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 結果的に言えば、この時ゼミに行ったのは正解だった。
「ねえ、オレンジって聞いて、何を思い出す?」
 一通りの発表と討論が終わり、教授が席を外してから、帰る準備をしている友人達に聞いてみる。
「なになに?」
 こんな唐突な質問にも、訝しがらずに、むしろ面白がって付き合ってくれるゼミ仲間たちには感謝しなければならない。
「ちょっとしたゲームだと思って、気楽に答えてみて。別にこれが正解ってのはないから、ブレインストーミングの一種ってことで。私、『オレンジ』を捜しているんだ。どこに行けば『オレンジ』が見つかると思う?」
「果物屋」
 助手の先輩が即答する。いつも通り夢のない人だ。
「ええと、誰でも思いつくような答えは、歓迎されなかったりするのね?」
「鋭い。なるべく意外な意見を期待しています」
「じゃあ、そうね。捜さなくても、待っていれば近いうちに必ず『オレンジ』は現れるよ」
「どういうこと?」
「ごめん、なんとなく夕日のイメージがあったから。晴れてれば一日一回出会えるでしょ」
 駄目だ。彼女の場合は夢がありすぎる。
「オレンジの在処っつったら、あそこじゃねえのか」
 口を挟んだ神妙な顔に皆が注目する。
「なになに?」
「オレんち」
「さむっ」
 一同、苦笑する。場の空気が一気に砕けて和やかになった。
「そういえば、ヒヤマ大学の歴史学科のサイト、サーバ名がorangeじゃなかったっけ?」
「そう、だったっけ?」
 学科別のサイトなんて滅多に見に行かない。科目の紹介や単位の計算方法は一括でダウンロードしてしまったし、緊急の連絡は教授から直接聞けば用が済んでしまう。URLなんて覚えていなかった。
「確か。なんでオレンジなんだろうって不思議に思った記憶があるもん」
 歴史学の資料集めを頼んだ直後に消えた研さん。そして歴史学科のサーバ名。中身のない記号のように消費される単語。偶然の一致とは思えない。
「サンクス。それは役にたつかもしれない。家に帰って調べてみるね」
「って麻衣、一体何の調査をしてるの? あとでフィードバックしてくれるんでしょうね」
「するする、卒論でね」
 みんなに別れを告げると、小走りでムービングロードに向かう。今日の作業はリハビリ程度に留めるつもりだったのに、結果的には朝から全力で動き回っている。Tシャツの背中は汗で湿り、足の筋肉は怠くなってきたけれど、研さんが少しずつ近づいてきていると思えば気にならない。ロードに飛び乗ってからもなお早足で歩き続け、アパートにたどり着く。
 銀ちゃんはまだ帰ってきていなかった。鞄をベッドの上に放り投げると、端末を起動させ、大学のトップページに繋げた。そして、メニューから歴史学科を選択。
 確かに、URL欄にははっきりとorangeの文字があった。高鳴る鼓動を押さえながら次にすべきことを考える。理由、だ。サーバ管理者に問い合わせれば何かを知っているかもしれない。誰が担当だったっけ。学科事務室にいる人なのか、教授の誰かか、院生の誰かか、いずれにせよ顔見知りである可能性が大きい。
 しかし、サイトマップを眺めているうちに、別の事実に気付いた。ヒヤマ大学は、各学科ごとに、色の名前のついたサーバを割り当てているのだ。情報学科はblue、美術学科はred、生物学科はgreen、というように。一瞬にして意味が無意味へとすり替わる。期待が先走りすぎたのだろうか。これじゃ、たとえオレンジと歴史が結びつけられたことに何らかの経緯があったとしても(生物科がgreenなのは植物からの連想だろうし、他の学科もちょっとした関連があってもおかしくはない)、サーバ管理者程度では知っているとは思えない。
「ただいま」
 玄関ががしゃりと開き、ビニール袋をぶら下げた銀ちゃんが入ってきた。
「メシ買ってきたよ。どうせ麻衣さんは作ってくれないだろうから」
「失礼な。作ってないけど」
 袋からは菓子パンやら紙パックのジュースやらが続々と出てくる。ちゃんと私の好物のチョコドーナツを買ってきてくれる所がにくい。研さんだったら絶対にそんな気配りはしてくれない。それどころか、研究に夢中になっているときは私が腕によりをかけて作った料理も食べずに放置して、腐らせてしまうような人だった。
「で、何か収穫あった?」
「全然。そっちは?」
「あるような、ないような」
 さっきまで調べていた経緯をかいつまんで話す。
「成程。でも、サーバ名ってのは穴場だね」
「穴場?」
 銀ちゃんは、しばらく考え込む。CPUクーラーの回る音と、パンの紙袋がカサカサと揺れる音ばかりが静かに響いた。
「タイトルと本文の検索だけじゃ、多すぎて絞れなかったわけだ。試しにドメインにorangeが入っているページを捜してみようか」
「賛成。さすが」
 ありそうなURLをリストアップし、順番に繋いでみる。orange.comはどこかの市民団体みたいだ。orange.netはポータルサイト兼ブロバイダというところか。orange.orgは存在せず、orange.toは……
 orange.labを表示させたとき、部屋の時間がすうっと止まった。「オレンジ研究所」公式ページと書いてある。住所はトウキョウ・シティなのに、最終更新日は昨日の日付だった。知っている限り唯一の「生きてる」トウキョウのページだ。
「オレンジ研究所のサイトへようこそ!
