選しましたが、それは、時の権力者東條英樹
首相に強烈にたてついたので仇をとられたからです。国会の予算委員会でこう言って東條首
相を責めました。 
 「他国との戦争というものは勝つという確信があってやるべきものだ。東條首相は英米に本当
に勝てると思っているのか。中国との戦争でさえ勝てないでわが国苦しんでいるではないか。も
ともと、英米の国家総力はわが国の十数倍なのにまだ無傷だ。それにひきかえ、わが国の国
力はすでに尽きた。  それに、わが陸軍がいかに勇敢だといってもサンフランシスコに上陸し
て首都ワシントンまで大陸を横断して攻撃することなどできはしない。わが海軍がいかに優秀
でも、テムズ河をさかのぼってロンドンを襲撃することなどできない。 
 日本は英米との戦争に勝てる筈はないのだ。この戦争は外交によってすみやかに終わらせ
るべきである。東條首相にはその覚悟がおありか…。」 

 これを言ったのは英米との戦争は始まったばかりで、日本がまだ勝っていた頃のことです。
「非国民だ」「発言を取り消せ」という声で議場はたちまち大混乱です。これに対して植原先生
は、「私の質問は国を思う一念からである。断じて発言は取り消さない」といって譲りませんでし
たが、議事録のこの部分は削除されてしまいました。 

 その後に行われた総選挙では、植原先生を応援すると国賊扱いされて片っ端から警察に拘
留されるので誰も近づきません。植原先生は壇上で叫びました。 

 「私はこの選挙に敗れるであろう。しかし、私があらゆる迫害をおしのけて叫び続けることに、
やがて諸君がなるほどとうなずかれる日がやってくるに違いない。そして、再び諸君と相まみえ
て政治を語る日が必ずやってくるであろう…。」 

 この選挙は戦争礼賛の翼賛選挙といって、日本の政治史上の大スキャンダルですから、植
原先生が落選したのはかえって名誉なことだったといえます。 


                  終戦工作・戦後の植原 

 翼賛選挙に落選して、先生は国会議員ではなくなりましたが、「こんな戦争をいつまでも続け
ていたのでは日本という国が亡くなってしまう。早くやめさせなければならない」と考えて、終戦
工作に走り回ります。一緒にやった吉田茂や岩淵辰雄、植田俊吉等は証拠を握られて逮捕・
投獄されましたから、これは危険なことでした。 

 戦後の植原先生は内務大臣になりました。内務省というのは、戦後になって、自治省、建設
省、厚生省、労働省、警察庁、消防庁等々に分割されました。それほど大きな役割を受け持っ
ていた役所でしたから、内務大臣というのは副首相格の重い役目です。 

 敗戦直後の日本政府は、連合国軍総司令部(これをGHQといいました)のいうとおりにしな
ければなりませんでしたが、植原大臣は素直に言うことをききません。言うことをきかなかった
理由は、きょうここで皆さんにお話するのはむずかしすぎるので省きますが(註参照)、それが
元で吉田首相ともだんだん仲が悪くなってやがて大臣を外されました。 

 新しい憲法を決めた時もそうです。もともと憲法学者だった植原先生にしてみれば、アメリカ
側が主になって作った原案には欠点がいくつかあります。 

植原先生が原案に反対した理由は、自衛権の規定や地方自治の規定が不十分だということ
でしたが、最近になってそういうことがさかんに言われだしました。植原先生は制定する前から
すでに問題にしていた人なのです。 

 けれども、憲法の冒頭には国務大臣植原悦二郎の署名があります。当時は憲法制定を急が
ないとソ連その他の国の考えも憲法の内容に盛り込まれるという国際情勢だったので、植原
先生は、それよりはましだということで原案をのんで署名したのです。 


           政治家植原悦二郎の真骨頂 

 植原先生は長いあいだ国会議員をやったのに、総理大臣にも、党の総裁にも、それどころ
か派閥のボスにすらなれませんでした。しかも、先生を支えた地元のために道路や橋や建物
を作ってくれたわけでもありません。

