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渇き     

 沙漠の空は、不思議なことに、いつ見た時も薄灰色に曇っていた。ここには昼夜もなければ、季節もなかった。砂を運ぶ風の強さも、微妙な空の明るさも、変化することはなかった。それは今日も例外ではない。雲は怖いほど均等で、視界の空の現実感を危うくしていた。
 僕はいつものように、この広大な砂沙漠の上を一人、ゆっくりと歩いていた。四方どこを見ても、果てしなく広大な沙漠が広がっていた。一体いつ頃からこうやって歩いていたのだろうか。記憶に定かではない。ただ、昨日や今日に始まったことではないということだけははっきりしていた。 
 沙漠を歩き続けることは、僕にとって積極的な快とは言わないまでも、決して不快というわけではなかった。常に空が雲に覆われているおかげもあって、気温は暑くも寒くもなかった。今着ているTシャツとジーパンという格好でちょうど良いくらいだ。乾燥した風が皮膚を打ち付ける感覚も、案外悪いものではなかった。服の上をさらさらと砂が流れてゆく感触は、優しく僕を包み込んだ。僕を沙漠と感覚的に一体化させるものはすべて快く受け入れられた。
 たぶん、この場所は永遠にこのままであり続けるのだろう。そうであってほしかった。すっかり水分を失った僕の肌に、風に乗って舞い上がった砂が擦れ合う音が柔らかく響いて、染み込んでくるのが判った。
 僕は、思うに、、僕としての記憶を失いかけていた。そしてそのまま、気が遠くなるほどの長い間、ここを歩き続けた。

 ある日、僕は部室の古いソファーに腰掛けていた。いつも通りの見慣れた部室である。壁掛けの時計を見上げると、朝の8時を指していた。早い時間だけあって、他の部員はまだ来ていないみたいだった。僕は背中をソファーに寄りかからせながら、何も考えずに、しばらく視線を宙に泳がせていた。
 どこからか、微かではあるものの、砂嵐のような音が響いていた。優しくて、理由もなく懐かしさを感じさせる音だった。その響きは、常識的に考えれば窓の外から流れて来ている音と考えるしかないのだろう。しかし、まさかと言われるかもしれないけれど、聴きようによってはまた、僕の革の通学鞄の中から響いてくるようにも感じられた。しかもその仮定は、僕にとって全く自然で、しかも魅力的なことに思えた。
「おはようございまあす。」
 元気な声とともにドアががらっと開かれた。入ってきたのは部長かつクラスメイトである中川洋子だった。僕と目が合うと、手を振って微笑みかけてくる。その可愛い笑顔に、思わず見とれてしまいそうになった。ちょっと焦った。今、僕の顔は赤くなっているに違いない。うろたえている自分を見られるのがひどく恥ずかしかった。僕はあわててその辺にあった雑誌を手に取り、顔を埋めた。
 中川洋子はそんな僕のことはお構いなしで、あたりまえのように僕の隣に腰掛けて、開いていたページをのぞき込んだ。
 彼女は意外そうに言った。
「バイク、好きなの?」
 話しかけられて初めて、今僕が手に取った雑誌がオートバイの専門誌であったことに気がついた。
「いや、そういう訳じゃないけど。」
「うん?」
「ただ、そこにあったから、何の雑誌だろうと思ってさ。」
「私、深川選手ってかっこいいと思ってるんだ。」
「ああ、最近話題になってるよね。」
 我ながら情けないほどぎこちない会話だと思う。僕は、気が張って仕方なかった。
 僕にとってあこがれの女性だった彼女に突然告白されたのは、2週間ほど前のことだ。その時のことを考えると今でも顔から火が出そうになる。僕はどんな風に返事をしたんだっけ?思い出したくもない。ろくな台詞の一つも言えなかったことだけは確かだ。
 僕は、雑誌を閉じた。時間を稼ぎたくて、出来る限りゆっくりと、その雑誌を机の上の本立ての中に差し込んだ。
 彼女は、そんな僕に向かって明るく言った。
「久しぶりに晴れたね。」
「そうなの?」
「やだなあ、大丈夫?ちゃんと起きて歩いてた?いま、雲が一つなくて、すっごくいい天気だよ。」
 彼女は立ち上がって、部室の窓に掛かっているカーテンに手をかけた。僕は、内心ほっとしていた。彼女がやっと離れてくれたからである。
「ほら。」
 勢いよくカーテンが開いて、眩しい陽射しが差し込んできた。光の帯が容赦なく僕に巻き付いてくる。そのあまりの明るさに、目の前がくらくらした。僕はとにかく、早くこの部屋から逃げ出したかった。頭の中では相変わらず砂嵐の音が流れている。その乾いた響きが、僕の心を誘った。今、もしも沙漠のような場所に行けるのなら、永遠にそこの住人になってしまっても構わない、と思った。
 僕は、彼女がまだ外を眺めていることを確かめた。そしてその隙に、足元に無造作に置いてある僕の通学鞄の中へ、片足をそっとつっこんでみた。僕の足は、何の抵抗もなく、吸い込まれるように鞄の中へ消えていった。やはり、先刻からの砂嵐の音の出どころはここだったみたいだ。僕の肌には、懐かしい、風に乗った砂が軽く打ち付けてくるような、何とも言えず心地よい感触が完全によみがえっていた。もう片方の足も素早くねじ込んだ。僕の躰は、ずぶずぶと腿のあたりまで鞄の中に沈み込んでいった。
 気が付けば、彼女はこちらを振り返っていた。そして先刻と同じ明るいトーンで言った。
「ね、せっかく天気いいんだから、今日、部活さぼってどっか行かない?」
「うん。いいね。」
 僕も、そう言って笑った。ひょっとしてこれは、沙漠のもつ不思議な力おかげなのかもしれない。僕には、このシチュエーションが至極自然なことに思えた。こんなににいい気分なのは久しぶりだ。自分でも信じられないほど素直な気持ちになることができた。
「私、荷物取って来る。」
 ドアを開けて部室から出ていく彼女を、僕は不思議な気分で眺めていた。ちょうどそのころ僕の躰は、既に首のあたりまで鞄の中に沈み込んでいた。窓から差し込む異様に明るい陽射しも、部室のかなりヤバいレベルで散らかっている風景も、小走りで去っていく彼女の後ろ姿も、そして廊下に妙に大きく響いている足音も、全てがスクリーンに映った映画の1シーンを見ているかのようだった。
 僕は、躰を打ち付ける砂嵐の感触と、耳に心地よく響く擦れ合う砂の音だけを、ただひたすら追いかけ続けていた。
 
 


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