back  home

 

 この人が、研さん……のはずはない。顔も声も全く違う。年齢だって、三十歳は違う。どんなに最先端の特殊メイクをしたって、ここまで別人になれるはずがない。なにより、理由が思いつかない。
 だからといって、偶然の一致とも思えなかった。オレンジを捜すと言い残して失踪した研さん。オレンジを研究しているおじさん。絶対に、何か関係あるはずだ。
「研さんを知っているんですか!」
 できる限り冷静になろうとしたけれど、結局、うわずった声しか出なかった。駄目だ、これでは意味不明だ。
「はあ?」
 案の定、おじさんはきょとんとした顔で私を見ている。
「ええと、僕たちの一歳上の友人で、佐々木研一という名前の人が、行方不明になっているんです。彼は、『オレンジを捜しに行く』という書き置きを残していきました。彼の失踪は、この研究所に何か関係あるんじゃないかと思ったんです」
 銀ちゃんがフォローしてくれる。
「おや、卒論で来たんじゃなかったっけ?」
「それは本当です。私、歴史学専攻で、トウキョウ・シティとの交流の歴史を研究しているんです」
「それ、修士か博士論文のテーマだぞ。学部の卒論なんて無茶な」
「話をそらさないで下さい。研さんはどこにいるんですか」
「さあ、知らんね」
「教えて下さい、お願いします」
「教えるも何も、私は生まれたときからこの名前だ」
「だって」
 ソファーから立ち上がろうとしてつまずいた。慌ててバランスをとろうと動かした片足が、壁のオレンジ色の瓶にあたる。一番上に積んであって瓶が転がって、勢い良く床に落ちた。
 バシャッ、と乾いた音がして、オレンジの瓶が割れた。
 瓶の中には、何も入っていなかった。正真正銘の空だった。
「からかわないで!」
 私は、混乱した頭を振り切るように叫び、駆け足で研究所を出た。銀ちゃんの呼ぶ声が聞こえたけど、心の耳栓を固く締めて、走り続けた。やがて、研究所もターミナルビルもかなり小さくなってきた頃に、限界に近くなった息切れに足を止められて、その場に崩れ落ちた。
 四日ぶりの陽ざしが痛い。日焼け止めクリームを持ってこなかったことを後悔した。さっきまで、こんなにまぶしかったっけ。研究所に入る前までは曇っていたような気がするのに、今では空は真っ青で、何も遮るものはない。
 一ヶ月前、ここで何が起こったのだろう。あれほど賑わっていた街が突然消えてしまうなんて、普通の方法では不可能だ。水爆の類が落ちたとしても瓦礫ぐらいは残っているはずなのに、どれだけ目を凝らしてもコンクリートの欠片一つ、金属の欠片一つ見つからない。地面を足で軽く掘ってみても、黒っぽい腐植土が続いているだけでめぼしい物は出てこなかった。都市全体が神隠しにあった以外に何も思いつかない。
 いや、ちょっと待って。
 あの、研究所のおじさんが研さんであるわけがない。これは誰がなんと言おうと確定。なぜなら、たった二ヶ月であれだけ変貌するのは、どんなメイクや整形の技術を使ったって無理だから。不可能は不可能なんだから、イメージや先入観にとらわれてはいけない。
 それと同じ論理で考えればいい。
 特殊な方法が不可能なら、一番普通の方法が答えを導き出してくれる。オレンジ研究所を検索サイトで探しだしたときの銀ちゃんの台詞を思い出す。
 一ヶ月で大都市を、僅かな痕跡すら残さず完全に消し去ることは不可能だ。それなら、答えは一つしかない。
 トウキョウ・シティは最初から存在しなかったのだ。
 いや、もしかしたら大昔、存在していたこともあったのかもしれない。しかし少なくとも数百年前には滅んでいたのだ。その後はコンピュータの中だけで生きて、発展を続けていたに違いない。その証拠に、トウキョウ・シティを直接見たことのある人は誰もいないじゃないか。ただ、あたかもそこに存在するかのように、定期的にニュースが流れ、映画が配信されてていただけだ。都市の全てを一ヶ月で物理的に消し去ることに比べたら、情報を操作するほうがずっと簡単だ。
 じりじりと肌を焼く陽ざしのことも忘れ、呆然としていた。小さい頃から一目見てみたいと憧れていたトウキョウ・シティ。かつてはアジアの中心とも言われた巨大都市。そして旧ニッポン国の首都。憧れが募るあまり、身の程知らずを承知で卒論の題材にまで選んでしまったのに。まさかこんな形で夢が破れるとは想像もしていなかった。私は、どうすればいいのだろう。研さんも見つからず、トウキョウ・シティまで失ってしまったら、この先何のために生きていけばいいのだろう。
