back  home

 

XYZ
 

 僕は一体何をしていたのだろうか。頭の上には天井、足の下には床、そして前後左右にはコンクリートの壁。机が一つ、テレビが一つ、棚のような四角い箱が一つ、ドアが一つ、ダストシュート一つ、窓はなし。僕はどうしてこんな建物の中にいるのだろう。いや、そもそも僕は何者なのだろうか。名前、誕生日、出身地、何一つ思い出せない。最近起こった出来事も、知り合いの人間の顔も、一切覚えていない。僕には過去が全く刻まれていないのだった。
 身体の内側からぽっかりと穴のあいた暗闇のような不安感が押し寄せてきた。そして自分は穴の入り口で、朽ちた細い木を足場にして立っている。ほんの少し揺れて重心が移っただけでも折れて遙か下の地上へ真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。気分を落ち着かせるために、まずは棚に向かい、中身を片っ端から取り出した。最初の目標は、自分の正体に関するヒントを見つけることだ。
 棚の中にはいろいろなものが入っていた。一段目には食器、二段目には衣類、三段目にはタオルとシーツ。どれも新品で、必要最低限のシンプルなデザインだった。これで、当分の間は替えの服と快適な寝具には困らないということが分かった。しかし、僕に関する記憶を引き出すきっかけになるわけではない。
 次に、机を調べてみた。机の中には、筆記用具、工具、小説の本が入っていた。どれも見覚えがない。試しに本を開いてみたが、やはり読んだことのないストーリーだった。しかも、ぐんぐんと引っ張っていく文章でけっこう面白い。暇つぶしにも不自由しないで済むとはありがたい。だんだん、最初の目標などどうでも良くなってきた。この本のストーリーの続きのほうがよっぽど気になる。
 最も重要なのは過去や身元ではなく、いかにこれから楽しく暮らせるか、ということだ。食事はどうなっているのだろう。そして、トイレはどこに? そして、ここにある本を読み終わってしまったら、次の本をもらえるのだろうか。もらえないとしたら、ちょっとずつ大切に読んでいかなければならない。名前や誕生日を調べるのは二の次でいいじゃないか。
 ドアのノブを捻ってみる。しかし、外から鍵がかけられているらしく、がちゃがちゃ音がするだけで開く気配がない。
「おおい、誰か」
 大声で叫んでみた。近くに人がいるはずだ。少なくとも、この部屋の鍵を閉めた誰かが。
 案の定、しばらくするとドアがかちりと開いて、白衣を着た見知らぬ男が入ってきた。
「ご用でしょうか」
 僕はその男に、さきほどの疑問を矢継ぎ早に質問した。彼によると、ご飯は一日三回きちんと運んできてくれるらしい。次の食事は三時間後。専門のシェフが作っているから味は保証する、ということだ。本は読み終わったら補充してくれる。そして用を足す時は、ベッドの下にある携帯用使い捨てトイレを使って欲しいということだった。これはいささか不本意だが、すぐにダストシュートに捨ててしまえばいいし、まあ一つぐらいは譲歩してやろう。
 また男は、テレビのリモコンを渡してくれた。タッチパネル式の操作で電源を入れたり音量を調節したりすることができる。嬉しいことに、これから先の番組表もきっかり一週間分見ることが出来る。今は午後三時だから一週間後の午後三時まで、四時になったら一週間後の四時まで、終わった番組はすぐに消えて、同時に新しい番組が追加されるという合理的な仕組みだ。ざっと見てみたところ、明後日の午後八時からの探偵ドラマが面白そうだった。楽しみになってきた。
 やがて夕飯が運ばれてくる。今日は中華料理のシェフが担当で、大ぶりのフカヒレが入ったスープ、エビと空豆の炒め物、焼きそば、そして滑らかな舌ざわりの杏仁豆腐がついていた。確かになかなかの味だった。明日はフランス料理のシェフが担当だそうだ。これまた楽しみだ。
 明日は早起きして部屋の整理をしよう。とりあえず、今すぐに使うものとそうでないものに分けて、使わないものは一ヶ所にまとめてしまったほうが後々のためにも便利だ。あまり眠くはなかったけれど、目覚し時計を七時にセットして、目を閉じた。ああ、そういえば風呂はどうなっているのかも聞かなくては。今日はもう遅いから、明日あの男が来たら、真っ先に確認してみなくてはいけない。

