印刷向き紙面 → kiyosawa.uehara.pdf リンク・ダウンロード・引用 フリー 連絡不要
はしがき (第T部・第U部共通) 日米戦争中の政治経済や戦局の状況、新聞報道、国民の暮らしぶりなどを克明に記録した 『暗黒日記』の著者・清澤洌(1890〜1945年)は、長野県南安曇郡北穂高村(現穂高町)出 身の外交評論家である。 また、明治憲法下において、国民主権論、象徴天皇論、責任内閣論等々を唱えていた大正 デモクラシー期の急進的自由主義者・植原悦二郎(1877〜1962年)も、同じ南安曇郡の明 盛村(現三郷村明盛)出身の政治家である。 二人は同じ時代に同じ郡内に生まれ育ったというだけでなく、裸一貫で渡米して苦学し、帰朝 後は共に自由主義の論客として活躍したことでよく似通っている。さらに二人は、在米中に二 年間シアトルでの生活を共有しており、深い交友関係をもった。清澤の初婚・再婚ともに植原 の世話によるものである。(清澤は初婚の妻子を関東大震災で喪った。再婚相手は植原夫人 の日本女子大英文科での教え子である。) 大正期から戦前・戦中の昭和期にかけて時代の波をまともに被って活躍した植原悦二郎と 清澤洌の生涯は、大正デモクラシー・自由主義崩壊の物語であり、また、戦争と憲法問題の物 語でもある。この時代の動向に敢然と異議を唱えた二人の生涯は、当然のことながら、苦難の 連続であった。 本書は、第T部で清澤洌、第U部で植原悦二郎、それぞれの言論と思想を紹介するもので ある。ただし、元来は別々に発表するはずだった二人の人物誌を合冊にしたものであり、「戦 前日本の外交評論と憲法解釈―清澤洌と植原悦二郎―」の二つの「と」は単なる並列の意味 にすぎず、比較論や関係論ではない。また、T部とU部では表現に若干の差がみられること と、同時代ゆえの内容の重複があることもおことわりしておかねばならない。 第T部 「清澤洌の外交評論と自由主義―国際的視野と醒めた判断―」について 人に毀誉褒貶はつきものであるが、生前も没後も併せて清澤ほどそれが甚だしい人物も珍 しい。 まず、『暗黒日記』という書名の故か、清澤の地元でさえ、彼がイデオロギー過剰な反体制主 義者だったかのように誤解している人が多い。けれどもじっさいは、彼は過激なことや狂信的 なことが嫌いな醒めた人で、国益を第一に考えた現実的な政策を提言した穏健な思想家だっ たのである。 そして、『暗黒日記』は清澤を一躍有名にはしたものの、他面では、彼が当時には珍しい程 の国際的な視野と的確な対米認識をもち、真の国益を考え、リアリズムに徹した外交評論家 だったことが忘れられる原因にもなった。 また、清澤は自由主義を貫いた評論家だった。今でこそ、自由主義は先進的なプラスイメー ジの言葉になったが、当時の清澤は、「時代後れの自由主義」を振りかざす非学問的な評論 家だと言われたし、清澤には「哲学がない」と言う者すらいたのである。 国際的な視野と醒めた判断のありようを示した清澤洌の外交評論は、リアリズムに徹した具 体的な外交策もさることながら、私たち日本人が外国を認識する際に無意識の内に陥る病理 的傾向を指摘し、外国をどのように認識し、判断し、対処すべきかということを教えている。 また、清澤の論説は、一見いかにも現実主義的で合理主義一辺倒のようにみえる。しかしな がら、徳富蘇峰や松岡洋右の言説の根底にある「卑しさ」を厳しく糺している清澤は、何よりも 節操と道義を重んじた理想の高い言論人である。 そういう清澤の唱えた「自由主義」とは、単なる反戦・平和・反帝国主義のイデオロギーでは ないし、「自由気まま」や「自分本位」のことでもない。自由とはもっと次元の高い概念のことを いう。けれども観念的な哲学でもない。 筆者は、そういう清澤洌の姿と、戦前日本の政治動向が、多くの人に理解できるように願っ て第T部の清澤論を書いた。 第一章で清澤洌についての基本的な解説をしたうえで、二章で清澤の国際的視野からみた 日本人論・日本社会論を紹介する。 第三章では、清澤の外交評論の基本的なスタンスを解説し、第四章では、内政・外交に関す る清澤のテクスト(言説)を、当時の内政や外交上のコンテクスト(前後関係)と併せて紹介す る。これによって、当時の日本の政治・外交の実際の姿と、日中戦争、太平洋戦争への道行 きが理解できるとともに、『暗黒日記』だけから受けるのとは違う清澤洌の実像と、彼の切歯扼 腕の想いを感じることができるであろう。 第五章では、清澤洌の自由観と自由主義について解説をした。内容が少しむずかしくなるこ とを承知しながらも、あえてこの章を詳しく書いたのは、今日に至っても、「自由」と「自由主義」 の概念は正確に理解されることなく、それぞれの人に勝手に濫用されているからである。その ような安易な誤解や理解不足が、今後の日本社会の混迷度をますます深めていくのではない か、という私の懸念が単なる杞憂に終わってほしいと願っている。 第U部 「政治学者・植原悦二郎の軌跡 ―イギリス政治学者の孤立と屈折―」 について 法哲学者・長尾龍一教授は、植原悦二郎を次のように紹介している。
植原悦二郎は大正デモクラシー期の自由主義者としてデビューした政治家だったが、政治家 だったというのは彼の韜晦の姿である。彼の蓑下に隠れていたのは、じつは、イギリス型の立 憲政治に精通した本格的な政治学者の姿であった。 明治憲法は前近代的な悪法だったというのが今日の一般的な常識であるが、イギリス政治 学者植原悦二郎に言わせれば、明治憲法そのものが悪かったのではなく、当時の憲法学者 たちの解釈と運用が間違っていたのである。 ロンドン大学で政治学博士号を取得して明治四十三年に帰国した植原は、官学のドイツ政 治学に対抗するイギリス政治学者として華々しい活躍を始めた。彼は大胆にも、明治憲法を 「国民主権」「象徴天皇」「責任内閣制」であると解釈した著書『立憲代議政体論』を上梓した。 後の歴史研究者たちは、彼を「急進的自由主義者」の一人に数えている。 そもそも、明治憲法はプロシャ・モデルとイギリス・モデルの両性具有だったから、植原のよう なイギリス的憲法解釈があっても何ら奇異なことではない。プロシャ・モデルの立場ながらも、 明治憲法を議会制民主主義を発達させる意図をもって解釈した、美濃部達吉の憲法学が天 皇機関説事件によって封殺されたことは有名であるが、植原が明治四十五年に発表したイギ リス・モデルの憲法解釈は、美濃部よりも更に議会制民主主義の立場にたっている。 しかしながら、植原のイギリス・モデル憲法解釈論は、当時、プロシャ国家学が「官許正統学 説」だった日本の憲法学界には受け容れられなかった。「美濃部達吉や吉野作造らが、早い 時期から植原のイギリス・モデルを受け容れてさえいれば、戦前の政治は別の道を歩み、日本 はあのような悲惨な戦争をせずに済んだはずだ。」植原は無念の思いでそう述べている。 戦後の新憲法は、ことごとく、植原がすでに明治四十五年以来、何度も繰り返して主張してき たとおりの内容になった。この事実は、当時の植原の主張がきわめて正当なものであったとい うことを証明しているにもかかわらず、我が国の憲法学史上に植原の名前は記載されていな い。 また、周知のように、大正末期から昭和初頭、それに戦中にかけての日本の政治は、混乱 混迷のきわみであった。この時期の政治状況こそ、植原がロンドン大学で身につけたウォーラ ス教授の政治心理学の手法でメスを入れられるべき対象だったはずである。 惜しむべきことに、植原は早くも大正六年に犬養毅に懇請されて政界に入ってしまったので、 自分自身が混迷状況の政界事情に巻き込まれてしまい、折角の政治学の学識を活かすこと はできなかった。彼は、初志の理想と政界の現実の狭間で逡巡し、孤立し、屈折した政治生活 を送った。 しかしながら、彼は政界での不遇にもめげず、毅然とした姿勢と清廉潔白な身の処し方を保 ち続けて政治生活を全うしたのである。 第U部の植原悦二郎論は、生まれる時代と生きる場所を間違えたともいえる植原悦二郎 を、当時の時代と併せて考察し、彼の孤立と屈折、韜晦の想いを辿ってみたものである。 二〇〇二年一〇月 著者 1932年(昭和七年)五月十五日、首相官邸に踏み込んだ海軍の青年将校たちと犬養毅首相 が向き合った。犬養毅が「話せば分かる」と言ったにもかかわらず、青年将校は冷酷にも「問 答無用」といってピストルを発射した・・・・・・・・・。犬養毅が「問答無用」のテロリズムによって殺 害されたことによって、戦前の政党政治はその命運が尽きた。犬養毅は憲政の神様といわれ た・・・・・・・・。 あの有名な五・一五事件について、私たちは中学校でも高等学校でもそう教わった。 ところで、事件発生後まっ先に官邸にかけつけて必要な処置をしたのは、三郷村出身の政 治家植原悦二郎である。彼は犬養毅に最も信頼されていた政治家で、事件の当時は衆議院 副議長の役職にあった。彼は事件の様子を次のように書いている。
有名な「問答無用」という言葉は、犬養に対してではなく、裏口から踏み込んだ山岸中尉が三 上中尉に向かって叫んだ指図だったのである。松本清張の『昭和史発掘』では軍事裁判の公 判記録をもとにこの場面を詳細に再現しているが、ほぼ同様な様子が描かれている。(松本清 張『昭和史発掘4』文春文庫 p249〜250)なお、一緒に官邸を襲った陸軍の士官候補生八木 春雄によれば、犬養と問答をはじめてしまった三上に対して、山岸が慌てて「問答は要らん。 撃て撃て」(「問答なんかしてないで早く撃て」という意味)と催促した言葉が、「問答無用」と言っ たことにされてしまった。その方が、将校の冷酷さを思わせる効果があるからだという。(五味 幸男『五・一五事件の謎』鳥影社p98) 植原悦二郎は続けてその後の状況を次のように書いている。
って何を話すつもりだったのか。闖入した将校たちが持っていた官邸内の間取り図は誰から手 に入れたのか。なぜ海軍将校だけで、陸軍は将校が参加しなかったのか。 そもそも犬養毅を何故殺さねばならなかったのか。 これらの謎を解く鍵は書記官長(今の官房長官)森恪の不可解な挙動にある。現場にいた植 原は森の不可解な挙動について次のように詳しく記録している。
が、彼はそれ以前の著書『日本民権発達史』にもこのことを書いている。(『日本民権発達史』 第弐巻 昭和三十四年 p409) ことは、森が内乱罪ないしその予備・陰謀・幇助罪のいずれかに相当することをやっている か否か、という重大な問題だから、さすがの植原も立場を考えてか慎重に「不可解」という言葉 で婉曲に表現してはいるものの、彼が言いたいことは明らかである。「森はこの事件の謀略に かかわっていた。反乱者と通じていた」ということなのである。狙撃されて口はきけなくとも犬養 の意識はあったから、下手に馳せ参じて犬養に指でもさされようものなら森は窮地に陥る。犬 養が何も語らぬまま死んでくれなければ困る・・・・・・。狙撃されて流血している犬養を植原が 駆けつけるまで放置しておいたうえに、廊下づたいにすぐ行ける距離なのに顔を出さずに四・ 五分おきに電話で様態を確かめていたのはそのせいであると考えればつじつまが合う。外部 の誰かと連絡をとっていたのかもしれない。 植原がこのことを書いた六年後の1966年(昭和四一年)に公開された『木戸幸一日記』に は、内閣書記官長森恪が邪心をもって大川周明その他の国家主義者や軍高官の間で暗躍し た詳細な記録があり、森が「不可解な挙動」をとったことの意味が明白である。 松本清張の『昭和史発掘4』三〇五頁〜三〇七頁には木戸日記の関係部分が列記掲載され ている。 同書にはさらに次のような記録もある。 (犬飼毅がよく行っていた料亭「松本亭」の女将松本フミの話)
その時は犬養びいきの女将の通夜の席での感情的とも受けとられたであろう絶叫だったが、 後日になって順次に明らかになった資料にてらしてみれば、見事に的を得ていたことになる。 なお、犯人たちが普通には入手困難な官邸内の間取り図をもっていたこと、犯人たちは犬養 が確実に在宅していることを承知していたこと等々は、森が大川周明を介して犯人たちに知ら せたのだといわれている。森は通夜の席で、犬養の女婿・芳沢謙吉外務大臣に「総理が間違 っているよ」といって周りを驚かせた。(猪木正道『軍国日本の興亡』 p201) 木村時夫氏は犬養が暗殺された理由を次のように説明している。 「犬養は満州国の建国宣言後もこれを認めることなく、なおも中国との平和的交渉によって、 満州事変そのものの根本的解決を考えていた。その旨を記した蒋介石宛の親書を密使に持 たせたが、密使萱野長知は出国間際に憲兵隊に逮捕されてしまった。その一部始終が書記 官長森から陸相荒木に伝えられ、激怒した荒木が犬養を除去せねばならぬと考えた。」(木村 時夫『北一輝と二・二六事件の謎』p215) 犬養の親書の件が事実とすれば、蒋介石の国民軍の満州進撃を防ぐ目的で張作霖や張学 良を利用しようとしていた陸軍にとって、犬養は文字どおり「総理が間違っている」ことになる。 もともと、犬養が内閣編成の際、政軍協調派の南陸相の留任を希望したが、軍はこれを拒 否して荒木貞夫を指定した。森は強硬な皇道派の荒木中将しか陸軍大臣にできないように画 策し、犬養の軍抑制策がとれないようにと図ったのである。 戦前は陸軍大臣と海軍大臣を誰にするかということは軍部が決めることで、首相が指名する ことはできなかった。この制度を「軍部大臣現役武官制」といい、軍部が政治を思うままに操る 手段として使われた。植原悦二郎はこの制度が憲法違反であることを指摘している。(第四章 第7節に詳述) こういう経緯で成立した犬養内閣が陸軍急進派を抑制することは不可能であった。荒木陸相 は従来の政軍協調派の将官を、皇道派の将官に続々と置き換えた。そのせいで、陸軍中央 の抑制も聞かずに関東軍は暴走することができたのである。 つまり、犬養内閣は成立する時からすでに森と結託した軍の支配下にあったわけで、政党政 治の命脈は、犬養が倒れた五・一五の時にではなく、それ以前の首相になった時点ですでに 尽きていたということになる。(坂野潤治『日本政治史』p181〜182、酒井哲哉『大正デモクラシ ー体制の崩壊―内政と外交』p19) そもそも、政友会のトップを誰にするかという内部抗争を避けるのが目的で、関係のない犬 養に暫定的に首相をやらせたまでである。前内閣による財政破綻を修復するというリスクの多 い仕事を犬養毅と高橋是清にやらせた上に、選挙では、両者の人気を利用して政友会は空前 の得票数を得た。やらせるだけのことはやらせた。これ以上は犬養は不要である。軍と結託し ている森にとって、軍を抑制しようとしたり、対中国穏健政策をとろうとする犬養はもはや邪魔 ですらある・・・・・・・・。 森は犬養の死後、軍の推す国家主義者・平沼騏一郎の擁立めざして暗躍したが、彼らを嫌 っていた元老西園寺公望に退けられた。 このように、政友会は軍と結託して政権を維持しようという魂胆であったが、政界人たちはこ うした政治的謀略の果に、やがて政党政治を軍部に蹂躙されるという墓穴を掘ったのである。 犬養毅は、こうした政治的謀略に翻弄されたうえに非業の最期をとげた。「話せば分かる」そ の話とは、政治政策の問題ではなく、当時噂されていた犬養の汚職問題についてであるとい う。これが事実とすれば被告の有利に働くはずなのに、その後の法廷では何の取りざたもされ ていないということは、事実無根の噂にすぎなかったのであろう。ならば、誰がそういう情報操 作をしたのか? 犬養に止めの一発を撃った被告・三上は、軍事裁判の法廷で犬養のことを「じつに立派な態 度を目撃し哀惜の念を禁じ得ない」と述べ、西川被告は、「腐敗堕落した政党の総裁として犬 養を狙撃しただけで、個人としても政治家としても尊敬に値する人物であると思っている」と陳 述している。 検事は、「被告たちが主張する農村経済の破綻、政党政治の混迷、財閥の堕落等々の国内 事情について、一部は認めるが他の大部分については被告らの認識不足である。しかも、立 憲政治下の社会では合法的手段以外には許せない」と論告をした。今からみればごく当たり 前の論告内容であるが、右翼からは血も涙もない論告だと非難された。世論は被告たちに同 情的で助命嘆願書が殺到した。まるで被告たちは愛国の志士で、虐殺された犬養の方が悪人 であるかのような世論が支配し、被害者犬養の家族の方が白眼視されたと孫の犬養道子は語 っている。判決は論告より後退して被告らの動機に同情したものだった。このことは軍部急進 派の独善に油をそそぎ、二・二六事件などへの道を開けた。 京大教授、防衛大校長を歴任した政治学者・猪木正道は、「今日冷静な頭で考えれば、一九 三三年の日本人はすでに発狂していた」と言っている。(猪木正道『軍国日本の興亡』p202) 植原悦二郎は、これらの経過をどう見ていたのであろうか。彼の出身地三郷村の神谷博(後 の三郷村村長)は次のように書いている。
リカやイギリスでの苦学も何ら苦労と思わず、帰国してからは誰に何はばかることもなく直言し てきた剛直な植原の涙が、単に犬養の死を悼むという感情だけのものだけではないことは察し がつく。日本が狂信者たちの専横に支配されはじめた時代の政界で、想像を絶する陰謀詐術 に直面し、それからの植原は、誰をも頼みとせず、媚びも売らず、徒党も組まず、文字どおり の孤軍奮闘を始めるのである。 植原悦二郎は、長野県南安曇郡三郷村出身の政治家である。一八七七年(明治一〇年)明 盛村(現在の三郷村明盛)中萱に生まれ、母親に大切に育てられた。たいへんに癇の虫の強 い子で、まじない師にへその周りに墨を塗られたこともあるという。幼児期は内気なはにかみ やで、小学校二年生になってからようやく登校できるようになったほどだったが、少年期には腕 白小僧になり、相撲ごっこではいつも大関役(当時の最高位)だった。 五歳の時には百人一首のすべてを順序よくそらんじることができたほど物覚えがよかった が、字と絵が下手だったので、当時は一郡に一校しかなかった豊科の高等小学校での成績は 一番ではなかったと自分で書いている。(植原悦二郎『八十路の憶出』植原悦二郎回顧録刊行 会 p4) 生家は、まわりに壕をめぐらした大邸宅を構え庄屋も務めた家だったが、祖父が明治の始め に興した事業で失敗して資産を失っていたので、中学校(現在の高校)への進学はせず農事を 手伝った。 しばらくは独学を続けていたが、向学の念やみがたく家出をした。一回目の家出の時は母親 の嘆き悲しむ手紙を読んで帰郷したが、二年後、再び家出をし、諏訪の製糸会社や横浜税関 に勤めながら独学をつづけた後、アメリカ航路の航海士をしていた叔父(彼も家出人だった)の 手引きで、一八九九年(明治三二年)、シアトルに渡り、スクールボーイをやりながらハイスクー ルを卒業した。 (スクールボーイというのは、学校に通わせてもらえる住み込みの家事使用人のことで、穂高 から渡米した荻原碌山や清澤洌もこれによって学業を修めている。) 第2節 ロンドン大学政治学博士 植原は、一九〇四年(明治三七年)にワシントン大学に入学して政治学と哲学を学んだ。ワ シントン大学で彼が師事したスミス教授は当時のアメリカにおける政治学者三指の一人であ る。また、彼はアメリカ哲学も深く学んだ。彼が学んだ哲学は、田中王堂なみのアメリカ・プラグ マティズムである。ちなみに、指導教授セイボリーは、プラグマティズムの元祖ウイリアム・ジェ イムスの直弟子であったという。植原はそれらの師の下でアメリカ ン・デモクラシーの精神を体 得した。 自活しながらの大学生活であったが、植原の生活力は旺盛で苦学というにはほど遠い恵ま れた境遇だった。「日米商報」という週刊誌を発行して定収入を得、更に電力会社GEの代理店 をやったり、「広瀬中佐旅順港攻撃の段」などという芝居興行で大儲けをしたりと、「私は米国 で勉強しておる間に苦労の苦の字も知らず、毎日毎日愉快な生活をしておったばかりでなく、 大学を出るときには、四、五千ドルの貯金さえも持っておったのであります。」 