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 紗
 

 去年の夏から、演劇部は屋上で練習するようになった。演劇部が使用していた合宿所が、老朽化のために取り壊されてしまったからだ。屋上はそれまで応援団が使っていたので、二分割することになる。でも結構広かったし、しかもちょうど真ん中付近の倉庫があってスペースを隔てていたので、特にトラブルもなく棲み分けが出来た。
 それどころか、二つの部はどんどん仲が良くなった。もともと、どちらも目立ちたがり屋の人が入る部活だし、掛け持ちしている人も少なくはなかったのが幸いしたのだろう。
 応援団のほうは夏の高校野球の応援練習真っ盛り、演劇部は新歓公演も終わって学園祭までは間がある農閑期の今、演劇部の部室を応援団の人が着替えに使ったり、演劇部の部員が応援団のマネージャー替わりになったりすることは日常茶飯事だった。
 桐君が演劇部に入部してきたのはそういう背景がある。百八十センチ以上はありそうな長身の彼は、よく通る声と安定した運動神経を持っていて、いかにも舞台映えしそうだった。部員一同熱心に勧誘して引きずり込んだのだった。
 いや、正直に言おう。彼を誘った本当の理由は、個人的にお近づきになりたかったからだ。桐君はいつも周りに明るい空気をふりまいていて、近くにいるだけでホッとさせてくれる人だった。この人のことをもっと知りたい、と切に願っていた。入部後は演劇部の部室を荷物置きとして利用するようになってくれたので、応援団の練習が始まる時間と終わる時間は、用もないのに部室に張り込むことにした。一言二言でも会話を交わしたくて努力していた。
「おっす。高橋さん、またこんなクソ暑いところで勉強してるの?」
「うん。自習室がうるさかったから」
 桐君は、おもむろに上履きをスニーカーに履き替える。いつも練習の時は学ランなのに、今日は珍しくジャージ姿だった。Tシャツの背中にびっしょりと汗のしみがついていて、筋肉の膨らみが透けて見える。
「ローソン行って来るけど、何か欲しいものある?」
「涼々茶ってローソンにあったっけ」
「あったと思う。じゃ、買って来るね」
「お疲れさま」
 たったこれだけのやりとりで胸が高鳴っている。飛び上がりたいような気持ちを深呼吸してなんとか押さえつける。この一瞬のために、エアコンのない部室で何時間もねばっているのだ。覚えたばかりの拙い化粧が崩れていないかを何度鏡で確かめたことだろう。みんなには馬鹿らしいと思われるかもしれない。でも、それ以上積極的なアプローチをするような勇気はまだなかった。
「ちわー。網戸持ってきたよ。窓開けても蚊に刺されないようにしよう」
 バタンと戸が開き、溶けかけた棒アイスを片手にサキが入ってくる。
「一口ちょうだい。ん、んまい。香料と着色料の味」
「あげるとは言ってないぞ。しかも、もらっておいて文句言わない」
「ごちそうさまでした」
 紙袋を覗く。と、そこにはいつか妖精の衣装で使ったような、目の粗い化繊の布が入っている。
「網戸っつうか、これ、紗って言わない?」
「ま、似たようなもんでしょ。取り付けてみようよ」
 サキは、残りのアイスを口に押し込むと、布をハサミで窓の大きさよりもやや大きめに切った。私はそれを、画鋲で等間隔に止めてみる。画鋲が刺さらない部分はガムテープを使って固定した。本当は部室の壁にガムテープを貼るのは禁止だけど、どうせこの先も演劇部しか使わない部室だ。外から見てバレなければ構わないだろう。
「よし、完成」
「ねえねえ、窓、開けてみよう」
 全開にすると、ふんわりとしたそよ風が、窓の方から、ではなくてドアの方から吹いてきた。
「?」
「今、風向きが反対なんだね。でも、ここが風の通り道になるから、少しはマシになるかな」
「うん。涼しい涼しい。大成功だよ」
