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理学館の住人
 

「ったく、どうしてあんたなんかと」
 愚痴っぽく呟きかけた言葉を飲み込んだ。隣を歩く郡司君も、明らかに同じことを考えているんだろうな、と思い当たったからである。
「ホントですよ」
 それはこっちの台詞だとばかりに彼は石を蹴飛ばす。せっかくの肝試しなのに、このペアリングは夢がなさすぎる。年上派の私としては二個下の郡司君と並んで歩いたところでドキドキした気分には全くなれないし、彼だって私のようなオバさんを恋愛対象としては見ていないだろう。だからこそ、普段は良き恋愛相談相手になっていると言っちゃそうなんだけど、少なくとも夜の大学の裏山に二人きりというシチュエーションには全くもってそぐっていなかった。
「もう少しゆっくり歩こうよ。追いついちゃう」
 よりにもよって、私が密かに憧れている一歳上の忠志さんは、真砂子ちゃんと組んでいた。真砂子ちゃんと郡司君はクラスメイトで、もともと付き合っていたのだけど、先学期に別れたばかりだった。別れた、というか本当は郡司君が一方的に振られたんだけど、表向きには双方合意の上ってことになっている。
 最近の真砂子ちゃんが忠志さんを狙っているのはサークル内では周知の事実だった。みんな私の気持ちも知らずに、そして郡司君の気持ちも知らずに、なんとなく真砂子ちゃんの新しい恋を応援しようモードになっている。今回のくじ引きだって、幹事によって仕組まれたものだった。サークル内のそういう風潮は不愉快でたまらなかったけど、異議を唱えるためには自分の気持ちを露わにしなければならない。そんな大胆な勇気など持ち合わせていない私には、流れに抗うための術などなかった。
「むしろ奴らに追いついて、邪魔したほうがいいんじゃないですか」
「やだ、見たくない。余計に悲しくなるだけだよ。邪魔したいなら一人で先に行って。私は待ってるから」
「こんな暗いところで一人で待ってるのは危険ですよ……おっと、とりあえず到着です」
 第一の目的地は礼拝堂。非常階段を上り、屋上に置かれたコインを回収する。金属の階段を自分の足音がゴーンと森に響くのがちょっと気持ち悪いけど、非常灯のおかげで足元は明るいので、まだ落ち着いていられる。
 肝試し的には本番は次の目的地、理学館だ。キャンパスの外れの雑木林の中にある理学館には、古くて薄汚れた外壁のおどろおどろしいイメージのせいもあって、物騒な噂が絶えない。昔レイプされて自殺した女子学生の霊が出るとか、数年前にクビになった教授が実は地下室に住み込んでいて、迷い込んだ学生を使って人体実験しているとか。今はお盆なので居残りしている学生もいないし、入り口にある唯一の街灯は電球が切れている。
 この理学館の中庭に、二枚目のコインは置かれているはずだった。当たりが真っ暗だと、風で草木が揺れる音ですら不気味に感じる。それこそ幽霊か何かが出たんじゃないかと思って、いちいち音のするほうを振り返ってしまう。しかし何度見ても木と木の間には深い闇があるだけで、それがただの闇なのか何かの影なのかは分からなかった。
「足元、気を付けてね」
「はい」
 中庭に入るためには、一度屋上に昇ってからまた降りなくてはならない。しかも、さっきの礼拝堂のようなちゃんとした非常階段ではなくて、簡単な梯子が壁にひっついているだけだ。多分、電気やアンテナの工事の時だけ使われているのだろう。古いコンクリートの壁は朽ちて体重をかけたら崩れてしまいそうな部分もあって、オカルト云々以前に物理的にも怖かった。
「あの二人、もう次のポイントに行っちゃってるかな。まだ中庭にいたら嫌だね」
 もしも二人がいちゃついていたら……。悪い方向にばかり想像力が働く。
「その時はお化けのふりして怖がらせてやりましょう」