ワシントン靴店の創業者・東條◆は労働移民として当時のシアトルに着いた直後、日本人相 手の総業商社・古屋商店に仕事を世話してもらい、現場の町まで一泊の旅程を植原悦二郎に 同道してもらっている(東條◆『私の春秋』p19)。植原のアルバイトが当時の日本からの労働 移民たちとは比較にならないほど有利な報酬だったことが伺える。植原はこの古屋商店主の 古屋政治郎、事業家の太田丑太郎の手厚い庇護のもとにアメリカでもイギリスでも悠々とした 学生生活を送ることができた。彼はシアトル在住の日本人たちの信望厚く、大学生の身ながら 日本人会の副会長でもあった。 (明治三十九年に穂高町から渡米してきた清澤洌が、同じワシントン大学の聴講生になった のは、植原の感化ないしは勧めによるものであろう。植原は、後に清澤夫妻の間をとりもって 媒酌人をつとめてもいる。清澤はその妻と子ども、義母を関東大震災で喪った。その後の再婚 相手にも日本女子大での植原夫人の教え子を紹介し媒酌人をつとめた。) 一九〇七年(明治四〇年)にワシントン大学を卒業した植原は、イギリスに渡り、ロンドン大 学の政治経済学大学院ロンドン・スクール(London school of Economics and Political Sience) で、政治学者ウォーラス教授(Graham Wallas)の指導を受けて博士号を取得した。 ウォーラスは政治学史上の重要な人物で、彼の著作『政治における人間性』は、今も政治学を 学ぶ者の必読書とされている程の権威ある学者である。(佐々木毅編『現代政治学の名著』中 公新書) 植原の博士論文『日本政治発展史』は、ウォーラスから高い評価を得てイギリスで出版され ている。あの有名な哲学者B・ラッセルの論文『ドイツ社会民主党』が含まれているほどの権威 ある論文シリーズのうちの一冊である。 植原が在籍していたロンドン大学スクール・オブ・エコノミクス・ポリティカルサイエンスは、通 称L・S・Eと略記される小規模ながら権威ある大学院で、当時も今も世界レベルの優秀な教授 が多い。戦後も哲学のK・ポパー、経済学のF・A・ハイエク等々、ノーベル賞級の学者がい る。 こう書くと、いかにもあたりまえの簡単なことに思えるかもしれないが、夏目漱石の場合と比 較してみれば、植原悦二郎のなみなみならぬスケールの大きさと才能を計り知ることができ る。漱石は東京帝大の英文科を卒業した後、文部省派遣の海外留学生としてロンドン大学に 留学した。けれども、深刻なアイデンティティー・クライシス(自己喪失)に陥って自信を失い、神 経衰弱(現代的な言い方では心身症)になった。博士論文どころか、帰国後に書いた『文学論』 でさえも無惨な失敗作だった。 こういう事情を、当時の日本人たちは知る由もなかっただろうから、植原が取得した政治学 博士という称号も、何やら胡散臭く格の低いものであるかのような受けとられ方をされ、さぞ悔 しい思いをしたことであろう。彼の国内での処女著作『立憲代議政体論』の著者名は、なんと、 「ドクトル・オブ・ポリティカル・ソシアル・サイエンス 植原悦二郎」 というものである。当時の日 本では政治学博士という呼称はなく、政治学は法学部の研究分野だから、法学博士という名 称でなければ権威の無い胡散臭いものと受けとられたことであろう。著作ごとに学位の表記名 が違うのは、植原自身がどう表記したものか困惑していたことを思わせる。 当時の学界は東京帝国大学を軸とする官立大学出身者のみが権威ある学者とされ、しか も、彼らの政治学や法律学はドイツ一辺倒で、イギリスのことは視野になかったから、国内で 植原の真価を評価できた者はいなかったといってもよいだろう。 第3節 啓蒙・評論活動 一九一〇年(明治四三年)暮に帰国した植原は、翌年には『通俗立憲代議政体論』という一 般読者向けの書物を発刊して、イギリスの立憲政治体制について紹介し、また、インテリ向き には大正リベラリズムを先導した雑誌『東洋時論』に、当時とすればかなり先鋭的な憲法論を 発表した。 東京帝大の憲法学教授、美濃部達吉と上杉慎吉の学説上の争いは、後年になって天皇機 関説事件として大きな政治問題になったが、植原は早くも一九一二年(大正元年)の時点で、 両者の論争は、主権と統治権を混同している議論であって、そもそも両者の学説はその基盤 が間違っており、無駄な議論であると指摘している。(植原悦二郎「憲法上の謬想―上杉・美濃 部・市村博士の論争批評」『東洋時論』三巻八号 大正元年八月号)なお、この時の植原の肩 書きは、雑誌社によるものか植原自身によるものか定かではないが、「ドクトル・オブ・サイエン ス」(科学博士?)となっている。美濃部、上杉等はこれだけでも鼻であしらう気持ちだったもの と考えられる。当時の日本では耳慣れなかったかもしれないが、「ロンドン大学政治学博士・植 原悦二郎」と正称を使うべきであった。 これらの論説によって、植原の学識を高く評価した東京弁護士会会長・鵜澤聡明は、自分が 理事をしていた明治大学の教授として迎え入れると共に、鵜澤が主筆を務める雑誌『国家及 国家学』へ毎号のように彼の論説を掲載した。 植原はこの雑誌で、山県有朋を遠慮会釈なく批判している。「人物人格、学識、識見 、政治 思想のいずれの面でも、伊藤公にはるかに及ばぬ山県公が伊藤公亡き後は伊藤公よりはる かに権勢をふるい、法をないがしろにしている。伊藤公は憲政の健全な発達を願っていたし、 山県公のような陋劣な陰謀奸策を用いはしなかった。後日の歴史家は山県公のことを真に我 が皇室、国家、国民に対して忠実真良なる為政者であったとはいわないだろう・・・。」(『国家及 び国家学』大正三年三月号) 憲法学者・上杉慎吉に対しては、「上杉博士は我が国憲法学のオーソリティーときいている が、博士の憲法論を読むほどに、博士は現代における立憲政治とは何を意味するか、また、 立憲政治と専制政治の区別さえ理解して居らぬことがわかった。上杉博士の理論は学者の議 論として批評する価値などない」と斬っている。(『国家及び国家学』大正五年四月号) まことに大胆にして歯切れのよい論調で、読者は痛快かもしれないが、批判された者は怒髪 天を衝く思いがする。政界や学界の陰謀奸策家・山県有朋や上杉慎吉が何の対処もせぬは ずもなく、やがて植原は明治大学の職を巧妙に奪われた。 今日の視点からみれば、ウォーラスの下で博士号を取得し、英国でその論文を発刊してもら えた程の植原の見識が、日本の学問世界では何ら受け容れられず、また、政界でも彼が異端 視されたことは、植原個人にとってばかりでなく、日本社会のためにもまことに惜しい不幸なこ とであったというべきであろう。 植原を黙殺した日本の学界は、その後、自らが軍や右翼に圧殺されることになった。大正デ モクラシーの崩壊に手を貸し、日本の軍国主義化に「貢献」したのは軍ばかりではない。日本 の政界やマスコミは勿論のこと、学界までもが加担したのである。 第4節 政界進出 国民党主・犬養毅はこれらの論説に接して、植原の学識・見識をかい、植原を無理にも政界 入りさせようと根気よく口説きおとしにかかった。植原は学者として学問や評論で国民に貢献し たいと願っていたから、政界に入ることを嫌がっていた(と本人は書いている) 、度重なる犬養 の懇請を断れなくなって一九一七年(大正六年)の総選挙に立候補して衆議院議員となり、そ れ以後、戦中・戦後を含めて三十四年十ヶ月という長いあいだ在職した。 ところが、犬養毅は革新倶楽部(旧国民党)を維持できなくなり、第二次護憲運動の成功を 潮時に、政界を退こうとした。引退の覚悟を決めた犬養は、政界に残る革新倶楽部所属議員 たちの行く末を配慮して政友会に合同したので、植原は自動的に政友会所属議員となった(一 九二五年、大正一四年)。政友会は伊藤博文、西園寺公望、原敬の政党であり、大隈重信、 板垣退助、犬養毅の国民党(革新倶楽部)とは合わない部分もあったから、この時、植原から 離れた地元の支持者も多い。 北穂高村(現在の穂高町北穂高)出身の政治評論家清澤洌は、犬養毅が政友会入りした際 に、「どうして、多年のあいだ非難攻撃してきた政友会に入党せねばならぬといふ結論が生ま れるか。朝起きて、自分の使はうとする歯楊子が、もう濡れてゐた時のやうな、ガッカリした感 じをもった。私の胸は反感で一杯になった。・・・・・・犬養を葬るの辞とする。」と厳しい批判をし ている。(清澤洌『自由日本を漁る』p349) 第一線を退いていた犬養毅がその後に首相に任命されたのは、政友会内部の派閥争いで 誰を首班指名すべきか暗礁に乗り上げたので、争っている双方に関係のない犬養に一時しの ぎに首相をやらせたまでである。前内閣の井上蔵相の緊縮財政による不景気を解決せねばな らないという、火中の栗を犬養に拾わせたのだともいえる。 犬養亡き後の政友会はますます軍と結びついていき、結果的に軍部に政治を明け渡す役割 を果たすなど、必ずしも植原の志に添うものではなかった。彼は副議長という立場に棚上げさ れてしまったが、あの戦時中に、時の首相東条英機を国会で公然と批判したので、翼賛選挙 では執拗な妨害・迫害を受けて落選している。 彼は終戦で返り咲き、終戦直後の困難な状況での重鎮として国務大臣・内務大臣を務めた が、当時、日本の政治を支配したGHQ(占領軍総司令部)の意向に逆らうことが多かったの で、幣原首相や吉田首相はほとほと植原を持てあましたという。その故か大臣としての在任期 間は短い。 植原の脳裏には、若き日に学び見聞したイギリスの政治体制への憧憬が常にあった。イギリ スの国会議員は、選挙に際して党の公約以外の公約を掲げることは許されないし、選挙区へ の利益誘導などはできない政治システムになっている。ひたすら国家のことだけに尽力するの が務めである。植原は、国会議員としての任期中、常にイギリスの国会議員の姿を倣って毅然 と対処した。「政治家をやっているのは地元のためなんかではない。国のためだ。」「立身出世 のために政治家をやっているのではない。」これが彼の口癖であり、孤高のその姿には冒しが たい威厳があったという。 植原は、「三重県の尾崎(行雄)さんの選挙区、斉藤隆夫を出していた兵庫県の選挙区と共 に、長野県第四区は、最も金のかからぬ、言論一本で戦える選挙区として全国に知られてい た」と述べて、自分と選挙民を自慢している。(『植原悦二郎と日本国憲法』p269) 第5節 晩年の植原 一九五七年(昭和三二年)、八十歳を過ぎた植原悦二郎は、松本外語学院の経営危機を救 うべく懇願された。廃校の危機にあるという事情を聞いた植原は、ただ一言、「犠牲になる生徒 が可哀想である」ともらし、救済に乗り出した。私費を投じて土地を銀行抵当から外したうえ に、現在地の用地買収と校舎建築のための資金の全額を負担した。自ら理事長と校長を務め 再建に尽力したが、文字どおり清廉高潔な政治家だった植原にたいした資産があるはずもな く、同校の経営には苦労したという。現在の松本第一高校である。 昭和三二年の総選挙に立候補したが落選した。高齢だったことが落選理由ではあるが、学 園のために選挙資金を使ってしまったことも原因の一つだといわれている。 一九六〇年(昭和三五年)、高校認可申請のために、植原個人の所有だった学園の資産を 外語学院という法人に寄付する必要が生じた。その契約書への捺印に際して、植原の表情に は「さびしさが漂っていた」と当時の教頭だった赤羽竜作は書き残している。(『外語学園二十周 年沿革史』p23) 一九六二年(昭和三七年)十二月、東京にて八十四歳の生涯を閉じた。青山斎場での自民 党葬の後に郷里三郷村では村民葬を行った。 どの六法全書でも日本国憲法の冒頭に国務大臣・植原悦二郎の署名を見ることができる。 戦前戦中の彼の言行から推しはかれば、彼の望みどおりの憲法ができたと思われるのに、じ つは彼はこの憲法には不満だった。けれども、占領下の政治の混乱を避けるためもあって、 やむなく署名したのである。植原がその時にこだわった諸問題点は、後年になって問題化し今 日まで続いている。草葉の陰の植原は、「だから、ボクはあの時に言ったのデス」とぶっきらぼ うにつぶやいているかもしれない。 植原は学問界からは閉め出されて挫折し、政界では孤高の生涯を過ごすはめになった。植 原の期待外れと切歯扼腕、それに続く挫折感と孤独な絶望感はいかばかりだったことだろう。 犬養亡き後の政界での植原の忍従とその蓄積の果ての爆発、それにしては早い割り切り方と あきらめ・・・・・・・、植原のこうした言動は、日本の学者や政治家に対する深い不信と諦念の 現れであり、韜晦であると解釈することができる。 第1節 猪突猛進 かつて、五期二十年にわたって長野県知事を務めた西沢権一郎が、まだ東京高等蚕糸学 校(現在の東京農工大学)の学生だった頃に植原悦二郎を評した論説がある。
このエピソードは植原の横溢する正義感や実行力を物語るものとして語られることが多い が、植原自身は八十歳過ぎてから次のように述懐している。
植原の猪突猛進ぶりを彷彿とさせる事件である。そしてまた、この事件は、表面は剛直、そ のじつはお人好しの植原がその後に示す「脇と詰めの甘さ」を早くも垣間見せている。彼は、は じめから成算のないことに向かって、徒手空拳で猪突猛進する気性を終生改めることはなかっ た。それは彼の大きな美点ではあるが、理念よりも陰謀奸策が支配する日本の政界では、た やすく陥れられ不遇の道程を歩まされることにもつながった。 第2節 ジレンマ 植原がイギリスから日本へ帰った一九一〇年(明治四三年)から大正期の日本は、「大正デ モクラシー」の時代であった。アメリカの民主主義思想、イギリスの自由主義思想を身につけた 植原にとっては、格好の活躍舞台であったといえよう。政界に出るまでは言論界で、また、政 界に出てからは犬養毅の国民党(後に革新倶楽部と改称)議員として活躍の舞台があった。 しかしながら、犬養が保守的で親軍的な政友会と手を結んだこと、その犬養が党にすら裏切 られて五・一五事件で暗殺された頃から、政界における植原悦二郎の立場は微妙なものとな ってくる。植原が犬養との関係で自動的に入ることになってしまった政友会のありようは、彼が これまで主張してきたこととは正反対の方向のものだったからである。 初の政党内閣首相として人気の高かった原敬のあと、政友会を引き継いだ高橋是清は、経 済学者ケインズの理論発表より前にケインズ的な経済政策を実行していたほどの優れた政治 家で、人徳もあったが、それだけにまた集金能力には欠けていた。そこで政友会は田中義一 を迎え入れた。一九一八年(大正七年)のシベリヤ出兵時の陸軍大臣だった田中義一は、あ ろうことか、莫大な軍の機密費を持参金にして政友会に入り、首相になったと当時から噂され ていた。告訴されたが、捜査中の検事が怪死している(松本清張『昭和史発掘1』)。田中内閣 は軍と結んで、侵略的な対中国強硬政策をとった。政友会田中義一内閣の内務大臣鈴木喜 三郎は次のような声明を発表している。
政友会は政敵の民政党を批判したというだけでなく、政党政治の基盤である議院内閣制まで も批判したのである。民本主義者吉野作造は、田中時代の政友会を、「私は永く政友会に天 下を取らしておくには堪えぬ。政友会は昔もさうであったが、今度は更に一層甚しく、政権維持 拡張の為には何物も顧みぬという在来の特色を発揮して居る」と批判した。(吉野作造『現代憲 政の運用』p85) 中国大陸における日本陸軍の暴走を止められぬ田中義一は、天皇の不信をかい「顔を見た くもない」とまで言われて総辞職した。辞職三ヶ月後の失意の中で田中は他界した。 その後、政友会は、民政党・浜口内閣を失脚させようと企んで、海軍とともに統帥権干犯を 主張したり、本章冒頭で述べたように五・一五事件にかかわった。また、政権を取り戻したいと いう理由だけで滝川事件や天皇機関説事件の口火を切り、政党政治や議会政治の命脈を絶 つという墓穴を掘った。 犬養亡き後のこのようなジレンマにもかかわらず、植原が政友会から脱退することができな かったのは、選出母胎である選挙区の事情によるものではないかと考えられる。
彼は国民党だったが、国民党が政友会と合同したので、政友会候補として強力な民政党の降 旗元太郎と地元の票を分かち合う他はなかったのであろうか。当時の政友会と民政党は交互 に政権を担当しており、現在の与党・野党間ほどの大きな主義主張の違いはなかった。) 第3節 孤立無援 このような政友会の中で植原が重用されるはずもなく、浮き上がって徐々に孤立させられて いく。植原の最初の災難は、パリ不戦条約の表記に関する舌禍事件である。世界四十六カ国 が参加した不戦条約の条約文の一節にin name of people(国民の名において)とあるのを、枢 密院の伊東巳代治が憲法一三条、天皇の大権違反であると主張した。こういう問題があって も条約を締結するのか否か、という外人記者の質問に対して、植原が、文字に拘泥するよりも 条約の精神をくみとって締結すべきである、と答えたことが大問題となった。伊東巳代治につ いては、次のような批評がある。
松本清張のいうとおりならば、伊東巳代治は自分の個人的な鬱憤晴らしによって国の方向を 大きく誤らせたのであり、同情には及ばない。植原はこのために田中義一内閣の外務参与官 という地位を棒にふることになった。 その当時の外務大臣は田中首相が兼務したが、実質は外務政務次官森恪がすべて采配し ていた。本書の一章2節「五・一五事件の謎」で説明したような、策士・森恪が植原を救うはず もなかった。というよりも、森の外交手法にいちいち反対した植原は邪魔者として森に足元を 掬われたのだといった方が当たっているだろう。 その後も、植原の猪突猛進は続いた。政府が非常時だ非常時だといって国民を煽っている 時に、次のようなことを書いてもいる。 いったい我が国に於いて現在何が非常時であるか。・・・・・・二年前には外に満州事変、国際 連盟脱退問題があり、内に経済困難がある。すなわちこれが非常時であるといわれて居った。 而して満州事変は既に一段落を告げ、国際連盟脱退問題は又平穏裡に解決された。然るに まだ非常時が解消せりとは言はれて居らぬ。(『政友』 四一四号 1935・1、坂野潤治『日本政治 史』p194) その後、植原は副議長という中途半端な役に棚上げされ、発言の機会を封じられてしまっ た。議会政治の生命を封じた天皇機関説事件や、国体明徴運動に際して彼が反対したという 痕跡はない。他の事項については事細かく記載されている彼の自伝でも、このことに何ら言及 していないのは、却って意識的な何かがあると考えるべきであろう。(この点については六章で 詳述する。) 第4節 国家総動員法 やがて、政治は軍部のなすがままに操られることになっていく。元老西園寺公望は軍部の専 横を抑えようとして、公爵・近衛文麿に政権を担当させたが、近衛は却って軍部に操られる結 果に陥った。近衛自身は善を志向したかもしれないが、結果は全て悪になった。 「近衛は大衆からあがめられ敬意を表されることを期待し、権力に対する野望を持っていたの で、軍を抑えることができなかった」と植原は述べている。(『八十路の憶出』p176) 第一次近衛内閣がつくった国家総動員法は、憲法違反を問われる悪法である。植原はこの 法案に強硬に反対した。
植原の無念、切歯扼腕、痛恨の想いが伝わってくる文章である。ここにみられるのは、独り で主張するだけで仲間を固めることもせず無防備で脇の甘い植原に対しての、近衛側の奸智 に長けた切り崩しである。そして、泣き落とされて「あきらめた」と譲ってしまった植原の人の好 さ、別の言い方をすれば詰めの甘さである。相手は、植原のこの泣きどころを充分に承知のう えで懐柔しにかかってきている。孤高で剛直だが、引き際がよいと言われた植原の本質は、こ のような人の好さ、脇の甘さと諦めの早さのことだともいえる。 第5節 東条批判と翼賛選挙落選 植原は東条政権下の翼賛選挙で落選のうきめにあうが、それは、彼が翼賛選挙直前の予算 委員会で、東条首相に次のような厳しい批判をしたからである。
