夢の消えぬ間に


−壱−


芽吹き始めた銀杏の葉に朝の露が灯り、下へと落ちてゆく。
日が昇る前の、空が闇から白へと変わり始める頃。
風さえも体を休め、外には物音一つしない。
只、葉の間をすり抜けた露が池に波紋を広げる。そんな音だけが辺りを木霊のように巡り嵩姫の処まで届く。

嵩姫はよくこうして朝日も出ないうちから簀子の段の処に座り、外を眺めている。
庭の右手に松が一本。少し間隔が空いて紅葉が二本。五尺ばかり向こう、やや右に銀杏が一本。その左手に池がお粗末程度にあるだけである。 この箱庭のような、静かな小さい庭を見るのが好きであった。
誰も起きてこない時間だからこそ、誰にも邪魔されなくてすむ。



細い廊を朝餉を携えた侍女が急ぎ早に渡っている。
侍女はとても機嫌が悪かった。今日は寝坊してしまい侍女頭に怒られたのだ。
確かに寝坊した自分も悪いが、理由も聞かずに頭ごなしに叱ることはないではないか。こっちだってれっきとした理由があるんだから。それを、あのババァ寄りにも寄ってあの姫の世話を押しつけて。
床も踏み抜かんばかりの勢いだ。
あの姫とは嵩姫のことである。
侍女は嵩姫が嫌いだった。この侍女だけではない。この館で嵩姫に好意を持っている者はおそらくいないだろう。
否、嫌っていると言うよりかは恐れていると言った方がいいか。 だから、ここには誰も近寄らないし、近寄りたくない。 その嫌な役をこの侍女は押しつけられたのである。 勢いのまま、乱暴に戸を開け侍女は部屋の中に入る。
すぐ柱に寄りかかり外を見ている嵩姫が目に入ったが、姫の方は身じろぎ一つしない。
部屋の中央に朝餉を置き、さっさと寝床を片付ける。
支度を終え、入り口近くに座り待つこと暫し。朝餉が空になるまで帰れないのである。
それでも尚、無言の嵩姫に思わず他の姫にするように話しかけてしまった。
「そんなに、外ばかり見ていると鬼に浚われますよ」
本来ならば口も聞きたくない相手である。
しまったと思ったが、しかしこの姫ならば反応も返ってこないだろうと思い直した。

だが、予想に反して嵩姫はその言葉に反応したのだ。
「鬼?」
そしてゆっくりと侍女方を振り返る。
『ああ、嫌だ』。
顔を背けたくなるのを侍女は必死に堪えた。
じっと侍女を見すえる銀の目。
嵩姫の右目は生れつき色素が薄く角度によっては光ったようにも見えるのである。その為、皆から疎まれていた。
加えてたとえようもなく美しい容貌であった為、侍女の目にはとてつもなく禍々しいものに写っていた。
侍女は息をのんで覚悟を決めた。

最近出没するようになったんですが、童子のような着物を着ていて恐ろしい妖の力をを操る鬼が何人か出るらしいんです。
その鬼は顔も角も白く、口だけが血に濡れたように赤くて耳元まで裂けているんだそうです。
宝を盗み、女子をさらい、追っていた検非違使や罪もない人々も何人もその毒牙にかけていると言います。
火を操り、風を操り 麗しい姿に化けて人を惑わしたりするんですって。
この前も中納言の姫君がさらわれたとか
ああ、くわばら、くわばら



−弐−


少納言は貴族の中でもそこそこの地位にある。したがい、その屋敷もけして小さいものではない。
しかし、嵩姫の部屋は一番北の小さな部屋だった。
庭もほんの気休め程度の小ささで、手入れする者もなく荒れていた。
母屋からは細い廊が一つ通っているだけで殆ど人の出入りもなかい。
一日に何度かその日運悪く世話をいいつかった侍女が朝夕の支度をしに通るだけだ。
嵩姫自身はそのことに何を思ったこともなかった。
むしろ、人通りの少ない部屋も、人の手を感じさせない庭も姫にとっては心を落ち着けられるものだった。

その夜、嵩姫は渡殿の柱に寄りかかりながら夜の更けゆくのをみていた。
昼間にはうるさく言う侍女ももう休んでいる頃だ。

月は、好き。
闇の中にいて儚く光る。きれい。
とても淡い光。それは消え入りそうなほど。
でも確かに自らの存在を主張している。
自分とは違う。
月をみていると泣きたくなる。
私は月になりたいのかしら。
否、そうでなない。
ではこの感情は?

