注がれ続けるこの愛によって

 塩谷キリスト教会牧師  山田 彰  

際限のない欲望の果てに

 まだ戦後の色濃い1950年。庶民の レジャーといえばもっばら映画だった。 山田さんは、「映画界の王国といわれた 東宝映画のニューフェースとして入社。 何事にものめり込むたちだから、頭角を 現わすチャンスを狙って、ひたすら演技 の勉強を重ねていった。

六年後、二十三 歳のとき、天与の感性に加えて大胆な演 技が認められ、「お父さんはお人好し」 という娯楽映画の大役に抜擢された。

 一夜明けてみれば 当時有楽町駅前に あった日劇の巨大な看板には、かれの似顔 絵が描かれていた。町を歩けば、若い娘 たちか黄色い声を上げて走り寄ってくる。

大卒の初任給が1万4、5千円という時 代に、30万円もの月給を得た。  

申し遅れたが、山田さんは十四歳て終 戦を迎え、台湾から無一物で引き揚げて きた。以来、靴磨きなどをしながら高夜 に通う。十六歳のとき、家族に内緒で高 夜を中退。好きな映画の道に飛び込んだ。  

映画はヒットし、収入もさらに増えて いった。そうなると、ひととおりの苦労 をしてきたつもりの山田さんも、世の中 か自分中心に回っているかのような錯覚 を抱いてしまった。

「芸を磨きたかったら、思い切って自分 に投資しろ。それに比例して大物俳優に なれる」と監督に言われた。 「そのための資金集めに奔走し、自分を 売り込むために家族を泣かせるのなど朝 飯前という、自己愛、自己過信の塊のよ うな人間の群れ。それが芸能界というと ころでした。

もちろん、加山雄三君のよ うに、いつも人の立場を考えて行動でき る立派な人もいましたが」と回想する。  

山田さんは映画監督たちを引き連れて 酒を飲み歩き、徹夜マージャンにうつつ を抜かし、二日酔いで撮影現場に現われ た。それもこれも、芸の肥やしになるか らという言い訳があったのかもしれない。

「映画の世界は、そんなに甘いものでは ないんだぞ。今からこんなことではどう する。少しは自制したらどうだ」  森繁久弥さんなどの先輩たちは 何度 も忠告した。でも、物事にのめり込む性 格が裏目に出て、専属マネージャーがつ いていなかった時代でもあり、もはや自分をコントロールできなくなっていた。

 山田さんの乱脈ぶりが会社の上層部の 耳に入っていくにつれ、当然評価は急落。 主役の座は、間もなく入社してきた加山 雄三さんに移った。

結局「お父さんはお 人好し」シリーズ、「デンスケのやりく り親父」など主演映画四本だけで、三年 足らずでスターの座を降ろされてしまっ た。

 しかし、いっこうに反省の色はなかっ た。家庭も顧みず、マージャン、競輪、 競馬などの賭博に逃げ場を求めた。もと もと勝負事にはめっぼう強かったので、 一気に大金を賭けてとことんやり抜いた。

「でも、やればやるほど大損をする。そ れで、元を取り戻そうとしてさらに金を 賭けるでしょう。とうとう娘の幼稚園の 月謝まで注ぎ込んでしまった。勝っても 酒、負けても酒で、泥酔して繁華街でけ んかをし、警察には三度連行されました」

〃放蕩恵子”父の元に帰る

1965年、33歳のとき、東宝か ら解雇された。愛想を尽かした妻は、娘 を連れて家を出てしまった。  辛うじてフリー俳優としてカムバック したものの、仕事はあったりなかったり。

心配した兄たちが、新宿にレストランを 持たせてくれて、当初山田さんも厨房に 立った。もともと感性豊かな人だから、 料理もうまい。店ははやりだした。

「そうなると、再び賭け事に手を出して しまいました。売上金や借金、従業員の 給料まで賭博に注ぎ込むものだから、二年後、たまりかねたコックたちが一斉に 『辞めさせてもらいます』と言いだしたんです。彼らをなんとか引き留め、兄たちからもさんざん油を絞られ、土下座を して謝り、『今後、賭け事には一切手を 出しません』と誓いました」