この後に行われた一九四二年(昭和一七年)四月の翼賛選挙では、東条の意を受けた県知 事によって執拗な妨害にあった。当時の県知事は内務省直轄の指定人事だったから、植原を 当選させたのでは自分の立場すら危うくなる。公然と選挙妨害が行われた。植原の受難につ いて、伊部政隆は次のように書いている。
第6節 終戦工作 今日と違い、戦前戦中の新聞は戦争を抑止するのではなく、軍と国民を鼓舞し煽動してい た。まだ日米戦争に入る前の日中戦争の時代に、朝日新聞は「父よあなたは強かった」という 戦意高揚歌を作ったが、その歌詞に「泥水すすり、草を噛み」という一節がある。皇軍(荒木大 将は何にでもやたらに皇の字を付けたから、日本は皇国、陸軍は皇軍になってしまった…)の 戦域はあまりにも広かった。武器弾薬はもとより食料の補給すら思うに任せない。将兵たちは 現地で略奪して恨みをかうか、現地に無い場合は文字どおり泥水すすり草を噛んでいたので ある。 戦争末期には制海権も考えずに戦線を拡大したから、輸送船がほとんど沈められる。海没し た陸軍兵士は二〇万人以上にのぼり、前線の将兵の為のわずかばかりの食料もほとんど海 に沈んだ。太平洋戦争二三〇万人の日本兵死者のうちの約一四〇万人以上が、戦闘によっ てではなく餓死したという情けない戦争だったのである。(藤原彰『飢死した英霊たち』青木書 店)。大岡昇平の小説『野火』は、食料がつきて餓死者が続出し、人肉食いまでした戦場の悲 惨な状況を詳しく書いたものであることを知る人も今では少なくなった。 一九四三年(昭和一八年)十月の神宮球場の学徒出陣式の記録フィルムをみると、悲壮な 集団自殺への儀式としか見えない。その頃から、近代戦に必要な科学的合理的な戦略判断は 消え失せて、「海ゆかば」のような説明し難い美学、陶酔によって戦争を貫徹しようという雰囲 気が満ちていき、やがて、戦術戦闘の域を超えた、絶望的な死の美学というべき玉砕や特攻 隊にまで突き進んでいった。声高に一億玉砕が叫ばれていたのである。 清澤洌の『暗黒日記』には、このような時に自由主義者たちが終戦工作をした様子が記 録されているが、そこに植原の名がいくつも見られる。
この時の植原は翼賛選挙で落選しており、議席がなかったにもかかわらず、吉田茂と図って 東条内閣の退陣と鈴木貫太郎の次期首班指名を期待して具体的な行動をしている。
植原の話した内容がこのとおりだとすると、軍部にさんざん翻弄され続けてきた近衛にしてみ れば、この期に及んで政党と議会政治の復活によって戦争終結に持ち込もうという植原の話 は、全く現実性のない夢想的な構想としか思えなかったことであろう。 案の定、近衛は東条内閣崩壊後の次期首班指名をする重臣会議で、鈴木の名を持ち出して はいない。平沼騏一郎の推薦した小磯国昭に決まってしまった。 その小磯内閣は戦局の改善に何ら寄与することがなかったばかりか、この間に、サイパン、 マリアナ、レイテそれぞれの島で悲惨な戦闘が展開され、特攻隊が組織され、東京大空襲が あり、硫黄島玉砕、米軍が沖縄に上陸、と戦局はますます猖獗を極めた。 小磯内閣は短命に終わり、ようやく鈴木貫太郎の担ぎ出しに成功したが、期待された鈴木で さえも即座に終戦には持ち込めなかった。軍の発議でソ連に停戦の仲介を依頼しようとしたが ソ連には無視された。当時の政府が世界情勢を何も知らなかったことを露呈している 日本の対米開戦を、蒋介石は「日本は飲鴆の狂人になった」と評した。日本は渇きのあまり 毒酒をあおって、一時的な興奮状態での成功をおさめているが、そのうちに毒がまわって自ら 破滅するという予言をしたのである。事実その予言どおりになった。 今日の冷静な頭で読めば、降伏勧告文ポツダム宣言は、当時のアメリカにしてみれば最大 限の譲歩であることが分かるが、日本はまさに「飲鴆の狂人」で、正確に判読できなかった。ポ ツダム宣言は、知日派のグルー国務次官が強引に関与して作成したのである。 グルーはかねてから、「日本は未熟な子どものようなものだから、子どもとして扱わねばなら ない」ことを承知していたし、アメリカが原爆開発に成功したことを知っている数少ない政府高 官の一人でもあった。そして、ソ連軍が満州国境に向けて大量移動をしていることも知ってい た。グルーがスチムソン陸軍長官と共に作ったポツダム宣言は、降伏するのは、「国家や国 民」ではなく「軍隊」であるなど、巧妙に日本側に降伏の口実を与えてあった(長尾龍一「グルー とポツダム宣言」『アメリカ知識人と極東』p138〜165、五百旗頭真『米国の日本占領政策』下 p131〜204)。 米国政界の大物スチムソンがグルーの提案に全面的に賛成したのは、アメリカ将兵のこれ 以上の犠牲を防ぐことと、ソ連の参戦前に終戦に持ち込みたかったのが主な動機ではある が、かつてのワシントン海軍軍縮会議における若槻全権代表と、彼を派遣した浜口首相、幣 原外相等の国際主義者たちの道徳的勇気に深い感銘を受けていたからだという。彼らは国内 での世論の沸騰による身の危険をすら覚悟していたのである。日本では途切れていた大正デ モクラシーが、アメリカ知日派の日本認識をとおして戦後日本の再建策につながったことを五 百旗頭教授は指摘している。(五百旗頭・前掲書p171) しかし、鈴木首相は軍が暴発し統制不可能になることを防ぐために、ポツダム宣言を黙殺せ ざるを得なかった。この降伏勧告を黙殺したことは、ソ連の参戦と、アメリカによる広島・長崎 への原爆投下の口実を与えた。鈴木貫太郎もそれだけの迂回をしてようやく降伏に持ち込め たのである。 しかも、それは合議によるものではなく、御前会議における天皇の聖断という、立憲君主制と しては異常な方法であったし、狂信的な軍人たちによる絶望的な反乱や国内騒擾を防止する ためには、陸軍大臣阿南惟幾が割腹自決していさめることが必要であった。終戦工作は、も はや植原の言うような政党や議会レベルで何とかなる問題なんぞではなかったのである。 植原のお人好しにも程があるというエピソードがある。吉田茂、植田俊吉、岩淵辰雄等は、 近衛に、戦争終結に天皇の積極的な支持を請うための上奏をさせた。吉田邸に使用人として 潜入していた憲兵隊のスパイがその文案を証拠写真に撮り(上奏の場に立ち会った木戸幸一 が憲兵隊に報せたという説もある)三名は投獄された。三人の入獄者の中で家系に恵まれて いる吉田は第一号の独房で差し入れ自由(吉田は内大臣牧野伸顕の女婿であり、牧野は明 治の元勲大久保利通の次男である)、それより身分の低い植田は第二号独房、無位無官の 岩淵は小さな雑居房に入れられた。 「吉田は食い物に贅沢な男である。獄舎に放り込まれて何より閉口しているのは食物だろう と考えた私は、吉田邸を訪れた。獄中から吉田がしきりに食べ物を注文してくるが、ただおろ おろしているばかりであった。」「その頃、パンや牛乳など尋常一様なことで入手できようはず はなかった。私は高詢社の台所へ駆け付けてパンを分けてもらい、熱海の私の家にカーネー ションミルクが保存されているのを思い出して、わざわざ取り寄せて差し入れた。」(『八十路の 憶出』p246) 戦後に発刊された吉田反戦グループに関する書物中に、植原悦二郎の名は記録されていな い。(J・ダワー『吉田茂とその時代・上』p256) 植原が吉田の使者として近衛と会談した際には、当然、近衛上奏文と同じ内容が話されたも のと推察される。近衛上奏の内容とは、陸軍統帥派には共産主義の影響があり、彼らの言う なりに戦争を続行していけば敗戦の混乱に乗じて共産主義革命が起こる。敗戦でソ連圏に編 入される前にアメリカ側に降伏すべきだというものである。このような「陸軍赤化」説は当時の 政界・実業界に広くいきわたっており憲兵隊は吉田グループをマークしていた。(ジョン・ダワー 『吉田茂とその時代』上巻p249〜) 突飛な話に聞こえるが、あながち妄想とも言い捨てがたい。事実、平和主義者といわれた高 木惣吉はじつは革新派で、彼が作った案では、日本は大幅に権益をソ連に譲渡して、スターリ ンに対米降伏の仲介役をやってもらう。仲介が成功した暁には日ソ軍事同盟を結んでソ連の 南方進出を日本は支援するというものであった。(伊藤隆・長尾龍一「国体と憲政の妥協と闘 争」『憲法史の面白さ』p186) 天皇は近衛の話に興味を持ったが、近衛がそれの解決策として皇道派軍人の真崎を利 用 する案を述べたとたんに興味を失った。そのわずか九年前の軍事クーデター二・二六事件で 政権奪取を企図した真崎を、天皇は全く信用していなかったからである。(ダワー・ 前掲書 p290) 終戦後の占領下にある政治行政は、過去に手を汚していない自由主義的な政党人たちを必 要とした。植原は国務大臣、内務大臣を歴任した。旧内務省はその後の自治、建設、厚生、 労働、警察の分野を管轄していた国家機関の中枢で、当時の内務大臣といえば副総理格であ る。 危険を冒して終戦工作を共にやった植原と吉田茂であったが、吉田は二次三次と内閣改造 をする度に植原を遠ざけるようになった。そもそも、吉田は、鳩山一郎が総理になる直前にGH Qから公職追放処分を受けたので、急遽登場した総理である。にもかかわらず、鳩山が追放 解除された後も政権を譲ることをしなかった。 石橋湛山も、大正デモクラシー以来、戦時中も筋をまげずに通した自由主義者であったにも かかわらず、鳩山と同様に公職追放に遭って、政治生活の大事な年齢期を無為に過ごすはめ になった。三木武吉、犬養健、河野一郎、楢橋渡、保利茂等々、党人派の実力者はみな公職 追放処分を受けた。首相だった吉田茂は、最高司令官マッカーサーと直接交渉できる立場だ った筈だが、この時に何ら救いの手をさしのべてはいない。これで、吉田にとっては手強い政 敵としての党人が誰もいなくなった。その後の吉田は、党人派の人物を避けて、側近を官僚出 身者で固めたが、植原は彼らを「茶坊主ども」と罵倒している。(『植原悦二郎と日本国憲法』 p272) 石橋湛山の研究家・増田弘は、GHQによるこれらの政治家の追放については、明らかに吉 田が巧妙に関与していることを指摘している。(増田弘『政治家追放』p105,106,141, 58〜160) なお、占領下での憲法制定に際しての植原の考えと動きについては、七章で詳述する。 選挙区に道路を造ったり橋を架けたりというような利益誘導、あるいは蓄財という点からすれ ば、植原は有能な政治家ではなかった。そういうことはまるで眼中になかったし、国会議員が それをやってはならないという信念を持っていた。先述したように(p183)、イギリスでは国会議 員が選挙区への利益誘導などはできないシステムになっているし、国民も国会議員にその類 の卑近なことは期待しない。あたかもそれを倣ったかのように、植原に投票し続けた地元の熱 心な支援者たちは次のように述べている。
政治家としての植原の評価は、政界やジャーナリズムの世界で、身近に接していた人たちに よるものがいちばん的を得ているであろう。ソルボンヌ大学の大学院で学び、堪能なフランス 語でGHQを煙に巻きながら、新憲法制定時の官房長官として辣腕をふるった楢橋渡による植 原悦二郎評は、彼の長所も短所も含めてあますところなく伝えている。
また、地元出身で読売新聞政治部記者だった金井広志は、長い間の植原との交わりを誇ら しげに語った文章の中で、「植原の波乱にみちた生涯を一貫しているものは、卓越した孤高の 在野精神である」と表現している(金井広志「独立孤高の自然児」『植原悦二郎と日本国憲 法』)。この言葉は政治家としての植原悦二郎をよく言い当てているのではあろうが、居場所を 間違えたばかりに、優れた学識を活かすことができなかった植原悦二郎の後半生の焦慮と無 念、切歯扼腕、屈折と孤独の想いが覆い隠されてしまう表現でもある。 若い時に植原家の隣に住んでいた阿部真之助は毎日新聞の記者だったが、後年大成してN HK会長になった。天皇機関説事件に際して、自身への攻撃を恐れて沈黙していた言論人た ちと違って、「政権に眼が眩んだ政党の自殺行為」であると鋭い批判をした硬骨の言論人であ る(本書p269)。 その阿部真之助が植原悦二郎に親しみと最大限の敬意をはらって次のように書いている。
ロンドン大学の政治経済学大学院(London School of Economics and Political science )で の植原の師ウォーラス教授(Graham Wallas 1858〜1932)は、自分が出馬し選挙戦での経験 をとおして、政治が不見識な大衆の意見に左右されるので、質の低下をきたしていることを痛 感した。 その経験から得た問題意識をもって書いた彼の主著『政治における人間性』(Human nature in Politics)[1908]は、政治というものが、法律や制度だけでなく、それに関わる人間の性格や 見識はもちろんのこと、無意識の本能によっても大きく左右されることを説いたものである。人 間は動物と同様に様々な本能によって動かされるが、動物の場合には自然の事物が刺激とな るのに対し、人間を刺激するのは、主として人為的な「象徴」であるというのである。 選挙権拡大によって実現した大衆民主政治は、顔見知りの小規模な共同体を前提とする古 代の民主制とは基本的に条件が異なる。経済や通信の発達に伴う「大社会」が成立し、人々 は自分がよく知らない事柄についてまで考えなければならなくなった。しかし、大衆は見識が乏 しいので、政党名やスローガンなどの「政治的象徴」が、たとえ事実とかけ離れていても、それ によって見解が左右されてしまう。 したがって、大衆参加の民主政治では、政党の名称やスローガンなどの「政治的象徴」が大 きな役割を果たす。政党幹部は、このような特性を最大限に活用して大衆を取り込む努力をす る。党の色、党の旗、党歌などを決めてイメージの定着を図る。このように、政治的象徴を意 識的に作り出して利用する側と、それを無批判的に受容させられる衆愚とができてしまう。 このことは、代表民主政治体制に必然的に伴う現象であるともいえる。これを回避する道とし て通常いわれるのは、プラトンの賢人政治である。「つかの間に変化する、幻のような民意」な んぞを相手にせず、エリートたちに政治を任せるべきだというのである。 しかしながら、ウォーラスは、そのような、「民主制か、エリート支配か」というような制度の問 題であるとは考えない。よく訓練されたエリートだといっても「象徴」に惑わされない訳ではな い。また、独裁者といえども、世論の支持がなければ、長期にわたる統治ができるものではな い。だから、制度の問題で解消するものではない、というのである。 ではどうするか。政治に参加する者が増えることに伴う質の低下を防ぐには、国民を合理的 な判断ができるように教育するしかない、とウォーラスはいうのである。 たとえば、政治的議論というものは、「改革か、停滞か」とか、「不景気を選ぶか、好景気を選 ぶか」というような著しく単純化した議論が横行する。このような議論は、複雑な現実問題とか け離れた皮相的かつ非合理的な議論である。選挙民たちに、こんな判断の仕方ではなく、現 実をみて複数の政治的象徴を冷静に合理的に判断できるような柔軟な思考態度を育てるしか ない。 やがては、心理学に関する知識の普及により、大衆は政治家が演説で大言壮語して聴衆を 「操作」しようとしていることを見抜いてしまう知恵を身に付けるだろうし、そんな演説に感動して いる自分を恥ずかしく思うような自己意識も芽生えることであろう。(佐々木毅編『現代政治学 の名著』p3〜19) 植原が、こういう考えを持っていたウォーラスの指導を受けてから帰国した明治末期の日本 の政治社会は、こうした問題意識からは一サイクル遅れていたが、彼が政界に入ってから後 に実施の運びとなった普通選挙(一九二五年・大正一四年)などをとおして、日本も必然的にこ うした問題を抱えることになった。日本の大衆を刺激した象徴(政治神学) は、天皇神格化で あり、日本精神であり、国体明徴運動であり、大東亜、八紘一宇である。 しかしながら、植原は政界にあって、せっかく身に付けてきたウォーラス的アプローチによる 解剖のメスをふるうこともなく、これらの象徴を悪用した戦前・戦中の政争の渦中に巻き込ま れ、苦汁を舐めることになった。 植原が帰ってきた明治四十三年の日本は、植原が学んできたウォーラスの問題意識よりは一 段階前の状況であった。まだ、政治制度・政治システムそのものが問題の段階だったのであ る。 植原は博士論文『日本政治発達史』(英文)で、明治憲法による日本の政治体制がイギリス のそれに比べればはるかにおくれたものであるのはやむをえぬこととして次のように説明して いる。
植原は、明治憲法下でのこの政治体制のありようを糺して、国民の覚醒を促すことが自分 の課題であると判断した。そこで、彼はきわめて分かり易い表現で『通俗立憲代議政体論』と いう、一般読者向けの啓蒙書を著して、イギリス立憲政治の精神と実際の体制を紹介するとと もに、日本の政治体制のもつ問題点について指摘した。 この著作は福沢諭吉ばりの小気味よいリズムの文語体で書かれている。アメリカ・イギリスで 哲学と政治学を学んだ者にふさわしく、植原の文章は極めて簡潔明快で、少しも衒学的なとこ ろがない。冒頭から次のような意気込みで始まっている。
この著作は、ドイツ法学者たちの衒学的な憲法論議とは違う英米法学的な明快な考え方の紹 介であり、あたかも学者の秘技のようだった憲法学を、村々の青年たちにも分かるように書き 表したものである。 当時の日本では、法律学ばかりでなく、哲学その他すべての学問はドイツのものでなければ 正統なものとみなされない時代になっていた。法学分野でも、すでに英米法系やフランス法系 は主流から駆逐されていた。 素人にわからないように、できるだけ衒学的な表現をしているかのようなドイツ法学者たちに 対して、植原は生理的な嫌悪感すらもっていたのではないかと思われる。イギリス・アメリカの 法律学、政治学やそれに関連する哲学・思想を消化吸収してきた植原は、次のようにドイツ法 学者を揶揄している。
哲学の世界では、言葉が指し示す対象のことをさしおいて、「只菅文字の意義に拘泥」するこ とを、Verbalism(語句拘泥)といい、Verbalismに起因する論争のことをVerbal dispute(言葉を めぐる争い)という。初歩的な思考の混乱である。なかには承知のうえで「言葉尻を捉える」とい う性根のよくない言い争いもある。植原はこのことを早くも明治四十五年に指摘しているのであ る。また、それに陥る理由についても次のように的確に指摘している。
「文字はものの符号なり」という前提でものごとを考えることをノミナリズム(唯名論)といい、明 確な思考をしようとする者にとっては当然の手法である。植原はこのような前提のもとに、この 著作で英国憲法について解説しながら、我が国の明治憲法における主権在民、象徴天皇論を 説き、責任内閣制、枢密院、官僚政治、政党、国民の自由、地方自治制度等々にわたって親 切で明快な解説をしている。 また、博士論文に、「ある国家の政治の形態と動きを理解するためには、その国民の心理を 常に念頭におくことが必要である」と書いた植原にふさわしく、日本の国民が、「戦争好きなる こと」、「陰険なる性情であること」、「言責を重んじざること」、「虚栄虚飾を好むこと」、「史実を 重んぜざること」、「理想の低きこと」等々を具体的な例をあげて説明し、これらの国民の特性 は立憲政治の健全な発達のためには障害となることを説いている。この部分は、ウォーラスの 弟子ならではの着眼といえる。 植原の説くところはきわめて明快なので、明治大学の学生には大変に評判がよかった。彼 が担当した比較憲法や政治学の授業には、東京帝大はじめ他大学の学生までもが聴講に来 て大講堂は満員だった。これが同僚の妬みをかって讒言され、学長がこれを信じたことに承服 できなかった植原はさっさと明大を辞している。学生たちが学長に対して植原の辞職撤回を要 求する騒動がおきたが、植原自身が復職する気がないので騒動は尻切れとんぼに終わった。 それから十数年後に学長が、「あの時は自分が誤解をしており相すまなかった。学校の将来も 傷つけたと非常に後悔している」といって心から詫びたという(『八十路の憶出』p42)。讒言とい うものは、される側よりも、する側の方が悪いというのが昔からの常識である。 植原の指導を受けたことがきっかけとなって、後に明治大学教授、名誉教授になった弓家七 郎は、優れた指導者としての植原の姿を次のように伝えている。