 それなのに、地元の人たちはなぜ、植原先生を尊敬し支援したのでしょうか。同じ政治家とし
て身近に接していた楢橋渡という人が、その理由を次のように新聞に書きました。 

  私が植原悦二郎を好きなのは彼が個性ある政治家だからである。この筋を通す男は
一見頑固に見えて、筋が通ればサラリと妥協する淡白性を持っている。 
 彼は子分もなく、信州人特有の激しい性格は一言居士の異名を頂戴している。ボス的
意味の「大物」としては落第である。彼が一言居士として皮肉と毒舌を飛ばさず、茫洋た
る一面をもっておれば今頃は一党の総裁ぐらいにはなれたかもしれない。 
 しかし、彼は日本政界ではボスになれない男である。また、なろうともしない。彼が政界
に容れられぬ大きな原因は筋を通し過ぎるからである。筋が通らぬことを否定して道理
をたてる気風の国ならば彼も大きく支持されたかもしれないが、逆に日本の政界では筋
の通らぬことが平気でのさばっている国だから煙たがれる。考えてみれば、もし彼が第
二の祖国英国に生まれていたら日本よりももっと政界に幅をきかしているかもしれな
い。 

 本来「人間の価値」と「出世」とは別物である。いかに出世しておっても軽蔑に値する人
間もあれば、いかに不遇にあっても尊敬を払うべき人間もある。植原悦二郎は恵まれた
政界人ではない。彼は自己の栄達のために権力と妥協はせぬ。時には一身の不幸をか
えりみず敢然と闘う志士的風格を持っている。これが時には彼を逆境に陥れ出世を取り
逃がす原因ともなる。しかし、そこに植原の値打ちがある。今や日本の政界に功利主義
が横行し、世渡り上手な人間が偉いと錯覚され、次第に国士的風格が失われている時、
植原悦二郎の存在を再認識する必要がある。 

 軍を恐れて誰も批判しなかった天皇機関説事件を堂々と批判した新聞記者だった阿部真之
助は戦後にNHK会長になりましたが、彼は植原先生の追悼誌に最大限の敬意を込めてこう
書いています。 

 私は長いこと、記者として数え切れないほど多くの政治家をみてきた。しかも年とともに
政治家の品性が堕落していくのを悲しみながらみてきた。植原さんのような高潔な政治
家は種切れになると思うとたまらなく淋しい気持ちになる。 

 ここで植原先生は高潔だったと言っていることの意味は、先生は筋を通した、私利私欲や権
力欲がなかった、お金にきれいだったという意味です。 


          二、植原悦二郎の勉学

               向学の念で家出 

 植原悦二郎先生は、一八七七年(明治十年)に明盛村中萱(現在は三郷村)に生まれまし
た。明治十年ですから、その十年前はまだ江戸時代で、皆ちょんまげ頭だったというわけで
す。 

 先生は母親に大切に育てられました。たいへんに癇の虫の強い子だったので、まじない師の
所で臍の周りに墨を塗って祈祷してもらったこともあるそうです。 
五歳の時にはもう百人一首をそらんじることができたといいますから、生まれつき頭がよかっ
たのでしょう。でも、小学校一年生の時は今でいう登校拒否でした。二年生になってからようや
く登校できたといいます。上級生になると腕白なガキ大将になりました。 

 絵以外の先生の成績はトップでしたが、生まれた家は明治の始めに事業に失敗して財産を
失くしてしまっていたので、先生を松本の中学(今の深志高校)に通わせることができませんで
した。先生は小学校卒業後、家で農業の手伝いをさせられました。昔の農家の忙しさは皆さん
の想像の外です。田植えも田の草取りも稲刈りもみな人間の手でやりましたから、いくらやって
もはかどりません。おまけに養蚕もしましたから大忙しです。年がら年中、朝早くから夜暗くなる
まで働きづめでした。 

 しばらくは我慢してそういう生活をしていましたが、勉強したいという気持ちが強く、その目的
のために横浜にいる叔父を頼って家出をしました。ところが、母親が悲しがって切々たる手紙
をくれるものですから、やむなく家に帰りました。しかし、どうしても勉強がしたくて、二年後にま
た家出をし、横浜で働きながら独学で英語を身につけました。 


                ワシントン大学 

 英語だけでなく国語や歴史など全部を独学で身につけましたが、植原先生は小学校しか出
ていませんから、当時の日本では大学に入れてもらえませんでした。それで、植原先生はアメ
リカの大学で勉強することにしました。 

 着いたシアトルには、ちょうど開校したばかりのハイスクールがあったので、そこへ入学して
学び、やがてワシントン大学へ入学しました。(註、ワシントン州立大学というのは間違い) 

