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名のない人
 

 僕が乗った船は名のない人で溢れていた。乗員は全部で何人いるのかは分からない。百人はいると思うのだが、なにしろ名前がないから数えようがなかった。髪型も体型も一定ではなく、その日の気分で好きなように変えることができる。だから、前も見たような出で立ちの人を見かけたとしても、同一人物なのか偶然似ているだけの別の人なのか知る術もなかった。
 名前がないからと言って、特に困ることはない。むしろ良いことのほうが多い。食料もベッドもあり余っていたし、淋しいときは誰かが話し相手になってくれた。僕たちはみんな友達だった。仲間外れとか、派閥争いとか、その手の概念は存在しない。たまの言い争いもその場限りで終わり、ねちねちと長引くことは決してなかった。
 ある日、船の調子が悪くなった。エンジンの辺りから変な音がして一日中ガタガタ揺れている。
「自動運転を休止します。どなたか操縦室に修理に来て下さい」
 緊急放送が流れた。周りのみんなは顔を見合わせる。この船を守るためには誰かがやらなきゃいけない。面倒だなあという気持ちと義務感の間で心が揺れる。迷った末、好奇の視線を感じながらも立ち上がった。正直、楽園のような暮らしに若干の退屈を抱いていたのだ。試しに行ってみようと思った。
 操縦室に集まったのは、僕と「彼女」の2人だけだった。先に着いた彼女は修理を担当し、僕がその間の操縦を担当するようにと指示される。また、仕事をしている間だけ僕たちには名前が与えられると知らされてちょっと嬉しかった。名前を付けられることも、他人を名前で呼ぶことも初めての経験だ。この船の中で二人だけが固有名詞を持てるのだと思うと、なんだか偉くなったような不思議な気がした。
「修理するほうは『修理人』、操縦するほうは『操縦人』」
 ディスプレイの文字を見て、頭の中で何度も「しゅうりにん」「そうじゅうにん」と繰り返した。これが僕たちの「名前」なのだ。しゅうりにん、そうじゅうにん、しゅうりにん、しゅうりにん……。
 何度も呟いているうちに、妙な感情がわき上がってきた。ついさっきまでは何とも思っていなかった修理人の存在が急に大きく膨らんで、胸が押しつぶされそうになる。修理人という言葉の響きや、発音するときに舌と歯が擦れ合う感触は、麻薬のように僕を捕らえて離さなかった。なんて素敵な名前なんだろう。そして……顔を上げるとそこにはすらっとした存在感のある女性が佇んでいる……なんて素敵な人なのだろう。
 感慨に耽っている間もなく、アナウンスの指示に従って修理が始まった。僕も画面に映しだされるマニュアルを見ながら操縦する。難しくはないけど、けっこう手順が面倒だ。しかし、苦にはならなかった。なぜなら修理人が居たからだ。作業にあけくれる修理人の姿は美しかった。しなやかな立ち振る舞いや堂々とした話し方が僕を虜にした。こんな美しい人が今まで同じ船に乗っていたなんで、どうして気付かなかったのだろう。ちらちらと盗み見てばかりいたせいで、何度か舵を切り損ないそうになったことは内緒だ。彼女の傍らで僕は、しばし夢のような時間を過ごすことが出来た。
 やがて、別れの日がやってきた。修理は終わり、船は再び自動運転モードで動き始めた。修理人も僕も操縦室から出て、名のない人に戻らなくてはいけなくなったのだ。
「また会えるかな」
「また会えるよ。同じ船に乗っているんだから」
 彼女は微笑んだ。そうだね、とうなずく。部屋を出た彼女は、あっという間に人の波にのみこまれて見えなくなった。僕も続いて、名のない人たちの群がるいつもの広場へと帰ることにした。
 それからずっと、僕は彼女を捜していた。もう一度会って、気持ちを伝えたかったのだ。だけど、名前を失った彼女を他の人たちと見分けることはもはや出来なかった。あんなに輝いていて、他の誰とも違っていたはずなのに。きっと彼女も、もう僕を見分けることは出来ないのだろう。諦められずに、操縦室の前を通りかかる度に何度もドアを開けて中に人が居ないか確かめた。そしてその都度、一抹の望みは砕かれた。部屋に人影はなく、これ以上中に踏み込むなという警告ランプが点く。まるでランプが彼女を捜し出そうとする行為自体を警告しているかのようだった。
 二度と会うことはできないのだろうか。
 いや、今でも毎日すれ違うたくさんの名のない人の中に、彼女はいるのだろう。また会えるよ、と確かに言ったのだから。例えば十分前に隣を歩いていた人が、修理人だったのかもしれない。それとも、五分前に向かいの席に座っていた人だったのかもしれない。彼女は消えてしまったのではなく、いつでも僕の側にいるのだ。それが、名のない人に恋をした結末だった。
 


 
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