植原は、ロンドン大学で師ウォーラスから授かった正統的な学問の方法、すなわち、格 の高い古典や質の良い原典を直接繙くことを、自分の学生たちに、段階をふんで懇切かつ 厳格に指導した模範的な大学教師だったことがうかがえる。彼は学生を指導することが上 手だっただけでなく、好きでもあったのではないかと思われる。 法律の条文をどのように解釈するかではなく、法律そのものの基本原理や正統性、すなわち 法の存在根拠について研究する学問を法哲学という。法哲学者・長尾龍一教授は、植原悦二 郎の唱えた憲法論について次のように説明している。
植原のような「主権は国民にある」という考え方を国民主権論という。現行憲法は前文に国民 主権を明記してあるが、天皇主権だといわれていた明治憲法の下で国民主権論を公言したの は、植原悦二郎と石橋湛山ぐらいのものである。石橋湛山はそれを植原の論から吸収したの である。 植原悦二郎は思想形成期のハイスクールと大学時代をアメリカで過ごした。周知のように、 アメリカは大西洋のかなたから人々がバラバラにやってきて住みつくところから始まった。独立 戦争に勝ち、自分たちで秩序を創造しなければならなくなった時、彼らが考えたのは、合意に よる秩序を作ること、すなわち社会的な契約をすることであった。したがって、アメリカの独立 宣言では、「政府の権力は国民の同意によって正当化される」、つまり、主権は国民にあると いうことは当然の真理であると宣言している。植原はそのアメリカで思想形成期を過ごした。 彼が学んだワシントン大学のスミス教授Jhon Allen smithは、当時のアメリカでの優れた政治 学者であり、進歩的運動の知的リーダーとして貢献した。ローズベルト大統領はスミスを賞賛し その学説をしばしば援用したという。植原は「私が民主主義について徹底した認識を持つよう になったのは、主としてスミス教授の感化によるものである。在学中、私は同博士のもとでもっ ぱら政治学を学んだ」と書いている。(植原悦二郎『八十路の憶出』p69) 植原はこのスミスの 下でジェファーソン(独立宣言起草者)的な民主主義精神を自分の血肉にしたのである。 植原は帰国して約一年後の一九一二年(明治四五年)二月に『通俗立憲代議政体論』を出 版した。その年に奇しくも、憲法学者・美濃部達吉と上杉慎吉(共に東京帝大教授)の論争が 始まった。明治憲法の下での主権は誰にあるのか、天皇の地位や役割はどういうものなのか という問題なのであるが、両者は互いに相手の学説を批判して譲らず、しまいには、はなはだ 非学問的な言葉の応酬をする泥試合の様相を呈してきた。 植原からみれば両者の争いはコップの中の内輪もめみたいなもので、そのコップ自体が間 違った土俵の上に載っている。その土俵とは、ドイツ的な法解釈の仕方である。彼は『立憲代 議政体論』の冒頭で次のように述べている。(原文は明治的な文語体であるが、口語体に直し て紹介する。)
それから六ヶ月後に、今度は名指しで両者を批判する論文を雑誌に発表した。(「憲法上の 謬想―上杉、美濃部、市村博士の論争批評」『東洋時論』三巻八号 大正元年八月)植原の批 判は次のようにまことに分かりやすい。
植原のように「主権ははじめから国民がもっている」、「事実を研究すれば、事実が最もたし かである」というような考え方は英米法的な考え方なのに対して、上杉の天皇主権説も美濃部 の国家主権説も共にドイツ法的思考の産物である。たとえていえば、植原は、上杉と美濃部に 対して、空中の土俵で争っていないで地上の土俵で争ったらどうかと言ったようなものである。 植原の批判に対して、美濃部・上杉側からは何の応答もなく黙殺された。植原が強烈に批判 した上杉はともかくとして、彼が暗にかばったつもりの美濃部がこの時の植原の論を無視した ことが、後年、天皇機関説事件に巻き込まれた美濃部に対して、植原が終始冷淡な態度をと り続けたことと無関係ではあるまい。(これについては六章で詳述する。) 主権が国民にあるのだとしても、一条で統治権が天皇にあるとされ、三条には「天皇ハ神聖 ニシテ侵スヘカラス」とあるのだから、天皇による専制政治が行われるではないか、と考える人 がいるかもしれない。植原は一九一三年三月の『国家及国家学』誌上で次のように説明してい る。
植原はこのような君主の象徴性をウォーラス教授の指導の下で、イギリス王室の実際の姿 や、W・バジョットの著作『イギリス憲法』(Walter Bagehot , English Constitution)の次のような 見解に学んだことはほぼ間違いないであろう。
植原はロンドン大学LSEで博士論文を書いた。この論文は、大政奉還・明治維新からはじま って藩閥政治、民権運動を経て明治憲法制定に至るまでを詳細に分析検討したものである。 この論文は、日本への関心が高まっていたその当時のイギリスにとっては価値のある文献だ ったから、The Political Development of Japan 1867〜1909(日本政治発展史)というタイトルで 発刊された。 植原はこの博士論文で、「天皇は、日本人大衆の心の中に、過去から今に至る国の存在に ついての心象を写し出す象徴であり、国民同胞という観念を生じる象徴」であると明記してい る。イギリスで彼のこの論文が発刊されたのは一九一〇年(明治四三年)である。明治憲法下 でこのように天皇の象徴性を明言したのは植原一人しかいない。本書では、読みやすさに配 慮して大正二年の雑誌論文を引用したが、これと同じ内容をごく簡略化して文語体で著した 『通俗立憲代議政体論』を発行したのは一九一二年(明治四五年)のことである。 植原の国民主権論や象徴天皇論は、戦後の日本国憲法に慣れ親しんだ現代の者にとって はごく常識的に思える。しかし、戦前は、これよりはるかに微温的な美濃部の憲法解釈論でさ え国賊扱いされて葬られ、美濃部は弾圧された。信じがたいかもしれないが、戦後の新憲法草 案を起草しようという時になってすら、植原は「とんでもないことをいう」と敬遠されて、蚊帳の外 におかれていたのである。(本書p299参照) なお、国民主権論や象徴天皇制を唱えていた植原ではあるが、皇室に対する彼の敬愛ぶり は終生変わることはなかった。彼は、昭和天皇の即位式に閣僚として列席した時の感激を、戦 後、八十歳を過ぎてから、次のように書いている。
国民主権論や象徴天皇論の他にも、特筆すべき植原悦二郎の主張は、責任内閣制を採る べきだという提言である。責任内閣制とは、多数党が政権を担当し、各大臣は総理大臣の統 括の下にあって連帯責任を持つ内閣、つまり、現在のような内閣制度のことである。植原が主 張したことの重大な意味を理解するために、まず、明治憲法の問題点について知っておきた い。 意外に思うかもしれないが、明治憲法下における内閣総理大臣の地位は、今とは比較にな らぬほど不安定で弱いものであった。首相の上には、元老がおり、枢密院があった。 元老は選挙結果に関係なく思いのままに首相の首をすげ替えたし、軍部大臣の指名と軍事は 首相の管轄外のこととされており、軍の専横を抑制することは不可能であった。 これらはみな明治憲法五五条に起因している。「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」 という五五条一項の規定は、一見したところ各大臣の責任についてだけ述べているようにみえ る。ところがじつは、この規定は天皇の地位、内閣の責任、議会の権限等々にも関係する規 定で、戦前戦中の政治の混迷と軍部の台頭の原因はすべてここにあったといってよい。植原 はこうした事態が起こりうることを早くも明治四十五年に指摘していたのである。 五五条の規定を文字どおりに解釈すれば、それぞれの大臣たちが個々に天皇を補弼し責任 を負えばよいのだから、各大臣は総理大臣の指揮に従わなくとも構わない。すると、例えばの 話、一方では陸軍大臣が戦争を企画し、他方では外務大臣が反対に平和条約を結ぼうという 場合には、どちらにするかを総理大臣ではなく、天皇が決定せねばならぬことになる。すなわ ち、天皇が直接統治する政治体制となる。 このように天皇が実際政治にかかわれば、失敗した場合の責めは天皇にくる。憲法第三条 の神聖不可侵という存在ではなくなる(本章4節参照)。しかも、憲法第四条には「憲法ノ条規 ニ依リ」統治する立憲君主であると規定されているから、専制君主のように振る舞うことはでき ない。 このように、明治憲法の天皇の政治的権限はどっちつかずの中途半端なものであった。 この矛盾した憲法を機能させていたのが元老集団である。伊藤、山県、松方、井上たち元老 の合議によって、統一的な意志決定がなされていたのであり、これが憲法起草者が最初から 意図したことだった。 起草者井上毅は、イギリス的な議員内閣制よりもプロイセン流の超然内閣の方が国情に合 っていると判断した。当時の政府と議会とが国際的生存競争の渦中にある日本の地位を確保 することなぞ考えもせず、「徒に小局の争に汲々として、大局の何物たるかを忘れ」ている状態 だったので、その方が政治の安定を維持できて国益にかなうと判断したのである。起草にあた った井上毅は明治二一年の枢密院における憲法草案審議の場で、五五条の立法趣旨を次の ように説明している。
天皇の主権(じつは元老による統治)は議院にも内閣にもゆずってはならない。総理大臣に 権力を集中させれば天皇の大権(元老の政治指導力)をも侵しかねない。これを防ぐために各 大臣の権力を分散させねばならぬ・・・。憲法五五条の規定はそういう目的ために設けられた のである。 ところが、時代を経るにしたがって、起草者たちの予想をはるかにこえて現実の日本社会の 方が急速に近代化してきた。大正デモクラシー時代には、実質上の衆議院の優位、議員内閣 制、男子普通選挙などが実現して、西欧型の立憲君主制がほぼ実現していたのである。 元老たちが健在の間は、この矛盾した憲法の下でも国家意志を統一することができた。 政党の指導者が、原敬のように強力な政治手腕がある場合にも同様だった。しかし、有力な 元老たちがみなこの世を去ると、もともと、権力を分散する意図で設けられた五五条が災いし た。議会を基盤とした強力な指導者が登場することを恐れた防止策(五五条)のために、核心 となるべき指導者がいなくなり、国家としての意志統一をすることが極めて難しくなっていった のである。 一人生き残った元老西園寺公望は、政策の具体には関与せずに首相の指名をするだけに なった。首相は、伊藤や山県のような権威のない西園寺の「好みの人物」というだけで、国民 の支持という基盤を持ってはいないから、軍は恐れることはない。政府のやり方が軍の意向に 沿わない場合には、「軍大臣は現役軍人でなければならない」という勅令を利用して、大臣を 提供せず内閣を簡単に崩壊させた(6節で詳述する)。昭和期になると政府は軍を抑えられ ず、軍内部でさえ、陸軍省は参謀本部を、参謀本部は現地派遣軍を抑えられないという事態 にまで陥ってしまった。 昭和初期から終戦までの政府は、機能不全というに等しい権力の分散下におかれた弱い存 在だったのである。天皇が立憲国の君主として憲法を遵守しようとすればするほど、明治憲法 は政治的な作用をしなかった。天皇による二・二六事件の鎮圧と終戦の詔勅は、なんと、天皇 の憲法違反によってなされたのであった。 つまり、明治憲法は昭和初期にはすでに「耐用年数」がつきかけていたのだといってもよい。 明治憲法の本家ドイツでは、日本が模範としたプロイセン憲法の下でのウィルヘルム二世の 「素人政治」(天皇親政に相当する)の帝国主義時代は崩壊し、第一次世界大戦、敗戦、ワイ マール憲法時代、ヒトラーとめまぐるしく変遷している。 ところが、日本では社会の変貌にもかかわらず、明治憲法は「不磨の大典」として扱われて いたから改正などは思いもよらない。そこで、憲法学者・美濃部達吉は、明治憲法の制約の中 で欧米的な議会重視の政治体制の正当化をしようと考えた。日本の国家としての意思決定を 天皇に決断をさせる形(天皇親政)では行わないで、あくまでも首相が助言機関の支持を得て 行うようにし、しかも、助言機関としては衆議院に優越的な立場を認めようとしたのである。そ のために美濃部は国家法人説というものを構成し、その学説を天皇機関説と名付けた。もっと 端的にいえば、議会重視ではあるけれども、明治憲法は天皇主権となっているから、国民主 権とはいわないで、国家主権・天皇機関説という複雑な理論を構成したのである。 美濃部の天皇機関説に比べれば、ドイツ憲法学に汚染されていない植原悦二郎の五五 条解釈は、次のようにじつに簡潔明快である。 植原は、時代の変化に従って憲法も変わるべきだというのである。天皇機関説のような理論 構成をしなくとも、憲法を読み替えればよいことである。これは英米法の世界ではいわば常識 だといってもよい。イギリスには成文化された憲法はなく、慣習と判例によって運営されてい る。成文化されているアメリカ合衆国憲法でも、一七八七年に制定されてから後に、時代ごと に必要に応じて加えられた修正箇条が二六ヶ条もある。イギリス・アメリカでの法律学は判例 研究が主な仕事なのである。植原は、まず、憲法は「不磨の大典」(改正できない大切な法典) 扱いされるべきものではないと次のように説明する。
こういう考え方に基づく五五条の読解の仕方について次のようにいう。
誰に対して責任を負うのかということになれば、天皇か国民(その代表としての議会)のいず れかしかない。天皇に対して責任を持つというのは、専制国でのことである。日本は憲政国な のだから、国民の代表である議会に対して責任をもつべきだと説明している。
このように、植原の論述はきわめて明快かつ自由自在である。続けて次のように述べ、責任 内閣制を採るべきことを主張している。
植原がこれを書いたのは明治四十五年であるが、その後、日本の政治は、植原が危惧した とおりの道を歩んでいった。植原の主張がようやく実現したのは、戦後の憲法によってであ る。 なお、植原は、五五条の問題以外に、責任内閣制と議会制民主主義発達の障害となってい るものとして、貴族院と元老制度と枢密院制度を挙げ、民意を代表するものではないとしてそ の存在と機能を批判している。(「我憲政発達の九大障害」『第三帝国』第二〇号、大正三年十 月。再掲:高坂邦彦・長尾龍一編『植原悦二郎集』信山社・日本憲法史叢書・2005年 植原が早くから問題にし懸念したことが、後年になってから不幸にも的中し、この国を軍国主 義者たちが支配することにつながったもうひとつの問題は、陸軍大臣・海軍大臣が現役武官で なければならないという制度である。 これは憲法に定められているものではない。明治三十三年に山県有朋が陸海軍の官制を改 正して、陸海軍大臣の任用資格を現役の大将・中将に限定したのである。植原は早くも大正 三年に憲法違反であると指摘している。(前掲「我憲政発達の九大障害」)
植原はこのことを大正五年に発行の『日本民権発達史』に再度詳しく記述している。(初版 p407〜410。昭和三十三年の復刻版ではp261〜265) また、大正八年発行の一般読者向け書 物『デモクラシーと日本の改造』にも再々度書いている。そこでは、危惧すべき規定であり、憲 法違反であることを分かりやすく説明した後、更に次のような分かり易い話を付け加えてい る。
植原はこう主張したが、この規定は何ら改められることはなかった。軍が統帥権を振りかざし て、政府に従わずに戦線を拡大していったことは周知のことだが、軍部がこの陸海軍大臣現 役軍人制の規定によって政府を思いのままに翻弄して軍国化していったことの方が、歴史上 は大きな悪影響があった。大正末期から昭和二十年までの日本を、暗愚の時代だったという 司馬遼太郎は、その元凶が統帥権という魔法の杖だったと指摘しているが(司馬遼太郎『昭和 という国家』p1〜14、75〜76、136)、実際には、軍が政府を思いのままに翻弄し支配できた陸 海軍大臣現役武官制の方が、より大きな魔法の杖だったのである。 広田内閣は、政友会の浜田国松が国会で陸軍大臣を相手に、「軍を侮辱した、しない、腹を 切れ、切らぬ」と言い争いを起こした時に、陸軍から陸軍大臣を引き上げられてしまったので 倒壊した。後継の首相として予定された宇垣一成は、軍を抑えることができると期待された が、陸軍は宇垣を首相にすることに反対し、陸軍大臣を挙げなかったので、宇垣は内閣を組 織することができなかった。代わりに軍にうけのよい林銑十郎が首相に納まった。このように、 軍は陸海軍大臣現役武官制を悪用してほしいままに政治を操った。そして最後にはあの東条 英機に政権を渡す以外に道はなくなった。 山県有朋が作った陸海軍大臣現役武官制は、山県の存命中から植原が批判していたよう に、この国を崩壊に導いた悪法だったのである。
植原悦二郎が急進的自由主義者であったと聞けば、意外に思う人が多いかもしれない。戦 後の植原を知っている人は、彼が保守的な政治家だったことを知っている。(戦後の植原につ いては七章で詳述) 植原は、一九一〇年(明治四三年)十二月にイギリスから帰国して以来、一九一七年(大正 六年)に政界に進出するまでの数年間、石橋湛山の雑誌『東洋時論』(後に『東洋経済新報』に 併合)や茅原崋山の雑誌『第三帝国』で自分の論説をいくつか発表している。これらの雑誌 は、反帝国主義、満州放棄、台湾・朝鮮からの撤退、対中国非干渉論を主張していた。 日清戦争直後から経済専門誌として発刊された『東洋経済新報』は、東京専門学校(早稲田 大学の前身)教授天野為之が経済的自由主義を旗印に掲げ、日露戦争後には天野門下の植 松考昭が政治的自由主義の色彩を加え、普通選挙を主張した。 次の編集長三浦銕太郎は、領土拡大・植民地獲得をもくろむ大日本国主義に対し、小日本 国主義を唱え満州国放棄を主張した。当時、社員だった片山潜は中国研究を深め、「支那畏 るべし」という社説を書いて、中国人が優れた資質を持っており、いずれは「歴史上未曾有の 強国ならん」との見解を明らかにし、当時の中国蔑視の世論に対して警告をした。一九一一年 の辛亥革命については、明治維新にも等しい国民革命であり、これの成功のあかつきには、 日本資本主義にとっての一大市場がひらけるということを説いて、東洋経済新報社は対中国 不干渉論を主張した。(井上清・渡部徹編『大正期の急進的自由主義』p68) 三浦銕太郎から編集長を引き継いだ石橋湛山の対中国政策論については、増田弘『侮ら ず、干渉せず、平伏さず』が詳しい。この書名は石橋の対中国観を端的に表している。なお、 同書によれば、軍縮や満州問題を討議するためのワシントン会議に消極的な政府、軍、世論 に対して、石橋は積極策を唱えて「太平洋問題研究会」を設置し、会議参加者に対する勧告文 を書いたが、植原はその研究会の重要なメンバーであった。(増田弘『侮らず、干渉せず、平 伏さず』p60) 茅原崋山は東洋経済新報が発行していた『東洋時論』が廃刊になった際に、『第三帝国』を 発刊し、減税、軍縮、小日本国主義、普通選挙を標榜した。茅原がロンドン駐在の新聞記者 で、植原がLSEの研究生だった頃に二人は共鳴しあっていたから、この『第三帝国』にも論説 「我憲政発達の九大障害」を掲載している。 (註、いうまでもないことだが、この誌名は、後のナチスドイツとは何の関係もない。劇作家イプ センの描いた理想国家の名称から採ったものである。) 東洋経済新報社の社員の大多数は、早大出身者で占められていた。早大の前身・東京専門 学校は元来イギリス法の学校である。東洋経済新報は、イギリスの立憲政治体制と、当時の イギリスに勃興していた新自由主義(new liberalism)を標榜していたから、主筆・石橋湛山は東 洋経済新報の社是を「新自由主義」と呼んでいたが、後の歴史家が「急進的自由主義者」とい ったのでそれが通称となったのである。(松尾尊~『大正デモクラシー』p127〜130。宮本盛太 郎『日本人のイギリス観』)p105〜136) 「新自由主義」には二種類がある。サッチャー政権が福祉予算等の政府予算を切りつめた 際の理論的根拠となったのも新自由主義というが、これはF・A・ハイエク、M・フリードマンらに よるといわれる最新のものであり、「よきものは市場で勝利し、不適なものは淘汰される」という 市場中心原理である。 この新自由主義者ハイエクの思想には大きな問題がある。アメリカでは、国家レベルでの経 済力向上を目指してレーガンがこの政策をとったことにより、社会階層の貧富二極化が進行 し、それまで民主主義を支えてきた健全な中間階級が少なくなってしまったことが現在アメリカ の社会問題となっている。そもそも、市場経済が成り立つには、市民が健全な公共精神や正 義感などの一定以上のモラルをもっていることが前提となるが、多数の貧者の発生でその前 提自体までもが衰退したのである。(註、現在の日本の政策はこの方向に進められている。)