俄に、月が二つに割れた。
一つは今までみていた月。変わらず天にある。
二つ目は…。
天上よりもずうっと下。五尺ほど向こう生け垣の元に浮かんでいる。
焔?
いいえあれは鬼火。
その炎は焔というには青白く静かにそこにあった。
そう、人の手でともした光はもっと明るい。
あれは、夜の闇をそのまま落としたような色をしている。
そのうち、鬼火に誘われるように一つの顔が浮かんできた。
裂けた口。白い角。
異形の姿がそこにあった。
ああ、ではあれが鬼と呼ばれるものなのだ。
『鬼は顔も角も白く、口だけが血に濡れたように赤くて耳元まで裂けているんだそうです。』
この前侍女が言っていた通りの格好。
でも違う、侍女は言っていなかった。鬼があんなに、
「きれい」

鬼が動いた。
滑るようにゆっくりと嵩姫の座る鴨居のところまで来る。
「怯えて口も利けないのかと思ったけど、そうではなかったみたいですね」
鬼の口調は不思議と柔らかかった。
「きれい?ですか、この鬼の姿が」
嵩姫はゆっくり頷いた。
「そうですか」
そう言うと、鬼は自分の頬に両手をあてた。そしてゆっくりとその顔を外した。
下から現れたのは。女と見紛うばかりの美しい顔。
『麗しい姿に化けて人を惑わしたりするんですって。』
又、侍女の言葉が思い出された。
鬼はそのまま外した自分の顔を嵩姫に渡し、
「これを」
そう言うと、まるで風のように消えてしまった。

翌日。明るい日の下で見ると、渡された鬼の顔は良く出来た面だった。




…紫耀どうやら上手く逃げられたみたいだな。…
……ええ、萌葱も無事だったようで。……
…当然だろ。…
…ところで、おまえ鬼の面はどうした。…
……さあ。……




−参−


嵩姫はあの時、鬼から渡された鬼の面をこっそり床下に隠し、それまでと変わらない日々を過ごしていた。


−二年後−
庭の銀杏も金に染まり、夏の空気も薄れ始める頃。
嵩姫は再び渡殿に腰掛けて更けゆく夜に浮かぶ月を眺めていた。
今宵の月は満月で、紅く大きい月が空をうめていた。

突然、母屋の方が騒がしくなった。
悲鳴。
人の怒鳴る声。
嵩姫は気分をそがれ部屋に戻ろうと腰を持ち上げた。


「居たぞ」
言うが早いか常経は、太刀を抜き鬼に斬りかかった。

今宵、鬼は少納言の館に現れた。
兵部の守である常経(つねたつ)は、たまたま御所での務めの帰り少納言に誘われて、この館で馳走になっていた。
常経は右大臣の甥であり、右大臣からも特に目をかけられ将来の地位も約束されたも同然の男である。
少納言は常経に取り入ろうとしつこくつきまとっていた。
常経も知ってか知らずか、何かにつけて誘ってくる少納言をそう無下には出来ず今日館に招かれたのだ。
早々に帰ろうと思っていたのだが、少納言の方もせっかく館に招いたのだからと、数いる娘を順番に紹介したり家宝の剣を みせたりと何とか常 経を返さまいとする。
そうこうするうちに夜も更け、流石にもう帰ると引き留める少納言を押し切って館の外に出た矢先、鬼が出たと家人の声が聞こえた。
そして逃げる黄の鬼を見つけたのだ。