 同じ頃、穂高から同じシアトルにたくさんの労働移民をした人たちがおり、言い尽くせないほ
どの苦労をしましたから、植原先生もさぞやと思いきや、先生は日本からの移民相手に雑誌を
発行したり、劇団をつくって日露戦争の劇などでかせいだりして、余裕のある生活だったようで
す。人望もあって、学生なのにシアトル日本人会の副会長でもありました。 

 傑作なのは彼が仕組んだ日米武道試合です。日本の柔道家とアメリカのレスリング選手との
試合で一儲けをしようと思ったのです。ところが、柔道家というのが口先ばかりの男で簡単に
負けてしまったので、植原先生は今までにかせいだ金を全部失う大損をした、なんてこともあり
ました。 

 穂高町からの労働移民だった清澤洌という人は、その時に日本字新聞の新聞記者になって
いましたから、この試合の宣伝をしてくれました。後に大成して有名な外交評論家になりまし
た。今日では『暗黒日記』の著者として知られています。清澤洌はこの試合のことを日本にきて
からも書いています。彼の『暗黒日記』には、植原先生が終戦工作に奔走したこともくわしく書
かれています。 

 植原先生はその清澤洌をとてもかわいがりました。清澤洌さんの奥さんは植原さんが紹介し
た女性です。その奥さんは関東大震災で亡くなりましたが、再婚した女性も植原先生が紹介し
た人です。植原悦二郎と清澤洌の二人は仲のよい間柄でした。 

 植原先生は、自分が損をしたり不利な立場になることも構わずに相手にぶつかるという癖が
ありましたが、若い時からそうだったようです。ワシントン大学の学生時代に、日本人売春婦撲
滅運動をやって、売春組織のヤクザに殺されそうになったこともあります。間一髪で逃げること
ができました。 


               ロンドン大学大学院 

 植原青年はワシントン大学を卒業しましたがまだもの足りません。今度はイギリスに渡ってロ
ンドン大学の大学院(London school of Economics and Political Sience)に入りました。略して
LSEといわれるこの大学院はレベルの高い世界的な大学院で、ノーベル賞を受賞した教授が
たくさんいます。 

 植原悦二郎はここできわめて熱心に勉強して博士号をとりました。彼の博士論文「日本政治
発展史」The Political Development of Japan 1867ー1909は教授の推薦を受けてロンドンで出
版されました。(1910年) 
植原先生のお孫さんがアメリカに住んでますが、奥様はイギリス人で、この人のいうことには、
植原先生の英文の論文はイギリスの上流階級の使う格調高い英文なのだそうです。 

 先生は指導教授からロンドン大学の講師として教えたらどうかと勧められもしました。これは
陸奥宗光の息子広吉の裏切りで不可能になりましたが…。 

 皆さんはこういう話をきいてもあまり驚かないでしょうが、同じ頃にロンドン大学へ留学した夏
目漱石は、東京帝国大学を卒業した英語の先生で、英文学の勉強に行ったというのに、レベ
ルが違いすぎてノイローゼになってしまったことと比べてみれば、植原先生がいかに優秀な人
だったかということが分かるでしょ う。
う。 


               イギリス政治学者 

 植原先生は明治四十三年の暮に帰国しましたが、植原先生が学んできたアメリカやイギリス
に比べると、日本の学問も政治も、とんでもなく遅れていました。封建的な藩閥政治の時代で、
政府も国民も本来の議会政治の姿が分かってはいません。 

 そこで、植原先生は帰国約一年後の明治四十五年一月に『立憲代議政体論』という本を発
表しました。 
この本の書名は「憲法にのっとった議会政治」という意味です。この本は文語体で書かれてい
ますが、福沢諭吉の『学問のすすめ』のように分かり易く、しかも、日本語の教育は小学校で受
けただけの人なのにきわめて格調の高い文章です。 
 植原先生は、議会政治を健全に発展させるためには、国民に本当の議会政治の考え方や
知識を教えることが必要だと考えて、国民向けにこの本を書いたのです。同時に、いろいろな
雑誌にも藩閥政治の批判などを書いて発表しました。 

 ところが、植原先生の考えは当時の日本の藩閥政府やその御用学者たちにとっては迷惑な
学説ですから、彼らは植原悦二郎の説を意識的に無視し続けました。 
先生は当時の日本の政治学者としては桁違いの学識を持っていたのですが、国立大学の教
授にはなれませんでした。日本の学者世界にとっては、植原先生の学説が気にくわないのと、
日本で植原先生の学歴は小学校卒業だけなので学歴差別です。 
 私立の明治大学が採用して、憲法や政治学の講義を受け持たせてくれました。すると、植原
先生の講義は学生たちに大人気で大教室に入りきらなくなりました。そのせいで、他の憲法教
授や社会学教授の教室はガラ空きになってしまいました。 
 それを妬んだ両教授の策動によって、明治大学は学生を巻き込んでの大騒動になりました。
学生はみんな植原先生の味方をしたのですが、同僚の裏切りと陰謀を知った植原先生はさっ
さと明治大学を辞めてしまいました。これは、当時の新聞紙上でも話題になったたいへん有名
な事件です。 