このようなハイエクのneo liberalismとは逆に、石橋らの採っていたのは、二十世紀はじめのホ ブソンやホブハウスのnew liberalismといわれるもので、自由放任経済体制が生む弊害を、福 祉や社会政策などの国家的施策で解決すべきであるという理論であり、かつて、「ゆりかごか ら墓場まで」と誇った福祉国家イギリスの政策に論的根拠を与えたものである。 一九一一年にホブハウス(L.T.Hobhouse 1864〜1929)が著したLiberalism『自由主義』 は、新 自由主義の記念碑的な著作である。ホブハウスは、個々の人間の自由を実質的に実現させる ためには、自由放任の経済体制ではなく、国家による調整も必要であることを説いた。野放図 な自由競争を放任したり、弱者や敗者を無視し切り捨てる政策では、健全な社会を形成できな い。 弱肉強食ではない公平な分配としての年金、失業保険、健康保険等々を整備するなど、政 府による具体的な施策によって、社会の公正を実現し維持するべきである。国家には、勤勉な 国民が自分の生活を健全に維持できるだけの条件を整える義務がある、とホブハウスは説い た。 個人の人格や権利の実現はこうした健全な共同体(社会)においてのみ可能なのであり、こ うした社会においてのみ人間は生きるに値するのだ、とホブハウスはいうのである。 この新自由主義は、個人の政治的・社会的自由を保障するという点では自由主義的であり、 経済的自由放任主義が生む弊害を国家の政策で解決しようとする点では社会主義的である。 石橋湛山はいみじくも「個人主義と社会主義との統合」だといっている。(『東洋経済新報』 1915.3) イギリス流自由主義の考え方を身につけていた社員たちは、イギリスの言論誌『ロンドン・タ イムス』や経済専門誌『エコノミスト』を定期購読していたことはいうまでもなく、新自由主義の政 治学者J・A・ホブソンやL・T・ホブハウスなどの学術書も読みこなしていた。ちなみに、植原は 明治大学の学生にこれらの学者の原書を講読させている。(本書p229参照) 東洋経済新報の急進的自由主義者たちは、当時の世論であった大日本主義、軍国主義、 専制主義、国家主義に対して、小日本主義、産業主義、自由主義、個人主義を標榜したこと はつとに知られているが、石橋湛山が大正四年に書いた「代議政治の論理」は、植原の国民 主権論あってのものといわれている。 社論としての、地方分権論などの出所も、おそらく植原であろう。大正デモクラシーへの植原 悦二郎の貢献度は、彼自身の自覚よりはるかに大きかったのである。 同じイギリス自由主義の立場ながら、清澤洌はイギリス労働党の立場に近く、植原悦二郎は イギリス自由党ハト派の信奉者であるといってもよいだろう。但し、当時の日本の思想界や政 治状況からみれば、イギリス労働党も自由党もどちらも同じようなものだった。
学校の期末試験用には、大正デモクラシー=吉野作造の民本主義と憶える。吉野作造の民 本主義は大正デモクラシーの代名詞ともいえるほど有名であるが、植原悦二郎は、吉野の民 本主義と憲法解釈を誌上で徹底的に批判した。 東大の政治学教授吉野作造は、『中央公論』大正五年一月号に「憲政の本義を説いて其有 終の美を済すの途を論ず」という論文を発表した。これに対して植原は、雑誌『国家及び国家 学』大正五年三月号に「吉野博士の憲法論を評す」、『日本及日本人』五月号に「吉野氏の憲 法論と民本主義」という論文を発表して批判したのである。 論争は噛み合わず、決着もしなかったが、明らかに植原の主張の方が正当である。植原の この論文は、今日指摘されている吉野の様々な問題点をいち早く言い当てており、気鋭の政 治学者・植原悦二郎の面目躍如たるものがある。 吉野の民本主義が、民主主義を意味するdemocracyの訳語であるにもかかわらず、民主と いう言葉を使わずにあえて民本という造語をしたのは、天皇主権という明治憲法解釈のたてま えとの対決を避けるためであった。明治憲法における主権はどこにあるのかという問題を正面 に据えることをせずに、「一般に広く参政権を与えよ。政治は議会を尊重すべきである」という、 極めて現実的・政治的な主張だったのである。吉野自身が、「民本主義とは、法律理論上の主 権は君主に存りや人民に在りやは之を問う所ではない」、「民本主義は政治上の主義であって 法律上の説明ではない」と述べているとおりである(『中央公論』大正五年一月号)。 吉野作造本人が、民本主義は政治上の主義であって法律上の説明ではない、と断っている とはいうものの、民本主義は、外見と違い、法理論として論究するに値しないほど粗雑な理論 である。植原にとっては、吉野はことごとく詭弁を弄しているとしか思えない。 吉野の論文を読んだ植原は、「吉野博士の憲法論を評す」を発表して、徹底的かつ精細に批 判した。その時は吉野に対して一応の敬意を表している。吉野に対する呼称も「博士」でとおし ている。それに対して吉野は植原を軽くあしらって愚弄した(『中央公論』大正五年四月号)。そ こで、植原は「吉野氏の憲法論と民本主義」と題した反批判を発表した。彼はよほど腹に据え かねたのであろう。「学者の態度として断じて許さぬ」とまで書いている。吉野に対する呼称も 前回の「博士」から一転して「吉野氏」に変わっている。植原は、憲法学者としては度し難いと 評価していた上杉慎吉に対してさえも、「博士」という呼称を使っているにもかかわらずであ る。 しかしながら、両者の論争はしょせん噛み合うはずはないのである。植原がイギリス法の頭 で明治憲法の法理論を展開しているのに対し、吉野はそのような思考の枠組みを持っ てはい なかったからである。 イギリスは先進国では唯一の「不成文憲法」の国である。体系的に整理された条文憲法がな いイギリスでは、慣習、判例、国会法などの他の法律の総合が「憲法」 (constitution政体)な ので、多くの法源の背景や歴史的発展の理解がなくては、イギリス憲法(政体)を理解すること はできない。吉野は理解が足らず、植原には吉野とのこのズレが理解できていなかった。 植原が学んだ英国憲法は、何ら成文化されていないが、それでも英国には「憲法」としての 概念は存在する。それは長年にわたって集積されてきた政体概念(constitution)である。成文 憲法の前に政体概念があり、それを支えているのが国民の主権である。また、その内容は、 当然、時代によって、判例によって変化していく。憲法が「不磨の大典」だなどということは、イ ギリス法学者植原にとってみれば笑止の沙汰でしかない。 イギリスで議会制民主主義の精神が健全に成長し、議会や行政機構もその精神に則って機 能している現実の姿をみてきている植原からみれば、吉野はその姿を知らずに、矛盾だらけ の空理空論を弄んでいるとしか思えない。憤懣やるかたなき植原は、筆鋒鋭く吉野の民本主 義思想の矛盾を衝く。
じつは、吉野作造は、国民主権の民主主義というものは衆愚政治であって、やがて国の行方 を誤ることにもなりうると懸念していた。吉野の民本主義の基盤は、吉野自身による次のような 記述に集約されている。
それ故に、吉野は国家の存在理由が一般民衆にある、というような理論構成を警戒してこれ を排除している。(「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済す」『中央公論』大正七年 一月号)。 家永三郎は、戦後の論文「美濃部達吉の思想史的研究」(一九六三年)で、吉野作造の国民 衆愚視が露骨なものだったことを指摘し、じつは、美濃部達吉にも同様な志向があり、「それ が美濃部の思想構造にとって最も致命的な弱点となっている」と指摘している。(家永三郎「美 濃部達吉の思想史的研究」『家永三郎集』第六巻p142〜143) 植原悦二郎は、すでに一九三〇年(大正五年五月)の時点で、吉野作造の民本主義や美濃 部達吉の天皇機関説が有するこれらの問題点を看破していたことになる。 吉野との論争を最後に、植原は学界から政界へ入ってしまった。当時の我が国では稀少な 存在だったイギリス政治学者・植原悦二郎は、帰国してからほんの数年間だけイギリスの政治 体制を説いただけであった。吉野批判論で示したような学者としての切れ味を生かすことなく、 折角学んできた、政治現象に対するウォーラス的解剖のメスを使うこともなく、さっさと学界に 見切りをつけてしまったのである。 なお、吉野作造は後年、植原と同じように、陸海軍大臣現役武官制と陸軍参謀本部及び海 軍軍令部の帷幄上奏権(軍が作戦や用兵について天皇に直接進言すること)は、政府が統御 することのできない「非立憲」的なものであると批判した。(吉野『二重政府と帷幄上奏』大正十 一年p79,178) また、枢密院が政府及び議会の統制圏外の国家機関であることを指摘してそ の無力化を主張した。(吉野「枢密と内閣」『東京朝日新聞』大正十三年四月六日) これらの問題は、植原がすでに明治四十五年発行の『通俗立憲代議政体論』ならびに大正 三年の雑誌掲載論文(「我憲政発達の九大障害」『第三帝国』大正三年十月号)で先に主張し ていたことだとはいうものの、吉野はこれを発表することによって、筆禍事件となり、東大退官 後に入社していた朝日新聞退社の原因となった。細かい法的議論はともかくとして、政治戦略 的には、吉野は訣別すべき相手ではなく連帯すべき相手だった筈である。 政界での植原は、終始、吉野との間にあったのと同じようなズレによって孤立し、そして屈折 していった。政界入りした後の彼の恵まれなかった境遇を考えると、これだけ鋭い分析力をも った植原が、学者として大成する前に政界入りしたのは勿体なかったというべきであろう。 吉の天皇機関説が、国会の場で批判されて政治的に葬られた事件である。それまで官許正統 学説として扱われていた美濃部の学説は、議会政治の正当性を保証していたから、これが葬 られた時点で日本の議会政治はその命脈を絶ち切られたことになる。 天皇機関説事件と、それに続く国体明徴運動こそ、ウォーラスが問題にした「政治的象徴」で ある。しかも、植原が明治四十五年以来主張してきた、立憲政治体制の確立、議会政治擁護 の立場を否定するものである。したがって、この事件について、植原は美濃部に加担してもよ さそうなものだが、植原が美濃部のために何かをしてやったという形跡はない。そのことは本 章5節で詳述することにして、その前に事件の概要と背景ならびに本質について説明する必要 があるだろう。 すでに説明したように、憲法学者美濃部達吉と上杉慎吉は、かねてから明治憲法の解釈を めぐって対立し激しい論争をしていた(本書p232〜235)。この論争は、学問上のこととしてすで に美濃部側が一方的な勝利をおさめた形で終わっていた。それが、一九三五年(昭和一〇 年)になってから唐突に衆議院予算委員会に、ついで貴族院に持ち出された。衆議院予算委 員会で質問したのは政友会の江藤源九郎である。続いて貴族院でも菊池武夫が口火を切っ た。 彼等は、天皇が機関であるなどという美濃部の学説は、国体をないがしろにする邪説である が、これを支持するのか、しないのか、と文部大臣と首相に対して迫った。この質問が、美濃 部追い落としのために周到に準備された戦略的なものであることに気づかなかった政府側は 何ら対応すべき原則をもって臨まなかったから、質問者の意のままに翻弄され後退していっ た。 自分の学説を反逆、謀反、学匪と罵倒され、「機関」の意味を勝手に歪曲された美濃部は、 これに対する反撃演説を貴族院本会議場で一時間にわたって行った。この時の議席も傍聴席 も満員で、聞いた者はみな感動を覚えた。当の菊池さえ、「ただ今うけたまわった如き内容で あれば、何も私がとりあげて問題にするにはあたらぬやうに思ふ」といった。菊池は美濃部の 学説など何ら理解しておらず、狂信的な右翼蓑田胸喜の受け売りによって質問していたのであ る。 この演説は全部の新聞がとりあげ、中には全文を掲載した新聞もあった。最初、新聞の論調 は美濃部側の正当性を認めたものだった。これが却って右翼や軍人たちを刺激した。 彼等は、天皇=機関=エンジン、天皇=エンジンとはけしからんという論法で、機関説の反価 値化と国民的反感を煽った。新聞も順次これに追随した。日本の新聞はこのような場合には 大衆に迎合するのが常である。戦前・戦中の新聞が対中国武力弾圧と対米戦意を煽ったこと は周知の事実だが、美濃部事件に際しても同様であった。言論思想史の専門家・掛川トミ子 教授(津田塾大)は次のように述べている。 新聞は大衆の熱狂を鎮静させるよりは、多数の読者の間に存在している共通の欲求・感覚 をより強く刺激する方向を選び、それによって興奮させられる大衆心理に新聞が追随する、と いう循環作用が行われ、相互の熱狂ムードと増幅作用がそこから生じ、新聞と大衆との間に 心理的な同盟関係が成立したのである。 つまり、この過程が日本の「大衆新聞」成立の心理的背景であり、言論機関から心情の大衆 化機関への転換を示すものである。日本の新聞の情報操作の特徴的な傾向は、情報に質的 制約を加えたうえで量的には多量の情報を流すところにみられる。日本におけるファナティズ ム(熱狂・狂信)とこのような情報操作とは不可分な関係にあると考えられる。 このような新聞を基盤として、大衆の熱狂的ムードが国体明徴の国民的世論として造成さ れ、日本社会に充満したことが、美濃部を孤立無援の姿で立たせたのである。…(中略)…。 このときの知的社会・言論界の総沈黙は、暴力(テロリズム)への恐怖もあったが、同時に、 知性は反知性とは論争できぬことを知っていたからである。(掛川トミ子「天皇機関説事件」 橋川文三・松本三之介編『近代日本政治思想史U』所収 p349) 美濃部の学説はこのようにして抹殺され、それ以後、社会全体から合理的な判断は失われ ていった。元来、「国体」とは「くにがら」という意味でしかない。英語では constitutionであり、そ れは「国の構成」、つまり「憲法」という意味でもある。価値観をふくまぬはずのこの言葉が、こ の事件を契機にして日本特有の情念と価値観をもった呪文に変身し、思想・言論の弾圧取り 締まりに魔術的な力を発揮するようになった。 美濃部達吉が政治によって葬られたとはいっても、彼のことを学問一筋のかよわい学者だっ たなどと想像しない方が、この事件の政治的な背景や本質が見えてくる。美濃部は矢面にたっ て先鋭的な政治的活動をした骨太の(別の見方をすれば、学者にしてはしたたかな)政治的人 間でもあった。政治的に弾劾されたのは、彼自身が政治的人間だったからでもある。天皇機 関説事件は、美濃部の次のような数々の政治的な動きに対するリアクションだったのである。 @民政党寄りの美濃部 政友会が美濃部糾弾にたったのは、美濃部が従前から民政党寄り の発言をしていたからである。当時の民政党は、親軍的で国家主義的な政友会と対立し、イギ リス型立憲政治をモデルに穏健な政策をとっていたから(坂野潤治「憲法史と政治史」『憲法史 の面白さ』p132)、頭はドイツ国家学、胸はイギリス立憲政治モデルといわれた美濃部とすれば 当然のことである。 A上杉・穂積の怨恨 上杉慎吉は東京帝大とかけもちで、陸大、海大の憲法学の講義を長年 続けており、軍との関係は深く、学者というよりは、軍と政友会の間を暗躍していた権謀家であ る。貴族院で美濃部批判の口火を切った菊池武夫は上杉の盟友・上原勇作元帥の部下であ る。 美濃部はその上杉の師である穂積八束の憲法学説を「変装的専制政治論」だと批判してき た。また、美濃部から学説を批判された弟子の上杉は、理論の破綻をきたし学界では孤立し 弟子にも逃げられるやらで美濃部に怨恨を持っていた。 B治安維持法を批判 美濃部は、この法律が公布された翌年に「世にも稀な悪法」として批判 した。労農党代議士山本宣治が暗殺された時には、政府の左翼圧迫政策のせいであると激し く批判した。民政党の井上準之助が右翼によって暗殺された時には、政府の右翼暴力に対す る取締の甘さを批判した。 C統帥権干犯を否定 民政党の浜口内閣がロンドン軍縮条約を結ぼうとしたときに、政友会総 務の鳩山一郎は海軍とともに、天皇の「統帥権干犯」であり憲法違反であると非難したが、美 濃部は逆に、条約の内容は統帥権の範囲外で、何ら憲法違反ではないとして浜口内閣を激励 した。 この事件についてイギリスの新聞ザ・タイムスは、「イギリス人からみれば、天皇が批准した のがなぜ天皇の大権を干犯したことになるのか理解に苦しむ。不思議な国だ」と報じている。
D帝人事件の陰謀を批判 帝人事件とは、帝国人絹株式会社の株取引に関する官僚の汚職 疑惑事件である。国粋主義的な司法官僚と陸海軍高級将校を集めた国本社の会長・平沼騏 一郎は、かつての部下検事たちを使ってこの事件をでっちあげた。斎藤内閣を倒すことが目 的だったのである。 美濃部はこのことを貴族院でとりあげて質問したので平沼の恨みをかった。もともと美濃部 は平沼の政敵・論敵の一木喜徳郎の弟子だった。美濃部の天皇機関説を国会で最初に攻撃 したのは平沼直系の江藤源九郎である。斉藤内閣はこの事件によって崩壊したが、これが平 沼の細工であることを知った斉藤と、平沼嫌いの西園寺公望は、後継として平沼を推さず岡田 啓介内閣を実現させた。
