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オレンジ
 

 のろのろと進むムービングロードにしゃがみ込み、途方に暮れていた。
 今にも雨が降り出しそうな黒い雲に急かされた人々が、こちらを一瞥しながらも早足で通り過ぎていく。俯いて狭くなった視界に、彼とそっくりの上着を着た影が何度か映ったけれど、はっとして顔を上げた先に待っているのは失望のみだった。
 やがて日が暮れて人の気配も薄くなった頃に、ぽつぽつと水が弾ける音が屋根に響き始める。次第に激しくなっていく雨音に混じって、昼間のみんなの反応が頭の中でこだました。
『研さんって、誰それ?』
『寝ぼけてるんじゃないの?』
『そんな部員いたっけ?』
 演技や冗談には見えなかった。心の底から不思議そうな表情をしていた。
『佐々木研一という名前の学生は、当校には在籍しておりませんが』
『除籍者リストにも入っていませんよ』
『この電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、お掛け直し下さい』
『検索結果は0件です』
『検索結果は0件です』
『検索結果は0件です』
『検索結果は……』
「嫌だっ!」
 どこからともなく漏れた冷たい水滴がうなじにぴしゃりと当たり、再び目を開けた時には、空は明るくなっていた。ヒヤマ・シティの市街地を環状に取り囲むムービングロードは一日で二周する。いつもの大学の風景に戻っているということは、きっかり半日乗り続けていたということだ。
 関節がきしきしと痛む。痺れただけかと思ったけれど、立ち上がると同時に猛烈な目眩が襲ってきた。風邪ひいたかもしれない。アパートに帰るまでの道のりは、果てしなく遠かった。

 夢中になって探し回ったあの日、たまたま銀ちゃんが大学をサボっていて連絡が取れなかったことは、不運としか言いようがない。おかげで貴重な時間を文字通り空白にしてしまった。
 幻だったなんてありえない。大学で一緒に過ごした日々、私のアパートに転がり込んできた日、台詞の一つ一つまで鮮明に覚えている。考え事をしているときは、煙草の灰がノートに焦げ目を作っていることにさえ気付かないくらい集中していた。こと研究に関しては、何でも器用にこなしてしまうので、この人に出来ないことはないんじゃないかと思うくらいだ。そのかわり生活の方はまるで駄目で、放っておくと何日も同じ服を着ているし、外食ばっかりでご飯すら炊こうとしない。僅かな隙も見せずに理論武装している人が、お酒を飲むとふにゃふにゃになって眠ってしまう、その無防備な寝顔が大好きだった。
 そして、彼を見つけるための唯一の手がかりは、一枚の紙きれなのだ。
『オレンジを捜しに行く』
 この筆圧の強い角張った文字は、紛れもなく彼のものだ。居なくなる直前に書かれたものであることは確かだし、失踪の原因と関係あるのだろう。でも、私にはオレンジという言葉が何を指しているのか想像できない。まさか果物や絵の具ではないだろうけど、場所の名前なのか商品の名前なのか組織の名前なのか、皆目見当もつかなかった。