     三、大正デモクラシーと植原悦二郎 

               吉野作造批判 

 私たちは、歴史の授業で大正デモクラシーについて学んだ時に、吉野作造の民本主義という
のを教わりましたね。大正デモクラシーといえば吉野作造の民本主義というくらい有名ですよ
ね。 

 植原先生は、吉野作造がこの民本主義という考えを発表した時に、徹底的な批判をしていま
す。今日の目からみれば植原先生の批判は、全面的に正しいのですが、当時は吉野作造にも
他の学者にも問題にすらされませんでした。植原さんがまだかけだしの在野の学者なのに対し
て、吉野作造は名にしおう東京帝大の政治学教授だったというせいもありますが、当時の日本
の学問の水準が低かったのに、イギリスで学んだ植原先生はその水準をはるかに越えていた
せいなのだといえます。 

 このことはじつに興味ある事実なのですが、きょうここでお話するには複雑すぎますから省き
ます。興味のある人は、信山社から発行された『日本憲法史叢書・植原悦二郎集』に、植原先
生が書いたその論文が載っていますから読んでみて下さい。植原先生の文章はきわめて明快
ですから誰でも内容を理解できると思います。イギリス帰りの先生がいかに優れた学者だった
かということや、先生が当時の日本の政治や学問の遅れた様子にいらだっていたことが分か
る文章です。 
この本には、詳しい解説も載っていますからあわせて読んでみて下さい。 


               山県有朋批判 

 イギリスで民主的な議会政治の理論や実際の姿を学んできた植原先生にしてみれば、当時
の日本の政治はとんでもなく封建的で非民主的な状態でした。皆さん、よく知っている藩閥政
治だったのですね。政府の首脳は明治維新をやった薩摩や長州出身者ばかりだったので
す。 

 それでも、伊藤博文が生きている間はまだよかったのです。有名な司馬遼太郎という人が書
いた『跳ぶが如く』という小説や『明治という国家』には、伊藤博文はじめ明治政府の人物の特
徴が分かり易く書いてあります。伊藤博文に比べれば山県有朋はずいぶん悪く書かれていま
す。 

 植原先生は、まだ山県有朋が生きていて政治と軍事の実権を握って権力をほしいいままにし
ているというのに、遠慮会釈なく強烈な批判を書きました。 

  伊藤(公は尊称)に比べれば、人物人格、学識、識見、政治思想のいずれの面でもは
るかに伊藤公に及ばぬ山県公が伊藤公よりはるかに権勢をふるい、法をないがしろに
している。伊藤公は憲政の健全な発達を願っていたし、山県公のような陋劣な陰謀奸策
を弄しはしなかった。後日の歴史家は山県公のことを真にわが皇室、国家、国民のため
の政治家であったとはいわぬであろう。 

 よくもここまで言ったものだとびっくりします。植原先生が山県有朋をこのように批判したこと
は、まかり間違えば命さえ狙われかねない危ないことでした。先生はこわいもの知らずの人だ
ったのです。 

 その山県有朋の御用学者だった、東京帝大の憲法学教授・上杉慎吉に対してはこう批判し
ています。 

  上杉博士は我が国憲法学のオーソリティーときいているが、博士の憲法論 読むほど
に、博士は現代における立憲政治とは何を意味するか、また、立憲政治と専制政治との
区別さえ理解しておらぬことが分かった。上杉博士の理論は何が何やらさっぱりわから
ない。学者の理論として批評する価値などない。 

 この上杉慎吉は、後年になって同じ東京帝大の憲法学教授・美濃部達吉を天皇機関説事件
で失脚させるように陰謀を働いた人です。その天皇機関説事件は昭和十年のことですが、植
原先生が上杉慎吉のうさん臭さを批判したのは、それより二十年も前の大正五年のことでし
た。 

