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 にきび

 いまいちすっきりしない目覚めだった。原因にはうすうす気がついている。今日は、彼女が部屋に遊びに来る日なのだ。彼女とは、いわゆる友達以上恋人未満という奴で、かれこれ十ヶ月くらいこんな中途半端な関係が続いている。と言っても別に、家に呼んだのは今日が初めてというわけではない。美術館やレストランに二人で行くことはよくあるけれど、今日のようにバイトの給料の振り込み前の日で財布が悲劇的に軽いなどという時は、街でお金を使うよりも部屋で本を読んだりおしゃべりをしたりしてまったりと一日を過ごすことが定番になっていた。しかし、最近どうも彼女が来る日に限って著しく目覚めが悪い。別に、彼女が家に来るのがいやというわけではないのに。しかも今日は、いつもの目覚めの悪さに加えて更に体の調子までおかしいような気がした。
 なぜ今日はこんなに体に違和感を感じるのかは、やがて判った。顔を洗おうと思って洗面所に行って、鏡を見た時、僕は唖然とした。僕の顔は全面、にきびのような赤いぽつぽつで覆い尽くされていたのだ。昨日の夜眠る時までは至って普通の肌だったのに、ちょっとこれは尋常ではないだろうというくらい、すさまじい数のにきびだった。確かにこれではすっきりと目覚めるだなんて到底無理な話だ。
 僕は、洗面所にぶら下げてある時計をちらっと見た。この時間ではもう彼女は家を出てしまっただろう。でも、こんな顔を彼女に見られてしまうことは避けたかった。時間は僅かしかないが、その間に出来ることだけでもどうにかしなくては、と思った。
 鏡をよく見ると、にきび密集地帯とそうでない部分の境目は、不気味なほどはっきりしていた。端の方はちょうどはがしかけのバンドエイドのように、皮膚から浮かび上がっていた。僕は、試しに、その部分の皮膚をつかんで、一センチくらい剥がしてみた。それはかえって意外なほどにすんなりと、剥がれたようだった。赤くてぷるぷるしたにきびの皮が、僕の指の動きにあわせてゆらゆらと揺れていた。痛みは全くなかった。そのままの指で、顔全体のにきびを剥がした。厚さ1ミリ近くある、赤くてぼこぼこしている僕の顔の皮膚は、今や完全に剥がされて、洗面所のゴミ箱の中に放り込まれた。
 僕は得心で、もう一度鏡を覗き込んだ。僕のにきびは、跡形なく剥がされて、顔の皮膚は元通りになっているはずだった。しかし、その考えは甘かったみたいだ。僕の顔は、はっきり言ってしまえば先刻と全く変わらなかった。先刻と同じように隙間もなくにきびに覆われている。端の方が、バンドエイドのように剥がれかかっていることまで同じだった。
 僕は少し考えて、やはりもう一度剥がしてみた。僕のにきびは、今回も1ミリくらいの厚さで、痛みもなく剥がれた。
 恐る恐る、鏡を覗いた。予想通りの結果だった。僕のにきびは一向に良くなっていない。剥がす前と全く同じ状態だった。
 僕はやけになって、もう一度にきびを剥がした。怖いほどすんなりと剥がれる。洗面所のゴミ箱には、3枚の抜け殻が捨てられた。そして僕の顔は全く変わらない。僕はだんだん怖くなってきた。
 その時、玄関のチャイムが鳴った。彼女が来たのだ。 僕は、観念して、扉を開けた。
「おじゃまします。」
 彼女は、靴を綺麗に揃えてあがってきた。
「今日さ、ちょっとにきびがひどくって。」
 僕は、言い訳をするように言った。
 彼女は僕の顔をちらっと見ると、何気なく言った。
「にきびができたときはね、いじったら絶対駄目だってよ。にきびって、3回以上剥がした人は死んじゃうって話聞いたことあるから。」
「えっ。」
「どしたの?」
「いや、別に。」
「ひょっとして、マサ君、にきび、3回以上はがしちゃったわけじゃ、ないよね。」
 彼女は、冗談っぽく言った。僕が先刻までにきびを剥がしていたなんて、考えてもみないのだろう。こんな風にあり得ないことみたいな言い方をされたら、僕も本当のことを相談するなんて出来ない。
「ま、まさか、そんなことしてないよ、うっ。」
 突然、僕の背中を寒気がおそった。普通の、風邪をひいた時のような寒気ではない。生まれて初めての感触だった。僕は幽霊などは信じない主義だが、幽霊にとりつかれたとでも言うしかないような、痛いくらいの寒気だった。僕は、突然床に仰向けに倒れた。
「どうしたの?」
 彼女は、不思議そうに僕をのぞき込んだ。
 背中の感覚は、断続的に僕をおそい続け、しかも次第に激しくなってきた。 
「ねえ、ちょっと、しっかりしてよ。」
 やがて寒気は、激しくなるにつれてむしろ痛みに近くなってきた。
 彼女は、僕の肩をしっかりと抱いて、僕に何度も話しかけた。温かい手だった。本気で焦った表情をしているのが判った。僕のにきびで覆われた顔など気にもしていないみたいだった。
「何があったの?!」
 語尾が震えていた。僕は、何か言わなくてはと思った。でも、何を言えばいいのだろう。背中の痛みも限界に近くなっていた。
 僕は叫んだ。
「ぼ、」
「何?」
「僕と、つきあってください!!」
 僕には、その一瞬が、まるで何十分もあるかのように感じられた。
 そして、今まで映画のスクリーンのようだった視界の景色が、少し照れくさくて息苦しい日常に戻ってゆくと同時に、僕の背中の痛みがすうっとひいていくのが判った。
 しばらくの間、沈黙が続いていた。
「マサ君、顔。」
 彼女は優しく言った。
「え?」
「にきび、治ってるよ。」
「ほんと?」
 僕はあわてて、鏡を確かめに洗面所に行った。
 本当だった。あれほどひどかった僕のにきびは、跡もなく、完全に消えていたのだった。
 
 


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