「そしたら真砂子ちゃん、きゃっとか言って忠志さんの腕につかまるんだよ、きっと。ああ、嫌だ嫌だ嫌だ」
 あまりにも「嫌だ」を連発している自分自身に苦笑した。冗談半分みたいに聞こえるけど、全部お腹の底からため息のように吹き出してきた本音だ。真っ黒い気持ちをひたすら吐き出しながら、梯子に足をかける心の準備をする。一番嫌なのは、嫌なことから目をそらそうとばかりしている私自身だ。怖がらずに登り切ることができたら、現状を打破するための道も見えてくるかもしれない。自分の気持ちをぶつける勇気も湧いてくるかもしれない。
 錆びた鉄の棒に手をかけた瞬間、上の方からドドドドド、と何かが近づいてくるような音が響いてきた。続いて、梯子がカンカンと音を立てて揺れて、黒い影が落ちてくる。
「うわああああ」
 黒い影は、私を突き飛ばすようにして地面に降り立つ。ポケットからこぼれ落ちたコインを拾おうと手を伸ばした途端にバランスを失い、尻餅をついた。数人分の悲鳴がハモる。……ということは、この影の正体は。
「逃げろっ!」
 目の前で忠志さんの声が叫んだ。続いて降りてきたのは真砂子ちゃんだ。何がなんだか分からないまま、まず郡司君が走り始めた。続いて、郡司君を追いかけるように真砂子ちゃんも逃げ出す。私は、尻もちをついたショックで足が動かない。
「つかまって」
 手をさしのべてくれたのは忠志さんだった。私はその手にしがみつくように立ち上がり、裏門のほうに向かって全速力で走った。一体何があったのか分からないけれど、とにかく一刻も早く理学館から離れなくてはならない。繋いだ手は垣根を飛び越えるときに離してしまったけど、ずっと隣を並んで逃げた。二百メートル以上の距離を夢中で駆け抜けても、筋肉はそれほど疲労せず、むしろ心地よい刺激だと感じていた。自分がこんなに速く走れるなんて知らなかった。
 裏門をくぐり、大通りに出たところで、四人はやっと逃げるのをやめて、ガードレールに寄りかかるように座り込んだ。張りつめた糸が切れたように、身体に痛覚が甦ってくる。呼吸も心臓も信じられないくらい速くなっている。
「で、理学館、誰かが居たんですか?」
 草むらをかき分けるときに足に出来てしまったひっかき傷をさすりながら、気になっていたことを聞いてみた。件のクビになった教授なのか、女子学生の幽霊なのか、それとも……。
「保安課」
「えっ」
「巡回中の警備員と、はち合わせしちゃったんだよ。いやあ、焦った焦った」
 私と郡司君は、がっくりと肩を落とした。
「なあんだ。てっきり何か化け物が出たのかと思ったのに」
「化け物のほうが良かった?」
「ひどいよ。本当に死ぬかと思ったんだから」
 ボサボサになった髪を手櫛で整えながら、忠志さんを睨み付けた。みんなはひとしきり笑った後、おもむろに立ち上がり、服についた砂埃を払い落とした。
「真っ直ぐ戻る気にもなれないし、これから四人で飲みに行くか」
「部室のみんなと連絡とらなくていいんですか? 今頃心配してるんじゃ」
「いいよいいよ。あいつらにも少しぐらい心配させないと、割に合わない」
 悪戯っぽく微笑む。何か、忠志さんと秘密を共有しているみたいでワクワクした気持ちになった。
「了解」
「飲みましょう、飲みましょう」
「酒飲むぞー」
 疲労のせいで力の入らない膝を誤魔化しつつ、早足で近くの居酒屋を目指す。目に見えないサークル内の思惑を気にすることもなく、些細な出来事をいちいち深読みしてしまう自分自身に苛つくこともなく、久しぶりに美味しいビールが飲めそうだった。肝試しが始まるまでのもやもやした気持ちは、コインと一緒に理学館の前に落としてきてしまったみたいだった。


 
 


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