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雪だるま

 雲が切れた。威勢の良い午後の陽射しが窓から校舎の中にも差し込んできた。芝生の上に一面に積もっている雪が、待っていたかのように眩しく光りだした。
「雪だるま、溶けちゃうかな。」
 残念そうにアイちゃんは窓をのぞき込んだ。中庭の隅には、コカコーラの空缶の両目のついた、高さ1メートルほどの雪だるまが一人、頼りなさげに立っている。
「せっかく、マコト君に見せようと思って作ったのに。」
 マコト君というのは、クラスメイト男子の名前で、アイちゃんの片思いの相手である。彼は、いつも一時間目は確実に遅刻してくる人だったけど、我がクラスは午前中しか授業がない今日に限って、午後三時近くになった今でも姿を見せない。
「この時間になっても来ないってことは、今日は休むつもりなんじゃない?」
 私は、あまり真剣に答えていなかった。授業を自主的に休講することは、マコト君には全然珍しくないことだったからだ。
「多分、ね。あの馬鹿、雪が降ったから、とか言って来ないんだよ。」
「ま、仕方ないよ。」
 半分は、自分に向けてそう言った。こういうことは比べてはいけないと思うけれど、今の私の状況に比べたら、アイちゃんなんてまだいいほうだと思う。今日マコト君が来ない理由の可能性としては、九十パーセント純然たるサボリなんだろうから。今ごろ彼は家でだらだら過ごしているのだろうし、明日になれば元通り学校に来るつもりなのだろう。残り十パーセントの確率は、もちろん絶対ないとは言い切れないけれど、そして多分、アイちゃんはそのことを心配しているのだろうけど、もし本当にそうだとしたら、一回くらい挨拶をしに学校に来る暇はあるはずだ。
 でも、あいつの場合は。あいつは、もう2カ月以上前に行ってしまったままだ。私には、今の正確な居場所も、いつになったら戻ってくるのかも、果たして本当にいつか戻って来れるのかどうかも、皆目判らなかった。淋しいとか会いたいとかなんて気持ちは、とうの昔に通り過ぎてしまったように思える。今となってはもう、どうで
もいいような気さえしていた。
「仕方ない、か。」
 アイちゃんはまだ悔しそうに窓を眺めている。
 隣のクラスから先生が出ていくのが見えた。授業が終わったのだろう。そしておもむろに、午後3時を告げるチャイムが鳴りだした。私は立ち上がった。
 今年に入ってからは、毎日、このチャイムと共にスクリーンインフォメーションが入れ替わることになってい
た。私は、あいつが行ってしまった日から、この時刻にインフォメーションを確かめに行くことを日課にしていた。
 窓際のアイちゃんの肩をたたく。
「ちょっとホールに行ってくるね。」
「うん。」
 彼女は片手を頬の近くで振った。
 教室の金属製のドアを閉める時、予想外に力が入ってしまって、ゴオンという音が廊下に響いた。教室の外はたとえ休み時間でも不気味なくらい静かだった。とりとめのない考えごとをしながら、細くて長い廊下をのんびりと進んだ。
 あいつがいなくなって、淋しかったのは最初の一週間だけだった。今思うと、あの一週間はまるで夢か何かを見ていたかのように霞んでいて、ただ苦しくて痛かったという他にはあまり記憶がない。そしてその痛みがおさまってきた頃には、自分がいつ何を感じているのかもよく判らなくなって、小さな出来事にいちいち反応して笑ったり怒ったりすることが面倒になっていた。毎日やらなければいけないことというのは、一つ一つ自分で考え出さなくても、暗黙のうちに大体決められているものだ。それを機械的にこなしてさえいればよかった。そうしてごく普通の日常生活を送れるようになり、最近は、こんな生活にもすっかり慣れてしまった。
 周りが少しおしゃべりで騒がしくなった。ホールに着いたのだ。私は、心の向こう側で期待が高まりそうになるのを打ち消しながら、スクリーンを見上げて、あいつの名前を探した。右から左まで、隅々まで繰り返し見直した。何度見ても、今日もあいつの名前はなかった。あるわけないか、と思って少し笑ってしまった。最初からあるわけないとは思っていたけど。教室棟に戻るのにUターンした。細くて長い廊下に、ぺたぺたという足音がやけに大きく響いていた。
 私に出来ることは、こうやってただ毎日スクリーンの名前を確かめることだけだ。しかも、別にこんなことをしていたからと言って、それだけあいつの帰還が早まるわけでも何でもない。待つ、というこの世界で一番積極的な気持ちに、何も出来ない、というこの世界で一番消極的な行動を当てはめた神様って奴は、一体どんな意図があってそんなことをしたのだろう。
 教室棟の窓口で幾つか事務的な手続きを済ませてから、教室に戻った。ドアを開けてまず私の目に入ったのは、雪まみれになったアイちゃんだった。
 彼女は、私と目があうとにこっと笑った。
「お帰り。」
「お帰りって、アイちゃん。どうしたの、その雪。」
「あのね、今、雪の上に芸術作品を書いてたんだ。」
「芸術作品?」
「うん。大き過ぎてここからじゃよく見えないから、屋上に行こう。」
「ええっ?」
 アイちゃんは、有無を言わせず私の手首を引っ張って、教室を飛び出した。階段を全速力で駆けのぼる。彼女ほど体力のない私は、二階分くらいを登っただけですぐに疲れてしまった。
「ちょっと待って。スピード落として、スピード。」
「あ、ごめん。大丈夫?」
 ごめんとか言いながら、ちっともスピードは落ちていない。疲れた足は思うようには動かなくて、彼女に引っ張られて続けている右腕が痛かった。息も絶え絶えになりながらそれでもあと二階分を何とか登り切った。アイちゃんが屋上のドアを勢い良く開けた。ばたんと言う音と共に、冷たい風が吹き込んできた。彼女のほうが先に、スキップをするように屋上に出て、中庭のほうを挿し示した。私も続いて足をコンクリートに踏み入れる。
「うわっ。」
 中庭一面の雪の上には、とてつもなく大きな文字が書いてあった。それは、マ、コ、ト、と読めた。踏み固められた文字の部分の雪に、ちょうど太陽の光が反射して、きらきらと光っていた。
「ね。」
 アイちゃんはなんだかめちゃくちゃ幸せそうだった。
 私は、妙な感覚を味わっていた。何かを思い出したような感じがしていた。
 屋上には、数組のカップル達が憩っていて、この巨大な芸術をくすくすと笑いながら眺めている。
「よくもまあ……。片思いなのに、いいの?こんなことしちゃって。」
 私は、呆れたような声で言いながらも、なぜだか哀しくて、ただもう本当に哀しかった。それでもって、彼女の健気さがいとおしくて、それでもって、めちゃくちゃ嬉しかった。
「確かに、これは、芸術作品だわ。」
 それ以上、私に言えることは何もない。
「やっぱ、ちょっと大胆だったかなあ。」
 そう言いながら笑っている彼女の顔は、雪に書かれた文字と同じように、汗なのか、それとも雪が溶けたのか、太陽の光に照らされた水滴がきらきら光っていた。
 私は、彼女にひたすら感服しながらも、もしかしたら人間って奴も意外と捨てたものではないのかもしれない、なんてことを思っていた。
 中庭の隅では、さっきのコカコーラの目をした雪だるまが、やっぱり少し頼りなさそうに、でも気の所為か心持ち満足そうに、辺りを見守り続けていた。
 
 


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