 私たちは、『オレンジ』の調査と開発を目的に設立された研究団体です。民営化されてから今年で三周年になりました」
 研究所の沿革、交通のアクセスなどが書いてある。オレンジとは何なのか、色なのか果物なのか遊園地なのか、もっと他のものなのか、一切説明していないところが怪しい。
 しかも、更に目を引く記述を発見した。
「主な取引先リストに、<HOTARU>が入ってる」
 しばらく二人で顔を見合わせる。
「ここ、行ってみよう」
「うん」
 壁の外に出ては行けない、という禁を破るとどういうことになるのだろう。バレたらかなり重い罰が課せられることを覚悟しなければならない。でも、この先ずっと研さんの居ないまま生活しなければいけないぐらいなら、危険を冒してでも可能性に賭けてみたい。
 地下鉄は止まっているけど、そう滅茶苦茶に遠いわけではない。地下鉄の線路上を歩いたとしたら百キロ。海を迂回して地上を歩くなら百五十キロ。地上は迷いそうだし、道のないところを草をかき分けながら進まなければいけないので危険も多い。万が一猛獣なんかが住んでいたら最悪の事態を引き起こしかねないので、線路沿いの道を選んだ方が現実的だ。
 時速五キロで歩いたとして二十時間、睡眠時間と休憩時間を考慮して一日七時間としても三日で着ける。昔だったら個人用のガソリン車で数時間だったろうに、今は歩かなきゃいけないのは残念だ。しかし、無理な話ではない。研究所の場所は、トウキョウ・ターミナルのすぐ裏で簡単に見つけられそうだ。もはや躊躇う理由はなかった。
「明日、ヒヤマ・ターミナルの様子を見てくるよ。誰かに見つかっても私の卒論だって言えば説教程度で済むよね」
「よっしゃ!」
 銀ちゃんが笑った顔を見たのは久しぶりだ。眠っていた感覚が僅かに動き出し、閉じこめていた殻にひびを入れた。あとは前へと進むのみ。

 見つかったときにスムーズに説明できるように、取り出しやすい胸ポケットに学生証を入れ、カモフラージュにカメラをぶら下げる。
 ヒヤマ・ターミナル付近は居住区ではなく倉庫や工場の建ち並ぶ地域なので、滅多に足を運ばない。最後に来たのは小学校の社会科見学だったかもしれない。昔はこの工場で作られた製品がそのまま地下鉄でトウキョウに運ばれたり、反対にトウキョウから運ばれてきた製品がここの倉庫に搬入されたりしていたのだろうか。
 付近には、工場の従業員と思しき人が二、三人歩いているだけで、閑散とした雰囲気だった。しばらく待って視界から人が完全に消えてから、針金を編んだようなフェンスを越えた。埃のかぶったターミナルビルの吹き抜けの部分に駆け込み、姿を隠す。大丈夫、誰も追ってこない。
 閉ざされたエレベータの隣で、立入禁止のローブが張られた階段が地下へ地下へと伸びていた。奥のほうは真っ暗で、どこまで続いているのか分からない。小石を投げ込んでみても、比較的浅いところにある踊り場で止まってしまったみたいで音はすぐに消えてしまった。しばらく待っても何も起こらない。
 次に、糸で結んだライターに火を付け、手すりの間からするすると下へ降ろしてみる。火が消えないようにゆっくりと。十二メートルある糸をいっぱいいっぱいまで伸ばしたら、こつんと床に当たったような手応えがあった。今度はゆっくりと引き上げる。火は消えてもいないし爆発もしなかった。地下の空気には多分問題ないのだろう。
 意を決して最初の一歩を踏み出した。小型の懐中電灯の明かりだけを頼りに、ゆっくりと階段を下りていく。時々立ち止まり、電気を消して耳を澄ましてみたけど反応はない。少なくとも今は、このビルの中を見張っている人はいないらしい。とはいえ、油断は出来ない。
 階段は地下四階付近で終わっていた。そこはちょっとした広場のようになっていて、自動券売機と思しき物が一つ、窓口が二つあった。そして二つ目の窓口の真横に簡素なゲートが並んでいる。ビルそのものに電気が全く通ってないみたいだから大丈夫だろうとも思いつつ、注意深くゲートを通り抜けた。身体より先に左手を伸ばし、変化がないことを確認しながら。無事に通過できたときは予想していたとはいえホッとしてため息が漏れる。
