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喫茶店
  
 OL風の二人組が会計を済まして出ていくと、その喫茶店の客は僕一人になった。ここはマスターが退職後の趣味でやっているような店で、お世辞にもはやっているいうわけではないので、客が僕だけになることは決して珍しくはない。僕はむしろこの、”あまりはやってない感じ”が無性に好きだった。何か行き詰まることがあるたびにここに来て、意味もなく何時間もねばることが最近の習慣になっていた。とりあえず、他の客達のおしゃべりを聞くという暇つぶし手段を奪われた者としては、腕時計の秒針の針の動きがいかにのろいのかを再認識しながら、残りあと半分のコーヒーの時間配分を組み立て始めるほかなかった。
「お客様、コーヒーのお代わりはいかがでしょうか。」
「えっ。」
 僕は驚いた。この喫茶店で自称常連となって半年近くなるけれど、コーヒーのお代わりを勧められたのは今日が初めてだった。しかも、今の声はマスターにしては異様に若かったような気がする。この小さな店にバイトなんていなかったはずなのに、と思いながら顔を上げると、そこには、僕と同い年ぐらいの少年が、マスターとおそろいのエプロンを着て立っていた。
「ええと、じゃあ、お願いします。」
 不思議に思いながらもそう言うと、少年は一礼してキッチンに戻り、コーヒーメーカーから取り外したサーバーを持ってきた。慣れた手つきでコーヒーを僕のカップに継ぎ足す。ふと気が付くと、いつもの仏頂面のマスターはいつの間にかどこにも見当たらなくなっていた。
「どうぞごゆっくり。」
 少年はてきぱきと僕のテーブルの上を拭きなおし、新しい良い香りのコーヒーで満たされたカップを置いた。
「あの、ここでバイトしてるんですか。」
「まあ、そういうものです。」
 少年は、含みのある笑みを浮かべた。そして僕の目を見て妙なことを聞いた。
「お客様、鍵をお持ちですよね。」
「鍵、ですか?」
「はい。お客様のシャツのポケットの中に、青いキーホルダーの付いた鍵が入っていると思うのですが。」
「はあ。」
 僕は、不審に思いながらも、シャツのポケットを探ってみた。僕の記憶が正しければ、ポケットの中には昨日昼御飯を買ったコンビニのレシートぐらいしか入っていないはずである。しかし、くしゃくしゃになったレシートの奥から表面が錆びた小さな鍵が出てきた。見なれない鍵だったが、少年の言ったとおり、それには海のような青色のキーホルダーが付いていた。
「これ?」
「そうです。これです。ずっとずっと前から探していたんですよ。やっぱりお客様が持っていたんですね。」
 少年は、僕から鍵を受け取るやいなや子供みたいに小走りで店のドアの前へ近づき、鍵穴にその鍵を差し込んだ。かちりという冷たい金属の音がした。鍵はぴったり一番奥まで、鍵穴に入った。
「じゃ、いきますよ。」
 少年はゆっくりと鍵をまわした。すると、どこからかブルルと車のエンジンがかかるような音がした。席に座っている僕にも、エンジンの振動が伝わっていた。やがて、喫茶店全体はがたんがたんと音をたて、今度はまるで路面電車のように国道を走りだした。
「すげえ。」
 僕は、窓の外を流れる景色を見ると、思わず叫んでしまった。喫茶店は今、まさに一両の電車だった。電車は街のメインストリートの商店街を走り抜け、住宅街を走り抜けた。
「凄いでしょう。」
 少年は、ドアの前で運転をしながら、本当に心の底からうれしそうな表情をしていた。印象的な表情をする人だと思った。少年は、一つ一つの掌の感覚をかみ締めながら操作をしているように見えた。
 5分ぐらい走っただろうか。電車は早くも住宅街を過ぎて、畑の中を走っていた。僕は、いやな予感がしていた。このままこの道を走っていれば、海に面した崖に突き当たるはずだった。確か予定では、来年には何百メートルか先にある埋め立て地と橋でつながるはずだったらしいが、資金不足か何かで未だに工事竣工のめどが立っていないという話を聞いたことがある。
 電車は、立ち入り禁止と書かれた派手な看板を無視して、崖に続く道路に入っていった。少年は、看板に気づいているのかいないのか、電車を止めようという気は全くないようだった。前方にはそろそろぼんやりと霞んだ水平線のような風景が見えてきた。
「ば、馬鹿。止めろよ。」
 僕は慌てて少年の隣に駆け寄った。少年は、僕のほうを一瞥すると、また運転に戻った。僕は理解した。彼は崖に気づいていないわけではないのだ。彼は間違いなく、自分から電車を崖に飛び込ませようとしているのだ。
「おい、止めろって。」
 僕は少年の肩を何度も強く叩いた。しかし彼は、確信犯のような笑みを浮かべながら僕をあからさまに無視した。
「ブレーキどれだよ。こいつか?!」
 僕は、結構目立つのに今まで一度も使われていないペダルに目星をつけた。踏んでみようとして近づくと、少年は激しく抵抗した。このペダルがブレーキであるに違いない。今僕は、もしかしたらこれまでの人生の中で一番力を振り絞っていた。少年は、小柄な体からは想像もできないような力で僕を運転席から追い出そうとした。しかし、まもなく僕はドアの前から動くまいとする少年を振り切ることに成功した。そして、反動で倒れた少年を横目に、力一杯ブレーキを踏んだ。
 電車はスピードダウンをしながらも、ずるずると崖の方に近づいていった。もう遅かったかもしれない。どうか間に合ってくれ、と祈りながら、全身全霊をかけて踏みつづけた。少年は、息を切らせながら、呆然としたような顔で僕の動作を眺めていた。
 崖まであと二、三メートル。もう駄目だと思って目を閉じかけたところで、電車は、ゆっくりと止まった。
 僕は、胸を撫でおろした。自分の心臓が急にばくばく打ちだしたのが分かった。
 気が付くと、窓の外の風景は元通りの古い商店街になっていた。いつもの席に座った僕の目の前には、カップに半分くらい残っているコーヒーが置かれていた。
 キッチンでは、いつもの結構年のいったマスターがコーヒーカップを洗っているのが見えた。さっきまで僕の隣で運転していた少年は、どこにも見当たらなくなっていた。
 否、僕は、判ってしまった。マスターの仏頂面の奥に、あの表情豊かな少年の面影があることを。僕は、なんとなく嬉しかった。でも、何も気づかなかった振りをした。そして、とりあえず残り半分のコーヒーを楽しむことにした。
 
 


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