結露

結露



昼過ぎに降り出した雨は小一時間の間にかなりのどしゃ降りとなった。
おかげで外にも出れず、イーリス=アヴニールは宿の窓から外を見るとも無しに見ていた。
こんな天気の日には流石に広場には誰も来ない。
無論あの人も…
まあ、いい。そんな日もあるだろう。
そんな自嘲にも似た思いで窓の下に目を落としたときだった。
雨にかすむ通りに見知った人物を見かけた。
たった今思いをはせていた人だ。
すぐさま身を翻しイーリスは表へ出た。

降りしきる雨の中その人はその身を雨に浸したまま通りを何処へとも無しに歩いていた。
「何をしているんですか、風邪を引きますよ。」
振り向いたその顔が雨以外のもので濡れていたと思ったのはイーリスの気のせいだろうか。
「あ、イーリスさん。どうしたんですか?こんな所で、」
錠前亭の前でそれはないだろう。
「何言ってるんですか?私の泊まってる宿の前で…」
誤魔化したいらしかった。イーリスはそれに騙されている振りをすることにする。
彼女の方はイーリスの言葉に少し驚いたように周囲を見渡す。
「本当ですね、ははは。」
そう言って笑う声にも全く力が無い事に彼女は気づいているだろうか。
何かあった事は明白であった。
そして、このまま放っておけない事も…
「兎も角、中に入りなさい。」
それは少なくとも彼女の体を壊さないのに最適な方法であった。
それでもイーリスは予感していた。
この事を後悔する自分を…

取り敢えず拭いてください。と言って渡したタオルを彼女はどこか虚ろな顔で受け取る。
雨脚は又強まり、二人の間には沈黙が流れる。
「やっぱり何にも聞かないんですね。」
人にも色々と事情があり、
語らないことは聞かないが彼の信条だったのだが、それ以上に聞きたくなかった。
「…聞いて、欲しいのですか…?」
イーリスは自分の言葉に刺がないことを祈った。
「どうでしょう。」
願いは通じたらしい。彼女はイーリスの様子に全く気づく気配もなく頭をごしごしと拭いた。
しかし、この時虚空を見つめていないでイーリスの方に振り返れば或いは気がついたかもしれない。
それは、イーリスに関心が無いことを物語っている様で、彼は複雑な心境で彼女を見守っていた。
「結婚…するんだそうです。」
その言葉は天から降り落ちる雫のように、ただひっそりと本当にひっそりと部屋の中に染み渡った。

彼女の去った部屋。
彼女の居た形跡を唯一残す、タオルに手を掛けイーリスは一人思う。
彼女の言ったのが誰の事か言わずともイーリスには分かっていた。
彼女がずっと彼の事を想っていたのを知っているから、
そんな彼女の事をずっと見てきたから
『あなたは、無理に笑おうとなさってましたけど、滲み出る悲壮さを拭い去る事は出来なかったみたいですね』
嘘の付けない純粋な人だ。
イーリスは彼女がそういう人だと知っていたし、だから好きになった。
ただ…
伏せた顔をほんの少しあげてくれたら気付いたかもしれないのに…
ほんの少し彼の事を見たら、同じ様に傷ついた顔をしているイーリスに、
彼の視線の先で窓についた結露が、
すーっと、流れて
落ちた。