 角を曲がると、そこには紛れもないプラットフォームが佇んでいた。トウキョウ・シティ行き、と書かれたプレートが残っている。まだまだ二重三重にゲートを抜けなければいけないと思っていたから拍子抜けだ。仮にもシティの外に出ようって施設なのに、このセキュリティの甘さは何なんだ。罠じゃないかと不安になるほどあっさりとたどり着いてしまった。きっと地下鉄が作られた当時は、まだ一般市民もシティ間を自由に行き来することが可能だったのだろう。
 とにかく、これだけ簡単に侵入できるなら、計画は無事実現できそうだ。明日か明後日にでも出発できるだろう。研さんの影がまた近くなった。軽い足取りで帰る道は恐る恐る進んでいた行きの道よりもずっと短く感じた。

 ペットボトルに詰めた水。コンパクトな栄養食品。荷物の殆どを銀ちゃんに持たせて、自分はハンドバッグと懐中電灯だけを持って歩き始めた。
 単調な風景がひたすら続いていた。カーヴすら殆どなく、地面と平行にした懐中電灯の光はブラックホールに吸い込まれたみたいに焦点に向かって消えていった。
 コン、コン、コンと二人の足音が重なったりずれたりしながら、コンクリートに反射し、共鳴し、増幅される。時にそれがちょうど誰かが後ろを歩いているように聞こえてしまい、何度も振り向いたけれど、そこには前方と全く同じ風景が広がっているだけだった。
「どっちが前でどっちが後ろだか判らなくなりそうだな」
 銀ちゃんが不安そうに呟く。
 いつの間に──例えば眠っている間に前と後ろを反対に認識してしまい、逆走してヒヤマに着いてしまったらどうしよう。それより怖いのは、何かに取り憑かれるとかして毎晩のように前後が入れ替わって、永遠に行ったり来たりして出られなくなってしまうことだ。食料はせいぜい一週間分しか持ってない。この中で死んでしまったら、誰にも発見されないまま、腐って骨になってしまうだろう。
 考えたって仕方がないのに、どんどんネガティブな想像に走ってしまう。もしも今の瞬間に大地震が起こったらどうする? もしも毒を持った生物がトンネル内に住んでいたら?
「香りーゆかしく、咲く白梅はー」
「は?」
「ヒヤマ大学の校歌。歌うと少しは気が晴れるでしょ。覚えてる?」
「俺は入学式に一回聴いたっきりだなあ」
「私は二年まで合唱部だったから、覚えさせられたよ。春のーさきがけ、若き力よー」
 こうやって歩いていること、それ自体が答えだ。一番大切な存在、研さんに会えないのなら生き埋めになったって構わない。銀ちゃんだって同じ気持ちのはずだ。
 一時間歩いては十分休み、を何回も繰り返しているうちに、さすがに足腰の違和感が大きくなってくる。違和感は少しずつ、単なる変な感じからもっとはっきりと言葉に出来る感覚に移っていった。
「ねえ、疲れと痛みって、一緒のものだったんだね」
「は?」
「ほら、ブルーのインクって、うんと濃くすると黒になったりするじゃない。疲れって、一定量以上溜まると、痛みになるんだなあって、新発見」
「つまり、そろそろ休憩したいってことね」
「正解」
 元気だったのは最初の数時間だけだった。膝やかかとの関節がぎしぎしと痛む。自分の体力を甘く見ていたみたいだ、情けない。
 いつもは味気ない栄養食品がやたら美味しい。水をちびちび飲みながら、銀ちゃんの肩にそっと寄りかかる。あなたが居なければここまで来られなかった。同じ思いを忘れないままでいてくれたことに感謝しなければならない。私は彼のあったかい腕の中で眠りに落ちた。

 トンネルを抜けると、そこは雪国……じゃなくて、トウキョウ・シティ。高層ビルが建ち並び、数え切れないほどの人々が忙しそうに歩いている、筈だった。
 プラットフォームを見つけたのは歩き出してから四日目。足腰のガタガタは峠を過ぎたのか麻痺しただけなのか、あまり気にならなくなっていた。痛くなってきた時は小走りモードに切り替えると楽になることを覚えたので(走る筋肉と歩く筋肉は違うのだろう)、予定よりも早く到着できた。
