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木川 純一 則子
「あなた! 大切なものを!」というかん高い妻の声にあやつられて、私はな
ぜか小銭の入った財布と、コーヒーのサイフォンをにぎりしめていました。
その ときパッと電灯が消え真暗闇。手あたりしだいに詰めこんだ箱を車にのせ、ハン
ドルに手をかけたときは、まさかと思っていた火の手が、まだ燃えていない家々
を先まわりしてアーケードを伝い、わが家の店先を焦し始めていました。
火のつ いたダンポールが飛び、地獄のような火のうねり、胸のつまるような化学製品の 焼ける臭い、そんな中で、アクセルをふんだ私の悩裏を「あの本、あの金の皿」 と、持ちそこねたものがよぎりました。
が、次の瞬間、思わず聖書のことばを口 ばしっていまし。 「主与え、主取りたもう、主のみ名はほむべきかな。」(ヨブ一・二十一)
主は私たちの必要をこ存知の上で、私たちの物を焼かれるのだ! 猛火と強風
と大混乱の中で、私たちは神を仰ぐことを得さして頂いたのです。
人と車が 右往左往する狭い道を進みながら、過ぎ来し十余年のクリスチャン生活を思い
めぐらしておりました。
私は高校時代、ただで英語が習えるのをよいことに、教会に行って見ましたが、 教会では所かまわず「罪」という言葉が出て来るので、少なからぬ反発を覚えま した。
「少しは悪いことだってしなきゃ生きていけるむんじゃないと思ってい ました。ところが、心のどこかには「正しい人間になってみせるぞ」という張り
切りがあり、また一方には、「わかっちゃいるけどやめられない」自分の悪いく
せや、不従煩があるのに気付いていました。
いけないと知りながら、ついムカッ としてあたり散らしたり、ついカンニングをする自分、悪へのささやきに、つい
誘い込まれてしまう自分の弱さ。心の中にあるこの現実と、自分がかかげている
「正しい人間」という理想とのギャップに確かに悩んていたのです。
「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて 光のほうに来ない。」 (ヨハネ三・二〇)
この聖書のことばに出会ったとき、本当に私は、この自分の悩みを解決してお
かなければならないことに気付かされました。そして、罪というのは、あれをし
た、これをしたという、行動の端々に出て来る結果ではなく、心の中にあるこの
不従順と、悪い誘惑に負ける弱さてあることがわかったのです。
罪は、あやまっただけては消されません。それに相当する罰金を払わなければ
なりません。神さまの私に対するそれは「死」です。「パカは死ななきゃ治らな
い」などと言いますが、実に私の罪こそ、死に価するものだということをはっき
り知りました。
イエス・キリストは、十字架にかかって、その私の受けるべき死 の罰を、私の身代りとなって受けて下さったのです。私はこのことを心から信じ、 イエス・キリストを私自身の救い主として心の王座に迎え入れました。このとき 私は罪から救われたのてす。
それから十余年が過ぎ、神さまの導きで、クリスチ ャンの妻を迎えました。 ところが、結婚三週間目にして、史上稀なあの酒田大火てす。
三代続いた果実 店も、まだ開けてなかった新家庭用品も失ってしまいました。
翌朝、被災者の誰もが味わったように、私たちも煙にむせながら焼け跡に立た
ずんだとき、呆然とし、気が遠くなるのを覚えました。
二人で、しゃがむともな くしゃがみこみ、何か使える物はないかと、ガレキをほじくっているときでした。 どちらからともなく、「そうだ、祈ろう!」といって手を取り合い、祈り始めま した。
主は生きておられる! 私たちの心には、深い感謝がこみ上げて来ました。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である。」 (Tコリント十三・十三)
この聖書のことばが光って来ました。
ああ、このとき本当に体験的にわからせて頂いたのですが、イエスさま による救いは、頭の中だけの観念ではなく、現実の生命が、生きたイエスさまと
の出会いを体験したことなのです。
もし救いが体験でなく観念にすぎず、キリス ト教のムードを愛し、その教えを理想として生きているだけであったなら、この
失望のどん底で、「信仰・希望・愛」などと口ずさむことは、何とキザなことで
しょぅか。
しかし、私たちはすべてのものを失いながら、すべてのものに勝るも のを、今までよりさらに強く、この現実の生命の中に誘くことがでさたのです。
イエス・キリストは、死んで三日目に甦えられました。この罪に満ちた、意志
の弱い、そして何も持たない私たちは、イエス・キリストの、今も現実に生きて
働く力を、そのご復活の絶大な力の中から頂いて生かされているのです。
この厳粛な事実と、信仰と希望と愛に生かされる幸いとを、一人でも多くの方 々にお分ちしたいと、私たち二人は祈り続けているのてす。
焼かれてわかる
木川 純一
物憂い夏の午後、仮店舗に出ていた妻から興奮した声で電話がかかって来た。
「今、復興事務所から、もう三十センチふえるって知らせがあったのよ!」
