冬悟と藤古 2 |
とーこちゃんという下りで思い出した。就学前に近くに住んでいて、一緒に遊んでいた幼馴染。落ち着いていて頭も良く、俗な言い方もすれば顔立ちも整っていた。一緒にいる事が密かに誇らしかった、そんな男の子。 手紙を一読し、在りし日の思い出を思い浮かべる前に彼女は青ざめ、持っていた手紙を強く握りつぶした。 「ど、どーしよう」 25日。もう日が無い。 それにあれは就学前の不確かな時期だから出来た事。今はとてもじゃないが隠し通せる筈がない。あの頃彼の引越しは悲しかったけど、同時に美しい思い出に変わった事をどこか安堵していた。 けれど、彼は帰ってくるという。 いつのまにか戸に背を預けたまま座り込んでいた自分を奮い立たせ、再度キッチンに走りこむ。弟の姿はそこにはなく、その勢いのまま弟の私室に向かった。 「ノックぐらいしろよ」 呆れ顔でソファから身を起こし、ヘッドフォンを外す。盛大に足音を轟かせドアを壊さんばかりに入ってきた姉をそれでも平然と迎えた。 これから夕飯時までゆっくりしようと思った矢先なのだが。まあ、スイッチを入れたばかりだ諦めよう。ため息をこっそり溢してコンポの電源を落とした。 ぜーぜーと息を切らし目を血走らせた姉は、息を整え終わるとつかつかと彼の前までやって来た。 「今すぐ名前とっかえろ」 「無茶言うな」 姉は胸倉を掴みあげて凄んでくるが、彼の方が何倍もガタイが良い。怯むはずはない。 「いーから弟なら素直に姉の言う事を聞きなさい」 「いつもみたいに勝手に使ってりゃいいじゃないか。冬悟」 その名を呼ぶと、ピタリと姉の動きが止まり、怒りのオーラが増すのが判った。そして堰を切ったように声を荒げる。 「その名前で呼ぶなって言ってるでしょう!籐古」 「俺もあまり呼んで欲しくない」 胸倉は掴まれたまま怒気を顕にする姉とは対照的に、彼は視線を落とし息をつく。 冗談のようだが、本当の話。姉が冬悟といい、弟が籐古という。双子に生まれついたのが悪いのか、親が名前を揃えたがったのが悪いのか。両親はそれぞれ意味あって付けたと主張するが―――絶対間違えたんだと二人とも確信している。 それで何だというんだろう。互いにその事に関しては色々諦めてた筈なのに。……先程の手紙が関係しているのだろうか。 「けー君が帰ってくる」 無言の視線に促され、今度は涙目になりながら訴える。 けー君?その名前に聞き覚えはあったが思い出すのに暫しの時間が掛かった。 「あ――、お前の懐いていた。菱名町の"けー君"?だいぶ前に消えた」 「消えてない!引っ越してたんだってばっ、神戸に!」 「そうだったっけか。…まあ、好きにすればいい」 「それじゃ駄目なんだってば」 がくがくと揺さぶっているつもりだろうが、彼はびくともしない。自然、胸元あたりを叩くような格好になる。 姉の八つ当たりは今に始まった事ではないが、いい加減鬱陶しい。 「じゃあ、どうして欲しい。具体的に言ってみろ」 その手を掴み、動きを止めさせる。冬悟は一瞬怒らせでもしたのだろうかと口を噤んだが、籐古の静かな顔を窺い、そうではないと悟ると掴まれた手を振り解いた。 「もういいよ、ばかっ」 言い捨てると、来た時と同じように蹴散らす勢いで出て行ってしまった。 それを静かに見送って、ふうと息を一つ吐く。 まあ、あの取り乱しようや八つ当たりも仕方のないことだ。冬悟にとって景一いえば、幼心にもあからさまな初恋の君だったのだから。 あの頃、自分達はの名前がそれぞれの性別にとって異色であることを自覚し始めたばかりだった。 それまで疑問にも思っていなかったが、親戚や知人に母が自分達を紹介する時などに必ずと言って良いほど聞き返される。若しくは聞き流して、取り違える。そして必ずその後に戸惑いの表情を浮かべるのだ。 そんな大人たちの反応を見れば、流石に嫌になる。 だからそのうち、自分らを知らないところ、後腐れのない場所においては互いの名前は取替えて名乗っていた。 遊びに外に出るのに遠出をするのも、本名で呼ばれる心配のない所まで出かけていたせいだった。 そんなときに出会ったのが景一だった。 遠出をすると言っても、子供の事。実際には大した距離ではない。それでも知り合いの居ない所までと子供の足でうんと遠くに行ったつもりだ。 そこで楽しく友達を作ったかというと、そうでもない。その場所ではその場所のコミュニティがあり、独立した社会構造がある。つまりポッと現れた姉弟なんかには目もくれないのが普通だった。 二人はそれでも構わなかった、少なくとも遊び相手ならいる。互いにそう納得していた。 広場の端っこで黙々とボール投げで遊んでいた二人に、景一は普通に話し掛けてきた。 「二人で遊んでるの?」 確かボールがあさっての方向に飛んで拾い上げた景一が、返しもせずに聞いてきたんだと記憶している。 取に行った冬悟は返してくれるものと思い、手を広げたままひたすら待っていた。 「あまり見かけないけど、何処に住んでいるの?みんなと遊ばないの?」 そういう景一の方は、先程まで誰と遊ぶでもなくベンチに腰掛け、広場の様子を眺めているだけだった。冬悟は黙って待っている。 景一は投げ返す為に肩の上まで持ち上げたボールを降ろし、両手で抱えてしまう。その行為に冬悟はむっとして口を開く。 「返して」 その言葉ににっこり笑い、景一は態々冬悟の元まで歩いてくると、その手にボールを手渡して言った。 「一緒に遊ぼう」 その言葉通り、それからは景一とよく遊んだ。それまで場所をコロコロ変えて落ち着かなかったが、そういう事もなくなった。就学目前になり、景一が居なくなるまでそれが続いたのだった。 |