「え」
「なに、これ」
 しばらく、脳がフリーズしたように立ちつくす。
 そこには、正真正銘何もなかった。建物や道の欠片もなければ、人間の影も形もない。ただ一面の荒れ野原が広がっていた。
「ここ、トウキョウ、だよね。道間違ってないよね」
「間違うも何も、一本道だ」
「じゃあ」
「答えは一つ。ここがトウキョウなんだろう」
「だって」
「一ヶ月前にデータが丸消えした時、やっぱり何かあったんだろうな。ここまできれいサッパリ消してしまうなんて、どんな災害なのか想像もつかんけど」
 銀ちゃんは、すたすたと歩き始める。
「ちょっと待って。どこ行くの」
 驚きと落胆で足がすくんだままだ。混乱を沈めようにもどうしようもなくて、救いを求めるように銀ちゃんのシャツの裾を掴んだ。
「ターミナルビルの裏。オレンジ研究所、その辺りだっただろ」
 確かに呆然と突っ立っているよりはずっと建設的な方法だ。こういう時、どうして男の人は冷静でいられるんだろう。手を引かれて、ゆっくりと後ろからついていく。
 案の定、ちょうどトウキョウ・ターミナルの裏で死角になっていた所には、それらしき建物がぽつんとあった。
『オレンジ研究所』
 コンクリートが剥き出しの、そっけない建物だ。中に人が居るのかどうかは分からない。電気がついているのかどうかはよく見えなかったし、ドアに耳をつけてみても音は聞こえなかった。
「よし」
 深呼吸をしてから、せーのでインターホンを押す。
 ドキドキしながらしばらく待つと扉が開き、白衣を着た中年のおじさんが出てきた。
「どちら様?」
 髪はぼさぼさで服装に一切気を遣っていないのが判る、いかにも研究者という感じの人だった。特に私たちに対して悪意も好意も持っていなそうな、事務的な口調だ。
「僕たち、ヒヤマ大学の四年に在籍している者です。卒論でトウキョウ・シティを扱おうと思って、取材に来たのですが……」
 おじさんは、目を丸くする。
「君たち、ヒヤマから来たの?まさか、その若さでヘリカーの免許を持っているのかい」
「いえ、違います。歩いてきました」
「歩いて?そりゃ、余計に大変だったな。まあ、あがってお茶でも飲みなさい」
 ちょっと変わっているけど、悪い人じゃないみたい。ホッとしつつ、言われるままに靴の泥を落として中に入る。
 廊下の突き当たりにある、応接室のような広い部屋に通された。飾り気のない外観とはうらはらに、細部に生活感がにじみ出ていて、アットホームな雰囲気だった。
 年季が入った皮のソファーに腰掛けると、おじさんがほうじ茶を持ってきてくれた。温かいものを飲むのは三日ぶりだ。夏とは言えほかほかして嬉しい。
「それで、トウキョウ・シティはなぜこんな風になってしまったのか、聞いてもよろしいですか」
 銀ちゃんばかりに負担をかけるわけにはいかない、と私も思いきって質問してみる。
「うむ。いい質問だ。それはな、単刀直入に言うと……」
 息をのんで答えを待つ。
「『オレンジ』のせいだ」
「は?」
「その『オレンジ』について調べるために、この研究所が作られたんだよ」
「あ、あの、『オレンジ』って何なんですか?」
「そうだな。まずはこれを見て欲しい」
 おじさんが壁についている取っ手を引っ張ると、金属の蓋でしっかりと密閉された、オレンジ色のガラス瓶がたくさん並んでいる。
「これは、何なんですか」
「これが『オレンジ』だ」
「は、はあ。で、中には何が入っているんですか?」
「まあまあ、そう焦らずに。最初から順番にお話ししよう。そういえば、自己紹介をしていなかったね。私は、このような者だ」
 おじさんは、胸ポケットの財布から名刺を取り出し、差し出した。
『オレンジ研究所所長 佐々木研一』
 全身の血が凍り付いたように動けなくなった。研さんと同姓同名だ。
 

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