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 先刻から僕は、専用の不格好なフルフェイスヘルメットをして、決められた通りの作業を淡々とこなしていた。ガラスで出来た高さ二十センチメートルくらいのボトルのふたを開けて、蛇口を回して水のようなものを流し込み、いっぱいになったらふたを閉める。ケースにしまい、また次のボトルを取り出し、水を入れ、ふたを閉める。一日中この作業を繰り返すのだ。このバイトを始めてもうすぐ一ヶ月になる。自分がやっている仕事がどのような最終目的のための過程なのかは、誰も説明してくれなかったのでよく分からない。しかし、それほどきつい仕事ではない割に時給はかなり良かったから、何となく怖いなあと思いながらも今まで続いていた。
 今日のボトルに入っていたのは死んだ蝶だった。アゲハの一種だと思うのだが、名前は知らない。どの蝶も大型で、まっすぐ伸びた、複雑で美しい模様の羽を持っていた。そして、もしも掌で握れば瞬間的に粉々になってしまいそうなくらい、カラカラに乾燥しているみたいだった。
 確か昨日は、ボトルの中には死んで干物になったようなネズミが入っていた。その前の日は、何かの幼虫だったのだろうか、白い芋虫みたいなのが入っていたと思う。思うに、僕の仕事は、動物の死体をホルマリンにつけて標本を作るとか、その類のものなのだろう。このヘルメットは、万が一この水がはねて目に入るといけないからから必要なのだろう。文系の僕だってホルマリンが目に入ったら失明するということくらいは知っているから、毎朝のヘルメットの点検は決して怠らなかった。ただ、正直に言ってバイトを始めたばかりの頃は、危険性がどうのなんてことよりも毎日のように大量の死んだ生き物と向き合っていなきゃいけないということのほうがずっと気持ち悪かった。まあ、それも今ではもうすっかり慣れてしまったらしく、深く考えずにひたすら仕事をこなすことが出来るようになった。
 しばらく作業を続けたとき、誰かがドアをノックする音が聞こえた。見回りの社員なら三十分ほど前に来たばかりだったけれど、まあこんな日もあるのだろうかと思って、作業を止めた。厚いドアの向こう側に聞こえるように大きな声で返事をして、ノブに手をかけた。そして何気なくドアを開けた。
 と同時に何かが素速く飛び込んできた。止める間もなかった。小学校低学年くらいだろうか、髪をショートカットにした女の子だった。社員の身内なのかもしれない。両手にアイスクリームを一個ずつ持っている。僕は慌てた。たとえ社員の娘だとしても、部外者が入っていい所ではない。見つかったら怒られるでは済まないだろう。しかもこの部屋は、食料品は持ち込みだけでも禁止だし、ヘルメットを着用せずに入室する事も固く禁じられていたのだ。
 彼女は、飛び込んできたのはいいが、どうやら部屋を間違ったことには気付いたらしい。しばらく足を止めてストップモーションのように突っ立っていたが、やがて部屋の中を興味深そうにきょろきょろと見渡し始めた。どこにでもいそうな普通の女の子だった。僕と目が合うと気まずそうにうつむいた。
「ええと、君はどこの部屋に行きたかったのかな?」
 とりあえず聞いてはみるが、この建物内で僕が知っている場所はせいぜい出口と社員食堂だけだ。こういう場合、本当なら一刻も早く社員を呼ぶべきなのだろうけど、彼女をうっかりとはいえ部屋の中に入れてしまった以上、呼んでしまえば何らかのペナルティーがあるのは必至だった。そう思うと、一人で片づけられるものなら片づけてしまおうと思った。それに実を言うと、僕は無性にこの女の子と何かを話してみたい気がしていた。別にロリコンの気があるわけではないけど、多分さっきまで死体ばっかり見ていたので精神的に疲れていたのだろう。