 植原先生はこのように、自分が納得できない理論や人物に対しては容赦なく厳しい批判をし
ましたから、『大正デモクラシー』という本を書いた松尾尊允という歴史学者は、植原先生のこ
とを「急進的自由主義者」と名付けています。(註、京大教授だった松尾尊允氏と植原悦二郎と
は遠い親戚関係である。) 

 植原先生の言っていたことは、当時の日本では急進的だったかもしれませんが、今の考え方
からみれば、急進的でも何でもありません。穏健で保守的なイギリス自由党のありようを理想
としていた自由主義者でしたから、軍国主義や社会主義や共産主義などの全体主義を極端に
嫌っていました。 

 「大正期の急進的自由主義者だった植原先生は、戦後になって保守主義者に転向した」とい
う人もいますがそうではありません。植原先生は終始一貫してイギリス的な自由主義者だった
のに、日本の世相が戦前の右から戦後の左にと極端に変わって、見る方向が逆になったの
で、真ん中の植原先生が逆に左から右に変わったかのように見えるだけのことなのです。 


         四、植原悦二郎の憲法学 

              天皇機関説事件の意味

 皆さんは日本史の授業で、昭和十年の天皇機関説事件というのを習いましたね。それまで
は権威ある正統説だとされていた美濃部達吉博士の天皇機関説が、突然、国会で反国家的・
国賊的な学説であると決めつけられて、美濃部達吉が地位も名誉も剥奪された事件です。 

 明治憲法の第一条には、「日本を統治するのは天皇だ」と書いてあります。そして第二条に
は、「天皇は神聖にして冒すべからず」と書いてあります。天皇は神聖だというので、天皇は神
なのだ、日本は天皇が主権をもっている国だといったのが、さっきの上杉慎吉という学者の天
皇主権論です。 

 ところが、第四条には「天皇は憲法を守って統治する」と書いてあり、その「憲法を天皇が勝
手に作ることはできない。憲法の改正は国会で決める」と第七十三条に書いてあります。つま
り、天皇は憲法に従わなければならないが、その憲法は国民の代表による国会で改正できる
というのですから、国民が天皇を制約できるはずで、主権は国民にあることになります。これを
国民主権論といいます。 

 けれども、明治憲法は天皇主権だ、というのが当時の常識のようなものでしたから、国民主
権だなどというと面倒な騒ぎになります。美濃部達吉はそれを警戒したのでしょう。国民主権の
ことを「国家主権」と言い替えました。

 美濃部批判の国会議員は美濃部に対して、「お前は国家主権だと言うが、自分で、国家は国
民の集まりだといってるではないか。つまり国家主権というのは国民主権といってるのと同じこ
とじゃないか。天皇主権を否定するとはけしからん」といって非難し、天皇機関説を葬ってしま
ったのです。 

 じつは、大正期の頃の実際の政治の実権は政府や議会がもっていて、天皇は実際の政治に
は関わらずに形式的にそれを認めるだけでした。つまり、天皇も国会や政府の機関と同じよう
に政治システムの一機関だという考えなので、これを天皇機関説といったのです。この説の方
が、皇室も政府も従っていた正統説だったのです。 

 この天皇機関説は議会政治を発展させるための理論でしたから、これがつぶされたことによ
って、その後の日本の政治は軍の思うがままになりました。軍人は事件の翌年に軍事クーデタ
ー二・二六事件を起こして、軍の気に入らない政治家を殺しました。あとは軍国主義一辺倒に
なって、日中戦争と太平洋戦争を始めたのです。「天皇陛下は神様だ。この戦争は神風が吹
いて必ず勝つ。」戦争中はこんな神がかりの言葉が叫ばれました。 


             植原悦二郎の象徴天皇論  

 私たちは、戦後の新憲法に比べると明治憲法はとんでもない悪法だったと思っていますが、
植原先生にいわせれば、明治憲法そのものが悪かったわけではなくて、解釈と運用がおかし
かったのです。 

 憲法のことを英語では constitution といいますが、この単語には日本語の「法」という意味は
ありません。構造とか体質とかいう意味です。つまり、長い間に積み重ねられて出来上がって
きた、政治の仕組みや体質・慣習のことをconstitution というのです。だから、イギリスには文
章に書かれた憲法というものが無いのです。慣習でやるから慣習法とか、文章に書いてない
から不成文法といいます。 

 だから、イギリスの constitution の内容は、イギリスの政治の実際の具体的なやり方を知ら
ないと理解できないわけです。植原先生はイギリスでそれを研究してきたのですから、当時の
日本では只一人それがよく分かっていたわけです。 

