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武蔵境〜ドア〜

 快速列車の中は、超満員とは言わないまでもかなり混んでいた。席も吊革も全て埋まっていたので、ドアに寄っかかるようにして立つ。最初に少し酔ってほんのり色づいた頬が窓に映るが、もっと近づいていくと顔が透けていって消えてしまい、最後には夜景が広がる。ほわほわした意識で、高層ビル群の明かりが遠ざかって消えていく様子をぼんやりと眺めていた。
『次は武蔵境、武蔵境でございます』
 ふと考えた。今この瞬間に、このドアが外れたらどうなるのだろう、と。
 私の体重の半分以上はドアに支えられている。とっさに掴めるくらい近い位置には吊革も柱もない。数人の客と共に、抗う余地もなく外に放り出されるだろう。そして、最高速度95キロメートルから空気抵抗を引いただけのスピードで地面に叩きつけられる。皮膚がむけて、露出した筋繊維が、血管が、地面にこすりつけられる。赤黒い軌跡がくっきりと刻まれる。助かるだろうか、いや助かるまい。下手すると即死だ。
 こっそりと足の位置を動かして、体重の一部を床に移す。万が一このドアが消えたときの自分の行動をシュミレートしてみる。隣で小声で会話している背広のおじさんが二人。その隙間に飛び込めば、手摺に手が届く。前もって身構えていれば無理ではない。しかし、誰でも生死がかかっていれば理性の抑制どころの話ではなくなって、他人を犠牲にしてでも助かろうとするだろう。相当の抵抗を覚悟して、力を振り絞る必要がある。
 本当に?
 本当に、ドアの向こうには死が待っているのだろうか。助かる確率はゼロに近いのだろうか。
 そうとも限らないかもしれない。ドアが外れたら、まず最初に地面に落ちるのは人間ではなくてドアの方だから。金属製のドアがまず衝撃を受け止める。ガラスの窓は粉々に砕けるだろう。しかし金属部分は、さほどひどく壊れはしないかもしれない。上手い具合に金属部分の上に乗ったまま落ちれば、軽傷で済む可能性もある。でもそう都合良く事が運ぶものだろうか。
「試してみれば」
 外の方から聞き覚えのある声がした。ガラスから顔を少し離すと、窓に映った私がにやりと笑っていた。
「私?」
「さあ、何のことかな」
 きっかりと自分と左右対称な顔。いつも鏡に見ている丸顔で涙袋が大きめの顔が、挑発するようにこちらを凝視している。
「教えてあげるよ。あと1分経ったらこのドアははずれるんだ。だから実験できるよ、嬉しいだろう」
「なに莫迦言って」
 他の乗客が、妙な顔をして私を見ている。彼女の声は私にしか聞こえないらしい。
「ほら、もっと窓に近づいて見てごらん」
 彼女の影を透かして、空から何かが降りてくるのが見えた。それは長い鎖でつるされた2つの吊革だった。空中ブランコみたい、と思った。
「もしも落ちるのが怖くなったら、あれに飛び移ればいいのさ」
 そんなの無理だ。私はお世辞にも運動神経がいい方ではない。「彼女」が鏡の国の私なら、出来ることと出来ないことぐらい分かってもいいのに。
「ほら、もう時間だよ。せ・え・のっ!」
 ドアがふわりと外れた。私は計画通り、手すりを目指して強引に押し入ろうと試みた。が、足が思い通りに動かない。左右の足が縛り付けられたように重く、身動きがとれない。
 他の乗客は、気付いているのか気付いていないのか、何事も起きていないが如くの無表情で、安定して立っていた。
 今、私は分かってしまった。車内に留まることが不可能であるのと同じように、ドアと共に地面に叩きつけられて命が助かることも不可能であると。彼女が自分だけに見えるのと同じように、ドアは自分以外の乗客にとっては存在しているのだと。携帯の音。小声のおしゃべり。普段と変わらない満員電車で、ただ私の身体だけドアに続いて夜空に放り出された。
 吊革だ。
 目の前には、空から伸びている吊革が2つ。上手くいくかどうかは分からない。でも、私は無我夢中で手を伸ばし、プラスティックの輪をつかもうとした。
 ずん、と腕と肩に体重が響く。
 無事に飛び移れたんだ、とホッとした途端、盛大な拍手と歓声が鳴り響いた。
 周りを見回すと、私は黄色いテントの真ん中で、空中ブランコにぶら下がっていた。所々黒い汚れがついていて古そうなテントだったが、派手な照明と音楽のおかげで淋しい感じは誤魔化せていた。客席は八割ぐらい埋まっていて、ステージには色とりどりの風船やら、あやしげな機材が並んでいた。中心部分、つまり私の真下ではキャンプファイヤーのような大きな炎が上がっていた。
「さあさあみなさん、最新のテクノロジーを駆使したオオサワサーカスも、とうとうクライマックスです! ラスト・エキサイティング・ファンタジー・ショウ、どうぞお楽しみ下さい! 」
 マイクを握っているのは『彼女』だ。
「ねえ降ろしてよ。もう腕が痛いってば」
 声を振り絞って叫んだが、ズン、ズン、というベースの低い音が効いたフルボリュームのBGMに掻き消される。
「ステージの中央に注目して下さい。これは我々が独自に開発した特殊な炎です。マグネシウムの同位体を利用しておりましてね。何が特殊かというと、人間がこの炎の中に入ると、不思議な現象が起こります。さあよく見ていて下さいね! 」
「や、やめてっ」
 私の声は、音楽と客の歓声に無残にも掻き消される。ドームの天井でがくんと何かが外れた振動が身体に伝わってきた。体重を支えていた空中ブランコの鎖が伸び始めた。するすると下へ向かっていく。熱風で息が苦しくなってきた。
「皆さん、なぜこの街が境と呼ばれるか、知っていますか。それは、ここが生と死の境目にあるからですよ」 
 『彼女』が私に向き直って囁く声が、耳からではなく頭の中に直接響いてきた。
「ほら、あの一枚の電車のドアがあなたの生命の境目になっていたみたいに。しかも、あなたは今まで自分が死と隣り合わせているとは気づいていなかったでしょう」
「いやああああっ」
 目をつぶって悲鳴を上げる。どうしてこんな目に遭わなければいけないの。いつも通り、普通に電車に乗って、ドアに寄りかかっていただけなのに。
 まぶたの裏が真っ赤になって、その後数秒間、意識が途絶えた。次に身体が捉えた感触は、熱から一変して冷。
 目を開けると、凍てつく空に浮かぶオリオンが真っ先に視界に飛び込んできた。私は線路の上で、枕木を枕にして横になっているみたいだった。
 足元には、ぐにゃぐにゃになった電車のドアが転がっている。硬化ガラスの窓は粉々に砕け、辺りに散らばっていた。私自身は特に怪我などしていないみたいだった。事故が本当に起こったのかどうかは分からない。多分、事実かどうかは大した問題ではないのだ。
 腕時計は午前二時を指していた。記憶より三時間以上余計に経っている。もちろん終電の時間はとっくに過ぎていた。仕方ないので、家まで一駅分、線路沿いの道を歩くことにする。
 早足で歩いているうちに、身体が徐々にあたたかくなってきた。自然と鼻歌を歌っていた。
 家までは三十分ぐらいで着くだろう。カツカツとハイヒールの音が眠る商店街にこだまするのを聴きながら、たまには歩いて帰るのもいいな、と思った。
 
 


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