E陸軍パンフレットを批判 陸軍は昭和九年に「たたかいは創造の父、文化の母」で始まる戦 争宣伝のパンフレットを作った。「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義を芟除し、 真に挙国一致の精神に統一する」という陸軍の主張に対し、美濃部は、「驚くべき放言」とい い、「国際主義を放擲する」ことは「世界を敵にすることに外ならない」。「世界を敵としてどうし て国家の存立を維持することが出来やうか。起草者はこれによって国家主義を鼓舞する積も りであらうが、国際主義を否定する極端な国家主義は、却って国家自滅主義、敗北主義に陥 る」と痛罵した。 その上、陸軍が排除しようとしている国際主義、個人主義、自由主義こそまさに「明治維新以 来のわが帝国の国是であり、憲法上の基礎原則として宣言している」。我が国の急速な進歩 は、この「個人主義、自由主義の賜ものに外ならぬ」。個人的な自由こそ「創造の父であり、文 化の母である」と切り返した。 また、このパンフレットが「皇国」という語を使用していることについて、我が国には憲法で「帝 国」という正式名称が定められているにもかかわらず、勝手に作った「皇国」という言葉を国の 公の機関である陸軍省が使ったことは法理上容認できないと批判した。 このように、美濃部はファッシズム化の推進勢力である軍に対して批判の最前線に立ってい た。軍はどんな手段を使ってでも美濃部達吉の憲法学説と言論活動を抹殺したかったのであ る。 前節のような背景を知ってみると、天皇機関説事件は、政府による思想弾圧というよりは、 民政党に対する政友会の攻撃という動機が出発点であり、更にその奥に右翼・軍部の巧妙な 戦略があったことが判る。政友会は軍の覇権戦略のお先棒を担いでいたことになる。当時、こ のことを指摘した果敢なジャーナリストは、清澤洌と阿部真之助だけである。 (清澤洌「美濃部著書の発売禁止」『経済往来』一九三五年五月号。阿部真之助「美濃部 問題と岡田内閣」『改造』一九三五年五月号) 政友会はその後、「国体明徴決議案」を衆議院に提案し、自由主義を封殺する国体明徴運 動を先導した。しかしその政友会すらも、本性を露わにした右翼国粋主義者によって糾弾され る羽目に陥ることになる。次のように政友会の自己撞着を指摘されたのである。
政権争奪のための政略で、政党が、美濃部の学説を葬って政党政治・議会政治を破綻に陥 れたのは 信じ難い程の愚挙というより他はない。 軍のいう国体明徴、皇道、天皇親政は全くの口実にすぎず、実際は、軍による政治の覇権 がその目的だったのである。軍上層部の者たちは、天皇親政をいい、国民には『国体の本義』 を、そして、戦線の将兵に対しては、『戦陣訓』を与えて「大君の辺にこそ死なめ」といいなが ら、自分たちは次のようなあきれかえるほどの厚顔さで「天皇機関説」を実践していたのであ る。
ひとをくったような出光の言いぐさは、まさに不忠の極みと言うべきであろうが、見事なまでに 当時の軍の意向を露呈している。軍部は、天皇親政に名を借りたそのじつ天皇機関説にたち 天皇の名を借りて日本の政治を支配したかったのである。 戦時中の有能な内務省官僚だった増田甲子七は、次のような軍人との実話を書いてい る。
柳川平助は血気にはやった皇道派の青年将校たちが多数所属していたことで有名な第一 師団の師団長であり、彼が言った「血統をつがれた誰か」というのは秩父宮のことである。当 時の陸軍皇道派の軍人たちは、軍の意のままにならない昭和天皇を軽んじて秩父宮の方を高 く評価していた。五・一五事件の後、昭和天皇が軍出身の田中義一首相を問責して辞任に追 いやったことがそのきっかけではあるが、元はといえば、西園寺その他の天皇側近に明治期 の元老伊藤たちのような政治的指導力がなく、原敬のような統率力も欠けていたからである。 明治天皇が優れた偉大な天皇であったというのは作られた偶像である。一九二七年(昭和二 年)に明治節が制定されたが、その当時、明治時代や明治天皇を過度に理想化し神格化する 風潮があった。当時発刊された大衆読み物『明治大帝』はその典型例で、明治天皇があたか も直接統治したかのように著されている。こうした風潮が、現存の昭和天皇は「天皇親政」の統 治ができない見劣りする天皇だという感覚を軍人たちに抱かせる原因になった。実際には、明 治天皇の時代は指導力のある元老たちの合議による政治が行われていたのであり、明治天 皇は「天皇超政論」的な立場だったのである。 実際に柳川中将のような目的をもって行動した軍人たちがいた。二・二六事件の時に天皇側 近は、かねてから青年将校のカリスマ的国粋主義者西田税と親しい秩父宮が反乱将校たちに 取り込まれないように、秩父宮を皇居内に導き天皇の側に置いた。西田と秩父宮は陸軍士官 学校での同級生だった。(秦郁彦『昭和史の謎を追う』上 p95、松本清張『昭和史発掘Jp87) こういう軍人たちについて、松本清張は「彼らの望む軍部独裁内閣が成立したとき、彼らは 何ひとつ天皇の意志を守ったことはない」と書いている。(松本清張『昭和史発掘E』p205) 天皇機関説を排撃した軍国支配者たちは、戦後に一転して極東軍事裁判(東京裁判)の法 廷で、天皇に戦争責任は無いと擁護したが、それはまさに天皇機関説の論理そのものに他な らない。はからずも彼等自身が天皇を機関として利用(悪用)していたことを露呈した。天皇親 政を願って蜂起した狂信的な青年将校たちは、はじめから軍上層部に裏切られていたのだと いうことになる。 天皇親政論者たちは、彼ら自身が唱えた尊皇という建前とは逆に、結果として戦後の天皇戦 争責任論者、天皇攻撃者たちに論拠を与えるという「貢献」をした。 慶応大学教授・蓑田胸喜は、他人の学説の言葉じりをとらえて故意に曲解し、貶めることを 得意とする学匪だった。京大の滝川事件を仕立てて京大法学部を瓦解させ、天皇機関説事件 を仕立てて美濃部の政党政治擁護学説を葬った。ロンドン条約を締結した浜口雄幸首相が襲 撃された時には、小躍りして喜び校舎じゅうを駆け回った。慶応の学生たちは、彼の名前・蓑 田胸喜をもじって「蓑田胸喜、狂気の乱舞」と落書きをして軽蔑したが、文字どおり発狂して精 神病院で首をくくって死んだ。激しい憎悪感、自己顕示欲、権威破壊 衝動をもった偏執狂者だ った。 また、五・一五事件を指揮した右翼の理論家・大川周明は、軍人たちの精神的支柱であった が、戦後の東京裁判法廷で発狂していることが判明し、精神病院送りとなって死刑を免れてい る。 つまり、大正リベラリズムは、これら「狂人のたわごと」「狂人の雄叫び」によって崩壊させられ たのである。天皇機関説事件で美濃部に勝ったのは上杉ではなく蓑田である。 この事件が生んだものは、上杉学説の復興ですらなく、あまりにもプリミティブ(原初的)で非知 性的な世界、神がかりの呪文と雄叫びの世界だったのである。(西田税、大川周明らの右翼 団体・猶存社の機関誌名は、なんと『雄叫び』だった。) その呪文の最たるものが「国体」であった。今の人たちは「国体」と聞けば、「国民体育大会」 開会式の青空や、明るいマーチの入場行進でもイメージするのだろうが、戦中は「国体」と聞い ただけで、みな頭も身体も呪縛されて硬直し思考停止に陥ったのである。 出光武官は「国体を云々するのは本末を誤る」とうそぶいて、彼らの絶対君主であるはずの 天皇をさえ黙らせてしまった。誰の目にも敗戦は明白であり、ポツダム宣言受諾もやむをえな いという窮地に陥っていた太平洋戦争末期に、政府首脳たちは、「国体」を護持できるか否か という議論でいたずらに時日を費やしていた。その間にも前線では死闘が続いており、特攻機 は毎日出撃し、広島と長崎へは原爆が投下され、ソヴィエト軍が侵攻してきた中国大陸から は、成年男子がことごとくシベリヤに送られて、極寒の地での重労働で塗炭の苦しみを味わっ た。一億玉砕をしてまで守らねばといわれた「国体」とはいったい何だったのか。 長尾龍一教授は『日本憲法思想史』(講談社学術文庫)の冒頭で、明治国家における憲法 史・憲法思想史は、「国体」と「憲政」という二つの標語の闘争と妥協の歴史であったと述べ、 「憲政」の崩壊と「国体」の勃興過程について分かり易い解説をしている。 (以下は長尾龍一『日本憲法思想史』p10〜26の要約抜粋。)
穂積の同僚・戸水寛人は穂積のことを「老耋セル神官」(老いぼれの神主)とまで言って、穂 積の学説が非学問的であることを揶揄している。正面きって批判したのは、穂積と同じ齢のド イツ憲法学者有賀長雄(早大)である。彼は、「穂積君 帝国憲法の法理を誤る」と題して、穂積 の「天皇即国家」論に対し、天皇は国家機関であって国家そのものではないこと、君主といえど も法の下にあり、君主の不法は臣民の超法的抵抗を惹起すると批判した。 この有賀長雄の批判論を、彼等より一世代後の美濃部達吉が体系化した。美濃部は、穂積 の憲法講座出身ではなく一木喜徳郎の国法学講座の出身だったから、穂積の学説を批判す ることができる立場にいたのである。 美濃部は、「国体」というのは国の体制という意味でしかなく、それ自体は内容の無い概念に すぎないといい、当時のドイツ国家学の通説を適用して、「主権は国家にある。国家とはいって も具体的には人間が意思決定をする。それを国家の機関といい、天皇は最高機関である」と 説いた。これが「天皇機関説」である。しかも、天皇は誤謬を冒すことのない神聖不可侵な存 在として、「君臨すれども統治せず」という立場でなければならな いと説いた。これを「天皇超 政論」という。「天皇親政論」の対立概念である。 美濃部憲法学は大正時代には権威ある通説の地位を占め、政府の実務上や官僚採用試験 では美濃部説が採られていたが、小・中学校及び軍の学校では天皇親政論が教えられてい た。これは、「理性は少数者だけに、大衆には魔術を」(Rationalism for the few, magic for the many)という格言どおりの体制であったということができる。 これを、戦後になってから、思想家・久野収は明治憲法における二重構造と呼んだ。天皇親 政論は一般大衆向きの「顕教」であり、政府機関や学者向きの超政論は「密教」というわけで ある。密教とは少数エリートだけのものであったことを言い得て妙である。この密教の部分が 「憲政の大道」として機能していたのが「大正デモクラシー」の時代であったが、軍の圧力やそ れに呼応した国民大衆やマスコミによって、顕教が大学や政府、言論界までをも支配するよう になって、大正デモクラシーは崩壊したのである。
天皇機関説事件やその後に生じた国体明徴運動は、合理主義的な憲政的立場の象徴だっ た美濃部憲法学を葬った。これは「閉じた精神」による「開かれた精神」の圧殺であり、政党政 治は実質上生命を断たれた。翌年の二・二六事件は、天皇機関説事件と国体明徴運動が招 いた結果である。 1節〜4節にわたって天皇機関説事件の意味について詳細に述べたのは、これが日本の政 治の大きな転換点になった重大な事件であり、植原悦二郎の従来の主張をことごとく破壊した ものだったにもかかわらず、植原がこの事件について何ら関わった形跡がないことを不可解に 思うからである。 しかも、国体明徴運動は、「国体」という集団幻想(集合表象representation collective )を形 成する運動で、まさに、植原の師・ウォーラスが、著書『政治における人間性』で説いた「政治 的象徴」の典型的な事例なのだから(p222〜224で説明済み)、植原にはその本質がよく見え ていたはずである。それにもかかわらず、植原がこの事件で沈黙を守ったのはなぜなのか。 まず考えられることは、機関説排撃を始めた政友会から発言を封じられていたのではあるま いかということである。彼が副議長という立場に置かれたのは、発言の機会を奪うためであっ たことは明らかではあるが、政友会の浜田国松が陸軍大臣と過激な「腹切り問答」をやった例 もあるくらいだから、発言を封じるほど党の拘束が強かったとも思えない。 また、仮に封じられていたとしても、彼にその気があれば書いたり糾弾したりはできたはずだ し、そもそもそういう拘束に従わないのが植原の真骨頂でもあった。 テロリズムへの恐怖があったのではないかということも考えられる。あの五・一五事件の時に 血まみれの犬養毅をだきかかえた植原である。現実に現場で経験したテロに対する恐怖は、 他人には想像できないほど大きかったであろう。しかしながら、後に東条に対してきわめて強 い態度に出て、官憲による様々な妨害にも頑として譲らなかったほどの猪突猛進の植原が、テ ロリズムを恐れて躊躇したとは考えにくい。(本書p204〜208参照) 次に考えられるのは、植原が他の政友会代議士たちと同様に、すでにこの当時には対中国 進出論者に変わっていて、美濃部が邪魔だったのではないかという疑念である。植原は、山東 出兵や東方会議、張作霖爆殺事件等々、対中国強硬政策をとった田中内閣の外務参与官を 務め、「東方会議のときにも、私は少しく会議の決議が行き過ぎではないかというような意見を 述べたこともあるけれども、当時の大勢に順応した」と述べている(『八十路の憶出』p99)。 東方会議とは、田中内閣の外務次官・森恪が中心となって外務省や軍の高官を招集し、一 週間もの時間をかけた会議のことであり、会議の決議とは、満州の権益を守るためならば中 国との武力対決も辞さないというものである。昭和二年に行われたこの会議の結論は、大正 十年頃から続いてきたワシントン条約に基づく国際協調体制からの逸脱であり、軍国主義化 へのスタートであったともいえる。この会議の内容が中国側に漏れ、田中上奏文が抗日運動 の象徴的対象となった。中国側が作った偽物の上奏文だったが、その後の日本がやったこと と同じ内容なのだから、文書そのものが偽物だといってみても仕方がない。 植原が、かつては「急進的自由主義者」であったこと、「太平洋問題研究会」のメンバーとして 活躍したこと(本書p253)、日支事変勃発時に病み上がりの植原が落涙して近衛文麿を罵倒し たこと(本書p218)等々の事実と、東方会議の「大勢に順応した」ということとは明らかに矛盾す る。 じつは、植原は、田中義一内閣の外務省参与官だった時に開催された東方会議の期間中、 左記のように森恪に謀られて外遊させられている。 田中内閣の成立するとともに、外務大臣は田中総理が兼任、政務次官は森恪、事務次官 には吉田茂、そうして私に参与官になれということであった。田中総理の外務大臣は名前だけ であって、外務の仕事は森恪が中心であった。(『八十路の憶出』p98)
こういう事情が分かってみると、対中国政策の問題等が天皇機関説事件の美濃部に対して 彼が冷淡だった理由だ、と考えるのはいかにも無理である。 最後に残る理由として考えられるのは、ドイツ憲法学者・美濃部達吉に対する、イギリス政治 学者・植原悦二郎の積年の憤懣であり屈折した想いである。 四章で説明したように、植原は英米法に詳しい政治学者だった。天皇機関説事件は憲法解 釈に関する問題であり、いわば彼の得意中の得意の分野であったにもかかわらず、事件の当 時はもちろんのこと、戦後八十歳をすぎて書いた自伝にも何も触れていないのは極めて不自 然と言わざるを得ない。 但し、この自伝は彼の生前には脱稿していなかったので、不足する部分を、かつて、本人が 地元長野県の地方誌『信濃往来』に昭和三十年から三十四年にわたって連載していた回顧録 から、遺族が転載して補った。その中に、「主権在民論と御用学者の曲学阿世振り」という一文 がある。前半では自分の見解が正しかったのだという植原悦二郎の自負を述べ、後半ではそ れを黙殺され愚弄されてきたことに対する憤懣を込めて次のように述べている。
事情を知らぬ者がこの文を読めば、植原が、美濃部達吉に肩入れし同情して、穂積八束と 上杉慎吉を批判しているように受けとれるであろう。しかしながら、これは植原悦二郎独特の 皮肉であり、屈折した表現であると忖度すべきであろう。 彼は、イギリスから帰国した翌々年に「憲法上の謬想・上杉、美濃部、市村博士の論争批 評」という論文を発表した(『東洋時論』第三巻八月号。大正元年八月)。上杉、美濃部、市村、 三名の憲法学者間の論争について、植原の憲法解釈にてらしてみれば、どれも間違いを冒し ていると指摘したのである。
はもとより美濃部からも何の応答もなかった。上杉に対しては大正五年に再度批判している が、それも無視された。(「上杉博士の憲法論を評す」『国家及国家学』大正五年四月号) つ まり、美濃部は「主権在民であると真実の解釈をして」はいなかったのであるから、植原のいう 「世に媚びる官僚学徒の誤った憲法解釈」をしていたのは、穂積や上杉だけで なく美濃部も含 まれるのである。 植原は、「明治憲法に於いても政治哲学上、主権在民であると真実の解釈をしていれば、美 濃部博士はあのような惨めな運命に陥ることはなかった」と述べているが、それをもっと詳しく 説明すれば次のようなことである。 植原は、単に国民主権論ばかりでなく、それから導かれる象徴天皇論、責任内閣論、元老 制度及び枢密院制度違憲論、軍部大臣現役武官制違憲論等々の主張を、既に一九一二年 (明治四五年)に『立憲代議政体論』で発表しており、その翌年には、前掲の「憲法上の謬想― 上杉・美濃部・市村博士の論争批評―」を発表し、更に一九一四年(大正三年)には「憲政発 達の九大障害」(『第三帝国』大正三年十月号)で詳細に述べている。しかしながら、それらは 美濃部等からはことごとく無視された。 それのみならず、大正五年には吉野作造の民本主義を批評したが(本書五章2節に既述)、 吉野作造は、植原に対して、「駄々児が駄々を捏ねるような調子で」「極めて不真面目なる答 弁」をした。植原は、「吉野氏は余の議論に就いて更にその論点に触るることなく、間違った議 論であると云ふやうな口調で、論理もなく、考証もなく、答弁されて居る。是は学者として紳士と して少しく過ったる途ではなかろうか」と憤っている。(「吉野氏の憲法論と民本主義」『日本及 日本人』大正五年五月号。再掲『植原悦二郎と日本国憲法』p78)植原は吉野に愚弄された。 学問レベルでは息の根を止められていたかにみえた上杉の天皇主権論が蘇って美濃部を 陥れた天皇機関説事件は、一九三五年(昭和一〇年)である。この時はすでに遅かった。すで に軍と右翼が実権を握っていたからである。翌年には二・二六事件が起こっている。そうなる 前の大正期の間に、植原の主張に美濃部が少しでも耳を傾け加担さえしていれば、軍や右翼 が台頭することはできず、天皇の権威が彼等に悪用されることもなく、時代は別の方向に進ん だはずだ、というのが植原の想いなのである。 天皇機関説事件に対する植原の冷ややかな対応は、植原を無視した美濃部や、愚弄した吉 野に対する積年の憤懣と敵愾心によるものであり、彼の気持ちを代弁すれば、「だから言わん ことではない。植原説を無視した美濃部は自ら墓穴を掘った。今さら遅すぎる」というものであ ろう。 植原は、八十歳を過ぎてからその当時の切歯扼腕の想いを振り返りながら、「真実を語る良 心的な優秀な学者を惨めに葬り去ったのは、日本の政治学界の最大の汚点の一つであった」 と書いているが、葬り去られた学者というのは、他ならぬ植原自身のことでもある。そう書いて 無意識に自らを慰撫している表現とみるのはうがちすぎであろうか。 「官僚学徒」、とりわけ美濃部達吉に対する植原の積年の屈折は、本人が自覚していた以上 に彼の言動を左右しているものと考えられる。彼は大正六年に衆議院議員になったが、それ は、日本の学界から無視され続けたあげく、吉野作造に「極めて不真面目なる答弁」で愚弄さ れた一年後のことである。 彼は政界入りした理由を、「犬養翁の言によって、学窓において青年を指導するよりは、街 頭に立って有権者を政治的に覚醒させることが議会政治建設の近道であろう、と考えた」と述 べているが(『八十路の憶出』p35)、ロンドンで修学中に読んだであろうバジョットの次の一節 が脳裏をかすめなかったとはいえぬであろう。