 目が覚めると、イヤホンをつけてゲームをしている銀ちゃんの後ろ姿がぼんやりと見えた。
 少しずつ輪郭線がはっきりしていく視界の中で、時計を探す。壁の時計は机の影になって見えない。懐中時計を取り出すと、午後6時を指していた。不自然な格好で床に転がっていたせいでスカートに変な皺がついてしまった。卒論に使う本を読んでいるうちにうたた寝してしまったらしい。そして、その間に銀ちゃんが来た、のか。
「ドアの鍵、開いてたの?」
「おいおい、麻衣さん、合い鍵くれたじゃない」
「そうだっけ」
「まだ寝ぼけてるな」
「眠い」
 テーブルに飲みかけのまま置いてある、冷めたコーヒーを飲み干した。と、だんだん記憶がくっきりしてくる。
 研さんが失踪してから二ヶ月が過ぎた。そして銀ちゃんは、今まで研さんが居たはずの隙間にすっぽりと入り込んでいた。研さんが持ってきたパソコン、研さんが使っていた箸、研さんの歯磨き粉(さすがに歯ブラシは自前のを買ってきた)、そして、研さんと過ごした時間。私の生活からぽっかりと欠けてしまった一ピースを埋めることが出来るのは、銀ちゃん以外にはあり得なかった。
 それは、極めて自然な成り行きだ。もともと研さんと銀ちゃんは大親友だったから、二人きりでいるよりも三人で行動することのほうが多かったぐらいだった。
 いや、親友というのは語弊があるかもしれない。二人の関係は、むしろ親分と子分と表現した方がしっくりくるような上下関係があった。銀ちゃんはいつも研さんの少し後ろを歩き、どんな選択をするときでも最終的に彼の判断に従った。一方、研さんのほうは自分の言動がいかに影響力を持っているかさっぱり自覚していないみたいで、自由気ままに生きている印象があった。
「あいつは凄えよ。敵わないよ」
 銀ちゃんは、折ある度に同じ言葉で絶賛した。自分の彼氏がほめられるのは嬉しいけど、根っからの文系の私から見たら銀ちゃんだって十分凄い人だ。未だに研さんの行方が分かっていない今、銀ちゃんと居るときが唯一気持ちを落ち着かせることが出来た。他の人では駄目だったし、ましてや独りで居るなんて、心細くて耐えられそうになかった。
「うん。鍵、渡したかもしれないね」
「かもしれないじゃなくて、もらったの。二日前だぞ」
 二日前。空回りを続けていた歯車が、コトリと動き出した。朝起きて、大学に行って、帰ってきて、食事をして寝るという、脳味噌の表面しか使わない、ゼンマイ仕掛けの人形のような生活に終止符を打ったのが、新しい合い鍵だった。小さな鍵はドアをノックし、私の頭をこつんと叩き、堰き止められていた思考を開いた。
「一緒に研さんを探そう」
 その言葉は、欠けて凍った神経を再びつなぎ合わせてくれた。
「研さんを、覚えているの?」
「ああ。覚えているのは俺達二人だけみたいだな。他は、教授もメディア研の奴らも全滅だった……おい、何泣いてるんだよ、今更」
『一緒に研さんを探そう』
 自分一人では、たった一日奔走しただけで、忘れてしまった言葉だった。次の日私は39度の高熱を出して寝込んでしまい、熱が下がったときはもう、充電が切れたみたいに無力になっていた。一欠片の希望もないものだと思い込み、生きることさえ半分諦めていた。どうしてもっと早く彼に電話しなかったのだろう。この二ヶ月間、私はこの部屋で、銀ちゃんは実家で、それぞれただ途方に暮れていたのだ。私は大学の講義だけはどうにか出席していたけど、銀ちゃんはそれすらせず、家に閉じこもってゲームばかりやっていたせいで、ほぼ留年決定らしい。もっと早くから探し始めていれば、もっとまともなヒントを見つけられたかもしれなかったのに。
「ごめん、寝ぼけてた」
 顔を洗おう、と立ち上がったとき、お腹が切ない声で泣き始めた。そういえば、今日は朝カフェオレを飲んだっきり、カロリーのあるものは何も口にしていなかったのだ。
「どうしたの」
「お腹空いた」
「何か食いに行く?」
「銀ちゃん作って」
「ええっと、スパゲッティ茹でて塩をかけたら、一応食えるかな」
「分かったよ。どっか行こう」
 髪を適当に束ねて、なんとか見られるようにする。壁に引っかけた鞄に手を伸ばすと、机の上に放置された紙に肘が触れて微かに震えた。もう片方の手で軽く押さえつけ、ふっと息をつく。
 遺書のようにも見える一枚の紙。
『オレンジを捜しに行く』
 どれだけ紙を凝視しても、出てくるのはため息ばかり。でも、これだけが消えた存在を甦らせるキーワードであるのは確かだった。