 風鈴がちりんと音を立てる。誰かが去年、夏祭りのお土産に買ってきてぶら下げておいたものだと思う。なかなか風情があっていい感じだ。
「おっす。やっと補習終わったぜ」
 シゲが短い髪から流れ落ちる汗を拭きながら教室から帰ってきた。
「補習、お疲れさま。今日は世界史だっけ」
「化学だよ。俺、世界史だけは絶対に上位をキープしてるもん。……あれ、網戸つけたの?」
「そう。なかなかいいでしょ」
 シゲは、椅子に座ったものの、妙な顔をしてもう一度立ち上がった。
「ねえ、誰か納豆食べた?」
「いや、まさか」
「だってこの部室、納豆臭いよ」
 一同、くんくんと嗅いでみる。確かに、言われてみれば微かに納豆のような変な臭いがする。
「昨日のスイカが腐ったのかな」
「それだ!」
 昨日の放課後、OBが差し入れで持ってきたスイカをみんなで割って食べたのだった。その時の皮は、まだ焼却炉には捨てに行っていない。
「うーん、違うみたい。これはこれでそろそろ捨てに行かなきゃやばそうだけど」
 サキが、ゴミ箱の中身をビニール袋にあけながら、首を傾げる。
「じゃ、誰かの靴かな」
「いやだ、汚いの」
 ためしに自分の靴の臭いを嗅いでみる。臭かったらどうしようと思ったけど、多少汗のにおいがするだけだったのでホッとした。サキ、シゲとも、それぞれの靴に鼻を近づけてから首を横に振る。
「他の人の靴かなあ」
 多くの部員が、部室を下駄箱替わりに使っているので、朝、放課後、体育の時間の時など、靴を履き替えにやって来る。恐る恐る床に散らばる全員の靴のにおいを嗅いでみたが、さすがにいい匂いとは言えないものの、納豆の臭いのする靴は見つからなかった。
「おっかしいな」
「とりあえず、スイカの皮捨ててくるね」
 サキがゴミ袋を持って立ち上がり、ドアを開けようとする。と、突然顔をしかめて座り込んだ。
「どうしたの」
「わかった。これだ。くさくさっ」
 指を指したのは、壁に掛かっていた学ランだった。応援団の厳しい練習で毎日びっしょりと汗を吸い込んだ上、週末は蒸し暑い部室で放置され、見事に発酵していたのだった。
「どれどれ?」
「うわっ、本当だ。すっげぇ臭い」
「名前書いてあるよ。えーと」
 一同、鼻をつまんでのぞき込む。
「桐君だ」
「ヤツが犯人か!」
 私は、心の中で吹き出した。そうか、そんな事情があったから今日はジャージ姿だったのか、と妙に納得してしまった。
「桐君、もう帰ったちゃった?」
「いや、さっき、ローソンに行くって言ってた。そろそろ帰ってくると思うんだけど」
「おっそいなあ」
 しばらくして、桐君がペットボトルを二個抱えて帰って来る。
「ただいま。涼々茶、ローソンでは売り切れてたからサンクスまで走って来たよ。ふう、暑かった」
「そ、そんな。なかったら普通のウーロン茶でよかったのに、ごめん」
「いや、ちょうどいい運動になったし……あれ、なんでお前ら笑ってるんだよ」
 サキとシゲのの笑い声で我に返る。彼が私のためにわざわさ遠回りしてくれたことが嬉しくて、さっきまでの状況を忘れるところだった。
「桐、コンビニ行ってる暇があったら学ラン洗え」
「あ、ああ。その学ラン、ヤバいっすよね。高橋さん、洗ってくれない?」
 洗ってくれない?、という言葉のどことなく甘い響きに酔いたくても、漂ってくる納豆の臭いが全てぶち壊してしまう。
「やだよーだ。自分でやらなかったら捨てちゃうよ」
「何だこいつ、ジュース買いに行ってやったのに、恩をあだで返しやがって」
 頭のてっぺんをコツンとたたかれて、何故か私は泣きたいぐらい幸せな気分だった。ずっとずっとこの瞬間が続いていればいいのに。いつまでもこの場所に居られたらいいのに。
 だけど空は日没と共にどんどん暗くなり、門限が近づいていることを知らせてくれる。虫の声は日に日に騒がしくなり、夏は確実に深くなっていくのだった。
 
 


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