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高円寺〜古本屋の匂い〜

 高円寺で降りたのは久しぶりだった。学生の頃は週に一度は古本屋めぐりをして、お気に入りの喫茶店「ネルケン」に駆け込み、何時間も滞在して読んでいたものだったが。さすがに最近はそんな無駄な時間を過ごせるゆとりはない。今日ここに来たのも、お得意先への営業のためだった。ちっとも変わらない街並みに何とも言えない酸っぱさを感じながらも、やっと硬さがとれてきた革の鞄を片手に帰路につく。
「あれ」
 見慣れない看板にふと足を止める。こんなところに古本屋なんてあったっけ。この辺りの古本屋は全て網羅していることが自慢だったのに。新しくオープンしたのだろうか。それにしては、随分年季の入った建物だ。
 僕の奥底に根付いている「高円寺精神」がむくむくとわき上がってくる。抗いがたい欲求に押されて足を一歩踏み出した。ちょっとぐらい道草してもいいだろう。ガラス戸を開けて中に入ってみる。すると、古本のかび臭いような懐かしいような、独特の匂いを纏った風に襲われた。
 風はあっという間に肺を満たし、僕は、激しいめまいを起こしてその場にしゃがみ込んだ。匂いはまるで毒ガスのように全身を駆けめぐり、一つ一つの細胞を浸食した。自分の鼓動の音が、聴診器をつけたみたいにはっきりと聞こえる。目をつぶって呼吸を整え、頭の中にぽっかりと空いた暗闇が自然と塞がれるのを待った。
 もう一度辺りを見回すと、空っぽの本棚が並んでいる様子が飛び込んできた。外からは普通の古本屋に見えたのに、店内には一冊の本も置いていない。店員もいない。奥のほうで黒猫が昼寝をしているだけの、閑散とした風景だ。
 やがて戸が開き、もう一人客が入ってきた。ベージュのスーツに派手めのネクタイをつけた、恐そうな雰囲気の男だった。店内を一通り見回してから、厳しい目つきでこっちに近づいてくる。
「おい、本が一冊もないじゃないか。どういうことなんだ」
 そんなこと僕に聞かれても困る。むしろこっちが聞きたいくらいだ。店員に聞いてください、と答えようとした。
 しかし次の瞬間、その答えは通用しないのだと気付いた。僕は片手にはたきを持って、何もない本棚を叩いていたところだったのだ。いつのまにか、この古本屋の主人になっていたのである。
「どういうことなんだよ。ええ?」
 男は、懐からピストルらしきものを取り出して、僕に突きつけた。
「ひっ」
 ぎょっとして反射的に手をあげる。
「説明してもらおうか」
 銃口を僕の胸に押しつけて、一歩一歩にじり寄ってくる。まだ死にたくはない。思わずこっちも一歩一歩下がる。店の人は他にいないのだろうか。客でもいい、誰か助けてくれる人は。しかし、店内は男と僕と完全に二人きりだった。とうとう店の一番奥の壁まで追いつめられた。
 もう逃げられない、と思った時、足元の黒猫があくびをしながら囁いた。
「ねえ、助かりたい?」
 当然だ。こんな不条理な死に方してたまるか。
「じゃあ教えてあげる。あんたはね、今、眠たいんだよ。眠たいなら眠ってしまえ。それが唯一にして最上の解決法だ。以上」
だって、この状況で眠れるわけないじゃないか。仮に眠れたとしても、この男に撃ち殺されて二度と目覚めないかもしれない。
「眠らなくたって撃ち殺されるさ」
 じゃあどうすれば。
「だから眠るのさ。ほら、さん、に、いち」
 ぜろ、という声とともに、猛烈な眠気が襲ってきた。
 まばたきを一つ。そして意識は闇の中へ。

「いらっしゃいませ」
 本棚にはたきをかけていた店の主人が、こちらを振り返った。
 古本の、かび臭いような懐かしいような、独特の匂いがする。
 棚を覗き込むと、好きだった作家の新刊が目に入った。手にとって小脇に抱え込む。書評で見かけてずっと読んでみたいと思っていた本。好きなイラストレイターが表紙を描いている本。僕の好みを知っているのだろうか、と疑いたくなるほど魅力的な本が並んでいる。読まなければいけない本がこんなに溜まっていたなんて、いったいどのくらいの間、本屋にご無沙汰していたのだろう。
 悩みに悩んで十冊まで厳選し、レジの前にどさっと置く。と、猫のような目をした黒服の主人がにやりと笑った。
 
 
 


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