手応えがあった。見ると鬼は右肩を押さえ常経に太刀を向けたまま、じりじりとあとづさっている。
鬼の着ていた着物が黄色い色からみるみる朱に染まる。
太刀を持ち直しもう一度鬼に斬りかかる。
「硫黄」
誰かを呼ぶ声が聞こえ、甲高い、太刀特有の音が響いた。
自分の太刀を受け止めたのは緋い着物を着た鬼だった。
「ここは任せて早く逃げろ」
硫黄と呼ばれた鬼を後ろに庇い、再び打ち返す。そのまま二、三度切り結ぶ。
硫黄の方は少し躊躇ったが、すぐにきびすを返した。
「鬼。何故悪事を重ねる」
力で鬼の太刀を跳ね返し、左から払う。鬼はおそるべき跳力でそれをかわし、そのまま上から打ってくる。
「捜しものをしている」
何を、と訊ねようとしたが、そこに駆けつけてきた家人が鬼を取り囲んだ。
「お怪我はありませんか常経様」
肝心のところで邪魔をさたのを少し苦々しく思いながら、大事ないと答える。
鬼は完全に包囲されていた。
ひとまづ太刀を納め、ここは家人達に任せようと、その場を離れようと後ろを向いたその瞬間。何人かの家人が呻きをあげて倒れた。
「こっちだ萌葱」
蒼い鬼が刀に血を滴らせながら立っていた。間髪入れずに緋の鬼が走る。
「追え」
鬼は逃げる。北へ。
北へ。




−肆−


鬼を追って屋敷づたいの角を右に折れた。
そこで、常経の足が止まった。
鬼を見失ったのだ。
後ろから家人達も追いついて来た。
そこが館の一番北だと思っていたが、そこから内へ向かって斜めに細い廊が続いている。死角になっていたのだ。
家人に松明を借り、奥の方へ今度は辺りを伺いながら慎重に足を進める。
やがて視線の先に小さな離れを見つけたとき、不意に真横の渡殿に人の気配を感じた。
「誰だ」
振り返ると一人の女人が座っていた。
ふと、鬼が化けたかと思った。鬼の一人がそれは美しい女人に化けると言う話を聞いたことがある。
それというのも、その女人は荘厳華麗な御所でも見たことがないほど美しい姿をしていた。
一瞬、物も忘れて見とれていた。
すぐ我に返ったが、女人が逃げる様子がないので太刀を納めた。
「あなたは鬼か?」
その問いに女人が首を振る。
家人の一人が慌てて女人は少納言の孫、嵩姫だと教えてくれた。
「では、鬼をみませんでしたか。緋の着物を着たのと薄青い着物を着たのを」
姫は少し首を傾げて、それから小さく頷いた。
では何処へと聞くより先に姫はすっと庭を指さした。
姫が指したのは、今より少し手前の築地だった。切り取られたまま野ざらしの切り株がちょうど台のようになって登りやすくなっている。
家人が皆すぐさま鬼を追って行ったが、常経はもう追っても無駄だろうとその場に残った。
姫を一人残していくのも気が咎め、かといってこんな真夜中に部屋まで送るのも躊躇われ、 考えあぐねていたところ嵩姫の方が「帰らないの?」と話しかけてきた。
答えかねていると。
「では、部屋まで送って下さい」
と、離れを指さした。
常経は少し戸惑ったが、喜んで姫の手を取った。

***
常経と嵩姫の立ち去った渡殿。
常経がいた築地の方とは逆の、内庭の茂みから二つの陰が出てきた。
「あの姫は」
緋の鬼が問う。
蒼い鬼は答えない。




−伍−


二人の鬼は互いを探るように一歩も動かない。 緋の鬼萌葱が、ふと、眼光を崩す。
「いやー、一時はどうなることと思ったがな」
渡殿にどっかりと腰を下ろして、緋の鬼が言う。
それにしても、と先ほどの出来事を思い浮かべる。
紫耀は真っ直ぐここへを目指してきた。
萌葱はもう一度渡殿を見渡す。