 その植原先生が読むと、明治憲法は当時の国立大学の憲法学者たちの解釈とは違う解釈
になります。 例えば、「天皇は神聖にして冒すべからず」という条文は、「天皇は神である」と
いう意味なんかではなくて、イギリスでいう「国王には間違いを冒させない=政治には関わらせ
ない」という意味になります。つまり、戦後憲法の象徴天皇・現在の天皇のようになります。象
徴は英語で symbol といいますが、植原先生は明治四十三年にロンドン大学に提出した博
士論文に、「天皇は全国民に同胞という感情をいだかせる symbo lである」とはっきり書いて
あります。 

 つまり、植原先生は明治憲法の時代に、天皇は象徴だとはっきり書いたのです。このことは
べつに驚くにはあたりません。イギリス国王がそういう存在であることを植原先生は知っていた
からです。イギリス人は国王が神だなどと誰も思っているわけではありませんが、国王を敬愛
し尊重しています。「神よ、王を守り給え」という歌は、「神よ、我が国を守り給え」という気持ち
で歌っているのです。 

 植原先生は明治四十五年に発行した『立憲代議政体論』という著書で、このことをじつに懇
切丁寧に説いています。専制国のロシア皇帝よりも立憲君主国のイギリス国王の方がはるか
に国民から親しまれ尊敬されている事実などを説明して、天皇はイギリス国王と同じで、政治
に関わらせてはならない、それが皇室を重んじ安泰に保つ道だと書いています。 


             明治憲法のイギリス的解釈 

 中国の古典に「水は舟を浮かべるが、その舟を覆しもする」という言葉があります。民は王を
支えるが、逆に、王を失墜させもするという意味です。このように、支えるか、支えずに失墜さ
せるかという、民の総意のことを主権といいます。 

 美濃部達吉は昭和十年の天皇機関説事件の時に、国会で「自分は国民に主権があるなどと
いうことは考えたことも、言ったことも、書いたこともない。自分の国家主権という理論は国民主
権論とは違うのだ」と弁明しました。彼は当初から国民主権論者だと受け取られることを非常
に警戒していたのです。 

 ところが、植原先生の方は、明治四十五年に出版した著書『立憲代議政体論』に、はっきりと
「主権は国民にある」と書いたのです。「憲法のどこを見たって主権が天皇にあるなどとは書い
てない。国民にあるなどということも書いてない。主権が国民にあるなどということは、憲法のあ
る国では常識だからだ」というのです。明治憲法の時代に国民主権論を唱えた学者は植原先
生だけです。 

(註、植原の国民主権論を知らない人は石橋湛山が最初に唱えたというが、大正四年の
湛山の国民主権論は、明治四十五年の植原の著作『立憲代議政体論』にある国民主権
論の受け売りである。当時の植原は湛山が編集していた雑誌の常連執筆者で、湛山は
経済思想に長じ、植原は政治思想に長じており、両者は親密な間柄だった。) 

 こういうと、植原先生が何だか突飛なことを唱えたかのように聞こえるかもしれませんが、ち
ゃんとした学問的な裏付けがあっての主張だったのです。 

 中学や高校の歴史教科書には、明治憲法はドイツ(正確にはプロシャ)憲法を真似したドイツ
的な憲法であると書かれていますから、これが国民の常識のようになっています。
 ところが、これはとんでもない誤解なのです。憲法草案を作ったのは伊藤博文と他の三名で
すが、その中の一人・金子堅太郎という学者は、ハーバート大学でイギリス憲法とイギリスの思
想家バークについて学んだ、本格的なイギリス法学者でした。 

 つまり、明治憲法はプロシャの憲法とイギリス憲法の特徴をあわせもっていたのです。日本
占領の仕事にあたるGHQ職員用にアメリカ政府が編集した『日本案内Guid to Japan』には、
「明治憲法はプロシャの専制政治を父に、イギリスの議会政治を母にもった、両性の生き物で
ある」と書かれています。 

 明治憲法の起草者・伊藤博文がドイツ・モデルを持ち込んだと思われていますが、彼自身が
あえて政党の党首となって首相をつとめたのは、明治憲法のもつイギリス憲法的な側面、つま
り、イギリス的な議会政治の発展を意図してのことだったのです。 

