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西荻窪〜アンティークの街〜


 それは、芝居でも見に行こうと思って中央線に乗っている間の出来事だった。日曜日だったので、快速電車が停まる駅は平日よりも少ない。吉祥寺を発つと、次の停車駅は西荻窪駅を飛ばして荻窪駅ということになる。
「?」
 ちょうど西荻窪のホーム横を通り過ぎているときに、私の右足がずしんと重くなった。足がつったというよりも、痺れたと言ったほうが感覚的には近い。
 しばらく経てば直るかな、と思っていたけど、目的地だった荻窪駅で降りてからも痺れは全然良くならない。それどころかますます悪化している。まるで足の裏が磁石で地面に貼りついたみたいに、上手く歩けない。
 鉛を引きずるようにのろのろと改札口を目指したけれど、あまりの重さに途中でギブアップした。尋常じゃない。とりあえずホームの自販機でジュースを買い、ベンチに座って一休みすることにした。
 靴下の上からふくらはぎを撫でてみる。触覚は普通にあるみたいだ。ただ、足首のちょっと上のあたりに妙な凹凸があった。不審に思って靴下を脱いでみると、その部分には目のようなものが二個、鼻のようなものと口のようなものが一個ずつ……《顔》、だった。漫画で人面瘡というものの存在は知っていたけど、実物を見るのは初めてだ。
 《顔》は、私と目が合うと唇の端をぐにゃりと曲げた。アキレス腱が突っ張ったような変な感じだ。続いて目を細める。えびす様みたいな表情だ。
「うわ、笑った」
「よ、姉ちゃん」
「うわ、喋った」
「そんなん、いちいち実況せんでええやん」
「しかもなぜ関西弁」
「文句あっか」
 私と《顔》は、しばしにらみ合う。その間に頑張って思考の整理をした。結局のところ、言いたいことはただ一つというわけで。
「ええと、つまりね、出て行ってもらえるかな」
「なんでやねん」
「当然でしょ。あんたがいると歩きづらくて困るの。しかも、こんな気持ち悪いもんがついてたら、お嫁に行けなくなるじゃない」
「嫁入りの心配は、せめて彼氏ができてからにせえや」
「ぐっ」
 こいつ、なかなか手ごわい。しかし、ここで妥協するわけにはいかない。これから一生、人面瘡と一緒に人生を送らなきゃいけないなんて絶対に嫌だ。
「とにかく、近いうちに必ず出て行ってもらいますからね」
「悪徳不動産屋みたいやな」
 プラットホームの間に、私が降りた次の電車が滑り込んできた。ドアが開き、数人が降りてくる。あわてて靴下を上げて《顔》を隠した。そして、のそりのそりとびっこを引きながら改札口を目指した。こういう時ってどうすればいいのだろう。少なくとも、今日の演劇鑑賞は中止だ。病院で診てもらうべきなのか、それともお払いでもしてもらったほうがいいのか。
 と、後ろからポンと肩を叩かれた。
「お嬢さん、お嬢さん」
 今度は何だよ、と思ったら、話し掛けてきたのは初老の男性だった。
「お嬢さん、ニシオギーに罹ってますな」
「え?」
「右足を引きずっているじゃろ。それはニシオギーという病気じゃ。早く治療しないと命に関わるぞ」
「は?」
 足元がむずむずする。《顔》が何か喋ろうとしているに違いない。
「なんやねんこの糞じじい。いらんことを吹き込んだらあかんがな」
「あ、いえ、おじいさん、今のは私が言ったんじゃなくて」
「わかっとるわかっとる。それがニシオギーじゃ。わしも昔、罹ったことがあるからな」
「ど、どうやって直したんですか」
 少しだけ、おじいさんの言っている言葉が確からしく聞こえてきた。藁にもすがるような気持ちで答えを待つ。
「良い病院を知っているが、送ろうかい?」
「お願いします」
 私はおじいさんの杖を借りながら、なんとか改札を出た。駐車場まであと少し。力を振り絞って歩く。
「おい、姉ちゃん、そないなボケじじいのぬかすことをまともに受けるんやない。知らへん人の車に乗ったらあかんちゅうて小学生の時に習ろうたやろ。危ないで。ソープに売り飛ばされてボロカスになるまで働かされた上、腎臓だけ切り取られて捨てられても知らへんで」
 《顔》は往生際悪くぶつくさ言っているけれど、もう相手にするのは面倒くさいので無視することにした。車に乗り込んで、着いたのは西荻窪駅近くの小さな商店街だった。雰囲気の良いアンティークショップが数軒並んでいる。中でもひときわ古い佇まいで、ガラス細工の花瓶や食器がディスプレイされた店の中へ入っていった。
「いらっしゃいませ……ああ、ニシオギーですか。こちらへどうぞ」