 しかし、それからわずか45日後の 67年10月。気がついたときには競輪場 の群衆の中にいた。店から持ち出した三 千円は、またたく間に使い果たした。酒 浸りの生活によって夢遊病者のようにな っていたため、自分のやっていることが 自分でもわからなくなっていたのだ。

「自分に心底絶望しきった私は、もう生 きていても仕方がない、死のう、死ぬん だ、死ぬしかないという思いだけが、呪 文のように頭の中をぐるぐる巡っていま した。そのせいか、電車に乗った途端、 どっと疲れが出て居眠りを始めました」  
その間に、彼は夢の中で、黄金色に輝 く十字架を背にして立っているキリスト の姿を見た。それまでキリスト教を訳も なく毛嫌いしていた。だのに、なぜそん な夢を見たのだろう。  

思い当たるのは父のことだった。  かつて台湾で成功していた父は、終戦 とともに資産を没収され、1952年に ようやく単身帰国したのだった。妻には 先立たれ、子供9人は巣立っていき、神 経痛の持病に悩む父は、帰国ののち聖書 にのみ慰めを見いだしてクリスチャンに なっていた。

 そのころ、トップスターの座に駆け上 がり、有頂天になっていた山田さんに、 父は口を酸っぱくしてこう忠告した。 「名声や金なんて虚しいものだよ。昨日 得たかと思うと今日は失っていく。神様 に従っていく以外に確かな人生はない。 おまえも教会に行きなさい」

 しかし山田さんは、「そんなのは老い の繰り言だ」と一笑に付した。  聖書には、財産を遊興のために使い果 たし、浮浪者にまで成り下がった放蕩息 子の話がある。彼はそこまで落ちぶれて 初めて本心に立ち返り、裕福な父の元に 帰り、赦され快く受け入れられるのだ。

「今思えば、この話はまさに私の姿にほ かなりません。″放蕩息子″ の私のため に、父は日夜祈っていてくれたのでした」  山田さんは、夢の中で見たキリストの 姿に促され、あれほど父に言われていた のだから、自殺する前に一度くらい教会 に行ってみようと思い立った。

 競輪で有り金を使い果たしたはずなの に、上着のポケットを探ると、十円硬貨 がひょっこりと出てきた。新宿駅に着き、 電話局で番号を聞いた東中野教会に、そ の十円硬貨で電話して道順を教わった(当 時、番号案内は無料だった)。でもそこまで の電車賃がない。それで、歩いて行ける 淀橋教会を紹介してもらつた。

神の愛が注がれているからです

「教会で応対に出た副牧師に、私は『三日間何も食べていません』と嘘を言い、 身の上話をできるだけ哀れっぼく語りま した。  そうやって五百円でも千円でもだまし 取れば、一日、二日は生き延びられると 意地汚く計算したのです。

私はすでに、 心身ともにその日暮らしの浮浪者でした」  副牧師は山田さんがどんなに哀れっぼ くすがり付いていっても、一向にお金を 恵んでくれそうにない。その都度、話題 を聖書に持っていってしまう。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを 主と告白し、あなたの心で神はイエスを 死者の中からよみがえらせてくださった と信じるなら、あなたは救われるからで す」(ローマ人への手紙10章9節)

 三回も同じことを言われたが、目に見 えない神様を信じることはできなかった。 17年もの間、自分を神とする一匹狼の 軍団 芸能界に身を置いてきたのだから。

「芸能界で人を動かしているのは 金、 演技カ、人間関係等々、目で見て価値を 測ることのてきるものばかりてす。  その中で私は人を蹴落とし、自分だけ を信じてやってきた結果、失敗した。そ れだけは認めざるを得ませんでした。

だ としたら、本当に再起したければ、自分 をではなくキリストを信じ、その導きに 身をゆだねるしかないことは、 はっきり とわかりました。それで私は、神を信じ る方向に向かって一歩踏み出したのです」

「すベて 疲れた人、重荷を負っている 人は、わたしのところに来なさい。わた しがあなたがたを 休ませてあげます」 (マタイの福音書 13章28節) 一週問後、来日 した世界的な伝道 者、ビリー グラ ハム博士の集会で、 このイエス様のこ とはを聞いたとき に思った。