***


先刻。
家人達に追いかけられた二人は北へ逃げていた。
「おい、この分じゃ屋敷の外に出てもまけそうにないな」
後ろにぴったりとくっついてくる家人に目をやりながら、萌葱は自分の不安を口にする。
特に一番前にいる常経とか呼ばれていたのが厄介だ。
さらに先ほどから一言も口をきかない仲間にも、不安と不満が募る。実際、萌葱は紫耀の後について行っているだけなので、 はたして行く手に何が待っているのか分からないのだ。
まあ、紫耀に考えがあるんだろうけどさ。
「大丈夫。あの姫ならば助けてくれる」
ふいに紫耀はそう呟いた。
あの姫?どやって?
疑問は沢山あったが、こういう時の紫耀には勝算があるのだ。萌葱は自分の不安を胸の内に押し込めた。
そして、延々と続く屋敷の横を北に進むと前を行く紫耀は迷わず右に曲がった。
閑散とした所だった。それまで通った少納言の館はそこら中に贅が凝らしてあった。
それに比べて、なんと寂しい。
斜めに続く細い渡殿の横を走り抜ける。
ふと、紫耀が足を止める。
「おい。どうした」
後ろからは家人共が迫っている。こんな所でぐづぐづしていられない。
しかし、紫耀は渡りの一点を見つめてまま動かない。
つられて萌葱もそちらに目をうつす。
…ばかな。
そこには壮絶に美しい女人がいた。
萌葱は自分の目を疑う。確かに自分には何の気配も感じなかった。
自分が分からなかっただけか?だけど、こんなに近くにいて気付かないことってあるか?
一つだけ分かったのは紫耀が言っていた姫とはこの女人の事なのだ。 家人の声が近くに聞こえ、萌葱に自分達に余裕が無いことを思い出させた。
「お、おい」
紫耀の肩を掴み行こうと促すが、紫耀の方は動こうとしない。
その時、姫が動いた。壁側により奥を示す。
萌葱は少し戸惑った。この姫は自分たちに外にではなく、館の内側に逃げろと言っているのだ。
紫耀は躊躇わず渡殿に上がり、姫の横を遠り抜ける。
近づく家人の声に、ええいままよと萌葱も渡殿に上がり向こう側に滑り込む。
間発入れず家人の足音が聞こえた。
「誰だ」
先ほど太刀を合わせた常経とか言う奴のの声が聞こえた。


***

あの姫は、自分に全く気配を感じさせなかった。いや、それ依然になぜ紫耀は姫の居場所がわかったのか。
まあいい。
物事とは成るようにしか成らないのだ。
萌葱は渡殿に座ったまま勢い良く紫耀の方を振り返る。
「早く帰ろう。硫黄が心配してるだろうし、皆が待っている」
紫耀はにっこり笑う。
「あなたが早く会いたいのは楓姫でしょう?」
萌葱の顔が見る見る赤くなる。
「そうですね。帰りましょう」
飛んでくる拳を交わしながら、そんな萌葱の様子を紫耀は可笑しそうに見ていた。




−陸−


子の刻をまわってから帰ってきた常経は、用意された床にも就かず月を眺める格好で、 今日の事を思い返していた。
少納言の館に現れた鬼は、結局捕らえることは出来なかった。
あの後家人達は検非違使と合流して、鬼を捜索したが見つけることも出来なかったのだ。
あの鬼は、捜しものをしていると言った。
捜し物?
者?
どちらにせよ、あの者達の目的が盗みやかどわかしではないことになる。
では何故みやかどわかしを働くのか?
捜しものとやらに関係あるのか?
わからない事だらけだ。
月に照らされた姫。
ふと、あの姫の姿が浮かんだ。
夜目にもその姿は美しく映った。
いや、美しいなんていう一語では表せない。
もっとこう神秘的な…
そういえば、鬼達は迷わず館の奥の方に逃げていった。
それまでは確かに自分は鬼を追いつめていた。
だが、逃げられた。
…あの姫のところに行けば何かわかるかもしれない…
何か鬼の手がかりが…