 彼女は僕の質問には答えず、うつむいたまま困ったような顔をしていた。間違って入ってしまった部屋の主に対してどのような応対をすればいいのかを考えているのかもしれない。手に持っているアイスクリームは、部屋のスチームをまともに受けてだいぶ柔らかくなっているみたいだ。縁が表面張力で膨らんで、今にも流れ出しそうだった。僕は、はらはらしながら見ていた。やがてついに、片方のアイスの縁が決壊した。彼女の左手に一筋の溶けたアイスがつたっていった。
「一個あげる。」
 女の子は、初めて声を出した。まだ溶けてない方のアイスクリームを差し出した。僕は、思わず受け取ってしまった。彼女は、もう一つのアイスクリームの溶けかけた部分に唇をつけて軽くすすると、くるっと後ろを向いて、いそいそと部屋を出て行った。ドアがぱたんと閉まった。
 僕は、少し迷ったあと、ヘルメットをはずした。迷う間でもなかった。ヘルメットをしたままでは物は食べられないのだ。前髪を掻き上げて辺りを見回した。ヘルメットの透明プラスチック越しではなく部屋の中を眺めたのは、初めてだった。新鮮な感じだった。思っていたよりも部屋がずっと無機質で、冷たい印象だった。アイスクリームを一口食べた。当たり前だけど、アイスクリームの味がした。でも、この無機的な部屋の中で食べると、その当たり前の味がなんだか変な感じで、妙に新しかった。冷たい刺激が舌に心地よかった。けっこう美味しい。僕は、あっという間に一個たいらげた。
  時計を見上げると、業務終了の時間が近づいていることに気が付いた。さて、仕事に戻らなくては、と思い、身なりを整えようとした時、困ったことに気が付いた。ヘルメットが入らないのだ。別に踏んずけて壊した記憶はないし、まさかこの短時間に僕の頭の形が変わったわけもない。しかし、どんなに力を入れても、角度を変えてみても、ヘルメットに頭を入れるのは無理そうだった。僕の腕時計がぴっと鳴って6時を知らせた。あと一時間で今日の作業を終わらせなければいけない。今から再開すればぎりぎり間に合いそうだった。ここで下手に社員を呼んだり、作業が遅れたりしたら規則に違反したことがばれてしまう。変な女の子に構っていたなんてことが社員に知られたら相当きつく咎められるか、運が悪ければクビだろう。僕は思い切って、ヘルメットをしないで作業の続きをすることにした。今まで水がはねてヘルメットにかかったなんてことは一度もなかったから、多分大丈夫だろう。
 蝶の入ったボトルを手にとって、僕ははっとした。ヘルメットを通さずに見る蝶は、今までと全く違って見えたのだ。その形、その色、その重さとも驚くほど存在感があった。カラカラに乾燥していると頭では知っているのに、感覚ではそれをどうしても認められなかった。そこに秘められた一つの生命が、今にも動き出しそうなのに思えた。このボトルの中に今から水を詰めるのだ、と思うと果てしない罪悪感がした。蝶の存在を窒息させて殺してしまうような気がした。でも、じっくり考えている時間はなかった。僕は、ボトルのふたを開け、水の出口にセットした。やめてくれ、と蝶が叫んでいるような気がする。必死で罪悪感を押し殺し、目をつぶってスイッチを入れた。
 まもなく、僕は自分の足に生ぬるい水が触れたのを感じた。思わず目を開ける。辺りの様子を確かめようとしたけれど、首が動かなかった。首の代わりに腰を曲げようとしたけれど、どんなに力を込めようと思ってもやっぱりびくともしない。手も足も全く動かなかった。僕はぞっとした。今、僕の足は、細く、短く、固い殻で被われていた。両腕だと思っていた場所には、黒くて、複雑な模様がついた広い平面状のものがあった。羽だった。
 ガラスのボトルの側面を伝わって、水が流れ込み続けている。水面はみるみるうちに上がっていった。悲鳴を上げようとしたが、声にならなかった。
 乾燥しきった体に生ぬるい水が染み込む感覚が、ぞっとするほど気持ち悪かった。その感覚は次第に体の上の方へと広がっていった。やがて水面は羽の先の高さも超えた。僕は、全身を水の感覚に支配されながら、静かに目を閉じた。
 
 


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