 ですから、ロンドン大学出身の政治学博士だった植原悦二郎先生が、明治憲法をイギリス・
モデルで解釈したことは何ら突飛なことではないのです。 

 植原先生がその本を発刊した明治四十五年頃には、憲法制定当時にいたイギリス派の憲法
学者はいなくなって、ドイツ派一辺倒になっていました。美濃部達吉の天皇機関説はイギリス
的な議会政治の発展を意図した理論なのですが、それでも、論じ方はドイツ的でした。彼の憲
法学が、「頭はドイツ憲法、心はイギリス憲法」といわれたのはそのせいです。 

 そこで、植原先生はドイツ法学者たちの明治憲法解釈を徹底的に批判したのです。藩閥政
府の御用学者で神がかり的な穂積八束や上杉慎吉はもちろんのこと、美濃部達吉の天皇機
関説をさえ批判しました。 

 じつは、天皇機関説というのは美濃部達吉の独創物ではありません。ドイツの学者がとっくに
言っていたことですし、それに対して、カール・シュミットという学者が、「君主機関説というのは
憲法上の主権が国民にあるのか君主にあるのかという問題を回避するためのものだ」といっ
ているのです。吉野作造の民本主義というのはその通俗版です。 

 ですから、今になってみれば、植原先生の美濃部批判も吉野批判もすべて当たっていたこと
になります。それに、戦後の新憲法による議院内閣という政治システムはアメリカ的ではなくイ
ギリス・モデルなのです。つまり、植原先生のイギリス・モデル解釈の方がまともだったわけで
す。先生は時代を半世紀以上も進んでいたということになりますね。 

 したがって、植原先生が明治四十五年という時点で明治憲法をイギリスモデルで解釈した
『立憲代議政体論』は、憲法学の歴史上に貴重な本なのですが、全国に数冊しか現存していま
せん。明治大学にも長野県立図書館にもないのです。たぶん、天皇機関説事件の頃か戦時中
に、どこの図書館でも廃棄したのだろうと思います。(註、「立憲代議政体論」を掲載した本が2
005年に発刊された。『植原悦二郎集』日本憲法史叢書・信山社) 



       五、植原悦二郎の政治心理学 


            大正デモクラシーの崩壊 

 国会議員として植原先生がおやりになった仕事で一番の功績は普通選挙法の成立のため
に努力を重ね、大正十四年にそれを実らせたことでしょう。それは藩閥による専制政治から議
会政治へ変えたいという、植原先生の年来の願いへの一歩前進でした。 

 植原先生は『立憲代議政体論』の末尾の頁にこう書いています。 

世界の歴史をみれば、危険で弊害の大きい政治は、専制政治の国で行われた。専制政
治家は自分が賢いと思っているので、人のいうことに耳をかさず、改めることもしない。 
 議会政治は民意にもとづいてやるのだから、常識的で平凡で穏健なものである。議会
政治だと国民が了解する範囲でしかできないのだから、国民一般の常識を越えることは
できない。これは平凡であり、非進歩的なように感ずるかもしれないが、専制政治より進
歩的なのだ。 

 戦後育ちの私たちは、「明治憲法が非民主的だったので、日本は軍国主義になり、国民が
戦争にかりだされた」と思っていますが、これは事実とは違う誤解です。大正後期には多数政
党の党首を総理大臣にして議院内閣を作るのが慣行として定着し、それを「憲政の常道」とい
ってました。大正十四年には普通選挙法も成立し、マスコミや世論が支配する大衆社会だった
のです。あとは、樞密院や貴族院などの非民主的な機関の改革も、マスコミと国民世論を背景
にすれば不可能ではなかったでしょう。 

 ところが、最初の普通選挙が行われた昭和三年頃から、この政治体制が崩壊しはじめまし
た。政党内閣は国際協調政策だったのに、この政党政府に逆らう軍部の方に、国民は喝采を
送ったのです。 

 これはマスコミのせいです。新聞は「政党の腐敗」を誇張して報道する一方で、軍による満州
事変の戦果をかき立てました。国民は選挙で政党を支持する代わりに、喝采で軍部を支持し
たのです。 

 戦後になってから、「新聞は戦争に反対で抵抗したが、抑圧され規制されて従わざるを得な
かった」といいましたがそんなことは嘘です。規制されたのはずっと後のことで、満州事変の時
の新聞は、軍の満州進撃を賛美し、「軍の独断で国外出兵することができる制度には問題が
あるが、政府は早く追認すべきである」と書いて、国際協調策の政党内閣(若槻内閣)を責め
たのです。軍が独断で国外出兵することができるというのは、統帥権のことを指しているのでし
ょうが、これは書いた記者の間違いです。天皇の統帥権というのですから、事前に天皇の裁 
可がなければ重大な違反行為なのです。 