「やっと追いついた」
 銀ちゃんが、はあはあ言いながら腕を掴んだ。
「怒鳴りたくなる気持ちは分かるけど、もう少し冷静に対応しないと、見つかるもんも見つからなくなるぞ」
「銀ちゃん、あのね」
 今さっき思いついたことを話した。興奮して語尾がふるえそうになるのを抑えながら。その考えに到った経緯も、なるべく順序通りに説明した。
「成程」
 銀ちゃんは、胸に手を当てて、一語一語をかみしめるように発音する。
「もう一度、研究所に戻ろう。今言ったことを、確かめてみよう。あの人、悪人ではなさそうだったから、何かは教えてくれるよ」
「分かった」
 次の一歩を踏みしめるたびに鼓動が強くなる。核心へと近づいていく手触り、そして不安。世界に関わっているのだという快と不快の入り混じった実感。
 インターホンを押す。しかし、応答はなかった。やっぱり突然怒鳴って出ていってしまったことを怒っているのだろうか。そっとノブを引いてみると、鍵はかかっていなかった。
「おじゃまします」
 自分の声が、長い廊下に不気味に響いた。ほんの数十分前までの雰囲気と随分違う。同じ建物とは思えないほど、人のにおいが全然しない。まるでゴーストタウンの家を覗いているみたいだ。
「あの、すいません。誰か」
 さっき通された応接間のような部屋のドアを開ける。
 そこには、まるで違う風景が広がっていた。
 ソファーもテーブルもない。花びんも、カーペットも何もない。ただ、オレンジ色の瓶が積み重ねられ、計器類が転がっているだけの無機質な空間だった。辺りには、うっすらと埃が積もっている。
 慌てて隣の部屋、その隣の部屋も開けてみる。でも、どこも状況は同じだった。
「これは、何。おじさんや、家具はどこに行ったの?」
「……先刻の麻衣さん式論法で進めてみようか。今、ここには確かに家具や生活用品は何もない。生活用品がなければ、人が生活できるはずないし、この埃のかぶり方から普通に考えてもおじさんもいない。つまり、最初からここは今見ているような廃屋であって、さっきのおじさんやら家具やらは俺たちの幻覚だった、と」
 あり得ない。だって、この目で見たし、この耳で聞いたのだから。
「トウキョウ・シティだって、その目で見たし、その耳で聞いたと思ってただろ、此処に来る前は」
 それとこれとは話が別。トウキョウ・シティは液晶越しにしか見ていなかったけど、おじさんはこの目で見たんだし、間違いなく会話も交わしたのだから。
「じゃ、こういうのはどう?俺たち自身が、最初から存在していなかった」
 やめて! 頭がおかしくなりそう!
「冗談だよ」
 口の端をわざと上げてみせる銀ちゃんも、目は笑っていなかった。
「建設的なことを考えよう」
 私は、凍った思考回路を懸命に溶かしながら、事態を整理する。今しなければいけないこと、そして今出来ること。目の前に一つ、検証しなければいけない決定的なキーワードが転がっているじゃないか。
「ん?」
「『オレンジ』だよ」
 瓶が割れたとき、中には何も入っていないように見えた。でも、本当に中は空だったのだろうか。無色無臭の気体が入っていたのかもしれないじゃないか。
「この瓶の容量、一リットルぐらいだよね」
「ああ、一リットルペットボトルとだいたい同じ大きさだな」
 質料計の電源を入れ、おもむろに中に入れる。と、約932グラムと表示された。次に、服の裾を瓶のキャップに当てて、その上から手で強く回して、蓋を開ける。しゅぱっという開栓音を確認してから、もう一度計る。
 質料計は933グラム強を指していた。空気の重さは一リットルで約1.2グラムである。ということは、やっぱり。
「『オレンジ』の正体は『真空』だったんだ」
 『真空』という言い方はちょっと狡いかもしれない。「何かである」ような錯覚を覚えてしまうから。実際のところは、「何でもない」もの、「無」なのに。全てが分かったような、だけど結局何も分かっていないような、複雑な気持ちだった。