−漆−


翌日、少納言邸を訪れた常経は少納言の熱烈な歓迎を受けた。
少納言にしてみれば今までどれだけ誘っても応じなかった常経が、 昨日の今日で再びやって来たのだ。諸手をあげて喜んでもまだ足りないくらいだ。
早速、一席設けようと侍女を呼び出した少納言を、常経が制した。
「いえ、今日は嵩姫に会いに…」
その言葉で少納言の顔色が変った。といっても一瞬の事で、次の瞬間には何事もなかったように平静を取り戻していた。
「あの姫のことを?何故…」
常経は昨夜の鬼の手がかり探しに来たと話した。
「昨夜の事は聞いております。常経殿の活躍で鬼を追い払えた事、感謝しております。鬼と切り結び、興味を覚えたとて無理はございません。しかし、それとこれとは別。昨夜あの姫を見たと言うならばお忘れ下さい。鬼の手がかりとやらも諦めていただきたい」
常経はだまって庄納言の様子を見守っている。
「常経様だって夕べ見たのでしょう。あの子の目を、恐ろしいあの子は呪われているんです」
ああそれで、
常経は嵩姫の部屋や、庭の様子を思い出した。訪れる者もなく荒れるままに任された何も無い場所。
それに昨日まで常経は少納言の孫娘、嵩姫との事などついぞ聞いたことが無かった。
その存在すらも隠しているのだろう。
では何故そこまでしてこの館に残しているのか?
見られて不味い姫ならば、酷い言い方だがその辺に打ち捨てておけばよいものを、
疑問は残ったが、少納言の様子にこれ以上は聞き出せないと悟り追及は諦めた。

何とか少納言を宥めすかし、最後には鬼を庇い立てする気かと脅し奥の部屋へ通してもらった。
部屋に入っても嵩姫はまるで気付かないというふうに外を眺めたままだった。
常経が話し掛けるとようやくこちらを振り向いた。
なるほど、少納言の言う通り、嵩姫の目は白っぽく見え常人とは少し違うように感じる。
「昨夜御会いした常経です。憶えておられますか?」
嵩姫は常経の顔を見上げるばかり。
憶えておられないか、常経は苦笑する。
「では、鬼の事は憶えていられますか?」
これには、非常にゆっくりとだが頷いた。
「昨日の事について少し質問をしたいのですが、いいですか?」
肯定。
「昨日鬼を見たとおっしゃいましたが、鬼の方には見つからなかったのですか?」
否定。
鬼に見つかっていた?
ああ、鬼のほうも追われていたために姫をどうこうするどころではなかったのか。
「鬼は二人居ましたか?」
肯定。
では確かに二人はあそこに逃げてきたのか。
常経は他にも鬼の特徴、気付いたことなどを聞いたが思うように収穫が得られなかった。
質問を諦め、帰ろうとしたその帰り際、ふと頭をもたげた疑問。
「姫は鬼が恐くありませんでしたか?」
ただ、姫があまりにも落ち着いた様子だったから来てみただけだ。
感情を表に出さない姫だから分からないだけできっと姫だって恐かったのに違いない。
その質問に姫は戸惑い、そして首を横に振った。