 じつは、軍首脳は、国民とマスコミが満州事変を否定的に受けとめて軍を批判することを心
配していたのです。ところがあにはからんや、始めてみたら新聞は大喝采です。これで軍は増
長しました。 

 犬養毅が殺された五・一五事件はその延長線上の事件です。犯人たちは裁判で「自分たち
は政党政治家が腐敗しているから殺したんだ」と主張し、世論はこういう犯人たちに喝采をおく
り同情しました。 

 軍人が国家の首相を殺したのですから、軍法会議で死刑になって当たり前なのに、みな禁錮
何年とかの軽い刑で数年後には恩赦で釈放です。世間の目は、犯人の方が正義で、殺された
犬養首相の方が悪人だといわんばかりで、家族は外を歩くたびに肩身のせまいおもいをした
と、孫の犬養道子さんがどこかに書いていました。 

 それやこれやで増長した軍部は、その後、次々に勝手な専制政治を進めました。ですから、
さっき説明した天皇機関説事件も、二・二六事件も、元を糺せば、政党政治を批判し軍に喝采
を贈ったマスコミとそれを鵜呑みにした国民世論だったのです。 


             国民性と植原悦二郎の想い 

 植原悦二郎先生は、『立憲代議政体論』の最終章で、次のように日本人の国民性の分析を
しています。 

@日本人はとにかく戦争が好きである。日清・日露の 両戦争の勝利はそれに拍車をか
  けた。 
A論理的にものごとを考えず、感情的に判断する。 
Bものを率直に言わず、陰険である。 
C平気で嘘を言う。約束をやぶる。 
Dものごとや思想の奥にあるものを研究せずに、形だけを真似る。 
E独立自尊の気概が乏しく依存的て服従的である。 
F率直な相互批判が嫌いで不得手である。 
G人を人として大事にすることをせずに、階級や金銭 で人を測って接する。 
H理想が低い。目先の自分の利にしか関心がなく、社会とか人類とかに対する関心が 
  ない。 
I事実よりも外見を重んずる。虚飾・虚栄心が強い。 
J歴史から学ぶことができない。歴史の事実を抹殺したり改ざんしたりすることが平気で
  ある。 

 これらの一つ一つを事例をあげて説明したあと、最後に「要するに常識がないのだ」とまとめ
ています。この場合の常識というのは、知識という意味ではなく、コモンセンスという意味です。 

 長い年月、外国で暮らして帰国した植原先生には、日本人の持つこうした欠点がいやでも目
についたのだと思いますが、法律と政治の本にこんなことを書いたのは、植原先生を指導した
イギリスの学者の影響でしょう。 

 植原悦二郎先生を指導し、博士論文を出版してくれ、そのうえ講師に迎えようとまでしてくれ
た、ロンドン大学LSEのウォーラス(Graham Wallas 1858〜1932)教授は、世界的な権威のある
政治学者です。例えば、今の東大総長の佐々木毅教授の著書『現代政治学の名著』は、世界
的な学者十五名について解説したものですが、その冒頭にウォーラスが紹介されています。植
原先生はそういう優秀な教授に学び、認められたというわけです。 

  ウォーラスはこう考えました。 
 イギリスの選挙権が拡大して庶民大衆も投票できるようになったのはいいが、彼らはあまりに
も見識が足りないので、うさん臭い候補者にだまされて投票している。だから、まともな候補者
の方が落選して、イギリスの政治の質は下落しつつある…。 

  これを防ぐために、庶民に対する教育の質を高める必要がある。そうすれば、選挙民はい
かがわしい候補者の嘘を見破れるようになるだろうし、そんな候補者の演説に酔っている自分
を恥ずかしく思うようになるだろう。 

 植原先生がやりたかった本来の研究や活動の方向は、このウォーラスのような問題意識だ
ったのではないかと思います。議会政治のよさと必要を説いたこの本の最後の頁の最後の一
行に、植原悦二郎先生はこう書きました。 
 「されど、常識に富まざる国民は代議政治の妙味を知る能はざるべし。」 
 昭和初期から終戦までの日本人は、まさにそのとおりでした。私たちは、それを昔のことだと
いって笑うわけにはいきません。私たちには、植原先生の言った常識(コモンセンス)ということ
が、いまだによくわかってはいないと思うからです。 

[完] 

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