back  home

 

  並木道

 最初に一瞥したときは枯れてるのかな、と思った。大学の正門の近くにある桜並木の中に一本だけ、花をつけていない樹があったから。
 しかし近づいてみると、冬芽が弱々しくも確かに呼吸をしているのが分かった。幹をたたくとちゃんと瑞々しい音がして、生きている気配が感じられた。
 枯れているのではない、この樹にだけ春が訪れていないのだ。その証拠に、今日は最高気温二十度を超える暖かい陽気なのにも関わらず、その樹の下の閉ざされた空間だけは、凍りそうな冷気で満たされている。
「何見てるの?」
 足下から声がしたので、ちょっと驚いた。そこには5、6歳の女の子が膝を抱えて座っていた。誰かの妹が、入学式に連れられて来たのだろうか。にしては年が離れすぎてる気もする。あるいは、近所の子という可能性もある。この時期、桜の名所となっている学内には、一般の人たちがよく花見に来ているから。
「桜、見てるんだよ。どうしてこの樹だけ花が咲かないのかなって。」
「ふうん。」
「ええと、どこから来たの? お母さんは?」
 女の子は黙って首を横に振る。迷子なのかもしれない。歯がかたかたとふるえている。この冷たい空間の中で、半袖半ズボンじゃないの。いくら体力のある子供といっても風邪をひきかねない。
「寒くない?」
「……。」
「ね、あっちに行こうよ。そしたら寒くなくなるよ。」
「嫌。」
 私がさしのべた手をぴしゃりと振り払う。困ったな。このまま見捨てて帰るのも気が引ける。なんとなくポケットに手を入れてみるけど、指先に触れたのはいつもの煙草セットぐらいだ。取り出したライターを弄びながら、この子をどうしようか考え始める。
 そのうち、不思議な力に引っ張られるように、思考が女の子からライターに少しずつズレていった。このライターでどこかに火をつけたいという衝動が押し寄せてきた。何かを燃やして灰にしてしまえば、ここ最近のすっきりしない感じが消えるのではないかと思った。そうだ、それに、火があればこの子も寒くなくなる。周りを見渡してみたところ、近くに通行人はいないようだった。グラウンドの辺りから運動部の掛け声が聞こえてくるだけだ。大丈夫、怒られはしないさと、悪魔のささやきが聞こえてきた。
「ね、たき火してあったまろうか。」
「うん。」
 女の子は、初めて歯を見せて笑った。
 しかし、何か燃える物なんて持っていたっけ。
 鞄を開ける。さすがにCABINを何本も燃やしたら煙で気持ち悪くなりそうだし、ティッシュとか要らない週刊誌とかあればいいんだけど。私の記憶が正しければ、鞄の中には財布と筆記用具と、先刻入学式でもらった書類くらいしか入っていないはずだ。
 だが、それにしては中身が随分多いように見える。まるで他にも何かいろいろと詰まっているみたいだ。
 逆さにすると、入れた覚えの全くない紙の束が、次から次へと出てきた。よく見るとそれは愛用していた受験問題集だったり、第一志望だった国立大のパンフレットだったり…。アパートを出た時は、こんなもの絶対に入ってなかったはず。実家の納戸にきっちり仕舞ってあるものが、なんでこんなところにあるんだろう。その上、鞄の一番奥にへばりついているのは渡し損ねた手紙だ。予備校が一緒だった、達ちゃん宛の。
 達ちゃんは、後期でぎりぎり受かった北大に進路を決めていた。引っ越しを手伝いに行ったとき、北海道に昔から伝わる格言があるらしいよ、と笑っていた。
『愛は津軽海峡を越えないっていうんだってさ。』
 それを聞いてしまってから、渡せなくなった手紙。
「よく判んないけど、ええい、みんな燃やしちゃえ。」
 どいつもこいつも、今の私にとっては必要ない物だ。地面に乱暴に投げ、火をつけたライターを近づける。
 火はあっという間に広がった。ガソリンをかけたみたいに面白いほどよく燃えた。炎が腰あたりまで高く上がって、地面が融けているようにも見えた。
 積み重なった紙がみるみる灰に変わっていくのを眺めながら、私はたき火とは関係ないことを考えていた。今日から大学生なんだなあ、とため息をついた。
 火が消えた後の桜の下には、いつの間にか女の子はいなくなっていた。燃えた後の灰も、少し前までの不自然に凍てついた空気も、全て跡形なく消えていた。
 目の前にあるのは、ただ満開の桜並木のみ。
 
 


back  home