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スパイ

 突然だけど、僕はスパイだ。何でスパイなのかは知ったことじゃないけれど、とにかくそうなんだから仕方ない。しかも、かなり日本的なスパイらしく、シルク百パーセントの着物をびしっと着こなしていた。結構高そうな紺色の絣だ。そして今、敵の目をぬすんで手に入れた「ある物」を依頼主のところへ運んでいるところなのだ。
 「ある物」は、段ボール箱に入っていて、中身が何なのかは分からない。でも、何か細かくて固い物がいっぱい入っているらしく、揺らすとじゃらじゃら音がした。僕はそれを両腕に抱えて、駅前の歩道をさっそうと歩いていた。追っ手に見つかる前に届けなくてはいけないが、急ぎすぎて走ってしまっても周囲に怪しまれるだろう。もっとも、着物を着ているという時点で既に相当目立っている筈なんだが、そういうことは気にしてはいけないのだ。
 現に、駅前を歩く人々は、僕のことなど全く気にしていないようだった。要するに、こういうことは気持ちの問題なんだ。恥ずかしいと思ってしまったら余計に目立ってしまう、そういうものなのだろう。
 特売で賑わうデパートの前を通り過ぎ、銀行の前も何事もなく通り過ぎた。そして、近道の細い路地に入る。
 しばらくして、僕は誰かが自分に話しかけてくるような声を聞いた気がした。内心びくっとしたが、ここで急に逃げたりしたら余計怪しまれる。立ち止まって、振り向いてみた。しかしそこには誰もいなかった。空耳だったのだろうか。よくあることだ。気を取り直して歩き出す。
──おい、お前のことだよ。
「えっ?」
 慌てて辺りを見回したが、やはり近くには人間は一人もいない。
──違う、そっちじゃない、お前の足元だって。
 足元を見ると、そこには一匹の生意気そうな黒猫が佇んでいた。
「はあ。」
──はあじゃないだろ。お前、自分のしたこと分かってんの?
 僕は警戒した。こいつは、一見ごく普通の猫のように見えるけど、実は敵の手先なのかもしれない。用心、用心。
──うーん、そうじゃなくてさあ、まあとりあえず、その箱の中身、見てみろよ。見てはいけないとは誰にも言われてないだろ。
 そう言われてみるとそうだったと思って、箱を開けてみた。すると、中から出てきたのは量産品っぽい将棋盤と、将棋の駒だった。そうかそうか、だから衣装も日本的に着物だったのかと、妙に納得した。
──納得してる場合じゃないんだけどなあ、まあ、とにかく話を聞けよ。
「ちょっと待て、お前、何者なんだ。」
──俺?名前なんてないよ……ああ、でもそうか、呼びかける名前がなかったら不便だな。じゃあ、まあこれからは、「越後屋」とでも呼んでくれ。
「は?」
 いくら何でも越後屋はないだろうと思ったが、抗議する暇もなく越後屋は説明を始めた。
 その説明をまとめると、こういうことらしい。僕が運んでいる将棋盤は確かに依頼主に指定された物に間違いはないのだけれど、依頼主にとって大切だったのは別にこの量産品の将棋盤それ自体なんかではない。駒の並べ方が一種の暗号文になっていて、それが必要だったのだ。しかし、僕が運んでいるうちに、駒はぐちゃぐちゃになって並べ方も何もなくなってしまった。このまま依頼人に届けても、何の役にも立たないし、怒った依頼人が職業的スパイである僕を殺すなんて事態も起こりかねない。
 僕は、ぞっとした。依頼人も依頼人だ。並べ方のほうが大切なら、なぜそれを最初に言ってくれないのだろう。こんなにバラバラになってしまっては、元の状態を再現するなんてとてもじゃないけど不可能じゃないか。
──まあまあ落ち着いて。元通りにするのが可能だからこそ、こうやってわざわざ呼び止めてやったんじゃないか。
「どうやって?」
──俺が知っているんだ。十五分くれたら、なんとか思い出して、直せると思う。どうする?
 十五分と聞いて、少し戸惑った。あと十五分もこんなところにいたら、追っ手が来てしまうかもしれない。でも、たとえここで直してもらわないでそのまま依頼人に届けたとしても、僕の命が危険にさらされるのは同じなのだ。選択肢は一つしかなかった。
「頼む、出来るだけ早く、直してくれ。」
──よっしゃ!
 黒猫は、じゃなくて越後屋は、将棋盤の前に座って、作業を始めた。一つ一つの駒を置いたり戻したり、じっと見つめて考え込んだり、何度も確かめながら、位置を決めていった。時間はどんどん過ぎてゆく。僕はいらいらしながらその様子を見ていた。
「ねえ、もっと早くできないの?」
──うるさいな、集中してるんだから。間違ったらどうするんだよ。
 仕方なく、僕は腰を下ろした。苛立つばかりなので腕時計は見ないことにした。足元の小石をつま先で転がして、並べたりばらしたりしながら時間をつぶしていた。
 やがて越後屋は、ぱちんと今までで一番大きい音をたて、駒を置いた。僕は、顔を上げた。
──出来たっ!
「本当?」
 将棋盤を覗き込むと、言われてみれば何となく暗号っぽく駒が並べてあった。これで依頼主を満足させることが出来る。僕は殺されないですむんだ。心底ほっとした。
「ありがとう。」
 その時だった、大通りの方から不吉な声が響いてきたのは。
「よくやったぞ、越後屋。よく今までそいつを引き止めておけたな。」
 そして、その声に続いて、二十人くらいの人間が妙にでかい足音をばたばたと立てながらこちらへ駆け寄ってきた。彼らも僕と同じようなデザインの着物を着ていた。奴らが僕の恐れていた追っ手であることに間違いはなかった。
 僕は、追っ手と越後屋を見比べた。彼は、目を細めて嘲笑うように僕を見ていた。僕は、全てを理解した。これは罠だったのだ。
「越後屋、騙したなっ。」
 叫んでももう遅かった。僕は完全に追っ手に包囲されていた。二十対一じゃ抵抗しても無駄だと思った。彼らはわざとゆっくり近づいてきて、僕の恐怖心をあおった。そして、僕の両腕をしっかりと捕まえて、動けない僕の手首に手錠のような物をはめた。車に乗るようにと言った。
 こんな時、もしも超一流のスパイだったら、依頼人のために自分は真っ先に自害でもするのだろうか、なんて思ったりもする。でも、あいにく僕にはそんな勇気などなかった。僕に出来ることは彼らの言うとおりおとなしく車に乗ることだけだった。
 一体どこに連れていかれるのだろうか。僕は、窓の外を流れていく風景を、ぼんやりと眺めながら、なぜだか自分がこれから行く場所を知っているような、そんな妙な感覚にとらわれていた。
 


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