 目覚めると同時に思い出した。そうだ、僕の名前は木下祐也だ。生まれてから二十五年、ずっと呼ばれ続けていた名前なのに、どうして昨日は思い出せなかったのだろう。どうして思い出そうという努力ですら途中から放棄してしまったのだろう。
 この部屋の家具だって、半分は見知ったものじゃないか。この机、高校に入ったときに買ってもらったものだ。引き出しの裏に、当時好きだったクラスメイトの名前が彫ってある。あの恋は、結局叶わなかった。彼女が好きだったのは僕の親友の明彦で、僕にやたら話しかけてきてくれたのは、明彦に近づくためだったのだ。その事実に気付かずに、いや気付こうとせずに、勝手に勘違いして舞い上がっていた。そして何回も電話したり、映画に誘ったりしつこく追い回してしまい、結果的には嫌われてしまった。高校卒業後、僕だけ地方の大学に行ってしまったので、二人とは疎遠になってしまい、同窓会で一回会ったきりだった。今ごろどうしているのだろう。
 ああ、この本、橘一郎の小説じゃないか。ドロドロした心理描写が最高なんだ。中学三年生の時に初めて読んで、ハマりまくった記憶がある。受験勉強の気分転換のつもりだったのに、全巻揃えてしまって、何度も親に捨てられそうになったっけ。登場人物の台詞も殆ど正確に覚えている。何十回も読み返したのだから当然だ。あの頃の僕にとっては、人生が変わったと言っていいくらいの衝撃だったのだ。
 工具セットは、小学校の図画工作の時間に使ったものだ。ほら、下手くそなひらがなで「きのしたゆうや」と名前が書いてある。この木片は、確か小学校の近くの公園に立てる、「ゴミを捨てるな」って趣旨の看板を作った時の奴だ。クラスで一番良くできた看板を採用する、と先生は言っていた。他の班がみんなきちんと製材された木を使っていたところ、うちの班だけは両端に木の皮が残った、いびつな板を使ったのだ。このアイディアは大成功で、緑がいっぱいの公園の風景に似合った、他の班とは違う個性的な看板が出来上がった。先生もほめてくれて、採用決定かしら、と言っていた。ところが、調子に乗った同じ班の友人が、僕が止めるのも聞かずにカラフルな絵の具で染め始めたのだった。ピカソ風、とか言ってぐちゃぐちゃに染められてしまった。そのせいで看板は実際に使うに耐えるものではなくなってしまい、他の班の作ったシンプルな作品が採用されたのだった。あの時は悔しかったよなあ。
 懐かしい品物が続々と出てくるのを眺めていると、ドアが開き、白衣を着た男が入ってきた。昨日と同じ男だ。
「お食事です」
 焼きたてのパンに、赤ワインのソースがかかった雛鳥のソテーが運ばれてきた。かなり本格的で美味しかった。そういえば、昨日食べた中華料理も美味しかった。特に、あのプリプリしたエビの味は忘れられない。おとといの夜は何だったっけ。そうだ、回転寿司を食べながら一杯飲んだんだった。あの回転寿司屋は、安いわりに新鮮なネタを使っているのでお気に入りなのだ。
 夕飯が終わると、男は食器と引き換えにテレビのリモコンを置いて去っていった。リモコンの裏の液晶には、過去一週間分のテレビ番組表が映し出されていたので、見たことのある番組を探してみた。四日前の「ベストミュージック」、これは覚えがある。僕が贔屓にしているアイドルグループ「スキップ」が出演していたんだ。メインボーカルのユキナちゃんがいつもと違ってセクシーな衣装を着ていたので、ドキドキしながら見たのだった。それから、五日前のサッカー中継。これは会社で見ていた。部長が好きなチームの決勝戦だったから、その時間は仕事をサボることが許されたのだ。
 時計が十二時を告げた。今日は有意義な一日だったなあ、と思いながら僕は眠りについた。