幸か不幸か、バジョットは選挙に敗れたので議員にはなれなかった。もし議員になっていれ ば、選挙民への同調がもたらす内容の低俗化によって、彼の著書『イギリス憲政論』は、古典 の名著どころか選挙向けの政治文書になりさがっていたかもしれない、と辻清明はいってい る。(辻清明・前掲書p24 ) 植原が政界入りした後に書いた『ロイド・ジョージと犬養毅』(大正六年八月発行)は、あきら かに犬養毅を擁護する為に書かれた、まさに選挙向けの政治文書であった。犬養をロイド・ジ ョージと等価のごとくに賞賛した内容は、当時、発表と同時に厳しい批判にさらされている。(宮 本盛太郎『日本人のイギリス観』p165)大正八年に発刊した『デモクラシーと日本の改造』は、 当時の政治状況を勘案すればかなり革新的な内容であるが、著者の肩書きが「衆議院議員」 であることによって、党派的な政治文書扱いされてしまっている。 その後の植原は、学術レベルの論説は書いていない。政治学者としての植原の生命は大正 六年の政界入りをもって終わったのである。 アメリカ政府が占領軍向けに作成したGuide to Japan(日本案内)には、「明治憲法はプロシ ャの専制政治を父に、イギリスの議会政治を母にもち、薩摩と長州を助産婦として産み落とさ れた両性具有の生き物である」と書かれているという。美濃部達吉の憲法学説が、「頭脳はド イツ国法学、心臓はイギリス憲政論」だといわれたのも故なきことではない。 「明治憲法がプロイセン・モデルでも、漸進的に、やがてはイギリス・モデルになるという見方 が(制定)当時はあった」と指摘する法学者(長尾龍一)や、「慣習憲法(不成文憲法)のイギリ ス憲法を成文化すれば、明治憲法にちかいものになるのではないか」という歴史学者(坂野潤 治)もいる。(長尾龍一他編『憲法史の面白さ』p144) したがって、植原が明治憲法を一方のイギリス憲政論の立場にたって解釈したのも、何ら奇 異なことではない。自由主義の気運が高まり、議会制民主主義が緒につきはじめていた大正 期こそ、植原的憲法解釈を敷衍させる絶好の機会だったのである。美濃部は、植原の憲法解 釈を愚弄していたのか、あるいはまた、植原のような憲法論を披瀝する「勇気」がなかったの か………。 植原が明治末年から大正初期にかけて主張した憲法解釈論は、我が国の憲法学史上の重 要な事件のはずであるが、憲法学史では触れられていないのが残念である。 天皇機関説(国家主権説)は、「独逸国民の思想に於て君主主義と民主主義の両様の潮流 があって戦ふて居るから之を調和せんとするもの」と穂積八束はいい、ドイツの国法学者カー ル・シュミットは、「君主機関説は、憲法制定権力の主体の問題を回避する方法である」と断じ ているという。(長尾龍一「美濃部達吉の法哲学」『日本憲法思想史』 p155) すなわち、美濃部の憲法学説は一般に信じられている程には確固たる論構成がされていた わけでもない。しかも、無自覚的なWortspielerei(言葉の戯れ)やmisleading(誤導)もみられる という。(長尾前掲書p187〜188) 植原が政界入りなどせず、自分の憲法学説を深め発展させていたならばと、かえすが えす も惜しまれる。 新憲法は「押しつけ憲法」だという言い方もあるが、押しつけられたにしても、押しつけた側が 悪いのだともいえない。日本の学者たちが、当時の国際状況と日本の立場も知らぬげに、あ まりにも的外れで時代錯誤的な対応をしていたから、押しつけざるを得なかったのである。 テレビ・ディレクター鈴木昭典は、五百旗頭真教授(神戸大)の監修の下に元GHQ(General eadquarters 占領軍総司令部)の担当者たちへの長時間の取材をして、一九九三年に「日本 国憲法を生んだ密室の九日間」というテレビドキュメンタリーを作った。番組編集後の彼は、 「あの時期に、日本人のすべての頭脳を結集したとしても、あれだけの憲法が生まれたとは到 底思えない」と述べているが、日本側の対応はまさにそのとおりの度し難い状況であった。(鈴 木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』p340) 当時は、占領軍のことを進駐軍といい、敗戦を終戦と言った。戦時中は敗走を転進といい、 絶望の末の集団自殺を玉砕と言い換えた。事態を直視して現実的に対処をしなければならな い時に、言葉の言い換えをするだけで、その問題に正対して対処することを回避し、その場し のぎに隠蔽したのである。日本の戦争のやり方はそうだったが、憲法改正に際しての当事者 たちも、まさにそれと同様な対処の仕方であったといえよう。 @近衛・佐々木案 終戦処理用に組閣された東久邇宮内閣の国務大臣となった近衛文麿は、 GHQを訪れマッカーサーから憲法改正を策定すべきとの示唆を得た。近衛と内大臣・木戸幸 一の指示によって、憲法学者・佐々木惣一は箱根にこもって草案を書き始めた。これは、あた かも伊藤博文が無人島にこもって、明治憲法の草案を書いたことに倣ったかのようで、手続き といい、方法といい、時代錯誤も甚だしい。できた草案も、明治憲法とほぼ同じ内容で言葉が 違うだけでしかなかった。 さすがに、これでは困る、と近衛は佐々木に何度も申し入れたが、佐々木は言うことを聞か ない。近衛は仕方なく自分で書き始めた。植原はこのとき、古島一雄をとおして近衛から手伝 うように何度も要請されている。(『八十路の憶出』p260) 近衛をこころよくは思っていないから 気のすすまぬ植原が返答をしぶっている間に、近衛自身に火がついた。 ニューヨーク・タイムスやニューヨーク・ヘラルド・トリビューンに、「近衛は戦争を起こした戦争 犯罪人であって、新憲法を起草する資格などはない。マッカサーは、なぜ彼を戦犯に指定しな いのか」という批判記事が載ったのである。近衛はその後、戦犯容疑者として逮捕状を出され て服毒自殺をした。 近衛を告発したのは、GHQ諜報部調査分析課長ハーバート・ノーマンである。(長尾龍一『ア メリカ知識人と極東』p182、工藤美代子『悲劇の外交官 ―ハーバート・ノーマンの生涯―』 p174)今となっては、ノーマンの名を知る日本人はほとんどいなくなってしまったが、終戦直後 の日本でのノーマンは圧倒的な人気があった。彼の父親は長野県で農村伝道をしていた巡回 宣教師ダニエル・ノーマンである。ダニエルは誠実で献身的な宣教師として、長野ではクリスチ ャンからだけでなく市民の皆から敬愛されていた。善光寺の僧侶にさえもファンがいたほどだと いう。尾崎行雄と一緒に昔の軽井沢の俗化防止につとめ軽井沢村長といわれた。(草柳大蔵 『昭和天皇と秋刀魚』p205)息子ハーバートは、日本生まれ日本育ちの知日人であるという理 由だけではなく、両親に似た誠実な人柄で誰からも好かれた。 彼は、ケンブリッジ大学を卒業後、ハーバート大学で「日本における近代国家の成立」という 論文を書いて博士号を得た。戦後、カナダ政府からGHQスタッフとして出向していたが、彼の 論文は表面の分析にとどまらず、日本人の深層心理を歴史の流れの中で解明しようとするも のだったから、日本統治にかかわるGHQ将官たちにとっては教科書のようなものであった。 ところで、日本の知識人たちはノーマンを崇拝し称讃しているが、ノーマンの方は、日本の社 会を肯定的な暖かい見方をしていたわけではない。アメリカ国務省では、まだ戦争が終わって もいない内に、戦後日本の統治方針について二つの考え方があって互いに対立していた。戦 後の東アジアに「強い中国」を建設して、日本には懲罰的な政策をとろうと考えたのが「中国 派」であり、日本を穏健な指導者によって民主国に育てて、米国の味方にしようとしたのが「日 本派」である。 ノーマンは強硬な中国派だった。だから、マッカサーの日本派的な施策に対して、「日本を甘 やかしすぎる」と思っていたのである。日本へのマッカーサーの「善政」は中国派からみれば悪 政である。ニューヨーク・タイムスの近衛批判とマッカーサー批判には、こうした背景があった。 ノーマンは、獄窓十八年の共産党員・志賀義男と徳田球一を釈放したことでも有名である。そ うした様子を詳細に書いた『ニッポン日記』の著者マーク・ゲインも中国派の一人である。 近衛がマッカーサーから示唆を得たといって、改訂草案を書き始めたことを知った美濃部達 吉とその弟子宮沢俊義は、改憲不要論を新聞に発表している。(宮沢は昭和二十年十月十九 日付『毎日』、美濃部は昭和二十年十月二十〜二十三日付『朝日』) この時点での彼らは、改 憲せずともポツダム宣言の要求に応えることはできる、と唱えていたのである。 A松本委員会案 幣原内閣はGHQの強い指導を受けて、ポツダム宣言に対応すべく、主な 法学者たちを動員して憲法問題調査委員会を設定した。委員長となった松本烝治は、最初の うちは美濃部、宮沢と同様に改憲不要論を唱え、この会は研究会であって、改正案を起草す るものではないと述べていたが、順次に自分たちがおかれている立場についてのみこんでい き、翌年一月末に閣議に改正草案を提出した。 この草案は明治憲法を骨格として、語句を替えたり条文を削除しただけのものだった。 この研究会に欠落していたものは、比較法的な観点であり、英米法への視野である。徹頭徹 尾、明治憲法だけしか視野になかったといえる。しかも、共同作業という手法をとらずに、甲案 は宮沢俊義が書き、乙案は松本烝治が書いた。明治憲法を起草した井上毅にあやかったの でもあろうか。 それまでにも、各政党や私的組織が多様な改憲草案を発表していたが、GHQはその都度こ れらを丹念に分析し検討してきていた。いずれも彼らの意には満たなかったが、高野岩三郎 (元東大教授、後にNHK会長)を会長にして、鈴木安蔵(憲法学者)らが執筆した憲法研究会 の草案には見るべき点も多かったから、最良のスタッフを揃えたはずの政府案には期待して いたのであろう。 (C・L・ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」『憲法制定史』 小学館文庫 p325) ところが、日本側の最終的な結論ともいうべき政府案は、これらに比べれば最も保守的な内 容であった。例えば、明治憲法三条の文言「天皇ハ神聖ニシテ」を「天皇は至尊ニシテ」と改め たに過ぎず、天皇を頂点におく政治体制自体は何も変更しない案であった。 この草案の内容がスクープされ、昭和二十一年二月一日の毎日新聞に全文が掲載された。 世論も新聞論調も厳しく批判し、抗議が殺到した。法制局長官は、この案は委員の中の一人 が書いた私案であって、政府の最終案ではないとして抗議を回避した。この時点で新聞に掲載 された甲案を書いた宮沢俊義は、いち早く松本委員会を辞している。 BGHQ案 マッカーサーは、民主主義的な概念というものが思考の枠組に無い日本人学者に 起草させることを断念して、急遽、GHQの手で草案を作ることにし、ケーディス以下二十数名 のスタッフに対して、二月十二日までにそれを完成させるように命令した。たったの九日間であ る。即座に起草作業が開始され、連日ほとんど徹夜の共同作業が進められた。あたかも、生 徒会役員に会則を作るように任せてはみたが、土壇場の段階で、生徒たちには作る能力がな い、間に合わない、ということがようやく分かった教師たちが徹夜でやり始めたようなものであ る。 決断の時期があまりにも遅すぎた。この時、GHQには急がねばならない事情が生じていた のである。何が起きるか分からなかった日本上陸と困難な占領実務を、火中の栗を拾うことを 避けるかのようにアメリカだけに任せてきたイギリスやソ連が、その頃から占領政策に介入し てきたからである。連合国による極東委員会が発足することが決定し、二月二十六日以後 は、マッカーサーの占領施策がイギリス・ソ連・オーストラリア等々の国々から拘束を受けるこ とになるのだ。 対日戦争はアメリカだけで戦ったのに、この期に及んで極東委員会によって、ドイツや朝鮮 のような分割占領を言い出されたり、天皇懲罰を主張されて、天皇の地位や身分をどうにかさ れたのでは、日本が騒動に陥らないとも限らない。そうなれば、治安維持のために、またまた 膨大な数のアメリカ兵の長期にわたる派遣が必要になる。 そうした事態になることを防ぐには、極東委員会の誕生前にGHQがやっておかねばならない ことがある。つまり、二月二十六日迄に、日本人が自主的に民主制と天皇擁護と戦争放棄を 選択したのだという既成事実を作って、極東委員会を出し抜かねばならなかったのだ。その日 までの諸手続きから逆算すると、九日間しか残されていなかったのである。 マッカーサーはこの手段を講じることによって、極東委員会を、時間的には出し抜き、内容的 には交換条件で折れさせたのである。 九日間で一国の憲法を起草するなどということは、いかにも無謀なことに思えるが、じつは、 ここに至る迄に、アメリカは三年以上の前準備をしてきている。 日米開戦直後に、ルーズベルト大統領は日本の無条件降伏を当然のことのように想定して 戦後処理の計画を国務省に命じていた。かつて、第一次大戦後のドイツに対する処置の誤り が、その後のドイツのナチス化をもたらした。それと同じ徹をふまないようにという配慮をしたの である。そして周到にも、ハーバード、スタンフォードなどの一流大学で、大学助教授クラスの 人材を占領政策の民政要員として養成していた。(戦後になって、日本でも有名になって尊敬 されたドナルド・キーン教授やサイデンステッカー教授等々の錚々たる日本研究者たちはここ で養成された。) 国務省は、日本がどういう理由で軍国主義に走っていったかという分析を、天皇制をはじめ 軍事組織、教育制度、農地制度、財閥、宗教、思想等々、ありとあらゆる面から調べてあり、 終戦までには対日占領政策の大綱ができていた。無条件降伏をさせる、植民地を放棄させ る、非軍国化、民主化をはかる、日本の行政機関を利用して間接統治をする、そのために天 皇は温存する、・・・・・戦後に占領軍がやった全てのことは、終戦前に国務省で決定されてい たのであり、マッカサーは国務省の案どおりに執行したにすぎない。(五百旗頭真『米国の占領 政策』) 憲法についても、GHQ民政局のスタッフは、国務省がたてておいた方針に則って、マッカー サーの強力な後押しのもとに草案を書きさえすればよかったのである。 米国内では最も反動的な軍人と評価されていたマッカーサーだが、日本降伏の儀式を行っ た時のミズーリ号甲板で、高邁な平和主義的理想と使命感に燃えた演説をした。それ以来し ばらくの間は、「日本人の精神の再生と人間性の改善」をする革新的な改革者として君臨し た。民政局を占めていたニュー・ディール派のスタッフと軌を同じくしていたのである。(長尾龍 一『アメリカ知識人と極東』p169〜199) 蛇足ながら、日本国憲法を起草したGHQのスタッフが、日本軍の法務官レベルの者たちだ ったと想像するのは大きな間違いである。中核となっていたケーディス大佐はじめほとんどの スタッフは、ハーバード、スタンフォード、プリンストン等一流大学のロー・スクール(法律学大学 院)出身の修士か博士号を持った、有能な政府スタッフ、大学教授、弁護士などの高度な法律 専門家・法務官僚たちだったのである。彼らは占領終了後は元の職業に戻った。旧敵国の民 主化という理念のために情熱を注いだ彼らの人の好さや使命感が誉められるべきで、「日本 弱体化」という政治的動機があったなどと憶測するのは、理念に忠実な彼らに対する下司の勘 ぐりというものであろう。 松本烝治はケーディスらの能力を見くびり舐めてかかっていたので、後で苦汁を飲む羽目に なった。松本は、例えばスタッフの中に、日本育ちでニュアンスの細かい日本語を自在に使い こなす、ベアテ・シロタのような人材がいることも知らずに、GHQ案三条の「天皇の国事行為は 内閣の助言と同意(advice and consent)を要する」という条項のconsent(同意)を意図的に無 視し補弼と翻訳してごまかそうとした。これを見破ったケーディスの激憤をかった松本はその場 から退去している。それ以後、彼はGHQとの関わりを絶っている。その後は、法務官僚・佐藤 達夫が仕事を引き継ぎ、二十数名のGHQ職員相手に三十時間以上にわたって孤軍奮闘し た。 翻訳による、当時とすればすわりの悪い日本文と、端的な英文の双方の憲法案が発表され た時、どちらが原文か、どこが作ったかは誰の目にも明白だった。ある貴族院議員は、知って か知らずか「日本語の案(実は翻訳)よりも翻訳された英文(実は原文)の方がよい」と言ったと いう。 戦後に制定された日本国憲法は、植原が明治四五年以来主張してきた、国民主権、象徴天 皇をはじめとして男女平等、地方自治にいたるまでのことごとくを満たしている。さぞ、植原は 戦後憲法の制定に積極的にコミットしているのではないかと思いきや、彼は終始完全に蚊帳 の外におかれていた。 その頃にはすでに、植原がかつてはイギリス憲法に詳しい学者だったことを知っている者も 少なくなっていたこともあろうが、ドイツ憲法学の国家主権論になじんだ周りの者たちからみれ ば、植原は「国民主権などというとんでもないこと」をいう存在だったのである。 昭和三十三年に行われた憲法調査会における北ヤ吉(北一輝の実弟)の証言は、新憲法制 定当時に植原がどのような評価をされていたのか、周りが植原にどういう処遇をしていたかを 如実に物語っている。
GHQによる草案が日本政府に渡された時、日本側は大きな衝撃を受けた。日本側で作った 草案は、明治憲法を根幹とし、「天皇制の枠組みの中に民主化を導入する」ものであったが、 GHQ草案は、「民主制の枠組みの中に天皇を位置づける」ものだったからである。美濃部達 吉は猛反対をし、宮沢俊義は一足跳びに今までの自分の立場を放棄して賛同した。 これは、大陸法系の日本側と、英米法系のGHQという二つの法文化の衝突である。(田中 英夫「憲法制定をめぐる二つの法文化の衝突」坂本義和/R・E・ウォード編『日本占領の研 究』)。かつて、英国法の立場から国民主権、象徴天皇論を唱えた植原としては、何ら自分の 立場を放棄したり変更することなく賛同できる筈である。しかし、彼はこの草案に強く反対した。 反対しただけでなく、国務大臣の地位にありながら、国会での法案審議にコミットすることさえ 拒否したのである。彼は、前節に述べたような今までの経過を何も知らされぬままに、閣議の 場でいきなりこの草案を示されて言った。
新憲法草案の主権在民、象徴天皇、男女平等、その他大部分の規定は、植原がかつて主 張していたことであるから、他の議員たちとは違って何ら疑問ではなく、歓迎すべきものであっ た。ただし、植原は次の諸点については異議を挟んだ。 @国家として軍備を持たないことには反対である。自衛や国連参加もできないではないか。 A議員の三分の二の賛成がなければ憲法改正ができないという規定は、実質的に改正を禁 止しているものであり、新たな「不磨の大典」となる。改正できなければ勝手な解釈改憲や無 視にも繋がる。 B地方自治の規定はよいが、財源保証をしてないので、実質的に地方自治ができない。 C参議院議員の選出方法が衆議院と同じでは、二院制の意味がない。 植原が指摘したこれらの諸点は、今日に至ってその問題がクローズアップされている。植原 の卓見だったというべきであろう。その意味では、植原の提言がもっと検討されてよかった。こ の草案は、大原則に則っていれば、幣原が言ったように、一言一句といえども修正することが できないというものではなかったはずである。げんに、九条への有名な芦田修正の追加(九条 二項)、それに伴う閣僚文官制の追加規定(六六条二項)、GHQ草案の一院制から日本側の 主張の二院制への修正、等々が行われ、衆議院で四ヶ条が追加され、一ヶ条が削除されたと いう事実がある。幣原、吉田、棚橋らが、植原、斉藤の関わりを避けていたとしか思えない。 @の自衛権の問題については、これだけをとりあげると、植原がいかにも保守反動的な思想 の持ち主だったかのように受け取れるが、当時はむしろ普通の意見であった。例えば、共産党 の野坂参三議員でさえも、「やはり自衛権はあるのではないか」と衆議院で質問している。安倍 能成も貴族院本会議で、「これは全く捨て身の態度であって、身を捨てて浮かぶ瀬もあれとい う異常な決心である」と演説した。やはり貴族院で後の東大総長・南原繁は、その後の彼の言 動からすれば信じ難い次のような質問をしている。