 そのとき、「無」という言葉の響きに呼応するかのように部屋に変化が起こった。積み重ねられたオレンジ色の瓶が、溶けだしたのだ。ピントがぼやけた映像のように輪郭線がどんどん曖昧になり、半透明の大きな塊になった。手を伸ばしても触れずに突き抜けてしまいそうなほど実在感のない、あるいは別の次元での実在を切り口だけ見ているような、気持ちの悪い塊だった。鮮やかなオレンジ色は次第に彩度を失って、薄いグレーから濃いグレーへと変化していく。やがて再びピントは合わせられ、空気との境目がはっきりしていった。四角い箱と様々なスイッチが見えてくる。現れたのは、二台の巨大なコンピュータだった。
 片方のコンピュータは、明らかに壊れていた。真ん中らへんに大きなハンマーで叩いたような穴が開いていて、折れた磁気ディスクや歪んだマザーボードが剥き出しになっていた。電源ランプは一応点いているものの、これではコンピュータとしての用は為していないだろう。さっきまで質料計の中にあったはずの瓶はいつの間にかプラスティックケースの欠片へと姿を変え、割れてた瓶が転がっていた場所には、ネジとちぎり取られた銅線が寄せ集められていた。
 もう一つのコンピュータは、一見して外傷もなく正常に動いているようだった。ハードディスクへのアクセスランプがひっきりなしに点いたり消えたりしている。二つのマシンはたった一本の、黒ずんだビニールで包まれた線で結ばれていた。まるで、ヒヤマ・シティとトウキョウ・シティがたった一本の地下鉄で結ばれているみたいに。
「!」
 私の頭には、ある一つの可能性が思い浮かんだ。それは、あくまでも可能性に過ぎない。自らの命を賭ける以外には証明する術がないのだから。でも、その仮定の下ではいろいろな異変の辻褄が合ってしまい、奇妙な出来事も説明できてしまう、かなり確かな可能性だった。
「どうする?」
 銀ちゃんのほうが幾分か冷静だ。
「どうするって、どうにもならないよ」
「一番、このまま帰る。二番、もっと壊す。少なくとも、二つの選択肢はあるぜ」
「嫌だ。怖い。怖いよ」
 今まで覚えのない初めての感情が、身体の奥底からゾクゾクとわき上がってきた。首筋に冷や汗がにじみ出る。空気さえが冷たく、固く、無機質な他人のように感じられ、今までのように自然にまとわりついてはくれなかった。鼓動はどんどん速くなるのに上手く呼吸ができなくて苦しい。ここは、私が来てはいけない場所なのではないだろうか。今、私は見てはいけないものを見ているのではないだろうか。今まで、自分の存在を脅かすようなことに出会ったことがあっただろうか。死の恐怖も、私を創り支えるものが無であるという恐怖も、本当に考えたことはなかったのだ。
 目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。指先が感じる微かな風を、むくんだ足が靴に締め付けられる感覚を、そしてそれを感じている私自身の意志を確かめる。
 自分の命を賭けてまで本当のことを知りたいなんてとても思えない。当たり前だ、だって私は生きているんだから。誰がなんと言おうと、どんな形であろうと、確かに今此処に立って居るのだから。怪我をすれば痛いし、寒ければ鳥肌が立ち、暑ければ汗をかく、それだけで十分だ。真理なんて必要ない。根拠なんてなくていい。
 いやそれどころか、根拠はないほうがいいのかもしれない。だって根拠があったら、それを失う可能性に怯えていなければならなくなる。そして本当に失ってしまったときは、もはや絶望以外には何も残らないだろう。
「研さんは」
「あいつは凄えよ。敵わないよ」
「?」
「でもって、世界一の大馬鹿だ。そうだろ」
「あは。そうだよね」
 なんだかんだ言って、私は自分の感情を一番大切にしている平凡な人間だ。お腹が空けば読書をやめてごはんを食べたし、知識欲を満たすためにも安全な範囲でしか冒険しない。研さんは正反対で、本を買うために食費をギリギリまで抑えていたせいで体重は私よりも少なかったし、犯罪まがいの手段を講じてでも欲しい資料は手に入れていた。私が彼に惹かれたのは、彼ならいつか、自分の命を引き替えにしてでも世界の全てを説明できてしまうような真理を手に入れるだろうという気がしたからだ。