 戻ってくる意識に押されて目を開けたとき、そこに確かにあったのは正体のよくわからない喪失感だけだった。自分が誰なのか、ここはどこなのかも分からない。別に知りたいとも思わなかった。何もやる気が起きないし、そのことに対して危機感も感じない。ベッドの上に座り込んだまましばらくボーっとしていた。
 やがて、白衣を着た男が部屋に入ってきた。今日から俺が君の世話をするから心配しなくていいよ、と言う。元から心配なんてしていないのに。腹は減っていないか、と聞かれたので、よく分からないと答えた。しばらくすると、食事が運ばれてきた。ドアの前に置かれたお盆を漠然と眺めていると、男は不思議そうになぜ食べないのか、体調が悪いのかと言う。別に、と答えると、男は皿をこちらに引き寄せて、スプーンを握らせた。僕はスプーンを持った手を持て余すように皿の中に突っ込み、かき回し、口の中に入れてみる。意外と美味しかった。やはり空腹だったのだろうか。料理はあっという間に全部胃の中に消えてしまった。
 男は食べ終わった皿を持って部屋の外に消えた。僕はそのまま、さっきと同じようにベッドの上でボーっとしていた。そのうち男は、テレビのリモコンのようなものを持って戻ってきた。そして、テレビに向かってパチリとボタンを押す。映像と音楽が流れ出した。女優の顔がアップで映り、犯人がどうの、アリバイがどうの、と喋りだす。どうやら何かのドラマらしい。この前お前が見たがっていた番組だよ、と言われたが、そんなのは知らない。
 男は、今やっている番組が知りたかったらここを見ればいい、とリモコンの裏を指差す。そこにはたった一行、「木曜探偵ドラマ第4回・密室の鍵の行方」と表示されていた。そういうタイトルのドラマなのか。特に興味はなかったけど、他にすることもないのでブラウン管を見つづけていた。ストーリーはいまいちよく分からなかったけど、緊迫感のある雰囲気を楽しむことは出来た。
 そのうちに、僕の下半身がそわそわしてきた。ひざを揺らしながら不快感を我慢していると、トイレに行きたいのか、と尋ねられる。そうなのかもしれないけど、そうでないのかもしれない。よく分からないと答えると、ベッドの下から携帯用の使い捨て便器を引き出して、自分は後ろを向いているからこれを使えと言われた。とりあえず言われるままに用を足した。けっこう溜まっていたらしくて勢い良く小便が出てきた。終わると、男がそれをダストシュートに放り込んでくれた。
 テレビは次の番組が始まっていた。男は、今度の番組はこれだよ、とリモコンの裏を見せてくれた。そこには一行、「世界遺跡紀行」と書かれてあった。正直どうでもよかったが、他にすることもないのでそのまま眺めていた。単調な映像を見ながら解説を聞いていると、だんだん眠くなってきて、あくびが止まらなくなった。耐えられなくなって目を閉じる。しばらくの間は音声だけ聞こえていたが、やがてその音も小さくなって、ついには眠りに落ちていた。

