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寿福院日榮    寿福院日榮は、加賀藩主前田利家の側室で、実名を「ちよ」といいます。もと朝倉氏の家臣であった上木新兵衛の娘として、元亀元年(1570)に、越前府中(福井県越前市)に生まれました。母は、朝倉氏の家臣山崎右京の娘で、美女の誉れ高く、後に小幡九兵衛と再婚したので、子の寿福院は「小幡氏」とも呼ばれました。寿福院の実家・上木氏一族は篤信の法華信徒であり、その菩提寺が府中経王寺であったことから、日蓮宗との密接な縁が生じたのです。
 「ちよ」は前田利家の正室「まつ」の次女で、秀吉の朝鮮出兵に際して、肥前国(佐賀県唐津市鎮西町)の名護屋に出陣したとき、利家に従って下向し、身の回りの世話をしました。この間に利家の寵愛を受けて身ごもり、金沢に帰って文禄2年(1593)11月25日に、利家の四男猿千代(後の利常)を生みました。
 慶長6年(1601)、猿千代は二代藩主利長の嗣子となることが決まり、併せて名を「利光」と称することになり、2代将軍秀忠の次女で3歳の玉姫(天徳院)と結婚しました。慶長10年には、徳川氏から松平姓が与えられ、前田家3代の家督を継ぐことになりました。このような実子の見事な出世は、寿福院の運命をも大きく変えることとなりました。養仙院日護上人が、護持僧として金沢に移り当山の礎を築いたのは、まさにこの時期(慶長6年・1601)のことでした。
 寿福院は金沢城の東の丸に住むことになったので、「東の丸殿」と呼ばれました。慶長8年には滝谷妙成寺の檀越となり、境内諸堂の整備を発願し、同13年に異母兄の日淳上人が、越前経王寺から妙成寺14世として晋山し、同17年には本堂の造営に着手しています。その後、寿福院の菩提寺としての妙成寺には、五重塔・三光堂・三十番神堂・祖師堂・鐘楼・山門などが前田家の尽力によって次々と建立され、やがて輪奐の美を誇るようになりました。
 しかし、寿福院はこの事業のなかばで加賀を離れて、人質として江戸で暮らさねばならなくなりました。慶長20年(1615)5月寿福院は自ら妙成寺を参拝し、加賀・能登・越中三カ国「永代御静謐と御武運長久の御祈祷」を捧げ、別れを告げました。この年、寿福院は江戸の加賀藩邸に入り、日蓮宗の身延山久遠寺・京都妙顕寺との交流を深めます。元和5年(1619)10月には身延山に五重塔を、同8年7月には中山法華経寺の五重塔を、それぞれ建立しました。また、元和10年には鎌倉妙本寺に五輪塔を、寛永5年には京都妙顕寺に11重石塔を造立して、逆修供養を行い、没後の菩提を生前に修しています。
 寿福院は、寛永8年(1631)3月6日江戸藩邸において、62歳の生涯を終えました。法名は、「寿福院華岳日榮大姉」。遺骸は日蓮宗大本山の池上本門寺で荼毘に付され、遺骨は金沢に移されて経王寺で本葬儀を執り行い、遺灰を籠めた灰塚が営まれました。この葬儀には、妙成寺住持の日條上人が導師を勤め、実子の3代藩主前田利常(微妙院)自ら家臣を率いて参列し、盛儀を極めたといわれます。その葬儀の8日後、 寛永8年(1631)4月14日犀川橋詰めからの大火に当山は延焼しました。正保4年(1647)藩主利常は、生母寿福院日榮大姉第17回忌追善菩提のために当山を再建し、境内を約1万坪としました。
 寿福院の遺骨は、滝谷妙成寺に送られて、石造の厳重な御廟を設けて埋葬し、位牌は御霊屋に安置されて供養を捧げられました。
  寿福院は、徳川家康の側室であったお万の方(法名・養珠院日心)と、3代藩主利常と正室天徳院の次女で、広島藩主浅野光晟の正室となった自昌院とともに、同時期に日蓮宗寺院の整備に多大な功績を残し、信仰心が希に見るほど篤かったため、日蓮宗三女傑とも言われています。


        
 由緒
寿福院日榮
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