 研さんは賭けに負けたのではない。ただ、してはいけない賭けをしてしまっただけだ。だから彼は、もう決して手の届かない世界に行ってしまった。消えてしまったと言い換えてもいい。此処に留まっている私にとっては同じことだった。
「……帰ろうか」
「……うん」
 CPUクーラーのモーター音だけが低くうなる埃のかぶった部屋をそのままに、私たちは扉を閉めて、薄暗い廊下をこつこつと歩き始めた。まるで選択肢が最初から一つしかなかったみたいに、歩き始めた。
 そう、選択肢なんて最初から一つしかなかったのだ。

 行きの道のりはどうしようもなく長かったのに、帰りは思いの外すぐだった。長時間歩くのに足が慣れてきたのと、道を知っている安心感からかもしれない。あるいはもっと別な種類の安心感なのかもしれないけど、よく分からない。暗いトンネルは既に見慣れた風景と化して、得体の知れぬ違和感は湧いてこない。もっと具体的な、たとえばつまずかないようにとか、滑らないようにとか、そういうことだけを注意していれば良かった。おかげで行くときは四日かかったのに、三日でヒヤマ・シティに着くことが出来た。
 ゲートを飛び越え、階段を駆け上る。私はすぐに疲れてスピードが落ちてしまったけど、銀ちゃんはさすが男だ、一階以上の差をつけて上りきっていた。目眩がするほど明るい陽ざしを目を細めて見ながら膝をつくと、風の音に混じって遠くから話し声が聞こえてくる。近くの工場から、BGMの有線放送や製品が詰まった段ボール箱がベルトコンベアに落とされていく音が聞こえる。もう、自分の呼吸音や足音が響く音だけを聞かなくても良い。私の街に、シティに帰って来られたんだなあ、よく無事だったよなあと、コンクリートの地面に座り込んだまましばし感慨にふけった。
「行こか」
 待ちきれないように肩を叩かれ、立ち上がった。注意深く辺りを見回し、タイミングを計って金網を越える。よっしゃ、最後の関門は通過した。住宅街へと続くムービングロードの入口に、駆け足で向かう。
 手すりに寄っかかり、無言のままで建ち並ぶビルを見ていた。ほんの一週間離れていただけなのに懐かしい。人が生活している、そして人が生活する場所がある、この光景。小さなことで一喜一憂しながら慌ただしく動き回る一日一日が愛おしい。
 どうして人はこれ以上のものを求めてしまうのだろう。目の前がこんなに具体的で、身近で、確かな手触りのもので満たされているのに。目的とか原因とかを見つけたがるのだろう。きっと悪循環だったのだ。見つけなければ不安になる、不安になると余計に見つけたくなる、という。やがて手段それ自体が目的になって、一番大切なことを見失っていた。
 ムービングロードは家族向けの住宅地を通り抜け、だんだん学生や独身のサラリーマン風の通行人が増えてくる。私のアパートがある一画はもうすぐだ。冒険も、信じていた何かを研さんに託していた日も終わる。
「そうだ」
 最後にどうしても言わなきゃいけないことがある。いつかジグソーパズルの絵を完成させるためにも、確実な地点に戻らなければいけない。そのために必要な1ピースの言葉だった。
「銀ちゃん」
「ん?」
「もう、うちに来ないで」
「言われると思ってた」
 ちょっと淋しそうに、ふふ、と笑う。私が言わなければ、銀ちゃんから出ていくと言い出していたに違いない。
「もう一度だけ来るよ」
「?」
「荷物とりに」
「あ、了解」
「んじゃ、卒論頑張れよ、麻衣ちゃん」
 研さんの子どものように素直な表情とは違って、やや屈託のある銀ちゃんの笑顔はいつになく魅力的だった。ひょっとして数ヶ月後や数年後に、普に彼に恋することもあり得るかなあ、と漠然と考える。
「卒論……。嫌なことを思い出させないで。そっちこそ、五年生頑張れよ」
「ぎゃっ」
「じゃ、またメディア研の会室で会おうね」
 空高くに浮いていた太陽はいつの間にか地平線と一体になり、凹凸のある大地を、そしてヒヤマ・シティとの荒野の境目をくっきりと照らす。この光は、自分さえ絶やすまいと思っている限り決して絶えないのだ。
 私はここで、たった一人でも自分を肯定できる、いや、肯定している。研さんの存在に依存しなくても、研さんのかわりに銀ちゃんや他の友人に依存しなくても。それは決して淋しいことではなく、むしろ唯一生きている証と言える、かけがえのない事実だった。

【FIN】
 


back  home