常経は渡殿の横をとぼとぼと歩いている。
姫の最後の答えを常経は、恐いという感情も分からないのだと思った。
あれだけ浮世を離れている姫だもの、そう不思議はない。
ふと、見覚えのある切り株が目に入った。
反射的に姫の居ただろう渡殿を振り返る。
渡殿はこちらは吹き抜けになっているが、あちら側は障子で塞がれている。
きっと目隠しなのだ。
向こうを吹き抜けにすれば中庭からこの荒れた庭が見える、それを隠すためのものなのだろう。
…では、部屋まで送って下さい。…
丁度ここだったのだと夕べの事を思い出す。
ここで、姫の手を取って…
はて、何故送ってくださいと姫は言ったのだろう。
思い返してみれば姫が喋ったのはあの時だけだった。
あの時だけ
だから自分は姫は恐かったので一人で帰れないのだろうと思い込んだのだ。 そうでなければあの姫が供を連れないと帰れないなんて事がある訳がない。
そして、渡殿を見渡す。
あの向こうは遮られていると言っても、所詮は障子だ。あれを開ければ向こうへ出られる。
そして開け放していたとしても、夜の暗がりそうそう分からない。
だがしかし、常経は首を横に振る。
考え過ぎだ。
大体なんで姫があったことも無い鬼を庇うのだ。
きっと姫は忘れているだけなのだ、恐かったということを。
私の事を覚えておられなかったように。




−捌−


常経が館に戻ると奥から従が飛び出してきた。
「ああ、常経様。何処に行っておられたのです」
「申の刻には未だみときほどあるが?」
申の刻には戻ると朝方家の者には言ってあったはずだ。
「それはそうですけど、行先くらい言っておいてもらえませんと、緊急のときに連絡のとりようがないじゃないですかー」
「それは…」
すまないとしか言えなかった。少納言は権欲が強く日頃からそれをあからさまに出す人なので家の者は少納言と付合いを持つ事を嫌っていた。
「それで、何の用なのだ?」
誤魔化し半分で先を促す。
[はい、右大臣様がお見えです。
右大臣?
また何の用なのだ、あの人は

客間に入ると右大臣が既にくつろいだ様子だった。
この客間も右大臣の来訪を聞き慌てて取り繕ったのだろう。いつもは見られない代物がそこかしこに置かれていた。
「おお、常経来たか」
右大臣は大仰に招いてみせる。
「何の用です?」
取り敢えず右大臣の前に座る。
「ああ…その」
右大臣は言いにくそうに口篭もる。
辛抱強く待つのは常経の得意とするところ、けして急かすような事はいない。
「あのな、今回はお前を養子にしようと思ってな。もう、良経殿にも了承を得た」
「はあ?」
驚き半分、呆れが半分である。
「ほら、私には跡継ぎらしい跡継ぎがいないだろう。それで、跡継ぎとして常経を迎えたところで何の不思議も無いと思うのだ」
いずれ言い出す可能性は考えにあった。
しかし、仮にも右大臣。状況を考えれば押しとめておかなければならない希望である。
眼前にいる右大臣は内裏で見せる荘厳な姿はなく、ただ常経の返答を恐る恐る待っている様子であった。
「右大臣様。私があなたの甥でありながら兵部の守でおさまっている理由をお忘れですか?」
膝を正し、礼を尽くした臣下の口調で常経は右大臣を見据える。
右大臣はそれを目を細め、悲しそうな面で受け止めたが急に口調を改めた。
「そなたの父母の身分の事は問題にはならない。
確かにこの事は一族の繁栄に影をさすやもしれん。だが、常経の才を持ってすれば盛り返すのも造作もないこと。
これは右大臣であり一条家を束ねる私の判断だ」
父である良経は、身分の低い女から生まれ右大臣の弟とは言ってもその地位は低い。
一方母も身分の低い女であった。
身分がものを言う時代。出世するといってもたかが知れていた。(まあ少納言からすれば十分といえる身分にはなれるのだが…)
出世には興味のない常経だったが、右大臣の命には逆らうことは出来ない。
沈黙は了承の証。
それを見取ると右大臣は腰を上げた。
「母上に会っていかれないのですか?」
常経の母。名を加江と言った。
障子を開けた姿勢のまま立ち止まり、右大臣は常経の背を振り返る。
「今更だ」
諦めの色を残して右大臣は部屋を後にした。

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