 卒論が停滞しているのは、研さんの失踪以外にも理由がある。
 私の専攻は歴史学で、ヒヤマ・シティとトウキョウ・シティの関わりについて研究している。シティ内で自給自足できるようになった今でこそ交流は皆無だけど、大昔は毎日のように電車や個人用のガソリン車が行き来していたらしい。具体的にどのような物や人が行き来していたのか、当時の小説や記事をかき集めて、卒論としてまとめようと思っていた。卒論計画書は無事に受理され、そろそろ資料集めを始めなくてはと思っていた矢先に、研さんが失踪し、更にあの事件が起こったのだ。
 何しろ私自身は生きていたのか否かもよく分からない間の出来事なので、記憶が曖昧なのは許してもらいたいんだけど、一ヶ月前ぐらいだったと思う。その日を境にトウキョウ・シティ内のサーバにあるデータの半分以上が、アクセス不能になってしまったのだ。
 研究用のデータだけではない。一般公開されているウェブサイトも、トウキョウ・シティのサーバにあったページはどれもこれも更新が止まっているかnot foundになってしまうかのどちらかだった。まるで、シティ全体の時間が止まってしまったみたいに。
 最初はヒヤマの人たちもそこそこ騒いでいた、と思う。トウキョウに水爆が落ちたんじゃないか、とか新種の伝染病が流行っているのではないか、とかいろいろな説が出回っていた。しかし、原因が解明される兆しは全くなく、あっという間に風化してしまった。
 実際のところトウキョウと連絡が取れなくても困ることは何もないのだ。確か、私が生まれた頃は年に一回ほど地下鉄が往復していた。と言っても、シティ運営グループ<HOTARU>のメンバー以外が壁の外に出ることは厳しく禁じられているので、私のような庶民には関係のない話だけど。死ぬまでに一回ぐらいは外の風景を見てみたいなあと羨ましく思っていた。
 年一回の地下鉄すら廃止されたのは、十年ほど前だった。理由は、車体の老朽化。騙し騙し使っていた最後の一台が、ついに動かなくなったそうだ。もともと<HOTARU>によるトウキョウ査察も、観光だの親睦だの以外には何の意味もなかったわけだから、わざわざ新しい電車を作ろうだなんて言い出す人はいなかった。
 だから、トウキョウ・シティが仮に滅んでしまったとしたって、普通の人が困るのはせいぜい通信映画の幾つかが見られなくなることくらいだろう。
 そう、普通の人にとっては。
 どこかの誰かさんみたいに、大学でトウキョウ・シティの歴史で卒論を書こうとしてなんてさえいなければ、何一つ困ることはなかったのに。
「はあ、めんどくさ」
 教授はあっさりと「テーマを変えたら?」とすすめる。単なるレポートだったらそうするけど、仮にも四年間の総決算なんだから。易々と放り投げてしまったら、今まで積み上げてきたものを否定することになってしまう。
 ウェブが駄目なら原始的な媒体に頼るしかない。まずは<HOTARU>にインタビューするためのアポを申し込んだ。どうせ答えが返ってくるのは数週間後だろうから、その前にやれることはやってみなくちゃと、図書館に向かう。と、見覚えのある横顔が。
「麻衣さん?」
 銀ちゃんだった。
「学校来たんだ。珍しい」
「ああ、敷地に入ったの、二ヶ月ぶりだぜ」
「ちゃんと戸締まりした?」
「当然」
 未だに私のことをさん付けで呼ぶ。「あの」研さんと付き合っているというだけで、年上だと思い込んでいたそうだ。同い年だったと判明してからも、この呼び方は改めてくれない。
「何か分かった?」
「今から調べるところ。あいつ、居なくなるちょっと前、トウキョウ・シティの何かをハッキングしてみせるとか言ってたんだ。成功したのかどうかが知らんが。もしかして『オレンジ』と関係あるのかな、と思って」
 研さんの専攻は人工知能だ。研究に必要なデータを集めていたとは考えづらい。そうすると、
「それ、私の卒論じゃないかな。資料集め手伝ってって頼んだの。でも、ハッキングしなきゃいけないような変な資料は頼んでないはず」
「研さんのことだから、何か面白そうなもん見つけて、首を突っ込んだんだろうな」
 滅茶苦茶あり得る話だ。役にたたないことにばかり熱中して、無駄なテクノロジーを投入するような人なのだ。以前なんて、レポートが〆切に間に合わなそうだからと言って、数時間かけて大学のコンピュータに侵入し、期限を過ぎても提出できるように設定を変更してしまったことがあった。その数時間の間にレポートを書いていれば間違いなく〆切に間に合ったのに。
「銀ちゃんもハッキングって出来るの?」
「あのなあ。そんな才能あったら留年しないよ。俺達の学年でトウキョウ・シティのメインサーバに侵入出来そうなのは研さんぐらいだろ」
「なあんだ、じゃあ無理じゃん」
 がっくりと肩を落とす。せっかくヒントをつかめそうだったのに、肝心の一歩を踏み出せないなんて。『オレンジ』の正体を引き出すことが出来なければ研さんは探せないのに。
「おいおい、まだ無理とは決まってないよ」
「?」
「普通の方法で調べるのが先だろう」
「普通の方法?」
 銀ちゃんは、起動した端末を検索サイトに繋ぎ、キーワードに「オレンジ」と指定した。
「あ」
 なるほど、確かにウェブとオレンジを結びつける普通の最も簡単な方法だ。灯台もと暗しとはこのことだ。難しいほう、難しいほうへと考えてしまって、身近な手段をすっかり忘れていた。
「ヒット数478000件、だって。これ全部調べるの?」
 表示された数字を見ていきなりブルーになる。
「不可能な数字ではないかな、いや不可能か?」
 五十万件もいちいち見ていたら時間がいくらあっても足りない。一件あたり一秒で済むと仮定してもまるまる五日、一件あたり一分なら三百日。ため息をつきながらも、上位の何件かだけはクリックしてみることにする。
 半数近くは、予想通りサーバが落ちていて見られない。残り半数も、あまりにも不毛な内容が多くて見れば見るほど精神力を吸い取られていく。トウキョウ・シティには、オレンジワンダーランドという有名な遊園地があるらしい。「今日は家族でオレンジワンダーランドに行った」って内容の日記が大量にヒットした。研さんも、まさか遊園地を探すために失踪したわけではあるまいし。念のためオレンジワンダーランドの公式ページにも行ってみたが、引っかかる内容は見つからなかったし最終更新日は2ヶ月以上前だった。
 果物オンライン販売のページ。カラーデザインのページ。千件ほど確かめるのに三時間かかってしまった。それにしても日記のヒットが多い。「今日のデザートはオレンジのムースだった」「今日はオレンジ色のシャツを着てみた」等々。ウェブ上で日記を付けるという悪習が始まったのはいつからなのだろう。
「もう嫌、疲れた。ゼミ行ってくるね」
「……ああ」
 図書館の端末は、キーボードの感触に違和感があって使いにくい。凝り固まった身体で伸びをすると、肩の関節がバキバキと音を立てた。
 

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