 ベッドに横たわったまま天井の凹凸を眺めていた。いつ起きたのか分からない。いつ眠ったのかも覚えていない。無論、自分の名前など分かるはずがない。
 部屋には僕以外に誰も居なかった。これからも誰も来ないだろう。特に不自由とも思わない。正確に言えば、自由とか不自由とか言う概念は自分には関係ないものになっていた。
 何もすることがない。何かをしたいとも思わない。もう十分すぎるほど睡眠をとってしまったので、目をつぶっても眠れない。だから目を開けたまま、何も考えず、ただ天井を眺めていた。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。ぐるるると胃が動く音がした。食べ物を欲しているのだ。しかし、僕にはどうすることも出来ない。胃液がじわじわとしみ出す不快感を我慢して、そのまま横たわっているだけだ。だんだん、喉の粘膜も渇いて唾がねとねとしてくる。気持ち悪い感覚だけど、どうすればこの嫌な感じから解放されるのか知らなかった。知ろうとも思わなかった。
 不快感の押し寄せる間隔はどんどん狭くなる。僕は目をつぶって忘れようとした。今度はうとうとすることができた。何度も現実に引き戻され、そのたびに身体全体が苦痛に襲われるけれど、そのたびに僕を眠りに引きずり込もうとする力も強くなるので、意識が戻る時間が増えるわけではない。生きているのか死んでいるのか判別できないほど意識がぼやけていた。身体がどこか別世界を飛んでいるように軽い。目を開けても、全ての輪郭がぼやけて色の塊にしか見えない。そこにあるのが天井なのか壁なのか敷布団なのかも見分けがつかない。
 次に意識が戻ってきたときは、下半身が濡れて冷たくなっていた。寝ている間に失禁してしまったのだ。さすがに少し気持ちが悪かったので、ベッドから這い出て床に下りた。しかし、それ以上どうすればいいのか分からない。手の届くところにあるのはテレビのリモコンだけだ。適当なボタンを押してみたが、何も変わらない。リモコンの裏は液晶になっていたが、画面は真っ白で何も表示されていなかった。
 そのまま目を閉じる。喉の渇きと空腹に加えて、寒さまでが僕を圧迫する。寝返りを打つ気力さえなくなってしまった。湿ったズボンは次第につんとした異臭を発するようになったけれど、もはやそれが不快だとも思わなくなってきた。光と影、音と静、暑さと寒さ、僕にとって意味のある区別がどんどん少なくなってくる。
 次に目を閉じたら、それで最後かもしれない、もう二度と目が覚めることはない、と第六感が告げた。ふわふわと快感にも近い感覚が僕を闇の世界へと誘う。このまま、この波に全身を預けてしまおうか。考える余裕もなく、自然と流れに流されて、思考の糸がふつりふつりと切れていく。音も光も皮膚の感覚も、消え入りそうに弱くなってきた。ああ、これで全てが終わりなんだ。嬉しくもないし、悲しくもない。ただ、意識の最後の一滴が蒸発する瞬間を、黙って見守るのみだった。
 その時、どこか遠くでぴとっと水滴が弾け落ちる音がした。聞こえるか聞こえないか、いや聞きとることが不可能なほど何重もの壁を隔てた遠くから響いてくる小さな音だったけれど、僕の耳にははっきりと感じ取ることができた。そして、その一音が僕の何かを狂わせたのだ。
 立ち上がってドアに手をかける。と同時に激しい目まいに襲われる。視界に黒い星がちかちかして、頭がキーンと重くなる。長い間何も口にしていなかったせいで体力が激しく消耗しているのだ。足の筋肉も思ったように力が入らなくてふらふらする。
「うぉおおおおおおおお」
 雄たけびをあげて、体勢を立て直した。ドアを勢い良く開ける。と、外にいた男が慌てて僕の前に立ちはだかって進ませまいとした。止められるものなら止めてみやがれ。足元の工具箱から飛び出していた金槌を拾い上げ、力いっぱいそいつの頭を叩いてやる。とたんにそいつの手足から力が抜け、ぐったりと崩れるように倒れこんだ。
 僕は余力を振り絞り、全速力で走った。さっき水の音がした辺りへと。道は何度も分岐していたけれど、不思議とどちらに行けばいいのか迷うことはなかった。右へ、左へ、自然と足が動く。幾度か曲がった後、ついに水道が備え付けられた小さな部屋にたどり着いた。
 蛇口を捻ると勢い良く水が出てきた。直接口をつけて、思う存分冷たい水を流し込んだ。自分が誰なのか分からない。これからどうすれば良いのかも分からないし、今が何時なのかも知らないけど、僕はこうして水を飲むことができるのだ。水の美味しさを感じることが出来るのだ。それはこの上もなく確かな衝動だった。
 
【FIN】
 
 


back  home