ヤッタ! この日、五ヶ月ぶりに家中に浮ぶ顔面の笑顔。ここれでもと通りの 店が建つ。私は走り出したい衝動にかられた。
昭和51年10月29日の夜、あの猛火に町の大半を失った酒田市民は、火
との戦いよりその後の土地問題との戦いが何十倍も大きいことを体験し、まさに
苦悩の火に包まれた。
火によっては一人の犠性者が出たが、その苦悩が原因と見 られるその後の死者は少くない。理髪店では髪にひと触れしただけで、その客が
被災者であることがわかるという。
換地指定の作業は翌年三月に始った。思えば長い5ヶ月であった。新しい街は 道路を広くし、各所に公園を設けるため、どの家も以前より土地が狭くなるとは 聞いていたが、かつての店が4.3メートルで、店舗としては最小限の間口だか ら、さらに削られるとは思っても見なかった。
復興事蓼所で間口3.2メートル 奥行き30メートルと聞かされたとき、私は唖然とした。聞けばこれはコンピュ
ーターにあらゆる条件を入れてはじき出した数字だから変えられないという。
そ んなバカな!商売は奥行より間口が大切なのだ。 その日から、様々な不安が頭の中をかけめぐり、家族共々眠れぬ日が続いた。
同じ不利な条件を持つ近所の人達と結束して、復興事務所に団交し、市長に嘆願 した。連日連夜、不慣れな意見書作成に疲れはて、嘆願が受け入れられない上に 結束した仲間同志も必ずしも団結できない点もあり、神経はすりへる一方であっ た。
教会でも祈ってもらい、自分でも祈った。「神様のみ心の通りになりますよ うに」と。しかし、三代続いた商売をやめねばならないかも知れない、あせる心
は、祈りによって休まることもなく、将来の悪い予想話にのめりこんでいくばか
りであった。
そしていつしか、クリスチャンである私が、<神は神、商売は商売> と考えるようになっていた。
そんなある日、妻が言った。「あなた、栄光は神様のものよ。人間の努力によ らないわ。神様に全ておまかせしましょうよ。」 この−言でバット目が醒めた。
なんと醜い姿になっていたのだろう。家族同志 の日常会話にもとげとげしいことばを吐き、人と争ってでも、少しでも多くの土地を勝ち取ろうと闘争心まで燃やすようになってしまっていた。そんな醜い私を イエス・キリストは何と暖かく導き返して下さるのであろうか。
私はその日から嘆願運動をやめたのではない。ただ闘争心が去り、平安が満ち
て来るのだった。
思えば私の苦悩は、土地問題自体より、この窮地に追いやられ てすっかりエコノミックアニマル化し、カサカサの人間になっていく自分を持て
余すことから来ていたのだ。
その私にもどって来たこの平安は、単なる気分的な ものではなく、我が内に現実に生きて働くイエス・キリストの愛によるものと、 いま一度確信を深めることができた。
しかし、イエス様は、その確信が本物であ るかと、もう一度私をお試しになった。
難航を続けて早や五ヶ月になろうとする頃、やっと3.3メートルから3.7 メートルに増されると答えが来た。
その夜、妻とニ人でいつものように形通りの 祈りをした。「イエス様、土地を増して下さって感謝します」と。しかし、その私
が、翌日には復興事務所に行って、「たった40センチ増してくれたって元通り
の店は建たない!」とたてついていた。
ああ、いったいどこまで、イエス様を侮 る自分であったろうか。なぜ事務所にではなくイエス様に、まだ足りません。も
る神であるとわかっていながら、「感謝します」などと、なぜカッコよいところ を見せようとしたのか。
土地問題が最後までしっくりいかないのは、この千軒を過す被災地区の中で 我が家を含めてなんと二軒だけとなり、調整期間もついに終って、早や建築の鎚
音も焼け跡に響くようになって来た。
家族の者たちも、仕方がない、これで受け ようと言うことになった。そこで、妻と私は「これを神様のみ心として感謝しよ
う。ロ先だけの感謝ではなく、教会に感謝献金をして、具体的にあらわそう」と話
しあった。
あの電話がかかって来たのは、その献金をした翌日であった。
ヤッタ!と叫ぶ歓喜を押して静かな声が聞えて来た。
「私は待っていたのだ。」と
そうだ!イエス様はこの私を待っていて下さったのだ。イエス様の前にまで、 カッコよいクリスチャンと見せかけようとした傲慢で自我の皮の硬い私が砕かれ るのを。
−この傲慢こそ神に対する罪なのだ− イエス・キリストは、新婚二週間で私たちの持物を焼き、続いて苦悩の火で私
の魂を焼き、私の罪深さと、その私に注がれるキリストの愛の深さをわからせて
下さった。
最後の二軒となるまで、イエス様はこのことに気付く私を待っていて 下さったのだ。
私の罪の身代りとなって十字架の上で死んで下さったキリストの愛と、墓の中 から復活された莫大な力 −それは私の自我を打ち砕くカ− 私はそれによって 今日に生かされている。
私は言い尽し難い感謝をもって、もう一度叫んで言いたい。
<いつまでも残る ものは、信仰と希望と愛>という聖書のことばは、実に真実であると。
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