(身内からも見放 され、独りぼっち だった私を、こんなに優しいことばで慰め て招いてくださるのは、この神様だけだ)

「その日、私はイエス様を救い主として 受け入れました。このお方が身代わりに 十字架にかかられたことによって、私の 罪は赦されたのだとわかったときの心の 安らぎを、私は一生忘れないでしょう」

 しかし1カ月後、キリスト教嫌いの兄 たちから、借りていた店も住まいも取り 上げられてしまった。落胆して「清いだ けでは生きていけないじゃないですか」 と訴える山田さんのために、副牧師は聖 書を読んてくれた。

「患難さえも喜んでいます。それは、 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた 品性を生み出し 練られた品性が希望を 生み出すと知っているからです」 (ロー マ人への手紙 五章三T四節)

「そんなことはクリスチャンてなくたっ てやっていますよ。それとキリストの救 いと、何の関係があるんてす?」  副牧師は言った。 「その先を読んでくれませんか」 「この希望は失望に終わることがありま せん。なぜなら、私たちに与えられた聖 霊によって 神の愛か私たちの心に注が れているからです」 (同書 5章5節)

 その瞬間、山田さんの目の前に一カ月 前の三つの情景が、次々と浮かんできた。 見るつもりのないイエス様の夢を見たこ と、その直後、あるはずのない十円硬貨 が出てきたこと、その十円で電話をかけ て淀橋数会に導かれたこと。

「その一つひとつに、人間の意思を超え た神様のカが働いているとしか言いよう がありません。神様は、腐った魚のよう な私を再起させるために、この聖句のと おりに愛を注いでくたさったのです」 ああ神様、お許しください。あなたの これほどまでの愛にそむき続けてきた愚か な私を )

 山田さんは、だれもいない礼拝堂の壁 に頭を打ちつけながら号泣虚した。彼の新ら しい人生は、このときを原点に始まった。  

 キリストを演じる役者として

淀橋教会の故小原十三司牧師は、山 田さんに「キリストを演じる役者(教役 者=牧師)になりなさいと勧めた。

 役者か役柄になりきるために心血を注 ぐのは、稽古のときと出演中だけだ。一 方、全存在をかけて四六時中聖書のこと ばを生きて見せるのが 「キリストを演 じる役者」である。

「そんな大それた役を 私などができる はずがありません。でも神様は、従う者 を何回でも練り直してくださると信じて牧師になる決心がついたのです」

 山田さんが長年師と仰いできた映画界 の大御所・志村喬氏は、晩年にこう言っ た。 「おまえが映画界に戻らないと知ったと きには失望したけれど、今は、おまえが 一番いい仕事をしている」  自力を信じ才能、才覚を駆使したとこ ろで、人間のカには限界があることを、 この老名優はよくわかっていたのだろう。

 しかし初めのころは、かつての映画仲 間から「山田は本当に牧師になつたのか」 などと疑いの目で見られた。皆、昔の山 田さんしか知らないのだから無理もない。

「十五年たって本物だとわかってくれま した。信頼を得るまでには、何事も積み 重ねが大切なんですね」

 山田さんの教会は栃木県北にある。冬 は外気がマイナス13度にもなる土地で、 10キロの道を息子二人と自転車で伝道す る歳月だつた。そんな草の根的な働きに よって、地元や県外からも信頼を得てい る。芸能界を引退した人たちのための老 人ホーム建設を願う山田さんに、その用 地が与えられたことも、人々の信頼の現 われだと言える。

 教会周辺は、北開東でも有数の米どこ ろだ。初夏の朝四時、一人の老農夫が田 んぼの水加減を見て回る。 「おまえらあ、おれらの足音を聞いてぇ、 よ−く育てよなあ」  

 早苗に語りかける彼の姿が、山田さん には自分の姿と二重写しになつて見える。 (稲でさえ農夫の足音を聞いて育つとい うなら、人が神の声を開かずしてどうや って育つというのか。牧師が労苦し忍耐 して人々の苦しみを開かずして、どうし て神にとりなしができようか)

 緑の稲田に目をやりながら、山田さん は自分にそう言い聞かせる。