 店主は私を一目見るなり、全てを了解したような表情で奥へ案内してくれた。
「じゃあわしは帰るから、あとはよろしく頼むぞ」
「ええ、任せてください」
 私はおじいさんに杖を返して、送ってもらったお礼を言った。
「さて、では始めましょうか」
 店主さんは、何やらキラキラ光る、ガラスを粉々に砕いたような粉を持ってきた。続いて、コップ一杯の水。この粉を飲めというのだろうか。
「やめとけや姉ちゃん、その粉はガラスやで。そないなもん飲んだら口を怪我するで。腹も壊すでぇ」
 《顔》はまだいろいろ叫んでる。確かにこれを口に入れるのはちょっと抵抗がある。万が一、本当にこれがただのガラスで、店主さんとさっきのおじいさんがグルになって私を騙そうとしていたとしたら、腹を壊すどころか命の危険に曝されることになる。
 しかし、これから一生《顔》に付きまとわれることを考えると、いちかばちかの賭けをしてみる価値もあると思った。就職活動だってもうすぐ始まるし、彼氏だって欲しいんだから。みんなの笑い者となって《顔》だけが話し相手なんて生活をするぐらいなら死んだほうがマシだ。
「なるべく一息で飲んで下さいね」
 店主さんにコップを渡される。私は言われたとおりに喉の奥に粉を流し込み、その後すぐに水を一気飲みした。
「うわ、こいつホンマに飲みやがった。後悔したかて知らへんで。死んじまうで。死んじま……うっ」
 《顔》は、突然苦痛の表情を浮かべ、口から透明な泡を吐き出した。三、四個の泡はすぐに合体して一つの泡となり、風船のように膨らんでいく。手のひらほどの大きさになると、先っぽに穴があき、根もとの方には棒状の柄のような形が出来てきた。いつの間にか、私の足から《顔》は完全に消え去り、その代わりに床には細長くてすらっとしたデザインのワイングラスが転がっていた。心配だったお腹の具合だけど、今のところ何でもない。
「ほほう。これはなかなか上物ですね」
 店主さんは、ワイングラスを手にとってしげしげと眺めた。
「どういうことなんですか?」
「念、ですよ」
「?」
「アンティークには必ず念が宿っているんです。長い月日を経て、使っていた人の心や土地の心が染み付いている」
「はあ、それは分かるような気もしますが」
「ところで、この街、西荻窪はアンティークショップ街で有名でしょう。日本中の念がこの街に集まっているというわけです。しかし、西荻窪は狭すぎる。こんな小さな街に押し込められたら、念のほうも窮屈みたいで、時々外に逃げ出そうとする奴がいるんですよ」
 それが、あの《顔》だったのだろうか。アンティークの魂にしては、やけに品のない野郎だったのだけど。街の外に逃げ出したいと思っている念にとって、真っ直ぐな線路の上を走り抜ける中央線が魅力的に見えるのも無理がない。むしろ格好の手段だろう。よりにもよって、乗客だった私の足の中にさえ入り込まなければ。
「適当な家具とか食器とかに取り憑いてくれるなら、多少古ぼけて見えるようになるだけで実害がないのですが、人に取り憑くとちょっと厄介でしてね。ああ、治療代はけっこうです。このワイングラス、なかなか高く売れると思うので」
「いくらですか」
「え?」
「それ、買いたいのですが」
「正気ですか」
「はい、何ていうか、記念に取っておきたいんです」
「分かりました。二万、と言いたいところですが、一万にまけますよ」
 財布を見てみると、ギリギリ一万円入っていた。それを渡すと、店主さんはグラスをさっと緩衝剤にくるみ、紙袋に入れてくれた。
「お買いあげありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
 ドアを閉めて、一ブロックほど歩くと、人気のない路地に入る。そこで、さっきの包みから中身を取り出し、柄を持ったまま壁に叩きつけた。
 ごん、と鈍い音が腕に伝わってくる。一回では割れなかった。強化ガラスで出来ているのかもしれない。二回目は深呼吸して気負いを入れたあと、コンクリートに向かって力一杯投げつけた。
 今度は成功だ。バシャンという大きな音が響き、その瞬間に粉々になった。
 やがて一つ一つの欠片から無数の黒い影のようなものが飛び出し、空中で合体した。影は挨拶をするように私の周りを一周すると、遠くの高架を走るオレンジ色の中央線の上に、ものすごい早さで飛び乗ったのだった。


 


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