植原が九条の規定に反対するのも、これとまったく同じ理由である。南原や安倍や野坂は、 その後に強硬な再軍備反対論者に変節したが、植原はそのままだったというにすぎない。 幣原には、前節で説明したように、この草案をどうしても早急に通過させねばならない事情が あった。植原が、安倍や南原たちの質問に対して、「そのとおりであります」などと答弁しようも のなら議事は混乱し停滞する。植原ならやりかねない。 金森徳次郎は、根気よく我慢しながら答弁し、時には、「水は流れるのでありますが、川は流 れないのであります」とか、「硬い歯は折れますが、柔らかい舌は折れません」などと、巧みに 質問者を煙に巻きながら議会を通過させた。答弁回数は数千回に及び、一回の解答時間の 長いものは一時間十分にも達した。この国会開催中に、議場で二首の狂歌が回覧された。
幣原喜重郎は、植原たち閣僚に対して、先述のような、当時の日本に対する国際的な懲罰 意向、極東委員会の動向や、それに対するGHQの意向などについて、何も説明していない。 だから、植原は後年になっても、九条の規定は幣原が自己保身のためにマッカーサーに取り 入って作った規定だとまで言っている(『八十路の憶出』p261)。 この時の事情を、当時の官房長官だった楢橋渡は、ホイットニーとケーディスがGHQ の憲 法草案を彼に渡してこう言ったと書いている。
つまり、「戦争放棄」は「象徴天皇」とワンセットにして極東委員会との取引材料にしたのであ る。その後、米ソが冷戦状態に入り、しかも、中国は共産国になった。その上、朝鮮戦争が始 まると、アメリカにとっては日本に「戦争放棄」させたことが失政だったことになった。マッカーサ ーは、それを幣原のせいにして責任を回避したのである。 マッカーサーから恵与されたペニシリンで命拾いした幣原が感涙と共に戦争放棄を申し出た という、あのできすぎた話は、朝鮮戦争勃発後に退役したマッカーサーの上院委員会公聴会で の発言であり、「朝鮮戦争勃発まではマッカーサーの業績、それ以後は幣原の責任」ということ にしたフィクションの傑作であるといわれている。(袖井林二郎『マッカ ーサの二千日』) 植原の幣原批判はこれに見事に乗っていることになる。つまり、植原は国務大臣だったにも かかわらず、その当時の政府の動きについて何も知らされていなかったのである。憲法制定 をめぐる、政府とGHQとのやりとりは、「机がふるえるくらい激しい」ものであり、「しまいには殴 り合いくらいやり合わないともかぎらない」状況であった。通訳でさえ「ひそかに涙を流した」(竹 前栄治『憲法制定史』p208〜211)ほどだったというのにである。 政府側は、GHQ案の原文sovereignty of people will(国民の意思に基づく主権)を、故意に、 従来の国家主権と紛らわしい「国民の至高なる総意」と書き換えて議会に提出していたような 状態である。極東委員会が「日本の新憲法に対する基本原則」で、「主権が国民にあることを 認めるべきである」と発表しており、これが明文化されないかぎり極東委員会が承認するはず もないというのにである。怒ったケーディスに厳しく咎められて、やっと前文と一条に国民主権 を明文化した。 日本の学者たちがこんな程度のものだったから、かねてから国民主権論を唱えていた植原 は、彼らにしてみれば「とんでもないことを言う」民主主義者だった。しかも、GHQ側からみれ ば、天皇擁護を強調し軍備の必要を唱える「度し難い守旧派」だった。彼は、双方から「蚊帳の 外」に置かれ、その間の事情を何も知らされなかった。起草にも審議にも関与させられなかっ たうえに、国会での沈黙を強いられた。 植原が終戦直後の昭和二十年十二月に発行した『新生日本と民主主義』は、当時の国際情 勢やGHQの意向を何も知らぬままに、何ら顧慮することもなく書いていたことが明らかであ る。その後の昭和二十一年九月に『現行憲法と改正憲法』を発行し、新旧憲法を比較して、具 体的に長短を説明している。 植原は、こと憲法に関する限り、明治時代から他とは違う自分の見識に自負心を持ってい た。彼の気持ちを代弁すれば、彼が明治四十五年以来主張し続けてきた憲法解釈と運用をし てさえいれば、日本の政治が軍に乗っ取られることなく、したがって、日中・日米戦争に陥るこ ともなく、そして、このような外国製の憲法を押しつけられることもなかったはずだ。美濃部や吉 野の責任は大きい。植原は、憲法冒頭の大臣署名を、おそらく切歯扼腕の想いでやったことで あろう。 戦後の憲法はアメリカから押しつけられたものだから承服できない、という人たちは制定当 時から存在した。美濃部達吉や松本烝治は、その典型的な人物である。松本は辞任し、美濃 部は生きたまま「歴史上の人物」と化して間もなく他界した。天皇に憲法を教授した学習院の 清水澄は、「大日本帝国憲法」に殉じて自害した。 戦争放棄が押しつけだとはいうが、日本人がいま享受している、主権在民も、社会福祉制度 も、男女平等も、人権保障のための新しい警察制度や刑事裁判手続きも、農地改革も、地方 自治も、ことごとくアメリカの押しつけである。鈴木昭典が喝破したように、これだけのことは当 時の日本人すべての頭脳を結集してもできなかったであろう。 にもかかわらず、十年もしないうちに、早くも「おしつけ憲法」を改正すべきだという人々が現 れた。植原は、こうした人たちに有利な証言をすべく、憲法調査会の席で参考人陳述をさせら れたことがある。憲法は自主憲法でなければならないが、日本国憲法を自主憲法と思うか、と いう委員の質問に対して、彼は次のように、呼んだ側が却って不利になる陳述を平然とやった のである。
植原悦二郎八十歳のときの陳述である。自分自身が九条の規定には不服であり、しかも、 質問者が彼にどのような陳述をして欲しいかを充分に承知している。それにもかかわらず、わ ざと質問者の期待に背く陳述をし、逆に苦言を呈しているのである。終戦直後の苦衷の選択を 何も知らないで、受け売りの「おしつけ憲法」論議を振りかざす戦後派の若輩議員に対する、 植原流の露骨な意地悪というものであろうが、もともと、植原には、政治的判断をすべき局面 にあってもそれをせず、法的・論理的な判断だけで押し通そうとする頑固なところがあった。植 原を陳述席に立たせた質問者は、はたして「ご参考」にしたか、頑固な彼に腹をたてたか…。 アメリカで、白人、アングロサクソン、プロテスタント(White,Anglo-Saxon,Protestant)の三条 件を備えた者のことをWASP(ワスプ)という。彼らは、上流階級としての生活様式や道義性に 矜持を持っており、大学同窓その他各種のクラブを形成して、ギリシャ文字三字のクラブ名を つけるならわしがある。(越智道雄『ワスプ―アメリカン・エリートはどうつくられるか』中公新 書) 植原は、終戦直後にそういうWASPの結社のひとつ「φ・β・κ」(ファイ・ベーター・ カパ)の会 合に招聘され、意見発表の機会を与えられたことがある。(植原『八十路の憶出』p258)招聘し たのはマッカーサー側近のベーカー大佐だったという。彼はハーバード出身のGHQ職員であ り、同席した会員たちも当然のことながら彼とほぼ同等の学歴を持ち、占領政策を左右する立 場にいたであろう。 植原は、かつて、ハイレベルなイギリスの「経済学・政治学研究シリーズ」 の第一九巻、The Political Development of Japan 1867―1909(「日本政治発展史」)を書いて いるので、彼らが植原に高度な政治学的見解の発表を期待してのことだったのであろう。もと もとイギリス系の血をひく彼らにしてみれば、極東(Far East‐はるか東!)の小さな大日本帝 国・軍国主義国の法学博士たちなどより、ロンドン大学ドクター(政治学博士)の植原の方が、 はるかに信頼に足る肩書きだった筈である。 しかしながら、自伝『八十路の憶出』に書かれている様子や後日の国会答弁から察するに、 植原が、かつての急進的自由主義者、ロンドン大学の俊英ウォーラスの弟子の面目よろしく、 日本の自由主義・大正デモクラシーの崩壊過程とその原因を、憲法論や国体論、政党論、経 済論や日本文化論まで展望して説明したとは思えない。天皇擁護のために、The King can do no wrong(君主無誤謬論)を懸命に説き、山県有朋が作った軍部大臣現役武官制によって、 軍が政治を支配したことが全ての災いのもとであるとの説明をしているだけである。このこと は、GHQ民間情報局長のケン・ダイク准将から招待されて、憲法問題について意見聴取され た時も同様だった。ダイクに、「そういう古いことはどうでもよいのだ、問題はこれからのことだ」 と一蹴されたので後は黙った、と植原は述べている。(『植原悦二郎と日本国憲法』p210〜 211) なお、その時の同席者は、宮沢俊義、高柳賢三、鈴木安蔵で、いずれも高名な憲法学者た ちである。 陰謀奸策に満ちた泥まみれの日本政界で翻弄され続けて、六十八歳にもなってしまっていた 植原の説明は、往年の優れた政治学者・植原悦二郎とは違って、もはやGHQ要員らを納得さ せうるだけの国際的な視野と切れ味、精細さを欠いていた。いわば、政治思想の源流に棲む べき岩魚が、現実の泥流に長く身を任せ過ぎたとでも言うべきであろうか。 その泥流とは、求心力を喪失した政治と、「行き当たりばったり」の戦争の時代であり、植原 の初志とは全く異質な、卑しい権力争いの陰謀奸策がまかり通っていた時代だった。大正十 年頃から敗戦に至るまでの我が国の政党と政策の間には、分析に値するほどの一貫性などと いうものはほとんど無い。彼等は、ただひたすら政権を奪取し維持するためだけに、国内問題 ばかりではなく外交問題、とりわけ対中国政策について「昨日までの敵政党の主張は今日は 我が政党の主張」とばかりに、変幻自在に変節を繰り返していたのである。(坂野潤治「政党 政治と中国政策」『近代日本の外交と政治』p151〜181) 戦前戦中の政界人や軍人たちの言動、彼等に迎合し煽動したマスコミ、そして狂信的な煽動 者たちを歓迎した国民の社会心理・・・・・・。他国を侮り、中国を蔑視し、英米への敵愾心をもっ た。これらに見事なまでに欠落していたのは、国際的な視野をもった合理的な判断、真の国益 を考えた醒めた判断というものである。 大正デモクラシーは、憲法がどうの、軍部がどうの、という外的な問題もさることながら、基本 的には内部から崩壊したのである。その元凶となったものは、軍人や政治家レベルでは名誉 欲や権力欲であり、国民全体のレベルでは他国への領土欲と支配欲である。ともに、あくなき 自己肥大、自己拡張への欲求と独善的な自尊感情であった。そして、こうした欲求を自己欺瞞 的に粉飾したのが、「国体」という政治神学(集合表象representation collective)であった。 これらは、ウォーラスから学んだ、「人間性」と「政治的象徴」をキーワードにしての、植原悦 二郎の研究対象だったはずである。終戦までの昭和期日本の国民を支配し呪縛した「国体」 「日本精神」等々の言葉こそ、まさにウォーラスが指摘した、非合理的な判断を招き不幸をもた らす「政治的象徴」というべきものだったのである。 その意味では、ウォーラスの愛弟子植原悦二郎がイギリスから帰国後のたった六年間だけ、 しかも、ウォーラスの問題意識以前の法制レベルの解説をしただけで、方法論やウォーラス的 分析をせぬままに、政治学の道から政界という渦中に入ってしまったことは、まことに惜しいこ とであった。その後の彼は、方法論の問題にさえ至らずに、法制レベルの着眼と対応しかして いない。終戦直後のGHQ高官への対応の仕方、戦後憲法制定時における彼の扱われ方と彼 自身の対処の仕方、それに、昭和三十三年の憲法調査会における彼の陳述の仕方は、その ことを如実に物語っている。 国体と日本精神が声高に叫ばれ、鬼畜米英と罵倒していた時代に、米国のエール大学 卒業の斉藤隆夫は、日本的嫉妬と情念の生け贄にされて除名処分を受けた。自分もアメリ カとイギリスで学問を身につけた植原は、この時に何を想っていたであろうか。戦前も今も、日 本の政界は、法制レベル以前の心理学レベルの分析検討が必要な世界である。 戦後の政治学者・丸山真男の『超国家主義の論理と心理』は、戦後日本の思想界を席巻し、 世論を方向づけた衝撃的な論文だった。仮に植原が若かりし頃の切れ味を失うことなく研究生 活を続けていれば、政治学に心理学を導入したウォーラス的アプローチによって、丸山とは別 の視点からの「論理と心理」を書くことも可能だったはずである。
植原が、議会政治の精神をことごとく崩壊させた政界なんぞに身をおかずに、学界か言論界 にとどまって、政治学なり比較憲法学の研究を続け、とりわけ国体思想や国民性について、ロ ンドン大学LSEで身につけたウォーラス的アプローチを継続発展させて研究をしていれば、戦 後日本における英米政治学の権威者として、先頭にたって貢献することができたかもしれな い。場合によれば、戦後に新憲法起草者の一人として貢献し得たかもしれないのである。 植原悦二郎は、彼を政界に引き込み、そして彼の理念とは対極の政友会に投げ入れた犬養 毅には愚直なまでに殉じた。しかしながら、彼を高く評価して懇切な指導をし、博士号を授与し てくれたうえに、出版までしてくれたウォーラスの学恩に報いることはできなかったのである。 戦後の新憲法による現行の政治制度は、植原悦二郎が明治四十五年から主張し続けてき た政治論の内容とほとんど同じである。また、戦後の憲法学は、判例研究に重点を置くように なったし、東大の法哲学講座は現在日本における英米哲学研究の牙城である。そして、現代 政治学の主流はまぎれもなくアメリカとイギリスのものである。
しかしながら、大正期に植原がそれらを主張した時には、ことごとく危険視され、黙殺され、 時には愚弄までされたのである。彼の生涯を一言に集約するならば、「生まれる時代と泳ぐ場 所を間違えた自由主義者の孤独と屈折」であり、その後半生は意識せざる韜晦であったという につきる。 植原悦二郎は、政治家にしては学者的あるいは評論家的すぎたし、学者になるには政治家 的すぎた。若い時から植原の地元での熱心な支援者の一人であった松岡定一(後の三郷村村 長)は、「植原先生は、政治家にならなくて、憲法学者で終始した方がよかった」と言ったとのこ とであるが(倉科平『植原悦二郎略伝』p63)、植原のそばにいて本質を見抜いた者の正鵠を得 た述懐というべきであろう。 【了】 トップページへ ページの先頭へ 目次へ 「失敗は成功のもと」という格言があるが、実際にはそうでもない。自分が無知無能力だっ た、夜郎自大で判断を間違えたなどと、失敗の本当の理由が分かれば自尊心が傷つくから、 無意識のうちに、「悪いのは自分ではない。相手の方が悪かった」 と自己正当化をする。周り の者からみれば、その心理作用が丸見えだから、「あの人は自分のことがよく分かっていな い」などと陰口をたたかれるが、本人は無自覚なのだから、改めずに相変わらず同じパターン を繰り返して、同じ失敗をする・・・。 精神分析学者の岸田秀氏は、このプロセスを「失敗は失敗のもと」と説明している。 植原悦二郎は、『通俗立憲代議政体論』の最終章で、「我が国では、歴史の事実を尊重もし なければ、学ぶこともしないが、失敗の歴史から学ぶことが大切である」と説いている。 また、清澤洌の外交評論は、じつは日本人論であり日本社会論でもあるが、失敗の本当の 理由をリアリズムをもって自覚しようとしない日本人の通弊を憂いている。 植原悦二郎が早くも明治四十五年に指摘し、清澤洌が悲惨な戦争のさなかに嘆いていた日 本人及び日本社会の特性は、今日に至ってもそんなには改善されていないということを思わせ られる昨今の社会状況である。筆者は、そのような時代認識と憂慮をいだきながら本稿を執 筆した。 本稿を執筆するにあたっては、清澤洌次女の池田まり子氏、親戚の笠原貞行氏、植原悦二 郎孫の植原千文氏、生家の植原脩市氏の諸氏から文献資料の提供やお話を頂いた。 その他、多くの諸氏のご助力に感謝申し上げる。 二〇〇二年九月 著者記 出典資料 植原悦二郎 The Political Development of Japan 1867-1909, ロンドン大学LSE,1910 〃 『立憲代議政体論』博文館 1912(明治四五年) 〃 「憲法上の謬想 ―上杉、美濃部、市村博士の論争批評―」 (『東洋時論』大正元年八月号) 〃 「我国憲政発達の九大障害」(日本憲法史叢書「植原悦二郎集 信山社) 〃 『日本民権発達史』政教社 1916(大正五年) 〃 『デモクラシーと日本の改造』有斐閣 1919(大正八年) 〃 『日本民権発達史・第弐〜第四巻』日本民主協会 1958(昭和三三年) 〃 『八十路の憶出』植原賢二 1963(昭和三八年) 植原悦二郎他 『植原悦二郎と日本国憲法』植原悦二郎十三回忌記念出版刊行会 1974 (昭和四九年) 宮本盛太郎 「植原悦二郎における国民主権論の形成」 (『日本人のイギリス観』御茶ノ水書房 1986 ) 長尾龍一「大正デモクラシーと英国」(『史学雑誌九七巻一号』所収) 〃 『日本法思想史研究』創文社1981 〃 『日本国家思想史研究』創文社1982 〃 『日本憲法思想史』講談社学術文庫 1996 〃 『思想としての日本憲法史』信山社 1997 〃 『アメリカ知識人と極東』東京大学出版会 1985 (再刊『オーエン・ラティモア伝』信山社2000) 長尾龍一・坂野潤治 「憲法史と政治史」 (『日本憲法史叢書2 憲法史の面白さ』信山社 1998) 長尾龍一・伊藤隆 「国体と憲政の妥協と闘争」 (『日本憲法史叢書2 憲法史の面白さ』 信山社 1998) G・ウォーラス 石上良平・川口浩訳 『政治における人間性』創文社 1985 松尾尊~ 『大正デモクラシー』岩波書店 1974 酒井哲哉 『大正デモクラシー体制の崩壊 内政と外交』東大出版会 1992 三谷太一郎 『大正デモクラシー論 ―吉野作造の時代―』東大出版会 1995 家永三郎 「美濃部達吉の思想史的研究」『家永三郎集』第六巻 岩波書店 1998 井上清・渡部徹編 『大正期の急進的自由主義』東洋経済新報社 1972 坂野潤治 『近代日本の外交と政治』研文出版 1985 掛川トミ子 「天皇機関説事件」 橋川文三・松本三之介編『近代日本政治思想史U』有斐閣 1977所収 宮沢俊義 『天皇機関説事件 ―史料は語る―』有斐閣 1970 姜克美 『石橋湛山の思想史的研究』早稲田大学出版部 1992 増田弘 『石橋湛山研究「小日本国主義者」の国際認識』東洋経済新報社1990 〃 『政治家追放』中央公論社2001 松本清張 『昭和史発掘4・6』文春文庫 1978 〃 『史観宰相論』文春文庫 1985 J・ダワー 『吉田茂とその時代 上・下』TBSブリタニカ 1981 五百旗頭真 『米国の日本占領政策 上・下』中央公論社 1985 五百旗頭真・北岡伸一編 『開戦と終戦―太平洋戦争の国際関係―』星雲社1998 岡義武 『近衛文麿』岩波書店1964 袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』中公文庫 1976 工藤美代子 『悲劇の外交官 ―ハーバート・ノーマンの生涯―』岩波書店1991 高柳賢三他編 『日本国憲法制定の過程』有斐閣1972 佐藤達夫 『日本国憲法誕生記』中公文庫 1999 鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』創元社 1999 佐々木毅編 『現代政治学の名著』中公新書 1989 |